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呉志英雄伝

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第九話~予兆~

孫呉の精兵4万は襄江を溯る。
領内の黄巾党はほぼ討伐し尽くした。とはいえまだ治安は安定してはいない。故に対劉表用に2万、そして国内の治安維持に1万、計3万を残して、孫呉は外へと打って出たのだ。
そんな彼らが向かう先は南陽。
荊州における黄巾勢力の主力が集まる彼の地には、荊州の雄たちもまた集結しようとしていた。
乱勃発から半年あまり、ついに決着をつける時が来たと、各々は判断したのだ。



「江、風はどうだ」


襄江の流れの上に身を置くということは当然船団にて移動していることを意味する。
甲板にて流れを見ていた江の背後から声がかかる。その声と共に船室から姿を現したのは、彼の君主である桃蓮であった。


「いい風が吹いています。この分では恐らく10日と経たないうちに安昌へと辿り着くでしょう」


江の言う安昌とは南陽の南に位置する地である。
そこまでは船を利用し、そこからは陸地を行軍して、南陽の目と鼻の先にある博望に陣を構える予定だ。船団は既に江陵の横を通り過ぎており、そろそろ樊城に差し掛かるところだ。


「そうか…」


その言葉に桃蓮は肯くと押し黙る。
らしくない君主の様子に少しばかり違和感を覚える江。


「さて、では私は部屋に戻るぞ」


どうしたのですか。そう言葉にしようと口を開いた矢先に、桃蓮はこう言い残して元の船室へと消えていった。残された江は呟く。


「何か嫌な予感がしますね」


雪蓮のがうつりましたかね。
軽口を続ける江であったが、その表情は冴えないものであった。願わくばこの予感が大外れであることを、彼は望んでいた。









今回の遠征には多くの兵を動員した。
しかし兵がいくら多くとも、それらを指揮する将が少なければ元も子もない。したがって、従軍する将もかなり多く、また質も高かった。
桃蓮、そして補佐役の祭、江、冥琳を筆頭に、操船に長けた思春、明命、武勇に秀でた凌操と黄祖の8名の将とその下に付く副将で、総勢18名という顔ぶれ。
これだけの陣容をそろえたのは間違いなくこれが最初のことだろう。孫呉にとって此度の戦はただの乱鎮圧以上の意味合いがあった。
この戦で大功を上げ、風評と名声を手に入れる。そのためには地味な勝利ではなく、派手派手しい勝利、つまりは圧倒的な戦を展開しなければならない。
それを踏まえれば、これだけの布陣を揃えても何ら疑問ではない。


「ふむ、嫌な予感のう」


船室にて江はさきほど感じた予感について話した。とはいえ、江でさえ漠然とした予感の根拠が皆目見当もつかない状態では、祭もどうしようもないのは必然だ。


「儂は堅殿や策殿のような、狂った直感などないのじゃ」


狂った、とは失礼かもしれないが、あながち間違いでもない。否、実に的を射ている表現である。


「それは承知の上です。ただ気に留めておくだけでもお願いいたします」


それでも万事に備えるのもまた名将の条件だ。その点において、江は実に厳密だった。不安材料をとにかく減らそうと躍起になっていたのかもしれない。


「承知した」


祭の同意の言葉に深々と頭を下げると、江は船室から辞した。陽の落ち、すっかり暗くなった襄江。
その上を、松明によって照らされた船団が静かに進む。
煌々と燃える松明の火さえ呑みこんでしまうのでは、と錯覚するような暗闇を前に江はまだ不安を抱いていた。
昼間にも感じた同様の予感。それは桃蓮に対するものか、それとも孫呉に対するものか。いくら根拠を求めようと、解は一向に出ない。
この時、江はまるで考慮していなかった。







己に降りかかるかもしれぬ災厄の可能性を度外視していた。

運命の歯車は、錆びついた音を奏でながらも確実に回り始めていた。








―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――






孫呉の軍勢は予定通り10日をかけて安昌に到着、その後は陸路を進軍し、先日、南陽・宛城付近に陣を張った。


荊州南陽
東西北を険しい山や関に囲まれたこの土地は、広大な荊州の北端に位置する。
冀州にて、張角率いる黄巾党が蜂起をしたのと時を同じくして、こちらでは張曼成が兵を興し、そして太守を殺害、南陽の宛城を占拠した。
漢都・洛陽にほど近く、また周囲を劉表、袁術ら有力な勢力に囲まれているために日々戦が絶えず、その過程で張曼成は命を落とすこととなる。
この指揮官の後継として選ばれた趙弘は徒に兵を損ずることをよしとせず、略奪以外には宛城に立て篭もることを選択した。


