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Raison d'etre

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一章 救世主
  2話 篠原華

 翌日、優は準に案内されながら、訓練の為に寮棟から離れた施設に向かっていた。
 本部の敷地は山奥にある為か、必要以上に広大だ。一人では目的地まで行けそうになかった為、奈々が準を案内人として起用してくれていた。教育部隊の人間を利用せずに、無関係な準を案内人に起用したのは、交友関係が薄い優に対する配慮だろう。一人でも親密な人間がいれば、人はそれだけで新しい環境に溶け込みやすくなる。
「今日は、何をするんですか?」
 前を歩く準に声を投げかける。
「室内プール使うって言ってたから、着水訓練だろうな」
「……プールですか?」
 優は秋風で乱れる髪を押さえながら、微かに嫌そうな表情を浮かべた。
 その様子を見た準が小さく笑う。
「水温は低いだろうが、戦闘服の下にウェットスーツを着こむから、冷たいのは一瞬だ」
 話しているうちに、大型の施設に辿りつく。中に入ると、真っ先に受付が見えた。しかし、人影はなく、照明も半分以上が落ちていた。
「受付、誰もいないんですか?」
「ああ。中隊員の生活環境改善を名目に建てられた施設なんだが、利用者が少なすぎて週に二回しか開放されていない。今日みたいな訓練の時だけ特別に開放されている」
 こっちだ、と準が奥の階段を上り始める。優はその後を追いながら、薄暗い施設の内装を不思議そうに眺めた。
「何だか、勿体ないですね。予算、余ってるんですか?」
「余ってるとかの問題じゃなくて、必要だったんだ。中隊の離脱率は高い。入って三年経てば特別年金が出て生活も保障されるから、中隊の中心だった古参がどんどん抜けていく。繰り返される戦闘で精神的に参って抜けていく奴も多い。中隊へ定着させるために、極力居心地の良い空間を提供する必要があった。ただ、この施設は稼働率が低すぎて、一時期はかなり叩かれたよ」
「学校の授業で聞いた事があります。予算を使い切らないと次から減らされるから、必要なくても使っちゃうんだって」
「そうだな。そういう面もある。学校はどこに行ってたんだ?」
「花公院です」
「……驚いたな。名門じゃないか。確か、最近共学になったばかりだったな……お、ついたここだ」
 目の前で準が立ち止まった為、その背中に優はぶつかりそうになった。
「中に着替えが用意されてるはずだ。着替えてきてくれ」
「はい」
 頷いて、部屋に入る。
 中は普通の更衣室だった。棚の一つに戦闘服とウェットスーツが綺麗に畳まれて置かれている。優は早々に着替えを済ませて、外に出た。
「早かったな」
 そういう準の隣には、知らない少女がいた。肩まで届く茶色に染められた髪に、どこかふわふわとした雰囲気を纏う少女は、優と同様に黒い戦闘服を着ていた。
 優が困惑した様子で少女を眺めていると、少女はにこりと笑って、小さく頭を下げた。
「第一小隊長の篠原華(しのはら はな)です。後期課程の訓練は複数人でやるものもあるから、私がお手伝いすることになりました」
「よろしくおねがいしますっ」
 慌てて優も頭を下げる。
 第一小隊長ということは、優の直属の上官ということだ。
「確か同い年だったかな? よろしくね!」
 華と名乗った少女はそう言って、手を後ろ手で組んで、えへへ、と前かがみに笑った。普通ならわざとらしく見えるその仕草も、不思議と自然な動作に見える。
「じゃあ、俺は戻らないと。頑張れよ」
 準がそう言って、引き返していく。
 ありがとうございました、と優が声を投げかけると、準はひらひらと手を振って、そのまま階段の方へ消えていった。
