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ナイン・レコード

作者:
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ちいさなしまのおはなし
  始まりの夏

.





その日、大輔の中では上機嫌と不機嫌が交互に顔を出していた。




子ども会に在籍している大人達が、夏休みに子ども達の思い出作りの一環として企画してくれたサマーキャンプが、今日から3日間の日程で行われる。
友達のお家にお泊りをしたことは何度かあったけれど、完全な外泊で、しかもお泊りするのがお家ではなくテントだと聞いた時は、興奮しすぎて壁に激突してしまったほどだ。
大好きな女の子と、尊敬している先輩も参加する、と聞いて大輔のテンションは爆上がりだった。
サマーキャンプでの必要事項が書かれたプリントを貰った時は、何度も何度もお姉ちゃんと荷物の確認をして、キャンプの日を指折り数えて楽しみにしていた。

「大輔、支度は出来た?」

いつもより少しだけ早起きした、キャンプ当日。
お姉ちゃんと何度も確認して、忘れ物はないってお姉ちゃんから太鼓判を貰ったリュックを背負い、大輔は子供部屋を出る。
その音を聞きつけて、キャンプの付添として準備をしていたお母さんが声をかけてきた。
途端に、大輔の機嫌が急降下する。
部屋を出る前にはニコニコした顔をしていたのに、お母さんの顔を見た途端に不機嫌ですという表情を隠さず、眉間に皺を寄せてお母さんから目を逸らす。
こら、ってソファーに腰かけてたお姉ちゃんが眉を顰める。

「大輔、返事しなさい」
「……できた」

お姉ちゃんに叱られた大輔は、渋々と言った様子で呟く。
カラン、と首にかけたホイッスルが傾いて音を立てた。
お母さんは、そんな大輔の様子に一瞬だけ哀しそうな顔を浮かべるも、すぐに笑顔を浮かべた。

「ん。じゃ、そろそろ出ようか。あ、出かける前にお姉ちゃんに挨拶しなさいよ?」
「………………」

お母さんの言葉に、大輔の眉間にますます皺が寄ったのを、お姉ちゃんは見逃さなかった。

「……お姉ちゃん、行ってきます」
「……行ってらっしゃい」

お姉ちゃんに挨拶をして、大輔はさっさと玄関に向かう。
でもお母さんは待ちなさい!ってちょっと強めに大輔を呼んだ。

「“こっちのお姉ちゃん”にもちゃんと挨拶して!」
「……先に行く!」
「大輔!」

ぎゅ、とショルダーハーネスを強く握った後、大輔はお母さんの言葉を無視して玄関に向かい、サッカーの走り込みでボロボロになり始めた靴をつっかけるように履いて、踵の部分を履き潰しながら逃げるように玄関を出て行った。
大輔!と背後からお母さんの怒鳴る声がしたけれど、大輔はだーっと廊下を走っていく。
エレベーターを待つ時間がもどかしかったのか、それともお母さんに追われるのが嫌だったのか、大輔は階段を使って下まで駆け下りていってしまった。

「全くもう……」
「……お母さんも、早く行けば」

遠ざかっていく、階段が鳴る音。
お母さんは困ったように立ち尽くすが、そろそろ集合時間なのである。
お姉ちゃんはお母さんが準備し終えていた荷物を持って、玄関で立ちつくしているお母さんに渡した。

「……じゃあ、行ってくるわね。戸締りとか、お願いね」
「分かってるって。行ってらっしゃい」

受け取った荷物を肩にかけ、お母さんも出かけていく。
ひらひらとお姉ちゃんは手を振って、お母さんの姿がエレベーターの中へ消えていくのを見送って、玄関を閉めた。
ガチャン、と無機質な金属音が響く。チェーンをかけて、リビングへと戻る。
夏休みの特別放送で、お母さんやお父さんが小さい頃のアニメをやっていたが、何となく見る気になれなくてチャンネルを変えた。
お父さんはとっくに仕事に出かけていたし、お姉ちゃんはお昼頃には家を出る予定だ。
それまでに洗濯物を干したり、部屋の掃除をしなければならない。

