冥王来訪
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第三部 1979年
戦争の陰翳
外交的解決
前書き
今ってウルトラCって使わないんですね……
まあ50年前の話だから、古い表現でも良いかな
九條亭から逃げた穂積は、京都の嵐山にある自宅に逃げ帰っていた。
そこには年下の妻が待っている。
穂積の新妻は、沙織と言い、九條と妾の間に出来た娘である。
日ソ貿易をする穂積を取り込むために、九條は妾腹の娘を差し出したのであった。
「誰か、おらんか」
鍵のかかってない玄関を開けると、穂積は誰何した。
家にいる家政婦は、いつも朝4時に起きて家事を行っているので不審には思わなかった。
穂積は、明日からのソ連への逃避行に夢中で、警戒心は薄れていたのかもしれない。
だが部屋に入るとか政府はおろか、妻の姿は消えていた。
部屋は荒らされていて、争った形跡がある。
ルイ・ヴィトンの旅行鞄がひっくり返り、持ち出すはずだった有価証券や宝石類が散らばっている。
その時、部屋にある黒電話が鳴った。
聞き覚えのある妙に平板な日本語が受話器から聞こえてきた。
「沙織さんはこちらで預かっている」
KGB大佐の男で、大阪総領事館の警備部長だった。
穂積は、焦りを感じると同時に最悪の事態は免れたことへ、すこしだけ安堵した。
指定された場所は、右京区嵯峨の大覚寺だった。
穂積は受話器を叩きつけて、部屋を飛び出した。
大覚寺は、今より1200年前の嵯峨天皇の御代、嵯峨の地に離宮を造営したのが始まりである。
弘法大師空海の勧めにより、五大明王像を安置し、その後、寺院になった場所である。
現存する伽藍や境内は、応仁の乱による荒廃の後、江戸幕府によって整備し直された。
平安期から残っているのは、敷地の中にある大沢池という人工池であった。
大沢池のほとりにいくと、屈強な二人の男が立っていた。
穂積の妻の沙織は、黒の留袖姿で、さるぐつわをされ、両手を縛られた状態で地面に転がされていた。
「穂積さん、まってましたよ」
「妻を返してもらおうか」
その瞬間、閃光が走った。
穂積の脇腹に、7.62x25ミリのトカレフ弾が撃ち込まれる。
「あなた方には、屈原になってもらいましょうか」
屈原とは、古代支那・春秋戦国時代末期の詩人で、楚の王族である。
「楚辞」に収録された「離騒」は、彼の代表作とされ、後世の憂国の士から愛された作品であった。
屈原が生きた春秋戦国時代後期、楚の国は西方の秦との外交関係に悩んでいた。
秦の宰相・張儀の危険性を察知した屈原は、張儀の危険性と楚の滅亡の危機を楚王や政治家に進言した。
だが、聞き入れられられず、中央の政界より遠ざけられた。
それから十数年も経ぬうちに楚の首都が秦によって占領されると、先を憂いて、汨羅に身を投げた伝承が残っている。
大男は穂積の妻を抱えると、一気に投げ入れた。
絹を引き裂くような鋭い悲鳴と共に、彼女は大沢池に沈んでいく。
「ソ、ソビエトに連れてってくれるんじゃ……」
この期に及んで、穂積はソ連への亡命を信じていた。
だが現実は非情だった。
「あなたに生きていられると、この先、困ることになる……」
KGB大佐は頭を横に振った。
「さようなら、穂積さん」
漆黒の闇の中、2発の轟音と共に赤い線が走った。
穂積の腹部を銃弾が貫く。
穂積は絶叫をとどろかせながら、大沢池の中に消えていった。
KGB大佐は、握っていたマカロフ拳銃を池に放り込む。
そして懐から一通の封筒を取り出すと、脱がせておいた穂積の靴の上に置いた。
それは偽造した穂積の遺書で、将来の日ソ関係を憂いて自殺したという内容のものだった。
大佐は紫煙を燻らせながら、不敵の笑みをたたえる。
日本人の多くは穂積が屈原に倣って自殺したと考えるであろう。
もしもの為に、妻沙織の遺書も偽造しておいた。
不妊症に悩んだ末の自殺という、いかにも人を喰った内容であった。
ロシア人は時折、暗殺や破壊工作をするとき、ケアレスミスをすることがある。
