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銀河英雄伝説 異伝、フロル・リシャール

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第1部 沐雨篇
第1章 士官学校
  004 生き残るために

 軽めに調整(チューニング)された引き金(トリガー)を引く。
 肩を伝わる軽い衝撃。
 筋肉に力を入れず、その衝撃を流す。
 次射のために、射撃姿勢を崩してはならない。
 狙撃ライフル内蔵のエネルギ−・カプセルから放出される高出力レーザー。
 重力と風の力によって直進するはずのレーザーが僅かに曲がる。
 だが、それは予測できたことだった。
 300メートル先の円形の的の中心に穴が空く。
「——ヘッドショット、ワンショット・ワンキル」
 フロルは口の中で、誰に言うでもなく、呟いた。

 周りの観客が、小さくどよめいた。
 
 吐ききっていた息を吸う。そして自らを落ち着かせるように、深呼吸。

『ただいまの戦略研究科3年、フロル・リシャール選手の得点は、84点でした』
 射撃場内にアナウンスが流れる。

 フロルは伏射姿勢から立ち上がり、ライフルの安全装置をかけ、エネルギー・カプセルを取り外す。レーザー式の銃はエネルギー・カプセルを取り外すことが、銃を無力化する方法であった。競技ではエネルギー・カプセルを取り外して持ち運ぶことを義務づけられる。もはや、手慣れた作業であった。
 観客席に目をやると、目が向けられたことに気付いたジャン・ロベール・ラップが手を振っていた。ヤンも片手を挙げた。もっとも、それが照り付ける直射日光を手で遮ったのか、挨拶であったのかはわからない。あるいはただ頭を掻きたかっただけなのかもしれないが。実際、挙げられた片手はそのまま頭に向かったことから考えて、案外それが正解の可能性が高い。
 そんなヤンの隣には、優雅に真っ白な日傘を差して、こちらに笑みを向けている女性の姿。
 ジェシカ・エドワーズ。
 どんなに美人であっても、フロルには手が出せない女性だった。
 将来の、ラップ夫人である。



「先輩! お疲れ様でした! 5位入賞、おめでとうございます!」
 ラップは笑顔でそう言った。フロルも、それに笑顔で返す。
「ありがとう。こんな暑いのに、見に来てくれてありがとな」
 フロルは銃をロッカーに仕舞い、制服に着替えてから3人に合流した。場所は射撃場外のオープンカフェである。
「本当に暑かったんですからね、先輩。まぁ、このジュースを奢ってくれたので、良しとしますけど」
 ジェシカがソーダのストローを吸いながら、そう言って微笑んだ。彼女の右頬に浮かぶ笑窪が、太陽の光で影を作る。
 白を基調としたワンピースに、ヒールのあるサンダル、さっきまでかけていなかったサングラスを鼻に乗せ、ジェシカはサングラスの奥から上目遣い。
 まるで一枚の絵画のように画になる恰好だった。
「ジェシカ嬢にはあまり楽しめなかったかな?」
「まぁ、そんなことないわよ。300メートルも先の的の中心を射抜けるなんて、凄いと思います。だけど、私はあまり銃が好きじゃないだけです」
「じゃあなんで今日は見に来てくれたの?」
 フロルの問い掛けに、ジェシカは微かに怯んだようだった。
「……ラップとヤンに誘われたからです」
 フロルがちらりと目をやると、ラップは小さく肩を竦めるジェスチャー。つまり、違うということなのだろう。どうやら、このお嬢様はフロルが気になるらしい。

 フロルは天を仰ぎたくなった。

 ジェシカとフロルが出会ったのは、ジェシカの通う音楽学校で開催された、学校祭の時である。フロルはかねてから士官学校の近くに存在する音楽学校にジェシカ・エドワーズがいるであろうことを予想していたため、それを確認するために行ったのだ。実を言うと、フロルは士官学校に入ってから、毎年この音楽学校祭には参加していた。ジェシカがいったいいつ入学しているか、把握できていなかったためである。だが結果的には、フロルが3年になった時、彼女は一年生として音楽学校のピアノ科に在籍しているのを見つけた。
 彼女を見つけたフロルは、とりあえずそれで満足して話しかけることもなく撤退したのだが、後日ラップとヤンからのつながりで、ジェシカと知己を得ることになった。その段階で驚いたことに、ジェシカは学校祭で見かけたフロルの顔を覚えていたらしい。
 もっとも、士官学校の制服で来ていたかららしいが。
 ジェシカ嬢の父はハイネセン同盟軍士官学校の事務局長である。