「……はあ」

誰もいない空間で、彼女の溜息が虚しく響いた。









先に家を出た大輔だったが、結局お母さんに追いつかれて一緒に行くことになった。
むすりとした顔を隠さず、お母さんと微妙に距離を取ってお台場小学校へと向かう。
キャンプ場へはバスで向かうのだが、そのバスは大輔達が通うお台場小学校にまで迎えに来てくれることになっている。
時間を見ればまだ20分前だったが、既に子ども達は殆ど集まっているようだった。
集団の中に何人か見知った顔が見える。
その中の2人が、大輔に気づいておーいって手を振ってくれた。

「大輔くーん!」
「よー!間に合ったな!」

1人は大輔と同じぐらいの女の子、もう1人はその女の子に寄り添っている、爆発したように逆立った髪の男の子。
先程まで降下気味だった大輔の機嫌が、一気に上昇した。

「ヒカリちゃーん、太一さーん!」

両腕が千切れるぐらい勢いよく振りながら、大輔は2人の下へと駆け寄っていく。
2人は、同じマンションで同じ学校に通う、大輔の1番の仲良しの友達とそのお兄ちゃんでサッカー部の先輩だ。
大輔はアメリカからの帰国子女で、1年生の時に帰ってきた。
アメリカで生まれたために、ずっと英語漬けの毎日で日本語なんか全く分からなかった。
右も左も、何も分からなかった大輔の面倒を積極的に見てくれたのがヒカリちゃんだった。
席は隣ではなかったのだが、何故だかヒカリは誰よりも先に大輔に話しかけてくれて、学校の案内とかもしてくれて、先生のお話を大輔のために紙に絵を描いたりして教えてあげたり、日本語の勉強も手伝ってくれたりと、何かと世話を焼いてくれていた。
お陰でたった1年で日本語での会話に問題はなくなったが、今でも興奮すると英語が飛び出してくるし、お姉ちゃんとの会話は英語である。
ぐっもーにん、ってヒカリちゃんはニコニコしながら走ってきた大輔の両手を取った。
首元に光っているのは、お兄ちゃんである太一の額にあるものとは形状が違う、ちょっと古いゴーグル。
大事なものなの、って前に遠足に出かけた時にもかけていて、何かイベンドごとがある時はいつもかけてきているのだと教えてくれた。
鈍い金色に縁取られている少し曇ったレンズは、何処か古臭さを感じるしヒカリにはちょっとごつくないだろうか、と思わなくもないがヒカリ自身が気に入っていて大切なものなら、他人が口に出すべきことではない。
大輔だって買った覚えのないホイッスルを大事にしているのだから。



太一と知り合ったのは、ヒカリを通じてである。
日本語が分からなかった大輔を連れて、お兄ちゃんがやっているサッカークラブに連れて行ってあげた。
サッカーが大好きな大輔は、目を輝かせた。
目をキラキラさせていた大輔をニコニコしながら見つめて、あれがお兄ちゃん、って1番動いている人を指した。
それが太一だ。
太一は太一で、大人しくていつもお友達の輪の中で誰かの話を聞いているのが好きな妹が、見慣れない男の子と手を繋いでサッカークラブに見学しにきていたから、ボールを蹴り損ねてしまった。
誰だそいつ、ってしどろもどろになりながら尋ねれば、妹は至極当然と言いたげに大輔くんって答えるものだから、太一は違うそうじゃないと頭を抱える羽目になる。
まあ、それも最初の内。大輔がサッカー少年と聞いて、太一はじゃあ一緒にやるかって持前の人懐こさを発揮して大輔をサッカークラブに誘ってくれた。
日本語が分からない、とヒカリを通じて知って、英語が分かる同じサッカークラブの友人に通訳を頼んだり、日本語を教えたりと、ヒカリと同じぐらい世話を焼いてくれた。
いつの間にかヒカリの隣に座って、同じように見学をしていた大輔のお姉ちゃんと4人で、オレンジ色に染まる帰り道を一緒に帰ったことは、今でも鮮明に思い出せる。

「みんな集まったかー?」

それぞれ乗るバスの前に集まって、引率の先生が点呼を取る。
3日間一緒に過ごす人達と同じバスに乗り込んで、まずはバスの中で注意事項を受けた。
走っている最中は立ち上がらない、窓から身を乗り出さない、気分が悪くなったら先生に言うこと、などなど遠足でバスに乗った時と全く同じ注意を受け、時間になったのでバスは出発した。

