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聞いた話

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第一章

                聞いた話 
 昭和二十年八月八日ソ連軍は日ソ中立条約を破棄し満州そして朝鮮半島に攻め込んだ。主な戦力を太平洋に向けていた日本軍にソ連軍を止める力はなかった。
 満州と朝鮮半島を守っていた関東軍は総崩れになりこうした地域に移住していた日本人達の犠牲は筆舌に尽くし難いものだった。
 捕虜になった将兵達はシベリアに抑留されその数はおよそ六十万に及んだ。その中に水野義直の姿もあった。
 水野は中学を出た後明治大学に進み応援団で六大野球をよく応援していた、この時に相手の一つ慶応の水原を見てだった。彼はよくこう言っていた。
「あいつはいい男だな」
「慶応の水原か」
「確かにな」
「あいつは恰好いいな」
「何をやっても絵になる」
「様になる男だな」
 水野の周りの者達も水原、グラウンドの彼を見て頷いた。
「三塁で守っていても打席に立ってもな」
「ベンチにいるだけで絵になるな」
「早稲田の三原とかなり激しくやり合ってるが」
「恰好良さならあいつだな」
「水原の方が上だな」
「そうだろ、あいつを観てるとな」
 水野はその四角く厳めしい、岩石の様な顔で言った。明大の応援団の中で最も身体が大きく逞しい。応援団の学ランがよく似合っている。
「敵でもな」
「応援したくなるな」
「どうもな」
「観ていると」
「そうだな」
「ああした男が味方にいるとな」
 そう思うとだった。
「いいな」
「ああ、慶応の奴が羨ましいな」
「水原のことについてはな」
「慶応もいい奴いるな」
「水原がな」
「絶対に大物になるな」
 水野は水原についてこうも言った。
「あいつはな」
「大学を出てもか」
「それからさらに大物になるか」
「帝大を出た連中みたいに」
「そうなるか」
「でかい会社の社長か何かだな」
 博士か大臣は帝大なのでそれは言わなかった。
「そうなるな」
「そうだろうな、ああした奴はな」
「絶対に凄い奴になるな」
「器が違うからな」
「観ているだけで」
 そこにいるだけで、何をしても絵になる男だからだ。水野も彼の周りの者達も思った。そうして水野は明大からある会社に入って働き水原は巨人に入ってだった。
 早速人気選手となった、しかし世相は戦争に向かっており。
 水野は出征し水原のことは頭からなくなった、そして関東軍に配備されそこで捕虜になりシベリアに抑留されてしまったのだ。
 シベリアは噂に違わず寒くしかも労働は過酷だった、彼と共にいた者達も次から次に倒れていった、だが彼は頑健な身体が幸いしてだった。
 生きていた、しかし生きる望みはというと。
「日本も負けたしな」
「ですよね」
「それで俺達は今やこの様ですよ」
「シベリアでアカ共にこき使われている」
「それだけですね」
「難儀なものですよ」
「ああ、このまま生きていてもな」
 本当にと言うのだった、彼の部下だった者達に。彼は大学を出ていたので士官に任官されていたので部下もいたのだ。
「ずっとな」
「ここにいるんですかね」
「もうそれこそ死ぬまで」
「アカ共に働かされて」
「戦友達の後を追うんですかね」
「どうせなら戦場で死にたかったな」
 水野は苦い顔で言った、その日の労働が終わって中に入れられた粗末な収容所の中で。 
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