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ヤツカダキ恋奇譚

作者:わに
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最終夜 「赤月」


『……また随分と、派手にやられたねえ』

のんびりとした声を夜風がさらう。濁った池を掻き分けながら姿を見せた馴染みの顔は、常に比べて疲れているように見えた。
赤く、紅く燃えるようなたてがみは一部が削ぎ落とされ、ゆらりと揺れる尾には至るところに傷があり、炎を塗り固めたような甲殻には血が付着している。
紅鶸や洋紅といった差し色は変わらず艶やかなままだったが、麻痺の傾向が体内に残されてしまっているのか、歩き方もどこかぎこちない。

『幻影。君の言うように足止めはしたが……意味はあったのだろうか。あの火事だ、今頃彼らは』
『テスカト。ありがとうね。いいんだ、あの子らのことは、もう』

空色の眼が藤色の怪異の顔をじっと見つめた。何か言いたげな眼差しではあったが、彼はそれ以上オオナズチを問いただすようなことはしなかった。
炎と爆破粉塵を操る古龍、テオ・テスカトル。火に弱いオオナズチにとって脅威となり得る力の持ち主だが、彼はその外見とは裏腹に沈着な風格も併せ持つ。
多くを語らないまま、炎王龍は頭を振った。ちらと後方に投げられた空色の視線は、徐々に勢いを死なせていく竜巻を映して黒く艶めく。
ふ、と短い溜め息が漏らされた。オオナズチに向け直された視線には疲労はもちろんのこと、呆れや憐れみの念も滲んでいた。

『彼の狩人、筋が良かった』
『おや、そうかい? なら彼も本望なのでないかなあ』
『喪われることが彼の者の運命とは。しかしそれも定められたこと……惜しい、そして皮肉なものだ』
『テスカトは優しいねえ。それとも、今のは皮肉かい?』

どちらと捉えても構わない、そう答えるようにテスカトルは頷いた。ふむ、とオオナズチが首を傾ぐと、不意に二頭の周りに風が起こる。
ぶわりと水飛沫を巻き上げ、風は翔るように周囲の落葉を吹き飛ばした。派手な登場だねえ、と霞龍は楽しげに笑い、炎王龍は眩しげに眼を細めてみせる。

『――霞の! 生き物の気配が、死に絶えたぞ!』

ずん、と派手に音を立てて着地し、焦燥した声色で暴風の主はまくし立てた。根は神経質であれど、冷静さを欠かさぬ彼には珍しいことだ。
クシャルダオラはぎしりと牙を鳴らした。面食らったように左右の眼を反回転させながら、オオナズチはクシャナも大概お人好しだなあ、と独白する。
……彼には「大社跡奥、妃蜘蛛の巣で起こり得る『火災』の鎮火」を依頼していた。まさか本当に、あれほどの炎を起こされるとは予想していなかったが。
力強く歩み寄ってきた鋼龍は、睨めつけるような眼で霞龍の前に立つ。動揺しているのか、それとも動転か。彼の口端には凍てつく風が纏わりついていた。

『うん。端からね、あの子たちが助かるとは思っていなかったから』
『……分かっていて、俺に嵐を起こさせたのか』
『クシャナ、テスカト。言い方は悪いかもしれないけれど、僕が君たちに足を運んで貰ったのは妃蜘蛛の件だけではないんだよ』

オオナズチの視線は冷淡に二頭から離された。遙か彼方、異質な気配が大気を打つ。
ぎょっとして、鋼龍と炎王龍は目線を上げた。竹林がざわつき、空気が揺れる。風は強まり、次第に天上の雲は薙ぎ払われていった。
誰かの悲鳴が聞こえた。誰かがむせび泣く声を聴いた。真っ赤な月が顔を出し、大社跡全域を不気味に紅く染め上げる。
轟音、震動、心臓を鷲掴みにする純粋な恐怖……土埃と血の臭いがして、次の瞬間には、その「群れ」が百の鬼として列を連ね、大挙して押し寄せていた。

