ロンドン郊外の英国魔導学院【完結】
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
ロンドン郊外の英国魔導学院
前書き
ロンドン郊外の英国魔導学院では前期試験に向けて学生が追い込みをかけていた。
年に三回ある水星の逆行は地上のありとあらゆる秩序を惑わせる。
俺はあの世界に転生してからのすべての出来事を思い出していた そして 自分がこの世界に生まれたことに、一つの目的があったことに思い当たったのである 魔王としての贖罪と救済の二つの意味を込めてのことだった 俺は勇者ハルシオンの娘エディアとして、魔女のエッセンスを使って世界を救うための転生を果たしたのだ。
ロンドン郊外の英国魔導学院では前期試験に向けて学生が追い込みをかけていた。年に三回ある水星の逆行は地上のありとあらゆる秩序を惑わせる。特に魔導士にとっては厄介だ。地球は太陽の周りを公転しているが地上から見る星の動きは天動説になる。水星は太陽寄りの軌道を回っているため地球が外側から回り込む形で追い抜いてしまう。その際に相対的に水星が逆行しているように見えるわけだ。天動説は占星術や英国魔導の基本だ。水星の呪術的影響をもろに蒙るわけだ。
「水星の逆行期間中はありとあらゆることが裏目に出てしまうわ」
ハルシオンはぼやいた。
「ああ、これは困ったことになった」
俺たちは顔を見合わせた。ハルシオンの部屋で俺とエドガーが話をしているところに突然やってきたのはハルシオンの弟弟子のアスターだった。このところ姿を見たことがなかったが元気なようだ。しかし彼はひどく疲れているようでもある。
そして今に至るというわけだ。
さっきまで学院内はいつも通りだったが今はもうそうじゃない。廊下の向こうからは悲鳴も聞こえるし窓の外には得体の知れない影が見えるような気がする。いや、見えるんじゃなくて気のせいか……?
「ねえアスター。あんたなんでここに来たんだ?」
はあーっと息を吐いて床に座ってしまった彼に訊ねると「わからないよ!」と答えて肩を落としたままうなだれた。どうやら彼も同じ状況らしい。学院内が混乱してるとわかっていながらなぜ来たのか謎ではあるが、何か事情がありそうだ。とりあえず俺の部屋に来ればと連れてきたが……。
アスターは力なく呟いた。
「僕もまさかこんなことになっているとは思ってなかったんだけどね……。あの日はちょうど、姉さんと一緒に魔法を使った試験をしてるところだったんだ。僕は土星の術式を使っていたんだけれど……」
ハルシオンは火星の術式で炎を出す。それは攻撃魔術としてはポピュラーなものだし水星の逆行の影響もそれほど受けるものではないのだが。
「その時に姉さんの火が制御を失って暴走してしまったんだよ」
それってまずくないか!? 学院内のあちこちから火事になっていると聞こえてきた。俺は部屋を出て階段を走り降りようとしたところでエドガーに出会った。
「リディア!どこに行くつもりなんだ」
「学院が大変みたいだよ!だから消火に……っ、え?きゃあっ!!」
駆け下りかけた足下の石畳が突然消えてバランスを崩す。
咄嵯に手すりにつかまって転げ落ちずに済んでよかったと思ったものの目の前の光景を見てぞっとした。消えたと思っていた地面の下に穴ができていたのだ。しかもそこからぬめりを帯びた手が突き出ていて手すりを握った俺の手を掴み引きずり下ろそうとするように力を込める。
慌てて手を離して後退るが掴まれていない方の足を後ろへ引いた途端今度はそちらにも同じように手がかかり穴へと引き込まれそうになった時だ。横合いから伸びて来た腕がその手首を掴んでいた俺の手を引き剥がした。引っ張られた勢いそのままに転びそうになる身体を支えた力強い腕の持ち主を見るとエドガーだ。ほっとしたと同時に胸元に飛び込んでしまいそうになったことに焦る間もなくまたも足元が崩れ落ちた。今度は足首を掴む手に引き上げられて転倒を免れたけど危なっかしいことこの上ない。俺より小柄なエドガーに助けられてしまった屈辱もあってムッとしたがすぐにそんなことを気にしている場合じゃないと頭を振る。
「おい!大丈夫なのか?しっかりしろ!」
上からエドガーの声がかかるので見上げると天井の穴の向こう側から心配そうな顔を覗かせている彼と目が合った。
なんとか返事をする。ここは地上よりも地下の方が危険なんじゃないかと思う。何が起こるかわかったもんじゃない。早く上に戻れと言う前に、俺も上の階に上がる方法を探すべきかと視線を走らせた瞬間再び足下で轟音が鳴り響く。崩れたのは通路じゃなく壁か!?いや違う。天井の一部分だ。それが落下してくるのに気づいてエドガーを突き飛ばすように離れた直後だ。背中に衝撃を受けつつその場に押し倒された。同時に背後でどぉんっと爆発するような音を立てて壁に亀裂が入ったかと思うと崩れ落ちて行く様子がわかった。エドガーの上に倒れ込んでいた身体を起こしながら起き上がったとき、エドガーの顔のすぐ横に小さな人形のようなものが落ちていることに気づいた。これ、妖精だ……。ということはさっきの壁は崩落ではなく妖精の仕業ってことになる。そしておそらくはこれがハルシオンの弟弟子であるアスターの姉貴分にあたる人だろうと思われたのだが。
(……あれ?)
おかしい。そういえばハルシオンがいない。それにアスターの師匠の姿もなかったような……。だけどそれどころではない。エドガーの腕の中に抱き留められている状況からどうにか脱出したいとじたばたする。しかしそれを察したのかますますぎゅっと力を入れられてしまい動けなくなる。
「エドガー、痛いよ……!苦しいし……放せ」
そう訴えるのがやっとだ。
するとようやくエドガーは俺を解放したが代わりに両腕で囲むようにしてきつく抱擁してきた。顔の横で彼の柔らかい癖毛が頬に触れている。エドガーの体温に包まれるように抱きしめられるのは何度目だろうか。最初はキスされて。その次は酔っぱらった彼に抱きしめられていたっけ。そして今回は蒸し器のうちに金星の効果にとらわれたらしい。のたうちまわる鬼火は火星のまがまがしさのせいだ。ハルシオンなら惨状を一目見るなり、そう分析しただろう。だけど俺はただ苦しくて仕方がなかっただけだ。
そうやって抱きしめられることで心の中のもやもやしたものがなくなっていくのがわかると不思議な気分になる。
ああもう、このまま時間が止まればいいのに。
「リディ……」
切ない声色で名を呼ばれてもまだ少し恥ずかしさがある。うん、俺って男性の第一人称を押し通してるけど身体は女なんだよな。学校の規則だからしかたなくスカートも穿いてる。下着は見えてもいいビキニをつけてるけど。これぐらいの違反はゆるされるよね。でも……さすがにこれ以上は……! エドガーが何をしようとしているのかを察知した俺はほとんど反射的に彼を突き飛ばしていた。しかしそれはそれでよろけて後ろにひっくり返りかけるのをとっさに腕をついて耐えたものの……まずい!この体勢だと後頭部から地面に落ちる。そう思う
「危ないっ!!」
エドガーの叫びと共に目の前が暗くな……らず目の前が明るくなった。眩しくはない、優しい灯りのような光だ。しかし次の瞬間ふわふわと身体が浮く感覚があって思わず「うわあっ」と声を上げてしまったがすぐに自分がどこかに浮かんでいることがわかった。目を閉じるとまるで瞼の裏に星が瞬いているかのように感じた。やがて静かに目を開けると、そこはいつもの天井だった。俺の部屋だ。
一瞬どこにいるのかわからないが、身体の重さと鈍さを感じながら、ああ、これは逆行の後遺症だと思い出した。時計を見ると朝七時前を指している。俺がベッドに入ったのが確か三時過ぎなので、五時間は眠っていたことになるようだ。
