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ルヴァフォース・エトランゼ 魔術の国の異邦人

作者:織部
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生存戦 4

 
前書き
 今回はジャイル主役回。 

 
「助けて! だれか助けて! だれかーッ!」

 夕焼けの色を映して血のような色をした沼のなか、必死でもがいている娘がいた。
 ほっそりとした腕をばたつかせ、水面をかき乱している。
 濡れた黒髪が黄昏の光を反射する。一六歳ほどの美しい少女だが、学院の生徒ではなかった。

「いったいだれ? 近くの村の子かしら」
「そんなことより早く助けないと! ……あ、蛇だ! 蛇がいるぞ!」

 ルネリリオが少女のほうを指差して叫んだ。少女の周囲の水面に大きな蛇の頭部が浮き沈みし、ちらちらと見え隠れしている。
 やがて一匹の蛇が少女のか細い首にするりと巻きつき、ぐいぐいと絞めあげはじめた。少女のけたたましい悲鳴が苦しげなあえぎに変わる。

「《雷精の》――ああ、くそっ」

 距離があるため【ショック・ボルト】の狙いがさだまらない。クライスもハインケルも魔術射撃の腕にはそれなりに自信があるであるが、失敗はゆるされないのだ。

「よし、待ってろ! 《優雅なる水鳥・湖上の舞踊家よ・その軽やかな魂を我が脚に宿せ》」

 ルネリリオが【ウォーター・ウォーキング】を唱えると、沼の上を駆け出した。ベニアーノもおなじ呪文を唱えて沼の上を走る。至近距離から少女を締めあげる蛇を攻撃するつもりだ。

「《優雅なる水鳥・湖上の舞踊家よ・その軽やかな魂を我が脚に宿せ》」

 クライスも【ウォーター・ウォーキング】を唱えてふたりの後に続こうとした時、異変が起こった。
 ルネリリオが短い悲鳴をあげて急に水中に沈んだのだ。【ウォーター・ウォーキング】がかかっていたにもかかわらず。
 続いてベニアーノも。
 少女の周囲の水が激しく波立つ。水面下でルネリリオとベニアーノがもがいているのだ。蛇は一匹だけではないらしく、長くうねる尻尾が何本も空中高く伸び上がり、水しぶきを 四方にはね散らした。
 少女は、もう苦しんでも溺れてもいなかった。
 奇怪な混乱のなかで、その中心にいる少女だけが静かだった。
 胸から上だけを水面に出して蛇を首のあたりにまとわりつかせたまま、にこにこと笑みを浮かべていた。

「その女はヤバい、水からはなれろっ!」

 ジャイルが大声をあげた瞬間、
 水際にいたクライスの目の前に真っ赤なかたまりが浮上した。血まみれになったベニアーノの顔だった。

「うわああああああアアアッ!?」

 クライスはたまらず悲鳴をあげた。
 ベニアーノの全身が水面上に現れた。何本もの蛇の尾に巻つかれており、ゆっくりと空中に持ち上げられる。手足奇妙な角度で垂れ下がり、その腹はずたずたに食い破られていた。
 続いてルネリリオが浮かび上がる。尾に巻きつかれて身動きが取れないところを、無数の蛇に噛みつかれて喉を裂かれた。おびただしい血が水面を染める。夕焼けの赤よりも鮮やかな、血の色に。

「ぼけっとするな!」

 ジャイルの一喝に水から離れようとするクライスだったが、その動きは遅々としたものだった。足が、動かない。腰から下に力が入らない。
 まるで悪夢のなかにいるように、思うように体が動かなかった。
 恐怖に腰が抜けている状態だ。

「なんで逃げようとするの? こっちに来て遊んでよ」

 少女はほっそりとした両のかいなをクライスの背中にさしのべて歌うように口ずさんだ。

「あたしの一番古い大親友、ほの暗い水の精霊たちよ、その子と遊んであげて!」

 水が盛り上がり、クライスを飲み込んだ。水の帳に包まれたまま、沼のなかに沈んでしまった。

「精霊使いか!」

 精霊使い。ルーンとは異なる方法で、己自身の言葉で自然に呼びかけ、世界に干渉する精霊魔術の使い手。遊牧民族シルヴァース一族などは呪歌と舞踏による風霊召喚術で有名だ。

