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fate/vacant zero

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禁断の果実







 老オスマンは、目の前の机に存在する一冊の本を眺めながら、しきりに首を傾げていた。

 革の装丁がなされた表紙はひどくボロボロで、触っただけでも破れてしまいそうなほど古びている。

 羊皮紙で綴られた分厚い頁なかみは、これも経年劣化によるものか、色褪せて茶色くくすんでしまっている。



「これがトリステイン王室に伝わる、『始祖の祈祷書』か……」


 二千年前に始祖ブリミルが神に祈りを捧げるため詠み上げた呪文を、始祖自ら事細かに書き記した経典だ。



 と、伝承にはあるのだが。



「――紛い物か?
 いや、それにしても酷い出来じゃな……。

 歴史だけは無駄に刻んでおるようじゃが、中身がこれではの」


 老オスマンは、胡散臭げにパラパラとその頁ページをめくる。

 およそ300頁ページはあるかというこの本の中身は、どこまでいっても真っ白であった。



「紛い物だとしたらこれを製本した者は単なるバカじゃし、これが仮に本物であったなら……。
 始祖ブリミルが、筆不精だったという証拠品になるのかのう?」


 この本『始祖の祈祷書』は、いかんせんあまりにも贋物にせものが多い。

 一冊しかないはずの『始祖の祈祷書』は、その全てを集めると保管に一つの図書館が必要になると言われるほど、世界各地に存在している。


 老オスマンは若い頃、旅先で何度か『始祖の祈祷書』を見たことがあった。

 まだそれらの方が、よっぽど祈祷書らしい体裁ていさいを整えていたと思う。

 ちゃんとルーン文字が紙面に躍り、それらを読むことができたのだから。


 いずれも贋物だったが、今、目の前にあるこの本よりはよほど本物らしかった。


 首を傾げ続けていると、こつこつとノックの音がした。

 そろそろ次の秘書を雇わねばならんな、と思いながら。



「鍵は掛かっておらぬ。入ってきなさい」


 老オスマンは、来室を促した。









Fate/vacant Zero

第二十二章 禁断ちえの果実み







 扉を開き入ってきたのは、桃色金髪ブロンドの髪と大粒の柘榴石ガーネットのタンブルに飾られた、一人のスレンダーな少女。

 ルイズであった。



「わたくしをお呼びと聞いたのですが……」

「おお、ミス・ヴァリエール。旅の疲れは癒せたかな?」


 老オスマンは両手を拡げて立ち上がると、この小さな来訪者を改めて労ねぎらった。



「思い返すだけでも辛かろう。
 じゃが、おぬしたちの活躍によって軍事同盟は無事締結された。
 トリステインの危機は、去ったのじゃ」


 少し悲しげに顔を俯かせたルイズに、老オスマンは優しく声を続ける。



「そして、来月にはゲルマニアにて、無事に王女のゲルマニア皇帝との結婚式が執り行われる旨、昼前に急使が伝えてきよったよ。
 きみたちのお蔭じゃ、胸を張りなさい」


 さすがにそれは無理な相談だった。

 幼馴染のアンリエッタは、恋人を亡くしたばかりだというのに、政治の道具として皇帝に嫁入りさせられるのだ。

 そうして涙を流していたアンリエッタを、ルイズは過日に目の当たりにしてきたばかりなのだから。


 その胸は張られるどころか、奥から締め付けられて仕方が無かった。

 無言で一礼する憂うれいた様子のルイズをしばらくじっとみつめていた老オスマンは、おもむろにその手の中の『始祖の祈祷書』をルイズに差し出した。



「これは?」


「始祖の祈祷書じゃ」

「始祖の祈祷書? ……これが?」


 ルイズの怪訝な視線は、ボロボロの『祈祷書』から、老オスマンへと移された。


 王室に伝わるとされる、伝説の書物。

 国宝とされていたはずのこれを、何故老オスマンが持っているのだろうか?



「トリステイン王室には伝統ともいえる風習があっての。

 王族の結婚式の際には、貴族より選ばれし巫女を用意する。
 そして選ばれた巫女はこの『始祖の祈祷書』を手にし、式の詔みことのりを詠みあげる。
 そういう習わしじゃ」

「はぁ」


 ルイズはそこまで詳しい王室の作法は初耳だったので、そんな気のない返事を返した。

 ……で、何故そんな重要な代物が、いま私の手に渡されたんだろう?