 それからのこと、フロルは持ち前の菓子でもって仲良く友人関係をしていたつもりであったが、どうやら思春期のジェシカ嬢の琴線に触れるものがあったのだろう。なんとなくではあるが、フロル(自分)が気になるらしい、とフロルは見ていた。
 本来であれば、ジェシカは親友と呼べるほどまで仲を深めたヤンやラップの間で、その心を揺らせるはずなのだが、何かと目立つフロルがそれを妨げているらしい。
 フロルにとって、原作崩壊の危機である。


 フロルにとって、この第二の人生におけるもっとも恐ろしい事態とは何か。
 それは相沢優一(第一の人生)の記憶が、この世界で通用しなくなることである。
 彼が有している記憶は、あくまでフロル・リシャールという異分子が存在しない銀河英雄伝説の世界の出来事である。
 彼ほどのファンになると、ある程度の事件や戦争の年代、名前までは網羅せずともある程度の登場人物たちの名前をしっかりと覚えている。
 だが、フロルが活発に介入することによって、原作が解離してしまえば、その知識が役に立たないという可能性も出てくるのだ。それは困る。彼の持っている最大のアドバンテージがなくなるということを、意味するからだ。
 どうやらこの世界はSFでありがちな<抑止力>やら<修正力>がないらしく、フロルが介入すれば未来は変えられるだろう。もちろん、変えられるということは一概に良いこととも言えない。
 ならば、できるだけ原作に介入せず、ここぞという時のために知識というアドバンテージを残しておく、という手段もある。
 しかし、それもまた出来ない。
 理由は簡単。

 フロル・リシャールという人間もまた、1人の人間に過ぎないからだ。

 彼は決して超人ではない。
 誰よりも強く、誰よりも賢く、誰よりもハンサムな、そんな万能人間では無い。
 フロルは確かに、強い。彼の学年における格闘訓練の成績は学年一である。だが、教官に薦められるがままに出場した同盟軍格闘競技大会は第4艦隊第25歩兵大隊所属の一兵曹に初戦敗退を喫した。
 フロルは確かに、頭が良い。彼は期末考査で満点に近い点数を取る教科もある。だが総合的な成績だとむしろ中の上程度で、すべてのテストを95点取るような秀才ではない。一つ下の学年で10年に1度の秀才と呼ばれるマルコム・ワイドボーンと昨年のフロルの成績では、比べるべくもない。
 フロルは確かに、ハンサムかも知れない。190近い身長、職業軍人らしいしっかりした体躯、整った目鼻立ちと、母親譲りの紺色の瞳、紅茶を濃く淹れすぎたような色の髪。だがそれも立体TVに出てくる俳優に比べれば洗練さに欠けていたし、探せば彼よりも格好いい人間など他にもたくさんいるだろう。
 射撃にしてもそうである。彼は彼の学年で有数の射撃手となったが、本日の士官学校内選手権大会では所詮5位レベル。同盟軍全体でみれば、誇れるようなものではない。
 つまり、彼は決してラインハルトやキルヒアイス、後年のユリアンなどと比べれば全然凄くないのである。
 むしろ、フロルにとっては彼らのスペックが異常だと思えるほどなのだが。
 無論、彼とてただ漫然と手を(こま)いるわけではない。彼はまだ小さい頃から良く体を動かし、勉強に励んだ。幼稚な遊びではなく、ランニングや筋力トレーニングに精を出し、ボクシングやフェンシングをハイスクールの部活動で学んだ。相沢優一(前世)における知識は21世紀のものであって、この時代ではことごとくが役に立たない。あらゆる学問が(相沢優一)にとっては驚異的な進歩を遂げていたのだ。常識すら覆ったものも数えきれず、彼は一から勉強を始めたも同然であった。
 そういった地道な努力をして、フロルは激動の時代に備えている。
 そうでなければ、とてもじゃないがラインハルト(天才)たちが跋扈する戦場に立つことも、そして運命(原作)を変えることもできないから。そして原作を変えるにはどかんと一発介入するのではなく、地道に状況を変えていくしかない。雌伏をしていて、気付けば戦死、など冗談では無い。彼は彼でラインハルトに、帝国に殺されない努力をせねばなるまい。
 
 彼は20年弱の第二の人生で、必死に自分に出来ることを考えて生きてきた。
 だがそんな彼でも予想していなかったことがある。
 それは自分の感情であった。
 自分は、この銀英伝の世界で、確かに生きている。
 生きているということはつまりどういうことか。
 日々の生活に、何気ない日常に、友人との語らいに、食事の美味しさに、映画の面白さに、本の感動に、喜怒哀楽を感じるということだった。
 感情に流されてはならない。
 何度、フロルは自分に言い聞かせてきただろう?
 自分が成すべきことを思い起こし、なんど自らの気持ちを殺してきたか。
 だが、これこそがフロル・リシャール(相沢優一)が決意した道だった。
 例え、それが目の前の可憐なお嬢さんの思いに反することと、なったとしても。