『ッおい、霞の!!』
『不穏な気配だ。これも定めだというのか』
『言っている場合か、炎王!』
『――落ち着きなよ、クシャナ。テスカトの言う通り、これは「避けられない」ことだ』

竹林が、落葉が、池が、山々が、滝が、清流が。ありとあらゆるものが踏みにじられ、荒らされ、砕かれていった。
妃蜘蛛の暴走が止まったことでようやく訪れた静寂は、瞬く間にその「群れ」に奪われ尽くした。
列を成す怪異は、どれもが発狂したようにけたたましい鳴き声を上げ、または怒り狂い、泣き叫び、我を忘れたように一斉に大社跡を通り過ぎていく。
オオナズチは微動だにしなかった。黙して眼を閉じ、親しい古龍にその場に留まるよう勧め、禍が過ぎるのをじっと待っている。

『……行った、のか』

クシャルダオラが呻くように呟いた頃には、荒れ果てた河川と大地が遠望に広がっていた。時間が経てば元に戻るさ、大社跡の主は嘆息交じりにそう諭した。

『考えていたんだ。何故、怪異たちが殺気立っているのか。どうして、一部のヤツカダキがあの巣穴から出て人間に見つかるような真似をしたのか』

一歩進んでは下がり、また一歩進んでは下がり。オオナズチは荒らされた直後の池に降り立って、夜の空に浮かんだ月を仰ぐ。

『全ての物事には理由がある……人間の持論だってさ。だったら、僕たちの知らぬ何者かがあれらを率いている可能性もないとは言い切れないよね』
『……霞の』
『テスカト。君の奥さん、今は溶岩地帯の奥地で子育てしているのじゃなかったっけ。元気にしているかい?』

ざわりと、炎王龍のたてがみが揺らぎ、震え、逆立つのが見えた。煽るな、小声で仲裁に入った鋼龍は、双方を見比べた直後苦い顔を浮かべて舌打ちする。

『つまり、俺たちの管轄下でも起こり得るという話か』
『うん。向こうの正体なんてのは……さっきも言った通りさ、分からないままなのだけれどね』
『……君にしては珍しいな、幻影。来るべき災厄と知っていて策を練らなかったのか』
『どうだろうねえ。何か来そうだ、それしか分かっていなかったから。僕も長生きしすぎて、勘が鈍ってしまったかなあ』

自虐と茶目を嘆息に混ぜて、オオナズチは視線を元に戻した。一方で、眼前の二頭の古龍は苛立ちと悔しさに口をへの字に曲げている。
聞く耳を持たないのか、生来の気位の高さ故か。鋼龍と炎王龍は、霞龍が我が身を以て知らせた警告に反発する素振りを見せた。

『古来より、縄張りとは個々定められしもの。聴かざる竜、守れぬ無法者がいるのなら……より優れた竜を狩りし者に摘ませるのも、悪くない』
『馬鹿を言え、悠長に待っていられるか。そら、そこのたたらの里でさえ先の連中に呑まれているではないか』
『……うーん。ふたりとも、気持ちはありがたいのだけれど、僕のお話聞いていたかい?』

悲鳴、慟哭、怒号、阿鼻叫喚。未だ明けぬ暁の下、灯火は容易く折られ、踏みにじられていった。それは何も、大社跡に限ったことではない。
霞龍は頭を振った。「百の竜が夜を行く」。そのような災禍、長い刻を生きてきたがこれまで一度も見たことがない。
しかし現実として、その大波は近辺の里を人間の生命ごと刈り取っていったのだ。遠くから、彼方から、人間のものだけでなく怪異の悲嘆も聞こえてくる。
……食い止めなければならない。元凶を突き止め、支配下の怪異を先導して被害を抑え。これ以上「禍群」の好きにさせてはいけない。

