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呪われた喫茶店

作者:南 秀憲
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呪われた喫茶店

 
前書き
 あらすじ:幼友達の祐樹から智也が探していた喫茶店を紹介された。盆明けに店をオープンさせ、様々な工夫で繁盛店になった。しかし、奇妙な出来事が連鎖して起こった。例えば、若い女性がトイレに入ったまま消える、ホール担当が注文をききに行くと最初に入ってきた人数より椅子に座っている人が少なかった。所轄署に捜査を依頼したものの解決しなかった。その奇妙な噂をマスコミがかぎつけ大々的に報道したお陰で益々繁盛し智也は高級外車を乗り回せるほど利益を得た。一方、同じく喫茶店を経営しょうしていた卓也が同喫茶店で朽ち果てた外車と店内で縊死している智也夫婦と祖母、行方不明の女性達が死者となって、椅子にすわっている。全員が自爆霊になりミイラ状態で卓也を恐怖のどん底に陥れた。この喫茶店の経営者は、歴代おぞましい死に方をしていたのだ。つまり、呪われた喫茶店だったのだ。 

 
 
 
四年前、お盆の真っただ中の八月十三日だった。
吉崎智也≪よしざき ともや≫の、ストラップを金色に輝く七福神にして、ベートーベンの運命を着メロにしている携帯電話が、ブル、ブル……と振動するヴァイブレーターを伴い、うるさく鳴った。マナーモードにしておけば良かったのにと思った。なぜなら、お坊さんが仏壇に経をあげている最中で、智也もその後ろで数珠を片手に、頭を下げご先祖様を供養していたからだ。仕方なく席を立ち、リビングルームで電話を受けた。
(よりによって、こんな時に電話してくるなんて……一体誰からだろう?)
そう思いながら、吐き捨てるように小さくつぶやき、電話に出た。
祐樹からだった。お盆の真最中に、祐樹から携帯がかかってくるとは……。
(はて、一体、何の用だろう?)
「待ってくれ。……お盆の期間中に、幾らいい物件の喫茶店であっても、見に行きたくはないんだよ。」
智也は、一刻も早く喫茶店の優良物件を、探しており手に入れたがっていた。話し合いの結果、
お盆をあえて外して、八月十九日に現地で会うことにしたのだ。
 どこから仕入れた情報かは、祐樹は定かにしなかったが、電話の声には、自信に満ち満ちたハリがあった。
「神戸市湊川駅から出ている粟生線≪あおせん≫で、西に四十分ほど行った、金物で有名なM市だ。君も知っているだろう? そこのP駅から徒歩十分の場所に、良い喫茶店の物件がある。一緒に行こうよ。君が、経営してみたいと、常々言っていた喫茶店だ! 見る価値のある優良物件だよ。俺も行くから頼むぜ!」
その話を耳にした刹那≪せつな≫、嫌な予感が、智也の脳裏をよぎった。
良い情報だ、思ったが【八月十三日】は、智也に心理的抵抗を感じさせたのだ。と言うのも、その日は、「迎え火」を焚≪た≫き、精霊を迎える日だからだ。
先祖代々の墓が、家の近くにあるから、仏壇の前で盆提灯や盆灯籠を灯し、家族揃ってお墓に参る。墓からご先祖様を背負って、家まで案内するのだ。両親と一人っ子の智也は、墓参りをするのが、吉崎家の恒例行事だった。JRで約二十キロメートル東にある、ご先祖様の墓へ行く。その途中にある、いつも立ち寄る花屋で見栄えの良い花を一対買う。
潮の香りが漂うお寺に参るのを、常としていた。住職の奥さんにご挨拶をして、バケツに一杯水を汲み線香を燻≪くゆ≫らせ、家から持ってきた専用の柔らかいスポンジで、ていねいにお墓を掃除する。お供えは、亡くなった祖父母の好物の饅頭である。全て用意ができると、読経しながら手を合わせる。今では、智也の妻も一緒にお墓参りをしている。
