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天才少女と元プロのおじさん

作者:碧河 蒼空
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38話 哀れ稜ちゃん

【新越谷高校、選手の交代をお知らせ致します。レフト川口さんに変わりまして三輪さん。背番号10】

 正美がレフトに行くと、息吹は大島からドリンクを貰っていた。

「大島さん、ドリンクありがとうございます」

 正美はレフトに着くと大島にお礼を言う。

「気にしなくて良いスよ」

 大島の返事を聞くと、息吹の様子を伺った。

「息吹ちゃん大丈夫?どこか怪我してない?」
「平気平気。ちょっと転んじゃっただけ」

 息吹はドリンクを飲むと一人で立ち上がり、ベンチへ引き上げていった。

 ボトルを持って戻っていく大島の後ろ姿と、その向こう側にある柳大川越ベンチに向け、正美は改めて頭を下げる。

 息吹、大島がベンチに戻るとプレイが再開された。

 稜のエラーや息吹の転倒と、新越谷のミスで得点を上げ尚もチャンスが続く柳大川越に流れは傾きつつある。ここで追加点が入ろうものならその勢いは更に増すだろう。

 打席に立つのは五番の石川。強ストレート要員でスタメンに抜擢されたと思われる一年生である。

 詠深は二球で追い込んだが、石川がその後粘りを見せ、B3ーS2からの強ストレートを見送りフォアボールを選んだ。

 石川と同じく強ストレート要員であろう平田に打順が回った所で柳大川越がタイムを取る。ベンチからキャプテンの大野と大島が出てきて石川と平田を集めた。

 2out走者1·2塁、1点リードのこの場面で取る作戦が思い当たらず、ここでタイムを取る理由が分からなかった正美だが、暫く打順の回ってこない大島を含めた一年生を集めていることに気付いて腑に落ちる。

 負ければ終わりの公式戦。少し前まで中学生だった一年生にとって勝敗を左右するかもしれない打席に立つ重圧は重すぎたのだろう。

――作戦を伝えた訳じゃないんだろうな。

 実は石川のフォアボールも自信をもって見逃したのではなく、強ストレートと分かっていたにも関わらず手が出なかったのだ。彼女の心神に纏うプレッシャーが身体にまで影響を与えていたのだ。

 大野と大島がベンチへ戻り、タイムが終わる。平田が右打席でバットを構えた。

 一年生を集めた大野が言った言葉を纏めるとこうだ。ここで打ち砕けば二年間良いイメージで戦える。先輩の為とかチームのためではなく、自分達の為に野球をしろ。

 しかし、平田にも譲れない思いがあった。

――このメンバーでやれる夏は最初で最後。確かに今の一年生は朝倉さん目当てで集まった子が多かった。けれど、向上心や厳しさがありつつも楽しくて優しい雰囲気のこのチームがすぐ好きになったんだ。

 ファールでツーストライクを重ねた平田にも強ストレートが投じられる。

――自分達の為の野球とは今のチームに貢献することなんですよ。一日でも長く!

 平田の振り抜いたバットは白球を左中間へ鋭く跳ね返した。あわやホームランかという当たりはフェンスに当たってグラウンドに落ちる。クッションボールを怜が無駄なく処理してバックホームするが、ファーストランナーの石川もホームへ返り、柳大川越が二点を追加した。

 一塁側ベンチの柳大川越が沸き上がる中、今度は新越谷がタイムを掛ける。内野陣が集まったマウンドへ芳乃もドリンクを持って向かった。

 レフトを守る正美はセンターへ行くと怜に声を掛ける。

「キャプテン、ナイスローでした」
「ああ。でも、すまない。ホーム刺せなかった」
「いやいや、あれはしょうがないですって。てか、よくダイレクトで投げましたね。ここ中堅122mなんですけど」

 埼玉県営大宮公園野球場は男子プロ野球の公式戦でも使用される事がある球場である。そんな球場のフェンス近くからホームへ送球した事に対して若干引き気味の正美に、怜は苦笑した。

「マウンドの方は済んだみたいだ。そろそろ戻ろう」

 怜の視線を追うと、内野陣がそれぞれのポジションに戻っている。それを見た正美もレフトへと走っていった。






 タイム明けの後続をしっかりと切った新越谷のベンチでは正美と珠姫が話をしていた。

「そっか。ヨミちゃん知ってたんだ」
「私が考えてるから良いかな、て。まったく、ピッチャー始めたての二人はともかく、ヨミちゃんも正美も、私に任せっきりなんじゃないかな?」
「あはっ。頼りにしてるよ。これからもビシッと私達をリードしてね」

