非日常なスクールライフ〜ようこそ魔術部へ〜
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第142話『夢の神』
前書き
過去話を読み直して気づいたのですが、最近出てきた「神の力」と、132話で出てきた「神力」は同一の概念を指します。新出だと思って書いたつもりが、全然既出でした。なので今後は「神力」に統一し、該当部分は文脈を含めて修正を行いました。混乱を招いてしまい、申し訳ありません。
『よいか、しかと聞け。我が名は──夢の神。この日城の地を統べる神である』
幼い姿に似合わない堂々とした宣言に、晴登は呆気にとられる。
──神との邂逅。
頭ではそう理解していても、中々実感が湧かない。
「神様……?」
『然り。我は夢を司る神。願えば、夢を叶えてやらぬこともない』
「は、はぁ……」
神様が「夢を叶えてやる」と告げる、まさにボーナスタイムな状況。だが晴登はまだ順応できておらず、間の抜けた返事が口をついて出た。
『なんだ、その反応は。さては信じておらぬな?』
「い、いや、そんなことは……」
実際のところ、内心では半信半疑だった。
目の前の存在が異質なのはわかる。だが、それが神様であると即座に受け入れられるほど、信心深くもない。
『よい。ならば知らしめるまでのこと』
「え?」
晴登の反応をつまらなく思ったのか、少女──夢の神はすっと人差し指を立てる。その仕草はあまりにも軽い。しかし、次の瞬間──
「うわあああ!?」
指が素早く下に振り落とされると同時、視界が白に塗り潰された。文字通り、煙に巻かれたような状況に加え、目も開けられないほどの激しい風圧と浮遊感が全身を襲う。
「どうなってんだ!?」
──落ちている。
上下の感覚は曖昧だが、それだけははっきりとわかった。さっきまで草原に立っていたはずなのに、いつの間にか空中に放り出されている。
晴登はとっさに手足を広げ、わずかでも減速しようと試みる。だが、周囲の景色は変わらず、効果のほどはわからない。
「……っ!」
やがて視界が開けた。
目に飛び込んできたのは、一面の藍色。距離感は掴めないが、確実にそれへと近づいている。
「これは……海か?」
少し観察して、ようやくそれが海面だと理解する。つまり先ほどの白は雲だったのだ。
つまり──墜落している。
「夢、だとしても……!」
「なぜ」よりも早く、「どうするか」を考える。
ここが夢の中であることは理解している。だが、このまま何もせず叩きつけられるのは、本能が拒んだ。まずは減速。そして安全に着水。それから——
「どう、するんだ……?」
眼下には地平線の彼方まで続く海。陸も、岩も見当たらない。このまま生き残ったとして、大海原でただ一人彷徨うことになる。
「……いや、違うな」
考えるに、これはきっと夢の神《つくよ》様の試練か、あるいは悪戯だ。
満足させれば解放される。そんな甘い予想しか立たないが、他に手もない。
とにかく、目の前の状況をどうにかするしかない。
「"天翔波"!」
海面との距離が射程に入った瞬間、晴登は風を放つ。
まずは減速。突風を海面に叩きつけ、その反作用で浮かび上がる。
「あれ?」
しかし様子がおかしい。
風は確かに海面に届いている。だが、速度が落ちない。
「そうか! 海だからか!」
すぐにその違いに気づく。
今まで相手にしていたのは地面だったが、今回は海面。すなわち固体ではなく液体だ。衝撃は拡散し、力が逃げる。作用が成立しない以上、反作用も生まれない。
「くそっ、止まれぇぇぇ!」
晴登は意地になって風力を上げるが、風は海を穿つだけで浮力を返してくれない。落下速度は緩むことはなく、海面は眼前へと迫っていた。
「うわあぁぁぁ!!」
もうダメだ。この速度で海に叩きつけられれば誰だって死ぬ。夢の中とはいえ、死を予期するのは気分が悪い。
しかし思い返すと、今までも死にそうな場面は何度もあった。あの時も、あの時も、あの時も、今生きているのが奇跡なくらい、運良く生き延びてきた。
そうだ、今回もきっと何とかなる。『人事を尽くして天命を待つ』とはこういうことを言うのだろう。自分はやれるだけのことをやったのだから、あとは神様が手を差し伸べてくれるのを待つだけ。その場合、神様は夢の神様になるのだろうか。まだよく知らない、信仰もしてないから、助けてくれないかもしれない。いやでも神様って無償の愛というか、困っている人を助けてくれるイメージがあって……何にせよ、今から宗教でも何でも信じるので助けて頂けるとありがたくて──!