「それじゃあ、桜井くん、こっちに来て」
 華が歩き出す。
「はい」
 頷くと、ぴたりと華の足が止まった。そして、不満そうな顔で優の方を振り返る。
「えっとね、敬語はいらないよ。上下関係とか、気にしなくていいから」
 優は微かに躊躇した後、素直に華の言葉を受け入れた。
「うん。わかった。よろしくね」
 華がにこりと笑い、再び歩き始める。優は黙ってその後を追った。
 歩いてすぐに華はある扉の前で立ち止まり、それを横に開いた。扉の先には広大な空間が広がっている。華が中に入っていった為、優も後に続いて扉をくぐった。
 そこには、五十メートルほどのプールがあった。天井が高く、外と違って照明が強い。プールサイドには黒い制服を着込んだ二人の男と一人の女が雑談していて、優達が入った途端に慌てて話を止めた。
「これを」
 男の一人が機械翼を持って近づいてくる。優と華はそれを受け取って、装着を始めた。
 優が慣れない作業に手こずっているうちに、華はすぐに機械翼の装着を終えたようだった。
「手伝おうか?」
 にこにこと華が声をかけてくる。それで、先日の飛行訓練時に同じように声をかけてきたのが華であることに気付いた。
「うん。ちょっと、お願い」
 素直に華の好意に甘える事にする。
 華が手早く後ろに回り、機械翼の装着を手伝い始める。
「はい、できたよ」
 あっという間に作業が終わり、華が一歩下がる。
「ありがと。篠原さん、本当に早いね」
「桜井くんも慣れたらこれくらい楽にできるよ」
 にこにこと笑う華の肩越しに、プールサイドの向こうに立つ女が手招きするのが見えた。
「準備が出来たら、こちらへ」
 華と並んで、女の方へ向かう。
 その間、残った男が反対のプールサイドで三脚とカメラを用意していた。訓練記録を撮るのだろう。
「よし。じゃあ、簡単に説明しようか。今日やるのは着水訓練。基本的に亡霊の迎撃は洋上で行われるから、墜落した場合の対処方です。って口で言うより、実物見た方が早いかな。篠原さん、お手本見せてみて」
 女の言葉に華が頷いて、機械翼を展開させる。翼が大きく広がり、華の足がゆっくりと床から離れていった。そして、そのままプールの上空に移動していく。
 何をするつもりなのかと優がじっと華を見ていると、高度五メートルほどまで上がった華の身体が不意に落下を始めた。
 優が何か行動を起こす前に、華の身体がプールに落ちて水柱があがる。
「……篠原さん?」
 優が心配そうな声をかけた直後、水面から華の顔が飛び出した。戦闘服の両肩部分が膨れ上がっているのが見える。前期訓練過程で戦闘服の構造は理解していたが、実物を見るのは初めてだった。
「戦闘服にはああいう浮き袋がついています。着水直後にこのベルトを引き抜いてください」
 女が近づいてきて説明する。優はベルトの部分を確認して頷いた。
「では、一度やってみましょう。あ、ちょっと水が深いけど泳ぎは大丈夫ですか?」
「人並みには、大丈夫です」
 優はそう言って、機械翼を展開させた。駆動音。
 以前行った飛行訓練通りに浮き上がり、高度を上昇させる。そして、そのまま華のいるプールの上空にゆっくりと移動した。機械翼の動作は酷く安定していて、空を飛ぶという行為への恐怖感を払拭してくれる。この調子なら、高度一〇〇メートルでも大丈夫そうだった。
「落下する時は、背中からが理想的。君達はちょっと衝撃に強いみたいだから、首の骨を折る事はないだろうけど、姿勢制御には気をつけるように」
 プールサイドから女が叫ぶ。優はチラリと女を確認してから、機械翼の動作を完全に停止させた。次の瞬間、ぐらり、と身体が後ろに傾く。そして、強烈な浮遊感。
「……っ……ぁ!」