とりあえず制服を脱ごうとブラウスのボタンを外していると、ドアの向こう側で足音が近づいてくる。ノックの後に「おはよう」と言いながら入ってきたのはレイヴンだった。
「起きたの?体調は?」
「あー、だるいし重いし気持ち悪い……」
「それだけ?熱は測った?」
「え、なんの?」
「いや、別に……」
彼は何か言いたいことがあるのかもしれないが言おうか言うまいかを迷っているようにも見えた。俺はブラウスの前を開けてブラジャーを外すと、そのままパジャマの上着にも手をかける。すると彼の視線を感じたのでちょっとだけ胸を張って見せた。
「どうしたんだ?」
「えっと……その……」
「ん?」「いやその……あのね!」
「うん」
「…………なんでもないよ」
彼はなぜか顔を赤くして目をそらすと部屋を出ていった。なんだろ?まあいいか。着替え終わったらリビングに降りていくとしよう。今日は何曜日だっけ? 「リディア!無事だったのかい!?」
俺がダイニングルームに入ると、テーブルについて朝食を食べていたエドガーがこちらを見て叫んだ。
「ああ、なんともないよ。昨夜はありがとうな。助けてくれて」
「あ、いや。僕はなにもしていないよ。リディアを助けてくれたのは彼だよ」
エドガーが振り返って示した先にいたのはアスターだ。
「アスターが?」
「ああ、僕がリディアの部屋に行こうとしたらアスターが『姉さんが大変なんだ!』って血相変えて飛び込んできたんだ。それでリディアが学院で倒れたって聞いて驚いたよ。アスターが一緒に行ってくれたんだけど途中でアスターとも逸れてしまって……。学院中探し回ったんだが、まさかこんなところにいたなんてな。しかも妖精に捕まっていたとは思わなかった。僕がもう少し早く気づいていたらよかったんだけど。本当にごめん!」
アスターが申し訳なさそうに頭を下げるので、俺は首を振った。
「いいんだ。むしろお前が来なかったらどうなっていたか。助かったよ」
「そうか。そう言ってもらえるとありがたい」
アスターは照れたように笑った。
「そうだ、姉さん。学院は今どうなってるんだろう?あの日以来学院に行っていないからわからないんだけど」
「そうだな。学院長から連絡があった。妖精が学院中に悪戯をして回ってると。しかもその被害に遭ってるのは俺たち生徒だけじゃないらしい。教師たちまで何人も行方不明になっているって噂だ」
「えっ、それ本当!?」
「学院長が調べている最中だから確かなことは言えないが、学院の教師たちが消えたということは間違いないだろう。俺もここ数日は授業に出ていないからよくわからないが、学院長が不在にしていることも多いらしくてな。俺も学院に行くつもりだが、正直何が起こるかわからなくて怖いから行くかどうか悩んでるところだ。だからしばらく休学して家で様子をみようかと思ってる。エドガーもそうだろ?リディアも。学院には行かない方がいいと思うぞ。今は」
「ああ、そうだね。リディアもそれで構わないかな?」
エドガーは俺の方を向いて訊ねる。「もちろんだ。俺も休むつもりだし」
「それならよかった。リディがいなくなったら僕はまた一人になってしまうからね」
「おい、エドガー。そんな縁起でもないことを言うな」
「はは、すまない。でも本当のことだから」エドガーはそう笑うと席を立った。そして俺の側に来るとそっと手を握ってきた。
「ねえ、やっぱり君は僕のそばから離れないでくれよ。ずっとここにいてほしいんだ」
エドガーは俺の瞳を見つめたままゆっくりと顔を近づけてくる。
「ちょ、待てよ。食事の途中だろ?それにここは家じゃない」
「そうだけど。でも」
「そういうことはまた後で」
「うん、わかった。じゃあ後で」
エドガーは俺の手を離すと微笑んだ。そして自分の椅子に戻ると、また食事をはじめた。俺も食べないとな。食欲はないが無理やり口に押し込んでいく。しかしアスターが言った通り、この学院全体が危険な状態に置かれているというのは事実のようだ。そしてハルシオンとアスターの姉貴分である女性が姿を消したことも。一体何が起こってるのか。俺はその答えを知っている。だけどそれをエドガーに伝えるわけにはいかない。なぜなら俺はエドガーに嘘をつくことになるからだ。
「リディ、今日の予定は?」
「俺は一日寝てる。エドガーもそうしろよ。まだ顔色が悪いぜ」
そう答えるとエドガーは苦笑いを浮かべた。「わかった。そうするよ。リディは何か欲しいものはないのかい?」
「そうだな。強いて言えばプリンかアイスが食べたいな」
「うん、買ってくるよ。他には?」
「特にない」
「そう……」
エドガーは残念そうな表情になった。「なんだ、俺が欲しがるものを買ってきてくれるんじゃないのか?」
「いや、だって君が喜ぶものがわからなかったから」
「そうなのか?」
「うん。それに、こういうときこそ君の好きな甘いもので元気づけるべきだと思うんだよ。違うかな?」「まあ、違わないけど」
「だろ?なら、それで決まりだ。すぐに戻るから」
エドガーが出かけた後、俺はベッドに横になって天井を見ながら考えていた。
俺はこれからどうすればいいのか。どうするのが正解なんだろう。
「やっほー!お見舞いに来たわよ~」
昼過ぎに俺の部屋にやってきたのはミセス・レイチェルだった。
「わざわざすみません」
俺は起き上がって出迎えた。彼女は手に持った紙袋を俺に手渡した。「これ、うちの店で売っているフルーツの詰め合わせ。あなたにって」
「ありがとうございます」
俺は礼を言って受け取った。
「ところで、リディ。エドガーと喧嘩したんですって?」
「え、誰に聞いたんですか?」
「さっきエドガーが来て、リディと仲直りしたいって相談されたの。私はもう気にしてないって言っておいたけど」
「あ、いえ。それはもう大丈夫です。俺ももう怒ってないし」
「そう、よかったわ。あの子も最近はちょっと様子がおかしかったし。リディアが来てくれてほっとしてるみたい。私もね、ちょっと心配していたのよ」
「え、エドガーの様子ですか?」
「ええ。最近あの子は少し変よ。まるで別人のように。いつもの自信たっぷりな態度とか笑顔がなくなってきた気がして。それは前からあったことなんだけど、最近のは何かが違うのよね。うまく言えないけど……」
俺は黙っていた。確かにエドガーは変わった。以前の彼とは違う。それは俺が一番よく知っている。
しかしそのことを話すことはできない。
ミセス・レイチェルが帰ってしばらくしてエドガーが戻ってきた。彼は俺がベッドの上に座っているのを見ると、安心したような笑みを見せた。それから隣に腰を下ろした。
俺はもらったばかりのフルーツの箱を開けて彼に見せた。
彼は興味深げに覗き込む。
彼が好きだと言ったものを持ってきたというわけではないが、彼の好物であるりんごを一つ取り出して見せた。
すると彼は嬉しそうに笑って、 そのまま俺の唇を塞いだ。
俺は驚いて身じろぎしたが、エドガーはそのままキスを続ける。やがて彼は身体をずらし、俺のパジャマのボタンを外していく。俺は慌ててその腕を掴んだ。
彼は不満そうな声を上げた。
彼は何を考えている?こんなときに? 俺は混乱しながらもエドガーを止めた。
彼はしばらく考え込んでいたが、やがて諦めて身体を起こした。
俺はパジャマの前を合わせて乱れを直すと、彼を睨んだ。「どういうつもりだ」
「……すまない」彼は俯いて小さく呟いた。「我慢できない」
「馬鹿なことを」
俺はため息をついて彼の方を見た。彼は辛そうな顔をして下を向いていたが、やがて意を決したようにこちらを向くと、そのまま押し倒すようにしてきたので、俺もまた彼を抱きしめながら倒れ込んだ。「痛っ!」思わずそう叫んだのは肩口に鋭い痛みを感じたからだった。見ると彼はその歯形に沿って滲んだ血を舌でぺろりと舐め取った。そしてそこにちゅっと口づけると、再び俺の胸に頭を押し付けるようにして覆いかぶさってきた。