『古龍の腕の見せ所だ。霞の、俺は群島に戻るぞ。雪鬼だの轟きだの人魚だのと、策を立てねばならん』
『私もそうさせて貰おう。妻にも用心するよう、伝えねばならないのでね』
『ふたりとも、本当に僕のお話……いや、無粋だったね。分かったよ、特にテスカト、十分に気をつけて』
『嗚呼』
『ではまた』
『次の其の日まで』

――何時しかの密談は、こうして幕を閉じた。人知れず紫紺の炎が大気を撫でつけ、夜陰を好きに通り過ぎるうち、三古龍は確かな盟約を取り交わす。
何時の日か、あぶれた竜どもが摘まれる日も来るだろう。ぽたりと池の咬魚が跳ねた後、そこには誰の姿も残されていなかった。






ギルドが正式に名付けた災禍、「百竜夜行」。その被害総数は三日を過ぎてもなお把握しきれず、荒れ果てた里や村は片手では足りないほどだった。
焼け焦げた元は住居であったはずの瓦礫に腰を下ろし、黒髪の男は彼にとって人生初、といえるほどの深い溜め息を吐く。赤い洋装は返り血のどす黒さや泥土で汚れており、元の鮮やかさなど欠片も残していなかった。

「……大丈夫か、お若いの」

ふと目の前に影が差す。顔を上げると、四十ほどと思わしき中年の男がクーロを見下ろしていた。黒髪黒瞳の長身で、青年と同じように防具の損傷が激しい。
背中には一振りの黒い太刀を背負っている。こちらも刃こぼれが目立ち、酷い有様だった。返事ができずにいると、ほら、と手を差し出された。

「……どうも」
「何、困ったときはお互い様だ」

放っておいて欲しい、その言葉を飲み込んで手を掴む。互いの全身から砂埃が落ち、この男もあの災禍に立ち向かった一人か、と納得させられた。
貫禄はもちろんのこと胆力も備わっている。長いこと狩人をしているのだろう、大きな硬い手にはところどころ血豆が浮いていた。

「酷かったな。百竜夜行、といったか」
「……ああ。だが、一番大変なのは村の者だ。ギルドも支援は行うが、」
「お若いの。まず俺は、あんたを労いたいんだ」

どういう意味か、そう問う代わりに顔を上げたクーロは、男が今にも泣き出しそうなほどに顔をくしゃくしゃに歪めている様を見た。
この男は何者だ、疑問に片眉を上げていると背後から名を呼ばれる。ふらつき、よろめきつつ駆け寄ってきたのは、この里で受付嬢を勤めるトゥーリだった。

「トゥーリ、」
「ぴえぇ……見つけましたよぉ、クーロさん。あの、支援物資の第二陣が届きましてぇ」
「ああ、それなら……」

刹那、はっとクーロは振り返る。いつの間にか先の男は姿をくらましていた。足元には足跡の一つも残っていない、まるで幻でも見たかのようだ。

「クーロさん? どうかしました?」
「ああ、いや……それよりトゥーリ、夜一やそのオトモは」

刹那、悲痛に歪んだ顔は容赦なく横に振られた。涙を流して悔しがる受付嬢を前に、泣きたいのは俺も同じだ、とは言えず黙り込む。
外れ里の狩人、夜一。流れ者ではあったが、近年はトゥーリが常駐する里を拠点として名を上げ始めたばかりだった。当人は知らぬままだったのかもしれないが、既にドンドルマではその名も知られるところとなっていた――否、それ以前に自慢の友人だったのだ。
ニカリと子供のように笑う顔を思い出し、クーロは声を詰まらせる。馬鹿が、と罵りたくとも行方不明者が相手ではどうすることもできない。
それが酷く、もどかしかった。

「暁ちゃんや灯火くんの痕跡も……大社跡もかなりの被害を被っていて、捜すのも困難なんだそうですぅ」
「ああ。聞いているよ」
「クーロさん。わたし、里の受付嬢を辞めるつもり、ありませんからぁ」