 姿勢制御などする暇もなく、優の身体は水面に叩きつけられた。水とは思えないほどの衝撃を受けると同時に、視界が気泡で覆われパニックを起こしそうになる。そして、プールが予想以上に深い事に初めて気づいた。
 考える余裕もなく、優は右手で肩のベルトを手探りで見つけ出し、それを力の限り引き抜いた。途端に両肩が膨れ上がり、上半身が急速に水面へ浮上を始め、身体が勝手に半回転する。
「……っは!」
 頭が水面から飛び出すと同時に、優は大きく息を吐きだした。それから、何度も大きく息を吸う。
「だ、大丈夫?」
 前方から、華が両手で水を掻いて近づいてくる。
「……大丈夫。ちょっと、驚いただけ」
 優はそう言って、下に目を向けた。
 深い。三メートルは超えていそうだった。実際の洋上は更に深く、波も高いのだろうと思うと、憂鬱な気分になる。
「次、連結ベルトいこうか」
 プールサイドから女の声。
「先に手本、見せて上げて」
「わ、私がですか?」
 華が動揺した様子を見せた後、おずおずと優の元に泳いでくる。
「あの、ちょ、ちょっと、ごめんね」
 華の手が腰のベルトを引き延ばし、優の腰に巻きつけ始める。自然と抱きつくような格好になり、優はついと視線を外した。
「終わりました」
 ほのかに顔を赤くした華がプールサイドの女に向かって声をあげる。女は満足そうな表情を浮かべて、口を開いた。
「前期過程で習っただろうけど、それが連結ベルト。機械翼が破損したり、負傷して動けなくなった味方を身体に固定して、引き上げる為のもの。大事なことだから恥ずかしがってないで、しっかり締めるように。そのまま、桜井くんを引き上げてみて」
 華が微かに躊躇した様子を見せた後、腰に両腕を回してくる。肩から腰までぴったりと密着する為、自然と二つの柔らかいものが押しつけられる。優はあまりの気まずさに視線を逸らし続けた。
「ちょっと持ちあげるね」
 華が告げた次の瞬間、優の身体が華に引っ張られるようにして浮いた。身体に纏わりついていた水が下に落ちていく。連結ベルトでしっかりと固定されている上に華の腕がしっかりと回されている為、予想以上に安定していた。
「オッケー。降ろして」
 女の声とともに、華がゆっくりと高度を下げて再び着水する。直後、再び華が腰に回した手をごそごそと動かし、連結ベルトが外れていくのがわかった。
「よーし。じゃあ、今度は桜井くん、やってみて」
 女の声に優は頷いて、自らの腰に装備された連結ベルトを引き延ばした。それから、華の腰に手を回そうとした直前、優は僅かに動きを止めて、顔を赤くした華をチラリと見やった。中隊には女性しかいない為、異性が苦手なのかもしれない。
「ごめんね。出来るだけ早く終わらせるから」
 そう言って、華の腰に手を回す。
 華の腰は折れそうなほど細かった。女性の腰に手を回すという行為に慣れていない為に緊張はしたが、慣れない訓練である為、連結ベルトの固定に意識の大部分が持っていかれた。それに十日後には実戦が待っている為、恥ずかしがっている余裕などなかった。
 黙々と連結ベルトを戦闘服の持つ機構に固定させて、最後に連結ベルトを軽く引っ張り、しっかりと繋がっている事を確認してから優は顔を上げた。
「終わりました」
 プールサイドの女に向かって報告する。女は遠目から連結ベルトの様子を確認するように目を細めて、満足そうに頷いた。
「オッケー。相手の腰に手を回して、それから機械翼を展開させてみて。あ、腰ってのはウェストじゃなくて、骨盤の辺りね。上に手を回すと痛いから」
 女の言葉通り、優は華の腰に手を回した。華の身体が硬くなるのが分かる。
「持ちあげるね」
 華の耳元で告げてから、機械翼を展開させる。身体が浮き上がり、周りの水面が微かに盛り上がった。ざばあ、と水の落ちる激しい音が響き、身体が完全にプールから浮かび上がる。前方に華を抱えている為か、身体が前に傾きそうになり、優は慌てて姿勢制御に移った。
