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人理を守れ、エミヤさん!

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士郎くんの戦訓 2/5





 高校を卒業すると、士郎は日本を発った。強迫観念に突き動かされるように。

 彼を止める声が、彼には聞こえていても、その足を止める事は出来なかった。凛が悪態を吐き、桜やイリヤが寂しげに佇み、大河がなんとか説得しようとしても、聞く耳を持たなかったのだ。
 何をしても、誰といても、どうにもしっくりと来ない。修学の末に、実用的な英語を片言で話せるようになると、最低限の荷物を持って冬木を離れた。

 勿論行くあてなど無かった。元々明確な目的はなかったのだ。ただ曖昧に、他者の不幸を許せないという情熱に駆り立てられた。
 海外を転々として、様々な人と触れ合い、語り合い、言語を学んだ。親しくなった男性の家に下宿させてもらい、その家で料理を作る。そういった事を繰り返していると、ある場末のバーの男性と出会い、彼の下で酒の奥深さを学んだ。
 コックの男性と意気投合しては、彼の下で修行し、その師を紹介してもらって更に料理の腕を磨く。そうして英語を流暢に話せるようになる頃には、英語圏の有名なコック達と知己を結ぶようになった。次第に活動する場を広げ、ロンドンに出向く頃には二年の月日が流れていた。
 そこで士郎は凛と再会する。驚きながらも凛も魔術師なのだから時計塔にいてもおかしくないかと納得する。最初は凛も予想だにしなかった再会に驚いていたが、落ち着くと士郎を叱りつけ近い内に冬木へ帰れと説得した。待っている人がいるでしょ、と。
 士郎は頷き、顔を出すぐらいはする事を約束する。しかし暫くはロンドンに滞在すると言うと、凛は士郎を己の部屋に下宿させてやった。色っぽい事はなかった。ただ旧交を暖め、凛の手が空いた時には魔術の手解きを受けた。
 強化、解析、投影。基本はこの三つを。本当は必要がない練度を、投影杖と呼んでいるものの補助で得ていたが、やはり正統な魔術師の手解きは身になった。

 同居生活は、思いの外長く続いた。
 馬が合ったのだろうか。次第に距離感が近くなり、殆ど身内同然となると凛が酒の席で溢した。

『今のアンタ、昔よりずっといい感じね』

 意地悪な笑みは、猫のようだ。凛の借りている部屋で、テーブルを挟んで向き合っていた士郎は訝しむ。

『は? なんだそれ』
『なんかいっつも張り詰めてたじゃない。ほら、聖杯戦争の時よ』
『……そうだったか?』
『そうよ。何を我慢してたのかは知らないし興味もないけど。今は伸び伸びと出来てるじゃない。冬木を出て、しっくり来る物が見つかったの?』
『……いや。今は色々勉強中だな』
『なんの勉強よ』
『さて。色んな奴に会って、話して。言葉を学んで、料理の腕を磨いて。格闘技も習った。ほら、俺って解析魔術が得意だろ? 世界中の建築物を解析して、建築学に活かしてる』
『……士郎が何目指してんのか、さっぱりわかんないんだけど』

 凛が呆れると、士郎は苦笑した。俺もさっぱり分からんと。ジョッキを呷って麦酒を干す。からん、と氷の鳴る音に目を細めた。

『そういえばさ、イリヤスフィールから聞いたんだけど』
『ん? 連絡取り合ってるのか』
『取ってるに決まってるじゃない。冬木に連絡してないの、アンタぐらいなもんよ。っと、話が逸れかけたわね。――イリヤスフィールが最近気づいたみたいだけど、自分達に聖杯の影響があるんだってさ』
『イリヤが? そりゃあってもおかしくないんじゃないか。聖杯(イリヤ)なら』
『イリヤスフィールだけじゃないわよ。私も、桜も、藤村先生も。アンタも。たぶん影響受けてる奴はもっと多いんじゃないか、だって』
『……? 原因は分かってるのか』
『さあね。年単位で調べなきゃ分かんないぐらい根深くて、厄介な呪いらしいし……気長に調べるらしいわ。気長に、ね』
『……』

 事情に通じていながら、そこに含められた因果を察せない暗愚はいまい。士郎は己の手元のグラスに視線を落とす。

『士郎。アイツ――寿命が近いわよ』

 士郎は押し黙った。凛は麦色の液体をグラスの中で揺らめかせ、小さく囁く。
 会わなかったら後悔するわよ、と。数瞬の間を空けて、士郎は分かっていると答える。ちゃんと分かってる――そう繰り返した。
 凛は嘆息する。士郎の目に、強い光があったからだ。