「……ごめん」消え入りそうな声でそう囁かれる。俺は何も言わずに彼の背中に腕を伸ばして軽く叩いた。彼は震えていた。それが俺に対する申し訳なさのせいなのか別の何かなのか俺にはよくわからない。
その後のことは思い出すだけで吐き気を覚えるのでなるべく思い出さないようにする。
とにかく俺にとっては最悪の出来事だったことだけは確かなのだが……。
結局その後も彼と会うことはできなかった。学院には近づかなかったし、家でもずっと一人でいた。俺を心配してくれた家族には「気分が悪くなった」と答えていたが本当の理由は話さなかった。
数日後、事態が落ち着いたと判断した学院長が俺たち生徒に学院の再開を告げる放送が入った。それを聞いた俺の心に浮かんだ感情は安堵などではなく、不安や焦燥だけだった。そして同時に確信もしていた。やはり俺はまだ学院には戻れない。エドガーと会うことも難しいだろうということも……。
俺はダイニングテーブルに座って、ぼんやりとした表情で新聞を読んでいる父さんに向かって話しかけた。
今しかない。「あの、お父さん……。聞いてもらいたいことがあるんだ」
「うん?なんだい?改まって」
父は俺の方を向いて訊ねてきた。
「実は、しばらくここを出ようと思うんだ」
「ほう」
「もちろん、学院のことだよ。妖精騒ぎが落ち着くまでここにいると危険だし」「ふむ。それでお前は何をしに学院へ行こうとしているんだ?」
「だから、学院に行って調べてこようと……」
「なぜ?どうして急に?理由を説明してもらおうか」
「それは」
「答えられないのか?まあいい」彼は呆れたような様子で溜息をついた。「それなら好きにしなさい。ただし二度とここには戻ってくるな。わかったな」
父の目は完全に冷めきっていてとても説得できそうな雰囲気ではなかった。俺はうなずくしかなかった。「はい、わかりました」と返事をする以外に選択肢は残されていなかったのだ。
荷物をまとめ終えた後、俺は母に手紙を書くことにした。といっても書く内容はごく短いものになった。ただ今までお世話になったこと、迷惑をかけてすまないと思っていることを書き記しただけだ。そして最後にこう書いた。『親不孝者ですみません』それから家を後にした。俺は馬車を雇って駅まで行き、そこから列車に乗りこんだ。窓の外に映る景色はどこまでも続いていくように見える田園風景だ。畑仕事の男たち、子供たちの遊び場となっている空き地、牛舎、教会や民家が見える。それらを見ているとなんだか懐かしい気分になる。ああそうだ。エドガーが見せてくれたアルバムの中に確か同じような光景があったな。あれもこんなふうに見えるのか。そんなことを考えるうちに汽車が動き出したのが見えた。窓からは少しずつ遠ざかっていく駅が見えたがやがてそれもすぐに見えなくなった。これでいいんだ。もうここに俺が帰ることはないのかもしれないんだから。そしてこれからどこに向かうかもまだわからないまま列車は走っていく。行き先は……、俺にとって未知の領域だ。何が起こるのかは誰にも予測がつかないし誰も知らない。
だけど行かなければならないんだ。どうしても知りたいことが山ほどある。確かめなきゃならないことがたくさんある。そして俺には時間がない。このままじゃダメなことぐらい俺にもわかる。俺は立ち止まってるわけにはいかない。たとえそれが地獄であっても俺は行くだろう。だって俺が歩んでいるこの道は俺だけのものではないからだ。俺の後ろに続くたくさんの人たちのためにも俺は止まるわけにはいかないんだ。
*
***
リディと会えない日々が続いている。
僕はとても苛々していた。自分でも驚くほどの嫉妬心に囚われていたからだ。この前のことが原因なのはわかっている。だけど、あんなことになるとは思いもしなかった。まさか僕のリディに対しての愛情がそれほど強いものだなんて。自分でもびっくりしたし驚いたし恐かったよ。だけど今はもっと強くなってしまっている気がするんだ。君を失うんじゃないかと考えると怖くてたまらなくなる。もし君を失ってしまったらと考えたら居ても立ってもいられなくなって。どうしようもない衝動に支配されている。それはまるで君に出会った頃のような感覚に近いものがあった。いや、それより強いかな。君と出会ったばかりは僕は君を失いたくないと思っていたし、それは今でも同じなんだけど。
しかし、それでも会いたいという気持ちの方が圧倒的に上回っているから始末が悪いんだ。君は許してくれるだろう? だから今日も君に会いに行く。
しかし君の部屋の扉の前で躊躇っている自分がいるのを感じる。君に拒絶されたらどうすればいいのかと考えてしまっている自分に気がつく。怖いんだよ。本当に。君の口からもう来るなと言われるのが怖い。そしてそれは現実のものとなってしまう可能性が高いと知っているのがさらに恐ろしいんだよ。それに君は優しいから、そう言われてしまったとしても来てくれと言われればまた僕はきっと行ってしまうだろう。だから余計に足がすくんでしまっているのさ。「やあ!エドガー」聞き慣れた声で呼びかけられたことに気がついて振り返るとそこにはリディアがいた。
「リディ!」彼女の顔を見ることができただけで胸がいっぱいになるような心地だったけれどそれを隠していつも通りの態度をとる努力をしたよ。「リディも見舞いに来たのかい?」
「ええ、あなたが来ていると聞いたものでね。学院が休みだと退屈してると思ってさ。ほれ、これを持って来たんだ。あとこれはうちの家族からのフルーツの詰め合わせだ」
「わあ、ありがとう!」差し出された籠を受け取って中を見ると、りんごやオレンジが入っているのが見える。どれもおいしそうな実がついている。「ありきたりのものばっかりよ。でも果物っていったらこれぐらいしかないんだけどね。本当は他の店に行きたかったんだけど……」「充分だよ。うれしい!」そう言うと、彼女がほっとしたように笑顔を見せる。やっぱり可愛いと思った瞬間顔に火がついたかのように真っ赤になってしまった。慌ててうつむいて、彼女にばれていないかどうか心配になったが大丈夫だったみたい。彼女は「そう言ってくれるなら良かった」と言って笑った。僕は思わず彼女に飛びついてしまいそうになったがなんとか耐えた。「それで、その、あのさ……」「エドガー?」
そういえば何を言おうとしたのかよくわからないまま口を開こうとしてたみたい。「何でもない、気にしないで。さっき言った通り、ただ君の顔を見たかっただけさ」
「それだけ?ほんとうに?」「本当だよ」と答えるしかできない。すると、彼女は納得していないようだったがしぶしぶといった感じで引き下がってくれた。
僕らはそれぞれの部屋に戻り、その後しばらくしてハルシオンとミセス・レイチェルが来た。彼らは相変わらず元気そうだったけどエドガーの機嫌は悪い。「エドガー。そういつまでも怒ってちゃだめじゃないか」
エドガーは無言のままだ。困ったものだと思いつつ二人の話を聞いていく。するとだんだんエドガーの表情が変化していき最後には二人に向かって怒鳴るようにして言い放ったのだ。
「なんですか?それは!?僕が怒るのは当たり前でしょう?」「いやまあそうかもだけど」
「そうですよ!」彼は立ち上がるとそのまま出ていこうとするので、私は思わず彼の手を握った。そして彼に語りかける。「待って」彼の手を両手でぎゅっと握り締めながら見上げると、彼もこちらを見下ろしていた。「少し落ち着いて、冷静になりましょう?こんなときだからこそ私たちも仲良くしないと。そうでしょ?」「でも」「エドガー、お願い」じっと見つめてそう懇願すると彼はため息をついた後、腰を下ろすので、私は彼の方に身を乗り出すようにして口を開いた。「まずは私の話を聞いてもらえるかしら」