 姿勢が安定すると、優が予想した通り、プールサイドから女の声が届いた。
「オッケー。それじゃ、休憩入れながら後二〇セットやってみよう。身体が覚えるまでやらないと意味ないからね」
 二〇セットという言葉に、華の身体がピクリと反応する。優は奇妙な罪悪感に苛まれながら、華を抱いたままゆっくりと高度を下げ始めた。

「ごめんね」
 訓練が終わってプールサイドに上がった優は、華に向かって一番に軽い謝罪の言葉を口にした。
「え? な、なにが?」
 ウェットスーツだけになって戦闘服の袖を絞っていた華が不思議そうに振り返る。
「連結ベルト繋ぐ時、結構くっついたから。それと、篠原さんには関係ない訓練なのに、手伝ってくれてありがと」
「そ、そんな、謝らなくても大丈夫だよ!」
 華が全身で否定するように両手をぶんぶんと胸の前で振る。先程まで手に持っていた戦闘服が地面に落ちるが、気づいていないようだった。
「あの、ほら、中隊は女の子ばっかりだから、男の子と訓練するのあまり慣れてなくて! 嫌とか、そういうのじゃないから、その、ね!」
 一生懸命フォローしてくれる華に優はクスりと笑って、ありがとう、と繰り返した。
 それから、背後を振り返る。職員の一人が三脚とカメラを回収し、残った男と女が何やら紙に記録をつけている。
「これ、帰っていいのかな?」
「うん。戸締りはあっちの仕事だから。早く着替えて戻ろ!」
 華が駆けだす。優はその後をゆっくりと追いながら、戸口へ向かった。
 桜井優が初めて実戦を経験する九日前の話である。

◇◆◇

「装備の点検を怠らないで。焦らなくていいからしっかりと。華、準備が出来た人をまとめて」
 慌ただしい室内で、神条奈々は歩きながら部下に声をかけ回っていた。
「神条司令、優君の準備が整ったようです」
「そう。男の子は準備が早くて助かるわね。こっちはまだかかりそうだから待たせといて」
「はい」
 副司令である長井加奈の報告に頷き、奈々は部屋を見渡した。部屋、というよりも倉庫のような薄暗い出撃準備室であり、室内にいる部下全員が装備の点検途中だった。その部下は大半が未成年の少女である。彼女たちは、これから戦場へと送りだされる。数年前の社会通念に照らし合わせれば、子どもを戦場に送り出すことは許されなう事だったが、長引く闘いの影響で奈々のそうした倫理観は変質を遂げていた。
「第一小隊、準備完了。これより待機」
 慌ただしい集団から報告があがる。奈々は壁に備え付けられたコントロールパネルを操作してハッチを開いてから第一小隊に出撃命令を出した。続いて、第二小隊から報告が上がる。
「第二小隊、準備完了。指示を」
「待機」
 第一小隊とは違う命令を出してから、奈々は部屋を飛び出した。長い廊下を歩きながら腕時計に視線を向ける。一四二七時。亡霊の一次発見から既に八分経過していた。
 司令室に入ると電子・解析オペレーターが亡霊の侵攻ルートを補足する作業に入っていた。壁に埋め込まれた巨大なディスプレイには出撃準備室の様子が写し出されている。全員の準備ができたようだった。
 奈々はコンソールを叩いてディスプレイを切り替えた。大きな部屋に一人だけ佇む少年の姿が映る。まだ幼く、中性的で整った顔は緊張で強張っていた。カメラがもう少し離れていれば、華奢な身体も相まって少女と見間違えたかもしれない。そして、その華奢な背中には不釣り合いな巨大な機械の翼を有している。
 随分と絵になる、と奈々は画面を見ながらぼんやりと思った。照明を上手く利用すれば、翼を休める天使のようにも見えるかもしれない。
「優君、気分はどう?」
『緊張してます』
 奈々は優を安心させようと笑顔を作った。向こうにもこちらの姿が映るディスプレイが存在する。