なぜ、住職ではなく奥さんかと言えば――住職は「かきいれ時」なので、正装して単車で檀家を飛び回っているからだ。
【お盆】は【盂蘭盆会「うらぼんえ」】を略した言葉。ウラバンナ[逆さ吊り]を漢字で音写し
たもの。「逆さまに釣り下げられるような苦しみにあっている人を救う法要」という意味だ。十
四日・十五日は、霊が家に留まっている期間である。だから、仏壇にお供え物をして、迎え入れた精霊の供養をする。日本では、仏教伝来以前から「御霊(魂)祭り」をしていた。つまり、祖先の霊を迎える儀式が存在したのだ。推古天皇の時代。僧と尼を招き食事や様々な仏事を行う"斎会〔さいえ〕"が設けられた。この様式が、現在の「お盆」の原型になった。

浅田祐樹≪あさだ ゆうき≫は、当時、Fコーヒーで営業課長をしていた。現在では、営業部次長にまで昇格しているが。
最大の生産国ブラジルや、インド、中国……などの途上国でコーヒーの需要が高まっている。さらに、投機マネーの市場への流入で、コーヒー豆の値が上がっている。そんな状況の中、現在、我が国では、消費者のコーヒー離れが進んでいる。にもかかわらず、(株)Yコーヒー業績は、右肩上がりの成長を続けている。今では、早くも東証1部上場企業に名を連ねている。 
祐樹と智也は小・中と同じクラスだった。お互い心許せる仲で、何でも相談できる親友である。いわゆる、【竹馬の友】だ。今でも、親密に家族付き合いをしている。お互いの家も、三分も歩けば行ける近さにある。子供の頃は、頻繁≪ひんぱん≫に泊まりに行った仲だった。幼馴染≪おさななじみ≫だ。今では、お互い住む場所も当時と変わっているが。
「貴方も祐樹君のように、もっと勉強したらどうなの!」
智也は、母から小言とも激励ともとれる説教に辟易≪へきえき≫していたが……。身長、体重では、智也の方が勝っていて、がっしりした肉体の持ち主だ。しかし、成績は、それに反比例していたのだった。クラスでの成績は、智也の成績は下だった。同級生が、休みを謳歌≪おうか≫していた時期……春休み、夏休み、短い冬休み。遊ぶこと以外好きでない学校に、智也は、毎日せっせと通っていた。補修授業を受けねばならないからだが、それほどにお粗末な成績であった。彼は、辛うじて商業高校を卒業できた。それが唯一、親を涙ぐませた親孝行でもあった。
祐樹の成績は、智也の成績とは、まるで、雲と泥との差であった。
祐樹は、学年でも上の上であり、そのせいで、高校からは二人別々の学校に通わざるを得なかった。
祐樹は、関西四天王と呼ばれる兵庫県にあるK大学に入学できた。しかも、最難関の経済学部に、見事に現役合格を果たしたのだ。
当然だが、経済学の勉学に真剣に取り組んだ。四年間の大学生活で、多くの書を読み漁った。カール・ハインリヒ・マルクスの「資本論」、ジョン・メイナード・ケインズの「雇用・利子および貨幣の一般理論」……など。
 カール・ハインリヒ・マルクスは、ドイツ出身でイギリスを中心に活躍した哲学者、思想家、
経済学者、革命家。彼の思想はマルクス主義(科学的社会主義)と呼ばれ、二十世紀以降のイ
デオロギーに大きな影響を残した人物だ。彼は、資本主義社会の研究をライフワークとし、主著「資本論」で、結実した。「資本論」に代表される経済学体系は、マルクス経済学、「資本論」に代表される経済学体系をマルクス経済学と呼ぶ。
一方、ジョン・メイナード・ケインズは、イギリス生まれの経済学者で、二十世紀最重要人物
の一人だ。いまなお、経済学者の代表的存在であり、有効需要にもとづいてマクロ経済学を確立させた。彼は、経済学の大家アルフレッド・マーシャルの弟子で、父であるジョン・ネヴィル・ケインズも経済学者である。