不意に鼓膜に響いた宣言に、クーロは静かに顔を上げた。眼前、ひびの入った眼鏡の奥に涙を光らせながら、トゥーリは毅然として黒髪の騎士の前に立つ。
いつからこんな顔をするようになったのだろう。記憶が正しければ、彼女はいつも夜一の背中を目で追うだけの臆病な気質だったはずだ。

「辞めずにいれば夜一さんが戻ったとき出迎えられるじゃないですかぁ。だからわたし、辞めません。どんなに辛くても、あの人の導きの星になれるよう」
「……辛い人生になるぞ」
「平気ですよぅ。待つのには……モンスターの生態報告書待ちで、慣れてますからぁ」

えへへ、と笑う少女を前に、夜一も惜しい女を逃したな、とクーロは苦笑した。しかし、友人が他の女性を心から愛していたことも知っているのだ。
名は確か、艶といったはずだ。トゥーリと別れた後、ふとクーロは夜一と最後に言葉を交わした彼の自宅へ足を向けた。
火竜に焼かれ、雷狼竜に踏みにじられ、泡狐竜に打ち破られ……夜一の仮住まいは、他と同様、目も当てられないくらいに傷みきっていた。意味を成さない引き戸を開け、中に踏み込む。そうしてクーロは、無人と決めつけていた家屋の中に人影を見つけて固まった。

「君は……」
「なっ、何よ、ここは私の父が貸していたのよ! 夜一さんの物くらい、私の好きにしたっていいでしょう!?」

元は艶やかだった黒髪に、美しい着物。今や見る影もないほどに憔悴しきったその娘は、里長の一人娘だったはずだ。
何かを両手で隠し持ち、急いでその場から逃げ去ろうとする――火事場泥棒か、カッと頭に血が上り、クーロは珍しく怒気の籠もった手で娘の腕を掴んだ。

「いっ、痛い! 離してっ!」
「ふざけるな、夜一の家で何をしていた!」
「あなた何様なの、私の勝手でしょう!? お父様に言ってやるから!」
「――俺は夜一の友人だ! 勝手な真似は許さん!!」

「もう、あの男は生きていないかもしれない」。
クーロにとって、それは職業柄身に染みついた直感だった。誰にも吐露しなかったが、それは偽らざる本音だった。
あの日、あのとき、夜一を追わなかったこと。痺れを切らした暁と灯火の、泣き出しそうな睨めつける眼差し。あの燃える眼は今も忘れられない。
できることなら生きていてほしい。オトモ共々ふとしたときに何事もなかったようにふらっと戻ってきてほしい。いっそ元気な姿を見せてくれるだけでいい。
ただそれだけだった。多くを望めるような交友ではなかったし、夜一もそのくらいは理解してくれていると思っていたのだ……。

「やめっ……離してっ――」

――それが決定打となった。
つるりとスガリの手から取りこぼされた「小瓶」は、呆気なく土間に落ち粉々に砕け散る。カチン、とごく僅かな音が聞こえるばかりだった。
次の瞬間、ぶわり、と視界全域が紫に染め変わる。靄、いや、霧か煙か、それとも霞か。小瓶から飛び出した気体は、あっという間に夜一の自宅を覆った。

「うっ、」
「こ、これは……っぐう……ッ」

真っ先に、長の娘が膝を折った。咄嗟に腕で鼻口を覆ったクーロもまた、恐るべき速度で浸透してくる毒素に抗えない。
脂汗が滴り、悪寒が走り、両足が震えた。これはまずい――ふらつく足を叱咤して歩を進め、夜一の狩猟道具が詰められた青色の収納箱に手をかける。

(……すまん、夜一)