「大丈夫。訓練通りにやれば何も問題ない」
『……はい』
 優は不安を隠すように硬い笑顔を浮かべた。
 奈々は少し思案してから、コンソールを叩いた。ディスプレイが二分割され、新たにマップ情報が写し出される。第一小隊は既に本部から三キロメートル離れた地点まで進んでいた。
「第二小隊出撃」
 出撃ハッチから、第二小隊長の姫野雪を先頭に少女たちが飛び出した。その数およそ三十。第一小隊を追いかけるように青空の中を羽ばたいていく。
「優君、続いて」
『はい』
 少女たちの後から少年が飛び出す。今回が桜井優の初陣だった。他にも一人、今回が初陣の少女がいる。初陣と言っても実際に戦闘に参加することはなく、部隊の後方から戦場を見せるだけだ。
 奈々は再びコンソールを叩いた。画面が三分割される。一つは高機動ヘリが部隊の背後から撮影した中継映像。他はESPレーダーと彼らの機械翼につけられた識別信号を映す俯瞰マップだった。高機動ヘリには医師や高度な医療器具が用意されており、負傷者の応急処置・輸送などにも利用される。これは、実際的な役割よりも中隊員のメンタル面に多大な貢献をしていた。
「方位二-八-〇。衝突予測ポイントまで残り三〇キロメートルを切りました」
「総員に通達。後十分で接触する。第一小隊、速度を落とし、第二小隊との距離を詰めなさい」
 奈々の命令とともに、識別レーダーに映る先頭集団の速度が徐々に落ちる。機動ヘリから中継された映像では、第一小隊長の篠原華しのはら はなが指揮をとって、小隊の動きを制御していた。華は亡霊対策室に入って二年目の中堅組であり、その従順性と機転の良さから奈々は華を重宝していた。
 第一小隊、第二小隊の距離は順調に縮み、衝突予測ポイントの五キロメートル前で二つの小隊は横に並んだ。奈々は停止を命じ、ヘッドセットに向かって叫んだ。
「優君、柚子ちゃん」
 奈々は少し砕けた喋り方で、今回が初陣の優と柚子を安心させようと語りかけた。
「亡霊は、外見ほど恐ろしいものではない。訓練通りに行動すれば難なく倒すことができます。大事なのは、パニックに陥って状況判断が狂う危険を絶対に避けること。限界だと思ったらすぐに戦線から離脱しなさい。それは恥ずべきことではない」
「はい」
 二人の新人が緊張した声で答えた。奈々は少し思案して、時計を見た。衝突予測ポイントまで後三分。
「時間よ。各自、兵装チェック。高度維持。敵右翼突出。構え」
 青空の彼方に影が現れる。奈々はESPレーダーを見て、淡々と情報を伝達させた。
「敵影二十三。方位二-八-五。依然として敵右翼突出。敵左翼、更に外側へ移動。敵右翼は囮の可能性が大きい。敵左翼の迂回に気をつけて」
 中継映像に亡霊の姿がはっきりと浮かんだ。紫丹の巨大な羽を大きく揺らし、醜悪な顔にぱっくりと開いた巨大な口。その悪魔的な姿は、まだ戦闘に慣れていない隊員たちの気力を急速に奪っていく。
 第一小隊が小隊長の篠原華の指揮で敵右翼を迎え撃つように前進していく。第二小隊は第一小隊の側面を守るよう、左側に旋回した。
「距離三〇〇……二〇〇……一五〇……一〇〇」
 解析オペレーターがカウントを開始する。トップとの相対距離が百メートルを切った時、第一小隊長、篠原華が片手をあげて叫んだ。
「撃て!」
 第一小隊、総勢三十二名が構える銃口が弾けた。一拍遅れて大気が爆発し、轟音がつんざく。一斉に放たれたESPエネルギーの塊は巨大な奔流となって、敵亡霊軍の突出した右翼へと吸い込まれていった。
「命中を確認。一体ロスト」
 ESPレーダーから影が一つ消える。あれだけの大規模な攻撃を受けても、大多数の亡霊は依然として無傷のままだ。敵は人間ではない。怪物なのだ。
「距離五〇」
 第一小隊長、篠原華が頭上に上げた右腕を大きく回した。それを合図に第一小隊の前面に展開した少女たちが一斉に銃剣を構える。