「そういうヤンも、面白くなかったようだがね」
 フロルは話を変えようと、ヤンに視線を移した。
 ヤンは暑さに辟易なようで、テーブルに突っ伏している。いい加減、フロルが甘やかすのをいいことに、だらけすぎである。
 さすがに気になったのか、ジェシカがヤンの脇をつつく。
 ヤンもラップとジェシカの白い視線に気付いたようで、慌てて背筋を伸ばした。だがすぐに猫背になる。
「は、まぁ、私は射撃が苦手で——」
「——ヤンの場合は苦手どころかやる気がないだけだろ」
 ラップが茶化すように、ヤンの言葉に言葉を重ねた。ヤンはそもそも軍人の軍人らしい授業に悉く意欲がない。公務員という立場として士官学校の授業をただで受けているだけあって、落第だけは避けようとしているが、逆を言えば通りさえすれば良い、と考えているのだ。
 ヤンはラップのごもっともな指摘に肩を竦めた。

「だがまぁ、あって困ることはないだろう」
「私の場合は、やっても上手くならないのです。どうやら、運動神経というものがそなわってないらしく……」
「その分、ヤンは座学が得意なんだろ?」
 フロルの指摘も正確では無いだろう。
「自分の好きな教科、戦史とかのみですけどね」

 逆にフロルは戦史が得意では無かった。というよりも、固有名称を覚えるのがフロルは苦手なのである。そもそもこの世界の人間、それも帝国の人間の名前は長すぎるのだ。貴族であればあるほど鹿爪らしい面倒な名前になって、もうそれだけでフロルのやる気は無くなってしまう。
 それに戦史の授業のもっとも大切なことは、何年に何という名前の人物が何という名の戦争をしたか、ではない。その作戦における宙域の環境状況、彼我の戦力の内訳のその配置、また作戦を戦術的あるいは戦略的に見た場合の達成条件といった、どうしてその戦争がそのように推移したか、なのだ。むしろ戦史をそのような視点から見ているため、フロルは個人的には戦史は面白いと思っている。もっとも、固有名詞をどんどん無視して、そういったところにばかり気を取られるため、テストの点数は全く取ることが出来ない。
 だがこの授業の受け方こそが、本来軍人にとって必要な思考回路なのだろう、とフロルは開き直っていた。
 自分がその状況に陥った場合、いったいどういう作戦を立案できるか、そしてどれだけの艦隊を統一し有機的に指揮できるかが、このハイネセン同盟軍士官学校に在籍する士官候補生に求められる能力なのではないだろうか。
 無論、これは前線に立つ作戦指揮官に必要な能力であって、これが後方の兵站であったり、敵軍の裏をかくような情報戦・諜報戦に至ってはまた違う能力が必要となるだろう。
 その点、ヤンは作戦指揮を取る将としての能力が傑出している。これもまた、戦史という歴史を通じて戦争をフロルとよく似た視点からも、観ているということの顕れに他ならないだろう。もっとも、ヤンの場合は歴史を愛するだけあって、固有名詞もよく覚えているのだが。
「戦史の授業は面白くないからなぁ」
「そうですか?」
 フロルの愚痴に素早く反応したのは、ヤンだった。ヤンとしては、戦史こそ面白い、と考えているのだろう。もっとも、ヤンやラップ以外にも戦史研究科の人間はいるはずだから、フロルのような戦略研究科の人間が発言を彼らが聞いていれば、憤慨したに違いない。フロルにとってはくだらないこと限りなかったが、戦略研究科の人間は自らを士官学校におけるエリートと自負して他の科の人間を馬鹿にする風潮があったのだ。
 確かに、作戦指揮官としての能力を重点的に育成する戦略研究科は士官学校にある科の中でも花形にあたったが、それでもって人を馬鹿にすることこそ、頭が足りていないという話である。

