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『月と太陽と星』騎士時代編

作者:ラフィー
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騎士時代編(恋の芽生え)

 
前書き
恋の始まり。
*ヒロインは下町コンビの間で揺れます。
*劇場版とは若干、異なります。ユーリとフレンは帝都でナイレン隊に配属となります。
*ナイレン隊は途中からシゾンタニアへと駐在となり、劇場版√になります。
*主人公の持つ魔導器は隊長だけが祖母の形見だと知っており、誰にも話しておりません。 

 
眩いほど照らす金色。
夜を連想させる漆黒。

貴方たちとの出会いが、日々を彩り私の運命を狂わせていく。





【テイルズ・オブ・ヴェスペリア】
『月と太陽と星』騎士時代編
(前半:恋の芽生え)






ユーリやフレンがナイレン隊に所属してきたのは、
私が配属されてから1年経ってからだった。

つまり、後輩ができた。(年齢は同じ年だった)
まあ顔を合わせれば、同じ下町出身てことで普通に世間話はする程度。

(何故かユーリは私を呼び捨てでため口。
フレンは先輩呼びしてくれたけど照れるから、もうユーリと同じでいいと言ったんだっけ)

だけど鍛錬に任務にと忙殺さる日々。休む時間がなかなか取れなかった。

(はぁ。騎士ってなかなか大変。だけど、お義兄ちゃんはもっと大変だったろうな。
なんせ、あのアレクセイ様と肩を並べるほどの腕前だったんだから。
生きていたら、きっと私はお義兄ちゃんの隊に入っていただろうなぁ…)

考えても詮無い事だ。騎士になってからしばらくお墓参りにもいけていない。

「ちょっとー。ヒロミ。溜息ついてどうしたの~? せっかくの男前(?)が台無しだよ?」

背後からひょいっと顔を覗かせてきたのは、双子の片割れ、ヒスカだ。
鍛錬に勤しみながらも、どこか心ここにあらずだった自分。
その緩みを見透かされたことに、私は心臓を跳ねさせた。

「え、ぁ……」
「図星でしょ。さっきから剣筋がふにゃふにゃだもん。何かあったの?」

図星を突かれて言葉に詰まっていると、もう一つの足音が近づいてくる。

「あ。シャスティル。見てよ、なんかヒロミ、元気ないんだって」

ヒスカがひらひらと手を振ると、もう一人の双子、シャスティルが歩み寄ってきた。
彼女は私の顔をじっと見つめると、不機嫌そうに、あるいは案じるように細い眉を寄せた。

「…何があったか知らないけれど、剣を手にしている以上、雑念は怪我の元よ。自分を斬るつもり?」
「ごめん……」
「シャスティルったら、言い方……」

ヒスカが苦笑いして宥めようとするが、シャスティルは毅然とした態度を崩さない。
しかし、その瞳の奥には確かな熱があった。

「厳しい言い方をしてごめんなさい。でも、本当に危ないから言っているの。
……で、その。貴方をそこまで上の空にさせる『雑念』って、一体何なの?」

「そ、そうそう! ここで全部吐いちゃいなよ。
案外、口に出せばスッキリして集中できるかもだし。私たちが聞いてあげるからさ!」

厳しいけれど、その厳しさは相手を死なせないための優しさ。
そして、重苦しくなりがちな空気をさらっと溶かしてくれる明るさ。

やっぱりこの二人、
性格は正反対だけど、本当に面倒見がいいなあ……と、私は改めて痛感していた。

厳しいけど、やっぱり面倒見がいいなあと思った。

「ちょっと昔を思い出して。…なかなかお義兄ちゃんの墓参りに行けてなかったなぁと」
「え?お兄ちゃんいたの?」
「うん。もうどれくらい前になるかな、人魔戦争で。お義兄ちゃん、騎士だったから」
「あ…ご、ごめんね」
「いいよ。もう昔の事だし。でも、もしお義兄ちゃん生きてたら、
きっとアレクセイ様と共に騎士団の肩を並べていける人になっていたのかなって…」
「…は?え?アレクセイ団長って」
「そんなに強い方だったの?ねぇ。悪いんだけど、名前教えてもらってもいい?」
「いいけど。エルダ・アークメイスだよ。お墓は帝都から出て歩いてすぐ」
「「!」」

お義兄ちゃんの名前を言った瞬間、双子は目を見開いた。

「エルダ・アークメイス……。嘘、でしょ……?」

ヒスカの声が震え、持っていた剣の先が力なく地面に落ちた。乾いた音が訓練場に響く。
それまでの和やかな空気が一瞬で凍りついたのを肌で感じ、私は思わず身を固くした。

「ねえ、ヒロミ。冗談……じゃないわよね?
その、アークメイスって……かつて『アレクセイの盾、エルダの剣』とまで称えられ、
帝国騎士団の至宝と呼ばれた、あのエルダ・アークメイス卿のこと?」

シャスティルが、まるで壊れ物を扱うような手つきで私の肩を掴んだ。
彼女の瞳は驚愕で見開かれ、呼吸を忘れたかのように私を凝視している。

「えっ、あ、うん……。お義兄ちゃん、そんな風に呼ばれてたの?
私にとっては、ただの溺愛で、厳しくて優しいお義兄ちゃんだったんだけど…」

私が戸惑いながら答えると、双子は顔を見合わせ、戦慄したような表情を浮かべた。

「『ただの』って……ヒロミ、あなた自分の境遇を分かって言ってるの!?」

ヒスカが詰め寄ってくる。

「騎士団の士官学校に入れば、まず最初に教わる名前だよ!
人魔戦争の最前線で、魔物をたった一隊で足止めし、
アレクセイ団長が本陣を立て直す時間を稼ぎきった英雄……。
もし彼が生きていたら、間違いなく今頃はアレクセイ団長と並んで、
騎士団を二分する『総騎士団長補佐』の座に就いていたはずだって言われてる人なんだから!」

「そうよ……。アレクセイ団長が今でも時折、
遠くを見つめて『彼が生きていれば』と零されるのは、エルダ卿のことだったのね…」

シャスティルの言葉に、胸の奥がツンとした。
あの雲の上の存在のようなアレクセイ様が、今でもお義兄ちゃんを想っている。

私が知っている「家で笑っていた義兄」と、彼女たちが語る「伝説の騎士」が、
ようやく自分の中で一つの線に繋がっていく。

「……そっか。やっぱり、すごかったんだね、お義兄ちゃん。
私はただ、背中を追いかけるのに必死だったから」

ふと視線を向けると、少し離れた場所でユーリとフレンが木剣を交わしていた。
ユーリの野良犬のような鋭い一撃を、フレンが流れるような動きで受け流す。

ナイレン隊の中でもひときわ異彩を放つあの二人ですら、
まだお義兄ちゃんが到達した高みの入り口に立ったばかりなのだ。

私は改めて、手の中にある剣の重みを感じた。
お義兄ちゃん。私はまだ、あなたの背中の影すら踏めていないかもしれない。
だけど、見てて。私はここで、あなたとは違う、私だけの剣を見つけるから。
青く澄み渡った帝都の空の下、私は再び、真っ直ぐに剣を構え直した。



2

鍛錬も終わり、双子はすぐにナイレン隊長のとこへと突入していった。

「ナイレン隊長!どうか、ヒロミに1日だけ休暇をあげてください!」
「なんだいきなり。理由如何でその限りではないが」
「もう長い事、家族のお墓参りに行けてないみたいなんです。
というか、私たちの尊敬するエルダ様です!お墓があったんです!」
「っ!なんだと」

普段は快活なナイレンが、手に持っていた羽ペンを床に落とした。
カチャン、と静かな執務室に乾いた音が響く。

「……エルダ卿の、墓だと……?」

隊長はその場に立ち尽くし、双子の顔を食い入るように見つめた。
その瞳には、驚愕、困惑、そして何より――長年胸の奥底に仕舞い込んでいた、
痛切なまでの思慕の念が浮かんでいる。

「それは本当かい!?」

偶然ナイレンと話していたフレンが傍にいたので彼も驚いている。
隣にいたフレンは目を見開いて絶句した。
新米騎士であっても、あるいはこの地に身を置く者であれば。
その「二つの名」を知らぬ者はいない。

かつての騎士団を支え、民衆の希望の象徴であった双璧。

鉄の規律と圧倒的なカリスマで騎士団を導いたアレクセイ。
そして、誰よりも市民の心に寄り添い、高潔な騎士道を体現したエルダ。

伝説として語り継がれるエルダの(ゆかり)が目の前の存在に繋がった事実に、
フレンは自身の心臓の鼓動が速くなるのを感じた。

「……そう、か。エルダ卿の」

ナイレン隊長の声は、どこか遠い記憶を呼び起こすかのように低く、重みがあった。

「彼はあの最終決戦のあと、遺体どころか遺品一つ見つからず、
軍の公式記録では『行方不明』のままだ。
我々教え子たちも、あの日からずっと…彼がどこかで生きているのか、
あるいは野に晒されているのかさえ分からぬまま……」

ナイレンは震える手で机を突き、深く俯いた。
その背中は、隊長という重責を背負う男ではなく、ただ一人の「敬愛」のそれだった。

「……ヒロミ。あいつは今まで、それを一人で守ってきたのか。誰にも言わず、ただ一人で…」

ナイレンはゆっくりと、しかし確かな重みを持って頷いた。

「いいだろう。許可する。だが半日だけだ。今の騎士団に長時間、穴をあけられないからな」

その短い許可には、隊長としての責任感と、
かつての英雄に対する最大限の敬意が込められていた。

「墓所の場所を俺に報告する必要はない。
それはあいつの、家族の、そして彼との静かな時間だ。
……他人に荒らされていいものではないからな」

隊長は引き出しから、大切に保管されていた一房のドライフラワー、
かつてエルダが好んでいた花を取り出し、双子へと差し出した。
一度だけ深く目を瞑り、溢れ出しそうになる感情を抑え込むと、彼は力強く頷いた。

「え、え、え、本当にですか!?」
「やったぁ! 隊長、大好き!」

飛び上がって喜ぶ双子の弾んだ声が、執務室の空気を一気に華やがせる。
だがその横で、フレンだけは雷に打たれたように硬直していた。
あまりに予想外な「事実」を突きつけられ、思考が完全に停止している。
そんな彼の耳元に、追い打ちをかけるような隊長の低く通る声が飛んだ。

「おいフレン。魂が抜けてるぞ。
…いいか、オレが動けない分、おまえが代わりに行って挨拶してこい。それが任務だ」

「え。……はぁ!? っ、ちょっと待ってください、僕が、ですか!?」

自分に矛先が向くとは微塵も思っていなかったのだろう。
フレンは零れ落ちそうなほど目を見開いた。
慌てて反論しようと口を開きかけるが、隊長のペンは止まらない。

「えー、フレンいいなぁ。ずるい!」
「そうだよ、役得だよ。私たちだって行きたかったのにー」

双子の茶目っ気たっぷりの言葉を背中で聞きながら、
隊長は手慣れた手つきで書類にサラサラとペンを走らせる。
書き終えたばかりの紙を三人の前に突き出し、ニヤリと口角を上げた。

「ほら。半日だが、これは特別だ。休暇届だぞ。
そこにサインと日付を書いて、受付で判をもらってこい。
……双子はそれを、途中でヒロミに渡してきてくれ。頼んだぞ」

「「はぁーい♪ さあ、行くよフレン」」
「ちょっ、待て! 自分で行ける、引っ張らないで……っ!」

両肩を双子にがっしりと掴まれ、
フレンの抵抗も虚しくその体はズルズルと廊下へ引きずられていく。

開け放たれた扉の向こうから、「助けてください隊長!」という、
悲痛な(だがどこか締まらない)叫びが遠ざかっていった。
ナイレンは、静まり返った室内でその騒動の余韻を眺め、ふっと肩の力を抜いた。

「……相変わらずだな、あいつらは」

苦笑混じりに漏らしたその言葉には、
騒がしくも愛おしい部下たちへの、隠しきれない信頼が滲んでいた。



3

どうやら私の漏らした、お義兄ちゃんの名前を双子がナイレン隊長にチクったようで。
双子によって引きづられて来たフレンはその場に居ただけで巻き込まれたようだ。
双子はナイレン隊長から託されたドライフラワーを渡したきた。
え、これ、お義兄ちゃんの好きだった花…。隊長、知ってたんだ。

「半日休暇を取ってくれたのはありがとう。
……でも、あの、どうかお義兄ちゃんの事、黙っててほしいの」

私の切実な願いに、
それまで「お手柄」と言わんばかりに胸を張っていた双子が、きょとんと目を丸くした。

「え。なんで? すごい人なんでしょ?」
「だって。色眼鏡で見られたくないし。変に特別扱いされたり、変な噂が立つのも嫌なの」

俯きながら絞り出した言葉に、二人は顔を見合わせた。
勢い任せだった空気が少しだけしおれて申し訳なさそうに眉を下げる。

「そっか。そうだよね。ごめん、あたしたち浮かれちゃって…勝手に隊長に喋っちゃって」
「ううん。私もあの時は、そこまで考えてなかったから……」

気まずい沈黙が流れるかと思いきや、そこは双子。切り替えの早さは天下一品だ。
シュンとしたのは一瞬で、すぐにまた悪戯っぽい笑みを浮かべて身を乗り出してきた。

「じゃあ、この話はナイレン隊長と私らだけの秘密! その代わり……」
「でさでさ、いつにする? 準備も必要だから、数日後にする?」

差し出された休暇届が、私の目の前でヒラヒラと踊る。
横でフレンが「反省してないじゃないですか」とツッコミを入れているが双子の耳には届いていない。
お義兄ちゃんの名前がバレた動揺と、断りきれない休暇の誘い。
手元の書類をじっと見つめ、私は「うーん」と長く唸った。

「あ、そうだ。フレンのこと忘れてた。なんか巻き込んじゃってゴメンね?フレン」

私が申し訳なさに眉を下げて振り向くと、
フレンは少し意外そうに目を丸くした後、いつもの調子で肩をすくめた。

「いや、いいさ。ここのところ鍛練続きだったしね。久々の休暇だ、ゆっくりさせてもらうよ。
……まあ、君の護衛なら『骨休め』にはちょうどいいしな」

「うわ。完璧すぎる模範回答。……でも、それ本気で言ってる?」

私がニヤリと笑うと、フレンは視線を泳がせた。
その背後から、冷ややかな、けれど絶対的な温度を持った声が響く。

「フレン。ヒロミは荷物も多いし、道中は何があるか分からないわ。
露払いはあんたの仕事。分かってるわね?」

「は、はいシャスティル先輩! もちろんです、指一本触れさせませんから!」

シャスティルの背後から立ち上る「ゴゴゴ……」という物理的な圧に、
フレンは背筋を氷でなぞられたように直立不動になった。

「必ずだからね? ヒロミに傷一つでもつけてみなさい。
指導役として、今の三倍は扱いてあげるから」

「ひ、三倍……! 善処……いえ、死守します!」

フレンは壊れた玩具のように首をブンブンと縦に振っている。
私は慌ててシャスティルの袖を引いた。

「シャスっ、落ち着いて! あの、フレンはちゃんと護ってくれるから……ね?」

フォローを入れつつも、私は心の中で苦笑する。
かつて下町をユーリと一緒に暴れまわっていた頃の彼を風の噂で知っているけれど、
今の彼は立派な騎士の卵だ。きっと、私のことも余裕で護り抜いてくれるだろう。

「……そう? ヒロミがそこまで言うなら。……じゃあ、午前か午後、どっちか選んで」

シャスティルがふっと圧を解くと、ようやくフレンが肺の空気を吐き出した。

「んー。午後でいい? 掃除もしなきゃだし、お義兄ちゃんへの手土産とか、準備に時間がかかるかも」
「了解。じゃあヒスカ、隊長に報告しに行くよ」
「あ、そっか。当日、私たちが抜ける分、シフトの埋め合わせが必要だもんね」

テキパキと予定を組んでいく二人に、私は胸がいっぱいになる。

「本当にありがとう、二人とも。……これでやっと、お義兄ちゃんにちゃんと挨拶できるよ」

私の声が少し震えていたのかもしれない。
ヒスカがパッと顔を輝かせ、妹を慈しむような笑顔を見せた。

「いいんだよー。可愛いヒロミのためだもん。
お義兄さんにも、ヒロミがこんなに元気だってこと、しっかり見せてあげなきゃね」

「うん」

シャスティルも短く、けれど力強く頷く。

双子はそれぞれ、
私を安心させるような温かい微笑みを残して、軽やかな足取りでその場を後にした。

残されたのは、「……さて、三倍の特訓を回避するために気合入れるか」と呟くフレンと。
期待に胸を膨らませる私だけだった。



4

双子が去り、その場には私とフレンの二人だけが残された。
シャスティルの「圧」が消え、張り詰めていた空気がふっと和らぐ。

「……フレンも大変だね。シャスティルに逆らえないんだ」

私が遠慮がちにそう言うと、フレンは苦笑した。

「いや、シャスティル先輩はああ見えて、すごく筋が通ってるからな。
指導は厳しいけど、的確なんだ。それに、ヒロミを大事に思ってるのは本物だし」

「そっか……」
「ま、午後の外出はちゃんと露払いさせてもらうよ」
「フレン……! ありがとう」

私はほっとして笑顔になった。下町で鍛えられたフレンが一緒なら安心だ。
午後の外出が、少し楽しみになってきた。

「じゃあフレン、日付はこの日でいい?」
「あ、ああ。うん。その日でいいよ」
「? どうしたの?……なんだか、ぎこちないね」

図星を突かれたのか、フレンはあからさまに視線を泳がせた。

「そ、それは……よく考えたら、僕たち初めてだよね?
こうしてユーリも他のみんなもいなくて、2人だけで話すのは」

「あ。そうだ。ユーリがいないじゃん」

そこで初めて気づいた。
いつもなら隣で皮肉を言ったり、飄々と場を回したりしているはずの片割れがいないのだ。

……なんだか、フレンだけってのも新鮮だな。
そう思うと、改めて彼の造形をまじまじと観察してしまった。

昼下がりの陽光を反射して輝く、柔らかな金の髪。
まっすぐに私を見つめる、吸い込まれそうなほど澄んだ青い瞳。

まるで古い絵本から飛び出してきた王子様そのものだ。

「そ、そんなに穴が開くほど見られると……さすがに照れるな」

困ったように眉を下げて、フレンが頬を赤らめる。

「あ、ごめん! つい新鮮で。……じゃあ、当日はよろしくね、フレン」
「……ああ。こちらこそ、よろしくお願いします」

少しだけ緊張を解いた彼が、はにかむように微笑んで、右手を差し出してきた。
え、ここで握手? 騎士の挨拶かな。戸惑いつつも、彼の手をそっと握り返す。

(あ……)