「第一分隊突撃!」
 華が先頭に立って飛び出す。それにならって、第一分隊に所属する八人の少女が続いた。
「敵左翼、接近」
 長井加奈が緊張した声で報告する。奈々は刻々と変化するマップ情報を眺めながら、呟くように口を開いた。
「第二小隊、前進。挟め」
 第二小隊長がそれを聞いて、第一小隊の側面を取ろうとする敵左翼への射撃を部下に命じた。先ほどの大規模な砲撃とは異なる、散発的な攻撃が始まる。
 第一小隊の突撃を皮切りに場は一気に混沌としたものへと変化した。近接戦闘によって味方と亡霊が入り乱れ、それを突破した亡霊たちが背後の分隊に襲いかかる。数が勝っているにも関わらず、徐々に前線が崩れていくのがわかった。
「第一分隊、後退。無理に抑える必要はない」
 命令を、飛ばす。
 第一分隊は、後退しない。
 浸透した亡霊を迎え撃つ為、後方支援が断たれていた。離脱する機会を逃がした第一分隊が徐々に孤立を始める。
「繰り返す。第一分隊、後退。第二分隊、支援しろ」
 奈々の命令で、ようやく第二分隊が事態に気付いて支援攻撃を開始する。
 遅い。
 その間に、敵左翼が第二小隊の攻撃を無視して、第一小隊の左側面をとった。その距離、僅か六十メートル。第一小隊の中でも前線を支える為に突出した第一分隊が完全に孤立し始める。
「呑みこまれる! 後退! 後退しろ!」
 ようやく、状況に気付いた第一分隊が無理矢理離脱を始める。が、敵右翼は第一小隊を逃がすまいと執拗な追撃を繰り返す。第一分隊の後退速度が急速に落ちた。その間に敵左翼が左側面から急接近を始める。
 奈々は唇を噛んだ。数は勝っている。しかし、それだけだ。相手の出方は分かっていたのに、それを止める事が出来ない。それは亡霊対策室の保持する実働部隊、特殊戦術中隊の厄介な性質の為だった。
 亡霊は、あらゆる物理干渉を受けない。銃撃も、弾道ミサイルも、亡霊の前には意味をなさない。実体がない、と言われている。見る事も、映像に記録する事もできる。なのに、その存在に干渉することができない。少なくとも、経験的にそう解釈されている。しかし、観測はできる。映像の記録に加え、亡霊の存在する周囲にはいくつかの異常な現象が発生する。それを用いて、亡霊の発生を探知することが可能となった。また、その異常を引き起こす何らかの未知のエネルギーが存在すると仮定されるまでに至った。
 その後、この探知技術に亡霊以外の存在が引っかかった事をきっかけに、事態は好転する。亡霊と同様の未知のエネルギーを持つであろう存在は、人間だった。後に超感覚的知覚能力者、ESP能力者と称される人間。彼らは、亡霊に干渉することができた。
 時間の経過とともに、多くのESP能力者が発見された。彼女たちを特殊戦術中隊に組み込む事によって、日本国は亡霊との闘争を開始した。だが、ESP能力を保有する人間の数は圧倒的に少なく、亡霊に対抗する為の充分な戦力を確保することができなかった。加えて、戦闘経験のない一般人を利用する事、従来の戦争とは異なる為に充分な運用ノウハウが蓄積されていない事が重なり、軍隊としての錬度が著しく低いまま前線に投入される事となった。その問題は、今でも解決される見通しが立っていない。
「第三分隊、第一分隊の援護を」
 第一分隊の後退を支援しようと第三分隊が前進する。
「──司令、間に合いません」
 長井加奈の焦燥感の混じった声が横から届く。
 中継映像には、追撃をしかける亡霊を何とか抑える第一小隊長、篠原華の姿が映っていた。そして、その側面を奪った亡霊が死角から迫っているのが中継映像に映る。華は目の前の亡霊の相手に必死で気付いていない。
 第三分隊と第一小隊の距離は四十メートル。とても間に合わない。
「華、離脱しなさい」