視界が霞み、手元がおぼつかない。それでも辛うじて、青色の液体が詰められた薬瓶を取り出した。一気にそれを呷ると、呼吸を止め直して家屋を飛び出す。

「あっ、クーロさん! これって……」
「息をするな! 毒霧だ!!」

クーロが怒声を張り上げた瞬間、トゥーリの行動は早かった。すぐさま取って返した彼女は、残存している里人を誘導して街道に退避を図る。
里は、一瞬にして恐怖に陥った。しかし、幸いにも毒霧がその場に滞留する仕様であったこと。何より避難が早かったことで、被害は最小限に抑えられた。里長は愛娘を喪ったことで消沈していた。しかし「限界まで濃縮された毒素」の影響は計り知れず、里への立ち入りはしばらくの間禁じられた。
以後数年、件の里は人の住めない不毛の地として地図上から登録を抹消されることとなった。毒の主がそれを見越していたかどうかは、未だ分かっていない。



 最終夜 「赤月」



……暗がりが、広がっていた。はっとして顔を上げると、薄ぼんやりと自分の姿形が見て取れる。
恐る恐る、手のひらを目の前にかざした。驚くべきことに、元の形に戻っていたはずのそれは霞龍が施したあの秘術を元にした人間のそれに変化していた。
ぱっと腕を動かし、顔面をさする。目元も、額も、頬も、鼻筋も、唇も、首筋も、肩も、腕も……全ての部位が「艶」のものになっていた。
言葉をなくして立ち竦んだ。一体、自分はどうなってしまったのだろう。何故今更、この姿に化けることができているのだろう。
「もう、この姿で会いたい人間は死んでしまった後なのに」。そう考えた瞬間、瞬く間に視界が潤み、霞んでいった。

『……夜一、さん』

常のように涙が零れる。両手で顔を覆い隠して、よろめくままにしゃがみかけた次の瞬間――艶は、横から誰かに肩を掴まれていた。

『……艶』

頬に、目尻に、柔らかな感触が触れる。溢れ出た涙がその唇に吸い取られ、息つく間もなく抱き寄せられる。
目を白黒させたまま、艶は自分を掻き抱く男の姿を見た。黒く長い髪の一本結びに、人好きのする面立ち、黒い瞳。逞しい腕と胸。
驚きに染まった顔で見上げると、照れくさそうに頬を掻く夜一と、はっきりと目が合った。

『よ、いち、さん?』
『うん。遅くなってごめんな、艶』
『夜一さん……ほ、本当に夜一さん、なのですか』
『ああ。ただいま、艶』

艶は、激情に駆られるままに夜一に抱きついた。直後、「あの貫き刺した瞬間」を思い出して男の胸板を指先で押し返す。夜一はそれを許さなかった。互いの体が離れかけた瞬間、狩人は渾身の力を込めて最愛の女を抱きしめ直す。
むせ返るような甘い香りが満ちる。気がつけば、二人はどこまでも透き通る水が流れる清流の傍にいた。その傍らには、季節外れの薔薇の花が咲いている。
どれも、艶の髪飾りと同じ艶やかな紫色をしていた。香りは綻ぶように立ち上り、その様は紫紺の炎を揺らめかせているように見えた。

『……っ』
『艶。ああ、艶。ずっと、こうしたかった』
『よ、いちさん……く、苦し……』
『うんっ? あ、わ、悪い。ごめんな、艶』

ようやっと、ほどよい力加減で緩く抱き合う。至近距離に愛しい狩人の呼気を感じて、艶はたまらず自らその元に唇を寄せた。驚いたように固まる夜一を見上げて、涙混じりの目で微笑みかける。途端に狩人の顔が夕焼けのように真っ赤に染まって、我に返った艶も頬を朱に染めた。
心臓が、早鐘のように鳴っている。そっと手を取られ、されるがまま任せてみると、夜一は何を思ったのか艶の指を解いて自身のそれと絡め始めた。