「ミス・ヴァリエール。姫はその巫女に、そなたを指名してきたのじゃ」


「姫さまが?」

「その通りじゃ。
 巫女は式に至るまでの間、この『始祖の祈祷書』を肌身離さず持ち歩き、詠みあげる詔みことのりを考えねばならぬ」



「……え。

 き、『祈祷書』に詔みことのりが書かれているんじゃないんですか?」

「中を読んでみたまえ」


 胸の前に祈祷書を持ち上げ、パラパラとページをはためかせて、ルイズは硬直した。



「そういうことじゃ。勿論、草案は宮中の連中が推敲するじゃろうがの」


 ルイズは こおってしまって うごけない。


「伝統というやつは面倒なもんじゃが、姫はミス・ヴァリエール、そなたを指名したのじゃ」


 ルイズの こおりが とけた。



「これは大変な名誉じゃぞ?
 王族の祝事に立ち会い、詔みことのりを詠みあげるなど、一生に一度あるかないかじゃからな」


 アンリエッタが、自分を式の巫女役に選んでくれたのだ。

 幼い頃の、友人に過ぎないはずの自分を。


 ならば。



「わかりました。謹つつしんで拝命いたします」


 その信頼には、応えなければならない。

 老オスマンは柔らかく目を細めると、ルイズを暖かく見つめた。



「おお、引き受けてくれるか。
 幼友達がこうして自らの手で祝福してくれるのじゃ。姫も喜ぶじゃろうて」





 ちょうどその頃。



「ぅおぉおおおぉぉぉぉ……」


 彼らの遥か足下。

 デルフを背負い、シェルを片手に握り締め、タバサを両腕でしっかと抱えて、縦長の宝物庫を取り囲むように巡る螺旋状の階段を、才人は駆け昇っていた。



「頑張るねぇ、相棒」


 ルイズが出て行った後もギトー先生の授業を受けていた才人は、終了の鐘と共に机を飛び越え、タバサの体を抱きかかえると、本塔の図書館へ爆走を開始したのだった。



「嬢ちゃん、あとどれぐらいだ?」


 その所要時間が、3秒。

 そして『風』の塔からここ、螺旋階段を登り始めるまでが40秒。

 螺旋階段を登り始めて、そろそろ1分。



「約10周」


 一応今回の目的は文字の『勉強』なのだが、溢れかえった好奇心と、以前は分からなかったギトー先生の『風』を確かに感じとれた事実とが、才人のテンションを一時的にHIGHにしているらしい。

 昨夜のルイズの話を聞いた結果、自分でも魔法を使う感覚というヤツを掴んでみたくなったようだ。


 あの話の内容からでもそういう思考が出来る辺り、流石というべきだろうか?





「到着」


 腕の中に抱えたままのタバサが呟く。

 俺はそこ、やや細長い踊り場で、足を止めた。



「ここが?」


 タバサがこくりと頷き、呟く。



「左」


 言われたとおり、くるりと左を振り向いてみる。


 奥へと開け放たれた、大きく分厚い両開きの鋼の扉。

 そこから、縦に細長い溝がびっしり入った壁に挟まれた通路が、4mメートルほど伸び。

 そのど真ん中と最奥には、手前に開け放たれた、すぐそこのものと同じ造りの扉があった。


 これが、図書館への入り口らしい。



「なんかここだけ、他の所と造りが違ってないか? 妙に物々しいっていうか」

「これでも足りない」


 タバサがいつもより少し口数多く語るところによれば、この図書館には門外不出の秘伝書や、禁断の魔法薬のレシピ、果ては禁術指定を受けるようなタチの悪い魔法が載った魔術書なんかが眠っていて、貴族のマントを着用していない者は入ることが許されないらしい。

 ……それってつまりさ。



「ここに平民が侵入することは許されません。お引取りを」


 俺も入れない、ってことだよな?

 そう気付いたときには時既に遅く。

 二つ目の扉の辺りに仁王立った司書らしき女の人が、俺に杖を向けていた。


 タバサが一歩前に出て、口を開く。



「彼は、私の従者」

「なりません。お引取りを」


 司書の人は、タバサの言い分を切り捨てる。

 タバサの視線が、少し冷えた。



「問題ない。彼は魔法を使える」

「それはこの中に入る条件に値しません。
 ここに入る資格があるのは、貴族である証拠を持つ者のみ」


 司書の人は、タバサの提示した証拠を切り落とす。

 ……ちょっと、物理的にも空気が冷えた気がする。



「10分だけでいい」

「なりません」


 なんというか、これほど無遠慮にタバサの要求を切り捨てられるこの司書さんが、ちょっと凄いと思った。

 タバサが、手にした杖を――って、ちょっと待て!