手袋の布越しでもはっきりと分かる。指の付け根、掌の硬さ。
幾千、幾万回と剣を振り抜いてきた者だけが持つ、厚い剣だこだ。

「すごい……」

思わず、指先に力を込めてキュッと握りしめてしまった。

「あ、あの……? 手が、どうかしたかい?」

「え? ああ、ごめん! ちゃんと鍛錬してるんだなって思ったら。
なんだか偉いなぁって……。新米と言っても騎士様だもんね」

私の素直すぎる称賛に、
フレンは一瞬きょとんとした後、どこか負けず嫌いな子供のような顔で笑った。

「はは、これくらい当たり前だよ。……それに、ユーリには負けたくないからね」
「ふふっ。2人とも、昔から本当に負けず嫌いだもんね」

下町で泥だらけになりながら、木刀を振り回していたやんちゃな二人の姿が目に浮かぶ。

騎士姿のフレンも素敵だけど、
こうして等身大の顔を見せてくれる彼との一日は、案外楽しいものになりそうだ。
フレンから手を離し、日付を書いた休暇届をヒラヒラ振る。

「じゃ、出しに行こっか」
「ユーリに見つからないようにしないとな」
「しーっ、声が大きいよ。ユーリ、こういう時だけ妙に鼻が利くんだから」

私は人差し指を口元に当てて、悪戯っぽく笑いながら廊下の角を慎重に覗き込んだ。
手元でヒラヒラと踊る休暇届は、まるで自由への招待状だ。

「…よし、今はいないみたい。今のうちに判を貰いに行くよ。そのままダッシュだよ、フレン!」

「ああ。なんだか、魔物退治の極秘任務より緊張するな。
不意打ちで背後から『どこへ行くんだ?』と声をかけられる画が、容易に想像できてしまう…」

フレンは真面目な顔のまま、額にうっすらと汗を浮かべてた。

彼は知っていた。
幼馴染であるユーリ・ローウェルが、こういう「隠し事」を見抜く天才であることを。

私たちは音を立てないように、抜き足差し足で廊下を進む。
窓の外からは訓練場の威勢のいい声が聞こえてきますが、今はそれが遠い世界の出来事のよう。

「ふふ、見つかったら『フレンがどうしてもって言うから』って、全部フレンのせいにしてあげる」
「おい、それはあんまりじゃないか……?」

困り果てたフレンの表情に私は思わず吹き出しそうになる。

背後から「おい、おまえら。……何コソコソしてやがる」という、
聞き慣れた、そして今は一番聞きたくないあの低い声が響いてこないことを切に祈りつつ。

幼馴染がどこで聴き耳立てているか分からない。どうか鉢合わせしませんように。
私たちは、束の間の休息を勝ち取るための「大脱走」を続けたのだった。



5

午前はいつものように鍛錬をし、お昼の時間になる。

「……よし、今だ。行こう」
「えぇ、急ぎましょう」

私たちは示し合わせたように、重い鎧を脱ぎ捨てて身軽な軽服へと着替えた。
お互いの服装をチェックする余裕すら惜しみ、足音を殺して騎士寮の裏口へと急ぐ。

訓練場からは、「あー!ユーリ、こっちこっち!」「この技、教えてほしいんだよなー!」という、
双子のわざとらしいほど大きな声が聞こえてくる。

(双子、ありがとう! 後で売店のプリン奢るからね……!)
(ユーリに見つかる前で良かった。あの慎重さに捕まったら、今日の外出は説教で終わってしまう)

フレンと顔を見合わせ、小さく頷き合う。考えていることは、きっと同じだ。
私たちはそのまま、まるで敵陣を突破するスカウトのような素早さで、騎士寮の門を飛び出した。
昼下がりの日差しが、自由を祝福するように眩しく降り注いでいる。

「あ。お昼ご飯食べずに来ちゃった。フレン、ごめん」
「いや。僕もユーリを蒔く事ばかり考えてたから」
「どうしよう。フレンお腹空いてるでしょ。あんだけの鍛錬だもん」
「そうだね。じゃあ僕のおすすめのお店に行くかい?」
「え?」

フレンに案内された先は、下町に入って少しのとこ。クレープ屋台だ。
あ、いい匂い。ぐぅ。とお腹がすいてきた。

「これなら歩きながらでも買い食いできるだろう?」
「ほんとだ。うわぁ~どれも美味しそう。ね、フレンのおすすめ教えて」
「いいよ。そうだな…」

フレンが教えてくれたのはレタスやハム、トマトなどを巻いた野菜巻き。

「フレン、おすすめってこれ?」

「ああ。栄養学の観点からも、
午後の活動に必要なビタミンとタンパク質のバランスが非常に優れているんだ」

「……あはは、相変わらずだね。
せっかくの買い食いなんだから、もっと直感で選べばいいのに」

「そうかな? 僕はこれこそが『最適解』だと思っているんだけど」

甘党のユーリはいつも甘いの増し増しで頼んでるんだ、と苦笑して。
私とフレンは同じのを頼んだ。財布を出そうとしたらフレンが既に払っていて。

「え。そんな悪いよ。私の用事に付き合ってもらってるのに」
「いいんだよ。僕が食べたいから、そのついでさ」
「あ、ありがとう。フレン」

なんとスマートな。これは女にモテる。絶対だ。
互いにクレープをもぐもぐ齧りながら目的地へと歩いていく。

「(もぐもぐ。ごくん)それで、まずはどこに向かうんだ?荷物は…」

「大荷物だ、と先輩に聞かされていたが」と私を見て首を傾げるフレン。

「(もぐもぐ。ごくん) ああ。掃除道具は下町のお墓から借りようと思って。
だから新品の布巾だけ持ってきたよ。(はむ。もぐもぐ)」

またクレープを齧る。これめっちゃ美味しい。また買いに来ようっと。

「! そ、そうか…」
「(もぐ。ごくん)…フレン?」

フレンが食べるのをぴたりと止める。私も食べるの一旦やめる。どうした?
だが、すぐに首を横に振って「何でもないよ」とまたクレープを食べ始める。

「(もぐもぐ……)ねえ、本当に大丈夫? クレープの味、しなくなっちゃった?」

気になって覗き込むと、フレンは少しだけ視線を泳がせてから、困ったように眉を下げて笑った。
その視線は、私の手元にある、軽い小さな手提げ袋に注がれている。

「…いや、その。掃除道具を現地で借りるっていうのが、なんというか。
君らしくて合理的だなと思って。
てっきり、大きなバケツやブラシを抱えて現れるものだとばかり思っていたから」

「あはは、そんなに私、形から入るタイプに見える?
重いもの持って歩くより、こうしてクレープを全力で楽しむ方が重要でしょ」

そう言って私が最後の一口を贅沢に頬張ると、フレンはふっと肩の力を抜いた。
どうやら「大荷物になるから覚悟して」という先輩の脅し文句を真に受けて、
彼は彼なりに私のサポートをする気満々でいてくれたらしい。

「(もぐ。ごくん)…そうだね。君のそういう、飾らないところは助かるよ。身軽なのは良いことだ」

フレンはそう言って、自分の分のクレープも最後の一口まで丁寧に食べ終えた。
包み紙を小さく畳む彼の指先は、相変わらず無駄がなくて綺麗だ。

「さあ、下町まではまだ少し歩くよ。道が入り組んでいるから、はぐれないようにね」

彼が自然に歩き出す。
心なしか、さっきよりも私の歩幅を気にするように、ゆっくりとしたリズムで。
私は空になった包み紙を丸めてカバンにしまい、隣に並ぶ。
次にここへ来るときは、さっきのクレープ屋で何味を頼もうか、なんて考えていた。



6

お墓につく頃には互いにクレープは食べ終わり。余韻だけが口の中に残っていた。
私はすぐに管理小屋で使い古された掃除道具を借りる。

午後の陽光が傾き始めた墓地は閑散としており、
時折吹き抜ける風が枯れ葉を転がす音だけが響いていた。

私が必要な手桶を持ち、道具を引き出している間にフレンがいつの間にか隣から消えていた。

(あれ? フレン……??)

顔を上げ周りを見渡せば、少し離れた、
古いが手入れの行き届いた石碑の前に片膝をついている彼の姿を見つけた。

「……フレン?」

声をかけると、彼は一瞬だけ肩を震わせ、それからゆっくりとこちらを振り向いた。

「あ。ごめん、すぐに行くよ」
「いいよ。祈ってたの?……誰のか、訊いても?」
「ノレイン。僕の母さんが眠ってるんだ。……ユーリに読み書きを教えたのも、母さんなんだよ」
「え。ノレイン、さん?」

その名が鼓膜を震わせた瞬間、胸の奥で小さな火花が散ったような感覚がした。
どこかで聞いたことがある。それも、もっと幼くて、今よりずっと世界が狭かった頃に。

遠い記憶の糸を辿るが、霧がかった景色の中でその輪郭は朧気で、
どうしても手繰り寄せることができない。うーん。
私は眉間に皺を寄せ、思わず唸ってしまった。
黙祷を終えたフレンが、考え込む私に不思議そうに首を傾げる。

「どうかした?」
「いや。記憶違いかもしれないし……ううん、なんでもない。ね、私にも祈らせて」
「ああ。……ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」

掃除道具を一旦足元に置き、私はフレンの隣に並んで膝をつく。
冷たい石の匂いと、微かに残る線香の香り。

私の用事に付き合ってもらったはずなのに、
偶然導かれるようにして彼のルーツに触れることになろうとは。

でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ、一人でこの場所を守ってきたフレンの隣に今立てていることに、小さな安堵を覚える。

(ノレインさん。フレンをこんなに真っ直ぐな人に育ててくれて、ありがとうございます)

心の中でそう告げて、目を開ける。

「……良し。じゃあ行こうか。今度は君の番だね」

「うん。あ…ね、自分の用事が済んだあと、帰りにもう一度ここへ寄ってもいい?
その時に、ちゃんとしたお花をお供えさせて。いいかな?」

「もちろん。嬉しいな。母さんも……きっと驚いて、喜ぶと思うよ^^」

そう言って微笑んだフレンの顔は、
いつもの騎士としての「公の顔」でも、後輩としての「快活な顔」でもなかった。
西日に照らされたその瞳は、子供のように無防備で、深い慈愛に満ちていて。

――ドキ。

心臓が、自分でも驚くほど大きく跳ねた。
なんだ、どうした。急に胸のあたりがざわざわして、落ち着かない。
彼の笑顔が、さっき食べたクレープよりもずっと甘く、胸の奥に溶け込んでいくような気がした。



7

本当に、太陽のような微笑みだったんだ。
彼の背後から差し込む陽光が、その金髪をさらさらと透かし、縁取っている。
あまりに眩しくて、思わず目を細めた。

(ううん。眩しいのは、太陽のせいじゃない。私は――この金色に魅せられたんだ)

なぜだろう、胸の奥が騒がしい。
初めて会ったはずなのに、心のどこかでずっとこの光を知っていたような。
奇妙な懐かしさがこみ上げてくる。

フレンは不思議な人だ。
初対面の相手に感じる緊張や「ざわざわ」とした胸騒ぎが、彼と一緒にいると少しも嫌じゃない。
むしろ、冷え切っていた器に温かなスープが注がれていくように、私の心は満たされていく。

「……あ。花屋にも行くだろう? 僕が持つよ」

思考の海に沈んでいた私を、彼の弾んだ声が引き戻した。

「え、ちょ。フレン!?」

戸惑う間もなく、彼は私の手からずっしりと重い道具一式を、
まるで羽根でも扱うような軽やかさで奪い取った。

「あはは、そんなに驚かなくても。さあ、行こう」

少しだけ得意げに笑って、彼は長い足でさっさと歩き出す。

「待って、重いのよそれ! ……もう!」

慌ててその後ろ姿を追いかける。石畳を叩く二人の足音。
隣に並んだ瞬間にふわりと香った、乾いた風と日向の匂い。
「金色」の背中を追いかけながら、私は自分の頬が少しだけ緩んでいることに気がついた。


花屋に着いて、多めに買い込む。帰りにノイレンさん用に残しておかないと。

「おや?あんたフレンじゃないか!」
「お久しぶりです、おばさん」
「本当に。逞しくなったねぇ。今日はヒロミと一緒かい?」
「はい。ヒロミの護衛に」
「そうかい。これも運命かねぇ」
「え?」「え?」

花屋のおばさんのしみじみとした言葉にフレンと揃って首を傾げた。

「あんたらは覚えてるか難しい頃さね。もうずぅーっと小さい頃だからねぇ」
「ど、どういう事?」
「ヒントは、ほら。この花さ」

おばさんが、色とりどりの中にある一輪の花を取り出した。
おばさんが選んだのは、色彩鮮やかな橙色の花だった。

「花言葉は「あなたは私の輝く太陽」なんだよ」

おばさんの指先が私の髪に触れ、花が耳元に収まる。
その瞬間、フレンの息が止まったのを隣で感じた。

フレンは私の耳元の花を凝視したまま、硬直していた。
まるで、ずっと昔に失くした大切なパズルのピースを、突然突きつけられたような顔。
震える指先が私の頬に触れそうになって、けれど行き場を失ったように空中で止まる。

「……この、花……」

彼が絞り出した声は、いつもの冷静なものとは思えないほど、幼く、揺れていた。

「あの、おばさん。もらえないです。お代…」
「いいんだよ。久しぶりにこの組み合わせで楽しませてもらったお礼さ」

おばさんは我が子の成長のように、嬉しそうに微笑んでいる。
ああ。やっぱり下町は温かいなあ。ほっこりとした。ね?フレン。

「……。」
「フレン?」
「! え、あ、ああ。どうしたんだ?」
「どうしたの。さっきから私をジーッと見て考え込んで」
「フレン、そんな難しく考えるこたあないよ。ヒロミについてけば自ずと答えに辿り着ける」
「おばさん…」
「行ってきな。そして自分の気持ちに整理つけてきな」

おばさんは遠い目をして笑う。

「血は争えないね。守ってるつもりで、実は守られてる。
…フレン、あんたが今感じてるその“もどかしさ”の正体、逃げずにちゃんと見つめるんだよ」

商売道具のハサミを置き、おばさんはフレンの肩をポンと叩いた。
それは激励というより、迷子を正しい道へ導くような、慈愛に満ちた手つきだった。

おばさんの言葉に私たちは、よく分からないがそれでも頷いた。
とにかく、行け。と言われたのだから、そのうち謎が解けるのだろう。

「ありがとうございました、おばさん」
「気をつけて行ってくるんだよ」

私はおばさんに手を振り、軽やかな足取りで歩き出す。

一方のフレンは、まるで魔法にかけられたかのように、
何度も自分の胸元を押さえたり、私の耳元の花を盗み見たりして、足元がおぼつかない。

「フレン、置いていくよ!」
「……ああ、今行く。……運命、か……」

彼が小さく呟いた言葉は、下町の賑やかな喧騒に消えていったけれど。



8

掃除道具と、腕いっぱいの花束。やはりかなりの大荷物になった。
帝都の外壁を抜けて森の中へ入ると、それまで穏やかだったフレンの空気が一変する。
彼はいつでも剣を抜けるよう、左手で鞘を抑え、右手は柄に添えて私の半歩先を歩き始めた。

その警戒はすぐに現実のものとなる。
茂みの奥から、私たちの気配を察知した魔物が次々と飛び出してきた。
けれど、その度にフレンの剣が鋭く空を裂く。無駄のない足運び、流れるような剣筋。
一撃ごとに魔物は霧のように霧散し、彼は服の裾さえ汚さない。

「フレン、すごいね。……正直、私よりずっと強いじゃない」

本音だった。隣で見ていたからこそわかる。
彼の剣には、ただの技術以上の「守るための意志」が宿っている。

「いや。そんなことないよ。君だって、いざとなれば充分強いさ」

フレンは前を見据えたまま、事もなげに言った。

「お世辞をどうもありがとう」

(私に気を使わせないための、彼なりの優しさなんだろうけど)

私は苦笑しながら、彼が鮮やかに切り拓いてくれる安全な道を進んでいく。

「すぐ着くよ。あ、ちょっと待って。ここで水を汲ませて」
「え。これから先、さらに重くなるよ? 大丈夫か?」

フレンが足を止め、心配そうに私の荷物を覗き込む。
その生真面目な顔を見て、私はふと思いついた。

「さっきフレンが言ったんじゃん。『私、充分強い』んでしょ?」

わざと茶目っ気たっぷりに、彼の言葉をそのまま返してみる。

「……っ。はは。そうだね、一本取られたな」

フレンは一瞬きょとんとした後、負けたよと言わんばかりに頭の後ろを掻いた。
その少し困ったような笑顔が、戦っている時の凛々しさとギャップがあって、
胸の奥が少しだけくすぐったくなる。

「さ、行くよー」
「あ。待って、前は僕が歩くから……危ないからね!」

追い抜こうとした私の前に、慌てて割り込んでくるフレン。
その背中を見つめながら、私は忍び笑いをこぼした。

(フレンって、実はからかい甲斐がありそう。実直で、お堅い。だからこそ…ね)

目的地はもうすぐそこ。重いはずの荷物が、少しだけ軽く感じられた。

今日は天気にも恵まれて良かった。
一歩進むたび、足元で枯草がサクサクと小気味よい音を立てる。
その音だけが響く静かな霊園の奥へ、導かれるように進んでいけば、
ようやく見慣れた石碑が姿を現した。

背負っていた重い荷物を墓石の傍らに下ろすと、肩に食い込んでいた重みがふっと消える。
私はその場にゆっくりとしゃがみ込み、冷たく澄んだ空気を深く吸い込んだ。

「やっと来られたよ」

石に刻まれた文字を見つめ、私は小さく独り言を漏らした。

「……これは。すごいな」

フレンが言葉を失ったのも無理はなかった。

木漏れ日が降り注ぐ、そこに佇んでいたのは。
単なる石碑と呼ぶにはあまりに美しく、あまりに執念じみた巨大な記念碑だった。
最高級の白碧石が磨き上げられ、周囲の古びた墓石の中で、
そこだけが時間が止まったかのような輝きを放っている。

「うん。ここにね、お義兄ちゃんとお姉ちゃんが眠ってる」
「え!お姉さん?」
「そう。お姉ちゃんが先にね。その次にお義兄ちゃんが。
この石碑はお義兄ちゃんがお姉ちゃんのために、全財産をすべてはたいて建ててくれたの。
彼女が寂しくないようにって」

フレンは刻まれた銘を指でなぞった。

『愛する人、ここに眠る。我が魂、光とともに彼女に捧ぐ』

「愛する人、ここに眠る……?
まさか、あの若さで異例の出世を遂げたと言われたエルダ殿が…」

「うん。エルダ様はお姉ちゃんの旦那様。だから私のお義兄ちゃんなの^^」

私は誇らしげに、けれど少しだけ寂しそうに微笑んだ。

「お義兄ちゃんはね。非番の時になると私のとこに必ず帰ってきてくれた。
お姉ちゃんがいなくなった後は、私を鍛える事と、このお墓参りが支えだったんだ。
もちろん騎士団にはアレクセイ様がいたから、一人で悲しむことはなかったけれど…」

「そうだったのか……。彼の愛は、形となってここに生き続けているんだな」

じゃあ、なんでヒロミは下町出身なんかに?あのエルダ様だ。
彼の稼ぎなら、いくらでも裕福に暮らせてたはずなのに…。

フレンの考えが手に取るように分かるよ。



9

私はお姉ちゃん、お義兄ちゃんの名前…。

リリア・アークメイス、
エルダ・アークメイス、

と掘られたとこを優しく撫でる。

「……私のため」
「えっ」
「私、生まれた頃から身体がすごく弱くてね。いつも病気がちだった。
私のために、すごく高い薬代を……お義兄ちゃんが、いつも払ってくれて。
生活費を支えるために、お姉ちゃんも働いてくれて…」

私は自嘲気味に微笑み、自分の指先を見つめた。
その指は、かつて誰かの幸せを削って繋ぎ止めた命の象徴のように目に映っている。

「私の薬代のために。裕福な暮らしを、幸せな夫婦の生活を捨てさせてしまった」

絞り出すような声が、昼の森の静寂に溶けていく。

「本当なら。私なんかのために、幸せを犠牲にするべき人たちじゃなかった。
私が、お姉ちゃん、お義兄ちゃんの未来を奪ってしまった」

「そんな……っ!」

フレンの声が、鋭く空気を裂いた。
いつもの冷静な彼からは想像もつかない、痛みを堪えたような拒絶の響き。

「そんなこと、本人の前で言うべきことじゃない……!」
「フレン……?」

驚きに顔を上げた私の目に映ったのは、怒りでも憐れみでもなく。
どこか遠くの悲劇を見つめるようなフレンの瞳だった。
彼は拳を固く握りしめ、言葉を震わせる。

「僕だって…薬が欲しかった。
母さんは、ただその『薬』がないというだけで、あんなに…あんなに病で苦しんで逝ったんだ」

「!?」

「君が『犠牲』と呼んだその薬代が、どれほど残酷で、どれほど救いだったか…。
生きたかった人間を前にして、それを否定することだけは、僕は許さない」

二人の間に流れるのは、持てる者の罪悪感と、持たざる者の後悔。
重すぎる沈黙が、二人を包み込んでいた。

その言葉が、私の心臓を直撃した。ノレインさんが、病で……。
その時、視界がぐらりと歪んだ。

フレンの苦しげな輪郭を見つめた瞬間、
脳内の開かずの扉が、凄まじい音を立ててこじ開けられる。

――ノレインっ! どうして……私、もっと貴女と居たかったの!