「……ん?」
おかしい。いつまで経っても、訪れるはずの衝撃がやって来ない。
死を覚悟して目を閉じていた晴登は、ゆっくりと目を開いてみる。
『……っ、ぷふっ』
「……あの」
『ふふふっ、はははははっ!』
「あの! 笑ってないで助けてください!」
目の前には、空中に浮かんだまま腹を抱えて笑う夢の神《つくよ》様。
一方自分は、海面すれすれの位置で、落下姿勢のまま静止していた。自分ではわからないが、かなり不格好なはずだ。それが恥ずかしくて、つい声を大きくしてしまう。
『おい人間、それが神に祈る態度か?』
しかし、夢の神様はそれが気に入らないようで、笑みを引っ込め、鋭い視線をこちらに向ける。見た目に似合わない威圧感に、晴登は慌てて態度を改める。
「えっと……夢の神様、失礼しました。どうか、助けていただけませんか?」
『……まぁよい。ほれ』
「うわっ!?」
次の瞬間、景色が切り替わる。海は消え、元の草原が広がっていた。
気づけば晴登は尻もちをついた状態で地面に座っている。
……いや待て、今何が起こった? 夢とはいえ、あまりにもあっさりと世界が塗り替えられた。
草原も、海も、落下すらも——すべてが指先一つで書き換えられる。夢の神という肩書きを疑う余地は、もうどこにもなかった。
「……改めまして。はじめまして、夢の神様。私は三浦 晴登と言います。さっきは大変失礼しました」
まずは挨拶。一呼吸置いて、次の言葉を選ぶ。
「それで……私は、なぜここに?」
もう先ほどのような目に遭うのは御免なので、夢の神様の機嫌を損ねないよう、晴登は丁寧な態度を心がける。
すると、彼女はあっさりと答えた。
『愚問だな。ここはお前の夢だ。お前がここにいること自体は、何ら不思議ではない』
「えっと……ではなぜ夢の神様がここに?」
『今この地で何が起こっているのかを知るためよ』
夢の神様は空中に浮いたまま、淡々と続ける。
『眠りについておったところ、突然他所の神の気配が紛れ込んできてな。反射的に、この地の人間どもを夢の中へ閉じ込めた』
「……閉じ込めた?」
思わず聞き返す。
『安心せい。ただの足止めだ。その中で、お前だけが例外だった』
視線が、まっすぐこちらに向く。
『お前は我と同じ、夢の系統の力を持つ。ゆえに依代として使わせてもらった。ついでに、記憶も覗いたがな』
神様とはいえ、いきなり記憶を覗くのはプライバシーの侵害ではなかろうか。そのツッコミをぐっと堪えて、続きを促す。
「他所の神というのは、北上先輩の持つ神力のことですね?」
『然り。あれは鏡の神の力。人間に取り込まれるとは、奴も衰えたな』
「やたの……?」
『鏡を司る神の名よ。あの男に取り込まれておった』
わずかな間。夢の神様の表情が険しくなる。
『──神を愚弄するとは、万死に値する』
「ちょ、ちょっと待ってください!」
空気が一気に冷えた。晴登は慌てて待ったをかける。
『……なんだ、人間?』
「もしかして……北上先輩を殺すつもりですか?」
『──然り』
その一言で、背筋が凍りついた。迷いも、躊躇も、一切ない。ただ事実を述べただけの声音だった。
『我の領地を侵す者は、たとえ領民であろうと許さぬ』
静かに、しかし確実に圧が増す。
『お前は、どちらの味方だ?』
鋭い視線に射抜かれ、身を固くする。
北上の味方だと叫びたい。だが、この場面でそれを言って許される相手ではなかった。
口の中が渇き、喉がひりつくほどの緊張感。答えを間違わないよう、慎重に言葉を選ぶ。
「……もちろん夢の神様の味方です」
一度、言葉を置く。
「ですが、北上先輩はスサノオの脅威からこの地を守るために、自ら悪者を引き受けたんです」
本音が、自然と続く。
「だから、見逃してくれませんか?」
無謀な願い。当然、夢の神様は難色を示す。
