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緋弾のアリア ──落花流水の二重奏《ビキニウム》──

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梔子とぺトリコール、紅涙

 
前書き
午後7時に更新するはずだったのに忘れたバカは私です。誠に申し訳ございません。() 

 
次に目を覚ました時に見えたのは、見慣れない天井だった──と表現するのは些か愚直だろうけれども、今の朧気な自分の頭では、それくらいしか思い浮かばなかった。
指先を這わせて、その伝ってくる感触を思うに、どうやらベッドに横たわっているらしい。視界の端には、キャビネットやらテーブルソファやらが見える。

自分やアリアの部屋でないことは確かだった。少しだけ開かれている窓の隙間からは斜陽が差していて、この目線からは、紫金に染まった千切れ雲が揺蕩っていた。黄昏時のぺトリコールが、東京湾の潮風に乗って鼻腔を擽ってゆく。
傍らではアリアが椅子に腰掛けながら、何やら物憂げな風にこちらを覗き込んでいた。赤紫色の瞳に浮かんでいるのは……?

その瞼に浮かぶものが何なのかを察する暇も無いまま、不意に、ぎゅっと胸が──上半身が締め付けられる感覚がする。ぺトリコールに混じった梔子のような香りも、嗅覚を蕩かせていった。
空を舞ったアリアの髪が頬を擽っていく。首に回された華奢な腕は、心做しか震えているように思えた。顔は胸元に埋められていて見えない。ただ、泣いていることだけは直感的に分かった。


「……らしくないね」


苦笑しながら、乱れている髪を手櫛で整えてやる。『アタシは絶対に泣いてない』とでも言うかのように──アリアは僅かに、かつ、珍しく弱気な風に頭を振った。
……あとはただ、何かしら感情の凝縮された嗚咽を堪える声だけが洩れていて、そうして、この空気に融けていくだけだった。

首筋の温もりに身を預けてしまっている。夢見心地の中で、何分くらいこうしていたろうか。射し込んでいた斜陽の大半がここに留まるのを退屈に思うくらいには、時間が経ってしまったようだ。影が紡ぐ黄昏時の集塊に、こうして2人で呑まれている。


「…………良かった」


咽喉の奥に纏わりついていた嗚咽はもう、聞こえない。絞り出されたアリアの声は、今にも手折られてしまいそうな路傍の花のような儚さと──一点の穢れもない胸の内だけを、内包していた。
そこに改めて、如月彩斗と神崎・H・アリアという少年少女の掛り合いの強固さを思い知らされる。不器用な子供が結んだ糸のような、解きたくても容易には解けないような、そんな関係。

「……心配かけて、ごめんね」そう言おうとしたけれども、吐息が洩れるだけで、思うように声が出せそうにない。伝えたい言葉は咽喉にまで来ているからこそ、もどかしいのだ。
──そっと、アリアの肩を抱き返す。歳相応の少女の華奢な身軀は、力加減さえ間違えれば瓦解してしまいそうだった。内には、あの温もりと同じものを秘めている。そして、その確かな温もりが、衣服を隔てたすぐそこには存在していた。

アリアが抱きしめられた時の、動揺と羞恥が入り交じった、身振るいめいた──肩が跳ねたあの余韻が、まだ残っている。鼓膜を震わす蠱惑的な吐息だけが、虚空に霧散していった。
その中に、自分の心臓が早鐘を打っているのが聞こえた。自分に聞こえているのだから、この鼓動は、きっと──アリアにも、きっと、聞こえているのだろう。今の自分の脈搏は、忙しなく100以上を打っているに違いない。そう確信した。


「……ねぇ、アタシの脈搏(プルス)って聞こえてる?」


徐にアリアは顔を上げた。暮れた斜陽を背に浴びながら、赤紫色の瞳を、逆光の中で返照させている。吐息が直に伝わってくる。
こうして見詰め合うのは、果たしていつぶりだろうか。アリアの顔を見るのも、なんだか久しく思えた。悪戯的な笑みのその内に、羞恥を押し込めたような色をしていた。


「聞こえてる。キチンと」
「……アタシも、聞こえてるから」



この一言二言で、問いの真意を推量ることは、出来た。こと彼女にしては、どちらかと言うと抽象的な気もする。
要するにアリアは、脈搏を通して自分の感情を伝えたいのだ。一種のローマンチックめいた、在り来りな方法で。