「タバサ、流石にそれは拙いって」

「冗談」


 ならその手を下ろしてくれ。

 なんか今にも振り下ろされそうなほど高々上がってて怖いから。


 なんともしぶしぶした動きでタバサは杖を降ろすと、

「少し、ここで待ってて」

 そう言って、中へと駆けていった。



 それから数冊の本を持ってタバサが戻ってくるまでの5分ばかりの間、司書の人はずっと杖を俺に向けたままだった。


 目を逸らそうともしなかった辺り、職務に忠実な人なのかもしれないが。

 一つ目の扉から階段へ出るまでの間、そんな冷たい視線をずっと向けられ続けた俺の心境は、察してほしい。











 で、だ。



 正面。

 ついさっき俺たちがくぐった窓がある。


 左。

 壁にくっつけて置かれた、シンプルな造りの白いベッドがある。


 右。

 本棚二つ。


 それに満載になった大小様々な本。

 本棚の脇には、入りきらなかったらしい本が平積みになっている。


 後ろを振り向く。

 見慣れた、見知らぬ扉。

 その左手に、横の壁にくっついた机と、その上に無造作に積まれた本数冊。


 そして、椅子に座ってこっちを見ているタバサがいる。





 まあ、簡単に言うと。


 ここはタバサの部屋だ。





 うん、正直、好奇心の赴くままにここまでついてきた俺もどうかとは思う。


 でもね、タバサ。

 自分が女の子だって自覚はあるかな?


 男を自分の部屋に平然と連れ込むのは、ちょっと少しかなりマズいんじゃないかって思うんだヨ、ボク。



 ……いやいやいや。


 ちょっと待て、俺。

 それはつまり、タバサになんかするつもりなのか、俺?


 まてまて、昨夜ゆうべも自分で言ったじゃねえか。

 俺の欲望からも守らないとって。

 ほら、タバサは、純粋に俺を信頼してくれてると考えるんだ。



 それに俺は、単に文字を教わりに来たんだ。

 そもそも恋人でもないのにそんなことしたら、俺、犯罪者じゃん。


 ていうかこら、好奇心。

 さっさと出てこい、お前の出番だ好奇心。

 ほら、この世界の文字の勉強だぞー。


 なんでこんな時に限って引っ込み思案なんだこらー。



「始める」

「お、おう」


 ようやく再起動した好奇心の背中を蹴って矢面に押し出しつつ、タバサの机に近づく。



「まずはこれから」


 そう言ってタバサは、一番薄っぺらい本をぱらりと広げた。

 隣に立って、それを覗き込む。


 ……うん、やっぱまだミミズののたくりに見えるな。


 ところどころ何か見覚えがあるような形になって、それなりに文字っぽくは見えるけど。

 こういう文字の書き方、何て言うんだっけ。楷書?

 あと、蒼いサラサラの髪が鼻先にあって、なんだか甘い香りがただy――自重しろ煩悩オレ。


 そしてサボんな好奇心ちゃんと働け。

 というか今日はなんでこう挙動不審だ俺。



 俺が死体に鞭打つように好奇心を捻り出すなかで、タバサの授業は始まった。





「これが、Аアー。これが、Бベー。これは、Вヴェー」


 はて、音にして聞くと何となくどこかで聞いた気がするな。

 文字そのものは殆ど初見なんだけど。はて。





 総33文字の名前を教えてもらったところで、復唱する。


「――、Эエー、Юユー、Яヤー。……で、あってたよな?」

「あってる。次は、単語」





 複数繋げて書かれた文字を指差して、その意味を一つ一つ丁寧に教えてくれた。

 くれた、んだが。



「これは、"序文"。本文を始める前に綴る、前書きのこと」


 とか、



「これは、"文明"。人道的で、合理的で、寛容な社会のこと」


 とか、



「これは、"法律"。"文明"に生きる人のための、社会的な規律」


 とか。



 単語になると、さっきみたいな文字とは違って、日本語で聞こえてきた。

 それに気付いた時、奇妙な疑問が脳裏に浮かんだ。


 タバサがこの世界ハルケギニアの言葉を話しているのは、多分間違いない。

 でも、その言葉は俺の頭の中では日本語として認識されている。



 なら俺は?



 頭の中でも口からも、日本語を話しているつもりの俺は一体、今、何語を話しているんだろう?

 それはタバサには、どう聞こえているんだろう?