「まぁ今となってはその選択は愚かであったという他ないのだが」


そう漏らすのは孫呉の頭脳とも言える存在、周公瑾。
彼女ら・孫呉の軍勢は今、その宛城の南方に位置する博望に陣を構えていた。


「ええ、おかげさまでそろそろ向こうの兵糧も底を尽くようです」


そんな呟きに応えるのは、孫呉随一の智勇を併せ持つ将・朱君業。
安昌に到着したときに、江は既に配下の明命、そして思春に命じて、敵の本拠である宛城を探らせたのだ。その結果得た情報が兵糧の不足である。
当然の帰結である。何故ならば、敵軍総帥は強力な勢力との接触を避けるために略奪も近場で済ませていたのだ。
しかし一度略奪をおこなえば、その都市は当分の間廃墟のままである。つまり彼らは限りある資源を後先考えず食いつぶしていたのだ。
そしてその兵糧が尽きようとしているときに孫呉の軍勢が南方に陣取ったのだ。


「しかしこの機を見逃さなかったのは我々だけではないようだな」

「桃蓮様…残念ながらそのようですね」


二人で遠方の宛城を見やる背後から、彼らの君主である桃蓮が歩み寄り、会話に入ってきた。
桃蓮の言う『機』とは当然兵糧が底を尽く今、ということ。そして見逃さなかった勢力とは…


「やはりあの古狸も出張ってきたか」


忌々しげに奥歯を噛み締める桃蓮。彼女に古狸と呼ばれたのは荊州太守にして、荊州における紛うことなき最大勢力・劉表。
彼らは孫呉が何とか捻出して出陣した4万という軍勢をあざ笑うかのように、その倍以上に当たる10万の兵を率いてきた。現在は呉の陣より20里ほど前方に待機している。
だがこの地に目を付けた勢力はもう二つあったのだ。
一方は汝南の雄・袁術、そしてもう一方は官軍である朱儁。
どちらも8万の軍勢で押し寄せている。
黄巾20万 対 討伐軍30万という大戦が今起ころうとしていた。










「ふむ」

孫呉の陣、桃蓮の天幕。
君主である桃蓮の過ごす場として相応しいほどの大きさの天幕には、遠征に連れられた18名の将がすっかり収まっていた。
中央には軍議用の机と椅子が置かれ、将各々が自分の席に鎮座する。
その机の上には城の見取り図のようなものが置かれていた。


「固いな」


上座に座る桃蓮のすぐ側に鎮座する祭は、目の前の図を見てそう漏らした。
その対面に座る冥琳もその言葉に肯く他ない。


「向こうの戦力は20万、実質戦力としても16万はいるでしょう。それに比べて我らは4万。しかも安昌の港に5千の守備隊を置いているのです。到底我らだけでは太刀打ちできません」


冥琳の言葉に周囲は沈黙に陥る。


「更に今回は怨敵たる劉表もいるのだ。袁術も朱儁も我の強い者だ。連携など夢のまた夢だろうな」


桃蓮の付け足しで、場の空気はまた一段階重くなる。
相手の兵力を鑑みるに単独での攻撃は不可能、かと言って共闘しようにも周りが協力しないことは明白。八方塞がりもいいところだ。
大人しく他勢力が動き出すのを待つしかない。そう誰もが感じていた時…