カラリ、と首にかけたホイッスルが音を鳴らした。













誰かに、呼ばれた気がした。

みいんみいんという蝉の喧しい鳴き声が響く。
空に浮かんでいる雲は一握りほどしかなく、夏の太陽がギラギラと容赦なく照り付けていた。
豊かな自然が溢れるキャンプ場で、子供達の笑い声がする。

「ねー、人参の皮むきってこうでいいの?」
「ジャガイモ切りにくいよー!」
「あれ?お肉は?」

キャンプと言えばカレーである。
子ども会のプリントに書いてあった材料をそれぞれ取り出して、先生からの注意事項を体育座りで聞いていた子ども達は、早くカレーを作りたくてうずうずしていた。
キャンプという非日常の中で、子供の大好物トップ3に入るカレーを作るなんて、考えるだけでもわくわくするものだ。
いつもはお母さんのアシストと言う名の食器運びだけれど、今日はお母さんやお父さんがアシスタントで、子ども主体のカレー作りなのだ。
先生の注意事項が終わると同時に、子ども達はわっと蜘蛛の子を散らすように解散する。
野菜を切る子、お肉を切る子、お米をとぐ子、薪用の乾いた枝を拾う子、それぞれ役割を決めて準備に取り掛かり、先生や大人達はそれを傍らで見守ることに徹していた。
最初こそ子ども達は意気込んで、初めてにも等しい料理に挑んでいくが、進めていく内に少しずつ少しずつ思い描いていたものとずれ始めていく。
お母さんが家でやっている通りにやってるのに上手くいかない、と嘆いている子がいる。
玉ねぎを切っている子が目にしみるーと他の子に泣きついている。
料理に飽きた男の子達が、先生の目を盗んでサボっている。
それを見つけた女の子達が先生に言いつけに行く。
いつだって女の子は男の子よりも早熟なので、先生に言いつけたな、って仕返しにくる男子の行動なんかお見通しである。
先生ー上手く切れないのーと上手く先生を呼びだして、男子の仕返しを阻止するのである。
ぐにに、と男子は歯を食いしばるばかりである。
そう、男子と女子の対立と言うのは小学校から始まるのだ。
でも、そんなの関係ねぇと言わんばかりの二人がいる。

「人参!」
「にんじん!Carrot!」
「きゃろっと……」

大輔とヒカリだった。
大輔が転入してきてからずーっとずーっと大輔のお世話をしてきたヒカリのマイブームは、大輔が使っている英語を覚えることである。
ヒカリが手にしたものをまずヒカリが日本語で言う。
そしたら大輔がそれを復唱した後に、英語で言う。
それの繰り返しである。これが思いのほか楽しいのだ。
日本語だと思っていたものが英語だったり、日本語でも英語でも同じ言葉だったりと、面白いことがいっぱい知れるのである。

「次はー……これ!ジャガイモ!」
「じゃがいも!Potato!」
「ぽてと?英語でもぽてとって言うの?」
「そうだよ!日本語でも言うの?でもさっきじゃがいもって言ってたよね?」
「じゃがいもって言う人もいるし、ぽてとって言う人もいるよ」
「ふーん?……次!Onion!」
「おにおん?玉ねぎ!」

最早見慣れた光景だったので、子ども達は誰も何も言わない。
それどころか大輔の英語講座の生徒が少しずつ増えていって、最終的には一緒に調理をしていたそのグループの下級生が全員調理の手を止めてしまった。
こら、って上級生が慌てて注意して、我に返った下級生は慌てて調理を再開する。



最初に気づいたのは、ヒカリのお母さんだった。
子ども達主体で進めているカレー作りのアシスタントの1人であるヒカリのお母さんは、歩き回りながら子ども達の様子を伺っていたのだが、ふと辺りを見渡すと長男である太一が何処にもいないことに気づいた。
上級生達は、下級生が皮をむいた野菜を切る役目を担っている。
出来ましたーって下級生の子達が上級生の子達に持って行くのを微笑ましく思っていたのに、その上級生の1人である太一が何処にもいないのだ。
サボったことは容易に想像がついたので、お母さんは溜息を吐いてもう1度辺りを見渡す。
目に着いたのは、娘であるヒカリと1番仲良しの男の子である大輔だった。
他の下級生の子達と同じように、皮をむき終えて上級生達に渡しに行くところだった。