 ……異変はなおも続く。


 そうしていくらかの単語を教えてもらい、いざさっきの文章を読んでみようと、再びミミズがのたくっていたはずの文面に目を落とした。

 そこにあったのは。


 たどたどしかったり、至るところにミミズを挟んだりしてはいるが、虫食いのように出現しているそれは。



 紛れも無く、漢字仮名混じり文。

 日本語の文章が、そこにあった。



 いや、目を凝らしてみれば、そこには確かにミミズしか並んでいないんだ。

 でも、そうして意識して"文字"を視てみないと、文章は勝手に日本語に化けてしまう。


 かなり謎極まりない現象が俺の身には起きているようだったが、そんなものだからある程度単語を教わってからは速かった。


 ついでに言えば、楽だった。



 俺がその言葉を日本語として認識すれば、その単語の部分は日本語へと変わっていくのだから。





 そうして一時間も経った頃には、教科書として使っていた本など、ほぼ完璧な日本語の本に化けてしまっていた。

 その本を初めから終わりまで朗読していく内、タバサが抑揚の変わらぬ、それでいて不思議そうな声を上げた。



「どういうこと?」

「え?」


 タバサはたった今、俺が読み上げた一文を指差す。



「ここには、"わたしがきみの魂を買います"と書いてある。
 でもあなたは、"きみの罪を、わたしが償います"って読んだ」


 ……あれ?



「いや、そう読めたというか、なんというか」


 日本語の方は、"きみの罪を、わたしが償います"って書いてあるんだが。

 はて、どういうことだろう?



「ごめん、間違えてたか?」


 タバサは首を振って、それを否定した。



「あなたは間違えていない。この文章は慣用表現。
 その意味は確かに、"きみの罪を、わたしが償います"になる」


 ……諺ことわざみたいなもんだったのか。



「あなたはさっきから、書いてあることと微妙に違う文章を読んでいる。
 でも、間違えてはいない。
 むしろよく要約されて、文脈上はより的確な表現になっている。
 まるで、文章全体を一つの言葉として捉えているように」


 そう言って、タバサがじっと俺を見つめてくる。

 あぁ……、うん。正にその通りなんだよなぁ。



「その、なんていうかさ、俺、こっちの言葉で読んでないんだ。
 変な話だけど、いま俺の目には、この本は俺の国の言葉で書かれているみたいに見えてるんだよ。
 多分、タバサに言葉の意味を教えてもらったのが鍵だとは思うんだけど」


 タバサは顎に手をやって少しの間考えると、首を振った。



「確かに、犬や猫を使い魔にすると、人の言葉を解するようにはなるから、同じことが人にも現れるのかもしれないし、文章が翻訳されることくらいはあるかもしれない。
 でも、それだけでは要約されてしまう説明にはならない」


 それなんだよな。



 ……ん、翻訳?



「なあ、タバサ。いま俺はどんな言葉で話してるように聞こえる?」


 タバサは首を傾げながらだが、答えてくれた。



「わたしには、ハルケギニアの言葉で話しているように聞こえてる。違うの?」


「ああ。俺はいま、っていうかこっちに来てからずっと、俺の国の言葉で話してるんだ。
 ついでに、タバサやルイズや……、この世界の人たちも、俺の国の言葉で話してるように聞こえる」



 タバサが、少しだけ目をぱちくりと瞬かせた。



「たぶん、これが文章の意味が変わる原因だと思う。
 まず、俺がこっちの文章の翻訳されたものを、頭で理解するよな」


 こくりとタバサは頷く。



「それで、その頭で理解した文章を、俺は俺の世界の言葉で口から喋る。
 その俺の口が紡いだ言葉を、タバサが受け取る時に頭の中でこっちの世界の言葉に翻訳……してるんじゃないかと思う。

