冥王来訪
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第三部 1979年
戦争の陰翳
外交的解決 その4
前書き
水着回を書くことにしました。
穂積事件の衝撃は大きかった。
日ソを行き交うビジネスマンが、実は大空寺財閥のソ連でのダミー会社の社員で、しかもソ連の工作員。
最新技術がソ連に漏れ伝わっていた事実は、日本の政財界を揺るがすこととなった。
事件の翌日、二条城二の丸の敷地内にある城内省庁舎に大野は祖父と共に呼ばれていた。
先ごろのハイネマン誘拐事件に関しての事情聴取を受けるためである。
マサキに砕かれた両膝を庇う様にして平伏していると、斯衛軍の赤い服を着た男が三人ほど入ってきた。
外から見えるように手紙を胸元に挟んだ男は立ち止まると、大野達に手紙を見せつける。
「ご上意である」
大野の祖父は、男の意図を正確にわかった様子だった。
観念したかのように、改めて平伏した。
赤い服の男は封筒から中身を取り出すと刀の柄にかけ、手紙を広げた。
「衆議院議員、大野。
其の方、恐れ多くも首脳会議の日、ハイネマン博士誘拐未遂の段、誠に持って不届き至極。
よって、斯衛軍第19警備小隊お預けの上、切腹申し付けるものなり」
大野は驚愕の色を浮かべると、身を起こす。
「相分かったな。大野」
大野は、使者の足に縋り付いた。
「お待ちくださいませ!これには深い理由がございまして……」
大野の顔はみるみる青ざめ、声も涙っぽいものになっている。
「これは、木原の仕掛けた罠にございまする」
「見苦しいぞ。大野」
涙で顔の半分を濡らしながら、大野は哀れっぽい声を出した。
「今一度、お調べくださいませ」
「ご上意は下ったのだ!」
使者の男は、足に縋り付く大野を振り払おうとする。
「嫌でございまする」
大野は追いすがるように、使者に訴えた。
「ええい、放せ!」
負けじと、強い力で足にしがみつく。
「無礼者!」
二度ほど足を前後に振ると、大野がはじけ飛ばされた。
大の男が二条城の庭先に転がって、泣き叫ぶ。
大野は震えあがっていた。
この俺から妻ばかりではなく、命まで奪うのか。
木原の鬼畜生、ド外道め……
使者は既に去っていた。
それに気が付かないまま、大野はクドクドと切ない願いを虚空に向かって吐き続けていた。
夜半、大野は切腹の会場となる斯衛軍第19警備小隊の陣屋の中に居た。
浅葱色の装束に着替えさせられ、その時を待っていたのだ。
「お支度が整いました」
黒い斯衛軍の制服を着た若い少尉が、彼にそう伝える。
「いざ」
大野は、ものすごい形相になると悲鳴を上げた。
そして訳の分からないまま、引きずられていき、会場となる庭に出る。
そこには既に拳銃を帯びた10人以上の刑務官が並び、白い幕が張られてる。
刀を手に持った介錯人が立ち、介添人が近くで正座で待つ。
「いざ、切腹の場へ!」
切腹の準備を見た大野は、恐怖のあまり委縮し、その場で立ち止まった。
むりやり白布を張った畳の上に正座させられる。
彼の正面には、二人の検使が椅子に座って待っている。
間もなく徳利と盃を持った男が、大野の目の前に現れる。
「末期の水にござりまする」
大野は震えながら、盃を取った。
「今後、二口で飲むのが作法です」
震える手で水杯をとると、顔の位置にまで持ってくる。
だが大野は、恐怖のあまり、全ての水をぶちまけてしまった。
「見苦しいぞ!大野」
検使が声を荒げる。
そして少し置いた後、別な検使が声をかけた。
「遺言か、辞世の句を……」
大野は何か答えたが、彼等には聞こえなかった。
刑務官は、さっさと和紙で包まれた扇子を載せた三方を目の前に置く。
本来は和紙で包んだ脇差の刀身を用いるのだが、江戸中期以降、扇子で代替えするのが一般化した。
切腹の苦しみを味わなくて済み、尚且つ武士としての面目が保てる。
この事は扇子腹と呼ばれ、形の上では自主的に腹を切る体を指す言葉となった。
「お支度を」
掛け声と同時に、介錯人は太刀を振り上げる。
介添人は大野の衣服をはぎ取った。
大野は扇子を手に取ると、介錯人の方を振り向く。
絶叫するとともに、介錯人に飛び掛かって、太刀を奪い取ろうとする。
「取り押さえろ!」
刀を奪い取った大野は最期の力をもって、介錯人を撫で切りにする。