祐樹は、経済学の習得だけでなく、積極的に経営学も勉強した。企業組織だけに留まらず、全ての組織体、自治体・NPO……などを対象とした経営学をも学んだ。【マネジメント】の発明者ピーター・ファーディナンド・ドラッカーの「現代の経営(上・下)」。淺羽茂著「経営戦略の経済学」。その他、多くの書物を、ボロボロになるほど熟読した。そればかりか、祐樹は他の学部の講義にもできる限り出席しだが、特に、文学部哲学科に魅了されていた。
祐樹は、次第に実存主義に傾倒していった。パスカル、キェルケゴール、ニーチェ、ヤスパース、ハイデッガー、サルトル、メルロー=ポンティ……などの代表作は、ほとんど読破していた。何度も繰り返して、読んだにもかかわらず、ハイデッガー、メルロー=ポンティの著した書は、特に難解で、未だに深く理解できていない。
千九百三十年代、ドイツのマルティン・ハイデッガーやカール・ヤスパースらによって、【実存】
の導入が図られた。【実存】の考え方は、第二次世界大戦後、世界的に広がりをみせた。祐樹は、哲学者の中でも、ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトルに心酔していた。第二次大戦後、【実存主義】がフランスに輸入され、サルトル等によって広まった。サルトルは、千九百五年 ~ 千九百八十年のフランスの哲学者、小説家、劇作家であり、幾多の著作の中でも、千九百四十三年刊行された「存在と無」は、祐樹に感銘を与えた書だ。その書は、実存主義のバイブルでもある。今まさに生きる自分の存在である、実存を中心とする。特に、彼の実存主義は、無神論的実存主義である。
【実存は本質に先立つ】と主張し、【人間は自由という刑に処せられている】と言い切っている。

皮肉な事に、祐樹が入学した大学はミッション系だった。構内に入ると、直ぐに十字架が目に
飛び込んでくる。チャペルも立派な茶系統の建物だ。一年時には、「キリスト教概説」が、必修科
目になっていたとは言え、キリスト教を学生に押し付けない。だから、祐樹は、友人達にサルトルの思想への賛意を声高≪こわだか≫に表明していた。
ヒョウキンな友人に、良くからかわれた。矢田と言う面白い友がいた。彼は祐樹に尋ねた、いや、むしろ茶化していたのだ。
「君が、猿飛 佐助(さるとび さすけ)を、そんなに尊敬しているのか? ふーん。ソリャ知らなかったよ。……講談や小説などに登場する架空の忍者だろ?」
 祐樹は、小さくクスッと笑いながら、子供に優しく諭≪さとす≫ような、口調で言った。
「そう言うなよ。バーカ。……でもなー、猿飛 佐助は実在の人物かも知れない、と言う説もあるぜ。彼は、真田幸村に仕えた真田十勇士の一人だった。伊賀忍者、霧隠才蔵≪きりがくれ さいぞう≫は、彼のライバルでもあったらしい。大坂夏の陣で徳川方に敗れた後、幸村と共に薩摩に落ちのびた。そんな説すらある!」
「へー、ほんとかよー! 俺の勉強不足だなー。……お前は、博識だよ。お前には、多角的な目があるに違いない、と思うよ。様々な角度から、物事の本質を捉えられるのだからなあ。まあ、いずれにせよ、凄いよ、お前は! どこから、そんな話を仕入れてくるんだい。いやーマイッタ、
マイッタ、マイッタ、マイッタ! はい、ようこそお越しいただきました。遠い所からお寺に『お参り』くださいました。ぜひ、冷えた麦茶と和菓子を、召しあがってくださいな」
 笑顔を見せて、祐樹は答えた。
「つまらん。お前の話は、実につまらん。ワハハハ、ワハハハ、ワハハハ、ワハハハ……腹の皮が破けそうだ。もう、冗談は止めてくれ。お願いだよ! 俺様の博識は、……まあ、様々な本とか文献から仕入れた知識だよ。お前も、もっと、もっと本を読めば良いだけのことさ。泥棒は、金品を盗っていくが、脳にある知識・教養には手出しできないさ。だだし、殺されなければという前提があるが……」