かつてエカチェリーナ2世が幽閉していたピョートル3世は突如死去した際、暗殺が疑われた。
ロシア政府は噂をかき消す為に、ピョートル3世の死因は痔の悪化と発表する。
世人はロシア政府の見え透いた嘘を聞いて、失笑を買ったことがあった。
またソ連も同様で、KGB機関では雑な自作自演は日常茶飯事であった。
レーニンの暗殺未遂事件を起こしたとされるファニヤ・カプラン。
社会革命党左派の過激派とされる人物だったが、銃撃事件当時ほぼ全盲に近い状態だった。
事件発生の3日後、形ばかりの裁判すらされず、銃殺刑に処された。
この事件を契機に社会革命党の一斉取り締まりが始まり、同党は壊滅した。
その頃、マサキ達は福井県警本部に居た。
マサキ達が逮捕したGRU工作員とKGB工作員の合同チームは福井県警本部に任意同行を求められた。
だが敦賀総領事館からきた男によって、彼らは連れ出そうとする。
男は、ハイネマン博士の営利誘拐目的で逮捕状が出されているアターエフの出頭要請を拒否した。
ウィーン条約に基づく外交特権に当たるとし、彼らの即時解放を求めたのだ。
県警本部前では、ソ連領事館職員とマサキ達によるにらみ合いが起きていた。
10人乗りデラックスタイプのトヨタ・ハイエース3台から、屈強な男たちが下りてくる。
男たちは作業服姿だったが、一目見ただけで、普通の船員や湾港労働者ではないことが鎧衣は判った。
ほぼ全員が拳銃を帯びていたことから、KGBやGRUの工作員であることは明確であった。
「なぜ、日本政府はなにもせんのだ!
俺に一声かければ、目障りなソ連のボロ船など一撃で沈めてやるものを!」
マサキは、白い煙を吐き出しながら言った。
彼は一向に進展しない状況に苛立ちを覚えており、それを抑えるためにタバコを燻らせていた。
「今下手に手を出せば、ソ連にいる我が国の外交官が危ない。
彼等が何もしないはずがないのは、君自身が良く知っているだろう」
鎧衣の話を聞いた時、マサキの意識は過去に戻っていた
前の世界でも、同様の事件があったな……
1970年代にあったソ連軍情報部のGRUが日本の陸上自衛隊に諜報活動を行ったコズロフ事件。
同事件では、工作員への捜査の報復としてソ連にいる日本側の外交官が毒入りのウォッカで害されたことがあった。
事件発覚時、元陸将補(陸軍少将)と現職の二等陸尉(陸軍中尉)、准陸尉(陸軍准尉)が逮捕された。
彼等は、GRUより乱数表を渡され、ソ連から暗号指令を受けていた。
(乱数表とは、0から9までの数字をランダムに並べた表である。
ソ連や共産圏において、広く見られる暗号通信の一つである。
乱数に偽装した短波放送を通じ、スパイが持参した暗号表と組み合わせて、指令の内容を把握した)
そして防衛庁内部から持ち差された資料への見返りに、高額の現金を授受していた一大スパイ事件である。
コズロフ陸軍大佐(おそらくは偽名である)は、外務省を通じて警視庁から出頭要請を受けるも、即日帰国し、事件はうやむやの内に終わってしまった。
ソ連は本事件への報復として、グルジア訪問中の防衛駐在官(他国で言うところの駐在武官)に近づき、毒入りのウォッカを飲ませるという行為を行った。
それから時間を置かずして、ソ連駐日大使は福井県庁にある福井県政記者クラブで会見を行った。
そこには誘拐されたはずのハイネマンが、総領事と同席していた。
新聞各社のカメラのフラッシュがたかれる中、総領事が口を開いた。
「ハイネマン博士は、非公式訪日中のスホーイ博士との会見を敦賀の総領事館で行っただけであります」
築地に本社がある大手新聞社の記者が問いただした。
その新聞社は、戦前からKGBとの関係が噂される会社だった。
「では、事件性はないとの認識ですか」
「はい。
潔白を証明するために、この場を用意しました」
総領事の言葉に、その場に同席した記者ならず、マサキ達でさえあきれ返った。
この期に及んで、潔白を言い張るとは……
