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顔に泥を

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第二章

 品川は松陰から土を受け損ねた、それでだった。
 土は松陰の顔に落ちた、それにより彼の顔一面土に塗れた。これには周りの者達も唖然となってかつ呆れた。
「品川め、よりによって」
「何てヘマをしたんだ」
「先生のお顔に泥を塗るなぞ」
「そんなことをするとは」
「せ、先生すいません」
 当の品川も驚いてだった。
 梯子を使うのも忘れて屋根の上から飛び降りて師匠のところに来てだ、平伏せんばかりになって謝った。
「お顔に」
「品川君」
 松陰はその弟子に静かな顔で言った。
「君は師の顔に泥を塗りましたね」
「も、申し訳ありません」
「これがまさに師の顔に泥を塗ることです」
 松陰の声は怒っていなかった、むしろだった。
 静かなままでこう言うのだった。
「これは面白い、まさか本当にこういうことになるとは」
「と、いいますと」
「こんなことは滅多にありません、怒ってはいません」
 むしろ笑って言った。
「顔は洗えば終わりです、ではです」
「それではですか」
「壁塗りを続けましょう」
 松陰は笑って言うばかりで周りもその彼を見てほっとした、だが。
 松陰はこの話をだ、常にだった。
 何かあると言い周りに品川を紹介する時にいつも言った。
「彼が師匠の顔に泥を塗った男です」
「先生、またそのお話ですか」
「これで何度目ですか」
 桂も高杉も呆れて突っ込みを入れた。
「昨日も仰いましたよ」
「昨日は飯の時ですが」
「何度も何度も言われてますよ」
「皆飽きましたよ」
「そうですか、実は父にもです」
 養子に入り厳しく育てた彼にもというのだ。
「言われました、思い出し笑いをするなと」
「はい、幾ら何でもです」
「いつもですから」
「もうそればかりですし」
「他の笑い話をして下さい」
「ですが僕の持っている笑える話は」
 これはとだ、松陰は右手を頭の後ろにやってどうにもならないという顔になって二人にこう返した。
「今のところです」
「それだけだからですか」
「言われますか」
「他の話があればいいますが。そうだ」 
 松陰は品川に気付いた顔になって言った。
「品川君、今度は何をしてくれますか」
「何もしません」
 品川は師に即座に返した。
「まるで私がいつも先生に不始末をしている様ではないですか」
「それは違いますが」
「顔に泥を塗ったからですか」
「またしてくれると思い」
「しません、もうその話でずっと引っ張るつもりですか」
「他の面白い話があれば。しかしこうした話も学ぶものですね」
 あらゆることを学ぶ対象と見る松陰はこうも言った。
「一ついいことを学びました」
「左様ですか」
「はい、笑い話も学問です」
 松陰は笑顔で述べた、そして彼は生涯この話を自分の笑い話のネタにしていった。幕末に名を残した偉大な学者にして教育者の意外な逸話である。こうした一面があったからこそ吉田松陰は敬愛され今も名を残しているのであろうか。


顔に泥を   完


                2020・4・15 
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