 周囲に多くの学生達がいた。けれども、一切構わず、互いの顔を見つめて二人は大声で笑い合った。
祐樹は、身長が百八十三センチもあるイケメンであり、時たま家の鴨居で頭を打った。
顔の彫が深く目鼻立ちがはっきりしているが、チョーが付くほどにはイケメンでもない。オウトドアー派で、筋骨たくましく、いつも日焼けしている。夏は、海水浴、キャンプ、山登り……などをし、冬になると、回数を数えきれ無いほどスキー場に通い、スキー夢中になりセミプロの腕前だ、と自負している。何にせよ、学問だけをする青白い輩≪やから≫の範疇≪はんちゅう≫を超えている。それら全てが、祐樹を柔らかく覆っているのだ。モテナイ要素がない好青年なのだ。友達も、並外れて多い。男子でなく女子にも人気がある。彼の心優しい面も、大いに寄与している。彼の醸し出す雰囲気が人を引き寄せるのだ。女性達には、ある種のヘロモンを全身から出しているように思える。だから、祐樹の周囲には、多くのファンが取り巻いている。もちろん、主な話題は、受けた講義についてだ。祐樹は、自身の個人情報には、ほとんど触れない。一種ミステリアスな存在だ。
だからこそ、男女を問わずモテルのかもしれない。

祐樹の数多い友達の中で、一人だけ【霊感】がある佐藤 久仁夫≪さとう くにお≫がいた。佐藤は、大阪府の谷町≪たにまち≫四丁目の近くにある、実家からK大学に通っていた。
相撲の世界で使用する「タニマチ」の由来の地だ。タニマチとは相撲界の隠語である。ひいきにしてくれる客、後援してくれる人、無償スポンサー……などを指して「タニマチ」と言っている。
谷町≪たにまち≫四丁目は、大阪市中央区にあり、JR大阪駅の南に位置する。最寄りには、
大阪市営地下鉄の駅がある。谷町四丁目を、地元では「たによん」とよく略されている。佐藤は、「たによん」から、大阪梅田へ出て、阪急電車の特急を利用し西宮北口駅で降り、阪急宝塚線に乗り換え、K駅で降車する。
駅前には、途中K大を通る四台バスが必ず停車している。しかし、いつもK大生で寿司詰状態だ。そのため、佐藤は、よほどの事情がない限り、大学までバスに乗らないで、四十分ほど要し、徒歩で行くのが習慣になっている。三十分ほど長い坂道を上り、割りと平坦な道をノンビリと歩く。
毎年、四月の十日頃には、道の歩道に植えている桜の木が満開になる。時には、桜吹雪の中、十分歩いて大学の正門まで行く。桜の花びらを、まるでリボンのように頭にのせて……。そんな時、良い気分になり小さく幸福の吐息を、もらしたりする。至極の喜びをさりげなく感じるのだ。
大学へ行く途中の坂道に、薄暗い公園がある。
毎回、そこで九歳位の女の子に出会う。頭は、いまどき珍しいおかっぱだ。大きな漆黒の眼には、憂いと憎悪が混じり合っている。季節に関係なく、くすんだ黒っぽい花柄の半袖ワンピースを着て、いつも、目にも鮮やかな赤い靴で、石ころをけって遊んでいる。しかも、たった一人で……。いつ会っても、同じポーズをしているのだ。女の子の顔には邪悪な笑みが、貼りついていて、まるで猛毒を含んだ笑みだ、と佐藤には思える。周りの空気は、凍ったように冷たい負のオーラが充満している。しかも、辺り一面には、生魚が腐ったような耐えがたい匂いが充満している。何とも言えないその匂いが、彼の鼻へ遠慮なく入り込んでくる。彼の全身から不快感が、次々と湧き出すのだ。薄暗い公園には、ブランコや滑り台もある。たまに、その公園で近所の子供達が遊んでいるのを、見かける。が、誰一人として、その女の子に気づいていない様子だ。
佐藤は、今日もその子に出会った。できるだけ、その子と目を合わせないようにしようと試みる。でも、ついつい、彼はその女の子を見てしまうのだ。いまわしい怨霊だ。