『……っっ』
『うん。やってみたかった、んだけどなっ、これ、結構恥ずかしいな……』

だんだん尻すぼみになる男の口調に、艶はもう何が何だか分からない、というように混乱した。指同士が絡まり合い、直接的な感触と熱が纏わりついてくる。
恥ずかしいどころの話ではない。うう、とも、ああ、とも言えない声を漏らして俯くと、今度は顎を掴まれ上向かされた。

『よ……っ、』
『……艶……』

久方ぶりの甘い触感に、体がぞくりと震えた。荒い息を繰り返して額を重ね合わせれば、互いの鼓動がいつにも増して速まっているのが分かる。
この人が、この男がたまらなく好きだ――もう一度、そうねだるように目を閉じれば、何度でも甘やかな幸福感が降ってくる。

『夜一、さん。愛して……』
『俺もだ、艶。艶……ッ、いっで!!』

このままこの時間が続けばいい……うっとりと陶酔する間、ふと唇が離れた瞬間、艶は夜一の唐突な悲鳴に目を瞬かせた。
すぱん、と小気味いい音がしたのだ。慌てて周囲を見渡すと、これまた驚くべきことに、見知った顔の影が二つ分、艶たちの応酬を物言いたげに眺めている。

『ニャー。旦那さん、それせくはらってやつですニャ。ギルドナイト案件ニャ』
『ワォウ。ワォーン、ワゥゥン』
『えっ……まさか、暁ちゃん、灯火くん!?』

艶は、頭を分厚い本で叩かれた夜一を置き去りにしてオトモたちに抱きついた。川辺と同じような薔薇の香りがして、胸に立ちこめる切なさ共々力を強める。
あの日、あのとき、助けられなかったこと。そんなことなど露ほども気にせぬ様子で、ふたりは艶の抱擁を受け入れた。背中に回される小さな手と前脚の感触に、艶はまたしても視界が潤み、霞んでいくのを自覚した。

『ニャー。艶さん、旦那さんに泣かされてないですニャ?』
『……あ、暁ちゃん。それは……その』
『ワンワン、ワフフーン?』
『えぇと……ええ、大丈夫よ、灯火くん。私も、今はお腹すいていないから』
『あーかーつーきー……艶……っていうか、君灯火の言葉分かるようになったのか!? いつの間に!? 俺だってまだ完璧に読み取れないのに!!』

地団駄を踏んで駄々をこねる狩人に、艶は苦笑いを返した。そうだ、彼らはやはり、こうでなくては。

『ところで、その、夜一さん?』
『うん? どうした、艶』
『いえ、私たち、死んだのでは』
『あー……死後の世界、ってやつじゃないか。俺、日頃の行いが良かったから』
『……』
『じ、冗談だ。でもほら、もう痛くないし腹も減らないし……艶にも会えたから。もう、いいんだ』

俯き、涙を零しそうになる艶の額に己のそれを重ね、夜一は柔らかく苦笑する。泣くなよ、そう言われてもしばらくの間涙は止まらなかった。
暁たちもそっと両隣にやってきて、慰めるように丁寧に肌を撫でてくれる。それが幸せすぎて、夢のようで、艶は何度も頷き返した。

『……夜一さん』
『うん。あ、謝るのはなしだぞ、艶。俺の方が君に酷いことさせたんだから』
『……で、でも』
『いいから、恨みっこなしだ。ほら、他に言いたいことがあるんじゃないか』
『……それなら、その』
『うん』
『その……その格好、どうされたのですか』
『へっ、格好?』

一段落、とばかりに川岸に腰を下ろした矢先、艶はずっと気になっていたことを指摘する。夜一やオトモの出で立ちについてだ。
先端が歪曲した濃紫の棘や濡れたように光る甲殻、ぼうと点る琥珀の灯をアクセントに、白く強靱な蜘蛛糸を重ねて織られた織物が身を包む。
彼らは皆、そのような「妃蜘蛛」を思わせる衣装を纏っていた。自分とて例外ではない。艶は、左太腿が露わになる形のそれを気恥ずかしそうに見渡した。