 この翻訳してる間に、回りくどい言い回しなんかは簡潔にされてるんじゃないかな」


 タバサは再び顎に手をやり、今度は目を閉じて何事かを考えている。



 待つこと数分。

 タバサは目を開くと、顎にやっていた手の人指し指で天井を指し、話し始めた。



「少し、教え方と教科書を変える」


 俺の手から薄い本を受けとったタバサは、机の上に置かれていた軽い辞典程度の厚みのある本をその代わりに手渡してきた。



「この本を読んでみて、翻訳されていない単語が出てきたら、すぐに言って。その単語を教えるから」


 ふむ。

 それなら頭から順に日本語に化けていくから、確かに効率的だ。


 ……でも、ちょっとこの本は分厚くないか。



「そんなことはない」


 そうか。



「わかった。それじゃ、始めるか」

「頑張って。それを読み終えれば、次は魔法語ルーンに移る」


 そいつは実に楽しみだ。


 よろしく頼むな、タバサ。

 こっくりと、なんだか燃えた目をしたタバサが頷いた。









「腹減ったなぁ……」


 俺はいま、風呂の用意をしている。


 以前、サウナに入ったときに不満に思ったこと。

 なんとしても張ったお湯に浸かりたくて、絶対に試してやろうと考えたことを、実行に移したわけだ。



 ちなみに夕飯は喰い損ねた。

 タバサの机が扉側にあるのが悪い。

 習いたての魔法語ルーンをいざ試しに掛かるまで、時間に気付けなかったからな。


 振り返った窓から月が見えたときは素で驚いたぞ。


 それからタバサと二人して食堂まで走り、真っ暗な食堂で軽く絶望もした。



 ……思い出せば思い出すほど腹が減るからそれは置いとこう。

 この風呂釜の正体は、午前中にマルトーの親父さんから貰ってきておいた、元調理用の大釜だ。

 釜の下には薪がくべられ、水面にはちょっと厚みと縁ふちを削って裏返した木の蓋が浮かんでる。

 この蓋を踏み沈め、底板にして風呂に浸かるんだ。


 五右衛門風呂ってヤツだな。

 火加減間違うとホントに釜茹でになるから気をつけねえといかんけど。


 ちなみにここはギーシュと戦ったヴェストリの広場、その隅っこの壁際だ。

 ちょうど学生寮とは本塔を挟んで反対側になるこの広場は、この時間には基本的に誰もいないので都合がよかった。

 なんせ、見咎められると面倒そうだからな。



 そうこう考える内にちょうどいい湯加減になったので、手短に服を脱いで蓋を踏み、全身で湯に浸かる。

 夜気に冷やされた体によく煮えた湯がじんわりと沁み込んでいく。


 うん、やっぱりこれでこそ風呂、って感じだよな。

 ついでに露天で、なお結構。



「いい湯だねぇ、こりゃ」

「ご機嫌だね、相棒」


 風呂釜の傍の壁に立て掛けたデルフが声を掛けてくる。



「かれこれ半月ぶりぐらいの"こういう風呂"だからな。ああ、生き返る~」


 タオルを頭に乗っけて、世界を染め上げる二つの月を眺めて。

 実に心地よい異世界式露天風呂に、身も心もふにゃぁっと蕩けていくような錯覚が、麻薬の如く体を廻る。

 鼻の少し下までを湯に沈めてぶくぶくとしてみる。

 だいぶガキっぽい行動なのに、久しぶりすぎてなんだか楽しい。



「ところで相棒」

「ん゙~?」



「お前さん、あの蒼い娘っこがそんなに気にいったんかね?」



 思いっきり鼻でお湯を吸い込んだ。


「げほっ、ぐほぁっ、がはぅっ」


 咽る咽る、てか痛い痛い痛い。



「あー。大丈夫かぃ相棒?」


「こほ、こ、これが、大丈夫に見えんのかおま……」

「いや、全然」


「なら聞くなよ! ってか、いきなりなに言い出しやがる!?」

「いやだってほら、相棒ここんとこ蒼い娘っこの優先順位がえらく高ぇし」


 そうか?



「そんなに俺ってタバサ優先してた?」

「アレで自覚ねえんだったら痴呆かなんかだと思うぜ、オレっち」


 そこまで言うか。

 そりゃ確かに、港町ラ・ロシェールで泣きついてからこっちずっと借り増やしっぱなしだったし、何かとタバサが視界に入るなぁとかは思ってたけど。


 別に疚やましい気持ちがあるわけじゃぁ――



『タバサの部屋で二人きりになったとき』

『蒼い髪から甘い香りが流れてきたとき』



「――ベツニ、ヤマシイキモチハ、ナイよ?」

「相棒、オレっちの目を見て言ってみな?」


 それはどこを見ろとぬかしてんだお前。

 あと煩悩ども、ちょっと黙ってろ。



「なあ伝説の剣よ」

「いかにもオレは伝説の剣だが、突然どうしたね伝説の使い魔」


「お前は二千年も生きてきて、誰かを守ろうとか、そんな風に大事に思ったことは無かったのか?」


 は、とデルフは軽く震えた。



「守るのはオレじゃねぇよ。

 オレを握ったヤツが、誰かを守る。それで充分だ」


「可哀想なやつだなぁ……」

「そうでもねえさ。この方が、返って気楽だよ」


 そんなもんかね?



「そんなもんだよ。

 そもそもオレっちにはそういうの向いてねえからな。

 シェルと違って自力では動けねえし」


 それもそうか。



「俺も自力で動けるわけじゃねえんだがな」



 人の体に動かさせる、って感じだよな、どっちかって言うと――ん?



「あれ、娘っこ? ……と、シェル」



「……(じー)」

「俺はついでか? デルフ」



 声のした方に視線を向けてみれば、その腰にシェルを佩おびたタバサが、俺をじっと見つめてきていた。



「タバサ、どうした? 何かあったのか?」

「……お風呂?」


 へ? あ、これか。

 脈絡無いっていうか答えになってないけど、その辺は気にしない。

 よくあることだし。



「ああ。俺の国の、昔の風呂だよ」

「入れさせて」











 ――はぃ?



