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緑の楽園

作者:どっぐす
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第一章
  第1話 違和感

 ……。

「ん……」

 目を開けると曇天の空が見えた。自分は仰向けの状態らしい。
 気を失っていたのだろう。

「うっ」

 体を起こそうとしたが、全身に痛みが不意打ちで走り、失敗した。
 だが、痛いということは一応生きているということだ。よかった。

 そのまま体を回転させ、横向きになる。
 地面は硬くなく、フカフカという感覚があった。
 左手を見る。

「――!」

 リードは相変わらず巻かれていた。だが、その先が千切れていた。
 厳重なぐるぐる巻きだったせいで、手からリードが離れなかったのだ。
 結果クロも巻き添えになり、一緒に落ちてしまったのだと思う。
 その途中でどこかに引っかかって千切れたのだろう。

 とりあえず、ここで寝ているままでよいはずがない。
 そう思った俺は一度うつ伏せになり、痛みをこらえて何とか立ち上がった。

 地面を見ると、かなり厚く積もった落ち葉。
 この天然のマットに救われたということだろう。

 周囲を見回した。
 目の前には渓流。
 そして、背後には今落ちてきたであろう崖。高さは二十メートルくらいか。

 その急斜面を見上げ、良く助かったなと思う一方、強い違和感を感じた。
 斜面が、植物によって緑や赤、黄などに薄く染められているのだ。

 記憶が確かならば、俺は崖の崩落に巻き込まれて落ちたはずだ。
 なのに、この急斜面には草や木が生えている。崖下も落ち葉が厚く積もっているだけで、瓦礫はほとんどなかった。

 そんなに大きく崩れたわけではなかったということだろうか?

 クロは……見える範囲にはいないようだが……。
 犬が高い所から落ちて大丈夫な生き物とは聞いたことがない。だが、現に俺も打撲程度で済んでいる。生きている可能性があるかもしれない。

 まずはクロを探して、それから元の場所へ帰る道を……いや、その前に電話で家族に連絡だ。
 時間がどれくらい経っているのかは不明だが、心配しているかもしれない。

 「……!」

 スマートフォンはポケットに入ったままになっていたが、取り出してボタンを押しても電源が入らなかった。画面も割れている。
 壊れたようだ……。



 家族への連絡を諦めた俺は、まずクロを探すことにした。
 体中が痛いが、我慢して川沿いを歩く。

 崖はそんなに長く続いてはいなかった。
 しばらく歩くと、斜面の角度は徐々になだらかになっていった。

 クロはやはり見える範囲にはいない。だが、流れの速いこの川を自力で渡るとも思えない。
 俺は意を決して、右斜面の森の中に入ってみることにした。

 こんな探し方で見つかるかどうかはわからない。
 しばらく探して見つからなかった場合は、斜面をそのまま登り、バーベキュー場に戻って家族と合流してから対策を練ろうと思う。



 突入した森の中は、実際に歩いてみると鬱蒼と茂る樹木で暗く、勾配も想像以上にきつかった。
 足元もフカフカしており踏ん張れず、痛む体にはこたえる。

「おーい! クロ! いないのか!」

 家でもクロを呼ぶことは今までほとんどなかったので、聞こえていても反応するのかという不安はあるが。
 他に方法もないので、クロの名を叫びながらしばらく探した。
 だが、見つからなかった。

 時刻を知る手段がないため正確にはわからないが、一時間以上は探しただろう。
 どこに行ってしまったのか。

 ――仕方ない。家族と合流してからクロを捜索しよう。

 俺は捜索をいったん中止して、森の斜面を上に登ることにした。
 上にずっと行けば散歩していた元の道に出られるはずだ。

 しばらく登っていると、上の道に出た。
 が、おかしい。

 ここはクロと散歩していた道の延長であるはず。
 だが、記憶の中にあるその道よりも、谷と反対側の林が茂って鬱蒼としすぎている。
 それに、道幅が明らかに狭く、そしてかなり荒れている。

 ――ここ、どこだよ……。

 明らかにおかしかった。記憶とつながらない。
 嫌な予感がするが、ここだけでは判断出来ないので、ひとまず歩くしかない。
 俺はとりあえず、バーベキュー場が存在するであろう方向に進むことにした。

 ――はあ……とんでもないことになった。今日は厄日か。

 ため息をつきながら、歩き出す。



 しばらく歩いたが、体は全身悲鳴状態だ。
 だんだん足が思うように動かなくなってきた。

 中学、高校と剣道部に所属しており、大学でも週三日のサークルで続けていた。なので、体の頑丈さには割と自信があった。
 それでもさすがにきつい。

 上を見上げると、雲がかなり厚い。一雨あってもおかしくなさそうだ。
 日も少し落ちてきているのか、薄暗くなってきている。

 ――これは急いで家族と合流しなければ。

 そう思ったとき、少し先の左側の木から、巨大な黒い塊が出てきた。

「……え?」

 二メートル近くあるだろうかと思われる巨体。
 全身を覆う黒い毛、太い四本の足。

 今まで一度も見たことはないが、おそらく間違いはない。
 これはクマだ。

 ゆっくりと、近づいてくる。

 に、逃げなければ。
 そう思って足を動かそうとしたのだが、足が震えてうまく動かせない。

 ドスン。

 尻餅を付いてしまったが、そんな場合ではない。
 早く起き上がって、回れ右して逃げなければならない。
 動け。早く。

 しかし体は動かなかった。
 もう逃げられない。射程範囲内だ。
 迫ってくる。大きい。

 食われる――。



 ドン――!