血まみれの裸身で振り返り、ピストルを抜いた刑務官たちの方を向く。
「いやだ、やだ、死にたくない!」
刑務官たちのもつ拳銃から、一斉に閃光が走る。
興奮状態にある大野は倒れず、太刀を振り上げながら突っ込んでいく。
乱闘となった際、照明のたいまつが倒され、火は消えてしまう。
周囲は漆黒の闇に包まれ、3名ほどの刑務官が斬られた。
事態を重く見た検使が、甲高い声を上げる。
「引けい」
誰も言葉を発しなかった。
凄惨な現場に遭遇して、そのまま立ち尽くしていた。
興奮状態の大野の後ろに、静かに黒い影が現れる。
鈍い閃光が上弦の月の光で浮かび上がる。
一瞬の煌きと共に、大野の首は飛び、血煙が周囲を舞った。
切ったのは、白銀であった。
白銀は血の付いた脇差を懐紙で拭くと、静かに鞘に納める。
驚く刑務官たちに一礼をすると、何食わぬ顔でその場を後にした。
アイリスディーナは残りの訪日日数を、九州で過ごした。
有田焼の見学に行く議長たちとは別行動をとり、篁家の人間に混ざって、多くの事を学んだ。
福岡や佐賀に出かけて、有名な日本の史跡や有名企業を訪問した。
とりわけ自由主義社会に関しては、有り余るほどの知識を体験で得た。
九州での最終日は7月上旬から海開きされている志賀島にマサキといた。
志賀島は海水浴場で名の通った場所であると同時に、島全体が史跡であった。
江戸時代に出土した「漢委奴国王」――後漢の頃、光武帝から地方豪族に送られた印綬――をはじめ、その名跡が万葉集にも歌われ、また元寇の激戦地の一つでもある。
マサキは、アイリスディーナの他に、美久や篁家の人間と共に水着をもって海水浴場に出かけた。
ホテルからほど近い海水浴場だったので、白銀や鎧衣は遠くから双眼鏡で眺めているだけだった。
平日の午前中という事もあり、海水浴場は空いていた。
水着姿で更衣室を出てきたアイリスディーナとミラを見たマサキは、驚きを隠せなかった。
アイリスディーナは、母親のメルツィデースや兄ユルゲンに似て背が高い。
服を着ているときは線も細く、非常にスリムに見えるのだが、水着を着ていると抜群のプロポーションだという事が分かる。
とりわけアイリスディーナの乳房の大きさには、19歳の少女とはいえ瞠目すべきものがあった。
ミラはIバック型の白のワンピース型の水着、アイリスディーナは濃紺のUバックをした競泳用水着。
少し遅れて、篁と美久がきた。
美久はバック・クロス・ストラップ型をした灰色のビキニ。
美久の水着は以前、イスラエルで地中海と死海を泳いだ時に現地で買ったものである。
マサキは、三者三様の姿を見て圧倒されるものがあった。
海岸に居た人々も、三人の華やかな姿に圧倒されている。
ミラの白い水着は、色の透けない米国製の新素材で作られたものであるが、双丘の隆起は隠せない。
初めて見た時から、吉祥天を具現化したような存在であった。
その輝きは、子供を産んでからも変わらない所か、ますます増したように思える。
29歳の他人妻とは、なんというものかと、内心、不思議なため息をついていた。
マサキは、嫌でも彼女たちの扇情的な体に視線を注いでしまう。
美久やアイリスディーナに内心を悟られまいと、必死に泳いだ。
篁は一足先に浜に上がっている妻のミラを探そうとした瞬間、アイリスディーナが濃紺の水着で目の前に現れた。
「篁中尉」
アイリスディーナを認めた瞬間、篁は目を瞬いた。
濃紺の水着は、競泳用のシンプルなワンピースだった。
篁は、水着に目を奪われたのではなかった。
それに包まれた19歳の少女に、目を見張ったのである。
完璧なまでに形作られようとしている肉体を平易な言葉で表現することさえ、憚られた。
アイリスディーナ・ベルンハルトを、冒涜するものでさえある。
篁はアイリスディーナから漂ってくる雰囲気にすっかりのまれ、ただ頷いた。
「楽しいかね」
慌てて、篁は言葉をつないだ。
日本人離れした流暢なドイツ語に耳を傾けながら、アイリスディーナは若干低い声で応じる。
「とても楽しいです。とっても……」
篁は、それ以上何も言えなかった。
アイリスディーナの泳ぎは、元水泳の強化選手だけあって、見事だった。
20分ほど、軽くクロールで流してから、海から上がってくる。
篁は、体に密着した水着の妖しくも美しい曲線に圧倒されたままだった。
アイリスディーナは、そんな視線もお構いなしに、マサキのいるビーチパラソルの方に向かっていった。