『裏切り者を信じるのか? 人間は何度も同じ過ちを繰り返す。我はその愚かさを何度も見てきた』
「同じ過ちは、起こさせません。もう誰も間違わせない。誰も傷つけさせない。俺が、この学校を守ります」
一歩前に出て、そう言い切る。
『……傲慢だな。お前如きに何ができる』
その言葉を、夢の神様は吐き捨てるように一蹴した。
『現に、お前は友一人止められておらぬ。その矮小な力で、我の地を守ると? 片腹痛いわ』
格上の存在に凄まれ、冷や汗が止まらない。外に聴こえてしまうのではないかと思うほど、心臓もうるさく拍動する。
それでも──目は逸らさない。
「だったら、見ていてください」
『何?』
「──俺がスサノオの野望を打ち砕くその瞬間を」
一瞬の沈黙。そして、
『……ふ。ふはは、ははははは!』
乾いた笑いが、草原に響く。
『愚かだ。実に愚か。蒙昧で、滑稽で──まるで道化だな』
だがその声は、どこか楽しげだった。
『よいだろう、お前が何を成し、何を失うか。夢の神の名において、この目で見届けてやる』
それは、裁きとも慈悲とも違う宣告だった。
──ひとまずは、見逃されたのだろうか。
止めていた息が一気に溢れ出る。気づけば、まともに呼吸すらできていなかった。
『取引だ』
夢の神様は指を立てる。やはり、ただでとはいかないらしい。
『今回に限り、その願いを聞いてやろう』
「……本当ですか?」
『あぁ』
そのまま、彼女は空間から何かを引き抜くように手を動かす。取り出されたのは、ハンドボールほどの球体。滑らかな表面は鏡のように光を反射し、そこには驚く晴登自身の顔が映り込んでいる。
『そら、これが鏡の神《やたの》の力よ』
「それが……北上先輩の……」
『あぁ、我が奪った』
さらりと告げられる事実。だがその内容は、あまりにも常識外れだった。
『夢の中で我に勝る者はおらぬ。この力はしばらく我が預かっておこう』
夢の神様にとって、夢は絶対の領土。ここでは彼女に敵う者は誰もいないのだ。
『ついでに、お前の友の中にあった神力も抜いておいた。これでもう暴走はせぬ』
「っ、ありがとうございます!」
胸の奥に溜まっていた不安がようやく解消され、安堵が一気に込み上げる。
これで、北上と狐太郎の無事は約束された。それなら、
「そうだ、他にも神力を持っている人達がいると思うんですけど──」
『それはならん』
即答だった。
「ど、どうしてですか……?」
『お前は我に人間一人一人の中を探らせる気か?』
「それは……ごめんなさい……」
その言葉で、自分の要求の傲慢さに気づく。
さすがに神様を顎で使うような真似はするべきではない。というか、してはならなかった。
『放っておけ。大した影響はない。扱えぬ力は、やがて消える』
断定。それ以上の説明は不要だと言わんばかりの口調だった。もう、これ以上は踏み込めない。
「……あの、取引というのは?」
晴登の願いは叶えられた。次は、対価を支払う番だ。その話題が出ると、夢の神様はふっと笑う。
『簡単なことよ。これから毎日……いや、学び舎に来る日でよい。一日に十分ほど寝ろ』
「寝ろ、ですか?」
あまりにも拍子抜けした内容に、思考が一瞬止まる。
『具体的には、夢を見ろ。そして、我の話し相手となれ。それが我の要求だ』
「……それだけでいいんですか?」
構えていた分、本音がそのまま零れた。
昼寝をして、夢を見る。たったそれだけの対価で、神様に晴登の要求が通ってしまったのだ。こんな反応にもなる。
『何だ、不満か? もっと厳しい条件にしてもよいのだぞ』
「いえ! 何でもありません!」
慌てて首を振る。これより好条件など存在するものか。時機を見誤ってはいけない。
『では取引成立だ』
夢の神様は満足気に笑う。
その言葉には、何か不思議な力を感じた。
『人間──いや、三浦 晴登。お前の行く末、我が見届けてやる。そのことを努々忘れるな』