「《雷精の紫電よ》! 《続く第二射(ツヴァイ)》! 《更なる第三射(ドライ)》」

 続けざまの【ショック・ボルト】連唱(ラピッド・ファイア)。まばゆい光の噴流が夕闇を切り裂いて迸った。
 少女の頭部に命中し、光の粒子を撒き散らす。常人ならば間違いなく意識を失うか、最悪ショック死するような打撃だ。
 だが少女は軽く顔をしかめて頭を振るって、髪にまとわりついた雷線のなごりを振り払った。

「それでも魔術のつもり? 魔術とはこうするものよ。――あたしの変わった友だち、熱く燃える火の精霊よ、その子と踊って!」

 焚き火の炎が膨張し、輝きを増したかと思うと、小さな竜の形となってハインケルの体に巻きついた。
 火蜥蜴(サラマンダー)だ。
 少女は火蜥蜴を召喚してけしかけたのだ。
 ハインケル衣服に火がつき、全身が炎に包まれる。
 呪文を唱えるどころではない、声にならない悲鳴をあげて水に転がり込もうとする。

「ダメよ、ハインケル。水に入ったらあの蛇たちに襲われるわよ! 《還れ・在るべき場所へ・契約は棄却されたし》!」

 エナの唱えた【デポート・エレメンタル】によりハインケルに巻きついていた火蜥蜴が精霊界へと強制送還され、身を焦がす火炎から逃れられた。

「水には近づくな。水に入ればあの蛇どもの餌食だ。沼からはなれるんだ」

ジャイルは今にも水に飛び込もうとしたハインケルの肩をつかんで強引に引き戻すと、沼から距離をとるべく駆けた。

「で、でもクライスが水に! ベニアーノとルネリリオもっ」
「……逃げるとは言ってねぇ。陸地から、蛇の牙のとどかない場所から遠距離攻撃でやつをたおすんだ。こっちはまだ三人いるんだぜ」
「……そうだな、三人一組(スリーマンセル)が組める」

 やみくもに逃げるだけでは背後から魔術による不意討ちを受けることになるだろう。
 戦うにせよ逃げるにせよ、一度態勢を立て直して応戦する必要がある。相手に地の利のある水辺からはなれ、こちらは数の優位で立ち向かう。
 突発的な惨事に動揺することなく、そのように考え、行動させたのはジャイルの体に馴染んだケンカ師としての経験のなせる業だ。

「あら、陸の上ならあたしに勝てるとでも?」

 少女の顔に意味ありげな微笑が浮かんだ。その周囲を泳ぎ回っていた蛇たちがいっせいに水面に鎌首を持ち上げた。

「いいわよ、お望みとあれば陸の上で相手してあげる」

 そう言うと少女が岸に寄ってきた。泳いでいる様子ではない。立ったままの姿勢で、腕も動かさすにまっすぐに進んでくる。
 周囲を泳ぐ蛇たちはぴったりと少女に寄り添い、まるで彼女を護衛する兵士のようだった。
 血まみれのベニアーノとルネリリオがその背後に引きずられている。まだ息があるのか、さだかではない。
 先頭の蛇が岸に這い上がり、少女の体が水面から持ち上がった。その全身があらわになる。

「ひっ……!」

 少女と蛇たちは一体だった。
 少女には人のような脚がなく、代わりに六本の長い大蛇の首と、十数本の触手が生えていた。
 イカやタコの吸盤の代わりに鱗が生えたかのような、おぞましくいやらしい触手が。
 いつの間にか太陽は完全に沈み、月が出ていた。その月の光を浴びて妖しく煌めく鱗から水が滴り落ちる。
 無数の触手が絡み合い、うねり、のたうちながら少女の上半身を陸地に押し上げた。
 迎え撃とうと身構えていたハインケルとエナは声にならない悲鳴で喉を詰まらせ、思わず後ずさりした。凄まじい嫌悪感と恐怖に全身に悪寒が走る。
 およそ現実の生き物とは思えない、悪夢のなかにしか存在しない怪物。

