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カラミティ・ハーツ 心の魔物

作者:流沢藍蓮
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Ep6 悔恨の白い羽根

〈Ep6 悔恨の白い羽根〉

「……帰ってこない」
 フィオルがそっと、つぶやいた。
 あれからもう、三時間が過ぎている。あまりに、遅い。
「気遣いは無用、とか言っておいて……」
フィオルの顔に、心配げな影が宿る。青の瞳に、不安の影がちらついた。
「見に行こうか」
 リクシアが問えば、「一緒に行く」とフィオルが返す。
 戦闘は終わったはずなのに、帰ってこないアーヴェイ。
 あんな、あんな強そうな人が帰ってこないなんておかしいとリクシアは思う。出会ってからまだあまり時は経っていないけれど、リクシアは彼の姿に、態度に、歴戦の戦士のような何かを感じていたのだった。
 そんな彼が、三時間も帰ってこない。三時間もあれば戦闘なんて決着がつくだろう。戦闘というのはそこまで時間がかからない。つまり、何かあったに違いない。
「……無事で、いて。お願い」
 リクシアもフィオルも祈るように呟き、元来た道を走りだす。

   ◆

 彼は切り立った道に仰向けに倒れていた。
 彼の腹からはどす黒い血が流れ、
 その身体は、異形と化していた。
「兄さん!」
 駆け寄ったフィオル。アーヴェイの胸は弱々しいながらも上下している。大丈夫だ、まだ生きているとリクシアは安堵の息をついた、
 が。
 彼女は横たわるアーヴェイを見て、凍りついたように固まった。そんな彼女を、フィオルの緊迫した声が叩く。
「リクシア、至急町に行って薬を持ってきて。血止めの強力なやつ! 早く!」
 しかしリクシアは、動けなかった。
 横たわるのは、異形の悪魔。アーヴェイじゃない。そうは見えない。なのにフィオルはそれを「兄さん」と呼ぶ。
 リクシアはわからなかった。

――この人は、だれ?

 そんなリクシアにフィオルが叫ぶ。
「リクシア! 何呆けてんのさ! アーヴェイが死んじゃう! 早く助けて!」
 アーヴェイ。悪魔。目の前に倒れて。血を流して。
「……そっか」
 リクシアの中でつながる物語。
「……そっか、アーヴェイは悪魔だったんだ」
 どこか悪魔っぽい見た目だったけど、本当に悪魔だったんだ――。
 それを知られたくないから、私たちを逃がしたんだ。フィオルの言った「アレ」とは、これのことだったのか。
 真実を知って、リクシアは呆然と固まったまま動けなくなった。
 悪魔。この世界にいる異形の一族。悪魔は黒い身体に赤い目を持ち、その心は悪意と嗜虐心と衝動に満ちているという。その背には蝙蝠(こうもり)のような漆黒の翼が生え、禍々しい尻尾を持つという。
 悪魔とは、魔物と同じように人を害する邪悪な存在。ゆえに忌み嫌われ、遠ざけられるべき定めの一族。誰が最初に彼らを迫害したのかはわからないけれど。悪魔とは、悪魔というのは、そんな一族なのだ。悪魔に対する差別意識は、この世界のどこに行っても同じだ。
 アーヴェイが、悪魔。リクシアが助け、興味から旅への同行を申し出たアーヴェイが、悪魔。忌み嫌われる禍々しい邪悪、悪意の塊で優しさなんて欠片も存在しない。
――アーヴェイが、悪魔。
 リクシアは動けなかった。そうこうしている内に、アーヴェイの身体からはどんどん血が失われていく。それでもリクシアは動けなかった。仲間だと思っていたのに、裏切られたような気がして。リクシアは凍りつくことしかできなかった。
 フィオルが悲鳴を上げる。
「リクシア――!」

「無駄だ。こいつは仲間じゃない」

 と、不意に、そんな冷たい声がした。
 倒れた悪魔――アーヴェイが、冷たい目で彼女を見ていた。先程までリクシアに見せていた、興味に満ちた、どこか面白がるような目ではなくて、まるで物でも見るかのような、どこまでも冷たく凍てついた瞳。
 地獄の底のように冷え切った声が、その喉から発せられる。
「人間はみんなそうだ……。悪魔だと分かった時点で、助けることを放棄する……」
 リクシアは、呆然と呟く。
「……違う」
 するとアーヴェイの目に、冷え切り凍えきった赤の瞳に、嘲るような色が浮かんだ。
「どこが違う? 貴様は……倒れたオレを、見ても……薬一つ、取りに行こう、とは、しなかった……。それを、貴様、が……悪魔に対し、て、含みが……あると、言って……おかしい、か……?」
「違う!」
 リクシアは、全力でそれを否定しようとした。しかし心の奥底には、悪魔を恐れ、蔑む気持ちもあるにはあった。アーヴェイのその言葉を否定しきれない自分がいるということに、染みついた、悪魔への差別意識があるということにリクシアは気づいた。――気づいてしまった。
 リクシアは死に瀕した仲間を前にして動けなかったのだ。仲間が悪魔だと分かった瞬間に、子追い付いたように動けなくなった。助けなければならないのに、動くことすらできなかった。相手が悪魔だとわかったから!
 助けなければならないのに、助けられなかった。助けたかったのに、心のどこかがそれを拒否した。その結果「仲間じゃない」と言われるのは当然のことだろう。当然のこと、これは当然のことだ。わかっているのにどうしてだろう、リクシアの目から涙があふれた。
――アーヴェイは、仲間なのに。
 悪魔だというだけで、動きが止まった。
「それが貴様の答えだ……」
 悪魔のような、否、悪魔の緋(あか)い、地獄の瞳で睨みつけてきた漆黒の邪悪。
 喉が、乾く。眩暈が、する。たまらずリクシアは思わず大地に膝をつく。
 そんな彼女に一切構わず、凍えきった声が真実を暴く。
「だからお前は……」
リクシアは耳を塞いで、違う違うとひたすらに首を振った。駄目、言わないで。聞きたくないの。そんなこと、そんな台詞。聞きたくないの! リクシアの心は叫んだけれど。
 耳を塞いで目を閉じても、心に届いた低い声。

