| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

冥王来訪 補遺集

作者:雄渾
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

第二部 1978年
原作キャラクター編
  追憶 ユルゲンとソ連留学の日々

 
前書き
 ハーメルン版で書き下ろした第39話『追憶』の転載版です。 
暁への転載に際して、脚注を排し、加筆修正したものになります。 

 
 1978年6月某日。 
深夜22時、ドイツ民主共和国の首都ベルリン。
 ここは、東ベルリン市パンコウ区にあるベルンハルト邸。
その屋敷の奥にある(ねや)で、人の気配に感づいたベアトリクスは、はっと寝台の上から身を起こす。
被っていた灰色の毛布から抜け出し、濃紺の寝間着姿のまま、一人窓辺に立つ人物の方に向かう。
 その人物は彼女の良人(おっと)であり、東独軍戦術機隊の主席幕僚、ユルゲン・ベルンハルトであった。
深緑色のナイトガウンに黒無地のサンダル姿で(たたず)む彼の傍に行くなり、
「複数の命を預かり、状況の判断を求められる指揮官は、率先して寝るべきよ。
それにあまり夜更かししていると、明日に影響するわ……」と、()(きみ)(たしな)めた。
ユルゲンは、薄い笑いを浮かべながら、
「眠れないんだ、昔の事を夢に見てな……」
と、氷の入ったグラスを傾け、
「酒は俺が、飲みたいんでな。つきあってくれ。それとも、嫌か?」と、新妻(にいづま)に訊ねる。
ベアトリクスは柳眉(りゅうび)(しか)めつつ、
「嫌なんてこと、ないけど……」と返す。
ユルゲンは満面に喜色をたぎらせて、
「いいじゃないか。どうしたことやら、何かしらこう、お前と一緒に、一口過ごしたくなってな」
と言うと、月明りで照らされた窓外の景色を眺めていた。

 ベットの脇にあるランプの明かりをつけると、ユルゲンはベアトリクスの手を引いて、
「この際、妻になった君には、ソ連時代の事も詳しく明かして置こう」
そういうと、机に腰かけ、語り始めた。
「俺がソ連留学したことを知ってるよな」
ベアトリクスも椅子を脇に寄せ、くっつく様に座り、と応じる。
「モスクワ近郊のクビンカにいたんだっけ」
 クビンカとは、モスクワから西に60kmほどの場所にある都市である。
ここにはソ連空軍基地の他に、隣接する様に広大な演習場を持つクビンカ戦車博物館がある。
同地は世界大戦前は装甲車両中央研究所であった。
「そうだ……4年前の夏だったかな。
君たちがまだ生徒で、俺によく水泳大会の結果を、書いて寄越(よこ)した頃だよ」
再び酒杯を傾けた後、ゆっくりと語りだす。
「エフゲニー・ゲルツィンという人が、俺達ドイツ軍の教官として指導してくださった」
「どんな方なの……」
「スラブ系なのに珍しく仏教を信仰している風変わりな人でな」
 ロシアには蒙古のくびきの影響で、13世紀には仏教が伝来していた。
ソ連スタブロポリ沿海地方に隣接し、カスピ海の北西に位置するカルムイク地方。
 同地には、地続きの支那や蒙古から移住した騎馬民族が多数いたのも大きかった。
一般的に、ロシアでは仏教と言えば、蒙古経由で伝来したチベット仏教であった。
「詳しい事は明かしてくれなかったが、俺はあの人がエリスタ当たりの出身と睨んでる」
ユルゲンは、仏教徒と言う事でゲルツィンの出自をカルムイクと勝手に類推していた。
――ソ連政権は1920年から1960年まで宗教の大弾圧をおこなったが、フルシチョフの『雪解け』以降徐々に緩和していった。1970年代に大都市部では仏教の信奉者が復活し始めていた――
 
 ベアトリクスは、酒杯を片手に、何時になく興奮して話すユルゲンの様を見る。
普段は怏々(おうおう)としており、何処か自信なさげなこの男に旨酒(ししゅ)がすっかり(まわ)ったのであろうか。
満面に朱色を(たた)えて、淀みなく話す様を見ると、どこか悲しい物を感じ取っていた。
「俺と同じ空軍パイロット出身の衛士と言う事を聞いた」
「へえ、余程の変わり者でしょうね。問題児の貴方が惚れ込む人なんて」
ベアトリクスは、そう悪びれもなくいうと、同時に、貰った杯で、唇を濡らした。
「放っておいてくれ」
「こうして毎夜、あなたの口から、広い四海(しかい)遊弋(ゆうよく)しているさまざまな人たちの存在を聞くのは、なんとも愉快でたまらないの」 
そう語るベアトリクスからは、いつになく(あや)しい香気が匂い立つようであった。
椅子より立ち上がったユルゲンは、恍惚(こうこつ)と、見まもりながら言った。
「そう、いや、それで思い出したが」
「なんか面白い事でも」
「あの頃は夜毎(よごと)、君を(おも)って、寝れなかったものだとね」
ユルゲンは、思い入れたっぷり、ベアトリクスの顔を眼のすみからぬすみ見る。
さっきから少しずつ酒も入っていたベアトリクスの白磁の様な皮膚は、そのとき酔芙蓉(すいふよう)の様に、紅をぱっと見せて伏し目になった。
グラスをテーブルに置くと、ベアトリクスの方にずかずかと歩み寄り、いきなりベアトリクスの肩に手を掛けた。
「ベア、俺の熱情を、君はなんと思う。……(みだ)らと思うか」
「い……いいえ」
「うれしいと思うか」
たたみかけられて、ベアトリクスはわなわな震えた。情炎の涙が頬を白く流れる。
「一体こんな心にしたのは誰よ。ひどいわ。薄情ねえ」
幅広い胸のなかに、がくりと、人形の様な細い(うなじ)を折って仰向いたベアトリクスは、ユルゲンの炎のような瞳にあって、まるで魔法にかかったかのように引き付けられていた。