私がそう前置きをして話しはじめると彼は無言でうなずいた。
「私、学院に行こうと思っているの」と切り出した。
そうして自分の考えていること、学院に何があるのかを知りたいのだということを説明した。「それってつまり妖精が何かを学院で行っている可能性があるっていうことなのか?」
エドガーの質問に私は「まだわからない。ただの勘なの」と答えた。
二人は困惑したような顔をして互いに視線を向け合う。
「その、学院には結界があるはずだよね?それが機能してないっていうのかい?」「わからない。わからないからこそ確かめる必要があるんだと思う」
私は必死になって彼らに訴えた。「妖精は人間の心の闇に惹かれるらしいの。もしかしたら学院にいる人間の中には何か抱え込んでいる人が大勢いるかもしれない。妖精が妖精魔術を使ったりなんかしたら……。想像したくないけれど、とても危険だと思うの」
エドガーが目を伏せる。「確かにそうだ」
私は続ける。「それに学院長はずっと前から妖精について研究をしていると言っていた。もしも彼らが本当にそういう目的で学院を使っているなら、このまま放置するのは良くないことだと思う」そして一度言葉を切って大きく深呼吸をすると話し始めたのだ……。
2学期が始まり二週間以上が経った頃だろうか?学院に大きな変化が訪れたのを生徒たちの間で噂になっていたのを耳にしたのは……。学院の結界が弱まったのだという噂がどこからともなく広まったのだ。しかもそれだけではない。学院に棲みついていた小鬼の群れが次々と姿を消さていったというのもある。それらはすべて女子寮に暮らしていた生徒たちの周辺に集まっていったことから推測するならば、おそらく彼らの力を借りてどこか別の場所に移動させたのではないかというものだった。しかしその肝心の小鬼の姿を見ることは一度もなかった。それは一体なぜなのだろう?そんなことを思ったりする。しかし今はそれどころではなかったのだ……………… *****
***
そして俺はついにやってきた。学院に。俺は門の前に立ち止まって建物の様子を観察していた。この学院の建物にはところどころかあちこちに大きな傷ができている箇所があった。しかし修繕工事を行ったような様子はなく、古いままのようだった。俺は改めて目の前にある建物を仰いだ。やはり大きな建物だ。そして荘厳にも見える。
しばらく入り口を探して彷徨っていると突然背後から声をかけられた。俺は驚きのあまり悲鳴をあげそうになるがどうにかこらえることができた。そして恐る恐る振り向いた先にいたのは背の高い金髪の男。学院の教師かと思い警戒したが制服らしきものは着ていなかったのである意味安心する。だが油断はできなかった。学院の関係者であることは確かなんだろうから、この男の機嫌を損ねることはできるだけ避けるべきだろうと直感的に悟っていたからだ。だからなるべく穏やかそうな微笑を浮かべながら尋ねたのである。「あの、ここはどこなんでしょうか?ちょっと迷子になってしまいまして……」と聞くと男は一瞬ぽかんとしていたがすぐに笑ってこう言った。「おや、あなたが噂の編入生さんですね。話は伺っております。私はエドワードといいます。これからよろしく」そして続けて言う。「ここの入り口が知りたいんですか?ご案内しますよ」とのことだった。
俺の心臓がどくどくうるさく鳴り響きはじめていたせいもあって、この申し出に断ることができなかったので黙ってついて行くことにしたのだった。俺にはわかる、これは罠だと。俺がこの世界にとってどんな存在かを確かめようと誰かが差し伸べた蜘蛛の糸のように思えるのだった。だから俺もその手には乗らないぞとばかりに用心することにする。それがうまく行くかどうかはやってみないとわからないけれど。俺は覚悟を決めてエドワードのあとをついて行くことにしたのだった。
* * *
***
僕が廊下で彼女と立ち話をしていたときだった。
いきなり彼女が僕たちの横を走り抜けて走っていくのを見て思わず叫んでしまう。「リディ!!」だけど彼女を追う暇などない。なぜなら僕はまた一人になったのだから。どうして僕の周りはこうなんだ!?リディがあんなに思い詰めたような顔をしているのに僕は何もできずにただこうして一人でいるだけだなんて!リディのそばにいても僕は何もしてやることができないんだと実感させられてしまうんだ。それはまるで僕の存在そのものを否定されているかのように感じるから。悔しくてたまらなくなる。だけど、何もできないんだからしょうがないよな。リディ、君の苦しみを取り除いてあげることも助け出してやることもきっと僕の役目なんじゃないかと最近は思っているんだよ。だから君のことを絶対に救って見せるよ!「ハル、聞いてほしいことがある」真剣な顔つきで彼が言う。「うん」わかっているよ。「僕は君と出会えて本当に幸せだよ」僕は笑いながら答える。「それは僕のセリフでもあるんだけどね」「え?」「僕は本当に幸せなんだ」僕は笑う。「君と一緒に過ごす時間が僕は本当に好きだよ」彼は笑みを深めた。「僕は君の笑顔が一番好きなんだよ」そうして二人で顔を見合わせて笑った。僕は彼に出会えたことが幸運以外の何物でもないと思っていた。彼と出逢って、僕は変われた気がしたし、それはきっと間違っていなかったのだと信じているんだ。「ハル」彼が名前を呼んでくれたことに胸を撫で下ろした。もうこれで充分だと思ったから、そろそろ行かないとね……。「じゃあ、また明日ね」「あ、ああ……」今日は休日なのでいつもより遅くまで眠っていても誰も起こしに来ることはなかったのだけれど、なぜか私は目を覚ましてしまったのだった。なんとなく起きる気になれなかったのでごろりと寝がえりを打つと、隣にいたはずのエドガーが見当たらないことに気がついた。あれ?いない?まさか……。慌てて飛び起き、部屋の外に出てみると、そこには壁にもたれかかって座る彼の姿があり私はホッとしたのと同時に少しがっかりするような気持ちが湧き上がる。「エドガー」と呼びかけながら駆け寄ると彼はぼんやりとこちらを見た後「おはよう」と言った。
そしてゆっくりと立ち上がり私を抱き寄せると耳元で「どうしたの?」と言ってくれた。その心地良い低音が私はとても好きで、いつまでも聞いていたいと切に願ってしまう。彼は私から離れ、じっとこちらを見つめると、もう一度問いかけてきた。「どうしたの?」「何でもな……」「何でもない、じゃないよね?」私はうつむいて口をつぐむ。すると彼は再び口を開くのだ。「言ってごらん」
私は少し躊躇してから、口を開いた。「最近夢を見るのよ」
「どんな夢?」
私は顔を上げて答える。「昔の頃の……記憶」エドガーが息を呑む気配を感じることができた。「そう」とだけ彼はつぶやくように答えるとこちらに一歩近づき私を引き寄せ抱きしめてくれる。私を優しく包む腕の感触を感じながら私も彼に身を寄せてみることにする。すると彼は少し困ったような顔をしたあと口を開いた。「怖いの?」
私は無言でうなずくと彼にしがみつくようにする。そう、とても恐ろしい。思い出すだけで怖くて体が震えてしまいそうになる。「でも大丈夫」そう言ってくれるととても安心することができた。彼の体温が伝わってきて温かい。「だってここにいてくれるもの。ずっと私のそばに。そうでしょう?私を助けてくれたときのように、今度は私のこと、守ってくれるんでしょう?」
彼は微笑むと私の額に軽くキスをする。そうして彼は囁いた。「当たり前じゃないか」そうして彼は私の手を握りながら歩いていった。私もその後に続くのであった。
3学期が始まり2ヶ月が過ぎた頃だろうか?私たちの間に大きな変化が訪れることになる出来事が起こることになった。