前後をいく学生達は、何も気づかず歩を進めている。とはいえ、明らかに女の子を見ている素振りをする者もいるが、前を向き知らん顔をしている。
彼等の顔には、恐怖と女の子を無視しようという明確な意思が浮かんでいる。

 佐藤は、見たくもない霊達が見えるのにホトホト困り果てていた。彼と霊的周波数が一致して
いる場合のみだが……。霊は、実際に肉眼で彼に見えるか、あるいは、頭の中に映像化されるかだ。
常に霊の存在を感じていれば、誰でも精神に異常をきたすだろう。皮の拘束服で自由を奪われ、
劣悪な待遇の【精神病院】という名の【監獄の囚人】になる。そんな悲壮さは、浅田の考え過ぎ
だろうか? 佐藤は、常に繰り返し自問自答をしていた。
彼は、【霊の存在】を素直に認めるか、単なる錯覚にしか過ぎないのか、常に心中で葛藤≪かっとう≫していた。

佐藤は、まだ霊に会うのだ。
なだらかで湾曲した薄暗い坂を登り詰めた辺りだ。佐藤は、やはり今日も出会ってしまった。
長く伸ばした白い髭≪ひげ≫を、しごいている奇妙で不可解な老人と……。彼は、いつも杖に自分の体重を半分以上載せている。突然変異で生まれた孟宗竹は、下部の節の間が交互に膨れている。亀甲状になった、仙人が愛用していそうな杖と体とを一直線にして、空を指し大声で喚いている。両目をカーと見開き、口の端からよだれを流している。
老人が現れると、突然、辺り一面、非日常的な空気に満たされ、太陽が消滅し漆黒の地獄に変貌する。
佐藤は、老人に出会うと、まるで身体が棒になったように動かない。彼の脳に、映像が映り出し始める。緊張のあまり、固く握った両手に脂汗が出てくる。口中が干上がるので、ゴクリと生唾を飲み込む。背中から首筋にかけて氷の塊を押し付けられたように、全身ブルブルと音を立てて小刻みに震える。全身の毛が、総毛立つ。対象のない憤怒≪ふんぬ≫が、心の底から噴き上がってくる。生理的嫌悪感からか、全身に冷汗さえ出てくる。その老人の顔には、常に悪魔じみた笑みが貼りついているのだ。
いや――【悪魔そのもの】のようにも思える。
(僕の精神が、粉々に崩壊してしまったのだろうか? 次第、次第に自暴自棄的な気分になってく
る。誰でもいいから、僕をこの窮地から助け出して欲しい!)
 佐藤の精神は、バラバラに壊れそうだった。心に蓄積していた恐怖と苦悩が混沌となって、彼の全身を満たし始める。
その刹那、老人は漆黒の空に向かって、天地を揺るがすような大声で喚き出した。
「AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA……」 
空気を引き裂く雷鳴のようだ。佐藤は、素早く両手で耳を覆ったが、耳の中で寺の鐘を突かれているような、グワン、グワンと鳴り続けている。
老人は、ノルウェーの画家エドヴァルド・ムンクが、千八百九十年代終わりから千九百八十年代初めに描いた絵画「叫び」の男と全く同じように表情をしている。ムンクが描いた千八百九十年代に制作した「叫び」、「接吻」、「吸血鬼」、「マドンナ」、「灰」……など、彼の作品に共通するテーマは、「愛」「死」だ。そして愛と死がもたらす【不安】である。極度にデフォルメされた顔は、まるで、ナスビだ。
そう――ナスビのように、その老人の顔は、醜く歪んでいる。老人の周辺だけ、特に濃い漆黒の背景でさえ、陽炎≪かげろう≫に揺らいでいるかの如く、ユラユラと歪んでいるのだ。
佐藤のボンヤリしていた脳が、じょじょに覚醒し出した。確か、前回、その得体の知れぬ老人は、太い樹木の幹すらバキ、バキと割りそうな耳をつんざく大声で喚いていた。
「ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ……」
今までのパターンから推察すると、今度会う時には、
「BBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBB……」
という大声を耳にするだろう、と佐藤は思った。でも、良い霊なのだろうか? 彼に対して、危害を加えたことは一切なかった。女の子と老人は、その場所から移動できない自縛霊だ。
佐藤には、二人を黄泉≪よみ≫の国へ送れる、霊能的技量を持っていない。まして、それが可
能となる修験者の荒行を、あえてする気なんてさらさらない。自縛霊達には、心から同情はするが……。
佐藤は、いつも最後にもう一つの強力な霊と必ず出会うのだ。場所は、もうほとんど坂の終わり辺りだ。やはり、二つの霊とほぼ雰囲気は、同じだが……。彼は、激甚≪げきじん≫恐怖感を味わう羽目に陥る。
容姿は、前に会った霊とは、全く異なる。英語でGrim Reaper、Deathと言われている生命の【死】を司るとされる神だ。冥府での魂の管理者とされる。その容姿は……最悪の、
おぞましさだ。人間の【死】は、【誕生】とともに人生にとって重要な位置を占める。だから、「悪の存在」が、認知をされてはいるが、ほとんどの場合、宗教の中で最も重要な神の一つとされる。最高神あるいは、次位に高い神だ。その神を、崇拝の対象にしている宗教もある。ギリシア神話では、女神あるいは悪霊である。戦場で死をもたらす悪霊だ。翼を持ち黒色で、長い歯と爪が長く、死体の血を吸うのである。
 最後に、佐藤が出会うのは、この世の人に【死】を知らせる者だ。神の次なる者。その姿は、
必ずおぞましさという感情と恐れを与える。ボロボロのマントを、わざと着ており、その顔は、ほとんどミイラ化している。眼窩≪がんか≫は、窪んでいて、常に、馬にまたがっている。その右手には、大きくて鋭い鎌を強く握りしめている。そして、その凶器を乱暴に振り回しているのだ。その正体は――察しの通り、【死に神】そのものだ。
しかし、彼が傷一つ負わないのは当たり前だ。佐藤には、その【死に神】が、見えるだけだからだ。彼は、その眼窩の奥にある腐った目を見ない。というより、見てしまっては、さすがの彼も、死を受け入れることを意味する。当然、多くの人が【死に神】を見ているはずだ。
でも、もう、その人は、死亡している。黄泉の国の住民だ。
ゆえに、今生きている人々には、【死に神】が見えはしない。ただし、死んだ人が、浮遊霊になり、有能な霊感を持つ人に伝えれば別だが……。残念なことに、そのような人に会う確率は、限りなくゼロに近いのだ。だけど、こうも言えるのではないだろうか?
【死に神】の存在を知っている人がいる。
だからこそ、彼の容姿等が語り継がれてきた、のだと。

佐藤は、登校時、常に同じ霊を見ることになる。
ところが、彼はそれを結構楽しんでいる節≪ふし≫もあった。それらのできごとは、彼の心の中で大きな比重を占めてはいる。だが、一種の陶酔が、彼を包んでいるのではないだろうか? それが証拠に、斎藤の顔には、なんとなく笑みが浮かんでいるからだ。霊を、何の心理的に葛藤するのでなく、当たり前の如く容認している。
何人かの学生が、彼の様子を見て、
「クス、クス、クス、クス、クス、クス、クス、クス、クス、クス、クス、クス、…」
と、笑っている。その笑みは、受けている恐怖を表現している。つまり、押し殺した笑みで精
神を均衡させているのだ。まるで精神異常者に関わりたくない。そんな態度で、そそくさと、し
かも、中には、ダッシュして離れて行く者もいた。毎度、こうだから、もう今では、彼も気にも
留めなくなっていた。

佐藤は、霊がいる坂を登りきった。そこには、眩しい太陽が燦々≪さんさん≫と降り注いでい
る。その桜並木の道を一直線に進んだ。
毎年入学式の始まる四月上旬には、桜のトンネルが出来る。黒いアスファルトの道路の両端に、