「スキュラ!?」

 エナが悲鳴にも似た叫びをあげた。
 スキュラ――。
 上半身は美しい女性だが、下半身からは無数の大蛇の頭と触手を生やした魔獣。水陸両棲で地上でも自由に動き回れるが主に水中を好む。
 性格は邪悪で水面から上半身だけを出して男を誘い、水中に引きずり込んで殺すといわれる。
 また大蛇ではなく犬の頭を生やしたハウンドヘッドと呼ばれる亜種も存在する。

「そうよ。あたしってば有名人?」

 水棲怪物スキュラはにっこりと笑うと、しなやかな触手をたくみにあやつって、ベニアーノとルネリリオの身体を草の上に放り出した。続いてもうひとりを水中から引きずり出して重ねて置いた。クライスだ。
「そんな、どうして!? この魔獣はもっと奥にしか出現しないはずよ!」
「今はそんなことを言っている場合じゃない。現実に遭遇してしまった以上、対処しないと。僕とジャイルで攻めるから、エナは支援を。ジャイルはやつの後方に回れ。挟撃してやる!」

 ジャイルは異を唱えることなく黙ってハインケルの指示にしたがった。その手にはダガーよりも大きな片手半剣(バスタードソード)が握られていた。頑丈そうな拵えの剣は、魔術師らしからぬ筋骨隆々としたジャイルの体格によく似合っていた。
 剣を帯びて生存戦に臨んだのはジャイルくらいだ。この生徒はいざとなれば【ウェポン・エンチャント】した剣で秋芳に挑み、「呪文がかかった剣で攻撃したんだからこれも魔術だ。それに魔術以外では攻撃しないという決まりはそっちだけに適応されているんだろ」と言うつもりだった。

「挟撃、ねぇ……」

 うねる大蛇とのたうつ触手に捕まらないよう、木々の間を迂回してスキュラの背後に回ろうとするジャイルが皮肉げに口を歪めた。
 無数の蛇の頭を生やしたこの怪物に背後などあるのだろうか? 蛇の目にも視覚があるとすれば、スキュラという生物は周囲を同時に見ることができる。

「~~~♪」

 スキュラは楽しそうにハインケルとジャイルを見比べている。どちらを先に殺すのか考えているのかも知れない。触手をくれねらせて、ずるりずるりと移動しつつ蛇の鎌首を空中に踊らせて威嚇している。

「《空気よ変じよ・戒めの楔・見えざる束縛の霧と化せ》」

 エナが【痺霧陣】を唱える。触媒にグールの爪や痺れ茸を使った強力な麻痺の呪文だ。
 スキュラの身体を麻痺の雲が覆う。

「なによ、これ。鼻がツーンとするんですけど」

 【ショック・ボルト】を頭部に数発受けても痛手にならなかった怪物には通用しなかった。
 さすがは魔獣といったところか、魔術に対する抵抗力は極めて高い。

「だったら削り殺してやる《紅蓮の炎陣よ》! 《続く第二陣(ツヴァイ)》! 《更なる第三陣(ドライ)》! 《次なる第四陣(フィーア)》!」
「《大いなる風よ》!」

 【ファイア・ウォール】による炎の障壁を展開しつつ、【ゲイル・ブロウ】による突風で進行を阻む。
 相手が進んでくるのを防ぎつつ、炎によってダメージを与える。効果的な戦術といえた。

「よし、エナ。チェンジだ! 《拒み阻めよ・嵐の壁よ・その下肢に安らぎを》」

 【ストーム・ウォール】。正規の魔術書には記されない、システィーナのオリジナル魔術。先の魔術競技祭でこの呪文に押し負けたハインケルは己を負かした相手のオリジナルスペルを執念で習得し、自身のものとしたのだ。
 よりいっそう足止めに特化した呪文で、相手を釘付けにして焼き殺す。

