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月見酒

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第一章

                 月見酒
 上杉謙信は酒好きだ。とかく暇がある時は常に飲む。
 それは今も同じであり春日山の城において夜縁側に出て飲んでいる。その時に傍にいる小姓達にこんなことを言った。
「こうして飲んでいると」
「お気持ちが楽になられますか」
「楽しいお心になられますか」
「うむ、実にな」
 戦場では見せぬ穏やかな顔での言葉だった。城内の己の邸の縁側に足を出す形で腰掛け飲んでいるのだ。
 共にあるのは塩だ。その塩も手に取り舐めてからまた言った。
「酒はよい。それにじゃ」
「それにですか」
「酒を飲んでおると」
 どうなるかとも言う。
「あの者のことを思い出すわ」
「まさか甲斐の」
「あの男をですか」
「許しておけぬ奸臣だ」
 検診は武田信玄を常にこう呼んでいた。幕府の意向に従わず好き勝手ばかりしているということである。
「しかしそれでもな」
「強いですな、確かに」
「尋常な相手ではありませぬ」
「かなりの者だ」
 信玄の強さを認めているのだった。謙信もまた。
「それにじゃ」
「それにですか」
「あの者は」
「あの者が幕府に従えば」
 謙信はまだ幕府の威信を信じていた。それ故の言葉だった。
「幕府は大きな柱を得るのだがな」
「そうですな。戦に政も見事です」
「人の心を掴むのも上手です」
「そして人としても」
「深いわ」
 悪くはない、そうだというのだ。
「全く。まことに残念だ」
「幕府に従わないことが」
「実にですか」
「しかし幕府に従わぬからこそ」
 謙信は他の国を攻め取ることは考えていない。だから自身を頼って来た者達にも義を立てて守るのだ。そこには野心はない。
 あるのは義、それ故に今彼は言うのだ。
「若しあの者が己の非を認め幕府に尽くすのなら」
「それでよいですか」
「赦されますか」
「赦すのはわしではない」
 では誰かというと。
「天であり公方様よ」
「では殿はあくまで」
「あの者にも義を向けられますか」
「それが殿の戦なのですな」
「土地なぞいらぬ」
 誰もが血眼になって争っているそれには興味がなかった。
「義、それのみよ」
「では我等もその殿と共に」
「義に生きさせて下さい」
「是非共」
「有り難きこと。わしにはそなた達がいる」
 謙信は誓いの言葉を言った小姓達にも笑みを向けた。そのうえでだった。
 彼は信玄のことを考えていた。確かに奸臣と言うがそれでもだった。彼のことを語るその顔は決して悪いものではなかった。満月の下でのことだった。
 その同じ満月の下に武田信玄もいた。彼もまた酒を飲んでいた。
 彼は縁側のところに胡坐をかき座っている。そうしながら言うのだった。
「何故あの様な者がおるのか」
「越後ですか」
「あの者ですか」
「強いわ」
 謙信のことをだ。彼もまた言うのだった。
「あまりにもな」
「あれはまさに軍神です」
「容易な相手ではありませぬ」
「天下にまさかあれだけの者がおるとは」
「考えもしませんでした」
「あれだけ強いとなるとな」
 信玄もまた言う。飲みながら。
「中々のう」
「勝てませぬか」
「おいそれとは」
「うむ、難しい」
 信玄は言う。だがだった。 
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