「協力しないのであれば、せざるを得ない状況に追い込めば良いのです」


赤髪の少年は口を開いた。


「兵糧を失えば、向こうは打って出るしかありません」

「しかし、まだ兵糧は一月は持つものと思われますが…」


江の言葉にやんわりと反論を発するのは思春。
彼女の言葉通り、黄巾の兵糧はすぐさま尽きる程には切迫していなかった。


「ならばその僅かながらの兵糧さえも消してしまえばよい」

「っ!…なるほど~」


江の考えが読めたのだろう。穏は感嘆の声を上げる。


「江様は敵の兵糧庫を襲撃しようと思ってるんですね~」

「そうか!無理やりにでも兵糧を燃やしてしまえば、向こうに打って出る以外の選択肢はない…」


次々に将たちは納得の表情を浮かべる。


「宛城の見取り図から分かる通り、兵糧庫は南西の外れに位置し、更に恐らくは敵兵の宿舎であろうこの建物の死角に位置しています」


江の口から淀みなく流れ出る言葉に将たちは心底感嘆していた。しかしここで横槍が入る。


「でもそれで兵糧庫を襲撃するのよね?そのあとはどうするのよ」


桃蓮が長子・雪蓮である。
雪蓮はただ疑問に思ったことを口にしただけなのだが、気分の乗ってきた周りの将からは「少々」冷たい視線を向けられる。


「それに関しても考えていますよ」


そう言って江は、今一度見取り図に手を置く。
そして指さすのは宛城の中の北に位置する少しばかり小さめの建物。


「ここが恐らくは敵総帥が居座っている場所です」

「その心は?」

「北方には崖、東西には兵舎がある。まるでこの建物を守っているようではありませんか?」


江の問いかけに、祭は無言で同意を示す。


「そこで私の考える方針はこうです。まずは凌操殿、雪蓮で南門に攻撃を仕掛け、思春率いる諜報部隊が城内北西の家屋に火をかけます。そしてそちらに敵兵の意識が集中しているすきに、今度は明命が率いる部隊で兵糧庫を強襲、燃やし尽くします」

「して、その次は?」

「当然敵兵の意識は兵糧庫へと移ります。今度は思春の部隊で城門を開放、南門前の凌操殿たちには、城内侵入後、混乱する敵兵を更に混乱させ、東門、西門から外に誘導していただきます」

「そうやって朱儁や袁術に雑兵の始末を押し付けるのじゃな」

「後は我々の総兵力を以て、趙弘がいるであろうこの建物を襲撃。首級を上げれば…」


それ以上のことを江は口にしなかった。
そして再び周囲を沈黙が支配する。皆桃蓮の言葉を待っているのだ。


「一つ聞こう。江よ、この策の本当の狙いは何だ?」

「さて、何のことでしょうか?」

「とぼけなくていい。東門や西門から敵兵を追い出すことは分かった。それを袁術、朱儁に押し付けることもな。だがこの地に討伐軍は四勢力いる」


江の作戦のなかで終ぞその名前が出なかった勢力。


「四つのうち三つの勢力は大小の差はあれど功を上げた。そのような状況下で『不運』にも何の手柄も立てられなかった勢力の長は果たしてどう感じるでしょうかね…」

「ククッ、気に入った。実に心地よい計略だ」


その顔に笑みを湛え、桃蓮はゆっくりと立ち上がる。そして並みいる武将の顔を一つ一つ見つめて、やがて口を開く。


「孫呉は朱才の策を採用する!」

「ははっ!」


江は臣下の礼をとり、跪く。


「甘寧!周泰!」

「「はっ!」」

「お前たちは直ちに部隊を編成せよ!先の策の通り、宛城内を混乱の極地へ誘え!」

「「御意!」」

「凌操!孫策!お前たちは1万5千の兵を以て宛城南門を攻めよ!作戦成功後は、東西の門より城内の敵勢力を宛城から追い出せ!」

「「応っ!」」

「朱才!黄蓋!」

「「はっ!」」

「お前たちは甘寧の火計成功後、弓兵部隊を率いて、東西門の前より火矢を射かけよ!城内を紅に染め上げよ!」

「応!」

「御心のままに」

「周瑜は自分の補佐を、残りの将は本隊に属し、策が成った後に宛城を襲撃、大将首を狙え!」

「ははっ!」

「作戦決行は明日の未明とする!各々しっかりと準備しておけ!」



天幕の中に桃蓮の凛とした声が響き渡る。
一通りの指示を出し終え、改めて江の献策を称賛する桃蓮に、他の将たちも同調し、尊敬と称賛の言葉や眼差しを送る。








ただ一人、憎しみと憤怒をその眼に湛えた者を除いて






 
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