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船大工

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第十二章


第十二章

 その艦首に彼はいた。皇帝の豪奢な衣を身に纏いそこにいたのだ。
「あれはまさしく」
 その衣を見て誰もがわかった。彼こそが真の皇帝であると。
「ロシア皇帝陛下」
「ピョートル二世」
「馬鹿な、こんなことってあるのか」
 イワノフは顎を地に落とさんばかりに広げ呆然としていた。
「ペーターが皇帝だったなんて。そんな」
「イワノフ」
 その皇帝が今艦首からイワノフに声をかけてきた。
「は、はい」
「先程渡した封書を開けてくれ」
「こ、これですか」
 慌てて思い出す。先程皇帝自身から貰った封書を。よく見ればかなり立派な紙の封書だ。
「そう。そこに書いてある文字を読んで欲しいのだ」
「私への死刑執行の言葉でしょうか」
「ははは、それはないさ」
 それは笑って否定された。皇帝には最初からそんなつもりはなかった。
「間違ってもそうじゃない。安心してくれ」
「では一体」
「だから呼んで欲しいんだよ」 
 笑ってまた彼に告げる。
「君自身でね。いいかな」
「はあ」
「では呼んで欲しい」
「私が」
「そう。早く」
 読むように急かす。表情を見ればやはりにこにこと笑っている。まるで何かを楽しむようにだ。
 イワノフはそれを受けて封を開いた。そうして書類を出して中身を読みはじめた。
「ええと」
「何て書いてあるんだ?」
「といっても。何書いてるかわからねえや」
 船乗り達の見たこともない文字だった。元々文字が読めない彼等だがその彼等がはじめて見る文字だったのだ。それはロシアのキリル文字だった。
「ふむ。やはりわからないか」
 そのことは皇帝からも見えていた。聞いて考える顔になる。
「それでは言葉や文字も考えておこう」
 後にロシアでの宮廷での言葉はフランス語になっていく。それはこの皇帝の時代からはじまるのであるがこの時に気付いたことである。
「ふむふむ」
「何て書いてあるの?」
 横からマリーが覗き込んでイワノフに尋ねる。
「よかったら教えて」
「僕をロシア帝室監督長にしてくれるそうだ」
「えっ、帝室の!?」
「それは凄い」
「君の人柄を見てのことだよ」
 皇帝はにこやかな声と顔でイワノフに告げた。
「僕のですか」
「そう。それに今回は君のおかげで上手くいったしね。そして」
「そして?」
「さらに読んで欲しい」
 書類をさらに読むように勧める。
「もう一ついいことが書いてあるからね」
「もう一つですか」
「おっ、わかったぞ」
 不意に市長が何かに気付いたかのように顔をあげて素っ頓狂なまでにかん高い声をあげてきた。皆何事かと彼に視線を集める。
「あれですな」
「何でしょうか」
 皇帝は少し目をパチクリさせて彼に問うた。
「この街への大規模な経済援助ですな」
「いえ、違います」
 それはすぐに否定された。
「残念ですが」
「何と、違うのですか」
「当然だよな」
「全くだ」
 自分に都合のいいことを妄想する市長に議員達はまた呆れ顔になって溜息をついた。
「何処をどうやったらそんな勝手な発想が」
「そんなのだからこの街は」
「しかしですな」
 ここで皇帝の言葉は意外な方向に転んだ。
「貴方にも関係はあります」
「私に?」
「そうです」
 にこにこと笑って彼に告げる。これからのことを楽しむかのように。
「一体どんな関係が」
「さあ監督長」
 イワノフに声をかけた。
「どんどん読んでくれ給え」
「はい。ええと」
 皇帝に言われてさらに読む。するとそこに書かれているのは。
「市長の妹マリーをイワノフの妻とする・・・・・・って」
「えっ!?」
「私とイワノフが」
 皆もマリーもまたしても驚いた。とりわけ当の本人達と市長は。
「あ、あの陛下」
「これはまことですか!?」
「私は幸せなことでは嘘は言わないのだよ」
 皇帝は大きな声で笑ってから答えた。その気品のある顔立ちや風貌からは想像できないガラッパチな笑いであった。しかしどうにも妙に様になっていた。
「そうなのですか」
「そう。だから監督長、マリーさん」
「はい」
 二人は畏まって皇帝に顔を向ける。
「これからも末長く幸せにな」
「有り難き幸せ」
「慎んで」
「しかし何とまあ」
 皆これまでのことで驚きを隠せない。楽しいやら呆然とするやらでどうにも狐につままれたような顔になってしまっていた。皇帝はその彼等に対してさらに告げるのであった。
「そして皆さん」
「陛下、何か」
「私はこれでロシアに帰ります」
「祖国にですか」
「そう、愛する祖国へ」
 望郷の笑みが浮かび上がった。その笑みをたたえて皆に告げる。
「今から帰ります。ですが」
「ですが?」
「ここでのことは生涯に渡って忘れません」
 望郷の念はロシアに対してだけではなかったのだ。この港町に対しても。彼にとっては忘れられない素晴らしい場所となっていたのである。
「皆さんと船大工として共に過ごした日々は決して」
「覚えていて下さるのですね」
「ええ、これからもずっと」
 後ろにロシアの船達が現われる。それをバックにして述べる。
「永遠に」
「何と有り難い」
「では我々もまた」
「覚えて下さるのですか」
 これは皇帝にとっては思わぬ言葉であった。彼等にも覚えてもらえるとは。
「当然です」
「我等と共に笑い、楽しまれた陛下を」
 実際に彼はここでの生活をかなり楽しんでいた。彼等もそれを知っているからこそあえて言うのだ。
「どうして忘れることができましょう」
「だからこそ」
「ええ。心地よい別れを」
 大砲が鳴り船は去っていく。皇帝は何時までも港の方に顔を向けて笑っていた。イワノフもマリーも船乗り達も市長も議員達もこの風変わりな皇帝を見送り彼を讃える言葉を捧げていた。


船大工  完


                 2007・8・31
 
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