私がそのことに気づいたのは学院に向かうために家を出た直後、家の外にはたくさんの人たちが立っていたのだ。彼らは学院から出てきた私を待ち構えていたのだろうということにまずは気が付いたのだが、その中にアスターが混ざっていたので、これは一体どういうことなのだろうかと考え込む。しかし考えてもわかるはずもないことだと思って私は学院に向かって足早に歩くことにした。学院に到着するまでにいろんな人とすれ違い、中には知り合いの顔もあったのだけれど彼らも学院からの帰りだったようで、学院の正門の前では人垣ができていてなかなか中に入ることができなくなっていた。一体何が起こったというのだろうか……。私は仕方なく裏口に回って中に入ってみた。そしてそこにあった異様な光景に唖然とする。学院が荒れ放題になっていたのだ。
どうして?こんな……。どうして……?誰かが何かをするにしてもこの状態というのはあまりにも酷過ぎるのではないだろうか?まるで廃墟のようにあちこちに破壊の痕が残っているのだ。それによく見回すとところどころに見慣れない道具のようなものが置かれていたりする。学院長に何かがあったのかしら?学院長の部屋に行ってみれば何か情報を得られるかもしれないと考えて部屋に向かったもののそこは空っぽだった。そして机の上に一通の手紙が残されていることにも気づいたのだ。
私は急いで手紙を手に取った。封筒の中には学院長が書き残したと思われる文章があった。それを読むにつれ身体が冷たくなっていくような感じを覚える。そして最後に記されていた名前を見て驚愕するのである。
そこにははっきりと『エドワード』と記されており、その名前を頭の中で反すうさせる。そんなことあるわけがないという想いに駆られるのだ。だけど、そうだとしか思えない状況なのであるから信じない方が無理というものだろう。しかし信じられなくて私は呆然として立ち尽くしてしまうしかなかった。
私はふらついた足元を立て直し、その場にしゃがみ込んで両手を膝に置いて顔を埋めた。一体、なぜ、どうして?いったい何があったというのだろう……?しばらくそのままの状態で動けずじまいでいたが、やがて意を決して立ち上がったところで、誰かが部屋に入ってくる気配がしたので振り向くと、それはアスタ-だったのである。彼もまた同じようにショックを受けているらしくひどく落ち込んでいるように見えた。そんな様子を目の当たりにして思わず私は聞いてしまった。
「一体、何が起こっているのですか?」「わからないわ」アスターが答える。「ただ一つ言えることはこの有様の原因はきっとあいつよ。それだけは確かなようね」アスターの言葉に驚いて目を見張る。あいつ?あいつとはエドワードのことなのか?「エドワードさんがどうして学院を襲ったりしているんですか?」と聞いてみたものの、返事はないようだ。「とにかく一度学院に急ぎましょう。話はそれからよ」
* * *
* * *
* * *
***
僕は目の前に立っている彼女の姿を見ながら考えていた。彼女がこうしてまたここに戻ってきた。彼女は僕にとってかけがえのない存在であり愛しい恋人だ。だから僕はこうしてまた彼女と再会できたことは嬉しくもあり安堵できる出来事ではあったのだけど、それと同時に彼女に対して複雑な感情を抱くこともあった。彼女が戻って来たということはつまり、エドガーが再びこの世界に戻ってくるということでもなるからである。だけど僕にそれを止める術などなかったし、止めてはいけないのだということだけはわかった。僕は彼女が無事であればそれでいいんだと自分に言い聞かせていた。そうして僕は彼女から目が離せなくなってしまったのだけれど。
僕の視線を受けて、リディは僕の方を見上げるようにして微笑む。
「心配かけてごめんなさい」彼女が僕を思って謝罪してくれることに喜びを感じるのに、同時に胸が痛むのはなぜだろうか?それは僕自身わかっていることだったけれど認めたくなかったことなのだと思う。彼女が無事に戻ってきたのならそれで構わないのだと納得してしまおうと思っていたけれど、そううまくいくものではないのだと理解させられてしまったからだ。僕は自分がどうしたいのかわからなくなってしまっていた。彼女と過ごした時間は間違いなく幸せだったのに今はもうそれも遠く感じられるようになっていた。それがとても辛くて、苦しい。いっそこのまま二人きりになって逃げ出せればどんなに楽になるだろうと何度も考えたものだけれどそれはできなかった。リディを悲しませることはできないし僕自身の願いでもあったから。
僕たちの様子を窺っている連中に目を向けながら、僕は彼女をそっと抱き寄せ、自分の方に引き寄せると、僕の心を占める苦悩や葛藤を知ってもらわないままでもいいからこのままリディがここにいる幸せを感じていられたらと切に願った。リディ、君がいないと僕はどうすればいいのか本当にわからなかったんだよ。君のことが好きすぎて君を失うことを恐れるようになった。そして君のことを縛りつけようとまでしているんだよ。
僕の手の中で彼女はもがくような素ぶりを見せた後、僕の胸に顔を埋めるようにした。そうして僕の腕の中から逃れ出ようとしているのだけどそれはかなわない。「お願い、もう行かせて……」と消え入りそうな声で言うリディを見て僕はたまらず抱きしめると、そのままそっと告げるのであった。「駄目だよ」「どうして?」僕のことを見上げてくるその目に戸惑いや混乱の色が混じっていることがわかる。「だって君はまだ……」僕はそこまで口にすると言葉を失ってしまう。なぜなら僕の口からそれ以上言葉を出すことを躊躇ってしまったからだ。これ以上は言えないよ。「まだなに?はっきり言ってちょうだい」と言って詰め寄ってくる彼女に、それでもやっぱり答えられなかった。その時背後で何か大きな音が響いたので二人で慌てて振り返ってみるとエドガーだった。彼は僕たちの様子がおかしいことに気がついて慌ててやって来たようだったが。エドガーと目が合うと僕は彼に合図を送った。すると彼は一瞬戸惑ったような顔をした後、うなずきその場から離れていった。そうして彼が部屋のドアの方へ向かったのを確認すると、もう一度向き直る。
エドガーが離れていくと再び僕の方に寄り添うような体勢になると彼女は僕を見上げた。そうしてじっと見つめたまま動こうとしないので僕が少し焦れたような仕草を見せてしまうと、彼女はやっと口を開いたのだった。
しかしそこで彼女の発した言葉を聞いて今度は僕の方が固まってしまった。そしてすぐには彼女の言うことが信じられなくて問い返してしまったのだ。まさか、と……。
でもそのまさかであった。彼女はあっさりとそれを告げたのである。
でも君は……末期癌だったなんて……、どうして黙っていたのさ。何もかも一人で背負い込まなくてもよかったんじゃない?僕に頼ってくれたらもっと力になれたのに……。それになんで言ってくれな……い、……ん……で…………。
「だって言ってしまうとエドワードがあなたに話してしまいそうだと思ったの」ああ、そうだね。うん、きっと話してたと思うよ。そして僕は泣いてたんじゃないだろうか?そして君を引き留めようとしただろうね。そして最後は一緒に行くとか言い出してたかも。
「そして、エドワードの病気は治らないかもしれないのよ」と彼女は言った。でもそんなこと今さら聞かされたくらいで……!と思わず口に出しそうになったけど、僕は口をつぐんだ。でも次の瞬間、僕は驚きで息を呑み、思わず聞き返すことになったのだ。「嘘?」と。
そう聞いたあとにしばらく沈黙が流れ、そして彼女の唇からゆっくりと紡ぎ出された真実を聞き、僕はその場で座り込んでしまったのだった。「本当です」とつぶやく彼女を見ることができない。