『考えはあるみたいね。何をする気?』
『……なんだよそれ。俺が何かを考えてるのはお見通しって言い種は』
『だって知ってるもの。アンタが時計塔で、色々と聞き込んでるの。足を使ってあっちこっち回ってたのってさ、元々イリヤスフィールをなんとかしたいって思っていたからなんじゃないの? そして、探し物を見つけた。だから落ち着いてる。違う?』
『……さあ、な』

 曖昧に暈し、その話はこれっきりだった。士郎はそれから二ヶ月ほどロンドンに滞在する。その間に、凛と士郎は性差を超えた友人となった。
 助手として第二魔法の研究に付き合わされた事もある。その最中の事だ、実家に置いておく事も出来なかった呪いのアイテムを、うっかり封印解除してしまった凛は、二十歳なのに魔法少女と化してしまう。

「ぶふぉ」

 アーチャーが噴き出した。ふるふると体を震えさせ、必死に笑いを堪えている

 しかし士郎は笑いを堪える素振りすらなく、指を指して爆笑した。

『忘れろぉ!』

 案の定八極拳でボコられ気絶した士郎は、凛にテムズ川へ投げ落とされた。
 真剣に危なかったと激怒した士郎は復讐に燃える。リン・トオサカ魔法少女化の案件を時計塔に吹聴し、知り合って以来、矢鱈と好意的なルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトに面白おかしく話し、噂を積極的に広めに広めた。
 ミス・トオサカはいい歳してコスプレ・オタクであると見なされ、凛だけがそれに気づかず。ほくそ笑んだ士郎は、このままそっとロンドンを離れる決意を固めた。
 が、ロンドンを発つと報せると、凛は親切にも送ってくれるという。ゆっくり並んで歩き、和やかに談笑しながら橋の上まで来ると、ばったりルヴィアと遭遇してしまった。
 恒例の口論が始まる。またかと士郎が呆れていると、特に口止めをされていなかったルヴィアが口を滑らせた。ミス・トオサカは高尚なご趣味をお持ちのようですわね? と。それになんの事かと凛が訊ね、噂の詳細と出所を聞くと烈火の如く猛り――既に全力疾走を始めていた士郎にガンドを撃ち込み転倒させると、士郎をテムズ川に突き落とした。

 二度も落とすとは、やってくれる……! 凛へ復讐する決意を新たに更新し、士郎は覚えてろと捨て台詞を吐いてロンドンを去った。

 士郎は冬木に帰郷する。特に連絡もなしに突然帰ってきた士郎に、大河やイリヤ、桜はひっくり返りそうなほど驚いていた。大河は怒りながらも泣き、同時に喜ぶという器用な態度で。桜は思わず士郎の傍に駆け寄り抱擁してきた。
 やんわりとそれに応え、少しして引き離すと、士郎はまたすぐに冬木を離れると言う。またすぐ戻ってくるからと大河の荒ぶりを鎮め、士郎は宣言通りに冬木を離れる。――イリヤを連れて。
 ホムンクルスとしての寿命が近い。体力のないイリヤを連れた士郎は、日本の観光地をゆっくりと共に回った。一週間をたっぷり使っての旅行を経て、辿り着いたのは閑散とした田舎街だった。
 どうして自分を連れ回すのか。最後の思い出作りのつもりなのかとイリヤが問うと、士郎は違うと微笑む。腕時計で時間を確かめながら、士郎は言った。

『なあ、イリヤ』
『何、シロウ』
『俺の我が儘を聞いてほしいんだ。いいか?』
『……? いいわよ。なんでも言って。お姉ちゃんは懐が深いから、久し振りに会ったバカな弟のお願いも聞いてあげるわ』
『ありがとう。じゃあ何も言わず、今からの事を全て受け入れてくれ』
『? ええ。わかったわ』

 喫茶店に入る。客入りの少ない店だ。迷う素振りもなく奥へ進むと、客席には先客がいる。
 女性だった。赤毛の美女である。橙色のコートを羽織った女は、対面の椅子に断りを入れて座った士郎とイリヤに視線を向けた。