 奈々の言葉に華がようやく死角を取られたことに気づいて、攻撃を中断する。しかし、この時既に亡霊との距離は致命的なまでに詰められ、最早回避行動が何の意味も成さない状況に陥っていた。
 負傷は避けられない。奈々が機動ヘリに回収命令を出そうと口を開きかけた時、中継映像を一つの影がよぎった。次の瞬間、華の側面から接近していた亡霊の体が消し飛ぶ。淡い霧のようなものが空中に拡散した。
「ロスト!」
 解析オペレーターが叫ぶ。
 奈々は中継映像に映る影を見て、目を大きく見開いた。影の正体は後方で待機している筈の桜井優だった。優が華に肉薄していた亡霊を片づけた後、近くにいた二体の亡霊の反応がロストした。その後も、ESPレーダーから次々と亡霊の反応が消えていく。
 奈々は桜井優の様子を眺めながら、得体の知れない高揚感が湧きあがってくるのを感じた。

 神条奈々が若くして亡霊対策室の総司令官に抜擢されたのには、いくつかの特殊な経緯がある。亡霊の出現は日本の国防を脅かす存在であり、日本は防衛関係費を拡大させる必要があった。しかし、日本にとって、軍拡は非常にデリケートな問題である。第二次世界大戦における敗戦国としてのイデオロギー。加えて、中国、ロシアを中心とした経済統合体であるユーラシア連合を刺激する恐れがあるとして、慎重論が根強く展開された。
 つまり、人類史上初となる人間以外の外的な脅威である亡霊よりもユーラシア連合における軍拡競争への配慮、屈折した平和主義を優先する者が数多くいた。そうした世論を背景に創設された亡霊対策室は少しでも「軍」といったイメージを和らげるため、亡霊対策室の司令官に女性を起用することが決定された。後にこれは軍の予想以上の効果をあげることになる。
 また、トップに女性を起用することにはもう一つ利点があった。亡霊に対抗できる唯一の存在である超感覚的知覚を保持したESP能力者がどういうわけか全て女性だったのだ。亡霊対策室が設立された際に確認されていたESP能力者は二百三十一人。その全てが女性で、九割が未成年だった。
 亡霊対策室の前途は多難だった。戦闘経験も人生経験もない少女たちをまとめあげ、過酷な戦闘によって傷つく少女たちの精神もケアしなければならな事も女である奈々が抜擢される要員となった。
 そうやって、奈々は司令の座についた。前例がないことの連続ではあったが、奈々はよくやった。思春期の少女たちをまとめあげ、最低限の防衛を可能とした。
 そうやって、今まで何年も持ちこたえてきた。自分の指揮に国防の全てがかかっている、というプレッシャーに耐えてずっとやってきた。こうやって、死ぬまで戦い続けるのだろうと漠然と思っていた。
 しかし、その予測は三週間前に破られた。青天の霹靂と言える。亡霊の出現からはじめて、男のESP能力者が確認されたのだ。それが桜井優だった。

 奈々は奇妙な高揚感に包まれながら、ディスプレイをじっと眺めた。訓練で見た動きとは違う、熟練した兵士の動きを桜井優は見せていた。才覚か、はたまた土壇場の偶然か。
 ――それは、今考えるべき事ではない。
 奈々は思考を振り払い、急遽転がり込んできた好機に飛びついた。
「後退を!」
 奈々の声で、第一分隊が再び後退を始める。第二小隊の後方支援が激しさを増し、亡霊群が散開に移る。
 ひとまず危機は脱した。しかし、油断はならない。両翼に大きく展開する亡霊の布陣を見て、奈々は逡巡した。
 距離が開いた。これは、遠距離攻撃に長ける──近接戦闘と比べれば──特殊戦術中隊にとって有利だ。暫くは現状を維持し、相手を削っていくのが一番か、と考える。
「押しています。追撃をしかけますか?」