そうか……そうなんだ、そうだったのか……。それじゃあなおのことここに居ちゃいけない。僕は何とか立ち上がると彼女に「早く行こう」と言った。僕たちに残された時間は僅かだ。大切な人々に挨拶回りをして思い出をを共有すべきだ。僕たちは連れ立って歩き出すことにしたのだけれど、後ろ髪を引かれる思いなのはお互いさまのようだ。ふと立ち止まる。そう、僕は彼女のことを残していかなければならないのだものな。そして振り向くと、今度は彼女の方へ歩いていき、「必ず迎えに来るから、待っていて欲しい」と告げたのだが。「ええ」という短い返答を聞くだけで満足しなければならないのかという思いが込み上げてきてしまい、結局我慢しきれなくなったのだろうな。
僕は気がついたときには彼女を強く抱きしめてしまっていたのだから…… 俺はレイヴンの手を取ることができなかったが、その後の学院内の騒動に巻き込まれることなく学院から逃げ出すことに成功することができたようだ。俺の家は家というより小さな小屋に近いようなものだったので身を隠すことも難しくはなかった。そして数日後、学院には臨時休校を知らせる放送が入ったのだが。
それから数日経った日のことだった。朝早くから家の扉が叩かれた。俺は窓辺に近づき様子を探るのだが誰もいないようなので恐る恐る玄関に向かうことにする。そして鍵を開けるとそこにはあの男の姿があったのだ。俺は急いで彼を中に入れると「一体、何をしに来た?」と尋ねてみた。すると男は笑みを浮かべながら。「もちろん君の様子を見にだよ」と言うのである。
しかし、それを信じろと言われても無理な話ではないだろう?俺はこの男が信用できるかどうかを迷っていたし、ましてこの状況ではな。
「それでは私のことを信用できないのならこの子を連れて行ってくれないかい?それなら問題ないはずだよね?それともやはり私はこの子の親として信頼するに値する人物ではないということなのだろうか?だとしたら悲しいなぁ」
「お前……最初からそれが目的だな!」と言いかけたものの男の真剣な表情を見ているとつい押し負けそうになる自分を感じたが。「そんなわけあるもんか!そもそもそんなに簡単に子どもを捨てて出ていけるかよ!だいたいその子の父親として認めないだと?馬鹿なことを言うなよ!あんたのしたことを全部知っているぞ?それどころか俺を拉致したことさえも……」「あれは私の意思ではなかったのだよ。全て奴が指示したことなのだ。私は脅されていただけだ」何が事実かどうかは知らないが今は信じたふりをした方がいいのかもしれない。「それじゃ、そのことはいいよ。わかったからこの子はどこへ連れて行けばいいんだ?」「ありがとう、恩に着るよ。この先にある修道院があるんだがそこへ向かってほしい」と言われたがそんなところに行ってどうするというのだろうか?だが一応言われたとおりに向かってみることにしたわけなのだが。
俺たちがやってきたその場所はとても質素ではあったが手入れがきちんとされており住み心地は良さそうに思えた。
「ここには君と同年代の子がいてね。面倒を見てくれるようなんだよ。ここならば暮らしていけるはず」と言われほっとしたところで、突然誰かが飛びかかってくる気配がしたので避けようとするが間に合わなかったらしい。俺は地面に引き倒される形になった。そして目の前にいた人物は見覚えのない若い女のようで、
「ちょっと、離して下さいません!?いきなり襲いかかってきてどういうおつもりなのかしら?いったいあなた方はどなたなのでしょうね?こんな乱暴なことは感心致しませんわ」
などとよく通る綺麗な声でまくし立てるのだ。どうやらこの女がこの子を襲ってきた相手らしかった。
「すまない、許してほしい。ただ、どうしても君にお願いしたいことがあったんだ。君にしか頼めないことでね。どうか聞いてもらえまいか」
そう言われ、ようやく落ち着いたようだが、それでも警戒心を解いたわけではないらしく、睨むようにしてその男のことを見ている。
「それで、頼みというのは?」
「ああ、実は……」と言ってその男は話し出した。それは俺にとって衝撃的な内容だった。
「君を養子に迎えたいという申し出があってね。君のご両親にも了解を得ているし、手続きももう済んでいるんだ。君は今日からここで暮らすことになる。いいね?」
そうして俺は、その日からこの屋敷で暮らすことになったのだった。
俺が孤児院から追い出されたのは5歳の頃だった。それまで暮らしていた場所が火事になり、院長を含めた大人たちが全員死んだため、行き場を失ったのだった。
俺は施設に引き取られることになったのだが、そこはひどい場所で、食事もろくに与えられず、年少の子供の中には死んでしまった者もいた。
そんな中で、一人だけ生き残ってしまったのが俺だった。
俺は運が良かったのだと思う。たまたま建物の外に放り出されてしまい、煙を吸わずに済んで、火傷をすることもなく助かったのだ。
とはいえ、子供は俺だけだったし、周りの大人たちはみんな死んでいたのだけれど。
そして生き残ったといっても怪我をしていたし、食べ物もなかった。おまけに雨まで降ってくる始末で、もうだめだと思った。
そうして空腹と寒さで動けなくなっていたところに、通りかかったのがその男だった。
「大丈夫か?」と声をかけられたが、正直もう死ぬと思っていたので返事などできなかった。
するとその男は「そういえば、もうすぐクリスマスなんだな……」と独り言のように呟いたあと。ポケットから紙に包まれた丸いものを取り出した それを手の上でもてあそび、何かを考えるような仕草をしている。そうしていると男は急に大声を出したのだった。「ああ、そうだ、そうだ!これしかないよな」と、それから俺をそっと抱えあげるとその男が乗って来た車へと運び込む 車内にあったブランケットに包まるようにされて座席に座らされたあと、車が動き出した
「君はラッキーだ」
俺は訳がわからなかったが、だんだん意識が遠くなっていくうちに眠ってしまっていたようだ 。
次に目が覚めたとき俺はベッドの上だった。周りを白いカーテンのようなもので囲まれていて外から見ることはできないがとてもきれいな部屋のようだったが。
部屋の向こうから「おお!目が醒めたかね。さっきから目を開けたまま寝てるみたいだったから、びっくりしてたんだ。あ、僕はこういう者だよ」と言って名刺を差し出してきた そこには「医師」の文字が見えた。そして続けて。「ああ、まだ起き上がっちゃ駄目だよ。もう少し休んだほうがいいからね。ここは病院だから安心して欲しい。君の身元についてもこれから確認させてもらうからね」
そして俺は質問されたことについていくつか答えさせられた後、「とりあえず、しばらくはゆっくりしていたまえ」と言われたのだ。
俺はしばらくそこで過ごすことになった。そうして一月程経ったころだった。
俺に家族はいないことを告げると
「じゃあ、うちの子は君にしようかな」と言われたのだった。そして、そのまま引き取るということになり、俺は新しい家に引き取られることとなったのだ。
「あの人は誰なの?」
「うん、まあいろいろあったんだけど。この前話した人だよ」
そう言われ、そうかあの人が……と思ってしまう この人と初めて出会ったのは私が7歳のときだったと思う。そしてあの時、私の運命が変わったのだった 当時住んでいた町で原因不明の大火災が起こり多くの人が亡くなってしまった。
幸いにして私が住んでいたところは離れていたこともあって被害はなかったが 。でも多くの犠牲者が出ていた。そして亡くなった人のうちのひとりが私の父だったのだ。
私はその時10歳だった。