「ヒカリー、大輔くーん」
「なぁにー?」
「?」
「お野菜、終わったのね。それお母さんが持って行くから、ヒカリと大輔くんはちょっと頼まれてほしいことがあるんだけど、いい?」

何だろう、ってヒカリと大輔は顔を見合わせる。
お母さんはそんな2人に、困ったような笑みを浮かべて目線を合わせてしゃがんだ。

「あのね、太一がどっか行っちゃったみたいなのよ。自分のやらなきゃいけないことほっぽって。だからちょっと探してきてくれない?お母さん、まだ手が離せないから……」
「うん、いいよ」
「OK!」

ヒカリのお母さんのお願いを快く引き受けた大輔とヒカリは、行ってきまーすって言って太一を探しに行った。
今日キャンプ場に来ていたのは、子ども会の子達だけではなく、色んな団体や家族連れがキャンプ場に来ていたから、子ども達が立ち入り出来る場所は限られている。
ここからここまで子ども会の方で借りたので、これ以外の場所は行ってはいけませんよ、って最初に言われていたから、すぐに見つかると思っていた。
が、太一は何処にも見当たらない。
少なくとも、子ども達がみんなでカレーを作っているこの場に、太一はいない。
何処に行ったのか、と大輔とヒカリはどんどんどんどん人気のないところへ、子ども達がいないところへ、大人の目が届かないところへ向かって行った。



気が付くと人気の全くない、奥の方にまで来ていた。
キャンプ場の何処にも太一の姿はなかったから、もしかしたらサボっていることがバレないように人気のないところにいるのかもしれない、というのは小学2年生の2人でも簡単に想像できた結果である。
憧れの先輩は何処かな、って大輔がちょっと駆け足になる。
その度に大輔が首から下げているホイッスルがカラコロと音を鳴らす。
辺りを見渡しながら奥へ奥へと進んでいくと人影が見えたので、大輔は視界に映った人物の下にたーっと駆け寄って行った。
ヒカリも一瞬遅れて走る。

「治さぁん!」

夏だと言うのに濃い渋茶色の半袖パーカーの下に、紺色の長袖シャツを着ている、太一と同級生で同じサッカークラブの先輩だった。
大輔ほどではないがちょっとボサついた黒い髪に、眼鏡をかけた優しそうな表情をした先輩である。
大輔の声を聴いて振り向いた彼──一乗寺治は、腕に枝を抱えていた。

「大輔にヒカリちゃん?どうしたんだ、こんなところで?野菜切る係りじゃなかったっけ?」
「もう終わりました!それで、あの、ヒカリちゃんのお母さんに頼まれて」
「お兄ちゃん、探してるんです。治さん、見ませんでしたか?」
「えっ、見てないなぁ……。あの莫迦、サボったのか?しょうがない、一緒に探そうか」

苦笑しながら、治は大輔とヒカリと一緒に太一を探してくれる。
治にも割り当てられた役目があったのに、申し訳ないとヒカリが謝ると、気にしないでいいよって笑ってくれた。
つくづく不思議だ、とヒカリは思う。
太一と治は親友である。
同じクラスで、同じサッカークラブに所属しているけれど、性格はまるで正反対だ。
太一は元気を体現したような活発な少年で、授業の時間はいつも爆睡して過ごす問題児。
対する治は成績優秀、スポーツ万能という文武両道な少年で、先生の言うことはよく聞き、クラス委員なども進んでやる、所謂優等生である。
問題児と優等生なんて一見相容れない相手ではあるが、正反対が故に相性がよかったらしく今のところ上手くいっているから、先生たちも口を出せずにいた。
大人の言うことなんか聞かん坊の太一も治の言うことだけは聞くし、治も治で太一の行くところに必ずついていくほど懐いている。
ヒカリが小学校に通う前にはもう既に仲が良くて、よくお家に遊びに来ていたし、お家に遊びに行っていた。
校庭で、2人だけでサッカーボールを追いかけている姿も、よく目撃されていた。
本当に、縁というのは不思議なものである。