泣き叫ぶ姉の顔。涙。幼い私を抱き締める力の強さ。
あの日、私たちは誰かの葬儀の後に来たんだっけ。
悲しみに暮れる姉を慰めていた。

――― お姉ちゃん?
――― ごめ、ごめんね。今だけは…
――― お姉ちゃん。痛い痛いなの?よしよし
――― うっ、うん。あり…がとう。も、大丈夫。だいじょうぶ、だから
――― いいよ。あっ!お姉ちゃん、あそこ
――― え?あの子…
――― わたし行ってくるね。痛い痛いって泣いてるの

蘇る、色鮮やかな記憶。独りで、ぽつんと蹲って泣いていた小さな背中。
その髪は、泥に汚れながらも、眩いほどの金色を放っていなかったか。

――― ね、痛い痛いなの?だいじょうぶ?
――― え。ぐすっ。きみは…?
――― わたしお姉ちゃんと来たの。ね、痛い?
――― 分かんないよ。どこが痛いなんて…
――― そうなの?うーん。でも泣いてるよ?よしよし
――― !な、なにするんだよ
――― 早く。よくなりますように。よしよし

差し出した私の手を、その子は最初、野良犬を追い払うような目で見つめた。
けれど、私が必死に繰り返す「よしよし」という呪文に、彼は堪えきれずに決壊したのだ。

――― っ、う、わぁぁっん
――― え、え、どうしたの?
――― とどかなかったんだ…早く、良くなって欲しかったっ

母を救えなかった無力感に震える小さな肩。
私は持っていた一輪の花を、彼の手のひらに握らせた。

――― んー。ね、これ、あげる。よしよし、元気になぁーれ

パチン、と何かが弾けた。かつての記憶から戻ってくる。
私は無意識に、今、自分の耳に掛かっている花に触れた。
あの日、少年にあげたものと同じ形、同じ香り。

「あ……」

喉の奥から、乾いた声が漏れる。
目の前にいる青年と、あの日の少年が、重なる。

彼はあの日からずっと、届かなかった祈りを抱えたまま、この花を…。
私を、見つめていたのだろうか。



10

「…元気に、なぁーれ。
ノレインさん、お姉ちゃん、 もっと一緒に居たかった…そっか…そうなのね」

「???」

指先に触れる石の冷たさが、胸の奥に眠っていた記憶を呼び覚ます。
私はもう一度、愛しいお姉ちゃんの名前を、愛惜を込めて撫でた。

(私、なんてひどい言葉を言ったんだろう。
この人の一番触れられたくない傷を、私は土足で踏みにじったんだ)

「フレン…。私、ひどいこと言った。お姉ちゃん達に。そして貴方にもっ」
「え!?」

視界が急激に歪み、熱い雫が頬を伝う。ポタ、ポタと。
磨かれた石碑に、私の溢れる涙が雨の如く降り注ぎ、乾いた石の色を濃く変えていく。

「思い出したの。お姉ちゃんとノレインさん、親友だった…。
仕事の都合で、葬式に遅れて……。
独りきりになった墓場の隅で、誰にも見られないように泣いてた人がいた」

「そんな…本当に?」

「もちろん。それに私も居たよ。あの日に」

「え」

「フレン。貴方がひとりで泣いてた。……これ、あげる。元気になぁーれ」

涙を袖で乱暴に拭い、私は耳に掛かっていた花を。
――あの日と同じ色をしたその花を震える手で差し出す。

フレンの瞳が、零れんばかりに大きく見開かれた。
記憶の中の泣きべそをかいた少年と、目の前の青年が重なる。

「う、そだろ……君が、あの時の……」

彼は、壊れ物に触れるような手つきで、恐る恐る花を受け取った。
私はもう、居ても立ってもいられなかった。

立ち上がった勢いのまま、もどかしさに突き動かされるように、
彼の胸にぶつかるように抱き着く。

「傷つけて、ごめんなさい。早く。よくなりますように。よしよし」

彼の背中に腕を回し、凍えきった心を溶かすように、そっと掌で撫でる。
服越しでもわかる。彼は、あの日の少年と同じように、孤独に打ち震えていた。

「……っ、ぼく、は……っ」

堰を切ったように、彼の喉から掠れた声が漏れる。言葉にならない嗚咽。
私は「うんと」深く頷いて、何度も、何度も彼の背中を撫で続けた。

「…っ、」

何かを言おうとした。でも言葉にならないフレン。
私は、うんと頷いて彼の背中を撫で続ける。あの頃のように震えている。

お姉ちゃん、見てて。もうこの人を、一人にはさせないから。



11

「…君が、一瞬でも妬ましかった」
「うん」
「君が受け取っていた薬の一つでも、母さんが受け取れていれば」
「うん」
「届いていれば。早く、良くなって欲しかった」
「うん」
「……ごめん」
「うん……え?」

その言葉が終わるか終わらないかのうちに、フレンの腕に強い力がこもった。

拒絶されることを恐れるような、あるいは、
零れ落ちそうな何かを必死に繋ぎ止めようとするような、切実な抱擁。

「『自分なんか』って…さっきのヒロミの声に、僕は一瞬でも君の存在を否定した。
君の代わりに母さんが生きていたら、なんて。……最低だ。ごめん……ごめんっ」

肩に触れる彼の体温が、小刻みに震えている。

騎士として、常に毅然と前を向いていた彼の背中が、
今はただの傷ついた青年のように小さく見えた。

(フレン……? もしかして、泣いてるの?)

私は戸惑いながらも、回していた腕をゆっくりと上げ、彼の後頭部にそっと手を置いた。

「よしよし。私が悪いんだから。フレンは悪くない。謝らないで?」

指をすり抜ける髪は、さらさらとしていて、まるで陽だまりを編んだような金色だ。
お日様は、いつだって世界を照らしていなきゃいけない。

(そっか……この金色に魅せられて。懐かしく感じたのも。胸がざわざわしたのも……)

今、ようやくわかった。フレン。貴方の涙を止めたい。その瞳を曇らせたくない。
この掌に伝わる温かさを、二度と失わせたくない。

彼は不思議な人じゃない。
後悔して、傷ついて、それでも優しくあろうとする、一人の普通の青年なんだ。
……私も、彼を支えたい。

「元気になぁれー」

幼い子供をあやすように、ゆっくりとなでる。あの日、彼に花を渡した時と同じように。

「ははっ……まるで、あの頃のままじゃないか」

フレンは私の肩におでこをコツンと預けてきた。
完全に私に身を預けている。彼の鼓動が伝わってくる。大きなワンコみたいだ。
私の相棒的存在のランバートよりもずっと、おっとりとしていて温かい。

「やっぱり……間違いじゃなかったんだ」
「え?」

顔を上げたフレンの瞳は潤んでいて。しかし確信に満ちた光を宿していた。

「君と騎士団で初めて会った時、強烈な既視感があったんだ。そうか…そうだったんだね。
(僕の初恋は、ずっと前から“ヒロミ”だったんだ。
あの日、君からもらった花は、今でも栞にして。僕の宝物なんだ)」

なにやら喉元まで出かかったその言葉を、彼はまだ飲み込んだような。
けれど私を見つめるその眼差しが、何よりも饒舌に真実を語っていた。

(フレン…私も貴方に再び会えて嬉しいよ)

「もう大丈夫そ? そろそろ掃除始めないと、本当に陽が暮れちゃうよ」

私の声に、フレンはようやく思考の海から帰還した。

「あ……。そうだね。ごめん、僕も手伝うよ」
「ふふ、頼りにしてる。……あ、ところでその花、どうするの?」

彼の指先には、先ほどまで大切そうに眺めていた特別な花が一輪。
片付けを始めるには、少しばかり邪魔になりそうだ。

「え、あ。そっか、どうしよう……」

手近な場所に置くのも憚られるのか、彼は困ったように眉を下げて花を見つめた。
その隙だらけの横顔を見ていたら、ちょっとした悪戯心が芽を出す。

「じゃあ~…こうしちゃえ! はい、可愛いフレンちゃんの出来上がり。うん、よく似合ってるよ」
「なっ……!?」

面食らうフレンの耳元に、その花の茎をさっと差し込む。
ふわりと花の香りが彼の周りに漂い、淡い花びらが彼の色白な肌によく映えた。

「こうすれば失くさないし、邪魔にもならないでしょ?
それに何より、私の眼福。いやあ~、名案解決!」

「っ……男に可愛いはないだろ……」

フレンは少し照れたように顔を伏せ、耳元の花を指先でそっと触れた。
外そうとするわけでもなく、ただその感触を確かめているようだ。

「はいはい、口を動かさないで手を動かす! さあ、始めるよー」

背中を向けて掃除の準備を始める私を、フレンは何も言わずにじっと見つめている。
その視線に気づいて振り返ると、彼は慌てたように目を逸らした。
そんな風に頬を染める顔が、幼い頃の面影を呼び起こして、なんだか胸の奥が温かくなった。



12

フレンと私でお墓を掃除する。
フレンは迷いのない、慣れた手付きで作業を進めていく。
その無駄のない動きを見て、私はふと気づいた。

(あ、そっか。ノレインさんのお墓も、いつ見てもきれいだった…。
きっとフレンが、こうして定期的に通って、一人で整えていたんだ)

彼の背中に、孤独だった月日と、変わらぬ愛情が透けて見えた気がした。
フレンが手際よく周りを掃き清め、私が石碑を水とタワシで磨き上げる。
冷たい水が弾け、石の地肌が本来の色を取り戻していく。
仕上げは、二人で一枚の新しい布巾を分け合い、隅々まで水気を拭き取った。

あっという間に掃除が済み、私たちは用意した大きな花束を石碑に供える。
色鮮やかな花々が、静かな墓所にパッと灯がともったような明るさをもたらした。
二人で目を閉じ、黙祷を捧げる。

風が吹き抜け、お線香の香りと花の匂いが混ざり合って鼻をくすぐる。
ここで明らかになった真実と、お姉ちゃんとノレインさんの絆。
きっと、その見えない糸が、時を超えて私とフレンを今、ここで繋いでくれたのかもしれない。

「お姉ちゃん。お義兄ちゃん。私、騎士になったよ。
二人の頑張りのお陰で、私は今、こうして健康でいられる。……ありがとう」

隣でフレンが、消え入りそうな、でも芯の通った声で呟く。

「リリアさん、僕の母さん……ノレインに逢えましたか?
エルダ様、僕も彼女と同じ騎士になりました。今、同じ隊で、彼女を支えています」

しんみりした空気を振り払うように、私は少しおどけて見せた。

「ね、もうビックリだよね。
あんなにビービー泣いてたフレンが、今やこんなに強くなっちゃって。
…正直、すごく頼もしいの」

「ビービーって……君は一言多いんだよ」

フレンが眉を下げて困ったように笑う。

「もう。むくれないの。似合わないんだから」

軽口を叩き合いながら、私たちは立ち上がる。
膝についた砂を払うと、現実の任務が頭をよぎった。

「じゃあね、二人とも。今度は…いつになっちゃうかな。
はぁ。騎士の仕事って、案外忙しいもんね」

「そうだね。帝都内の任務なら、すぐ戻ってこられるけれど……」

「ははぁ~ん?
そういえば、フレンが頻繁に外出許可を出してたって噂、聞いてたよ。
……そういうことだったのね」

「……なんか、ごめん」

図星を突かれたように視線を泳がせるフレンに、私は笑って首を振った。

「何で謝るのよ。私は、フレンのそういうところ、えらいなって思ってるんだよ?
……ね、ノレインさんも、きっと喜んでる」

「……うん。そうだといいな」

来た道を戻り、掃除道具を返したその足で、私たちはノレインさんのお墓にも向かった。
残りの花を供え、再び二人で手を合わせる。

「今日は、本当にありがとう。
母さんに……まさか、君と一緒に花を供えることができるなんて、思わなかったから」

照れくさそうに、でも心底嬉しそうに微笑むフレン。

「ううん。こちらこそ。ありがとうだよ、フレン」

去り際、振り返ると、西日に照らされた二つのお墓が、どこか満足げに並んで見えた。


騎士団寮に戻る帰り道。なんか、今日半日だけでフレンの事、たくさん知れた。
彼の家族の事、私のお姉ちゃんとの繋がり、そして過去に一度だけ出会っていた事。

「って、フレン。耳。そのまま戻るつもり?」
「あ!?忘れてた!」
「ぷっ!帝都内に入ってもそのままだったね。なんか視線が集まると思ったら。
あははは!ダメぇ!苦しー腹痛い~。フレンちゃん!ぷっ!フレンちゃん!」
「連呼しないでくれ!!!」

私が指差した先――フレンの耳には、今でも鮮やかな花がちょこんと咲いていた。
すれ違う帝都の住民たちが、騎士の制服と、その耳にある花のギャップに。
二度見どころか三度見していた理由がようやく繋がる。

「き、気付いてたなら、もっと早く言ってくれよ!!」

顔を真っ赤にして、慌てて耳から花をひったくるように外すフレン。
その必死な様子が面白くて、私はさらに笑いが止まらなくなる。

「だ、だって……似合ってたんだもん!あはははは。
騎士団の期待の新星が耳に花の姿で闊歩なんて、明日の新聞に載っちゃうかもよ?」

「笑いすぎだ!」

膨れっ面のフレンを置いて、私は「お先~!」と、すたこらサッサ。
石畳を蹴って、暮れなずむ寮の方へと走り出す。

「こらー!僕をからかうとはいい度胸じゃないか!待て!」

背後から、追いかけてくる足音。

「へへーん。下町育ちの瞬脚を舐めないでよねー!」

夕飯の支度の匂いが漂い始めた道を、風を切って駆け抜ける。
あっかんべー、と舌を出して精一杯の挑発を投げ捨てて、私はさらにギアを上げる。

迷路のような裏路地、積み上げられた木箱の山、洗濯物がはためく軒下。

騎士団の教練では決して通らないような「近道」を、
私は翼が生えたみたいに軽やかに駆け抜けていく。

背後からは、「待てってば!」というフレンの焦った声が追いかけてくる。

心臓がバクバクと音を立てる。走ってるせいだけじゃない。
半日かけて知った彼の意外な素顔や、お姉ちゃんとの繋がり、
そして何より――幼い頃に一度だけ結ばれていた、あの不思議な縁。
そんな温かい秘密を共有している高揚感が、私の背中を強く押していた。

あはは。捕まって堪りますか。
私の脚について来られる人なんて今の騎士団に居るわけがないじゃない。
ふふふ。さすがにフレンでも追いついてこないか。



13

「とーちゃくっと。ふふん、いくらフレンでも私の足に追いつかれて堪りますかっての」

使い慣れた寮の門が見え、私は勝利を確信して鼻歌まじりにステップを踏んだ。
だが、その余裕は一瞬で凍りつくことになる。

「ほぉー。フレンが? なんだって?」
「げ! ユーリ!!?」

そこにいたのは、騎士団の制服を少し着崩し、仁王立ちで腕を組む男。
フレンの片割れ――ユーリ・ローウェルだった。
その背後では、双子の騎士が「あちゃー」と言わんばかりに、
無言で手を合わせ、私に黙祷を捧げている。

……どうやら私の半日休暇、完全に出所にバレていたらしい。

「『げ』とは何だ。人の顔を見るなり失礼な」
「い、いや何でもありません。
…それに、フレンはナイレン隊長から極秘任務を言い渡されて、半日ほど席を外しただけよ?」
「は? 任務? 何の任務だ」
「それは国家機密につき、黙秘権を行使します!」

ビシッと敬礼して誤魔化すが、
ユーリは「怪しいもんだ」と言わんばかりに、獲物を狙う野良猫のような目で細める。

「…あ、因みに私はお墓参り!
家族のが帝国外にあるから、休暇をもらったの。お分かり?」

「……まぁいい。おまえの私用はどうでもいいが、
こっちはフレンの不在のせいで、あの双子にトコトン扱かれたんだよ。
ったく、アイツいきなり消えやがって」

ユーリの首筋にはうっすらと汗が浮かび、肩で息をしている。相当しごかれたのだろう。

「あらぁ。それはそれは。……さぞ、お強くなられたんでしょうねぇ?」
「うっせ! ヒロミもあいつらに捕まってみろ。マジで地獄を見るぜ」

毒づくユーリだが、その顔には隠しきれない疲労の色が見えた。
つい、その「お疲れ様」な雰囲気に絆されて、私は無意識に手を伸ばす。

「ふぅん。そっか。お疲れ様、ユーリ。よしよし」
「なっ!? ……何しやがる! バカかおまえっ!」

子供をあやすように頭を撫でると、ユーリは弾かれたように飛び退いた。
顔を真っ赤にして、珍しく狼狽えている。
私も自分の行動にハッとして、上げたままの手を止めた。

「あ。つい。…さっきまでフレンにいっぱいしちゃったから。
まだ、手に撫でる感覚が残ってたのかな」

「はぁ? おまえなぁ、いいか、フレンは犬じゃねぇんだぞ」

「ぷ…っ! でも、すっごく大人しくしてて、あのでっかいワンコみたいだったわよ?」

フレンならゴールデンレトリバー。ユーリなら黒猫ってとこか。

私が噴き出したところで、背後の扉が勢いよく開き、フレンが全速力で駆け込んできた。

「ぜえ、ぜえ…! ヒ、ヒロミ……!
君の走りは、一体、どうなってるんだ。と、とても…ッ」

息を乱し、膝に手をつきながらフレンが顔を上げる。その瞳には驚愕の色が浮かんでいた。
――「病弱だったとは思えない」
続くはずだったその言葉を、私は許さない。
空気を切り裂くような鋭い手刀が、フレンの脳天にクリーンヒットした。

「お黙り! もしバラしたら、一生言いふらしてあげるわよ? …ねえ、『フレンちゃん』?」
「!!?」

「ちゃん」付けという想定外の攻撃に、フレンは声にならない悲鳴を上げて硬直する。
その横で、ユーリが胡散臭そうに眉をひそめた。

「…は? フレン、ちゃん…? なんだその呼び方。おまえら、いつの間にそんな仲良くなってやがる」
「さあね~? ユーリは知らなくていいのよ、うふふ^^」

私は満面の笑みを浮かべ、下町コンビの二人に特大の圧をかける。

(ま、フレンは知らないでしょうけど。
私は支えたいとは思ってるわよ。――その、眩しすぎる太陽をね)