「オラァ!」

 そこにジャイルが踏み込んだ。
 吹きすさぶ風と燃える炎に巻き込まれないように――それでも多少の巻き添えは覚悟のうえで【ボディ・アップ】を重ねがけしての攻撃だ。
 大蛇の鎌首がひとつ、切り落とされた。

「痛い!」

 ハインケルとエナによる呪文攻撃よりも、こちらのほうがよほど堪えたとみえる。スキュラは悲鳴をあげて苦痛に全身を震わせた。
 すかさず追撃するジャイル。
 数本の触手が壁となって立ちふさがるのを、力任せに斬りつける。
 肉には弾力があり、剣にまとわりつくような感触だ。だがジャイルの剛腕と【ウェポン・エンチャント】によって切れ味を増した剣はやすやすと切り裂いた。

「痛い痛い痛い!」

 別の触手が足をすくおうと、下から這い寄るもジャイルはとっさに飛びのき、剣を振り下ろす。
 巨体に似合わぬ、俊敏な動きだ。
 手応えあり。切断された触手はそれ自体が独立した生き物のように地面の上をのたうち回る。

「ああ、もうっ! マジウザい! あたしの物静かな友だち、ねじれた森の精霊よ、その男を抱きしめてちょうだい!」

 スキュラの呼びかけに応じて木々の枝が、蔦が、草が、ざわりざわりと音を立てはじめた。
 危機を感じたジャイルが飛びのこうとしたが遅かった。数えきれない量の蔦が背後から襲いかかり、手足に絡みついてしまったのだ。
 振りほどこうとするが蔦の強度は高い。
 たちまち縛り上げられて身動きを封じられた。

「お返しよ!」

 触手の一本が鞭のようにしなり、ジャイルの胸を強打した。並の人間ならば肋骨の一、二本は折れていただろうか。生来の頑健さと【ボディ・アップ】による強化が、それを防いでくれた。

「《拒み阻めよ・嵐の壁よ・その下肢に安らぎを》!」
「《紅蓮の炎陣よ》!」

 ジャイルの直接攻撃ほどではないが、ハインケルとエナの呪文攻撃はスキュラの動きを封じ、わずかだが確実にスキュラにダメージを与えている。

「てめぇらもウザいんだよ! あたしの一番好きな大親友、夜と恐怖の精霊よ、あたしの敵はあんたの敵よ!」

 両腕を高く空に掲げ、精霊語で叫ぶとあたりが急速に暗くなった。スキュラを中心に黒い影が広がる。影は濃さを増して津波のようにハインケルとエナ。そしてジャイルの体を覆った。
 漆黒の闇が視界をふさぐ。

「いやあァァァ!?」

 一条の光すら差さない闇のなか、魂さえも凍てつかせるような絶叫が響く。
 完全なる暗闇。それは眠りと恐怖を司る悪夢の精霊ナイトメアの腕のなか。
 人類のもっとも古い感情、恐怖。そのなかでも暗闇に対する本能的な恐怖が心を砕く。
 闇が晴れ、あたりに月の光がもどるとハインケルとエナは白目を剥いて倒れている。
 スキュラはそれを見て満足げな笑みを浮かべていた。

「……それでおしまいか、化け物」

 残ったのは、立っているのはジャイルただひとり。
 乱れた呼吸をととのえつつ、剣を構え直す。

「しぶといのね。でも、足がふらついているわよ、立っているのがやっとって感じ」
「それは、そっちも、おなじじゃ、ねえのかよ」

 精霊魔術もまた魔術のひとつに変わりはない。自然や生命、精神。万物に宿る精霊たちの力を借りて行使するのにもマナを消費する。むしろルーン言語をもちいた魔術よりも荒削りなぶん、消耗が大きい傾向があるとされる。
 マナ・バイオリズムが乱れやすく、短時間に連発すればマナ欠乏症におちいる。
 たとえ相手が魔獣であっても。