「……あら?治くん?大輔にヒカリちゃんまで……」

キャンプ場の方は粗方探し終えているから、残っているのはこの辺りだけだ。
人もほぼいないし、サボるにはうってつけの場所だろう、と言うことで治と一緒にここら辺を重点的に見て回ろうとした時、向こうから別の声がした。
オレンジの髪を短く切って、水色の帽子を被り、黄色い袖なしのシャツとジーンズを履いた男勝りの女の子、武之内空だった。

「やあ、空」
「いないと思ったら、こんなとこにまで薪拾いに来てたのね」
「手頃な枝が近くになくてね。気が付いたらこんなとこにまで来ちゃってたよ。ああ、太一見なかった?」
「治くんらしいわね。太一?見てないけど……もしかして」
「空の想像通りさ」

治が苦笑しながら言えば、空は全く!って眉を顰めた。

「あいつ、ご飯炊く係りのくせに!」
「空さんって、お兄ちゃんと同じグループだっけ?」
「そうよ。もう!あいつのせいでカレー食いっぱぐれちゃうわ!治くん、私が大輔とヒカリちゃんについてるから、治くんはその薪用の枝、持ってっちゃって」
「ああ、それなら大丈夫だよ。この薪用の枝さ、予備のために拾ってただけだったんだ。火おこし用の薪はもうとっくに集めて持って行ってたから、一緒に行くよ」
「……相変わらず用意周到ねぇ」

予備用の薪まで拾うなんて、何処までも慎重な彼に今度は空が苦笑する。
さて、と気を取り直し、一行は姿をくらましたお莫迦さんを探しに行こうと、一歩踏み出した時であった。

「……ん?」

ピタリ、と空と治の前を歩いていた大輔が急に立ち止まってしまった。
大輔と手を繋いでいたヒカリも当然大輔に引っ張られて止まることになるし、後ろを歩いていた空と治も動きを止められることになる。

「大輔、危ないでしょ?急に立ち止まっちゃ……」
「………………」

じ、と上を見上げて、空を見つめる大輔に、ヒカリもつられて空を仰ぐ。
ヒヤリ、とヒカリの頬に冷たいものが降ってきた。

「きゃっ!」
「ヒカリちゃん?」

ビックリして一瞬身を縮めたヒカリに、空が声をかけた。
大丈夫?って聞けば、びっくりしただけですってヒカリから返ってきた。

「何か冷たいものが降ってきて……」
「冷たいもの……?」
「……空」

雨でも降ってきたのだろうか、傘持ってきてないどうしようって空が焦っていたら、隣の治が静かに彼女の名を呼んだ。

「何よ、治くん?」
「……雪だ」
「え?」
「雪が降ってきた……」

唖然と呟く治の言葉に、そんな莫迦な、って空は視線を上に向ける。
ひらひら、ひら、と雲が少ない青空から舞い降りてきたではないか。
こんな真夏に、青空が広がるこの空の上から。
そんな莫迦な、と思う間もなく、辺り一帯は吹雪に見舞われ、あっという間に雪が降り積もった。





その年の夏は、地球全体がおかしかった。
東南アジアでは全く雨が降らず、水田が枯れ、中東では大雨による洪水が発生。
アメリカでは記録的な冷夏となった。

サマーキャンプにいた9人は、何も知らずにいた。


それが、誰も知らない世界での、冒険の始まりになることを。











空に連れられた大輔とヒカリは、猛吹雪のせいで方向感覚を失い、視界に映った階段を駆け上る。
治は、いなかった。吹雪いた瞬間に抱えていた枝の束を捨てたかと思うと、先に行っていてという言葉だけ残して、何処かへ行ってしまったのだ。
反射的に大輔が後を追おうとしたけれど、空に首根っこを引っ掴まれてしまい、ぐえっとなってずるずると引き摺られた。
階段を駆け上った先にあった古いお堂に、空は大輔とヒカリの手を引いて中に入る。
そこには、先客がいた。