内心でそんなエモい決意を固めたものの、全力疾走の後はやっぱり、情緒より実利だ。

「あー疲れた! お風呂、お風呂! ヒスカー、シャスー。一緒にお風呂行こー!」

少し離れたところで、今のやり取りをハラハラしながら見守っていた双子に声をかける。

「「うん! 行く行くー!」」

二人はパッと表情を輝かせ、私の両手を奪い合うようにして取った。
置いてけぼりにされた男二人の視線を背中に感じながら、私は鼻歌まじりに浴場へと向かった。
やー裸の付き合いはいいねぇ。


14

半日だけでいろんなことがあった。
私自身、風呂に入って随分疲労してたのだと実感した。
双子と一緒に背中を洗い合いっていると双子の片割れに訊かれた。

「ねぇヒロミ。今日どうしたの?フレンとすごい仲良くなってない?」
「あ、あたしも思った。フレンをいっぱい撫でて?追いかけられて、しかもチョップ!」
「うっ。まぁ双子にならいいか…ユーリとフレンには黙っててよ?」

半日ユーリを引き留めてくれた借りもあるし。
フレンちゃんの事だけ黙ってよっと。彼の名誉のためだ。

* * *

「……と。そう言うこと。って、二人とも?」

問いかけた私の言葉は、完全にスルーされた。
二人の瞳は、まるで見えない宝箱を見つけたかのように爛々と輝いている。

「そ、それって……! 運命じゃん! キャーッ!」
「絶対にお姉さんとフレンのお母さんが導いたんだよ! キャーッ!」

二人は同時に私の両手を握りしめ、ぴょんぴょんと跳ね始めた。

「そりゃあフレンは……ねぇ?」
「でしょう。絶対に……うふふ」

首を傾げるタイミングまで完璧に一致している。
双子だけで完結した不可侵のロジックが、二人の間で高速通信されているようだ。

「なんかよく分からないけど、フレンの事、あまり弄らないであげてね?」

私が釘を刺すと、二人は一瞬だけ顔を見合わせた。

言葉なんて一言も交わしていないのに、
瞳の奥で何かの情報が高速でやり取りされたのが分かった。

「えへへ。分かったー」
「もちろんよ。うふふ」

重なるような、あまりに綺麗なハモり具合。鏡合わせのような笑顔。

だが、その口角の上がり方が、
さっきよりもほんの数ミリだけ深い気がするのは私の気のせいだろうか。

「(……ほんとにわかってるのか怪しい。
っていうか、今、絶対『面白い玩具(フレン)を見つけた』って、二人で共有したよね?)」



一方その頃。
ユーリとフレンも広々とした大浴場で、ようやく一日の汗を流していた。
だが、湯船に浸かりながらも、今日の出来事を思い出してユーリの視線は鋭い。
これでもかとジト目で見つめている。

「ユーリ…そう睨まないでくれないか。
視線が刺さって、せっかくの湯がちっとも温かく感じないよ」

「いや? オレは別に睨んでねえぞ。…ただ、あまりの体たらくに呆れてるだけだ」
「は……? 体たらくとはなんだ」

フレンが眉を寄せると、ユーリは鼻で笑って湯気を吹き飛ばした。

「おまえ、いっぱい撫でられたんだってな。ワンコ扱いされてたぜ?」
「なっ!僕は犬じゃない!!」

湯面を叩いて立ち上がろうとするフレンに、ユーリは肩まで湯に浸かり直して毒を吐く。

「それはヒロミに言え。オレまでとばっちり食らったじゃねえか。何がよしよしだ」
「(イラッ)……ユーリにもやったのか。ヒロミは」
「なんでオレを見て睨むんだ。言いたい事があるならヒロミに言え」

ユーリがうっとうしそうに顔を背けた瞬間、フレンの拳がプルプルと震え始めた。

「分からないよ。なんか無性にユーリを殴りたくなった」

「! (イラッ)…奇遇だな、それはこっちの台詞だぜ。
今日は一日、おまえのせいで散々振り回されて、
オレの導火線はとっくに燃え尽きてんだ。無性にイラついてんだよ!」

ざばあッ! と派手な音を立てて二人が同時に立ち上がる。
鍛え上げられた二人の肉体から、湯気と共に殺気にも似た闘志が立ち上った。

「表へ出ろと言いたいが……ここで十分だ、フレン!」
「望むところだ、ユーリ! その体に叩き込んでやる!」

あとは、いつもの通り。
「おい、やめろお前ら!」「備品を壊すな!」という他の隊の叫び声も虚しく、
二人の全力の喧嘩によって男子風呂場は嵐のような大騒ぎになったのだとか。



15

「ふぁ~、極楽極楽。やっぱり風呂は命の洗濯だねー」
「ん?…なんか隣、騒がしくない? 湯冷めしそうな怒鳴り声が聞こえるんだけど」
「ほんとだ。ちょっと男子ー、そっちで何があったの?」

私たちは火照った肌を夜風にさらして髪を拭きながら、
男子風呂の入り口付近でニヤニヤと中を覗き見ているアシェットに声をかけた。

「いやぁ。なんかまた、ユーリとフレンが派手に殴り合いの喧嘩を始めちゃってさ」
「は!!? またあいつら……風呂で何やってんのよ!」

呆れ果てる私たちをよそに、アシェットは「見ものだよ」と肩をすくめる。

「今さっき数人がかりで取り押さえてるんだけど…
あ、今もなんか『ヒロミがどうした』とか、お前の名前が聞こえたような気がするぞ?」

「え。何で私の名前……? 私、何かしたっけ?」

「これは間違いなく、いわゆる一つの三・角・関――」

「しぃーっ! ヒスカ! 余計なこと言わなくていいから!」

パシィィッ!と勢いよく、シャスがヒスカの口を両手で塞いだ。
「むぐぐっ」と悶えるヒスカを無視して、シャスは引きつった笑顔で冷や汗を流している。

「?? 何、三角って?」
「あー、気にしないで! 陣形の組み方の話よ、たぶんね!」

「俺、一応隊長に知らせてくるよ。
ま、いつもの痴話喧嘩……じゃなかった、いつもの揉め事だと思うけどな」

「あ、デイビッド」

ナイレン隊の男子、デイビッドが苦笑いしながら私たちの前を駆け抜けていった。
その背中を見送りながら、双子は揃って深い溜息をつく。

「あちゃー、フレンのやつ、早速やらかしてるぅ。
あんなに真面目な顔して、ヒロミのことになるとすぐ余裕なくなるんだから」

「ユーリも今日はずいぶん扱いたからね。虫の居所が悪かったんじゃない?
……っていうか、これ」

「「明日から数日、私たちも指導を鬼にしろって命令が来るパターンじゃ……」」

双子が顔を見合わせ、げんなりとした表情で天を仰いだ。
「たぶん来るね。うわぁ、完全にとばっちりだ……」

「ねえ2人とも、もう行かない?
ここに居ても私たちは男子風呂の中には入れないし。
フレンたちはいつもの事でしょ? それより、お腹空いちゃった。夕ご飯に行こうよ」

私が能天気に提案すると、二人は何とも言えない複雑な視線を私に投げた。

「……まぁ、そうだけどね。(根本の原因は、今お腹を空かせてるヒロミなんだけど……)」
「そうだね、行こうっか。(フレンの必死な気持ち、つゆ知らず。本当に、罪な子ねぇ……)」

私たちは騒ぎを背に、温かい湯気の匂いが漂う食堂へ移動した。

案の定、食事の真っ最中に双子は隊長から呼び出され、
口に含んだスープをぶふっと派手に噴いていた。
やっぱり、地獄の特訓命令が下されたらしい。

その後の数日間、ユーリたちの鍛錬は文字通り「ハードモード」に書き換えられたという。

(……それにしても、いったい何をやらかしたのよ、フレンたち)

私がそう首を傾げるたびに、
隊の全員が「お前が言うな」という視線を送ってくるのだが、その理由を私が知る由もなかった。



16

数日後。私はフレンと食べた、あのクレープが恋しくて外出許可をもらった。
夕飯は外で食べてきます、と付け加えて。よし、いろんな種類試すぞ~。
夕方時間はそれぞれ家へと向かう人たちで賑わう。下町もそうだ。

「こんばんは~。おじさん、またきましたー」
「お!嬢ちゃんまた来たのかい。フレン坊主は元気か?」
「はい。相変わらず元気いっぱいですよ!(あり過ぎて困ってんだけど)」

私はメニューを見て、うーんと考え込む。

「あ。じゃあ、おじさん。ここから、ここまで全部くださーい」
「なっ!お嬢ちゃん、ちょっと食い過ぎじゃねえか…?(汗」
「大丈夫!鍛錬で、すっごいお腹減らしてきましたから^^」
「ははぁ~騎士にもなるとみんな大食いになるのかねえ」
「えへへ。フレンも大食いなんですか?」
「いや。むしろユーリ坊主の方が食うよ」
「へぇ。あ、そっか。甘党だってフレンが言ってたっけ」
「お嬢ちゃんも負けてないがな。がはは」
「あはは、ユーリが甘党なのは意外かも。あんなにクールぶってるのに」
「おうよ、あいつは昔からそうだ。シチューの後に平気で甘いもん食いやがる。
嬢ちゃんも負けずに、しっかりその腹に収めてやりな!」

鉄板の上で薄く伸びる生地が、一瞬で端から浮き上がってくる。
おじさんはそれを迷いのない手つきでひっくり返すと、
色とりどりのフルーツやクリームを魔法みたいに盛り付けていく。
トン、トン、とリズミカルに包まれるクレープが積み上がっていく様子は、見ていて飽きない。
うわあ。すごい職人芸というかスピードだ。見惚れちゃう。

「ほらよ。落っことさないように気ぃつけなよ!」
「ありがとー。おじさん。うわあ美味しそ~。噴水広場で食べよっと^^」

全部で10個も頼んじゃった。あはは、頑張って食べるぞー。
下町まで降りてきたんだから、みんなにも久しぶりに会えるかも。

夕飯の支度を急ぐ主婦たちの話し声、走り回る子供たちの笑い声。
運河の水面が夕日にキラキラと反射して、オレンジ色に染まっている。
騎士団の宿舎とは違う、このちょっと雑多で温かい空気。
フレンはこういう景色を守りたくて頑張っているんだな、なんて柄にもないことを考えちゃったり。

両手に抱えきれないほどのクレープの束。
ずっしりとした重みと、包み紙越しに伝わる温かさが幸せすぎる。
……けど、すれ違う町の人たちが二度見していくのは気のせいかな?
『おいおい、あのお嬢ちゃん一人で全部食うのか?』なんてヒソヒソ声が聞こえてくるけど。
今の私には最高のBGMだ。

噴水広場に行くまでにも、たくさんの知り合いに挨拶して。
やっと目的地について、噴水広場に設置してあるベンチに腰掛ける。
買ってきたクレープを横に置いて、早速1つを齧る。

「ん!うまー。ほっぺ落ちそう~幸せ~(もぐもぐ)」
「おや?そこに居るのは」
「(もぐ。ごくん) あ!ハンクスおじいちゃん!久しぶり^^」
「ヒロミ。って、なんじゃその量は!?」
「あはは。鍛錬でお腹空いちゃって。あそこのクレープ美味しいですね(ぱく。もぐもぐ)」
「お前さん…だんだんユーリに似てきたのぅ」
「(ごくん。ぱく。もぐもぐ) ふぇ?はんで、ふゅーひひ?(へ?何でユーリに?)」
「喋るか食べるかどっちにしたらどうじゃ。行儀が悪いわい」
「ん。(ごくん。ぱく。もぐもぐ。ごくん。ぱく。もぐもぐ。ごくん)」
「すごい食欲旺盛だのぅ。しかも幸せそうに食べるからこっちはもうお腹一杯じゃ」



17

「ったく。ようやく解放されたぜ。フレンのやつ、なに苛ついてやがんだ」

むしろ絞られたオレの方が苛ついてるっつーの。

(くっそ、何か甘いの食べないとやってられねえ!!)

オレはムカついたまま、外出許可を叩きつけてきた。
すたすたと下町の方へと降りていく。
行く先、行く先、下町のやつら挨拶してくるがテキトーに返す。

いつも世話になっているクレープ屋のジジイに
「おい、いつもの」とぶっきら棒に注文する。

「よーう、ユーリ坊主どうした?えらくご機嫌斜めだな」
「うっせ!それもこれもフレンの奴が吹っ掛けてきたせいだ」
「ははぁ?フレン坊主と喧嘩か。ま、いつもの事か。がははっ」
「今回は完全にオレはとばっちりだ!くっそフレンの野郎!」
「まあまあまあ。甘いもんでも食って機嫌直せって。ほらよ。こっちはおまけだ」
「お!おっちゃん良いのか?サンキュー♪」

もう一つ、おまけに別の甘いクレープをくれた。

「おっちゃん、えらい機嫌いいな。なんかあったのか?」

「ああ。さっき新規のお客さん……ああ、ユーリ坊主と同じ騎士か?
10個注文してくれてな。あんな可愛い顔してえらい大食漢だと思ってな。
ああ、噴水広場で食べるようなこと言ってたな。興味あるなら行ってみな」

「ふぅん。騎士ね。どんな大女なんだか」
「大女って…ユーリ坊主の頭一つ分低いくらいだぞ?」

マジで?しかも10個とか。どんだけの甘党だよ。オレも人の事言えねえが。
同じ騎士ねぇ。しかも下町に気軽に出入りする、と来たものだ。
…もしかしてオレの顔見知りか?
いや、そんな大食漢なら下町でもそこそこ顔知られてるが。

(…いったい誰だ?見当もつかねえ)

「へえ、オレより頭一つ分も低い、か。
そりゃまた…騎士団(あっち)にしちゃ、随分とコンパクトな新顔がいたもんだな」

腕を組み、ユーリは記憶の引き出しを片端からひっくり返す。
だが、あんな厳格で堅苦しい組織に、そんな「可愛らしい大食漢」がいた記憶はない。
ましてや、下町の噴水広場でのんびり買い食いを楽しむような手合いなど。

(……まあ、フレンみたいな四角四面な奴ばかりじゃないとは思うが。
10個だぞ? 10個。もはや食事じゃなくて、ただの甘味の暴走じゃねえか)

「悪いな、おっちゃん。ちょっとその『可愛い騎士様』のツラ、拝んでくるわ」

ひらひらと手を振り、ユーリは噴水広場へと足を向ける。

石畳の道を歩きながら、頭に浮かぶのは、自分より背の低い、
騎士服に身を包んだ、予想もつかないような人物像……。

(……まさかな。いや、あの厳格な騎士団に、そんな自由な奴がいるはずが――)

オレはクレープを齧りながらも、足は無意識に噴水広場へと向かっていた。



18

私はハンクスおじいちゃんとお話ししながらも、もくもくと食べ続けていた。
残りはあと4個。ここまで計6個食べた事になり。一向に食べるスピードは落ちない。

「(ぱく。もぐもぐ。ごくん) …でね、ハンクスおじいちゃん。フレンがね…」
「あ、あぁ…。お前さん、ほんとに大丈夫か?」
「(ぱく。もぐもぐ。ごくん) ん?だいしょーぶ。美味しいよ~^^」
「そ、そうかい。フレンがどうしたんじゃ?」
「(ぱく。もぐもぐ。ごくん) ん。この前、お姉ちゃんのお墓参りに護衛してくれてね」
「ほぉ。リリアのかい」
「うん。フレンね、掃除も手伝ってくれて。
実はね、フレンのお母さん、お姉ちゃんと親友だって思い出して吃驚した」

クレープ食べるの一旦やめて。ハンクスおじいちゃんに報告した。
なんだか誰かに知って貰いたかったんだ。
するとハンクスおじいちゃんは、懐かしそうに頷いた。…へ?知ってたの?

「懐かしいのぉ……」

ハンクスじいちゃんは目を細め、刻まれた深い皺の奥で遠い日々を慈しむように呟いた。

「ノレインとリリアの仲は意外と知られていないんじゃよ。どっちも内気というか温厚でな。
わしは偶然、ノレインの授業が終わった後に話すことがあってな。その時に出会ったのじゃよ」

彼は静かに言葉を継ぐ。

「彼女らは生粋の本好きでな、よく貸し借りしておったよ。
お前さんのかつての家にも、壁を埋め尽くすほどたくさんあったじゃろ?」

「うん。お姉ちゃん、お義兄ちゃんに頼んで遠い街から取り寄せるくらいだもんね……」

私は幼い頃に見た、
紙とインクの香りが満ちたかつての家の光景を思い出し、ふっと口元を緩めた。

「そっか。ハンクスおじいちゃん、教えてくれてありがとう」

「いいんじゃよ。…それにしてもヒロミ、ほんにここまで元気になって。
下町では薬一つ手に入れるのも一苦労じゃからのぅ。
あの頃のお前さんを思うと、奇跡のようじゃ」

ハンクスおじいちゃんの労わるような視線を受け、私は力強く自分の胸に手を当てた。

「そこは、本当にお義兄ちゃんに感謝してる。
だから…私、騎士になって、少しでも下町のみんなに恩返しがしたいの。
この命を繋いでもらった分、今度は私が守る番だから」

その瞳に宿る真っ直ぐな光を見て、ハンクスおじいちゃんは満足そうに何度も頷いた。

「血は繋がってなくても、志はしっかりと継いだようじゃな。…エルダも、天国で本望じゃろうて」

「そかな?そうだったら嬉しいな!(ぱく。もぐもぐ。ごくん)」

「本当に幸せそうに食べるのぅ。
わしゃもう行くが…ヒロミ、くれぐれも食べ過ぎぬようにな」

「はぁーい。(ぱく。もぐもぐ。ごくん)」

「(…第2のユーリじゃのぅ。この甘党は)」

ハンクスおじいちゃんに注意されて返事を返す。何故か少し溜息をついていたような?
まあ気のせいかもだし。ハンクスおじいちゃんは行っちゃった。
でもお姉ちゃんの事、知ってたんだ。嬉しいな。

私は心がポカポカと温かくなり、本当に幸せな気分でクレープを頬張る。

「(ぱく。もぐもぐ。ごくん)……はぁ、おいしい」

ハンクスおじいちゃんが去った後のベンチで、私は手元のクレープを見つめる。
お姉ちゃんとノレインさん。

二人が私の家の膨大な本棚や、
木漏れ日の下で静かに本を交換している姿が目に浮かぶようだった。

「お姉ちゃん……。私、お姉ちゃんの知らない一面をまた一つ見つけたよ」

お義兄ちゃんが必死に繋いでくれたこの命。
もしお姉ちゃんが生きていたら、今の私を見てなんて言うかな。
「食べすぎよ」って、やっぱりハンクスおじいちゃんみたいに苦笑いするのかな。
そんなことを考えたら、胸の奥がぎゅーっとして、それからトクンと温かくなった。

(よしっ、食べるぞぉー!)