「潔白の証明は……」
一ツ橋に移転したばかりの新聞社の記者が聞いた。
極左で知られる新聞社で、最近は経営難で苦しんでいることで有名だった。
「少し心苦しいのですが、今は亡き故人を傷つけることになります」
「こ、故人?」
「私の古い友人である九條雅也です。
ハイネマン博士、スホイ博士、双方の知人である九條氏の仲介でソ連領事館で会合が持たれました」
マサキは男の言葉に裏を書かれた気がした。
なぜなら日本政府は五摂家の関与を隠すために、この事件の首謀者を九條の娘婿である穂積に限定しようとしていたのだ。
九條が御剣の手で殺されたことが露見すれば、批判は日本政府に向かうかもしれない。
「ハイネマン博士、貴方の口から説明なさるのがよろしいでしょう」
「は、はい……」
そういうとハイネマンは立ち上がった。
ハイネマンの顔色が悪く、傍目に見て尋常ではなかった。
所々に意識の曇りが見られ、ちぐはぐで、なおかつ立ち上がる動作もゆっくりだった。
マサキは瞬間的に、酒あるいは何かしらの薬剤の影響を受けたかのような印象を覚えた。
おそらくヘロイン系の薬物でも投与されたのではないかと疑うほどだった。
ハイネマンは深く息を吸うと、表情を改めた。
かつての部下であるミラ・ブリッジスと、曙計画を通じて知り合った篁、そして二人の息子のユウヤ。
彼等を、ソ連の魔の手から救うために覚悟を決めての会見だった。
「スホイ博士との会見をしたのは事実です。
米ソの雪解けの為に、戦術機のあるべき姿を模索しようとしての話し合いを行ったことは否定しません」
支援を燻らせながら話を聞くマサキは、焦燥感を抱いた。
(「き、切り札を……
この件の最大のキーマンであるハイネマンを奪われた」)
場面は変わって、京都にある帝国陸軍参謀本部。
そこにある第二部長室では、軍事探偵たちの悲憤が響き渡っていた。
「畜生!
それじゃあ、俺たちが今までして来た事は、何だったのですか!
必死で裏付けを取った資料までも、全部無駄だったんですか」
若い背広姿の中尉は、分厚い捜査資料の乗った机をたたく。
「……彼が穂積の仕立てた車に乗ったのは事実だ。
だが、ハイネマン博士の証言が証拠として最優先になる」
「しかし、穂積はソ連の影響下にある人間でしょう。
裏でGRUからどういう指示を受けたか、わかりませんよ」
第二部長は、窓際から振り返って答える。
「その通りだ。
だが立証できなければ、ただの憶測にしかすぎん」
若い部員たちは一様にうなだれる。
「ソ連側が簡単にぼろを出すような工作をすると思うかね。
しかも、駐日大使閣下直々のお出ましだ」
男は象牙のパイプに、両切りのピースを差し込む。
「我々は、ソ連外交のウルトラCに負けたのだよ」
言葉を切ると、第二部長はタバコに火をつけた。
部屋にいる士官たちは滂沱の涙に暮れた。
福井県庁から出てくるソ連大使たちは意気揚々としていた。
正門の前に立つ記者たちを後目に公用車に乗り込もうとしたとき、大使の目にマサキの姿が目に入った。
「木原さん、アナタ詰めが甘かったようですね」
大使は片言交じりの日本語でマサキを揶揄した。
「その様だな」
「悔しいだろうが、これが国際政治の世界の力の差だよ」
マサキは不敵に笑った。
「九條という間者は消した。
次は貴様らの番だ、楽しみにしておれ」
マサキはそういうと、タバコに火をつける。
そして、小ばかにしたように右手を振って、その場を後にした。
大使の顔から余所行きの上辺の笑みが消える。
深い憎悪に身を震わして、マサキにこう忠告した。
「次はないですよ、木原さん」
マサキは一瞬、驚愕の色を顔に浮かべる。
「今度はこちらから攻めさせてもらいますよ」
不振、不安、怒り。
そうしたものを全て含んだ、言外の意図を含んだ言い方だった。
「アナタの秘密が何であるか。
このソ連が全力で調べさせてもらいますよ」
後書き
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