『お待たせしました』
『――呼び出しておいて私より後に来るとはいい度胸だ』
『申し訳ない。何分、時間には正確な性質で』
『ふん……』

 煙草を取り出し、火を点けると不味そうに吸い紫煙を吐き出す。イリヤは一瞥しただけで、女が何者かを看破していた。魔術師――そう呟き、警戒心も露にする。

『俺は衛宮士郎。こっちがイリヤスフィール。今回は貴女に依頼があって、呼び出させてもらいました』
『よく私に繋がる伝を見つけられたものだな』
『ロード=エルメロイ二世に借りを作りました』
『ほう? そこまでしたのか。まあそれはいい。そっちのお嬢さんに事情は説明していないようだな。蒼崎橙子だと名乗れば察しはつくか?』
『!? 蒼崎ですって……? シロウ、』
『イリヤ、俺に任せてくれ』

 驚愕に目を見開くイリヤに、士郎は断固として言い聞かせる。我が儘、聞いてくれるんだよな? と。それにイリヤは眦を吊り上げるも、嘆息して力を抜いた。
 悟ったのだ。これまでの二年間、士郎がしていた事を。ずっと――イリヤを助ける手立てを探していたに違いない。その途上で何をしていても、根幹にあった目的はイリヤだろう。
 悟ってしまったからには、イリヤは士郎の気持ちを拒絶する気にはなれなかった。

『それで? 私にどうして欲しい』
『イリヤの新しい体を二つ(・・)作って欲しい。最高位の人形師である貴女に。一体は普通の人間として生きられる体を。一体は今のイリヤの体を模倣した器を。対価はアインツベルンの聖杯であるイリヤの体です』
『――アインツベルンの、聖杯だと? ほう、これはまた、とんでもないものを……』

 面白いなと橙子は薄い笑みを浮かべる。冬木の魔術儀式を知らぬ魔術師は相当なもぐりである。橙子は当たり前のように冬木の聖杯戦争について知っていた。そしてその覇者となったらしい衛宮士郎の名も、また。
 一般的な魔術師とは異なる、独自の哲学を持つ橙子ではあるが、聖杯に興味がない訳ではない。イリヤを興味深げに観察する。
 興が乗ったのか、色好い返事を即答で出した。橙子からすれば、人形を二体作るだけで聖杯の器を手に入れられるなら、逆に貰いすぎなほどだと受け取れるからだ。

 代わりに、貰いすぎた分は口止め料と、深く事情を詮索しない事で帳消しにするとした。ギブ&テイク、ビジネスライクに話を畳んだ方がいい。士郎の提案に橙子は乗り、商談は成立した。幾日かをかけて、器の作成から魂を移す工程を終えると士郎達は橙子と別れる。
 イリヤはその全てを見届けていた。弟の我が儘は――イリヤに生きて欲しい、というもので。その為に奔走していた労力に報いるには、姉として受け入れるしかないと思ったのだ。

『……我が儘ね。ほんと、勝手なんだから』

 人並みの寿命を、新しい体ごと手に入れたイリヤは微笑んだ。彼女の起源は「聖杯」である。そして魔術回路は魂に根差したもの。別の器であっても、イリヤの性能はさして劣化する事はなかった。
 寧ろ健全な肉体を得て、肉体の成長という機能を得られたのだから、プラスにしかならない。アインツベルンの秘法が外部に漏洩しても、イリヤは拘るつもりはなくなっていた。

『ねえ、シロウ。貴方の旅は終わったの?』
『……いや。今度は桜だ』
『だと思った。というか知ってたのね? 他にも色々とやるんでしょうけど――ちゃんと帰って来なさい。シロウの家に。そこでわたしは、ずっと待ってるから』

 イリヤを冬木に送り届けた士郎は、その日の内に日本を発った。
 今度は桜の番だ、と言ったが。それだけではない。冬木には居られない、居たくないという気持ちが強かったのだ。何故なら――何故なら……? やらねばならない事がある、気がしていた。だから士郎は一心に活動する。自分が自分ではないような違和感が拭えないから。自分にしか出来ない事をして、自分の自我を証明したかったから。
 自分の為に。そう、士郎は自己満足の為に、目に映る人々の不幸を絶やさんとした。傲慢にも走り始めようとしていた。

 しかしその前にやる事がある。士郎はイリヤの体を運んだ。イリヤの魂の入っていない、本当の意味での器を。

 それをアインツベルンの本拠地、冬の城へと持ち運んだ。当然、侵入はしない。出来ない。仮に打ち入れば生きては帰れないだろう。その雪に阻まれた森の前で、だから叫んだ。
 イリヤスフィールが死んだ、と。故にその亡骸を返却しに来たと。衛宮とアインツベルンの縁はこれで完全に切れた、と。
 冠位魔術師、最高位の人形師である蒼崎橙子の作品は、完璧にイリヤの肉体を模倣していた。アインツベルンですら、それをイリヤの骸と誤認するだろう。
 これで、因縁は終わった。かかわり合いのなくなった衛宮の事など、ホムンクルスであるアインツベルンの一族が気に掛ける事はあるまい。
 来たる第六次聖杯戦争まで、アインツベルンは冬木の地を捜査する事もない。そういったプログラムを持っていない。故にイリヤが冬木にいても気づく事は決してないだろう。無論、次の聖杯戦争までに――アインツベルンを野放しにするつもりはなかったが。否、聖杯戦争を続けさせるつもりはないと言った方が正確か。