クレープの続きを、惜しむように大きく頬張る。
もちもちの生地と、とろけるような甘さ。お姉ちゃんが愛したこの街を、今度は私が守るんだ。

あとは、蕩けるような甘さに身を浸せて。ああ幸せぇ。
夢中で食べていた気がする。

「ふぅー。美味しかったぁ~。ごちそうさまぁ」

10個完食。お腹は大満足。

パンパンになったお腹をちょっとだけさすりながら、
私は夕暮れに染まり始めた下町の道を、軽やかな足取りで歩き出した。



19

クレープを齧りながら噴水広場に向かっていれば。

「む?おまえ、ユーリか」
「ん?ハンクスのじいさんか」
「…はぁ。お前さんまでクレープか。こっちはもう胸焼けじゃわい!」
「出会い頭で溜息と逆ギレかよ。オレが何したってんだよ」
「いや。ユーリが悪いんじゃないが…もう今夜は何も食べれんわい」
「おいおい。大丈夫かよ。じいさん。(ぱく。もぐもぐ)」
「ぐ…!もう勘弁してくれぃ」

オレから逃げるように去っていったハンクスのじいさんに首を傾げた。
いったい何だったんだ?確か噴水広場の方から歩いてきたよな。

『お前さんまでクレープか。こっちはもう胸焼けじゃわい!』

そこで思い出した。そして手に持っているクレープを見る。

「…まさか。じいさんの知り合いか?」

オレはまたクレープを齧りながら目的地に進む。すると見覚えのある姿が。


「ん。うま。うま。おいひい。ん。んん。んく。ん。うまぁ~」

もきゅもきゅもきゅ(*´ω`*)
ひたすらクレープを幸せそうに頬張るヒロミがいた。

……噴水広場は、しんと静まり返っていた。
噴水の水音さえ、彼女の咀嚼音を邪魔しないよう遠慮しているかのように。
買い物帰りの主婦も、談笑していた若者たちも、全員の視線が一箇所に釘付けだ。
その中心で、ヒロミだけが世界から切り離されたような多幸感に包まれている。
彼女の足元には、役目を終えたクレープの包み紙が、まるで騎士の戦果か、
あるいは脱ぎ捨てられた鎧のように積み上がっているじゃねえか。

…これか。クレープ屋のおっちゃんや、ハンクスじいさんが言ってた大食漢の騎士って。
しっかし。すげえ食いっぷりだな。確か10個注文してなかったか?こいつ。

「はむっ。んっ。ん、うん、んんー。これも美味しい~^^」
「……。」

もきゅ、もきゅ。
彼女の薄い唇が、溢れんばかりの生クリームと真っ赤なイチゴを優しく、かつ容赦なく迎え入れる。
膨らんだ頬はリスのようでいて、その咀嚼はどこかリズミカルだ。
飲み込むたびに、長い睫毛が震え、喉が小さく『くぅ』と鳴る。
数字を全く感じさせない、一口ごとに初めてクレープに出会ったかのような感動が、
その表情には張り付いていた。

(…あれはもう、ただの食事じゃねえ。一種の儀式に見えてきたぜ…)

ヒロミの食いっぷりと。幸せなそうな顔と。頬を膨らませて噛み締める姿。
普段は凛々しい背中が、今はただの『甘味に魂を売った少女』の背中に見える。
呆れるのを通り越して、見ているこっちの胃袋まで刺激されてきた。
彼女の幸せが空気を伝染して、オレの鼻腔をくすぐる。

気づけば、オレは自分のクレープを強く握りしめていた。
オレは無意識に自分の手にあるクレープに齧りついた。美味ぇ。
もぐもぐ。もぐもぐ。もぐもぐ。

「ん。んっ。うまー。ん。んくっ。はむっ。ん。ん。んん。うん。んくっ」
「……。」

もぐもぐ。もぐもぐ。もぐもぐ。
ヒロミの食べる姿に、オレはいつの間にかシンクロしていたのか。
おまけに貰っていたクレープも、あっという間に完食しちまった。

「はむっ。んん。ん。うん。ん。ん。んん。ん。んく」
「……。」
「はむっ。ん。んん。うん。ん。んん。うん。んくっ」
「……。」

クレープを食べ終わった後も、オレは帰ることができなかった。
ただひたすらに、ヒロミの食べる姿を見続けていた。
いや、正確には「見続けてしまった」と言うべきか。

クレープを頬張るたびに緩むヒロミの頬、幸せに満ちたその表情。
そして、生地を噛み締める瞬間にこぼれる、吐息のような、甘い、小さなしあわせの声。
その一つひとつが、見えない鎖となって俺の足を地面に縫い付けていた。

(…あ。口元に、白いクリームが……)

彼女がそれを指で拭い、小さく舌を出して舐めとる。
その無防備で、あまりに無邪気な仕草から目が離せない。
鼓動が耳元でうるさく鳴り、肺の空気が少しずつ薄くなっていくような感覚。
とにかく、あとから振り返れば、あの時のオレはどこか正気ではなかったのだろう。
周囲の雑音も、通り過ぎる人々の視線も、すべてが遠い世界の出来事のように感じられた。

結局オレはヒロミが最後の一口を飲み込み、満足そうに微笑むその瞬間まで、
一歩もその場から動くことができなかった。



20

「ふぅー。美味しかったぁ~。ごちそうさまぁ」
「!!」

満足げな吐息とともに、ヒロミが立ち上がる。

無防備な足取りでこちらに向かってくることに気付き、
オレは反射的に近くの建物の陰に身を隠した。
心臓が嫌な速さで鳴っている。な、なんでオレが、コソコソ隠れなきゃいけないんだ。

「ふんふんふん~♪ フレンが教えてくれたクレープ美味しかった~。また今度来よっと」

軽やかな鼻歌が、すぐそばを通り過ぎていく。

(……何だと?)

ヒロミの口から出た名前に、耳の奥が熱くなる。
やっぱりあいつ、フレンと仲良くなってやがる。いつの間に、どこで、あんな奴と。

(…!? 何だこれ。クレープなんて食ってねえのに、胸が焼けつくみたいにイライラする)

はー、分かんねえ! 最近のオレはどうかしている。
フレンに喧嘩を売られたり……いや、あれは100%あいつが悪い。
あいつ、ヒロミの名前を出した瞬間に顔つきを変えやがった。
……惚れてんのか? あの、スカした野郎が。

イラッ。イライラッ。

(だから、何なんだよ。これじゃあ、まるでオレが……)

思考を遮るように、ヒロミの後ろ姿が遠ざかっていく。
朱く染まり始めた夕日が、彼女の長い三つ編みを鮮やかに縁取っていた。
歩くたびにリズムを刻んで揺れる、その毛先。

(……オレが。オレの方が、ヒロミに)

……何だよ。ははっ。
自嘲気味な笑いが漏れた。オレもフレンのこと、笑えねえじゃねえか。
認めてしまえばいい。もう、とっくに逃げ場なんてなかったんだ。

無心に頬張る、幼い横顔。
甘さに、とろけそうに細められた目元。
「美味しい」を噛み締める、喉の鳴る音。

(……全部。全部ひっくるめて、かわいい、と思っちまったんだ。いや。むしろ欲望だろ)

夕闇が迫る街角で、俺は独り、認めたくない熱に浮かされていた。
オレは重い腰を上げ、ヒロミが去っていった方を見つめる。
地面に残った彼女の気配が、湿った夜風に溶けて消えていく。
ヒロミの去っていった道を進む。

「はぁ~~~~まいった。何だよこりゃ」

思わず口を突いて出た独り言は、情けないほど震えていた。
幼い頃、何でもかんでも半分こ、共有してた。

だからって、よりによってこれはないだろう。
異性の好み、惹かれるタイミング、笑い話にもなりゃしない。
けど。だからってフレンにヒロミを渡す?ハッ。もっと冗談じゃねえ。

「くっそ。マジかよ…何で気づいちまうんだ。最悪だぜ」

気づきたくなかった。フレンのあの妙に苛立った顔、余裕のない声。
それが、自分自身の焦りや戸惑いと重なるのが嫌だった。
今フレンに会ったら、お互いの感情がぶつかり合い、きっとまた喧嘩になるだろう。

(あー。……何か、分かっちまったわ。
フレンがあんなにイライラしてた理由。オレも今、全く同じ気分だわ)

あいつの中に、オレと同じくらいの強い想いが渦巻いているのが手に取るように分かる。
それが何より癪に触るんだ。こんなんじゃ、顔を合わせた瞬間にまた面倒なことになる。

「くっそ。本当に厄介なことになったな……」

呟きながら、自分の前髪を乱暴にかきむしる。
ヒロミの笑顔や、さっきの会話の余韻が頭にこびりついて離れない。

オレは抑えきれない気持ちを持て余しながら、
足を引きずるようにして寮への道を戻るしかなかった。



21

最近、私は首を傾げることが増えた。
フレンは元々優しかったが、あんだけぶっきら棒だったユーリまで様子がおかしい。
実地訓練などで魔物討伐をする時があるけど、その度に。

「おい!ぼさっとすんな。狙われてんぞ」

剣を鞘に納める音すら荒っぽく、ユーリはフイッと顔を背けた。

「おまえが怪我すりゃ、後で騎士団の報告書が面倒なんだよ。
…チッ、あっちにもいやがったか」

そう言い捨てて、彼はまた別の魔物へと飛び込んでいく。
その耳の後ろが、心なしか赤くなっているのを見逃さなかった。

「あっ。かすり傷が。ファーストエイド」

詠唱が終わるか終わらないかのうちに、柔らかな光が私の腕を包む。

「大丈夫かい? ……少し、君から目を離しすぎたようだ。
これからは僕の視界から出ないようにしてくれないか」

爽やかな笑顔。けれど、その瞳の奥にはユーリへの対抗心がバチバチと火花を散らしている。

「ヒスカ。シャス。あの2人いったいどうしちゃったの?
私の出番、このままだと完全にゼロなんだけど……」

「ま。こればかりはしょうがないわよ、ヒロミ」
「うんうん。好青年の青い春ってやつよ。視線が一点に釘付けなんだから^^」

ヒスカとシャスが、ニヤニヤと生温かい視線を前方に送っている。

「はあ~? ますます意味わからない!
このままじゃ『遊んでいたのか』って隊長に注意されるの私なんだけど!」

私が頭を抱えると、ヒスカが私の肩をポンと叩いた。

「いいじゃない。前衛二人があんなに張り切ってるんだから、
あんたは後ろで高みの見物でもしてなさいって」

「そうそう。あんなに必死な『騎士様たち』、滅多に拝めないんだから。
今のうちに目に焼き付けとかなきゃ損だよ?」

二人は顔を見合わせて、また「うふふ」と楽しそうに笑った。

目の前では、ユーリとフレンが妙に気負った様子で魔物をなぎ倒している。
いつも以上の過保護っぷり……というか、私を戦場に出させまいとする必死すぎる背中。
守られている安心感よりも、置いてけぼりにされた疎外感が勝り、私の中で何かがぷつりと切れた。

「ぁぁあああ。もう! 我慢できないっ! どいてよ、二人とも!」
「お、おい、ヒロミ!?」

背後から制止するフレンの声を置き去りに、地を蹴る。
私の瞬脚は隊内でも一番早いと隊長にお墨付きを貰っているのだ。
いつまでも庇われてばかりなんて、騎士失格!

しゅたたたたたたっ!風を切る音が耳元で鳴る。
タンッと魔物たちの背後に一瞬で回り込み、魔力が溜まった剣を解き放つ。

「逃がさない……! 瞬天牙! 乱華滅殺!」

一閃、二閃。鮮やかな光の軌跡が魔物を切り刻む。
そして、全力の魔力を脚に溜めて跳躍した。

「これで終わり……! 風燐蓮翔撃!!」

トドメの奥義が炸裂し、巨大な魔物2匹が断末魔を上げて霧散した。

「……。」
「……。」

着地して振り返ると、ユーリとフレンが、武器を構えたまま口をあんぐりと開けて呆けていた。
ちょっと、何よその顔! 「ぼさっとするな」っていつも私に説教しているのは貴方たちでしょう!

「言った傍から! 貴方たちの背後、きてるわよ!!」

今度は呆然とする二人を救うべく、最短距離を突っ切る。

真正面から突進してくる私に、二人は援護するどころか、
今度は目を見開いて金縛りにあったように固まった。

(……ええい、邪魔っ!)

私は彼らの鼻先まで詰め寄ると、そのままタンッ!と頭上を高く飛び越えた。
空中で鮮やかに一回転。風が私のスカートを容赦なく煽り、視界が上下に反転する。

「あっ!!?(……薄紅色……っ///)」
「ひゅう~♪(は~……絶景なり。薄紅ねぇ、フレン?)」

背後で、妙に上ずったフレンの悲鳴と、
どこか感心したようなユーリの野太い声が聞こえた気がしたが、今はそれどころじゃない。

天明茜牙(てんめいせんが)!」

着地と同時に、死角から迫っていた最後の一匹を真っ二つに叩き斬る。

「はぁ……。何とか片付いたわね……」

ようやく静まり返った戦場。
私は額の汗を拭い、だらしない様子で立ち尽くす二人に一言文句を言ってやろうと振り返った。

――が。

ガンッ! ゴスッ!!

「っで!?」
「あ痛っ!」

私の言葉より先に、ヒスカとシャスが拾い集めていた石を、
正確なコントロールで二人の後頭部にぶん投げた。

「フレン! このむっつりスケベ騎士! 目を皿のようにして何見てんのさ!」
「ユーリ! 堂々とするんじゃないよ、この不届き者!」
「え!? いやっ、僕は、その、不可抗力で……!」
「そうでーす。オレたちは何ひとつ、これっぽっちも見てませーん。なぁフレン?」

ユーリがいけしゃあしゃあと言い放つ。
さっきまで魂が抜けたような顔をしていたくせに、立ち直りだけはやけに早い。

「ウソおっしゃい。……で。何色だったわけ?」

私がジト目で問い詰めると、動揺の極致にいたフレンが、反射的に直立不動で答えた。

「薄紅……(ハッ! しまったぁあ!)」
「バッカ! フレン、お前正直すぎるだろ!」
「…へぇ。薄紅。うふふ。二人とも、今度の訓練は死ぬほど扱いてあげるから覚悟しなさい?」
「「なっ!!?」」

絶望に染まるフレンと、頭を抱えるユーリ。

双子と、その弟子であるはずの男二人がぎゃーぎゃーと言い合っている光景に、
私は一気に疲れが押し寄せてきた。

(……もう、いいわ。バカばっかり)

私は一人、剣を鞘に納めると、呆然と立ち尽くす彼らを放って、
隊長へ討伐終了の報告に行くために歩き出した。

背後で「ヒ、ヒロミ! 誤解だ!」という情けない声が響いていたけれど、
一度も振り返ってあげなかった。


しかし。翌日の実地訓練でも。

「はい、そこまで! 今日の訓練は終了だ」

隊長の声が響くと同時に、私はがっくりと肩を落とした。
結局、今日の遠征で私が剣を振るったのは、最初のスライム一匹だけ。
あとは全部、左右から突っ込んできた太陽と月が、あっと言う間に片付けてしまう。

「……ねえ、二人とも。ちょっとやりすぎじゃない?」

腰に手を当てて詰め寄ると、返ってきたのは実に対照的な反応だった。

「何がだ? 危なっかしい動きしてるから、手が滑っただけだろ」

ユーリは愛刀を鞘に収めながら、そっぽを向いて鼻を鳴らす。
でも、その耳が少しだけ赤いのは、西日に照らされているせい……?

「いけないよユーリ、手が滑ったなんて。
……ごめん、君が怪我をするかもしれないと思うと、体が勝手に動いてしまって。
次はもう少し自制するよ、……善処はするけど」

フレンはフレンで、申し訳なさそうに眉を下げながらも、
私の頬に飛んでいた返り血をそっと指で拭ってくる。
その手つきが丁寧すぎて、逆に落ち着かない。

「もう! 私だって騎士団の一員なんだから、一人で戦えるわよ。
二人がそんなだと、私だけサボってるみたいに見えるじゃない」

「サボらせてんのはこっちだ。文句言うな」
「そうだよ、君は僕たちの後ろにいてくれるだけで、十分励みになるんだから」
「……はぁ。やっぱり、全然話が通じてない……」

ため息をつく私の背後で、ヒスカとシャスがクスクスと笑いながら通り過ぎていく。

「あーあ、重症ね。あの堅物フレン様が『善処する(するとは言ってない)』だもん」
「ユーリなんて、獲物を横取りする時のスピード、いつもの1.5倍は出てたよ。愛だねぇ」
「愛……? 違うでしょ、ただの負けず嫌いなだけでしょ!」

叫ぶ私を置いて、二人は「今日の夕飯、何にする?」なんて爽やかに歩き出す。
……これ、絶対に明日も同じ展開になる予感しかしない。



22

今日も今日とて鍛錬。騎士団に入った時から、これでも持った方なのか。
私自身、昔から病弱で。お義兄ちゃんたちのお陰で快復していたと油断していた。

「っ、はぁ…なんか、だるい…」

疲れも溜まっていたのだろう。朝起きた時、身体が重かった。だが鍛錬は休めない。
一度休んでしまえば、取り戻すのに三日は掛かる。ここで躓いてはいられない。
何とか根性で起き上がり、着替えて朝御飯のため食堂に向かい、ご飯を貰う。

(もぐ…もぐ…ふぅ。なんか、もう無理だ。…ごめんなさい)

だが、やはり食欲が湧かなかった。少しだけ食べて、ご馳走様をする。
作ってくれた人には申し訳ないと思いつつ、その場からのろのろと立ち上がる。
すると双子がトレーのランチを持って、私の方に来た。

「「おはよー」」
「あ。おはよう、ヒスカ、シャス」

私はだいぶ残ったトレーを持つ。双子が目見開いた。

「え、え。ヒロミ、どうしたの?いつも大食漢なのに」
「具合でも悪い?」
「そんなんじゃないよ。偶々そんな日もあるって。ま、私も女の子だし」
「え。あ…そっち?」
「まあそろそろ近いからかな。2人も毎月しんどいでしょ?じゃあまた鍛錬で」

私は内心ぎくりとするが、笑顔で取り繕う。何とか無理矢理の理由で乗り切る。
これが男子相手ならと思うと非常に気まずい。別の理由を考えねば。

(今日は男子を徹底的に無視しよう。生理で気が立っている。そうしよう)

なるべく双子の傍に居よう。
そうすれば、双子たちは気遣って虫除けしてくれるだろう。

「……ふぅ。よし」

双子の前から逃げるように食堂を出たものの、廊下の陽光がやけに眩しい。
視界の端がチカチカして、石床を踏みしめる感覚がどこかフワフワとしている。

(……まずいな。想像以上に足取りが重い)

「――ちょっと、ヒロミ! 待ってよ」

背後から駆け寄ってきたのは、案の定、ヒスカとシャスだった。
彼女たちは顔を見合わせ、隠しきれない懸念を瞳に宿している。

「やっぱり顔色が悪いよ。今日、本当は……」
「大丈夫。さっきも言ったでしょ。女子特有の『アレ』だから」

私は努めて明るい声を出す。

「気が立ってるから、もし変な男が絡んできたら追い払って。今日は誰とも喋りたくないの」

双子は一瞬、戸惑ったように眉を寄せたけれど、
すぐに軍人らしいキリッとした表情に切り替えた。

「……わかった。ヒロミがそう言うなら、今日は私たちが『盾』になる」

「男どもは指一本触れさせないから。
あんたは私たちの後ろで、適当に剣を振ってるふりしてなさい」

そう言って、二人は私の左右を固めるように歩き出す。
まるで護衛騎士を引き連れた姫君のような構図。

(ごめん、二人とも。体調が優れないってのは嘘じゃないけどね…)