「……もちろんです」
晴登の返事を聞いて、夢の神様は不敵な笑みを浮かべた。
その直後、世界がぐにゃりと歪み始める。景色が溶け、音が遠ざかる。
晴登の意識が、夢の底から現実へと引き戻されて──
*
「はっ」
肺に空気が流れ込む感覚とともに、晴登は勢いよく上体を起こした。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた校舎の廊下。北上が暴走したことで壁やら床やらが崩壊していたはずだが、その痕跡はすっかり消えてしまっていた。
「お、目覚めたか」
すぐ近くから声がかかる。
「黒木先輩! 北上先輩は!?」
「落ち着けよ。ほら、あそこだ」
終夜が顎で示した先。少し離れた場所に、北上の姿があった。座り込んでいるが、少なくとも無事ではあるらしい。
「にしても何が起こったんだか……。北上が暴走して校舎がぶっ壊れたかと思えば、急に眠気が襲ってきて、目が覚めたら元通りだ。全部夢だったって言われた方が、まだ納得できるぜ」
白昼夢、とはこういうことを言うのだろう。終夜は状況を読み込めずに肩をすくめる。
一方、晴登は先ほどの奇妙な体験を思い返した。
「もしかしたら、夢の神様のおかげかもしれません」
「つくよ様? 誰だそれ?」
知らない名前だと、終夜は眉をひそめる。
「この地の神様です。さっき、夢の中で会いました」
「……」
「え、何ですかその顔は」
「いや、すまん。ちょっとフリーズしてた」
与えた情報が外れ値すぎて、処理が追いつかなかったようだ。終夜はこめかみを押さえ、小さく息を吐く。
「お前がこういう時に嘘をつかないのは知ってる。でも……『会った』って言った?」
「はい、普通に話しました」
「夢の中で神様と会話……そんな古典じゃあるまいし」
明らかに困惑している。
だが、それも無理はない。晴登自身、寝起きというのもあるが、まだ頭がふわふわしていて実感がない。証拠もないし、交わしたのは口約束。次に学校に来る時にしか確かめようがなかった。
「ハルト〜!」
「わぶっ!?」
突然、横から勢いよく飛びつかれ、思わず変な声が出る。
見ると、せっかくの執事姿が台無しになるくらい泣きべそをかいた結月の姿だった。
「目が覚めて良かった〜! ハルトだけ目を覚まさないから心配だったよ〜!」
結月が抱きついたまま、安堵したように顔を押しつけてくる。相当心配したようで、抱きしめる力が強すぎて今にも骨が折れそうだ。
「俺だけ? 一体どれくらい寝てたの?」
「ボクたちは五分くらいで起きたけど、ハルトは十分くらいかな」
「……そんなに差なくない?」
結月の取り乱し方的に相当長い時間眠っていたのかと思ったら、差はたったの五分。誤差の範疇だ。
このラグは夢の神様と話していた分だろう。
「そういう問題じゃないでしょ。結月ちゃんは本当に心配してたんだから」
晴登のすげない返事に、緋翼が呆れたように口を挟む。
「……そうですね。結月、心配かけてごめん」
「ううん、無事ならそれでいいの」
安心させるために頭を撫でると、結月は心地良さそうに頬を緩めた。ようやく腕の力が緩む。
「そういえば、アローさんは?」
周囲を見渡すと、眠る前にいた人数と違う。
特に、どうやってかわからないが、北上の領土に侵入してきたアローの姿が見当たらない。彼の助太刀がなければ狐太郎の無力化はなし得なかったので、お礼を言いたかったのだが。
「外に出て、今は正門近くで待機しているはずだ。──これ以上、神様に刺激を与えないためだと」
晴登の問いに終夜が答える。
確かに、アーサーもアローもこの学校に長居することを忌避している節があった。アーサーは『魔力が異質である』と言っていたが、夢の神様と何らかの関係があるのだろうか。