 更に輪をかけて突拍子も無くヤバい台詞が、俺の呼吸とか時間とか色んな物を止めた。

 見えているのに見えていない、そんな視界の中、タバサが衣服を脱ぎ落としていく。


 首元、星柄の刻まれたタイ留めが外され。

 タイは解かれ。

 支えを失った黒いマントが地面にぱさりと落ちた。


 ブラウスのボタンが外され。

 するりとシャツは腕を滑り。

 肩掛けが紐状になった薄手のワイシャツ……、シュミーズ、がその下から現れた。


 顕あらわになった肩口が、白く滑らかに月の光を照らし返して。

 スカートのホックに手が掛かり。

 タバサの身動きが止まった。



「あっち、向いてて」


 ……。



「……(じー)」


 ……。



「……(じー)」


 ……。



「……(じー)」






















「ЖФСЗЩМЭЩАТЕЯП!!」



 俺は今日学習したばかりの文字類を大量に口から溢れさせながら、ガキィッ!と首の力で体を後ろ向きになるまで捻った。

 首を傷めた気がするが、いまは心底どうでもいい。


 ことり、ぱさりと、音がした。



「テンパってんね、相棒」


 当たり前だ!



「た、た、た、たば、タバサ!?
 ふ、風呂なら、貴族用のが寮にあるだろ!?
 もっとでっかくて立派なのが!! なんで」

「閉まってた」


 しゅるしゅると音がする。


 ……いや待て、今ってそんなに遅い時間なのか?



「もう二時間もしたら日が変わるぜ?」


 そうシェルンノスが答えてきた。



 ちゃぽんと、音が、した。



 そうか。

 なら、しかたない。











 わけがあるかぁあああああああああああああああああああッ!!







 うわ、うわうわ、うわうわうわ。


 やばい、これはやばい。

 水温が体感で15℃ぐらいいきなり上がった気がする。


 真後ろに素っ裸の女の子一名。

 それだけでものぼせてぶっ倒れそうなのに。



 何故だか、タバサは、ぺっとりと、背中に、張り付いてきた。


 小さなタバサの体が、自分の背中にぴったりと密着している。



 ちょ、ちょっと待った、



「待った待った待った。タバサ、一旦離れてくれ」

「やだ」


 なんで!?


 と。

 叫ぼうとしたところで、ふと気付いた。


 何故かは知らんが、くっつけられたタバサの……背中?から、細かな振動が伝わってきている。



 タバサが、震えている。

 それで少し、野獣ほんのうの活動が収まった。



「……た、タバサ?」

「……」


 返事が無い。

 でも、なにやら気を張りつめているのが感覚で分かる。


 首で100度、視線で80度をそれぞれ振り返り、タバサの様子を窺う。

 タバサの横顔は、真剣な瞳で自分の正面をじっと睨みながら震えていた。

 あと、何故か杖を釜の上に渡しており、両手はそれを握り締めてる。


 鎖骨が、細い首筋が、うなじが、丸い肩が、目に見える全てが白く、艶やかに――、Consedi止まって Respicere振り向け。



 全力で自己制御と自己暗示するために覚えたての魔法語ルーンを使ってみたが、その効果はしっかりと出たらしい。


 使いどころを間違っているか?

 いや、そんなことはない。


 強制的にタバサと正反対に顔を向けなおしてのち、このタバサの体勢の意味を考えてみる。



 真剣な視線。

 構えられた杖。

 震える体。


 総合して考えるに、これは。



「……なあ、タバサ。ひょっとして今、敵か何かが近くにいたりしないか?」

「しない」





 ……あるぇー?



 じゃあ、タバサはいったいなにを警戒してるんだ?

 と、疑問符を10個程度浮かべたとき。


 かたん、と微かな物音がして。



 びくりと、タバサの体が跳ねた。



「……タバサ。今の音、聞こえたか?」


 こくりと頷く気配がして、さらりと髪が俺のうなじを撫でていく。

 くすぐってえ。



 ことり。 びくり。



 たんっ。 びくり。



「……何の音だろ?」

「わからない」


 タバサの声は、若干震えている、ような気がする。



 ……んんん?



「……ひょっとしたら、幽霊だったり。な「やめて」」


 間髪どころか言葉尻も入れさせずに、タバサは冗談を遮ってきた。



 あと、体の前後を入れ替えてしがみついてもきた。

 震えが少し大きくなった気がする。



 うん、つるんとしててぺたっとしててふにゃふにゃしてるのが背中に感じられる。


 どこが、とか、なにが、とか、どのように、なんてことは間違っても口にしない。

 言ったが最後、理性いしきが途切れると思うから。



 横目で左を見てみれば、タバサの顔がそこにある。

 しかしこれはひょっとしてひょっとしなくても。



「もしかして、お前、幽霊とかダメなのか?」


 こくりと、肩の上で頷くタバサ。



 いかん、かわええ。



 まあ、これで借り一つ返した、ってことにしとくか?

