| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

ヤツカダキ恋奇譚

作者:わに
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

弐日目


「さあっ、何もないとこだけどゆっくりしてってくれ!」
「旦那さーん。薬草とか道具とか散らかしっぱなしニャー」
「うわーっ! ちょ、艶っ、ちょっとだけ待っててくれ!」

案内されたのは、夜一がオトモとともに暮らしているという彼の自宅だった。年季の入った木造の平屋で、この辺りではよく見る佇まいだ。
ヤツカダキは、明かりを灯しがてら室内を慌てて片付け始めた夜一とアイルー・暁から視線を外して周囲を見渡した。
思ったよりも掃除が行き届いていて、畳やい草の匂いが心地いい。外気と外光がよく入り、造りそのものは古びているものの清潔感も備わっている。
ふと白い粉が視界を過り、目を向けると、大きな窓の前に置かれた杵と臼、粉挽きの石臼が忙しなく絡繰り仕掛けで動いていて、ひっきりなしに米や麦の類を挽いていた。
……独特の匂いが鼻に刺さるが、そもそも人間は雑食性の生き物だ。あれらは恐らく、この男が主食としているものであるのに違いない。

「ウゥ~……ワン!!」
「ニャー? 灯火、さっきからどうしたのニャ?」
「あっ、艶! こ、こっちは片付いたから座ってくれ」
「ええ……ありがとう、夜一さん」

入り口付近で待機していたヤツカダキの真横で、未だにガルクの灯火がうなり声を上げていた。
首を傾げながら暁が近寄ると、彼は怯えたようにアイルーにしがみつく。
「これ」は勘がいい牙獣だ、気をつけなければ――ヤツカダキは艶の面でにこりと二匹に笑いかけ、夜一の手招きに従って囲炉裏の前に腰を下ろした。

「ごめんなさい、夜一さん。私、昔ガルクに噛まれたことがあって苦手なのです。怖がっているのが彼には分かるのかもしれません」
「えっ、そうなのか!? ……灯火は俺が拾ってきて、ずっと長いこと一緒にいるんだ。艶、申し訳ないんだが」
「いえ、大丈夫です。近寄らなければ……見ている分には怖くありません、可愛いとすら思いますし」
「かわい……そ、そうだよな、ガルクは可愛いよな。けど、俺が思うに艶もかわ……」
「え?」
「うおっ、な、何でもない!! と、灯火が艶に慣れてくれるといいと思っただけだ、うん!」
「ええ、そうですね。それは、もちろん……」

「お前のご主人様の命は私が握っているのよ」。そう言う代わりに、ヤツカダキは灯火の顔に一瞥を投げた。
察したのか、若いガルクはびくりと肩を跳ね上げて歯噛みする。宥めるように彼を撫で回していた暁は、主人と艶を交互に見上げて目を瞬かせた。

「ところで旦那さん、来客用のお布団ってあったかニャー」
「ぬあっ!?」

いそいそと布団を敷き始めていた夜一が、雷に打たれたように中腰のまま硬直する。
やーっぱりなんにも考えてなかったのニャ、静かな空間に小馬鹿にしたような暁の声が響き渡った。

「艶さん、旦那さんは土間に寝かすからあのお布団借りるのニャ。申し訳ないけど明日までの辛抱ニャー」
「えっ、ど、ど、土間っ?」
「あーかーつーきぃー!! お前っ、俺のこと実は嫌いなのか!?」
「嫌ってはいないニャ。ほんとーのことを言っただけなのニャ。旦那さんは何かしらどっか抜けてる人なのニャー」
「うおおおお! 泣かす! 泣かしてやる、そこに直れー!!」
「ワォン! ワフフン!!」

ヤツカダキを放置して、狩人とそのオトモたちは格闘し始めた。
雇用されている身でありながら、オトモたちに狩人を尊敬しているそぶりは全く見られない。
どうすればいいか分からず、ただ正座して事の成り行きを見守る。数分間待った後、ようやく落ち着きを取り戻した夜一が艶の隣に腰を下ろした。