「そろそろ打ち止めじゃねえのか」
「ふん、そうでもないわよ。――あたしの小さなお友達、袋を持ったおじいちゃん、この男の目に砂をまいてあげて!」

 急速な睡魔が襲ってきた。みずからの意思とは関係なくまぶたが落ち、頭の中が真っ白になる。意識が混濁し、深い深い眠りの淵へと落ちてゆくのを感じた。永遠に醒めることのない、夢の中へと――。
 ジャイルの上半身は前のめりに倒れ、スキュラの前にひれ伏すような格好になった。

(くそっ……たれ……! またか、また俺は倒れちまうのかよ……)

 身動きできないジャイルの腹に蛇の牙が突き立てられる。普通の蛇のような二本の尖った牙ではなく、鮫の歯のようなぎざぎざした構造になっていた。肉と内臓を食い破りやすいように。

「ぐぅぅぅ……!」

 【ボディ・アップ】がかかっていなかったら、たちまち体内に潜り込まれていたことだろう。
 足元に血溜まりが広がる。

「ふん、男の肉ってきらいよ。固いんだもの」

 大蛇の頭がエマの胸元に伸びて牙を立てた。着衣が紙くずのように破れ、ひかえめな乳房があらわになる。

「女の心臓は好きよ。柔らかくて美味しいの。特にこのくらいの歳の子の肉は大好き!」

 エマの薄い胸板に大蛇の牙が潜り込もうとした、その時。

「うおおおーっ!」

 雄叫びとともに、ジャイルは上体を起こした。

 スキュラがおどろいてエマに伸ばしたら蛇の頭をひっこめる。
 膝をついた姿勢のまま夢中で剣を振るった。

「ギャッ!」

 鎌首のひとつが断ち切られ、生き物のように血が垂れ流れる。

「やらせねぇ、仲間はやらせねえぞ、コラァッ!」

 剣を杖のようにして立ち上がる。急速に睡魔が去り、頭の中を覆っていた影が晴れてゆく。
 意志の力で相手の魔術を打ち破ったことに、心が高揚するのを感じた。
 胆の勝負で、負けてはいない。
 自信と闘志が沸々と湧いてきた。まだ危機は去っていないのに、すでに勝利したような気分だった。

「まだ終わってねえぞ、コラ。もう友達(ダチ)はいないのかよ、呼べるもんなら呼んでみろ。いくらでも相手してやるぜ」
「ひ、ひどい! よくもやったわね!」

スキュラは痛みに涙を流しながら襲いかかってきた。

「あんたなんか魔術を使うまでもないわ、あたし自身の手で殺してやる!」

 無数の触手がジャイルを包み込むように迫るのを、右に左に体をかわし剣を振るい、触手の攻撃を払いのける。
 まるで数人の敵を同時に相手しているようだが、そんなのはストリートで幾度も体験済みだ。
 触手の動きは剣よりもずっと遅い。のたうつような動きにまどわされずに落ち着いて正確に動きを見ればじゅうぶんに対処できた。
 また一本、触手が切り落とされた。他の触手もかなり傷ついている。ジャイルも派手に返り血を浴びてはいたが、最初に受けた腹部以外は無傷だった。
 蛇の頭がなんどもぶつかってきたが、生来の頑強さにくわえて【ボディ・アップ】が防いでくれた。触手に絡みつかれることだけを警戒すればいい。
 肉弾戦なら、負けはしない。
 一瞬、そこに油断が生じた。触手の一本が振り下ろした剣に絡みついたのだ。もぎ離そうとしたが、別の触手が足に絡みついてきた。
 とっさに剣の柄を離して触手を蹴って飛び退いたのは正しい判断だった。
 これが正規の剣術を習った、騎士の戦いしか知らぬ者だったら剣を取り戻すことに固執し、足をすくわれて転倒していただろう。
 ジャイルとスキュラとの間に距離ができた。危機は脱したものの形勢は不利となった。剣なしでは戦えない。ジャイルはハインケルやエマほどには魔術が得意ではないのだ。