「で、代わりに俺らが北上に事情聴取するように頼まれてる。その後の裁量は俺たちに任せてくれるんだと」
「……いいんですか、それ?」
「それだけ干渉は避けたいってことなんだろ。この敷地が神様の領地なら、俺たちは領民みたいなもんだ。外部から手を出そうもんなら、反撃されてもおかしくない」
「なるほど……」
終夜の例え話は非常にわかりやすい。
しかし、晴登は夢の神様が自ら北上に手を下そうとしていたことを知っているので、彼女は内にも外にも厳しいタイプの領主なのかもしれない。
「伸太郎も見当たらないんですけど……」
「あいつは目覚めてすぐ、どっか行っちまったな。誰かを探してるように見えたぜ」
「どこ行ったんだろ……」
「ま、そのうち帰ってくるだろ」
魔術部の主要なメンバーは揃っているし、それ以外で探すとなると大地や莉奈、刻だろうか。彼らは後々晴登も探したいと思っていたところだ。
終夜は深く考える様子もなく、これからのことを提案する。
「さて、三浦が起きたなら行動開始だ。俺と辻で校内の様子を見てくる。お前ら二人は北上から話を聞いて、あとでアローさんに報告だ。神様については、また後で教えてくれ」
「わかりました」
──ようやく、今回の襲撃の全貌が明らかとなる。
*
晴登が目覚めたのと、ほぼ同じ頃。
伸太郎は校舎裏の森の中にいた。手入れはほとんどされておらず、木々は好き勝手に枝を伸ばし、昼間だというのに薄暗い。人の気配もなく、普段ならまず近づかない場所だ。
だが今の彼は、息を潜め、一本の木の陰に身を隠していた。
その視線の先——不自然に盛り上がった、かまくらのような形状の土の塊。その正面には、場違いなほど無骨な鉄扉が取り付けられている。
そして、その前に立つ一人の人物。全身を黒で覆った、フード姿。
「あれは、雨男……?」
確信はない。だが、直感が告げている。
事の発端は、先ほどの異様な眠気だった。
伸太郎はこれをスサノオの仕業と仮定し、スパイの可能性がある刻を疑った。教室に戻ったが彼女の姿はなく、余計に胸騒ぎを覚えて探し始めたのだ。
その途中で、あの黒ずくめの人物を見かけた。あまりにも不自然で、あまりにも目立つ。そして嫌な予感が的中しそうで、気づけば尾行していた。
そして辿り着いたのが、この場所だ。あんな構造物の存在なんて知らないし、逆にあの人物はなぜ知っているのか。警戒度は既に限界値だ。
「参ったな……」
誰かに知らせるか。だが、ここで目を離す訳にもいかない。かといって、迂闊に近づけば気取られる。正直、あれが本当に雨男なら、逃げ切れる自信はない。
ここが敷地内だから安全──そんな楽観は、とっくに捨てている。むしろ人目がない分、何をされてもおかしくない。
「一体何をしてるんだ……?」
ゆえに、できることは一定の距離を保ったまま、観察を続けるのみ。
黒い人物は動かない。ただ、扉の前に立っているだけだ。しかし、その扉の向こうに入りたがっていることはわかった。扉の先には一体何があるのだろうか。
「……ここらが潮時か」
これ以上、ここに留まっていても進展はなさそうだし、何より心臓に悪い。
できれば、そのフードの奥にある面を拝んでやりたかったが、それでは目が合うことになるので詰みだ。その出来心を押し殺し、そっと後退しようとした──次の瞬間、
「がっ!?」
後頭部に衝撃。視界が揺らぎ、立っていることもままならず、膝から崩れ落ちた。
「な、にが……」
背後から殴られた。それだけは理解できた。
さらに背中に乗られ、頭と身体を地面に押さえつけられる。これでは姿を視認できない。
「痛っ……」
続けて、腕に鋭い痛みが走る。これは……注射だろうか。まさか毒でも盛られたか。
「くそっ……!」
脳が全力で抵抗を命じる。だが、身体に力が入らない。
薄れゆく意識の中で、かすかに声が聴こえた。