「いっつもこんな感じなんだ。あー、疲れた」
「……オトモさんに、好かれているのですね」
「う、いや、そ、そういうわけじゃ……でも、そうだったらいいんだけどな」

照れくさそうに頬を掻いて笑う夜一に、艶が柔らかく微笑む。ぱちん、と囲炉裏の中で小枝が弾ける音がした。

「とにかく、今日はもう遅いから休もう。艶の布団とか、明日買いに行かなきゃな」
「そんな、私はここででも」
「いや、俺が寝るから! ほら、艶は布団に入って。その、汗のにおいとかしたら……ご、ごめんな」

強引に自分を寝かしつけ、夜一はさっさと囲炉裏の前に横になった。背中を向けて早々、いきなり寝息を立て始める様にぎょっとする。
警戒心や危機感などはないのかしら、言葉には出さずに掛け布団に埋もれた。
眠れるかどうか不安を覚えたヤツカダキだったが、意外にも眠気はすぐにやってくる。
目覚めたとき、元の姿になっていなければいいのだけど――朦朧とし始めた意識の中、ぼんやりとオオナズチの言葉を思い出していた。
「勘のいい人間には気をつけろ」。そんなもの、この男に果たして通じるものだろうか。疑わしいにもほどがあった。
ヤツカダキが目をしっかり閉じた後、更には暁と灯火が仲良く寄り添って深い夢に沈む中。
のそりと起き上がった夜一は、艶の眠る布団にそっと近寄った。
あぐらを掻き、ただ黙して座り込む。何事かを考え込む真摯な眼差しは、ぐっすりと寝入った白髪の娘の寝顔をいつまでも静かに見つめていた。






いつの間にか、熟睡してしまっていたようだった。射し込む陽光の眩しさに一瞬めまいを覚えながら、未だに落ちてこようとする瞼になんとか抗う。
途端、ヤツカダキは言葉にし難い異臭を嗅いだ。何かが焦げているような、それでいて生臭いような、酷い不快感を覚える悪臭だ。

「うっ。何、このにおい……」
「あっ、艶さん、おはようですニャー。もーすぐご飯できるのニャ!」
「え、ご……ご飯?」

土間の方から暁の声がする。見ると、備えつけのかまどの前でオトモアイルーは木べら片手に気楽なステップを踏んでいた。
その背後、かまどで煮込まれているのは如何にも毒物か失敗作かという体の料理鍋で、既に黒い煙が噴いている。
まず火が強すぎる――オオナズチが事前に与えてくれたという人間に纏わる予備知識が、脳内でものを言う。
艶は、慌てて土間に降りた。草履を履くのも忘れてかまどに駆け寄り、開かれた地獄の釜を覗く覚悟で鍋の中身を見下ろしてみる。

「ひっ! あ、暁さん、これはもう……」
「あ、心配しないでいいニャ。これは旦那さんの分なのニャ」
「ええっ!?」
「灯火はケータイショクリョーのこんがり焼きしか食べないし、ボクと艶さんのはこんがり魚ニャ。今日は旦那さんのボックスから盗んだサシミウオ……」
「……あーかーつーきぃー。お前っ、また俺のアイテムボックスから魚盗んだろ! サシミウオは狩りに使うって教えただろ!?」

いつの間にか主と飼い犬が帰宅していた。帰るなり助走までつけた夜一の跳び蹴りが炸裂する……と思いきや、暁は華麗に横っ飛びして緊急回避。
結果、夜一は粉挽きスペースに自ら突っ込んでいくことになった。ガッチャンパリンと派手な音がして、もうもうと粉塵が舞い上がる。

「……」
「ニャ。今日もボク、絶好調ニャ!」
「……よっ、よ、よ、夜一さん!!」

うわあ、と悲鳴を上げる傍ら、ヤツカダキは粉挽き場に走った。ゲホゲホと咳き込む声から察するに、一応彼は無事のようだ。

「ゲホッ、あ、暁ぃ……」
「よ、夜一さん、しっかりして下さい」
「うう……心配してくれるのは君だけだな、艶……」

倒れ込んでいた夜一の腕を掴み、なんとか立ち上がらせる。杵臼は無事だったが、石臼は分解されてしまっていた。
どれだけ頑丈な体をしているのだ、このハンターは……言いたくなるのを堪えつつ土間に戻ると、一足先に(!)暁と灯火が朝食を堪能している。
ああ、これは……思わず立ち尽くしたまま頭を抱えたヤツカダキの横、再び夜一が暁に突進していった。
朝から元気に取っ組み合いを始める三者に、どう声を掛けるべきか見当もつかない。