――同時刻。
ソ連・ハバロフスクにあるKGB臨時本部では、二人の男が密議を凝らしていた。
「まこと、申し訳ございません。よもやこんな事になろうとは……」
午下(ごか)、KGB本部に呼び出された特別部(オーオー)部長は顔色なく、KGB長官に、深々と頭を下げる。
 特別部とは、особая отделени(アソバーヤ・アッジェレニエ)といい、軍や警察などの実力組織の内部にあるKGB本部直属の監視ネットワークである。
KGBは、国内の実力組織を、秘密裏に監視するために工作員を多数送り込んでいた。
 KGB長官は、西日の差す執務室を歩きながら、
「ふうむ」と嘆息を漏らした。
灰色の夏季用将官勤務服(キーチェリ)を着た彼は、
「シュタージも手を余すほどの男、シュトラハヴィッツか」
そう告げると、キャメルの箱を縦に振って、飛び出した煙草を口に咥える。
 特別部部長は、KGB長官の機嫌を取る様にして、ガスライターを差し出し、煙草に火を点ける。
紫煙を燻らせた後、青白い面色して、(まなじり)をつりあげ、
「で、どうするのかね」と詰問する。

特別部部長は、彼の激色がうすらぐのを待って静かにいった。
「もはやシュミットのいないシュタージなぞ、具の挟んでいないサンドイッチの様な物です。
シュトラハヴィッツは手強(てごわ)く、後ろには我が赤軍とGRUが構えています。
容易に手出しは出来ますまい。故に、奴の腹心、ベルンハルトを篭絡することに致しました」
「それで」
「旧知の仲にある人物を使者に仕立てておきました」
「どんな人物だね」
「クビンカ基地で東欧からの留学生相手の教官をしておりました」
「名前は」
「名前はエフゲニー・ゲルツィンと申します。年の頃は35歳です」
「信用できるのかね」
「御心配には及びません。わが特別部所属の名うて工作員です。外に待たせて居ります」
「よし、呼んで来たまえ」
戻って来た特別部部長の後ろには、実に見上げるばかりの偉丈夫(いじょうふ)が居た。
 筋骨(きんこつ)隆々(りゅうりゅう)、意志の強さがみなぎっている精悍(せいかん)な顔つき。
頭髪は豊かな黒髪で、澄んだ緑色の瞳には男の誠実さが伺えた。
エフゲニー・ゲルツィンは軍服の胸をはり、自分を見つめるKGB長官の眼を、しっかりと見返していた。
『私には自信が有る』
カルムイク自治共和国出身で、熱心なラマ教の檀家(だんか)であった。
カシュガルハイヴ調査の際は、ハイヴ間近まで接近して生き残った数少ない人物。
対BETA戦で、あらゆる艱難辛苦(かんなんしんく)に打ち勝つよう鍛え上げられたのである。
『ぜひ私を東ドイツに派遣してください』
 そのゲルツィンの意思が通じたのか、長官は大きく頷くと、
「では特別部部長、書類を作れ」といい、部長を机に座らせた。
そして低い声で、東ドイツへの秘密指令を書きとらせた。
書類が出来上がると、KGB長官は花押を書き添え、極秘の印を押した。
長官は、封に入れた密書(みっしょ)を持って、ゲルツィンの前に歩み出る。
「良いか、これをドイツ駐留軍内部にあるKGB支部に見せ、そして完璧に実行せよ」
「はい」
ゲルツィンは手を伸ばした。
何処か、おごそかな姿だった。
「約束できるか」
「わが命に代えて」
密書は、彼の手に渡った。
「では行け。ソビエトの為、党の為、そしてこのKGBの為にな」
氷のように冷静にいった。


 ゲルツィンが去った後、KGB長官は立掛けた1メートル近くある野太刀(シャシュカ)に、手を伸ばす。
脇に立つ特別部部長は、
「明日のイズベスチヤ(ソ連政府機関紙)にシュミットに関する声明を掲載する手はずです。
先の東ドイツの事件は、彼の私怨(しえん)遺恨(いこん)によるもので、ソ連は関係ないとするつもりです」
と告げるも、立ち上がったKGB長官は、握った長剣を剣帯に()きながら、
「その線で行き給え」
と答え、ドアを開けて、静かに室外へ去っていった。

 KGB長官は、一人、庁舎の屋上に立ち、涼しいシベリアの夜風を浴びながら、天を仰ぐ。
何か思い出したように、突然、佩いている剣の(さや)を握って、ぴゅっと、剣を抜き去り、
(ゆる)してくれ、ゴーラ」
――ゴーラとは、グレゴリーの愛称である。
シュタージ少将のエーリッヒ・シュミットの本名はグレゴリー・アンドロポフであった――
シュミットへの追悼をいいながら、またも一振り二振りと、虚空(こくう)に剣光を描いて、
「KGBの組織を守るためには、こうする他に道はないのだ」と、叫んだ。
走らせる剣の声は、まるで男がシュミットの横死(おうし)に対して、慟哭(どうこく)するかのようであった。 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