桜の木が等間隔に植えられているからだ。特に、桜の花吹雪が舞う時節には、風情≪ふぜい≫を
感じる。が、今は五月初旬だから、目にも鮮やかな緑の葉が木々を彩っている。その木々の下、
トボトボと肩を落とし歩く。少しだけ、今までに味わった緊張感と恐れから解き放たれる。その
後、彼は胸を張って大学へ向かうのだ。もう霊と遭遇しない、と知っているから…。奇妙である
が、同じ道を帰りに通っても、もうあの二人と、【死に神】には会わない。佐藤は、胸をはってK大に向かった。
校門を入ったすぐ横の礼拝堂を、チラと横目で見て古い経済学部の建物の中に吸い込まれていった。

浅田祐樹は、校門を入ると芝生が太陽を浴びて緑に輝いているのを、レイバンのサングラス越しに見やる。
そこは、まるで牧場のように広々していて、男女を問わず、学生達が、思い思いに寝そべって
いる。その光景は、牧場で寝そべっている牛さながらだ。
牧場の左の道を歩く。経済学部の建物は、歴史あると言えば良い耳触りだが、老朽化し煤と埃が浸み込んでいた。その建物は、すでに茶色に変色しているが、当初は、真っ白な建築物だったらしい。大学の図書館の古い文献にそう書かれている。
祐樹は、薄暗い階段を降りて行き、地下にある喫茶店のドアーを開ける。ホール担当のおばちゃんに、百円の不味いコーヒーを注文した。祐樹は、モウモウとしている紫煙に目を薄めながら、友達を探し、数人に手を挙げ、簡単に挨拶をした。久しく話していない木田を見つけたからだ。椅子に黒のダンヒルのバッグを横に置き、ドカッと座った。いつものように、木田は、ハードカバーの哲学書に、夢中になっている。下駄顔≪げたがお≫には不釣り合いな、丸い黒縁のメガネをかけている。そのメガネにはまっているレンズは、牛乳瓶の底のようである。よほど、視力が悪いに、違いない。
木田は、まだ祐樹の存在に気づいていないようだ。大きな咳払いをすると、やっと気付き、不思議そうな顔で、祐樹を見た。
「俺が、妖怪に見えるのかい? そんなハトが豆鉄砲をくらったような顔をして。アハハハハ。
ところで、深刻な顔をして何を読んでいるんだい? また、『実存主義』関係の本なのか?」
一つ大欠伸≪おおあくび≫をしてから、木田は真面目な目をして語りだした。
「最近は、超心理学に没頭している。研究対象は、テレパシー、予知、透視などが含まれるES
P(extra-sensory perception)。それとサイコキネシス(念力)だよ。
臨死体験や体外離脱、前世記憶、心霊現象をも研究している。なかなか奥が深いよ! 残念だが、僕の頭脳と知識では、なかなか歯がたたないよ!」
「へーえ。哲学にドップリ浸かっていたお前が……なぁー。なにか心境の変化でもあったのかい?
それとも何かオゾマシイ体験でもしたのか? まぁー、人間は、常に変化を求める生き物だから
なぁ。それも、一つの真理だと俺も思うよ。……でもどうしてだい?」
問いに答える代りに、木田は気難しい顔をして外に出ようと、祐樹を誘った。不味いコーヒー
も半分しか口にしていないし、ダンヒルのタバコに、カルチェで火をつけたばかりだった。が、強い意志に従わざるをえない雰囲気に押された。仕方なく、祐樹は彼の後に付いて行った。
さほど広くない濁った池の前に、半分朽ちたベンチがある。そこに、二人仲良く腰を下ろした。祐樹は、木田の言葉を待っている。が、彼は、二十分ほど押し黙ったままだ。祐樹も彼にならい、地べたを、ぼんやり見ていた。一列に行進している二~三ミリの大きさの蟻がいる。胸部から腹柄節にかけて、赤褐色をしている赤蟻達を眺めていた。
やっと、木田が重たい口を開いた。
「祐樹君は、霊が見えるんだろう? ぜひとも協力して欲しい思考実験があるんだ。頼む!一生
のお願いだ!」
(一生のお願いとは、大げさだ。よほど深刻な相談かなぁ!)