「くっ……この! このこんがり魚美味いぞ! 暁!」
「ふっふふふニャ、旦那さんはボクの料理の虜ニャ。もう逃れられない運命なのニャー」
「ワォン! ワフワフ!!」
「お、そうかそうか、灯火も分かるよな! うん、この焼きが絶妙で……」
「……夜一さん? もしかしてご飯、作り直さなくてもいいのですか」

しかし、全てはヤツカダキの杞憂でしかなかったようだ。
気がつけば一人と二匹はすっかり仲良く焼き魚を頬張っていて、先ほどの喧嘩など影も形もない。
途方に暮れる艶を見て、ようやく彼らは状況を察してくれたらしかった。食べかけの魚をオトモに押しつけ、夜一は艶を囲炉裏前に上げ直す。

「わ、悪い、ごめん、艶。いっつもこんな感じだから、その」
「あ、いえ。夜一さんがいいのなら、私はそれでいいんです」

むしろ今の流れで、この狩人が如何にオトモたちに舐められているのか観察することができた。
ハンターとしての実力、人間的魅力、危機管理能力。彼にはそれが決定的に欠落していることが、はっきりと見て取れる。
「この程度の男なら、私単独でも容易に始末できるはず」。その瞬間を夢想するだけで、心は晴れ晴れと踊り出すかのようだった。

「でも、そうですね。食材は……たくさん減ってしまったのじゃないですか」
「うっ。そこなんだよなー……暁、お前のせいだからな」
「ニャー? ボクのせいじゃないですニャ。そもそも旦那さん、今日は買い出しに行くって言ってたしちょうどいいニャ」
「ワン! ワォーン!」
「あー、もう! 分かった分かった! いいか、買い食いもお土産もほどほどに、だからな!」
「やったー! ガッポリ無駄買いしてやるニャ!」
「ワンワン! ワォーン!!」

……前言撤回。危機管理も魅力も実力も欠けているのは、きっと夜一本人だけではない。
ヤツカダキは艶の顔で苦笑する。馴れ合いと平和ぼけで成り立つ三者の信頼関係に、元より深入りするつもりはない。

「はあ……金、足りるかな……ああ、艶も来るだろ? 里のこと、案内したいしさ」
「でも夜一さん、私は……」
「いや、いいんだ。どっちみち里の名物もご馳走したかったし、近くで狩りの道具も補充しなきゃだし」
「やったー! アオキノコ焼きニャ、美味しいニャ!」
「ワォーン!」
「だーっ! お前ら、少しは大人しくしてくれ!」

手を取られ、家を出る。ぽかぽかと暖かな日差しが降り注ぎ、同時に涼やかな初夏の風が心地よく頬を撫でていった。
意外にも。意外にも男の手は予想よりずっと大きく、綺麗な形に整っている。目を瞬かせる艶に振り向き、夜一は不思議と嬉しそうに破顔した。
怪しまれないよう、釣られるように柔く微笑む。しゃりしゃりと砂利が小気味いい音を立て、四人の足取りはより軽くなっていった。






「……わぁ、すごいですね」
「だろ? まあ、大体よその里からの交易品なんだけどな」

素直な感想だった。夜一に連れられてきた里の市場は、早朝にもかかわらず賑わいに満ちている。
男と同じ藍色の衣服に身を包んだ里人が往来を闊歩し、あるいは店先で呼び込みに勤しんでいて、小規模ながらも活気に溢れていた。
軒先に並べられた品はヤツカダキには見覚えのないものばかりで、どれもが光を反射させ、魅惑的にキラキラと輝いている。

「旦那さん、旦那さん。見てニャ、ユクモの伝統、金色アイルーだるまニャー」
「暁ー、そんなの買わないからな? 先に食材を、」
「ワフーン。ワォッ? ワフ?」
「わあー、灯火! その首輪、とってもイカしてるニャ! めちゃくちゃ似合ってるニャ!」
「……今日は無駄買いするしかなさそうですね。夜一さん」
「うおお……あいつらぁ……あとで覚えとけよ……」