鍛錬場に着くなり、
血気盛んな同僚たちが「おーい、ヒロミ! 今日こそ手合わせ…」と寄ってきそうになる。
けれど、その瞬間にヒスカが鋭い視線を飛ばし、シャスが冷たく言い放つ。

「悪いけど、今日のヒロミは『猛犬注意』よ。近づくと噛み殺されるわよ」
「絶不調で機嫌が悪いの。死にたくなかったら、半径三メートル以内には入らないことね」

男たちは「えっ、あ、ハイ……」と引き気味に退散していく。
私はその隙に、壁際に腰を下ろし、剣の手入れをするふりをして深く息を吐き出した。
冷や汗が背中を伝う。

(…まだだ。まだ、大丈夫。ほんとに限界が来たら双子に言おう…)


午前の鍛錬はいつも以上にキツイ。
まだ始めて一刻(いっとき)も経っていないというのに、
肺が焼けるように熱く、呼吸が追いつかない。

(なんだろう……今日、変だ……)

さっきから、蛇口が壊れたみたいに汗が止まらない。
額から流れた雫が目に入って沁みる。
それを拭う気力すら惜しくて、私はただ、重い剣を振るい続けた。
喉はカラカラで、唾を飲み込もうとしても、喉に張り付いて不快な音を立てるだけだ。

「はぁ、はぁ……っ、く……(きっつぅー。喉、乾いた……。今すぐ水、浴びたい……)」

視界がチカチカと白く爆ぜる。
その向こうから、親友のヒスカが血相を変えて駆け寄ってくるのが見えた。

「ちょっ、ヒロミ! 大丈夫なの!?」
「え……? ヒスカ……?」

声を出すだけで、肺の空気が全部漏れ出すような感覚。

「すっごい汗だよっ!? それに、なんか顔も…。
…真っ赤を通り越して土色っていうか……とにかく変だよ!」

「そう? 自分じゃ…よく分からなかった。いやー、あはは、さっきから喉がすごい乾いててさ」

笑って誤魔化そうとしたけれど、自分の声がどこか遠くで響いているみたいにフワフワしている。

「笑い事じゃないって! なんかやばくない!?
一旦休憩してきなよ、ほら、命令! 水飲んできて!」

「……そう、する。ごめん、すぐ戻るから」

教官の鋭い視線を盗み、私はヒスカにだけ、
こそっと断りを入れてから、逃げるように鍛錬場を後にした。
一歩踏み出すごとに、地面がスポンジのように柔らかく沈む気がする。
背後で、ヒスカが誰かに不安げに漏らした声が、熱を帯びた風に乗って聞こえてきた。

「ねえ、もしかして……。あの子、ただの生理(アレ)じゃないんじゃ……。
どうしよう、本当に大丈夫かな……」

その声を最後に、私の耳はキーンという高い耳鳴りに支配された。
冷たい水。今はただ、それだけが世界の全てだった。

さっきより身体が重い。水飲み場までが遠い。

「…っ。く」

ぐにゃ。一瞬、目の前の視界が回る。
やばっ!慌てて壁に手をついて立ち止まる。これは不味い…。
やせ我慢するべきではなかったか。今からでも本格的に休暇をとれないか?
いや。少し前に半休を取ったばかりだ。私一人抜けるだけで隊の皆に迷惑がかかる。

(どうしよう…どうしよう)

ひたすら、ぐるぐると堂々巡りだ。次第に視界も同時にぐるぐるしてきて。

その時。

「そんなとこで何してんだ?」

聞き覚えのある声が聞こえた気がした。誰だっけ?ああ彼は。

「ユ……」

振り返ろうとし、一気にぐわんと視界が反転した。

ふわりと揺れる黒い波と。
私の名前を呼ぶ声と。
鍛えられた腕と。

「…ぃ!ヒロミっ、…っか……ろ!チッ」

小さな舌打ちと。ふわりと浮かぶ。温かい。
揺ら揺らと揺れる。私はそれが心地良くて。全身を預け。

ぶつり、と。意識が黒く塗りつぶされた。



23

オレはいつものようにヒスカに扱かれていた。
しかし指導役の彼女からはどうも覇気が感じられないというか。
他に気になる事でもあるのか集中できていないようだ。

「はぁ…」
「おーいヒスカ。どこ見てんですかー?」
「え、あ!ごめん」
「おいおい。ほんとに集中出来てなかったのか」
「ごめん。ちょっと戻って来るの遅いなあって」
「え?誰が」

と。周りを見渡せば。そういや、ヒロミの姿がない。

「ヒロミは?」
「休憩にいってるよ。喉がすごく乾いたから水飲みに行ってくるって」
「ふぅん」
「はぁ…」

にしては、えらい心配そうだな。……。なんかオレまで集中出来ねえんだが。

「やーめたっ」
「え?」
「オレもちょい休憩いってくるわ」
「え、ちょ、ちょっと!」

ヒスカの止める声も無視。
どの道、指導役が集中出来ねぇんじゃ、オレだって集中出来ねぇだろ。
オレも水を飲もうと水飲み場に行く途中で。壁に凭れているヒロミの後姿を見つけた。
あと数歩のとこで、声をかける。

「そんなとこで何してんだ?」
「ユ……」

するとヒロミはゆっくりと振り返ろうとして。
オレの名を呼ぼうとしたのか、途切れ。ぐらりとその身体が傾いた。

「な…っ!危ねぇっ」

彼女の身体を引き寄せた。
あとコンマ数秒、反応が遅れていたら、頭は硬い石造りの廊下に叩き付けられていただろう。
腕の中に滑り込んできた身体は、驚くほど力なかった。

「おい……! ヒロミ、しっかりしろ! ヒロミッ!」

呼びかけながら、戦慄した。
手の平を通じて伝わってくるのは、尋常ではない肌の熱さと、じっとりと滲み出た嫌な汗の感触だ。
うわ言さえ漏らさず、ただ荒い呼吸を繰り返すだけの彼女の顔は、苦痛に歪んでいる。
首筋に顔を寄せれば、吐息が熱い。

「チッ……この熱、やばいぞ……!」

一刻も早く処置が必要だ。だが、頭をよぎった選択肢をすぐに打ち消す。
救護室は男女兼用なうえ、あそこへ行くには鍛錬場の前を横切らなきゃならない。
こんな状態のヒロミを連れて歩けば、すぐに大騒ぎになるのは目に見えている。
かといって、ヒスカを呼びに戻る時間すら惜しい。

(……なら、あそこしか)

一瞬で思考を巡らせると、抱きかかえていた彼女の身体をさらに密着させるように抱え直した。
腕の中に感じる、あまりにも細い肩のラインと、激しく脈打つ心臓の鼓動。
それを守り抜くように力を込め、人目を避ける最短ルートへと、弾かれたように走り出した。

オレはすぐに鍛錬場とは逆の騎士団寮へと向かう。
男子寮とは真向いの女子寮にオレはズカズカと入り込む。
入り口に待機している職員に呼び止められるが、規則など今はクソ食らえだ。

「ヒロミの部屋を教えやがれ!!早く寝かさねぇとやべえぞ!!!」

オレの怒鳴り声と、ヒロミの様子に一瞬で判断したのか職員は場所を教える。

そして、ついでだ。
双子の名を告げて、救護班の女子も連れ来れるようなら連れてくるように言う。

職員は頷いて慌てて出て行った。
オレはヒロミの自室前まで来ると、そのままドアを蹴り開ける。

すぐにヒロミを寝台に寝かせ、鎧や剣など装備を外し、
襟元をくつろがせるが、まだ苦しそうだ。

「はぁ…はぁ…う、くっ」

…胸を圧迫しているのかもしれない。
オレはすぐにヒロミの背中に腕を回し入れ、下着の留め具を外す。
後でバレてぶん殴られようが構うもんか。今は緊急事態だ。
やっと胸の圧迫がなくなったのか、呼吸が一定になるがまだ熱が高い。

こんなになるまで何故放って置いた?
部屋を見渡し、寝台の横にあるチェストに気付く。
ヒロミのこの症状、普通の風邪じゃない。
この熱の高さ、何か原因があるはずだ。

半ば導かれるようにチェストの一番上を開けると、
同じ種類の薬が個包装され入っていた。

「ビンゴ」

ヒロミは何かの持病を抱えているのか?
気にはなるが早く飲ませないと。

個包装された1つを取り、
オレは部屋に備え付けられている水差しとカップに手を伸ばす。

…と。そこで気づいた。
ヒロミ、意識がねえじゃねえか。チッ、どうやって飲ませんだよ。

「…は。あつ、い…っ。ぅ。う」
「くそ。もうどうなっても知るかよ。怒んじゃねぇぞ」

オレは水を口に含むと、ヒロミを少し起こし、首裏を支えて口付ける。
ヒロミがピクリと反応したが、やはり意識は戻らない。
それでも少しずつ水を流し込んでいく。

「…ぅ、っん」

すごい汗をかいているし、喉も乾いているともヒスカは言っていた。
負担の掛けないよう角度を調整して舌を使ってヒロミの口をこじ開ける。
上手く飲み込めないのか、口の端から水が伝い落ちる。

「っ、はぁ。おいもっと口開けろよ」
「…ぁ、」

流れ落ちた水が胸元まで届こうとして、オレは袖で拭う。
冷たい温度にヒロミは驚いたのか、さっきよりも口を開いた。
よし、もう1度だ。水を口に含んで彼女の顎を持って口付ける。

「…う、んっ、んく」

最初は苦しそうに飲んでいたが、徐々に慣れてきたのか。
少しずつ嚥下するようになってきた。2回、3回、と続けて。

「これなら薬も飲めるな、よし」

個包装の袋を開けて錠剤をヒロミの口に放り込む。
そしてまた少し水を含んで口付ける。

「…っ、んっ。んぁっ」
「っ!?(待てっ、錠剤を吐き出すんじゃねえ!)」

固い異物を無意識に拒んでいるのかもしれない。
オレは慌てて舌を使ってヒロミの口内の錠剤を奥へと押し込む。

「ん!んうぅっ!」
「っ、(頼む。飲み込んでくれ!)」

半ばヒロミを抱きしめる形で、角度を変えて調節してやる。

「んっ、んくっ。ぁ…っ」
「っ、はぁ…っ」

ごくんっと彼女が嚥下した。嵐が過ぎ去ったようだ。
オレは一息ついて、唇を離そうとしたら。

「ん…っ」
「お、おいっ。んっ」

無意識に冷たさを求めていたのか。低い体温を本能で求めているのか。
身体が熱いヒロミの方からオレに絡みついてきた。
意識がないのにオレに縋るかのように舌が絡み動き回る。

(待て!これ以上煽るんじゃねぇっ)

「んっ。んぅ、はぁ、んん」
「はっ、ふっ、んっ」

健気で小さい舌が懸命にオレに縋ってくる。
何故かオレは応えてやりたくなり絡み返す。

(しょうがねえな。今回限りだからな。ったく、病人に何やってんだオレは)

憎からず想っている相手から縋られて、据え膳食えぬ男がいるか?
居ねえわな。気のすむまで付き合ってやるよ。

(…熱いな。痺れちまいそうだ。まるでこいつを抱いてるみたいに…)

と。少し絡んでいたら。
バタバタと駆け寄ってくる足音と気配に。タイムリミットか、と口を離す。
そっと寝かせ、前髪をかき上げる。…まだ高いな。
が、さっきよりはちょい下がったか?すげえ即効性だな。

ヒスカと救護班の女子か。すぐにやって来た。

「ユーリ!ヒロミは大丈夫!?」
「ヒスカ。ギリ間に合った。あのままだったら危なかったぜ。今は薬が効いてる」
「え。もう飲ませたの?はーさっすがユーリ。今回は大手柄だよ」
「悪いけど後は頼んだ。ただでさえ規則破っちまったからな」
「ああ、それは大丈夫。寮監が隊長に説明してたから。今回は目を瞑るって」
「そりゃどうも。じゃあオレはもう行くんで」
「うん。ありがと。あとはシャスに鍛えてもらってて」

ほーい、と返事を返し。さっさと女子寮を出る。

鍛錬場に戻り、オレはシャスティルに話しかける。

「シャスティル。抜けてすまん」
「あ、ユーリ。ヒスカが隊長に呼ばれてったけど何かあったの?」
「あー。騒ぎにしたくないんで」

手で、ちょいちょいっと。寄って来いと示す。
するとシャスティルだけでなく、フレンも寄ってきた。まあいいか。
オレはシャスティルにこそっと漏らす。

「ヒロミが高熱で倒れたんで」
「えっ」
「なっ!?」
「シィーッ!静かに頼む」

オレが再度示すと2人は何とか抑え、シャスティルが顎で次を促す。

「今、ヒスカと救護班の女子が女子寮に居る」
「そう。分かったわ」
「(まさか幼い頃の病弱が…?) ユーリ。ヒロミは…?」
「ちょっと落ち着きなさいよ。フレン」
「まだ熱がちょい高いが薬は効いてるさ」
「そ、そうか…。はぁ~~~」

フレンは心底安堵したのか肩の力を抜いた。

「悪いな。フレン」
「え?」
「いや何でもない」

言えるかよ。ヒロミのファーストキス奪っちまったかもしれねえ、とかさ。
なんだか抜け駆けしたような気分になったから一応謝っただけだ。

「……何よ、その微妙な顔」

謝罪に対して、シャスティルが怪しむような視線を向けてくる。
フレンは「??」と首を傾げているが、シャスティルは勘が鋭い。

「いや、なんでもないって。…それより、二人は訓練に戻れよ。
ヒスカが戻るまで、俺がこっちの穴埋めしとくからさ」

内心の動揺を隠すように、剣を構え直した。

「ユーリ、顔赤いぞ? お前まで熱でもあるんじゃないのか?」
「……うるせえ、フレン! 気合が入ってるだけだ。ほら、さっさと構えろ!」

目の前のフレンに打ち込みを始めた。



24

午前の鍛錬が始まって少し経ったとき。ユーリが休憩と言って抜けてしまった。
普段のヒスカ先輩なら直ぐ止めるのに、彼女は上の空というか見逃してしまった。

「うーん大丈夫かな…」
「ちょっとヒスカ。何ボケッとしてるの」
「あ。うん…」
「ヒスカ先輩??」

僕は首を傾げた。本当に様子が変だ。その時、慌てる足音が聞こえてきた。
鍛錬場に入ってきた女性は、すぐにナイレン隊長を見つけると駆け寄った。

「ん?女子寮監?なんでここに…?」
「あれ。ホントだ」

双子先輩の声に僕はさらに首を傾げた。何かあったのだろうか?
隊長と女子寮艦は2人で一・二言話して、すぐにヒスカ先輩が呼ばれた。
彼女はすぐに駆け寄り、何かを知らされている。
するとヒスカ先輩は「はいぃ!?」と飛び上がって驚いていた。

「は、はい!すぐ行ってきますっ!!」
「頼んだからな」

ヒスカ先輩は女子寮艦と共に駆け足で出て行った。
その方角は救護室だな。誰か怪我でもしたのか?
すると直ぐに鍛錬場の入り口を横切った。誰か一人増えていた。

(なんだか胸騒ぎがする…なにかあったのか?)

僕はシャスティル先輩に指導されながらも、いまいち集中できなかった。
ユーリは相変わらず戻ってこないし。何やってるんだ。

刻が少し経ち。今度はユーリが戻ってきた。
若干の疲れというか…顔が少し火照ってないか?

ユーリは周りを見渡し、ちょいちょいと、こっち来いと促す。
シャスティル先輩と僕はそっと寄り、耳を傾ける。
するとユーリは、僕の平穏を木端微塵に砕くような爆弾を落とした。

「ヒロミが高熱で倒れたんでね」
「なっ……!?」

心臓が跳ね上がり、喉の奥が引き攣る。

まさか、という思いで慌てて周囲を見渡したが、
そこにいるはずの、僕を安心させてくれるいつもの笑顔はどこにもなかった。

「……静かに。騒いでも熱は下がらないわよ」

冷徹なほど落ち着いたシャスティル先輩の声に射貫かれ、僕は辛うじて声を飲み込む。
だが、胃の底を冷たい手で掴まれたような感覚は消えない。
つい数日前、ヒロミが打ち明けてくれた言葉が、呪いのように耳に蘇る。

『これでも昔は病弱でさ、寝込んでばかりだったんだよ』

(もし、あのまま……)

最悪の想像が頭をもたげる。

「ユーリ……っ、ヒロミは!? 今どこに、容体は……」
「ちょっと落ち着きなさいよ、フレン」

詰め寄る僕の肩を、シャスティル先輩が呆れたように、けれど強く押し留めた。

「まだ熱がちょい高いが、薬は効いてる。今は泥のように眠ってるわ」
「そ、そうか……。はぁ~~~……っ」

膝から力が抜け、僕はその場に崩れ落ちそうになった。
薬。そうだ、薬だ。ヒロミは自分で備えをしていたんだ。
その事実だけに、僕は蜘蛛の糸にすがるような思いで安堵した。

(良かった……本当によかった……)

震える指先を組み、必死に呼吸を整える。
あの日、必死に呼びかけても二度と目を開けなかった、冷たくなっていく母さんのようにならなくて。
薬一つ、医者一人呼べなかったあの無力な夜の繰り返しにならなくて、本当に……。

「悪いな。フレン」
「え?」
「いや何でもない」

ただ、気になったのは。ユーリが僕を見て謝ってきた事だ。


午前の厳しい鍛錬が終わると同時、
僕は昼食の列には並ばず、真っ先に騎士団本部を飛び出した。

空腹なんて感じない。
喉の奥が焼けるような焦燥感と、ある一つの目的が僕を突き動かしていた。
目指すは下町の賑わいの中にある、かつてヒロミと二人で訪れた、あの小さな花屋だ。

「っ、こんにちは。おばさんっ、はぁはぁ……っ!」

勢いよく飛び込んだ僕に、店先にいたおばさんが目を丸くする。

「おや?フレンじゃないかい!どうしたんだね、そんなに肩を上下させて。こんな時間に」
「あの、あの花をください!……今ある分、できるだけ多く……っ」
「あの花? ああ! はいはい。……“あの花”ね」

おばさんは僕の必死な形相を見て、すぐに何かを察してくれたようだ。
僕は膝に手をつき、全速力で飛ばしてきた肺を鎮めるのに精一杯だった。
店内に漂う土の香りと花の甘い匂いが、少しだけ昂った神経を落ち着かせてくれる。

「それにしてもフレン。急にどうしたんだい?
男の子がそんなに血相を変えて、この花を欲しがるなんて」

おばさんはテキパキと、しかし慈しむような手つきで、
鮮やかな大輪の花を一本、また一本と束ねていく。

「ヒロミに、元気になってほしくて……。僕から、贈りたいんです」

「そぉかい。フレンにとって特別な花をねぇ。
あの子には早く元気になってもらわなきゃ、この街も寂しくなるからねえ」
「はい……」

まさかヒロミが倒れた、なんて口が裂けても言えない。
僕は「彼女が少し落ち込んでいる」と勘違いしているおばさんに、
心の中で深く「すみません」と謝った。

「良し。出来たよ、フレン。さぁ、精一杯の顔でヒロミに渡してきな」
「はい! ありがとうございます!」

差し出されたのは、腕いっぱいに広がる豪華な花束だった。
薄紙に包まれていても隠しきれない、溢れんばかりの色と生命力。さすがおばさんだ。
僕は渡された大輪の花束を、壊れ物を扱うように大事に、けれど力強く抱えた。

代金を支払い、店を出る。
再び走り出した僕の視界には、腕の中の花が揺れている。
その花の香りは、まるであの時のヒロミの笑顔そのもののように、鼻腔をくすぐった。

「待ってて、ヒロミ……っ!」

僕は再び、街の石畳を全力で蹴り上げた。

僕にとって特別な花。
これを特別な人に贈る意味。
決まっているじゃないか。元気になってほしいんだ。

――早く。よくなりますように。
――よしよし。元気になぁれ。

――わたしの元気、あげるね。(ちゅ) …これで、元気いっぱい!