密着な衣服を隔てた間近に、周期的に身体を震わす拍動が、今も聞こえている。やはり100以上を打っていた。
そうして、なかなか翳りを見せない歳相応の少年少女の恋情のような──何故だかそんな風に、思えてしまった。

とはいえ、とりわけアリアが自分にそんな感情を抱いている……とは分からない。好意的に思われていることは間違いないけれど、どの段階での好意的なのか──友人か、親友か、パートナーか、異性か。そんなことすら気にしていないかもしれない。それなら単なる『羞恥心』として区切りを付けた方が簡単だろう。


「ねぇ、今こうして抱き締めあってるけれども──」
「……分かってる。恥ずかしいよ」


「でも」と次ぐ最中に、息を呑む音が聞こえた。


「──でも、嬉しかったから」


刹那に抱いた感情は、もう名前を知っている。そうして、この子は何処まで可愛らしいんだとさえ思ってしまった。
窓硝子から見える、この黄昏時の五月空のように果てがなくて、あの揺蕩う千切れ雲のように奔放で、時折見せる常花のような仕草に──やはり何度も、惹かれているから。

だからこそ、彼女の運命が昏れ往く黄昏のように、或いは霧散する千切れ雲のように見えて仕様がないとも、思ってしまっている。路傍の折花にも似通ったそれが、アリアの背に乗っかっていて、いずれ自分が手を伸ばそうとも伸ばし切れないままに、泡沫を掴んでしまう──それがどれほど怖いことなのか、分かろうとする以上に分かりすぎていた。夕冷えにも似た感覚が、震懾に、背のあたりを這いずり廻らせていた。


「アリアの前を、自分から去るようなことはしない。絶対に」


黄昏時の集塊に爛々と浮かぶ、赤紫色の瞳を見据えながら──今の自分は、どうやらこの夕冷えをあの温もりで消そうと躍起になっているらしいことを、ようやく自覚した。
アリアとも自分のものとも分からない温かな体温が綯い交ぜになっていて、熱情的とも温和的ともつかない感覚を、感受した。


「約束は最後まで守るつもりだからね」


言い、自分の顔が穏和に笑んでいることだけを願いながら──或いは、その言葉の裡面に渦巻く感情をなるべく悟らせないようにすべく──磊落な調子で二の句を次いだ。


「もう少しこうしていたいところだけれど、本筋に行こうか」







病室の白色灯に降られながら、緩慢とした動作でテーブルソファの一角に腰掛ける。病院着のガウンが小さく衣擦れていた。
テーブルを挟んで向かいに座っているアリアからは、まだ、何かしらの憂慮の念は拭えていないようだった。


「調子はどうなの?」
「大丈夫、もう普通だよ。……まぁ、疲労感はあるけどね」
「……ここぞとばかりに見栄張って、無茶するからよ」


呆れたように呟いたアリアは、小さく溜息を吐いた。その動作に呼応するように、髪先がしゃらりと遊んでいる。


「まぁ、空白期間だけの副作用は覚悟していたけれど……」


「この機会だから改めて説明した方がいいね」と苦笑する。「でもその前に、ちょっとお水が欲しいかな」
アリアは小さく「あ、そっか」と呟くと、キャビネットの隣に備え置かれていた小さな冷蔵庫からペットボトルを取り出した。
受け取ろうと持ち上げた腕が心做しか重い。それでも何とか手に握りしめると、キャップを回して咽喉へ運ぶ。

それにしても普通の病室に冷蔵庫などはあったろうか。病院にはさほど世話になったことがないから分からない。ただ、広さにゆとりのある個室という点を見れば、少々優遇されているのかな、と思った。アリアが手回しでもしてくれたのだろうか。


「ありがと。なんか喉が乾いてたみたいだね」
「今朝から夕方まで寝っぱなしだからよ。原因は、先生(ドクター)は疲労だろうって言ってたわ。陰陽術のことは言わなかったから、それが原因なのかアタシには分からないけど……」
「うん、それで正解ってところかなぁ」
「何よそれ。あまり褒められた気がしないわね」


不満そうにツインテールの先を指で遊ばせながら頬を膨らませて、アリアはわざとらしく拗ねてみせた。さながら歳相応の子供のようで、それがとても愛らしく見えてくる。
そんな風をおくびにも見せず、言葉を次いだ。