ヤツカダキがはしゃぎかけるということは、オトモたちははしゃいで止まない、ということでもあった。
現に暁と灯火は家を出た際の「無駄買いしない」約束をすっかり忘れている。微苦笑する艶の横、夜一は複雑な顔で眉間に皺を寄せていた。

「市場に全員揃って出るの、久しぶりだからなー。今日くらいは大目に見るか」
「そうなのですね。いつも、狩りに出ていらっしゃるから?」
「いや、そうじゃないんだ。そうじゃないんだけど」

歯切れの悪いまま立ち止まられ、倣うように足を止める。夜一は一瞬苦いものを噛んだような顔をして、後に苦笑した。

「多分、二人とも力が有り余ってるんじゃないか。俺、あんまり狩猟に出ないから」
「え? そんなはずは、だって昨夜はアオアシラを」

不意に、手を離される。こちらを振り向きもしない。思いも寄らない夜一の行動に、ヤツカダキはその場で硬直した。

「艶。悪いんだけど、俺は先に布団とかの重いもの見てくる。君はオトモたちのこと、見ててくれないか」
「よ、夜一さん? あの、私……」
「一緒に荷車を借りてくるから。また後で合流しよう」

あっという間に人ごみに紛れていった狩人の背中を、呆然と見送る。
何かしてしまっただろうか、怪しまれたか、それとも怪異だと気付かれたか……考えても答えが出ず、ヤツカダキは辺りを見渡した。
基本的なカラーリングの、アイルーとガルクの連れ。喧噪の中でも、二匹の姿はすぐに見つけられた。

「あの……暁さん、灯火さん」
「ニャー? 艶さん、そこは暁ちゃん、って呼んで欲しいとこですニャ。どうしたのニャ?」
「クゥン? ワフ?」
「暁……ちゃん、灯火くん。その、夜一さんが先に行くと仰って」

話してみて初めて、自分は置き去りにされたのだと、それにショックを受けたのだと気がついた。言葉にし難い虚無感に任せて、顔を伏せる。
何故かは分からない。ただ、これまで厚意をあらわにしていた男から一方的に突き放された印象を受けたのだ。
それでいてヤツカダキは混乱していた。何故こんなにも自分は動揺しているのだろう。復讐の機会を逃しそうだからか、それとも。

「私……夜一さんに、何か悪いことを言ったのかしら。さっき、狩りがどうだとか、詮索するようなことを……」
「艶さん? あれ、それじゃ肝心の旦那さんは」
「私が狩りの話をし始めたら、急に離れていったのです。やはり、悪いことを言ったのに違いないわ」
「狩り、狩りかニャー……うーん、確かに旦那さんにはタブーな話かもしれないニャ」

俯いたままの艶の手のひら、その指先に、ふと柔らかい感触が灯される。はたと目線を上げると、暁の小さな両手が艶の手に触れていた。

「暁、ちゃん……あ、あの、私……」
「大丈夫ですニャ。ちゃらんぽらんなへたれにしか見えないけど、旦那さんはちょっと難しい立場の人なのニャ。下手に腕が立つから余計になのニャ」
「夜一さん本人は、さっき、あまり狩りに出ないのだと言っていましたけど」
「うーん、旦那さんは『最も狩猟に向いていて』『最もハンターらしからぬ』狩人だそうだから、その答えも仕方ないニャ」
「最も向いていて……らしからぬ? それって一体、」

こちらの問いには答えず、二匹は仲良く並んで歩き始めた。
時折、灯火の背中を暁の肉球が撫でている。その度に、ガルクは激しく尻尾を振っていた。
仲がいいのは宜しいことだが、如何せん二匹とも小柄で素早い。声を聞き逃さないよう、ヤツカダキは懸命に二匹の背を追った。

「旦那さんは、里長からもギルドからも評価されてる凄腕ニャ。隠してるつもりなんだろうけど、いざ狩りに出るとバレバレなのニャ」

……心臓が、ざわりと不気味な音を立てる。やはりあの男は、ヤツカダキという種族を殺して回った人物その人なのだろうか。
ごくりと唾を飲み込めば、その掠れた音が周囲に漏れ聞かれてしまうような錯覚さえ抱けた。
艶の内心を知るよしもない暁は、彼女の目の前で常のように買い物を楽しみ始める。手近な商品棚からかんざしを一本拝借し、光にかざした。