この前まで忘れていた。朧気ながらも留めていたもの。
元気になぁれ。ヒロミの言葉で思い出したんだ。

ヒロミに撫でられた温かい手を。
ヒロミからもらった可愛い口付けを。

(僕のファーストキスはヒロミ。初恋も。そして僕はまたヒロミに恋したんだ)

僕の母さんに祈ってくれて。お花を供えてくれて。…本当に嬉しかったんだ。
だから。今度は君に贈らせてくれ。ヒロミへの口付けの替わりに花束に口付けて。

あの日、幼い君が僕にかけてくれた優しい言葉。
子供っぽくて、でも何よりも心に染み渡ったあの温かさが、今の僕を動かしている。

母さんに花を供えてくれた君の優しい眼差しを見たとき、
僕の中で大切な何かが蘇ったんだ。
君が僕の家族に温かい心を向けてくれたように、今度は僕が、君のすべてを支えたい。

この花束の一輪一輪に、あの時の君の温もりを、
優しく触れてくれた手のひらの温かさを込めたよ。

本当なら、あの時のように直接、心を込めて伝えたい言葉があるけれど…。
今はその代わりに、この花びらの一枚一枚に僕の祈りを閉じ込めた。

『元気になぁれ』

これは、僕から君への、大切な想いの証。受け取ってくれるかな。
君が笑顔を取り戻すまで、僕は何度でも、この温かい気持ちを贈り続けるよ。


女子寮に着いて、息を整えていたら。
ちょうどヒスカ先輩が出てきたところだった。ご飯でも食べに出てきたのだろう。

「はぁはぁ。あ…!ヒスカ先輩っ」
「ん?フレン…って何そのすごい花束!!?」
「こ、これっ。ヒロミのお見舞いに!僕は女子寮に入れないから」
「ふぇ~。マジですか。うん分かった。
ヒロミ、目ぇ覚ましたら吃驚するよ。フレンは御飯食べてきなよ」

ヒスカ先輩は渡された花束を大事そうに抱え、来た道を戻っていった。

(早く。ヒロミがよくなりますように)

僕が御飯にあり付けたのは休憩時間も残り10分有るか無いかだった。
急いで御飯を掻っ込み鍛錬場に戻ると、何故かユーリも息を切らして戻ってきた。
…?ユーリもどっか行っていたのか?



25

昼休みになり、フレンは忽然と消えていた。あいつ、どこに行った?
オレは仕方なく一人で食事をしながら考えていた。彼女の事を。

(しっかし。目の前でぶっ倒れたのには驚いたぜ。久々に肝冷やした)

まさか隊一の脚力のヒロミがである。
いつも縦横無尽に駆け回るイメージがあるから人よりも一倍元気だと思っていた。
しかし現実は斜め上で。受け止めた時の儚さと、体重の軽さに驚いた。
あんなにも、たくさん食べるヒロミが倒れるなんて誰が思うだろうか?

(ったく。これじゃあ気になって午後の鍛錬も集中できるかよ)

オレは内心溜息をついて、さてどうするかと考え。
目の前の飯に視線を移し、ピンと閃いた。…これだ!

オレは直ぐに飯を掻っ込み立ち上がった。
急がないと休憩時間が終わっちまう。残り時間は…ああ何とかなりそうだ。

オレは外へと飛び出し全速力で食材屋へ。必要な材料を揃えて買い、すぐに戻る。
厨房の人に事情を話すと「仕事の邪魔をしないようなら」と承り、材料を預かってくれた。
オレはサンキュと返し、急いで鍛錬場に戻る。ホントにギリギリだった。
何故かフレンも息を切らしていて。

「そういや、おまえもどこに行ってたんだ?」
「え!?(ギクッ) いや。気分転換だよ。ユーリこそ、どうしたんだ息切らせて」
「オレは食材を買いにな。食いたいもんがあったんで。…ん?フレン、いい匂いだな」
「えっ。そ、そうかい?ちょっと花屋に行ってたから」
「ふぅん。花屋にねえ」
「僕が花屋に行ったら変かい?」
「いーや。別に」

別に変じゃないが。そんな息を切らせてまで気分転換?よく分からんな。
その時ヒスカも慌てて鍛錬場に戻ってきた。

「ごめーん。ユーリ、お待たせー」
「ヒスカ、遅いっ」
「これでも急いでたんだってばぁ」

ぜえぜえ、と息切れしている。全速力できたのか。なんか皆、忙しないな。
その時、ヒスカから覚えのある香りが漂ってきた。

「ん?ヒスカも花屋に行ってきたのか」
「へ?ああ、これは」
「ヒスカ先輩っ」
「もう~恥ずかしがっちゃって。私も花屋に行ってきたの。フレンとバッタリ会ってさ」
「(ヒスカ先輩ありがとう!) そうなんだよ。バッタリ会ったんだ」
「ふぅ~ん?」

うんうん、とフレンが力強く頷いてくる。おまえ何で恥ずかしがってんだ?


午後の鍛錬が終わるや否や。オレは飯と風呂を急いで済ませる。
急いで厨房へと往くと、中の人は洗い物で、てんてこ舞いであった。
オレは厨房を貸してもらう代わりに「手伝います」と申し出ると。

「いいのかい?助かるよ。ユーリくん」
「厨房を貸してもらうんで。このくらいはな」
「はは。事情が事情だもんなぁ。さぁ早く済ませよう」
「おう」

それは有難いことで。オレは慣れた手付きでサッサと済ませていく。
30分もしないうちに洗い終わり。中の人はしまってあった材料を渡してくれる。

「はい、ユーリくん。今日はありがとうね。これは手伝うのは野暮だね?^^」
「おうよ。オレ様のお手製だ。察してくれよな」
「はっはっはっ。あまり遅くならんようにな」
「分かってますって」

中の人は早く帰れるのか機嫌がいい。オレは見送って、厨房に一人残った。
静まり返った厨房。換気扇の回る音だけが、やけに大きく聞こえる。
オレは手早く髪を一つに結い上げると、まな板の前に立った。
作るのは、オレの記憶の奥底に、一番古くから根を張っている料理。
懐かしく、そして何より、今のヒロミに一番必要な「優しい味」だ。

―― もう。無茶しちゃダメよ?

包丁を握ると、不思議とその声が耳元で響く気がした。

―― せっかく元気に生まれてきて、健康なのだから、丈夫な体に感謝しなくちゃ
―― 誰でも健康でいられるとは限らないの

オレを暴漢から助けてくれ、泥だらけの傷口を拭ってくれた優しい掌。
あの時、冷え切った体に染み渡ったのは、飾らない、素朴な味付けだった。
正直、その人の顔はもう朧気で思い出せないけれど。
鍋から立ち上ったあの湯気の匂いと、口の中に広がった甘みだけは、指先が覚えている。

人参、玉ねぎ、キャベツ。
これらを、ヒロミが無理なく飲み込めるよう、いつもよりさらに細かく、丁寧に刻んでいく。

トントン、と小気味よい音が無人の厨房に響くたびに、
ざわついていたオレの心も凪いでいくのが分かった。

鍋を火にかけ、少量の油を引く。野菜を入れ、パラリと塩を振る。
ここで焦ってはダメだ。野菜の「汗」を出すように、じっくりと炒めていく。
蓋をして、弱火で5分。
蒸された野菜から溢れ出た甘みが、ギュッと凝縮されるのを待つ。
水を鍋半分ほど注ぎ、さらに10分煮込む。
野菜の角が取れ、スープに溶け込む寸前。
仕上げに、真っ白なミルクをゆっくりと投入する。
静かにかき混ぜると、黄金色だったスープが柔らかなクリーム色へと変わっていった。
最後に少しだけ煮込んで、出来上がりだ。

「味見……っと。ん。……完璧だ。俺って天才か♪」

我ながら、あの日食べた味に驚くほど似ていた。
これなら、今のヒロミもきっと「美味しい」と思えるはずだ。
大きめの器によそい、逃げないように蓋を被せる。
蓮華を添えて、トレーの上へ。
使い終わった道具をピカピカに磨き上げ、元あった場所へ戻す。

後片付けを終えて厨房の明かりを落とすと、
手元のトレーから、温かなミルクの香りがふわりと鼻をくすぐった。

「待ってろよ、ヒロミ」

オレは誰に言うでもなく呟くと、夜風の吹き抜ける廊下を、女子寮に向かって歩き出した。

「すんませーん。寮監さーん?」

女子寮の重い扉を叩くと、奥から慌てたような足音が近づいてくる。

「はい?……あっ、きみは!」
「午前はどうも。ヒロミに夕飯の届け物っす」

差し出したバスケットの中身を見た寮監さんが、驚いたように目を丸くした。

「これは……きみが作ったの?」

「ま、そんなとこっす。ヒロミ、結局食堂に来れなかったでしょ。今、あいつの様子はどうすか?」

「だいぶ熱は下がったわ。少し起き上がれるようにもなったのよ。
本当に、あなたの素早い判断が彼女を救ったわ。よく気づいてくれたわね、ありがとう」

寮監さんの安堵したような笑顔に、少しだけ照れくさくなって視線を逸らす。

「……これ、野菜スープ。冷めないうちにヒロミに食わせてやってください」
「あら。いい香りね……さては、料理はかなり得意でしょう?」
「やー、それほどでも……ありますがね」

得意げに鼻をこすってみせると、寮監さんは「ふふふ」と声を立てて笑った。

「不思議な子ね。見た目はアウトローっぽいのに、案外、お母さん役が似合うのかしら」
「おいおい、勘弁してくださいよ」

寮監さんは大切そうにスープの容器を受け取ると、改めて居住まいを正した。

「本当に助かったわ。……最後にお名前を伺ってもいいかしら?」
「ユーリ・ローウェル」
「ユーリね、確かに承ったわ。さあ、もう戻りなさい。今日はお疲れ様」
「っす」

軽く手を挙げて応え、夜の冷気が混じり始めた廊下を歩き出す。
背後で閉まる扉の音を聞きながら、ユーリはふと夜空を見上げた。

(……これで、少しは快復してくれるといいんだがな)

自分の手の中に残る温もりを振り払うように、
ユーリはポケットに手を突っ込み、足早に自分の寮へと向かった。


男子寮に戻ると、フレンがちょうど廊下にいた。

風呂上がりなのだろう、石鹸の淡い香りが廊下に漂い、
湿った金髪が照明を反射していつもより柔らかそうに見える。

「あれ?ユーリじゃないか。……珍しいな、ポニテしてるなんて」

フレンが足を止め、まじまじとこちらを覗き込んできた。
その真っ直ぐな視線が少し気恥ずかしくて、オレはぶっきらぼうに返す。

「あ。忘れてた。まーそんな気分の時もあらーな」

首筋にまとわりつく感触を振り払うように、
オレはすぐに結紐を引っ張り、スルスルと解いてしまう。
指の間をこぼれ落ちる髪の重みを感じていると、隣でフレンが小さく溜息をついた。

「あ~あ、もったいない」
「何がもったいないんだ。何が」
「そんな風に髪を上げていると、ユーリがあどけなく見える絶好の機会だからね」

フレンはいたずらっぽく、それでいて慈しむような、柄にもない笑みを浮かべる。

「てめぇ……。オレに喧嘩売ってんのか。ああん?」
「やだなぁ。素直に褒めてるんだよ」

調子が狂うっつーの。

「やっぱやるもんじゃねえな、これ」

オレは解いた結紐を指先に絡めてひらひらと揺らし、
苦笑するフレンと共に自室へ続く歩みを再開した。

今日は本当に、一騒動な1日だった。
閉まったドアの向こう、静まり返った部屋の空気を感じながら、オレは心の中で呟く。

(……早く元気になれよ。な?)



26

「ね、ヒロミ。もう起き上がって大丈夫そう?」

ヒスカの声に、ぼんやりしていた意識がゆっくりと現実に戻ってくる。

「うん。ヒスカ、シャス。身体拭くの手伝ってくれてありがとう」
「いいんだよ。お風呂入れないのはつらいでしょ。少しでも早く快復できるといいね」

シャスが濡れタオルを片付けながら、甲斐甲斐しく笑いかけてくれる。
二人の気遣いが身に染みた。

「大丈夫だよ。薬のお陰でだいぶ下がったし。…でも、食堂行く時間、過ぎちゃったね」

お腹は空いているはずなのに、不思議と食欲よりも、
胸の奥が何かに満たされているような感覚があった。

ふと視線を動かすと、質素な寮の部屋には不釣り合いなほど、
一際鮮やかな一角が目に飛び込んでくる。

窓辺に、大輪の花が誇らしげに花弁を広げていた。

(この花……絶対フレンだよね。まさか、あんなにすぐに届けてくれるなんて)

目が覚めた瞬間、部屋に満ちていたのは、微睡みを誘うような甘く清涼な香りだった。
それは、かつて私が彼に同じ花を贈った時の記憶を呼び覚ます。

――『元気になぁれ』

幼い頃、彼に笑って言った、他愛もない言葉。

(つまり。そういう事なの……? フレン)

「早く治せ」の言葉を添える代わりに、彼はこの花を選んだのだ。
私が彼に掛けた「おまじない」を、今度は彼が私に掛け返してくれている。

(……ずるいよ、フレン。そんなの、覚えてるに決まってるじゃない)

再会してからの彼の、どこか素っ気なくて、でも時折見せる射抜くような眼差しを思い出す。
あんな風に成長した彼が、子供時代の幼い約束を、こんなに真っ直ぐな形で返してくるなんて。
彼の不器用な優しさと、思い出を大切に抱えていた事実に、胸の奥がぎゅっと掴まれる。
熱が引いたばかりの頬が、さっきまでとは違う種類の熱を帯びていく。

嬉しさと、気恥ずかしさと、どうしようもない愛おしさ。
私は布団を引き上げると、顔をうずめ、彼が贈ってくれた香りを思い切り吸い込んだ。

その時。ぐぅ。とお腹の虫が鳴ってしまう。
そう言えば食いっぱぐれたのだったわ。

「あちゃー食堂閉まっちゃってる時間だわ」
「今夜は我慢するしかないよね…」

私が溜息ついた時。コンコン、とノックする音が。

「はーい?」

ヒスカが私の代わりに出てくれ、ドアを開ける。
するといい香りが向こうから漂ってくるではないか…!

「え!寮監。どうしたんですか?こんな時間に」
「これ。貴女に届け物ですって。冷めないうちに食べてくれですって」
「え、え、すっごい良い匂い!!どうしたんですか、これ」
「うふふ。貴女を心配した人が作ってくれたのよ。さ、食べなさい」
「いったい誰なんですか?」

寮監はヒスカにトレーを渡し、こそっと教える。

「ええ!!?うっそぉ~!?」
「ふふ。彼は本当に気遣いのできる子ね」
「マジか…。まあいいや。とりあえず良かったね、ヒロミ。食いっぱぐれなくて」

ヒスカは弾んだ足取りで私にトレーを差し出し、期待に満ちた顔でその蓋を開けた。
瞬間、白い湯気がふわっと舞い上がり、ミルクの甘い香りと野菜の優しい匂いが鼻をくすぐる。

「うわぁ~、意外……!」
「ミルクの野菜スープだ……」
「お、美味しそうっ!」
「こらヒスカ。貴女はさっき食べたばかりでしょう」

身を乗り出すヒスカを、寮監が苦笑いしながら嗜める。

「えへへ。だって、本当においしそうなんだもん~」

私は陶器の蓮華を手に取り、琥珀色の脂が少しだけ浮いた白いスープをそっと掬った。
口元に運ぶと、柔らかな熱気が顔を包み込む。

「(……美味しい!)」

口の中に広がったのは、野菜の旨味が溶け出した濃厚なミルクのコク。
じっくりと煮込まれた玉ねぎの甘みが、弱った体に染み渡っていく。

「美味しい……! これなら、全部食べられそうだよ」
「良かったわね。じゃあ私はもう行くから」
「あ、ありがとうございます」
「礼は“彼”に言いなさいな」

寮監は含みのある微笑みを浮かべると、「お大事に」と言い残して部屋を去っていった。

「彼……?」

聞き慣れない言葉に蓮華を止めると、ヒスカが私の背中を軽く叩いた。

「まあまあ。とりあえず食べちゃいなよ、冷めちゃうよ!」
「あ、うん。……ぱく、もごもご。ん、ごくん。……はぁー、なんだか懐かしい味がする」
「ヒロミ、すっごく幸せそうな顔しちゃって」

ヒスカに揶揄われて、頬が少し熱くなる。けれどスプーンを止めることはできなかった。

「だって本当に美味しいんだもん。……もぐもぐ。
野菜も、舌で潰せちゃうくらい柔らかい……ん、ごくん」

一口運ぶごとに、冷え切っていたお腹の底からじんわりと体温が戻ってくるのを感じる。
夢中で食べ進める私を見て、ヒスカは満足げに目を細めた。

「ヒロミ、すっごい食欲! いつもの大食漢の復活だね」
「良かったわ。これなら明後日には復帰できそうね」
「え、明日でも大丈夫よ~!」
「こら。一度倒れたんだから、無理は禁物よ」
「えーっ」

不満げに声を上げる私に、ヒスカは少し真面目な顔をして私の手を握った。

「ヒロミは私たちの隊にとって、欠かせない貴重な戦力なんだから。
しっかり万全にしなさい、わかった?」

「……はぁい」

温かいスープと、友人の温かい言葉。
私は少しだけ照れくさくなって、最後の一口を大切に口に運んだ。

シャスティルに窘められ、私は返事をする。
しかし、この野菜スープを作ってくれたのは誰なのだろう?
明日、ヒスカに訊いてみよっと。



27

翌日。
私を窮地から救ってくれたのがユーリだと判明し、思考が一瞬、真っ白になった。

そして、昨日喉を通したあの夕御飯
――滋味深く、体中を優しく包み込んでくれたミルク野菜スープを作ってくれたのも、彼だと教えられて。

(……そんなの、反則だよ)

ぶっきらぼうで、冷淡にさえ見えた彼の指先が、
私のために野菜を細かく刻み、火加減を気にしながら鍋をかき混ぜてくれた。
その情景を想像するだけで、視界がじんわりと熱くなる。
スープの「優しい味付け」は、言葉にならない彼の祈りそのものだった。
私の冷え切った内側に、彼の繊細な真心が染み渡っていく。

――「元気になぁれ」と、生命力に満ちた眩い光を放つ、太陽のような大輪の花束。
――「早く快復しろ」と、静かな月光のように心に寄り添う、穏やかなスープ。

動と静。光と影。

対照的な二人の熱に同時に晒されて、
私の心臓は今まで経験したことのないほど激しく、壊れそうな音を立てていた。

(なんだろう、これ。どうして……こんなの、嘘でしょ?)