「いつだったか白雪も言ってたけど、超能力者には能力の発動媒体でジャンル分けがされてるんだ。俺は、簡単に言えば体内の『氣』を媒体にしてる。もっと分かりやすくすると、霊力みたいなもの。ゲームとか漫画の設定だとMPって呼ばれるのかな?」
「MPが切れたら魔法が使えない……みたいな? でも彩斗は今までずっと陰陽術を使ってたじゃない。それが切れた時に今回みたいな疲労感とかは無かったの?」


さも興味ありげな様子でアリアは身体を乗り出した。恐らくは自分なりに考えようとしているのだろう。人差し指を口元に当てがいながら、何やら思案げにしている。
しかしアリアの言う通り、確かに自分は今まで《境界》や《明鏡止水》を使っていた。しかし今回は、《五行陰陽》さえも発動している。そこが普段と今回の違いだね──と頭を振った。


「如月彩斗という人間が持っている氣の量なら、《境界》や《明鏡止水》程度は大した影響は無いというだけの話だったわけだね、今までは。ただ、今回は違った。それらに加えて《五行陰陽》を酷使するということは、それだけ氣──MPを消費してしまったということだ。全てを使い切ってしまうほどにね」


分かりやすく例えてみせれば、


「言うなら、全速力で数キロ走ったあとは疲れるでしょう?」
「……そうね。呼吸も整わないし、苦しいもの。酷い時には酸欠で倒れちゃう人なんかもたまに見掛けることがあるかしら」
「その状態が『MPを使い果たした』状態だね。そして、『酸欠で倒れちゃう』ことが今回の結果を示しているわけだ」


だから、と一拍置く。


「この結果が『空白期間だけの副作用』であり、昏睡してしまった原因なんだよ。副作用と言ったけど、要は自業自得」
「その副作用っていうのは治らないの?」
「……いや、そんなことはないかな」


副作用は初見では対処しきれないこともある。が、自業自得という語を敢えて選んだからには、改善していく方法も勿論ある。


「筋トレと一緒だよ。氣の量は個々人でほぼ一定だと考えていい。何の鍛錬も積まずにその中の8割を消費するのと、ある程度の慣れを会得してから8割を消費するのとではまったく感覚が異なるのは分かるね? だから、これから必要なのは、いわゆるリハビリだ。感覚を取り戻さなければいけないわけ」


そうして自分は、それを怠っていたのだ。無味乾燥な日々に何が起こるとも思わずに、知らず知らずのうちに、誰の目にもつかないような奥底に仕舞っておいてしまったのだ。
武偵高生という肩書きを得てから、どうやら自分は本来の地位を忘れてしまっていたらしい。在るべき本家の由縁を。

言い、苦笑する。「どうしようかはまだ決まっていないけれど、まぁ、ある程度の伝手はあるからね」
小さく瞬いてから、窓硝子の外に流し目をする。茜と紫金に染まっていた東京湾も、今はすっかり藍に暮れていた。屋形船らしき灯りが、惘々と浮かんでいるのが見えている。窓硝子に映写している赤紫色の瞳は、やはり、爛々としていた。


「ところで、《魔剣》──ジャンヌ・ダルク30世の以後は?」
「後処理も任せて尋問科の綴先生に引き渡したわ。『こりゃ尋問しがいがあるなァ』って笑ってて……。ふふっ、割と怖かった」


アリアは人差し指で口の端を上げてみせた。「こんな感じで笑ってたのよ、怖いでしょ?」と楽しそうに告げる。確かに怖そうだ。さぞかし尋問科にお似合いな猟奇的な笑みだったのだろう。
しかし尋問科の綴と言えば尋問の天才だ。その点に於いては彼女に任せるのが最善手だろう。あとは結果を待つだけだ。司法取引の素材としても充分な価値はあるね。


「……あ、そうだ。白雪の容態はどう? 毒が心配だったけれど」
「理屈としては簡易な毒で、解毒薬を準備するにはそんな時間掛かってなかったみたいよ。今はまだ静養中。でもキンジが様子見に行ったらしいから、もう大丈夫じゃないかしら?」
「そう、特に大事にはならなくて良かった」