 暖簾に腕押しな正美に珠姫は溜め息を吐くのだった。

 そんなこんな話しているうちに理沙がレフト前へヒットを放つ。

「うわっ、凄い音······重そう······」
「正美、理沙先輩に怒られるよ?でも本当に凄い当たり。三遊間が打球を追えていない」

 思わず漏れた正美の言葉を珠姫が嗜めた。正美が入部する前の合宿でピッチャーの試験をした時に多数から“重そう”と言われた理沙が青筋をたてていたのを珠姫は思い出す。

「いや、打球の事だからね。タマちゃんも冗談言うんだね」

 しかし、そんなエピソードを知らない正美はジョークだと思い、苦笑しながら返した。

「とにかく、本人の前で言っちゃ駄目だよ」
「?······うん、分かった」

 念を押す珠姫に正美は首を傾げながらも頷くのだった。

 ノーアウトの走者が出たところでバッターボックスに向かうのは稜。右打席に立つ彼女の表情は硬かった。

――ここでヒットを打って調子を取り戻してくれれば良いんだけど······。

「打ちなさい!」

 稜に檄を飛ばすのはガールズから彼女と共にプレイしていた菫である。

「空気読めないのが長所なんだからこういう時こそ良い打撃しなさいよね!!」

 その菫の言葉に疑問符を浮かべるものが一人。

「空気が読めん?」

 菫のすぐ横に立っていた希だ。

 菫は希にガールズ時代のある出来事を話し始めた。それは相手チームの完全試合達成まであとアウト一つとなった場面。それまで2エラー2三振だった稜がヒットを放ったのだ。

「そういう感じの空気の読めなさよ」
「じゃあ打ちそうやね。空気読めればゲッツーやろうし、ここは!」

――なんて言われよう······哀れ稜ちゃん。

 普段はみんなをいじる側の正美も二人の言いように、稜に対して同情を覚えた。

 二人の予言とは裏腹に稜は直球だけで追い込まれる。朝倉は稜を仕留める為、人差し指と中指で白球を挟み、左足を上げようとしたその時······。

「ゴー!!」

 ランナーコーチの芳乃の合図と共にファーストランナーの理沙がスタートを切った。

――え!?走ってる!?完全に盗まれた!

 朝倉は背後でランナーが走っているのを感じたが、彼女の脚を駆けるシナプスはもう止めることができない。朝倉は動揺のまま腕を振り抜くしかなかった。

 そんな朝倉の心の揺らぎが失投を生む。スプリットが落ちない。そんな打ち頃の球を稜は見逃さなかった。

 稜のバットが白球をレフトへ運ぶ。サードが伸ばしたグラブの僅か上を通過した打球はレフト線を破る二塁打となった。

 スタートを切っていた理沙はホームベースを踏み、新越谷は一点を返す。決して足の早くない理沙だったが、苦しげな表情を浮かべながらも必死に駆け抜けた。

『ナイバッチー』

 ベンチから二塁の稜へお決まりの賛辞が送られる。

「ナイスランです」

 ネクストバッターズサークルへ向かう正美は入れ替わりに戻ってきた理沙とハイタッチを交わした。






 浅井はタイムをとるとマウンドへ向かった。

「······牽制入れてなかったからな。ギャンブルスタートかもしれん。鈍足だからと油断していた······すまん」
「はい」

 朝倉は浅井の言葉に対し意義を唱えなかったが、内心では疑念を抱いている。

――コーチャーの掛け声は完璧だった。本当にギャンブルだろうか?

 朝倉の疑念は当たっていた。一球毎に守備シフトが動く大野に対し、朝倉登板の際は変化球を投げる時のみシフトが動く。加えて、朝倉がモーションに入る前にショートが移動し始めている事に気付いた芳乃は、ショートの動きに合わせて盗塁を指示する作戦に出たのだ。

 しかし、そんなことは朝倉は元より柳大川越の誰もが気付いていなかった。

――癖があるのかも······。

 朝倉の疑念はプレイが再開しても晴れることはなく、そして、ど壷にはまっていく······。 
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