「このかんざし、いい品ニャ……ニャギャッ、お高いニャ! ボクのオコヅカイじゃ無理なのニャ!」
「おっ、なんだ、夜一のところのオトモじゃないか。こらこら、悪さするんじゃないぞ?」
「心外ですニャー、そんなことしないのニャ。旦那さんが乙女心の何たるかを勉強しないから、ボクが教えてあげるのニャ」

「ね、艶さん」、急に話を振られ、ヤツカダキは慌てふためいた。乙女心とはどういう意味か。自分は別に、彼らには何の期待もしていないのに。
商店の店主は、首を傾げながら艶を見た。しげしげと見つめられ、困惑と羞恥で体温が上がっていく。

「いやあ、別嬪さんだあ。夜一もあれかい、ついに女を買うようになったのかい」
「えっ? ……女を、」
「ああ、違ったんならすまなんだ。あいつ、モテるのに恋人の一人も作らんからさ。里長の娘もギルドから派遣されたお嬢ちゃんも夢中だってのに」
「夢中……そうなのですか、夜一さんが?」

一転、声色が急激に低くなったヤツカダキを余所に、店主は一人うんうんと頷いた。何故か暁と灯火はおろおろと狼狽えている。

「いやね、できれば里で結婚でもして永住してくれりゃ一番なんだがね。ハンターってのはあれだろ、要請があれば余所に遠征だってするんだろ?」
「……そうですね。私は、そのように聞いております」
「だろ? 仕事はサボりがちだが、あいつ腕だけは確かだからね。里に根付いてくれた方が安心ってわけさ」

この男は何を言っているのだろう……夜一がどこに行こうが、どのような狩りをしようが、彼の勝手ではないか。
気がつけば、艶たちの周りには店主の言葉に同意する里人もちらほらと現れ始めていた。
ヤツカダキは強く拳を握る。爪が食い込み、病的に白い皮膚から赤い血が流れ落ちたが、そこに留意してやる余裕は欠片もなかった。

「――暁ちゃん、灯火くん。行きましょう」
「ニャッ、つ、艶さん?」
「ワッ、ワフ」
「行きましょう、こんなところに長居したくありません。食材を買ってお料理して……あの人の帰りを待つ方が、ずっといいに決まってる」
「おい、娘さん。こんなところって、そんな言い方……」

振り向き様、睨めつける。引き留めようとした里人のうち何人かが、肩を跳ね上げて顔を青ざめさせた。

「……夜一さんのことは、彼からじかに聞けば宜しいのです。私からあなた方に問うことは金輪際ございません」

いっそう低い声を響かせた後、艶は振り向かずに夜一の自宅方面へ足を向けた。慌てた様子で、オトモたちが後ろから着いてくる。

(気に入らない、気に入らないわ。里長の娘? ギルドの担当者? そんな女、夜一さんが相手にするはずがない)

理由も根拠もない。しかし、ヤツカダキは何故か夜一が独り身で在り続けることを強く望んでいた。
それと同時に彼女は怒り狂っていた。焦がれるような胸の痛み……夜一の話を里人から聞かされる度、心臓の辺りに謎の痛みが湧き出て止まらない。
痛く、熱く、狂おしく、とても苦しい。原因がまるで分からないことも、余計に怒りを強めるきっかけになっている。

「……夜一さんの、ばか」

自分は、夜一の何を知りたかったのだろう。どのような話であれば、にこにこと笑って流すことができたのだろう。
胸が苦しい、なのに何故なのかがまるで分からない。ぽつりと吐き出した独り言に、この場にいない狩人が答えてくれるはずもなかった。

 
 

 
後書き

……

以下、こまごま設定。

暁のいう「灯火は携帯食料のこんがり焼きしか食べない」は若干の誤り。
夜一が里に居着いてすぐの頃、大社跡で密猟者に追われて家族と生き別れたのち行き倒れていた灯火に「手持ちの携帯食料を炙って食べさせた」ことがきっかけで彼にとっての思い出の味となった、が正解です。
火竜の上カルビや雌火竜のロースといったご馳走もたまには食べたいなあ…というのが本音のようです。
(この話は結局書かずに終わってしまいました…)

 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