 どっちかっていうと借りがさらに増えた気がするけど。


 正直、この感触、堪たまりません。



「ま、まあ、俺の背中ぐらいで安心できるんなら好きに使ってくれ。借りは計画的に返していかないといけないしな」


 緊張と恐怖をほぐすため、出来るだけ明るい声で冗談を交えた本音を語ったんだが。


 こっくりと。

 タバサは、どこまでも真剣に頷き返してきた。


 おばけこわい、と呟きながら。









 意外な弱点を露呈したタバサに抱きしめられること30分。

 薪たきぎの火が消え、ぬるくなりはじめた湯から二人して上がり、滅茶苦茶に火照ほてった体を衣服に包んだ。


 ナイロンパーカーは、半袖でも熱が篭って実に身体が熱い。

 今度は先に脱いでくるか。



 んで。


 未だに震えるタバサを部屋まで送り届けた。

 これも借りの返却の一環ということにされたわけだが。


 きゅっと袖口をつまんで物音一つにびくびくしながら着いてくるタバサは、とても可愛らしかった。


 ところで、こういうのは見つかると拙くないか。人の噂とか。



「かまわない」


 そりゃどういう意味でですかタバサさん?

 訊くのがちょっと怖いから訊かないけど。





 まあ、そんな風にタバサを部屋まで送り届けて、二階下のルイズの部屋に帰ってくると。



「遅い」


 とむくれたルイズが、顔をこちらに向けることなく言葉をかけてきた。



「あんた、こんな遅くまでいったいどこで何をやってたのよ?」


 そういうルイズは、ベッドの上で見慣れない本を前にして腕を組んでいる。



「こっちの文字教わってたら、ちょっと熱中しすぎてこんな時間になっちまってたんだ。悪い」

 その後、お風呂も入ってました、とは言わない。

 タバサの名誉のためにも、俺の尊厳のためにも。

 迂闊にいまあの肌の感触を思い返すと、理性が消し飛んで夜中に徘徊しかねないし。


 さて、だいぶ遅くなっちまったが、これから洗濯だ。

 風呂の残り湯を使うと、指がかじかまなくて済むだろうから。

 そう雑念を振り切りながら洗濯物籠に近寄る。



「……あれ?」



 されど、籠はカラッポだった。



「ルイズ、今日の洗濯物はどうした?」

「もう、洗ったわよ」


 ……どうやら、昨日から続くルイズの変化は、まだ終わっていなかったらしい。



「そういや、なんか見慣れない服着てるな。
 いつもの寝巻きはどうしたんだ?」

「一緒に洗濯しちゃったもの。他に着るものもないし」


 あれ。



「お前、たしかドレスの類を大量に持ってなかったか?」

「アレはよそいきの服だもの」


 そういうもんかね。



「ところで、その本なに? 見覚えがないんだけど」

「王室の秘宝よ。中身は白紙だけど」



 ルイズの説明によると、どうやらお姫さまの結婚式で、詔みことのりとかいう祝辞しゅくじを述べる役割をお姫さま直々に任されたそうだ。

 それで、その白紙の『国宝』を見ながら、俺が文字を勉強している間中ずっと祝いの言葉を考えていたらしい。



「でも、そう簡単にこういう言葉って出てこないのよね」


 わたしこういうのは苦手だし、とルイズは溜め息を吐いた。



「まあ、一眠りして気分転換してみたらどうだ?
 もう夜も遅いし、明日も授業あるだろ?」


 ルイズは腕を組んでしばらく唸っていたが、やがて諦めたように目を伏せ、大きく息をついた。



「……そうね。まだ式まで一ヶ月もあるんだし、ゆっくり考えるわ」


 そう言って、ルイズは毛布の中に沈んでいった。

 それを見届けて、俺も"巣"の中で丸くなる。


 今日は風呂桶を設置したり、文字を教わったり、風呂でタバサと密着したりと、体も頭も心も、もう余力が残ってない。

 すぐにうとうとと夢の世界に潜り始め……、飛んできた枕に顔面を強打され、夢から一本釣りされた。



「なにすんだよ」

「いま投げた枕持ってこっち来なさい。ベッドで寝ていいって言ってるじゃないの」


 なんか拗ねたみたいな声も飛んできた。

 相変わらずルイズの異常は継続中だ。


 いや、昨日の様子からすると、ただ単に心細くなっただけなんだろうケドさ。

 なんて考えながら、ベッドの隅に潜り込んだ。


 今はタバサの身体の名残が熱くて仕方が無い。



 ほんと、今日のタバサはヤバかった。

 普段の理知的な言動に似合わぬ、でも年相応な可愛らしい怖いモノ。


 ……どう考えてもオバケよりもあのバグベアーとかの方が怖いと思うんだけどなぁ。