「おとなしく死になさいよ、この筋肉小僧!」

 スキュラは触手に深く食い込んでいた剣を地面に振るい落した。下半身はあちこちがズタズタに切り裂かれて血だらけで、その顔は怒りと苦痛に歪み震えていた。

「さあ、かかってきなさい。さっきまでの威勢はどうしたの?」

 スキュラは自分からは動かなかった。
 だが剣のないジャイルも迂闊には動けない。
 無言のにらみ合いが続く。
 夜の森にふたりの乱れた呼吸だけが大きく聞こえる。
 どうする?
 どう動く?
 ジャイルは必死に考えをめぐらせた。逃げるのは問題外だ。仲間を見捨てて逃げるなどはなからジャイルの選択肢にない。そもそもこちらは地面の上しかまともに移動できないのに対し、スキュラは水中を自由に動ける。先回りされて奇襲を受けてしまうだろう。
 ここで、この場で倒すしかない。
 剣さえあればどうにかなりそうだが、愛用の片手半剣は今、スキュラのすぐそばに落ちている。ジャイルはそこまでの距離を目算し、飛びついて拾えるかを考えて、ふと疑問が生じた。

(なんでそこに落とした?)

 少女は怒りに満ちた瞳でこちらを凝視している。が、蛇はどうだ? 少女は剣のほうを見ていないふりをしている。だが蛇の視覚はしっかりと剣を見張っている。

(罠だな、誘っていやがる)

 そう、これは罠だ。
 スキュラはジャイルが剣を拾いに来るのを待っている。剣に飛びついた瞬間を狙って、いっせいに触手で上からつかみかかるつもりなのだろう。
 それでさっきから剣の近くを動こうとしないのだ。

(怪物のくせして考えやがる。……おもしれぇ、それに乗ってやろうじゃねえか)

 ジャイルは深呼吸すると剣に向かって駆け出した。スキュラの表情に勝ち誇った笑みが浮かぶ。ジャイルの突進を受け止めるかのように触手が左右に広がる。
 だがそれこそジャイルの狙っていた一瞬。
 彼は剣の手前で急に方向を変えて地面を蹴って飛び上がった。スキュラは完全に虚を突かれ、その動きに対応できなかった。触手の動きが乱れ、むなしく空を切る。
 ジャイルは巨体に似合わぬ軽捷さを見せて触手を飛び越え、スキュラの上半身に組ついた。おどろいて身をそらそうとする少女の髪の毛を左手でつかみ、引きずり戻すと同時に腰のダガーを抜いて少女のかぼそい首に突き立てた。
 血が噴水のように飛び散り少女の口からくぐもった悲鳴があがる。

(やったか!?)

 だがまだスキュラは生きていた。
 触手がジャイルを包み込み、蛇が噛みついてきた。

「しぶてぇやつだ!」

 ジャイルはダガーをノコギリのように前後に動かし、首を切断したが、スキュラの下半身は別の生き物であるかのように、まだ活発にうごめいている。
 すさまじい生命力だ。
 触手が首や腰に巻きつき、ものすごい力で締め上げてくる。
 蛇の牙が頭に、腕に、胴に、脚に突き立てられる。
 ジャイルの体は怒り狂った怪物の最後の猛攻にさらされた。
 全身から血が流れ、激痛が広がる。
 【ボディ・アップ】の効果が切れたのだ。
 スキュラが絶命するのが先か、ジャイルが力尽きるのが先か――。

「へっ、根競べなら負けないぜ。胆の勝負じゃ、俺はだれにも負けねぇ……」

 ――《慈悲の天使よ・遠き彼の地に・汝の威光を》――

 ジャイルは薄れゆく意識のなかで、だれかの唱える呪文の声を聞いたような気がした。 
 

 
後書き
 今日は『ランペイジ』を観に行く予定。 
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