 中央部の亡霊が後退を始めた。それを受けて、第二小隊長の姫野雪が追撃の有無を問いかけてくる。確かに中継映像を見た限りでは押しているようにも見える。しかし、ESPレーダーと識別子マップを見て奈々は顔を曇らせた。中央部は特に相手の戦力が薄い訳でも、味方の戦力が集中しているわけでもない。加えて、両者の密度が中央部と殆ど変わらない両翼は拮抗したままだ。つまり、中央部は押している訳ではなく、誘われているだけ、と考えられる。
「……第二小隊・第二、三分隊と第一小隊第一分隊、一〇〇前進後、両翼に展開。両翼、突撃待機」
 奈々は慎重に指示を出した。後退する亡霊に合わせて、特殊戦術中隊の中央部が僅かに突出する。そして、奈々の合図とともに、両翼が突撃を開始。同時に、中央部が敵両翼の側面から襲いかかる。両翼に戦力を集中し、相手中央部が慌てて前進してくるが既に遅かった。敵両翼は側面と正面からの集中砲火を浴び、無残に四散していく。
 加速度的に減っていく亡霊の数を見て、奈々は安堵の息をついた。戦いは終息に向かっている。しかし、気は抜けない。亡霊は人間と違い、戦略的な撤退をしない。戦術的な後退はあっても、亡霊は全滅するまで襲いかかってくる。降参という概念を持たないのかもしれないし、死に対する恐怖や価値観が人間のそれとは恐ろしく異なるのかもしれない。
 全滅を辞さない亡霊に対し、逆に特殊戦術中隊──更に言えば亡霊対策室は一人の犠牲者も出すことが許されない。未成年ばかりで構成され、なおかつ少数で構成された特殊戦術中隊にとって、一人の死がもたらす影響は物理的にも、精神的にも計り知れない。戦術的敗北が戦略的敗北に直結する恐れさえある。奈々は経験的にそれを嫌というほど知っていた。
 しかし、今回は大きな被害が出ずに済んだようだった。亡霊は既に残り四体。間もなく戦闘は終わりを迎えるだろう。だが、闘争は終わらない。これが終わっても仮初の一時的な平和が流れるだけだ。また近いうちに白流島から亡霊が飛びだし、亡霊対策室はそれの対応に追われる。何度も何度も繰り返してきたことだ。そしてこれからも。いつ、この戦いの連鎖は終わりを迎えるのだろうか。それを思うと、気分が沈む。
「司令、気分がすぐれないように見えますが、大丈夫ですか?」
 副司令、長井加奈の言葉に、奈々は顔を強張らせた。
「いえ……」
 言葉を濁す奈々に加奈が笑いかける。
「心配、ですか?」
「……ええ」
 加奈は鋭い。何年も横にいるだけある。奈々は諦めたように頷いた。
「正直焦ってる。いくら戦術的勝利を重ねても、戦略的勝利には近づけない。このままじゃ、亡霊には勝てない。この闘争は一体いつまで続くのかしら…」
「攻めるだけの戦力ができるまで待つしかありません。そしてそれは遠くない未来かもしれませんよ」
 奈々はその言葉に顔をあげた。
「彼、は何かのきっかけになると思います」
 そういって、加奈は中継映像を見やった。ディスプレイにはまだ幼さを残す唯一の少年が映っている。桜井優、史上初の男性ESP能力者。
 奈々はさきほどの戦闘を思い出し、頷いた。 
 その時、ESPレーダーから全ての反応が消えた。思考を切り換える。
「亡霊群の殲滅を確認。これより帰投しなさい」
 中継映像に歓声をあげる少女たちの姿が映る。それを見て、奈々は頬を緩めた。
 確かに戦争は続く。際限ない戦闘を経て、少女たちは傷ついていくだろう。しかし、奈々はその少女たちを守れる立場にある。それは喜ぶべきことだ。自らの手で、運命に干渉できる。それは素晴らしいことだ。
 第一小隊、第二小隊を合わせた六十四名が綺麗に隊列を組んで、空をいく。
 負傷者二十二人。死者〇人。戦いが終わり、仮初の平和が訪れる。そして、この戦いが後に救世主と呼ばれる桜井優の最初の小さな一歩となった。
 
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