ロンドン郊外の英国魔導学院【完結】
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
水星の逆行と迫りくる試練
ロンドン郊外の英国魔導学院では前期試験に向けて学生が追い込みをかけていた。年に三回ある水星の逆行は地上のありとあらゆる秩序を惑わせる。特に魔導士にとっては厄介だ。地球は太陽の周りを公転しているが地上から見る星の動きは天動説になる。水星は太陽寄りの軌道を回っているため地球が外側から回り込む形で追い抜いてしまう。その際に相対的に水星が逆行しているように見えるわけだ。天動説は占星術や英国魔導の基本だ。水星の呪術的影響をもろに蒙るわけだ。
「水星の逆行期間中はありとあらゆることが裏目に出てしまうわ」
ハルシオンはぼやいた。
「ああ、これは困ったことになった」
俺たちは顔を見合わせた。ハルシオンの部屋で俺とエドガーが話をしているところに突然やってきたのはハルシオンの弟弟子のアスターだった。このところ姿を見たことがなかったが元気なようだ。しかし彼はひどく疲れているようでもある。
そして今に至るというわけだ。
さっきまで学院内はいつも通りだったが今はもうそうじゃない。廊下の向こうからは悲鳴も聞こえるし窓の外には得体の知れない影が見えるような気がする。いや、見えるんじゃなくて気のせいか……?
「ねえアスター。あんたなんでここに来たんだ?」
はあーっと息を吐いて床に座ってしまった彼に訊ねると「わからないよ!」と答えて肩を落としたままうなだれた。どうやら彼も同じ状況らしい。学院内が混乱してるとわかっていながらなぜ来たのか謎ではあるが、何か事情がありそうだ。とりあえず俺の部屋に来ればと連れてきたが……。
アスターは力なく呟いた。
「僕もまさかこんなことになっているとは思ってなかったんだけどね……。あの日はちょうど、姉さんと一緒に魔法を使った試験をしてるところだったんだ。僕は土星の術式を使っていたんだけれど……」
ハルシオンは火星の術式で炎を出す。それは攻撃魔術としてはポピュラーなものだし水星の逆行の影響もそれほど受けるものではないのだが。
「その時に姉さんの火が制御を失って暴走してしまったんだよ」
それってまずくないか!? 学院内のあちこちから火事になっていると聞こえてきた。俺は部屋を出て階段を走り降りようとしたところでエドガーに出会った。
「リディア!どこに行くつもりなんだ」
「学院が大変みたいだよ!だから消火に……っ、え?きゃあっ!!」
駆け下りかけた足下の石畳が突然消えてバランスを崩す。
咄嵯に手すりにつかまって転げ落ちずに済んでよかったと思ったものの目の前の光景を見てぞっとした。消えたと思っていた地面の下に穴ができていたのだ。しかもそこからぬめりを帯びた手が突き出ていて手すりを握った俺の手を掴み引きずり下ろそうとするように力を込める。
慌てて手を離して後退るが掴まれていない方の足を後ろへ引いた途端今度はそちらにも同じように手がかかり穴へと引き込まれそうになった時だ。横合いから伸びて来た腕がその手首を掴んでいた俺の手を引き剥がした。引っ張られた勢いそのままに転びそうになる身体を支えた力強い腕の持ち主を見るとエドガーだ。ほっとしたと同時に胸元に飛び込んでしまいそうになったことに焦る間もなくまたも足元が崩れ落ちた。今度は足首を掴む手に引き上げられて転倒を免れたけど危なっかしいことこの上ない。俺より小柄なエドガーに助けられてしまった屈辱もあってムッとしたがすぐにそんなことを気にしている場合じゃないと頭を振る。
「おい!大丈夫なのか?しっかりしろ!」
上からエドガーの声がかかるので見上げると天井の穴の向こう側から心配そうな顔を覗かせている彼と目が合った。
なんとか返事をする。ここは地上よりも地下の方が危険なんじゃないかと思う。何が起こるかわかったもんじゃない。早く上に戻れと言う前に、俺も上の階に上がる方法を探すべきかと視線を走らせた瞬間再び足下で轟音が鳴り響く。崩れたのは通路じゃなく壁か!?いや違う。天井の一部分だ。それが落下してくるのに気づいてエドガーを突き飛ばすように離れた直後だ。背中に衝撃を受けつつその場に押し倒された。同時に背後でどぉんっと爆発するような音を立てて壁に亀裂が入ったかと思うと崩れ落ちて行く様子がわかった。エドガーの上に倒れ込んでいた身体を起こしながら起き上がったとき、エドガーの顔のすぐ横に小さな人形のようなものが落ちていることに気づいた。これ、妖精だ……。ということはさっきの壁は崩落ではなく妖精の仕業ってことになる。そしておそらくはこれがハルシオンの弟弟子であるアスターの姉貴分にあたる人だろうと思われたのだが。
(……あれ?)
ページ上へ戻る