「あれ、光子郎?」
「空さん、大輔くんにヒカリさんも……」

4年生の、泉光子郎であった。彼もまた大輔や治、空と同じくサッカークラブに所属しているが、根っからのインドア派で、暇さえあればパソコンを弄っている子である、という印象しかない。
そう言えば光子郎さんもキャンプ場で見かけなかったなぁ、と言うことを思い出した大輔は、遠慮なく聞いた。

「光子郎さんも、サボり?」
「え?」
「こら、大輔!えっとね、太一の奴、当番サボってどっか行っちゃったのよ。大輔とヒカリちゃんで探しに来たらしいんだけど……」
「光子郎さん、お兄ちゃん何処かで見かけなかった?」
「そうだったんですか。すみません、僕は見かけてないですね」

そう、と空は困ったような表情を浮かべる。本当に、あの莫迦は何処に行ったのだろうか。
寒いねーという会話をしている大輔とヒカリを尻目に、光子郎は冷や汗流しまくりであった。
サボりか、と大輔に指摘されたが、その通りだったからだ。
空が話を逸らしてくれた結果、誤魔化すことができたとは言え、その空に突っ込まれてしまったら誤魔化し切る自信がない。
さてどうしようか、と内心1人で焦っていると、救世主が現れた。

「やーんもう!さいっあく!何だって吹雪なんか……!」
「あれ、ミミさん?」
「え?あれ?光子郎くん?」

ガラリ、とお堂の障子が再び開かれて、中に飛び込んできたのは全身赤系の色でコーデされた、ウエスタンスタイルの女の子。
大輔とヒカリと空は知らなかったが、光子郎とその子は互いに面識があるらしい。
誰、って聞いたら、同じクラスの子ですと光子郎は答えた。
ミミでーす、って女の子は明るく答えた。

「賢、ほら、急いで」
「寒いよー、お兄ちゃん!」

開いているお堂の入り口から、続いて2人入ってくる。
先程別れた治だった。その傍らには、治によく似た大輔とヒカリと同じぐらいの小さな男の子。
きらり、と胸に不釣り合いなほどの大きなペンダントをしていた。

「治さん」
「あれ、光子郎もいたんだ」
「治くん、太一は?」
「ごめん、見なかったよ……」
「ぎゃー!退いてくれ、退いてくれ!」
「……訂正、今見つかった」
「あの莫迦……」

入り口のところで立ち止まっていたら、治の背後から喧しい声。先程から探していた問題児である。
ひょいと避ければ、なだれ込むようにお堂に飛び込んできた。

「うひー!参った参った!急に吹雪くんだもんなぁ」
「参った参った、じゃないでしょ!何処行ってたのよ、自分の当番ほっぽって!大輔やヒカリちゃんも小母さんに頼まれてアンタのこと探してたんだからね!」
「あー!太一さんいたー!」
「お兄ちゃん!」

部屋の真ん中で、ミミと光子郎に構ってもらいながら暖を取っていた大輔とヒカリは、聞き慣れた声にぐるりと振り返る。
爆発した頭を見て、ぱあっと顔を輝かせると、2人一緒に太一に飛びかかった。

「ぐえっ!」
「太一さん、今まで何処にいたの?」
「お母さんが捜してたよ。ダメじゃない、当番サボっちゃ」
「う、わ、わりぃ。えーっとちょっとトイレにな……」
「誤魔化し方下手くそか」

しどろもどろになって目が水魚の如く泳ぎまくっている太一に、治が冷静に突っ込んだ。

「あーもう……」
「丈先輩?」

力ない声に反応したのは空である。黒髪で眼鏡の少年が、項垂れながらお堂に入ってきた。
大輔もヒカリも知っている、だって大輔のお姉ちゃんと同い年で、同じクラスの委員長さんだから。

「やあ、みんなも吹雪に巻き込まれたのか……」
「はい……」
「暫くやみそうにないな……しょうがない、ここでじっとしてよう」
「光子郎、携帯持っているかい?」
「持ってますけど、この吹雪だと……」
「うん、だろうね。やんだらかけられると思うから、その時はよろしく」
「分かりました」