 横から白い塊が飛んできて、クマにぶつかった。
 クマが一瞬怯む。

 白い塊は着地後、少し離れてクマに向き直る。

 飛んできた白い塊は……犬だった。
 そして首には、見覚えのある首輪。

「く、クロ……」

 その犬は、クロだった。
 そのままじっとクマを睨み付けている。

 しばらく睨み合いが続く。

 そしてクマが視線を外した。
 そのまま、木が生い茂る森のほうに帰っていく。

 ……た、助かったのか?

 クロが放心状態の俺のほうに向く。
 そして――。

「リク、大丈夫か」
「うわあああああっ!」
「怪我はないか」
「く、来るな!」

 そのあまりの現実離れした出来事に、俺は尻を落としたまま後ずさっていた。

「どうした」
「な、なんで喋ってるんだ!」
「私は前から喋っている」
「そうじゃない! なんでお前のしゃべっていることが俺に通じるんだ! おかしいだろ!」

「なぜ今まで通じなかったのだ?」
「……」
「オトウサン、ヨシコ、チカコには通じていた」
「それは! いつもお前の面倒を見ていたから大体わかっていただけだろ! 喋っていたことがそのまま通じていたわけじゃない!」

 オトウサンというのは父の一郎のことだろう。良子は母、千佳子は姉だ。
 俺以外の家族は、いつもクロの世話をしていた。大体何を考えているのかはわかっていたと思う。
 しかし、決して人間同士のように会話が通じていたわけではない。

 どうなっている。

 動悸が激しい。呼吸が苦しい。
 落ち着け……。

 ……そうだ。家族といえば。
 クロがここに現れたということは、家族と一度合流したのだろうか。

 聞いてみたほうがよいのか?

 正直、今のクロを目の前にして、合流できた安堵よりも恐怖が圧倒的に上回っている。
 が、ここはまず、状況を確認して次の行動に移るべきだろう。
 少なくとも、この場で尻餅を付いたままでは何も進まない。それだけは確かだ。

 深呼吸。

 ……よし。

「えっと。クロ?」
「何だ」

 ……やっぱり喋っている。
 日本語ではないと思う。しかしこちらには日本語で伝わる。
 気持ちが悪い。

「今までどこに行ってたんだ?」
「他の家族を探していた」

 クロも一緒の場所に落ちたが、俺が起きないので家族を呼びに行ってくれたということか。

「探していたということは、会えたのか?」
「いなかった」
「いなかった……? 詳しく聞かせてくれ」

 崖崩れの後から今までのことを、最初から詳しく話すように促した。



***



 クロから話を聞き出すのは難航した。

 こちらが少し遠回しな言い方をすると、「意味がわからない」と言われた。
 質問への回答もワンフレーズに毛が生えたような感じで、なかなか話が進まない。
 脳が完全に人間と同じ仕組みになった訳ではないということなのだろう。

 なんとか粘り強く聞きだした情報は、こんな感じだ。



 やはり、クロも崖崩れの時に俺と一緒に落ちたらしい。
 気が付いたら崖下であり、俺が横で気絶していて、吠えても反応がなかった。
 クロは崖下は安全な場所と判断。ひとまず俺をそのままにして、家族を呼びに行ったそうだ。

 しかし、崖上の景色は落下前に見たものと明らかに異なっており、心配になったクロは再び崖下に戻った。
 だが、俺はすでにいなくなっていた。
 そしてまた探しに崖上に戻ったら、俺がちょうどクマに襲われていた――ということのようだ。



 途中、俺とクロは気づかないうちにすれ違っていたのだ。
 目が覚めてからは、俺はいらんこと動かず、じっとしていたほうがよかったのかもしれない。

 そして、「景色が違う」という見解は俺と一緒だ。
 両者とも勘違いしているということは考えにくい。やはりここが崖落ちする前と異なる場所である可能性が高まった。

 しかし……。
 俺たちが気絶している間に、誰かが違う場所に運び、そこでまた放置、などということがあるのだろうか。

 やはりもう少し確認する必要がある。
 ここがどこなのかを確認し、そして元の場所に復帰できる道を探し、家族との合流を目指すべきだと思う。
 さっき出現したいうことはこの先もクマが出る可能性はあるが、そのリスクはここにいても一緒だ。