 ともかく、あのギャップの破壊力はヤバイ。

 もう数秒でも保護欲が復活するのが遅れてたら、理性とか尊厳とかその他諸々のモラルの類がご臨終するところだった。


 いくらなんでもタバサを襲っちまったら、犯罪行為にも程がある。

 天が赦しても俺が赦さん。

 万一そんな無理矢理でタバサの大事なもんを奪っちまったなら、すぐさま俺はデルフで割腹するぞ。



『じゃあ合意の上でなら問題ないな!』


 煩悩が脳内で高らかに叫びを上げた。

 ちょっと黙れ。デルフでKillぞ。


 そりゃ確かにタバサとそう・・なれたら嬉し――だから待て、犯罪だろうそれ。



『や、あのキュルケの二つ下だぜ? それぐらいならフツーじゃね?』


 いや、そりゃ確かに背中に押し付けられたぷにぷにした滑らかな肌とか、ルイズといい勝負のでもやーらかいムネとか、生えてないトコとか、激しくオンナノコでしたが。



『だろ? だからほれ、明日の個人授業の時にでも襲っちま』


 脳の中でとんでもないことを言い出した煩悩を振る墓ッ故。



 ……よし、煩悩は死んだ。



 タバサは幽霊が怖くて縋り付いてきただけだっての。

 俺みたいな情けないヤツを、タバサほどの奴が好きになってくれたりするわけねえだろうが。


 だいたい、俺ってモテてたか?

 いいや、そんなことはない。


 確かにこっち来てから女ッ気こそ増えたけど、冷静に考えてみればキュルケはどう考えてもからかってるだけだし、シエスタは哀れんでくれてるだけだし、ルイズに至っては犬扱いだ。



 ……そういや、タバサが俺をどう思ってるかだけはよくわからんな。

 はて。



 ああ、でもタバサ可愛かった。


 ルイズとはまた違った、ていうか、実のところかなり俺好みな可愛さがある。

 冷静、有能、でも怖がり。


 あぁ、あとこれが一番大事だが、思い込んだら一本槍なとこ。



 今日の今日までオンナノコというより、頼れるやつって意識の方が強かったせいか、衝撃がでかすぎた。

 それプラスすることの、魔法語ルーンを習うのが思った以上に面白かったのもあって、地球に帰るのはまた今度でもいいか、なんて思ってしまう。


 まあそもそも手段が見つかってすらいないし、その方法を効率よく探すためには"貴族の証"とやらが必要らしいから、今はそれ以前の問題なんだが。



 しかし。


 ルイズにせよ、タバサにせよ。

 どちらも、俺"が"守ると誓っただけで。

 どちらからも、好きだなんて言葉は当然ながら貰っていないわけで。



 ……実際タバサは、俺のこと、どう思ってるんだろうな?

 ちょっと、怖くて訊けねえけどさ……。







「むぅ、ホントに仲良くなってるわねぇ……」


 部屋の中で二人が眠りについたのを見計らって、窓の外から『飛行フライ』で中の様子を窺っていたキュルケはその場を飛び去った。



「そりゃまあ、ルイズが傷心中なのは知ってるから、あれだけなら別にいいわよ。

 あれだけだったら」


 そのままぐるりと塔を周り、壁を飛び越え、少しばかり剥むくれながら塔の真裏、自分の部屋の窓から中に飛び込む。



「でも、タバサと一緒にお風呂にまで入っておいて、その夜の内に違う女の子のベッドで平然と眠れるだなんて、どういう神経してるのかしら」


 ついでに言えば、あたしを無視して。

 あたしを無視して。二度言った。


 キュルケは、夕食にもお風呂にも姿を見せないタバサを心配して、部屋の外から様子を窺っていたのだった。

 見た感じが何やらいい雰囲気だったため、声を掛けそびれたとも言うが。


 あと、先ほどの台詞はキュルケの言えた義理ではないような気もするが、親友のこととなれば話は別らしい。



「さて、どうしたものかしらね。
 タバサの応援をしたいような、ルイズも放っておけないような……」


 困ったわねぇ、とベッドに寝転んで呟くキュルケ。

 求愛を無視され続けて揺らいでいる自分のプライドは、この際無視するようだ。


 滅多に自己主張をしない友人が、珍しく楽しそうにしているのを昼間に見たせいかもしれない。



「とりあえずは、あの二人以外がサイトに近付かないようにしないといけないわね。

 陰謀は苦手なんだけど、少し作戦練ろうかしら」



 彼女の情熱は今、自分の『恋』から、他人の『色恋沙汰』へとシフトしているようだった。





 
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