そんな会話をした数十分の後、先程の吹雪が嘘みたいにやんだ。
ガタガタ、ってお堂の障子の音がしなくなったから、たぶんやんだんだろうって治が判断して、太一が代表して障子を開けると、太陽の光を反射して煌めいている白い絨毯が敷かれていた。
真っ先に飛び出して行く太一を追って、空もお堂の入り口に立つ。
途端に、遮るものがなくなった冷たい風が、剥き出しになっている空の顔や腕を容赦なく襲い掛かった。
次いで飛び出して行ったのは、掌ほどの大きさがあるペンダントを首からかけた男の子である。
わーい!とはしゃぎながら外に飛び出して、真っ白な絨毯の上を踏みしめる。
待ちなさい、って治が慌てて後を追って行った。
早く戻った方がいい、という丈の言葉を遮って、ミミも外に出る。

「……ダメかぁ。吹雪が止んだら電話届くと思ったのに……」

吹雪がやんだと聞いて、光子郎が真っ先に確認したのは、持ってきた携帯とパソコンの電波状況である。
1999年と言えば情報社会の先駆けのような年代である。
軍事用として開発されたパソコンが家庭用に普及され始めて、一家に1台の波が広がり始めた頃である。
子どもが持つには少しばかり高価なパソコンや携帯を、小学4年生ながらにして光子郎は既に所持していた。
パソコンのことなぞこれっぽっちも分からない大輔とヒカリは、そんな光子郎の呟きをスルーして同じように外に飛び出して行く。
雪なんてほぼ初めてに等しい大輔や、どっちのお祖父ちゃんお祖母ちゃんも雪が降る地域に住んでいないヒカリがはしゃぐには十分だった。
手を繋いだまま、せーのでお堂から降りて、ぼす、と雪の上に着地する。
自重で雪の中にめり込み、それだけで2人は楽しくて仕方がなかった。



わあ、と子ども達が歓声を上げる。
しゃがみこんで雪の感触を楽しんでいた大輔とヒカリは、何事かと顔を上げた。
先に外に出ていたお兄ちゃんや先輩達が、みんな揃って空を見上げていた。
何だろう、って大輔とヒカリは顔を見合わせて、また手を繋いでとっとっとっ、と先輩達に歩み寄る。

「こうしろー!早く来いよー!」
「太一さん、治さん、空さん、どうしたの?」
「ほら、見て」

未だお堂の中にいる光子郎を呼ぶ太一。大輔がよく見知った先輩達に尋ねると、空が優しい声色で上空を指差した。
空の指の先を辿って目線を上空に向ければ。

「……わあ!」
「Beautiful!」

感嘆の声を漏らすヒカリと、興奮してその場でジャンプする大輔。
そこには、空一杯に薄いヴェールのようなカーテンが広がっていた。
光子郎も遅れて合流して、大輔があれ何あれ何って上級生達に聞くと、カーテンを見つめたままの空が、オーロラだと教えてくれた。
オーロラとは、天体の極域近辺に見られる大気の発光現象のことである。
名前の由来はローマ神話の夜明けの女神であるアウローラ。知性の光、創造性の光が到来する時のシンボルと言われている。
発生の原理は太陽風のプラズマが地球の磁力線に沿って高速で降下し、待機の酸素原子や窒素原子は励起することによって発光すると考えられている。
日本でも観測は可能だが、主に南極・北極付近で見られる現象のため、日本で観測できる場所も限られてくる。
つまり、東京の端っことは言え、日本のほぼど真ん中でオーロラを見られるはずがないのだ。
治と光子郎がそう指摘すれば、知識として薄らと知っている空がそうなんだよね……と困ったような表情を浮かべて呟いた。

「……早く、大人達のいるキャンプ場に戻らなきゃ」

あり得ない光景に、何か不吉なものを感じた最年長である丈が、そう呟いた。
そうだな、と治も眉を顰める。太一や空、ミミ達と違って見たことのないオーロラをただ綺麗だなーで済ませるほど、治は莫迦ではない。