父は町の人たちを守るために火の中に飛び込み逃げ遅れた人々を助けようとしたのだということを後に聞いた。だけど残念ながら父もその仲間たちも帰ってくることはなくて…… 母はずっと父の亡骸を探して泣いていた。そんな母のこともかわいそうな気がしたが、私は私自身のことが悲しくなって泣いたりしていた。
私の身の上には不幸しか訪れないようだった。私は自分のことを不幸な子だと思い始めていた。母と一緒に暮らしたこともあったけれど、やはりひとりになると寂しいもので……。いつも泣きそうな顔で過ごしていたと思う。そしてある日私はまた火事で死にそうな目に遭うことになるのだった。
そしてそのとき助けてくれたのが彼だったというわけだ。
彼は消防士だということを知った。そして「一緒に来るかい?」という言葉に思わずこくりと肯いてしまったのである。
私は彼と一緒に住んで、学校にも行ったりしたが、結局高校を卒業と同時に家を飛び出してしまった。でも後悔はしていない。だって結局彼には私は振り向いてもらえないのだもの。きっと彼は、私のことを助けたのは仕事のためでそれ以上の気持ちはなかったに違いないもの。私ばかり好きになってしまったのだもの それならこれ以上ここにいても意味がないもの。
「それじゃ行こう。ここの人達にも挨拶をしなくちゃならないから」と言われ、慌てて我に返る
「え、今なんて?」と言いながらも彼の腕の中から抜け出そうとするが抜け出せない そんなやりとりをしていたところへあの男の人の姿が見えたのだった 結局、俺はあの人に連れて行かれることになり。今はこうして列車に揺られている。隣に座っているこの女性がその人の娘さんなのだとか。俺は少し驚いた。この女性は俺よりもずいぶん若く見えるからだ。
俺は彼女の方をちらりと見るのだが、相変わらず睨むようにして俺のことを見ていてどうやらはぐれないように手を繋いでおかないといけないと思っているらしいということだけが分かったので仕方なく握り返すことにしたのだが。すると彼女はほっとしたような顔をして俺の方を見つめてくるのであった。
「ところで、エドガー、あなたは本当にこれで良かったのかしら?せっかくお子さんがいらっしゃるのに……」
そんな話を突然し始めるのを聞いて、驚いてそちらをじっと見てしまう。そんな俺の様子を見て、ハルは。
「ごめんなさい、驚かせるつもりはないのよ。ただ、もしよかったらこの子のことも考えてくれないかしら?と」
「あなたには感謝してもしたりないくらいのことしてもらったから。それにあなたがこの子のお世話をしてくれているからこうして元気でいられるのだもの。お礼を言いたくても言い尽くせないわ」と言い出すものだから慌てふためいてしまう しかし
「ありがとう、お義父さん」と言ってくれる娘を見るとつい嬉しくなるのだった。こんな俺のような奴のことを認めてくれるのならば、と。「そうだな、俺がもっとしっかりしないとな……」
それから俺が火星に戻ると。早速俺は仕事を再開した。俺が留守の間はこの研究所の職員が俺の代わりに運営してくれるから俺は安心して仕事をすることができた。この研究所では俺以外の研究員も数人働いていたのだった。俺がいない間に新たに入った職員もいるようで、俺は彼らに俺の不在中に起きたことや俺からの指示について伝えたのだった。そして俺が再び仕事を始めるとあっという間に帰る時間が来てしまった
「今日は早く帰ってきてね。夕食を作って待ってますから」と言われ、つい笑みが浮かんでくるのだった。「ありがとう。気をつけて帰るんだよ」と言うと 。彼女がにっこり笑う。「ええ、あなたも無理しないで下さいね」
「あなた、もうすぐお誕生日よね?」
そう言われ「ああ、そういえば」とつぶやくと彼女は、
「もうすっかり忘れてたのね。そうか。じゃあちょっと待ってね」と言って席を立つと何枚か書類を持ち出して来て
「これはねあなたへのプレゼント」と言って差し出してくる
「なんだろう?」と思って見ていると「それはね、この国の戸籍のコピーよ。今まであなたの出生届けも出されていなかったからね」と彼女は言うのだった
「それで?これをもらってどうしろと?」と訊ねると
「それを役所に提出して欲しいんだ」と頼まれたのだった
「別に良いけど。なぜ?」と聞くと「指輪をはめる前に必要でしょう」と顔を赤らめる彼女。俺は改めてこの人が好きなんだと思い直しながら、その書類を受け取るのだった
「そうだな、ちゃんと準備しておくから」
俺は久しぶりに我が家に戻ってきたのだった。「今日は遅くなるから。先に寝ていても構わないよ」と彼女に告げると「いえ、起きているわ」とのこと。そして食事も二人で食べたのだった。そして食後のお茶を飲んでいるときのことだった。俺は鞄の中から包みを取り出したのだった。それをテーブルの上に置いて
「今日はこれを渡したかったんだ」と言って手渡した。
すると中身がなんなのかわかっている様子で「そんなに高価なものでなくてもいいのよ」などと言い出したので
「そういうつもりで贈るものじゃないだろ」と言うのだが。俺が開けるように促すと彼女はゆっくりとリボンを解き始めた そうして箱を開けると中に納まっていたのはプラチナでできたネックレスだった
「きれいね。ねえ着けてもらえる?」と言われて、俺は彼女の後ろに回り込み首に回そうとしたのだがうまくいかない。
「貸してみて」と今度は自分でやってみたがやはりなかなか難しいようだった。仕方がないから手伝ってやる そして無事に成功すると
「似合う?」と言って微笑みかけてくる 俺はしばらく見惚れたあと、返事をしてやったのだった
「ああ、とても良く映えてるよ」という返事に そういえば以前、似たようなことを誰かに言ったことがあるなと俺は思い起こし「そうだ。昔もこれと似たように言った人がいたっけ」と言ったあとで思い出したのだった。その人との約束を違えたのだということに…… そして その人が今どこで何をしているのか、というか生きて居るかさえもわからないという事を思い知らされることになるとはこの時は思ってもいなかったのだったが…… そうしてその晩は二人で過ごすこととなった。翌朝、俺は早めに起き出す そして昨日買ってきたばかりのパンを朝食にする。俺は普段からそこまで朝ご飯を食べないのでこれがいつも通りなわけだが
「あら、早かったのですね」と言いながら彼女が起きてきた。そして
「今日からお勤めですよね」と言った瞬間、ゴフッと血を吐いた。「おい、大丈夫かい!?」「はい、ちょっと油断しました。すみません。大丈夫ですから、それよりも急いで病院に行ってきてくださいね」と言われるが
「君を置いてはいけないだろ!」
「いいから。ほら急がないと遅刻しますから」と言いながらうずくまってしまう。胸を押さえて浅い息をしている。顔も土気色でとてもしんどそうだ。俺の手を握る力が弱くなっている気がする。
「君を置いていけないだろ。一緒に救急車に乗る。しっかりしろ。君が治るまでずっと側にいてやるからな。死ぬんじゃないぞ!絶対に!!」と言いながらも
「いや、でも君に看取られなら……」とも思う。そしてそんなことを口にしたところで
「もう、時間切れみたいだから行ってください。お願いします……早くしないと……」と言われてしまう。「嫌だ。死ぬな。死なないでくれーっ」彼女を思いっきり抱きしめた。でももう呼吸が聞こえない。脈拍も弱くなってきている。彼女の身体がどんどん冷たくなっていく それでもなお、俺は彼女の体をゆすったりして呼びかけ続ける。
そんな時 俺の頭にひらめくものがあった。まだ試していなかったこと…… そして 彼女の唇にそっと口づけをするのだった それから1分か10秒ぐらい経ってだろうか、彼女の体が輝きだす。そして
「ふう、やっとこれで楽になれます。良かった、本当によかった……」などと彼女は言うのだ そんな俺の様子を見かねて看護師が駆け寄ってくるのが見える。そして彼女の様子がおかしいので