認めたくなかった。
けれど、胸の奥で暴れるこの感情にどう名前を付ければいいのか分からなかった。
今まで経験したことのない、戸惑いと切なさが同時に押し寄せる感覚。
しかも、それが二人に対して同時に芽生えていることに、自分自身の感情が理解できなかった。
私って、こんなに優柔不断で、自分の気持ちさえ分からない女だったの?
自分のあまりの混乱に、めまいがする。

(どうしよう……こんなこと、彼らにバレたらきっと誤解される。絶対に、知られてはいけない)

だって、彼らはかつて、たった一つの大切なものを二人で分かち合い、
共有して生きてきたのだから。

もし私がこの理解できない感情のまま二人に接してしまえば。
彼らの間に築かれた唯一無二の絆を、私がかき乱し、壊してしまうかもしれない。
それは、死ぬよりも恐ろしいことだった。

「…どう、しよう。どうすれば…」

(2人を傷付けたくない)

私は、生まれたばかりの、まだ名前の付けられないこの感情を、
心の最深部にある冷たい場所に閉じ込めることにした。
それはまるで、触れてはいけない秘密の箱に鍵をかけるようなものだった。
その鍵をどこか遠い場所へ投げ捨てる。

ときめきなのか、戸惑いなのか、熱なのか。
すべては、私だけが知る「秘密」として。
彼らの前では、これまで通り「守られるべき友人」の仮面を被り続ける。
たとえ、この鍵をかけた胸の奥が、熱くて苦しくて張り裂けそうになったとしても。


けれど。どうしても彼らの前に来ると私は普通ではいられなかった。
体調不良も快復し、彼らにお礼を言おうとして。

「あ、あのね……ユーリ、フレン」

声を絞り出すだけで精一杯だった。二人の視線が同時に私に注がれる。
ユーリの少し面白がっているような瞳と、フレンのどこまでも真っ直ぐで優しい瞳。
それが重なった瞬間、私の語彙力はどこかへ吹き飛んでしまった。

「ん?なんだ、ヒロミ」
「ヒロミ、どうしたんだい? まだ顔が赤いようだけど……体調が悪いのか?」

フレンが心配そうに顔を覗き込んでくる。近すぎる。

「え、えと。その……」

指先が震え、靴の先で地面を無意味になぞる。言いたいことは山ほどあった。
間接的に看病してくれたこと、心細かった時に気持ちをくれたこと。
でも、喉の奥がキュッと締まって、熱い塊が邪魔をして、言葉が形にならない。

「そ、その……心配、かけてごめんね。なんかいろいろ、ありがとっ(///)」

最後の方はほとんど消え入りそうな声だった。
けれど、言い切った瞬間に顔が沸騰したような感覚に襲われる。

「じゃっ!」

返事を聞く勇気なんて、これっぽっちも残っていない。私は脱兎のごとくその場を蹴った。
背後で、二人が呆然と立ち尽くしている気配を感じながら。



彼女が去った後、残されたのは静けさと、少しだけ張り詰めた空気だった。
お礼を言われたばかりなのに、言葉にならない感情が胸に広がっていく。

「…助かってよかったな」

オレは、精一杯平静を装って言った。
横目でフレンを見れば、彼はまだヒロミが立っていた場所をじっと見つめている。
その横顔には、どこか呆然としたような表情が浮かんでいた。

「ああ…うん。そうだね」

フレンの返事は、心ここにあらずといった様子だ。
何かを考えているようだが、その思考がどこへ向かっているのかは分からない。

「行こうぜ。いつまでもここに突っ立ってたら、怪しまれるだろ」

オレは、自分の動揺を悟られないように、少し強引にフレンの肩に手を置いた。
フレンは少しだけ反応し、ゆっくりとオレの方を向いた。

「…そうだね。行こう」

二人の間に再び沈黙が訪れる。言葉にせずとも、
お互いに何かを感じ取っているような、そんな感覚があった。
彼女の存在が、確かに二人の間に何かを残していった。



「せいッ! はぁッ! とぉッ!」

病み上がりの青白い顔とは裏腹に、私の動きはこれまでにないほどキレていた。
いや、キレすぎていた。
突きを出すたびに、病床で蓄積された鬱憤が火花となって散るようだ。

「ちょ、ちょっと。どうしたの、ヒロミっ。
その動き、もはや演舞っていうより荒ぶる神の踊りよ!」

ヒスカが、飛んできた汗を避けるように半歩下がる。

「そうよ、病み上がりなんだから飛ばし過ぎるのはダメよ。
心臓がびっくりして、また寝込むことになったらどうするの?」

シャスがもっともな正論を投げるが、今の私の耳には「心地よいBGM」程度にしか届かない。

「だ、だってだってぇ! ヒスカぁ~シャスぅ~助けてぇ~っ!」

私は鍛錬を中断するやいなや、膝から崩れ落ちるのではなく、
スライディング気味に二人の足元へ滑り込んだ。

「うわっ、危ない!」
「……重い。ヒロミ、本当に病人? 筋力、前より上がってない?」

二人の裾をぎゅっと握りしめ、私は地面に顔を伏せたまま叫ぶ。

「この…この、体の中から湧き上がってくる『何か』をどうにかして!
じっとしてると、そのまま宇宙まで飛んでいっちゃいそうなの!
暴れたい、でも倒れたくない! 叫びたい、でも喉はまだちょっと痛い!
この矛盾したエネルギーをどこにぶつければいいのよぉ!」

「……ああ、これがいわゆる『回復期の全能感』ってやつね」

ヒスカがやれやれと肩をすくめる。

「いいわ。私たちが、
あなたのその暴走特急みたいな気持ちの『終着』を一緒に考えてあげるから」

シャスが冷たい手で私の額をピトッと押さえた。

「まずは、その熱すぎる頭を冷やすのが先決みたいだけど」

とりあえず、鍛練終わったら双子に相談しょう。この出口のない気持ちの往き先を。



28

食事と風呂を済ませ。双子を自室に呼んで相談する。
ユーリとフレンへの初恋を持て余している、と。

「え、ええ!?あの2人同時に!?」
「これはこれは。予想外の展開だわ」
「もう…どうしたらいいか分からない!あの2人に嫌われたくない。バレたくないっ」

私は頭を抱えベッドにドサッと座り込む。
双子はお互いを見て、うんと頷き私に向き直る。

「これは重症だね…」
「しかも初恋ねぇ…」

それは悩むよね、と。双子も首を傾るが。

「でも、しょうがないじゃん?弱ってる時にさらに優しくされたら。ね?」
「しかも普段はぶっきら棒なくせに、ここぞって時にギャップを向けられたらね」
「だから。どうしたらいいの。助けてよぉ~」
「そんなの。決まってんじゃん、ヒロミ」
「え?」
「天秤にかけるの罪悪感とか今更じゃん。もう好きになっちゃってるんだもん」
「そうね。結局はヒロミの正直な気持ちなのよ。
時間をかけてでもいい、ちゃんと決めなさい」
「そ、そんなあぁ」

私の赤くなった耳たぶを、オレンジ色の光が容赦なく照らし出していた。

「……っ、もう!二人とも、他人事だと思って!」
「他人事じゃないよ。親友の初恋なんだから、特等席で見守らせてもらわなきゃ」

逃げ場をなくした私を囲むように、双子は左右から顔を覗き込む。

「ま。2人とも開き直ったら何してくるか分からないけど」
「…え?」

なんかヒスカから不穏な言葉が聴こえたような?気のせいだよね?

「どんなロールキャベツでも油断しない方がいいてことだよ」
「は?ロールキャベツは美味しいけど。何でロールキャベツ?」
「うふふ。精々齧られない様にね」

さっきから意味が分からない。ロールキャベツがいったい何なのだ?

「あーあ、そんなキョトンとした顔しちゃって。
キャベツの隙間から覗いてる『真っ赤な生肉』が見えてないのは、あなただけだよ?
(彼らの理性がプツンと切れたら……煮込まれるのは、あなたの方かもね)」

ヒスカが少々呆れた顔をしていた。

とにかく。自分で気持ちを清算しなければ始まらないのだ。
確かに。アドバイスを貰っても結局は自分の気持ちの問題なのだから。

どんな未来が待っていようと。
どんなに時間をかけようと。
どんなに2人を傷つけても。

私は嫌われるのが怖いと怖気づいて、2人に対して失礼な事をしてた。
後悔だけはしないように。時間をかけて答えを出していこう。
バレたらバレたらで、その時だ。正直な気持ちを言おう。嘘はつきたくない。



29

本日はナイレン隊の任務は皇帝家…エステリーゼ様の護衛である。
なぜ彼女がというと、単に慰問である。今回目指すは近いといえどデイドン砦だ。

本来ならば王家の護衛はアレクセイ親衛隊がやるのだが、
あいにくヨーデル様の護衛に人数が割かれてしまっている。
そこでお鉢が回っていたのが、我らがナイレン隊である。
なぜかアレクセイ様からのご指名だとか。…まさか私のことバレてる?
ううん。ただの偶然よね。騎士になってから疑り深くなっちゃった。

騎士の皆は正装し、私も例に漏れず慣れない礼装に身を包む。

いつもは動きやすさ重視の隊服だが、今日ばかりは生地の質感も、
肌に触れる刺繍の感触もどこか落ち着かない。

それでも、隣を歩くヒスカとシャスティルは、見惚れるほどにその格好が似合っていた。

「うわぁ~可愛い~! お人形さんみたいだよ!」
「本当ね。見違えたわ。少し背筋を伸ばすだけで、立派な騎士様に見えるわよ」

双子は着替えた私を見て、眩しそうな、それでいて慈しむような笑みを浮かべている。
鏡を見る以上に「似合っている」と実感させられて、なんだか無性に照れくさい。

「さ、さ、早く行こうよ。時間はまだあるけどさ」
「そうね。整列するまで皆の意外な姿を見るのも、目の保養になるかしら」

軽やかな足取りの二人について、私たちは集合場所へと移動する。
広場が見えてくると、そこには見慣れたはずの隊の仲間たちがいた。

けれど、視界に飛び込んできたのは、いつもの鉄錆や砂埃の匂いではなく、
磨き上げられた金属と鮮やかな布地が織りなす、万華鏡のような光景だった。

色とりどりの正装に身を包んだ騎士たち。
その中でも、やはり群を抜いて目を引くのが、あの二人だった。

太陽と月――誰が呼んだか、その二つ名がこれほど相応しいと思ったことはない。

フレンは水色と白を基調とした隊長服を纏っている。
清廉な色合いの甲冑や籠手は、陽の光を跳ね返して白銀に輝き、
彼の持つ厳格さと優しさをそのまま形にしたかのようだ。
(参照:フレン隊長服)

対照的にユーリは、その身軽さを活かした黒と赤の装い。
重厚な鎧を脱ぎ捨てた彼は、どこか野生的でいて、それでいて高貴な色気を放っている。
高めに結い上げたポニーテールが、彼の鋭い眼差しを際立たせていた。
(参照:心の中の聖騎士様)

私はそれを見た瞬間、カッと顔が熱くなるのを感じた。
心臓が警鐘を鳴らすように、ドクン、と大きく跳ねる。

(か、かっこ良すぎる…!
まるで古い絵本の中に描かれている、伝説の聖騎士様みたい…っ! ///)

あまりの衝撃に立ち尽くす私に、隣から忍び笑いが聞こえてきた。

「あ。あらら。完全に目がハートになっちゃってる」
「ほら。しゃんとしなさい。見惚れてるのがバレバレよ?」
「う、うん……わかってる、わかってるけど……」

自分でもわかるほど頬が熱い。
ドキドキとうるさい心臓を必死に宥めながら、
私はヒスカとシャスティルの背中に隠れるようにして、光り輝く二人の方へと歩み寄った。

ドキドキとうるさい心臓を抑え、私は双子と一緒にフレンたちに近づく。

「おはよう。ユーリ、フレン。今日は1日よろしく」
「ん?お!ヒロミ、似合ってんじゃねえか。おはようさん」

ふわりとポニテを翻し振り返ったユーリは、私を視界に捉えるとニカッと笑う。
するとフレンも私を振り返って、照れたように頬を僅かに染める。

「お、おはよう。ヒロミの正装姿、よく似合うよ。うん」
「ほ、ほんと?良かった…^^」

フレンの照れにつられたのか、私まで頬を染めてしまう。
何だこのピンクな空間は。恥ずかしい…。

「おーいフレン。帰ってこーい」

バシン。と彼の頭を叩くユーリに、フレンは何するんだ!と怒る。

「これから仕事だぞ。気張れよな」
「そんなこと言われなくても分かってるよ」
「どーだか」

とユーリが首を横に振れば。合わせて濡れ羽色の尻尾もゆらゆら揺れる。
私は無意識にそれに手を伸ばしてしまった。サラッとした手触りが流れていく。

「っ!な、何すんだよ」
「あ。つい。綺麗な髪だな~って」

また毛先を掴んで指に絡めてみる。うん、いいなぁーサラサラで。
思わず口元に寄せてみる。…ふわぁいい香りがする。

弾かれたように一歩下がったユーリのポニーテールが、鋭い弧を描いて宙を舞う。
掴んでいた指先がふっと軽くなり、私は自分のしでかしたことの重大さにようやく気づいた。

「あ。つい。……綺麗な髪だな~って」

言い訳のように呟きながら、まだ指先に残るサラッとした感触を思い出す。

本当はそのまま顔を埋めたくなるほど、彼からは清潔感のある、
それでいてどこか野性味を感じさせる不思議な香りがしていたのだ。

「……っ、たく。お前な……」

ユーリはポニーテールの根元をぐいっと押さえつけ、顔を背ける。

だが、隠しきれていない耳の先が、
彼の着ている正装の差し色よりも鮮やかに真っ赤に染まっているのを、私は見逃さなかった。

「おまっ!?それ無自覚かよ!……心臓にわりぃ……」
「へ?……あ!ごめんっ。嫌だったよね」

謝る私を、ユーリは恨めしそうに、けれどどこか熱を持った視線で睨みつける。
その時、背後からひたひたと、冷ややかな、けれどこれ以上ないほど丁寧な足音が近づいてきた。

「……ヒロミ。ユーリの髪がそんなに気に入ったの?」

心なしか、フレンの声のトーンが数度下がっている気がする。
振り返ると、彼は最高に爽やかで、最高に整った、そして最高に目が笑っていない笑顔で立っていた。

「わぁー大胆」
「ね。フレンの笑顔怖いんだけど。あれ完全に『僕も褒めてほしい』って顔だよね」

こそこそと囁き合う双子の声が、静まり返った空間にやけに響く。
フレンの手が、そっと私の肩に置かれた。手袋越しのはずなのに、そこだけが熱い。

「僕の髪は、ユーリほど長くはないけれど。
……そんなに、その、……香りが気になるなら、僕のも……」

「おいフレン、おまえまで何言ってやがる!」

ユーリのツッコミが飛ぶ。
仕事前の正装姿。凛々しいはずが、私の目の前でこれ以上ないほど「男の子」な顔をしていて。

(……あ、これ、仕事どころじゃないかも……)

私の心臓は、さっきよりもずっと、うるさく脈打ち始めていた。

「ユーリこそ。精々、敵に髪を引っ張られないように」

フレンの口角は完璧な角度で上がっているが、その瞳の奥は一切笑っていない。
言葉の端々に、冷徹なまでの棘が混じる。

「てめぇこそポカやらかすんじゃねえぞ。…足手まといを庇って死ぬのは御免だからな」

対するユーリも、低く地を這うような声で応じる。
不敵に歪めた唇の間から漏れるのは、もはや親愛とは程遠い、鋭利な殺気だ。

「ははは」
「あっはっはっ」

重なり合う二人の笑い声。
だが、その背後からは、どろりと濁った「黒い何か」が物理的な質量を持って溢れ出していた。
周囲の空気が急速に冷え込み、肌を刺すようなプレッシャーに、
通りがかりの小動物が悲鳴を上げて逃げ出していく。

「……ねえ、あの二人から出てるのって、魔力? それとも怨念?」
「どっちでもいいけど、近付いたら寿命削られそうだよな……」

二人の間に火花どころか、どす黒い雷光すら見えた気がして、
双子は深い溜息をつきながら、そっと数歩距離を取った。

「「前途多難だなぁー……」」

遠くを見つめる二人の視線の先で、
まだ「ははは」と不穏な笑い声を響かせ合っている二人の背中。
これから始まる旅路の険しさを予感し、双子の肩はガックリと落ちていた。



30

デイドン砦までは馬車で。私たちは徒歩で護衛を務める。
魔物が現れれば、それぞれが散って露払い。
正装姿でも、それぞれ遜色なく難なく魔物を蹴散らしていく。

フレンは一撃一撃をしっかり捉えて、技も叩き込んでいくし、
ユーリはひらりひらりと舞うように剣舞のように敵を翻弄させている。

この下町コンビは互いを背に預け、連携するように数を減らしていく。
私たちも負けていられない。
私も自慢の脚力を活かして縦横無尽に敵を翻弄しながらトドメを刺していた。

「まあ。皆さん強いのですのね」
「はい。エステリーゼ様の周りは我らナイレン隊がお守いたします」

ナイレン隊長がエステリーゼ様の傍に控え、最後の防衛を務めている。
怪我をすれば、エステリーゼ様が怪我を治すと仰ったがそれを辞退する。
こんな序盤も序盤の魔物で手古摺っているようでは騎士には程遠い。

双子やユーリとフレンと私は殿を務めている。

「こんなん普段の任務に比べたら楽勝だな」
「こらユーリ。任務は任務でしょ」
「そうだよ。ユーリ。しっかり周りを確認しないと」
「へいへい。わぁーったよ」
「…ちゃんと分かってるのかなあ」

ヒスカとフレンに窘められ不承不承に返事するユーリ。
私はやれやれと心配で仕方なかった。


デイドン砦に辿り着いた、エステリーゼ様とナイレン隊。
お姫様は、騎士団詰め所に挨拶しに行っている。
その間、私たちナイレン隊は一時休憩だ。
ナイレン隊長とユルギス副官は、エステリーゼ様に付き添っている。

「あれ?フレンとユーリは?」
「私たち殿だから入り口で見張りだって。あ、貴女は休憩でいいよ」
「そうなの?」
「ま。2人の指導役だしね。ゆっくりしてきなよ」
「分かった。ごめんね。行ってくるよ」

私は辺りを見回して、ここは本当に砦なんだと思わされる。

あ、お姫様が詰め所から出てきた。
これから旅人にお話を聞いて回るんだ。
子供たちにもちゃんと目線を合わせて優しく語りかけている。
私はすぐに殿のチームに戻って来た。

「あ、おかえりー。今お姫様巡回中だよ」
「エステリーゼ様ってポヤポヤしてるようで、実は剣術も嗜んでるだって」
「え?」
「うんうん。回復も出来て剣術もできる。一度読んだら暗記してしまうし。
あの胡坐をかいてる評議会どもに爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいだよ」

双子が遠目で慰問に回っているエステリーゼ様を見ながら褒め称えていた。

「おーヒロミ。おめぇ何してんだ?」
「ちょっと巡回に。ユーリたちこそ。見張りは順調?」
「暇だ。あとはお姫さんのが終わるの待つだけだ」

エステリーゼ様がデイドン砦を一通り周り終わり、慰問が終了した。
私たちはすぐに休憩を終わらせ、定位置に着く。もちろん殿だ。

行き同様、帰りも難なく何事もなく。任務を真っ当できた。
エステリーゼ様は城の者を引き連れ、すぐに王城へと戻っていった。

 
 

 
後書き
次は劇場版に続きます。 
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