「よし。歩くか。本当にここが違う場所なのかもう少し見て確認したい」
「わかった」

 すでにクロは捜索済みであるため、「もう見た」などと言われ反対されるかもしれないと思ったのだが、あっさり了承された。

「あの、リードが切れてもう無いんだけど。つながなくても大丈夫だよな?」
「大丈夫だ」
「首輪はこのままでもいいのか?」
「構わん」

 言い方がきつい。少し怖さを感じた。

 さっきのクマはクロを見て逃げていたが、野生動物の勘で「こいつはヤバい」と思ったのだろう。
 紀州犬は記憶が正しければ狩猟犬。気性はかなり荒いと聞いたことがある。

 機嫌を損ねたら俺も咬まれるような気さえする。
 今は中途半端に言葉が通じてしまうので、余計に不気味だ。



 俺たちは歩き始めた。
 散歩のときと一緒で、俺が一歩先に進み、斜め後ろをクロが付いてくるスタイルで進んでいる。
 クロが前のほうが良いのではないか? と提案したら「お前が前だ」と一蹴された。

 その後は特に会話がない。
 非常に気まずい。

 良く考えてみれば、俺が言いつけを破って散歩を勝手に切り上げなければ、崖から落ちることもなかった。
 やたらワンワン吠えていたのは、クロが崖崩れの前兆を感じ取ってそれを知らせていたのだと思う。
 クロは完全に俺の巻き添えをくらっている。やはりご立腹だったりするのだろうか。

 あまりにも日常とはかけ離れたことが起きていたので忘れていたが、俺は巻き添えにしたことへのお詫びを言っていない。
 しかも、クマの襲撃から助けて貰ったことへのお礼も言っていなかった。
 言葉が通じる以上は言わないとまずいだろう。

「クロ、言い忘れていて申し訳な――」
「下がれ」
「うえぇ?」
「何か近づいてくる」
「……!」

 俺は謝罪すらも許されないのか、と一瞬思ったが、どうやら違うらしい。
 言われたとおりに下がった。代わりにクロが前に出る。

 ――今度はなんだ?

 音は特に聞こえなかったし、もう日がだいぶ傾いてきているせいで視界もよくない。
 そのため、俺には何もわからない。
 犬ゆえに感覚が鋭いであろうクロしか気づけていないのだ。

「気を付けろ」

 いや、俺は人間だぞ……? 相手がさっきのクマみたいな野生動物だったら、何をどう気を付けるんだ。
 心の中でそう突っ込みを入れていると、灰色の塊が木々の間から次々と現れた。

「あれ、犬?」

 現れたのは灰色の犬たち。そこそこ大きい。
 そしてそれらの視線は、鋭くこちらを射抜いていた。

「……って、これ……オオカミ……?」

 いや、確か日本にオオカミはいないはずだ。
 ということは野犬か?
 この表情……俺らを襲う気満々じゃないか……。

 見えているだけで、五~六匹はいるようだ。
 人間の俺は、とてもではないが逃げられないだろう。
 また足が震えてきた。

「く、クロなら話は出来ないのか?」
「……駄目だ。通じない」

 詰んだ。

「来るぞ」

 真正面にいる一匹が、前にいるクロめがけて突っ込んできた。
 そして他の個体も続いて襲い掛かってくる。

 クロが一匹目の首を素早くとらえ、噛みつく。
 そしてすぐに二匹目に体当たりして怯ませ、その反動を利用するかたちで次の敵へと向かう。
 他の個体も次々と襲い掛かってきたが、クロはそのすべての攻撃をひらりと躱し、敵がターンした隙を狙って噛みつき攻撃や体当たりを入れていった。

 クロが予想以上に手強いと見たのか、一度野犬たちが退いた。
 俺たち半円状に取り囲む態勢に戻る。
 これで諦めてくれればという期待を持ったが、やはり甘かった。
 しばらくクロと睨み合いをした後、野犬たちは俺のほうに視線を移した。

 ――ヤバい。

 クロを相手にしていても埒が明かないと判断したのだろう。
 第二波攻撃が来た。クロを素通りして俺に飛びかかろうとしてくる。

 クロがそれを見てすぐに阻止にかかる。
 しかしクロ一匹だけでは野犬全匹を止めることはできない。
 漏れた個体が俺に向けて迫ってくる。

 剣道で竹刀の高速な動きを毎日見ていたので、いちおう野犬の動きは見える。
 見える。
 そう。見えるんだが……。そういう問題ではない。
 恐怖心のせいなのか、足が反応しない。

 首をめがけて飛んできた。
 俺は反射的に、かばうように左腕を出した。
 激痛が走った。

「うああああぁ!」

 振りほどこうとしたが、噛み付いたまま離れない。
 続いて、複数方向から強い衝撃。

「ぐ……」

 景色が回転する。
 クロが何かを叫ぶ声が聞こえる。



 俺の意識は薄れていった。 
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