「殺したのか?」
「まさか。眠らせただけよ」
子供っぽい中性的な声──魔導祭で聴いた雨男の声に似ている──と、低い女の声だ。
「ついでに、今日の記憶を消してしまう薬も打っておいたわ」
「ほう。そんなものまで作れたのか」
「私を誰だと思っているの? これくらいすぐに作れるわよ」
女は鼻が高そうに自慢している。薬を作れる人物──薬剤師か、それとも科学者の方か。思い当たる人物はいない。というか交友関係が狭すぎて知らない。
「成果は?」
「ぼちぼちね。これが記録したノートよ。あと、こいつのポケットに……あった。ノートの中身を少し見られて、何やらメモされたみたいだから、これは没収ね」
「そうか。では、なおのこと記憶を消さねばならなかった訳だ。メモには何が?」
「自分のクラスの該当者の名前かしらね。これだけじゃ何のヒントにもならないわ」
保健室で書き留めた大事な手がかりまで奪われてしまった。
そのことを知っているということは、彼女は今回の『実験』に関わりのある人物であり、やはりあの時どこかから監視していたのだ。
「それで、決行日はいつになるの?」
「追って連絡する。遠くはない」
「わかったわ。早くしてね」
「善処しよう」
その答えを聞くと、女は伸太郎の上から離れ、どこかへ行ってしまった。薬のせいか、未だに身体は動かず、意識は朦朧としている。
決行日……何のことだろう。文化祭の襲撃は前座に過ぎず、まだ次があるということか。
このことを早く晴登たちに伝えなければ。しかし、記憶を消す薬が本当なら、ここで意識を手放した瞬間、すべてが消える。見たことも、聞いたことも、この危機も。だからこそ、彼らは不用心に会話をしたのだ。聞かれても、意味がないとわかっているから。
(くそっ……。まだ、だ……まだ──)
意識が、沈む。
深く、暗く。
底へと引きずり込まれていく。
──────
────
──やがて、静寂が訪れる。
そして一つの足音が、倒れたまま動かない伸太郎の元に近づく。
「ダメじゃないですか。舞台裏に入ってきたら」
その声色は先ほどまでと異なり、年相応の少女のものだった。彼女はしゃがみ込むと、伸太郎の耳元で囁く。
「ネタバレはめっ、ですよ。伸くん」
少女はくすりと笑う。
その正体に気づく者は、もうここにはいなかった。
後書き
お久しぶりです。波羅月です。
気づけば3月も終わりに近づき、私の人生がターニングポイントを迎えております。はい、4月から社会人になります。やばいよ。
後書きを近況報告に使っている節があるので話を続けるんですけど、ついに長かった学生期間が終了してしまいました。無事卒業はできましたが、新たな生活に戦々恐々としているところです。連載10年目になっても小説を完結させられない自分が、果たして社会で上手くやっていけるのかと考えると、不安でいっぱいです。次回の更新でもまた近況報告させていただきます。
さて、そして皆さんお気づきかと思います。6章、終わってないです。終わんないかな〜と思って書き始めたら、案の定文字数が膨れ上がって、本当に終わりませんでした。しかも一番大事な部分が後回しになってしまい、「結局この章は何がしたかったんだ」と言われても仕方のない状況です。
書いている途中で分けた都合上、次の話はある程度完成しているので、すぐに更新したいです(できるとは言っていない)。
ま、でもこういう不穏な回を書くのは好きなので、びっくりしていただければせめてもの救いです。執筆はこれからもペースを変えずに続けていく所存ですので、何卒よろしくお願いいたします。
それでは今回も読んでいただき、ありがとうございました! 次回もお楽しみに! では!
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