「どうしました?意識はありますか?」と聞かれるのだが
「わかりません……」と答えるしかない そんな時ふと頭に浮かんできたものがある
「これって、ひょっとしてキスで生き返ったのか?」という言葉が浮かぶ とつい呟いてしまったのである それからというもの 俺には前世の記憶が戻ってくることになったのである。この世界とは違う世界 魔法があり、魔物が徘徊し戦争に明け暮れていた世界で魔王と呼ばれた俺の事を。そこでの俺の名はエドガー。そうして俺は自分が死んだことを自覚していくのであった 自分の身にいったい何が起きたのかよく分からなかった。目の前で起こっていることが何なのか理解ができない どうしてそんなことになっているのかわからず呆然としてしまった 俺はただ普通に出勤してきただけなのに そんな時 、俺の目に入ってくるものがあった。廊下の片隅に置かれた花瓶の花 その中に一輪だけ毒々しい紫色の百合があるのだった。それを見つけた途端に頭が割れそうなほどの頭痛に襲われていく 俺はその場で座り込んでしまい、頭を抱えてしまう 。そして俺は思い出した。あの世界のこと 俺のことを知っている人物たち そして俺はある女性のことを愛していたということ。そして彼女のことを救えなかったことも あの世界に残していった彼女の事も心配になってきた あの世界でも俺はきっとまた後悔を繰り返してしまったのだ そんなことを考えていると「貴方はまたわたしを裏切ったのですね。生まれ変わったら必ず会おうと約束したのに、わたしでなく違う女を選んでしまった。一度ならず、二度までも。やはり貴方は腐っても魔王、転生しても魔王でした。わたしは勇者として一度は情けをかけましたが、もう許しません。裁きを受けなさい。転生して逃げようなどと無駄です。輪廻の輪は断ち切っておきました。苦しみながら消えなさい」そう言い放って彼女は去っていったのだった。
その後、何が起こったのかはよく分からないが 俺が死んだという事実だけはなんとなくわかった しかしなぜ俺がこんなところにいるんだ? そうして考えを巡らせていると。ドアが開き、男が入って来たのだった。「そろそろ意識を手放してくれませんか。もう前世の想いでには十分浸ったでしょう。貴方の魂はまたとない邪気の素材として値段がつけられないほどの価値があります。さっさと自我を失って無に帰してください」と一方的にまくしたてた。すると別の女の声が聞こえてきた。「これが魔王のエッセンス?ずいぶんと未練がましいのね」「ええ。エドガーという執着心が特に強く下劣な男でして」「言い値で買うから早くちょうだい」「ありがとうございます。ハルシオン様」。とか、勝手に商談を進めるではないか。って、ハルシオンだと?そんな、まさか、バカな。ありえない。そんなことがありえるわけがない それに今なんて言った?「俺はもう死んでるのか?」と問うと
「はい、お亡くなりになっていますよ」と、にこやかな笑みを浮かべながら返事をされた。「あなた、これからどうなるか聞いてますか?」そんなもの言うまでもないだろう。いや、わざわざ俺の口から語らせる気か、これから俺に待ち受ける恐ろしい運命を。するとハルシオンが割り込んだ。「絶対言わないわよ。負ける運命を受け容れるような男なら呪宝珠の核に使えないもの。世界を木っ端みじんに砕く最終兵器は頑固な魔王の魂を素材にしないといけないの。恨みつらみを凝縮した最凶最悪の魂」などと言い出したのだった。「まあ、それは置いておいて、さっそく始めましょう。私の仕事はこれで終了よ。この男、最後までうるさくて、ちょっと邪魔でしたわ。私の魔力もそろそろ尽きそうだし。では後はお願いね」そう言って彼女は立ち去って行く。そして残された男は、俺を拘束したのだった。
そして俺は無理やり連れ出され、そして
「これは何だと思いますか?あなたの体から出てきたものなんですよ。魔結晶っていうもので、本来は魔法を使うための燃料みたいな役割を果たす物質なのですが、これがこうして人間の体内に溜まると、人は発狂してしまうのです」
と、まるで理科の授業でも受けるような感じに、淡々と説明するのだった。
「なんでお前のようなヤツが教師などやってるんだ」などと言ってみたところで状況が変わるはずもない。俺もすでに末期がんだったらしい。抗癌剤治療など意味もなく進行してしまい手遅れだったそうだ。そしてついに俺はその瞬間を迎えることとなる。そしてそれが今まさに始まろうとしていた 俺は恐怖から叫び出していた。「待ってくれ!まだやりたいことがたくさんあるんだ」などと言ったところで聞き入れてもらえるとも思えないのだが。
俺の言葉を無視して作業を進めようとする男の手を必死につかんでいた その時 俺の手を振り払おうとした男の手元が狂い、注射針の先が俺の皮膚に突き刺さってしまった そして そのまま薬が流し込まれていった。痛みで意識を失いそうになっていた俺だったがなんとか持ち堪えた。
そのあと俺は病院へ担ぎ込まれたそうだ そこで俺は医師から「末期のガンだ。残念だがもう手の施しようがない」と言われた それからしばらく入院することとなったが 、病状が悪化してしまい手術が必要となったのである その説明を受けた時、なぜか俺は落ち着いていた もう長くないことはわかっていた。
むしろ もう終わりか、と思っただけだったのだ
「本当に申し訳ございませんでした。この国のためにもどうか死力を尽くしてくだされ」と頭を下げられてしまったが「もういい、やめてくれ」と言うしかない。俺は国のことなど正直どうでもよかった。それより早く終わらせてほしいという気持ちの方が大きかったからだ。
俺の死がもたらした変化に世界は気づくことになる そして俺の葬儀が終わった次の日に 、ハルシオンが泣きながら墓前で暴露するのだった。「ごめんなさいね。あなた。でも、悪い女の呪いからあなたを解放するためには他に方法がなかったの。許して」と墓石に涙を垂らした。彼女のお腹は少し膨らんでいた。そしてマタニティードレスをさすりながら言う。「この子の名前はもう決めたの。エディアというの。女の子よ。貴方の魂が入る準備は出来ているわ。あとは、あなた次第」と言い残してその場を後にしていったのだった 俺には前世の記憶が蘇った。それもつい先ほどの出来事だ 俺は前世の記憶を取り戻すことができた でも だからといって何だ? 俺はまだ死ぬ気はない この命 そう易々と手放すつもりなどなかった からである。俺はハルシオンの娘として生まれ出ることに決めた。エディア、か。もう少しひねってほしかったな。まあ、いい。女でも細身の剣を握ったり魔女として勇猛にふるまえる。勇者の資格に性別なんて関係ない。そう覚悟を決めると、胎児に宿った。どんどん意識が薄らいでいく。暖かい。
とても幸せな時間だ。俺に前世の記憶が戻ったことを知っている人間は一人しかいなかった ハルシオンだ。あのクソビッチが余計なことしてくれたおかげで俺は死にかけたが、結果として転生することができ、さらにはハルシオンが娘として産むことになったようだ。俺はあの世界に転生してからのすべての出来事を思い出していた そして 自分がこの世界に生まれたことに、一つの目的があったことに思い当たったのである 魔王としての贖罪と救済の二つの意味を込めてのことだった 俺は勇者ハルシオンの娘エディアとして、魔女のエッセンスを使って世界を救うための転生を果たしたのだ。前世の行いは許されるものではない。しかし償いきれないほどの罪を俺は重ねてしまった だから 俺は今度こそ世界を救う勇者になる。この手で世界を変えてみせる。たとえ俺が死んだとしても。俺はこの世界の魔王となるのだった
ページ上へ戻る