「風邪引いちゃつまらないからな……吹雪も止んだし、太一、戻ろう」
「……そうだなぁ」

治が言うなら、と太一もオーロラから目を離し、キャンプ場に戻ろうと足を1歩踏み出した時だった。



彼らの長い、そして短い冒険が幕を開ける。



あ、って声を漏らしたのは大輔だった。
大輔と手を繋いで、お兄ちゃんの後に続こうとしたヒカリだったけれど、大輔が立ち止まって空を見上げたのでつられて足を止め、天を仰ぐ。
空のカーテンの向こうに、不自然な光が見えた。
緑色で、台風のように渦巻いていた。
歩き出そうとしていた太一達の足が、再び止まる。
真夏に吹雪とオーロラという異常事態に見舞われていた子ども達は、もう何が何だか分からない。
何だ何だと狼狽えている間に、緑色の渦から幾筋もの光が伸びてきた。
隕石と呼ぶには小さく、流れ星と呼ぶには荒々しい光の筋は、真っ直ぐ子ども達の下に向かって落ちてくる。
危ない、と叫んだのは誰だったか。

どぉん!どぉんどぉん!!

小さな爆発音と衝撃、悲鳴が辺りを包んだ。
集団の前を陣取っていた太一は、後ろの方にいる大輔とヒカリの下に走って、咄嗟に抱きかかえる。
敷き詰められた雪の絨毯が白い煙のように舞い上がり、更に絨毯を突き破って地面に突き刺さり、破片が飛び散る。
子ども達は反射的に頭を抱え込んだり、腕で顔を庇って衝撃や舞う埃から身を護った。

「みんな、怪我はない!?」

雪まみれになりながらもみんなの心配をする空は流石と言うべきか。
ああ、と太一が短い返事を返す。その腕には、目を白黒させている大輔とヒカリがいた。

「2人とも大丈夫か?」
「うん、平気」
「Yes!」

元気な返事を聞いて、太一はホッと胸を撫で下ろす。
他の子ども達も、空の問いかけに返事を返した。

「何とかな……」
「はぁ、びっくりした……」
「い、一体……」

今のは、何だったのだろうか。尻餅をついた丈が、唖然と呟く。
そうだ、先程の衝撃の正体。空から落ちてきた流れ星。
頭を抱えて姿勢を低くしていた光子郎が、白い絨毯に両手をつきながら光が落ちてめり込んでいる地面を、恐る恐る覗き込む。

すぅー……

光の柱が伸びた。え、って光子郎は目を丸くする。
光の柱に押し出されるように浮かび上がってきたのは、見たことのない小さな機械だった。
薄いヴェールの光の珠に包まれながら浮かび上がってきた機械を、子ども達は咄嗟に掴む。
恐る恐る、と言った様子で、子供達は手を広げて掴んだ物を見下ろした。
薄い水色で、真ん中にはディスプレイがあり、その周りに見たことのない模様が彫られていた。
右に楕円のボタンが上下に2つ、左に丸いボタンが1つ。

「何、これ……」
「ポケベルでも、携帯でもないし……」

空が投げかけた呟きを拾ったのは、光子郎だった。
これは、一体何なのだろう。大輔は空に翳してみたり、耳元で鳴らしてみたりしたが、カチ、カチ、という音がするだけだった。
変なの、ってもう一回それを見下ろすと、機械が不思議な音を鳴らしながら、ディスプレイを緑色に発光させる。
え、え、って子ども達が混乱する間もなく、地平線の向こうから突如として現れたのは、何とここにあるはずのない大きな波だった。
ざぱーん、と立ち上がった大きな波に、子ども達は悲鳴を上げて反射的に回れ右をして逃げ出そうとした。
が、出来なかった。
何故なら立ち上がった波が縦に我、まるで見えない手に捕まれたかのように子ども達の身体が浮かび上がり、波の中へと吸い込んでいったからだ。

その後は、もう訳が分からない。

掴んできた見えない手が、今度は子ども達を放り投げてしまったかのように、子ども達の身体はグルグルと回転しながら波の奥へと誘われていく。
回転する身体を止めようにも、勢いがついた回転は止まらず、子ども達はされるがままだった。

大輔は、見た。

いつしか波が消えて、上下が斑の虹に染まり、ずっとずっと向こうに真っ白な光が差し込んでいる。
やがて斑の虹の天井と床が壁になって、暗闇に吸い込まれるように消えた代わりに、幾筋もの彩られた細長い光の線が走る。
光の線を置いてけぼりにするように、大輔の身体は暗闇へと放り出されて、そして──





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