 士郎は中東へ向かった。何も紛争に介入し、最小の犠牲で事を治めようだとか、出過ぎた事を考えての事ではない。死が常態となった所には、常に貧困と――死を食い物にする外道が存在する事を知っていたのだ。間桐の翁に有効な礼装、霊薬や霊器を所有している可能性もある。
 何故知っているのか、そこに疑問はない。頭に埋め込まれたように識っていたのだ。それを違和感として感じられない状態だった。
 蛇の道は蛇と云う。武器商人に接触し銃器を一通り揃える。取り扱い、整備の仕方も知識にあった。士郎は神秘の秘匿に関しては人一倍気を付けるつもりでいる。特に己の魔術は異能のそれ、知られれば封印指定されるのは明白だ。故に武装の類いは基本、銃火器とナイフなどで賄うつもりでいる。

 死を食い物にする輩を討ち、その研究成果を奪う。士郎に不要な物は全て時計塔に二束三文で売り払う。そうするつもりでいて、しかし真っ先に士郎の目に入ったのは――『悪』ではなかった。

 身も心も痩せ細った人間だ。病に侵された者、餓えに苦しむ者、学を志しても何も成せぬ者。それこそ、日本のテレビにも写っていた――ありふれた、等身大の人々だった。
 士郎は恥じた。悪を、汚れを許せないと、人を救わねばならないと義務感だけでやって来た己を自覚し恥じ入った。
 成すべきは悪を滅ぼす事ではない、外道を排除する事でもない。こういった人達に救いの手を差し伸べる事ではないのか? 体の飢えを満たし、貧しい心を育ませる事。それを第一とすべきで、人々の悲劇に寄生する悪しき魔術師の排除は二の次、三の次だろう。

 それはあらゆる罪よりも強大な敵との戦いだ。

 どうすればいいのか、皆目見当もつかない。故に全ては手探りだった。
 衛宮士郎の名前を使う気はない。フジマルという偽名を名乗り、紛争跡地の復興に努める。募金を募り、人を集め、食事の配給をする。自分なりに考え計算していた物資は瞬く間になくなった。
 食べ物を前に人々が暴徒と化し、無関係な人達を混乱させてしまった事がある。銃やナイフを突きつけられ、所持しているものを脅し取ろうとする者もいた。利権に絡むからやめろと、暴利を貪る者や、勝手をするなら賄賂を寄越せと軍の人間が絡んでくる事もあった。凡そ想像しうる限りの困難が士郎を襲った。
 直接的な命の危険は、どうとでもなった。戦闘技術で、国軍の軍人を相手にしても遅れを取りはしない。身体能力を強化し、必要な火器を投影して戦う士郎は、たとえ手ぶらであっても常に武装しているに等しい。狙撃されるかもしれない箇所には、そもそも近づかないか、狙撃地点となる場には常に細心の注意を払った。毒殺などの暗殺の危機も、事前に察知する術がある。

 故に士郎が最も悩んだのは、彼が庇護しようとする人々が巻き込まれた時だ。

 何度無辜の人を人質に取られたか。捕まり、拷問されたか。殺されそうになったか。その度に、なんで俺はこんな馬鹿な事をしてるんだと、自嘲した。でも止める事は出来なかった。
 逃れ、脱出し、自身を捕らえた者とも辛抱強く交渉した。しかし話にもならない。聞く耳を持たれない。――殺すと脅し、身内を襲うと威圧し、汚い手を何度も使って、己が薄汚れた大人になっていく実感に吐き気を催しながらも、その地域での活動を黙認させるに至るのに一年もの月日を要した。
 蓄えてきた知識を使い、自身で難民の人々が住める家を設計し、建築した。それを手伝ってくれる人々がいた。士郎の行いに恩義を感じてくれた人達だ。また士郎を手伝う事は、自分達の利にもなるという打算もあった。