「戦史概論を教えているブッシュ教官が悪い。あの爺さんは教科書を読み上げるだけじゃないか。あれなら自分で調べて勉強した方が面白い」
 フロルは嘆息しながら愚痴った。教科書に書いてあることを口に出して読むだけで、なんの解説もない授業など、時間の無駄以外の何物でも無い。教科書を読んだ方が早いのだから。
「あれ、でもブッシュ教官はテストも緩くて評判がいいって聞きましたけど」
 ラップもどうやら、あまり戦史の授業に熱心では無いらしい。声を上げたヤンも、フロルの言葉に納得したのか、苦い顔である。
「戦史はただ昔話を聞く時間じゃないぞ」
 ラップにはそう言って留めるに止めた。きっと、ヤンがラップに戦史の面白さを語るだろうから。実を言うと、フロルはヤンと歴史の話をするのが面白かった。ヤンの歴史観は常に第三者的な視点、つまり神の視点からの歴史観であって、そこに自己の介入を認めようとはしない。だが一方、フロルは歴史のIFを考えるのが好きで、だからこそ話が盛り上がるのである。

「そういや二年生は来月、戦術シミュレーションの教練があったな。対戦相手はもう、決まったか?」
 フロルは既に()っていることを、さも知らぬかのように二人に聞き質す。こういった気遣いも、今では自然とできるようになった。フロルには誰にも言えない秘密がある。その秘密を隠すために、彼の知らぬ間に演技力が身についていたことは、将来の彼にとって役に立つものであったが、それを()る者はまだ誰もいない。
「戦術シミュレーションって?」
 ふてくされていたジェシカが、気になったようにラップに尋ねた。
「戦術シミュレーションは士官学校二年の試験さ。高性能PCを使って様々な条件下からランダムに選択された戦場でもって、学生同士が対戦するんだ。ちなみに、昨年の優勝者はそこに座ってるリシャール先輩だよ」
 ラップの言葉に、目を丸くしてフロルを見たのは、ジェシカにとっても意外であったからだろう。もっとも、昨年にしてもフロルの優勝を予見した者はおらず、誰もが目を丸くしたものだ、とフロルは思い起こしていた。だが、ただ一人だけ驚かなかった人間が、口を開く。
「私は学年首席のマルコム・ワイドボーンと戦うことになりました」
 ヤンは非常に面倒だ、という気持ちを隠そうともせず言った。やれやれ、と言いたそうな物腰である。
「ヤンは俺に輪をかけた今年の問題児だからな。勝ったら面白いことになりそうだ、ちなみに、俺が昨年破ったのも俺の学年の首席だったからな」
 フロルはそれを面白がっていた。
「そうだぞ、ヤン。リシャール先輩に見習って、ワイドボーンを破る義務が後輩にはあるんじゃないか?」
 ラップもそれに乗じたようである。
 さっきまで驚いていたジェシカも復帰して、やる気のなさを顔で表現しているヤンに笑みを浮かべながら頬杖をついた。
「やれやれ、学年首席と学年底辺の戦いか……。私が負けても誰も驚かないだろうけど、逆に勝ってもいらぬやっかみを買いそうだなぁ」
「ま、それ以前に戦史研究科の生徒が戦略研究科の生徒を破ったら、それだけで面倒なことになるだろうな」
 フロルはにやにやと笑っていたが、あながち空想ではない。フロルはまだ戦略研究科であったため、同じ戦略研究科在籍の学年主席を破っても『ここぞという時に強い奴』としか思われなかったが、戦史研究科の落ち零れ——寸前——が戦略研究科のトップを破ったとなれば、戦略研究科の連中がちょっかいを出すだけでなく、教官からも目を付けられることは確実だろう。
 
 だが、ここは全力で勝たせる必要があるのだ。
 それはヤンが二学年になった今年起こるであろう、戦史研究科の廃止を見越してのことだ。ヤンが戦略研究科に転属するのは彼が三年生になった時のことである。
 原作においてヤンがそもそも戦略研究科に転属するきっかけのなったのは、ヤンがワイドボーンを破ったという実績があったためであった。

 無論、このまま行っても、恐らくヤンは勝つであろう。
 
 だが、一応は梃子入れせねばなるまい。
 ヤンが戦略研究科に入ることは絶対にヤンにとって必要なことなのだ。それはキャリアというだけではない。彼が何気なく受けるであろう戦略や戦術の講義は、ヤンの頭脳によって独自解釈され、後年の神算鬼謀に化けたであろうからだ。まったくの無から、戦略を練ることはできない。まったくの素人が、戦術を立てることはできない。
 二年間の専門教育が、ヤンの将来にどれだけプラスになるか……。
 ヤンがどれだけ戦略研究科に興味がなくとも、ヤンがどれだけこの道に進む気がなくとも、この二年の下積みだけは経験させなくてはならなかった。
 そのために、万が一でも負けてはならない。

 では、どうすれば負けないか。
 簡単である。
 ヤンのやる気を出させれば良い。

「その件なんだがな、ヤン——」
 ラップはそう切り出したフロルの顔を表して、悪ガキ小僧が悪戯を思いついた顔、とあとあと述べている。





































 
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