「――最初から、仲間じゃなかった」

「嫌ぁぁぁぁあああああああッッッ!」
リクシアの中で、感情が爆発した。
 信じてた、信じてたのに。仲間だと、大切な仲間だと! 初めて出逢った昨日から。やっと仲間ができた、そう思った彼女は嬉しかった。そう、思っていたのに。蓋を開けてみれば、正体が悪魔だったというだけで動けなかった自分がいた。仲間を見捨てた自分がいた。
 だから捨てられるんだ、とリクシアは理解した。ほんとうの、仲間じゃないから……。
 リクシアの心を絶望が支配する。彼女は、叫んだ。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああ――!」
 絶望に打ちひしがれ、リクシアの心に魔物が生まれる。人は心を闇に食われたら、魔物になる。その原因は、いたるところに転がっている。リクシアの心を急激に冒していく絶望。それは次第に大きく――。
――ならなかった。

 なる寸前で、声がした。
 今は魔物になり果てた兄の、リュクシオン・エルフェゴールの、
「自分を見失わないで」そんな、声が。
 それは彼の口癖だった。

 光が、はじけた。
 数瞬後には、リクシアは元のリクシアになっていた。
 そして、己の犯した過ちを知った。残酷なほどに明確に、意識した。
 彼女が「助けない」選択をしてしまったことで、仲間になってくれると申し出てくれた人を傷つけたという事実は消えない。立場に惑い、仲間を救おうともしなかった事実は、消えない。
 だから。
「……わかったわ」
 リクシアは小さく呟いた。
「私はまだ甘い。だから、あなたたちとは一緒にいないほうがいいかもしれない」
 そして精一杯、頭を下げた。
「――ごめんなさい」
 その謝罪を聞いて、フィオルが柔らかく微笑んだ。
「謝罪は受け取っておく。でもこの事実は、消えないから。リクシア、あなたは会ったばかりの人の誠意を、粉々にしたんだよ」
リクシアは涙を流しながらも頷いた。
「わかっているわ。だからもう、別れることにする」
 最善の選択なんて、わからない。それでもこうなってしまった以上、もう一緒にはいられないのだろうとリクシアは思った。
 それは決定的な、断絶。
 自分の過ちを素直に認めたリクシアに、フィオルは一つ、問い掛ける。
「本当に短い間だけれど、僕たちと出会えてよかったって、思ってる?」
そんなフィオルに、泣き笑いのような表情を浮かべながらもリクシアは返した。
「あなたたちとの出会いは、一生の宝物よ」
 そっか、とフィオルは頷いた。
「なら、別れもいい別れにしよう。僕らはフロイラインを目指す。でも、君は進路を変えてね」
「ええ」
 その答えを聞いたフィオルの背から、純白の翼が生えた。リクシアは驚きの声を上げる。
「え? ……ええっ!?」
 真白な髪に青い瞳、背中から生えた純白の翼。
 フィオルは天使だった。
 悪魔とは違って人々から崇められ、神の使いともてはやされる、悪魔とは対極に位置する聖なる一族。天から来た、神の使い、救いの使徒、天使。
 フィオルは、天使だったのだ。
「こんな姿にならないと、もうアーヴェイは治せないからね……。餞別に、あげるよ、リクシア」
 言ってフィオルはその背から、純白の羽根を一枚抜き取りリクシアに渡す。
「ここで僕らの道は分かれるけれど、お幸せに、リクシア。大召喚師の妹さん。僕らはもうその先を見ない。あなたが夢物語を現実にできるのかはわからないけれど、まぁそんな人がいたということだけは、記憶の片隅に留めておくよ」
 それは別れの言葉だった。
 リクシアは羽根を受けとり、しかと前を見据えて言った。
「……さようなら。楽しかったわ」
 リクシアは、来た道をまた、戻っていく。彼女は振り返らなかった。
 その手には、悔恨の白い羽。
「フィオル……アーヴェイ……」
 いくら後悔したところで、失われた絆は戻らない。
「ありがとう……」
 重い気持ちを抱えながらも、リクシアは宿へと戻る。 
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