 士郎は良心の呵責もなく、国家元首を脅すようになっていた。

 特殊部隊に襲われるのも日常茶飯事で。彼らを殺さずに制圧するのは困難で。逃走し、隠れ、狙撃で一方的に殺戮する。無用に命を潰えさせる事を嫌悪した。彼らに命令を出す立場の人間の居場所を探し出して、それを狙撃する事も何度かあったのだ。
 次第に士郎の存在は、彼らにとって看過できない大きな物となっていく。国を脅す個人――情報を操作して彼を悪人に仕立て上げようとしても、その動きを読んでいたように銃弾が襲う事が繰り返されれば、その動きも止まった。

 血に染まった手が、弱き人を救う。正義の味方だと子供に名乗る。なんて事だ、偽善どころではない。穢らわしく、悍ましい所業ではないか。こんな事をしてなんになる? もう充分ではないのか? そもそも彼らを助ける義理はない。
 だが、彼らの営みを豊かにする働きは、士郎の生きた証となる。曖昧な自我、蒙昧な自己を保証できる存在となる。俺はアーチャーじゃない、あんなふうには決してなれないと士郎は思う。自分なりに活動する事で、士郎は己という存在を自分で認められるようになっていく。

 それが全てだ。それだけが全てだ。士郎は自嘲する。人の幸福が自分の助けになるのだ。ぐちぐちと迷う事は、ない。

 国連にかねてより申請していたボランティア団体の設立案が通った。世論を味方につける為に、辛抱強く色んな国の取材も受けてきた苦労が実を結んだのだ。
 代表は自分ではない。士郎がこの地に来て以来意志を同じくしてくれていた、気立てのいい女性に代表を務めてもらったのだ。この地に根を張るつもりなどないのだから、地元の人間に務めてもらった方がいい……その意を汲んでもらったのである。
 教員を募った。食糧・衣類・文房具などの物資を手配するコネや金を、ここ数年で覚えてしまった忌々しい手段で獲得していた士郎は、それらが私欲で国に横領される事を抑止すべく――またしても脅迫した。

 自分はこの国を離れるが。もし何かあれば必ず戻ってきてお前達を皆殺しにする、と。

 士郎は口では己を正義の味方と云う。前途ある子供達に綺麗事を語る。しかし二十三歳になった士郎の胸中には、それとは真逆の思いがあった。
 やはり己は正義の味方などではない。こんな外道畜生が正義などであるものか。俺は決して、あの赤い外套の弓兵のようには成れない――凪いだ湖面のように平たい絶望が心を蝕んでいた。
 何人殺したのか、士郎は覚えていない。悪人ばかりだった、悪人に使われる兵士だった。しかしだからと言って殺してもいい理由にはならない。士郎はそう思っていた。己の偽善のために、人を殺して、脅して、奪った。その犠牲の上に様々な善を敷いた。――まさに偽善者だった。性質の悪い事に、この偽善は悉く己のエゴから生じたものなのである。そして後悔がまるでないと来た。

「……」

 アーチャーは腕を組み、痛みを堪えるように目を瞑る。切嗣は赤いフードの下で、静かにその足跡を見届ける。

 士郎が後に残したのは、食糧の配給、建築学、団体の維持の方法や外部組織との交渉のノウハウだ。立ち去る間際、士郎の設立した団体の代表を務める事となる女性は士郎に縋りついた。あなたを愛しています、と。滴を眦から滲ませ、微笑む女性は美しかった。

「……」

 アーチャーはこめかみを揉み、脂汗を額に浮かばせて目を背ける。切嗣はソッと目を逸らした。

「あなた? どうかしたのかしら」

 鋭敏に切嗣の気配の変化にアイリスフィールが気づく。しかし切嗣は、頑として口を開く事はなかった。

 視点が暗転する。場面は空港だった。士郎はその地を離れるのである。そして士郎はヨーロッパに飛んだ。
 特にこれといって目的があった訳ではない、ちょっとした療養の為だった。自然豊かな土地で、これまでの疲れを癒すつもりでいた。
 それが転機だった。士郎の戦いが、常識の世界から、非常識の世界へと反転する、ターニング・ポイント――

『しーろーうーさんっ! 遊んで! 構って!』

 後ろから駆け寄ってきた幼い少女が、満面の笑みで士郎の腰に抱きついた。士郎は苦笑して、その娘の頭を撫でる。何故か、どこに行っても子供に好かれていたから、こうした事にも慣れたものだった。
 そしてその少女は士郎同様、旅行に来ていた日本人一家の一人娘であり。

 彼女は名を、岸波白野と云った。






 
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