『どうって……艶はどうなんだ? 俺はここにいたときから、こんな格好だったけど』
『私もなのです。では夜一さんの趣味というわけでは、』
『うん? 俺は艶のそれ、祝言を挙げるみたいで綺麗だなって思ってるけど』

艶は、ぼんっと顔が真っ赤になったことを知覚した。慌ててそっぽを向こうとすると、お約束のように顎を掴まれ振り向かされる。そのまま熱く口付けし合う主人たちを見て、暁は灯火の眼を塞ぎながら大はしゃぎしていた。ついに結婚ニャ、そんな野次を飛ばされ、もう気が気でない。
しかし、夜一に好かれ、愛されていると自覚することは何物にも代え難い喜びだった。熱い吐息を漏らして見つめ合えば、胸いっぱいに充足感が満ちてくる。
こちらの心情を見透かしているのか、夜一はふと柔らかく、幸せそうに笑った。またも指を絡ませ合い、今度はその指先に口付ける。

『よっ、夜一さん!?』
『艶。俺の伴侶に……俺のつがいになってくれ』
『……!』
『君が欲しいんだ、誰にも渡したくない。なあ、いいよな?』

駄目か、耳元で囁かれ、艶はたまらず何度も首を縦に振った。明らかにふっと笑う気配が聞こえて、次の瞬間にはこめかみに唇を寄せられている。

『し……』
『うん?』
『死んでしまいます……し、心臓が、保ちません』
『はは、死んだら困るなあ……俺と今度こそずっと一緒にいてくれ、艶。暁も灯火もな、ずっとだ。ずっと……今度こそ、皆で一緒にいよう』
『はいですニャー! 旦那さんは泣き虫だから、仕方なく、ですけどニャ!』
『ワンワン! ワォーンッ、ワゥゥン!!』
『もうっ……夜一さんの、ばか。ばか、ばか……ずるい、んだから。本当に……』
『……うん。俺もそう思うよ。艶』

寄り添う。語り合う。見つめ合う。指を絡め合い、歩調を合わせ、笑い合いながら冥い川岸のほとりを往く。
次第に暗がりは夜陰のように深さを増し、異形と人型、砂利の上に置かれた二つ分の影がどろりと溶け合い、重なっていった。
暁は抱える書物を読み上げ、灯火は薔薇の花束を背に乗せ、式場までの道を先導する。
艶は、夜一は、笑みを交わした。オトモたちに気取られないよう唇を重ね、いつしか、白と紫で彩られた美しい門の前に立つ。

『この先って、どうなっているのでしょう。夜一さん』
『分かんないな。でも、一緒なら何も怖くないさ。艶』

絡めていた指を解き、強く手を繋いだ。空いている手をオトモたちの手や装飾品に絡め直し、誓いを立てた二人が躊躇なく眼前の扉に重ねた手を当てる。
重苦しい音を立て、門は開かれた。踏み出した夫婦の背を押すように、どこからか柔らかな旅立ちの風が吹き寄せた。



――斯くて、其れら咎人は旅に出た。彼等が此の後、如何なったのか。其れはまた、然るべきときに語るとしよう。
 
 

 
後書き

……

多くは語るまい(ふんぞり)
クーロ、トゥーリの未来についてはぼんやりとした構想はありました。蛇足ということもあり書かずに終わっています。
スガリの最期は「彼女の我が儘」、「危機を予見した結果」、どちらの可能性もあります。
もしかしたら彼女だけが霞龍の策を見出したのかもしれません。

ヤツカダキのモチーフとなった怪談も参考資料としていますが、実はそれらの設定は艶ではなく夜一に付与しています。
やぐらに登る、(火事ではなくとも)プチ百竜夜行を扇動する、蜘蛛女と交わる、など。
彼の気質の危険性はネム、霞龍らが見抜いていましたが、暁、灯火はそのストッパーとしての役割を果たす存在でもありました。
裏話、零れ話です。
 
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