一連の騒動で、改めて、星伽白雪という少女の存在の、如何に《イ・ウー》にとって都合が良いかを再確認させられた。研鑽派と主戦派の両派閥、どちらに転んでもそれ相応の益があるというのは──やはり『金剛石の素』と暗喩せざるを得ない。
そうしてそれは、同時に、理子の助力があったからこそ得ることが出来た。如何に希少価値の高い情報であったかは明白だ。

ともすれば次に行うことは決まっている。新たな素材を得た今、自分にもアリアにも、どちらにしても益をもたらす結果へと繋ぐただ1つの過程が、《イ・ウー》へ近付く最短距離だ。
同時に、理子はその道を歩くにあたって忠告もしていた。『まだ手出しはされないだろうけど、気を付けてね?』と。

あれは、理子が形式上とはいえ逮捕された時の話だ。今とは全く状況が異なる。理子に次いでジャンヌまで捕らえられた、あまつ司法取引を行うことは明白だ──そんな《イ・ウー》の心境を察すれば、本当に殺されかねない。彼等彼女等の道を阻むことで。

これからは動向にも慎重さを見せた方がいいね──と、ある程度の結論を出してから、ペットボトルの中身で咽喉を潤す。あれこれと考えていた脳内も、心做しか澄んだ気がした。
「じゃあ、最後の問いね」と切り出していく。


「アドシアードは無事に終わったかい?」
「生徒会長の白雪は急病で出席不可、って扱いになったわ。その代わりに副生徒会長が上手く回してくれたから大丈夫よ」


「まぁ、困ってたのは白雪を目当てにリポートに来てた取材陣と一部の一般人くらいかしら?」そうアリアは続けた。
不満気に「美人な子が好きなのは分かるけど……」とも洩らす。苦笑しながら東京湾を見つめているその瞳が、どうにも彼女には不似合いでしょうがなかった。どんな感情を抱いているのかという予想を、あらかた付けてしまっているからこそだろう。


「……君が何を思っているのかは分かりかねるけれども──ほら、百人百様、千差満別。人それぞれ良いところはあるからね。それが同じこともあれば違うこともある。白雪が持ってないものをアリアが持ってるかもしれない。逆もまた然り。あんまり気にする必要なんてないよ。そのままで十分に魅力的だから」


『これは慰めでもなんでもなくて、本心だからね』と、そんな意図を裡面に秘めながら告ぐ。つい先程まで藍に暮れていた赤紫色の瞳が、今は白色灯に照らされて爛々としていた。


「……そっか。ありがと」


やっぱり、この子にはこれがお似合いなのだろうとつくづく思う。五月晴のような磊落な笑みと、気位に満ちたような声色と、他にも──1つでも欠けていたら、何か物足りない気がした。


「ともかく彩斗が無事で良かった。これに懲りたら、もう格好付けて見栄を張らないこと。いい?」
「だから、見栄張ってないって……」
「ゴチャゴチャ言わないの。でもまぁ、彩斗も見るところ、明日にはもう帰れるでしょうし──」


すぅっ、と1拍の間を置く声が、アリアの咽喉の奥から漏れ出た。それはさながら、いつもの磊落な彼女のようで、か弱い少女のようでもある。そんな中途半端な風だった。


「──それならアタシが先に帰って、待っててあげるから」


何故だか落ち着きのない感じで口早に言い残すと、アリアは小走りに病室の扉へと向かっていった。 忙しそうに取手に手を掛ける姿が、どうにも愛らしく思えてしまってしょうがない。
忙しない自分が何かを言い残したことに気が付いたのか、彼女は扉を閉める直前に、その隙間から苦笑混じりに笑いかけた。


「それじゃ、ちゃんと安静にしてるのよ」
「ありがとう。アリアも家路は気を付けて」
「うん。バイバイ」


お互いに扉を挟んで手を振って、振り返した。

もう1度、窓硝子のその向こうへと目を遣る。藍に暮れた五月空には、人知れず端白星が瞬いていた。そうして東京湾は、その藍より深い藍色だった。深淵を覗き込んでいるような、そんな錯覚に襲われる。泡沫のように浮かぶ屋形船の朱灯篭だけが、唯一の救いだった。あとは、全面に零れた藍のインクのせいだろうか。あの泡沫が、どうしても赤紫色に見えてしまっていた──。 
 

 
後書き
待たせましたね。(白目) 
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