美しいカーブを描く後姿を見ながら、篁はため息をついた。
マサキは愛用のホープを片手に、白銀を前に熱弁を振るっている最中であった。
BETA戦争がひと段落をついたことで西ドイツの経済に陰りが見え始めた事、そして米国はニクソン以来の深刻なスタグフレーションが続いている。
このままいけば、米国はおろか、G7各国が日本への対米貿易黒字の削減と日本円への協調介入を提案してくるのではないか。
前世のプラザ合意の経験から得た知見を、熱心に説いていた。
「もうそろそろ、お昼ですね」
アイリスディーナは、マサキの前に座った。
「そうだな」
「食事の準備は……」
「美久に買いに行かせた」
食事の準備は、美久と鎧衣に任せっきりにしていた。
こういう時は裏方に回ってくれる彼らは、非常に助かる存在であるとマサキは思った。
「まあ、兄さんと違ってちゃんと準備しているんですね。
所で、木原さんは、義姉さんと私では、どっちのタイプが好きですか」
マサキは、いきなりの質問にドキマギした。
「どっちのタイプも、大歓迎さ!」
マサキは何も考えずに、軽く答えた。
アイリスディーナは笑っただけだった。
会話が途切れた。
その時、ジュースを持って来た美久が現れる。
「コーラは俺と白銀、ミラに、ビールは篁。メロンソーダはアイリスに渡せ」
マサキは美久の方を向くと、色々とこまごまとした指示を出している。
アイリスディーナは、マサキと対等に話できないことを悔やんでいた。
きっと私じゃ役不足なんだわ。
氷室さんの様に、あけすけに応対してほしい。
アイリスディーナは、何とも言えない苛立ちを覚えた。
マサキは、アイリスディーナにとって例外だった。
今まで知り合った男の中で、色々と親切にしてくれるし、家族ぐるみの付き合いもある。
それだけにアイリスディーナのマサキに対する感情は、特別だった。
いや、かえって軍隊という男社会に籍を置いたことで、マサキにこだわりを抱くようになったと言っても過言ではない。
アイリスディーナは体育すわりをしながら、あれこれ考えるうちに、いつの間にか転寝をし始めてしまった。
「早く食べないと冷めるぞ」
脇に座るマサキの声で、目が覚めた。
日本に来た疲れですっかり眠ってしまったらしい。
誰かが買って来たらしい焼きそばやフランクフルト、イカの姿焼きが並んでいる。
「いや、しかし市販のラーメンの方がうまいな。
海辺で食うという思い出以外、評価できることはない」
マサキはラーメンのどんぶりを持っていた。
「まあ、カップ麺でも買った方がいいですよね」
「お前もそう思うか」
マサキと白銀の思いがけない会話に、アイリスディーナは驚いていた。
カップ麺は東独はおろか、西独でも高級な保存食の扱いだったからだ。
自由経済の贅沢な暮らしに慣れていないアイリスディーナの目には、日本の生活全般が洗練されたものに映る。
東西冷戦の最前線の一つである日本の発展ぶりを目の当たりにし、今まで信じた価値観が崩れ落ちていく気がした。
アイリスディーナは海を見つめたまま、何も話そうとしない。
邪魔をしてはいけないという配慮から、誰も声をかけなかった。
ミラは、遠くからアイリスディーナの横顔を見ながら、その孤独感を感じ取っていた。
軍の花形である戦術機部隊のパイロットでありながら、こういう一面を持ち合わせていることを今知った。
アイリスディーナが日本で過ごした1週間はあっという間に終わった。
保安検査場の入口の入り口に立った五人の日本人に見送られながら、機中に向かった。
篁をはじめとする日本人たちは、皆和やかな表情でそれぞれ別れの言葉をアイリスディーナに投げかけてきた。
そこには企みもなかったし、憎しみもなかった。
保安検査の間、アイリスディーナは日本で体験したことが、やはり夢だと思った。
そうでなければ、淡々とわかれることができるはずもないと考えた。
やがてイリューシン62は伊丹国際空港を離陸し、ターミナルビルは見えなくなった。
夏の空を飾る綿雲を機窓から眺めながら、アイリスディーナは19歳の東独の少女という現実へ引き戻っていった。
後書き
サミット編は終わりです。
ご感想お待ちしております。
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