なぜか、木田は、恥ずかしそうな表情をしていて、彼の眼には自嘲と鬼気が宿っている。今だかつて、彼のこんな表情を見た記憶は、祐樹にはなかった。
「あぁー。いいよ。時間は早いけども、その前に腹ごしらえしないか? 学食でお握りを買って
くるよ。具はなんでもいいだろう?」
学食の馴染みのオバチャンに、いつものように無理を言った。本来のメニューにないお握りを
七つ作ってもらったのだ。新品の一万円札を手渡すと、祐樹は、バイバイをして足早に去った。
きっぷのいい「江戸っ子」気分を満喫したかったからだ。
すぐに、先程の場所に戻ったが、どこにも、木田の姿はなかった。
(変だなぁー。俺に思考実験とやらを頼んでいたのに……。トイレでも行ったのかな? 少し待と
う)
 三十分ほど経過したが、一向に木田は現れない。
彼は、不満に少し苛立って思わず心の中で、少しばかり毒づいた。
(何やっているんだ。俺を長い間、待たして……くそー)
それでも、イライラしながら待っていた。薄汚い白鳥に、お握りを少しだけお裾分けした。そして、残りのお握りを全部平らげてしまった。それにしても、白鳥の食欲には目を見張った。確か、担当のオジサンが定期的に餌場に好物を、補充しているのに……。白鳥達は、ピチャピチャと嫌悪に満ちた音を立てて、汚れた水と一緒飲み込んでいる。
(一緒に飲み込んだ水は、どう処理するのだろうか? 家に帰ってから、PCで調べる価値は充分ありそうだ)
一向に姿を見せない木田を無視して、四時限目にある、祐樹が専攻している『経済学説史』の専門ゼミに出席した。講義終了すると、寄り道をせず真っ直ぐ明石市の自宅へ帰った。
翌日の日経新聞を読んでいた時だ。心臓が口から飛び出るほど驚愕≪きょうがく≫した。
同時に眩暈≪めまい≫が、祐樹に襲いかかった。

今まさに日が変わろうとする十一時五十九分。
木田は、大阪市福島区の自宅マンションから、飛び降り自殺をしていた。日経新聞を読んだ瞬間、祐樹は、錐で頭頂部を掻き回されたような、熾烈≪しれつ≫な痛みを憶えた。
木田の飛び降りた数分後の映像が、脳裏に再現された。それは、なんとも酷い死に様だった。駐車場の車に最初に激突したらしく、後頭部がバラバラに砕けていた。顔面は、腸が飛び出した胴体にめり込んでおり、手足は壊れた人形のように、バラバラの方向を向いていた。白い車のボンネッタに飛び散った大腸は、まだ蠕動運動≪ぜんどううんどう≫をしている。血液と脳漿≪のうしょう≫が噴き出して、周囲に流れ出している。車と車の狭い間に、飛び降りた反動で飛び出した両眼が、恨めしそうに宙を睨んでいる。それは、極めつけのオゾマシサだった。
ドッスンと大きな音がしたはずだ。しかし、どの部屋の明かりも、消えたままになっている。本人が一人で生活していたマンションも同じだ。多分、誰もまだ気付いていないようだ。祐樹が、こんな経験をしたのは初めてだ。
死亡した木田の強い想念が、祐樹に見せた数分,否、数秒の映像だったのだろう。

翌日は、友引だった。だから、二日後の夜七時に、お通夜が執り行われることになった。
酷く嫌な予感に、祐樹は何となく躊躇≪ちゅうちょ≫していた。が、日頃から親しく付き合っている友人達の誘いを、断り切れなかった。気が進まなかったが、夜七時半、十九名とともに出かけた。マンションの真新しい集会所で、お通夜が執り行われるようだ。すでに、二十名~三十名ほどが、片手に数珠を持ち、前に並んでいる人の背中を見て並んでいる。ご焼香の順番を待っているのだ。長い間待って、ようやく順番がきた。彼等は、木田の両親にお辞儀をし、お悔やみを一人ずつ言った。深々と挨拶をし、
「このたびは、木田くんが……」
 と、末尾を小さな声で濁す。礼儀作法にのっとったやり方である。
彼等は、いままでそのような場を踏んでいないから、冠婚葬祭の本を、近くにある本屋で急きょ買い、回し読みした。こうして、最低限の知識を詰め込んだのである。焼香をするため、棺桶に収まった木田に、近づいたその時――祐樹は、アイスピックで脳天を何度も突き刺されるような、激甚な痛みに襲われた。脇からに友達が、倒れないように支えた。
「顔色が青白いぞ。祐樹大丈夫か? 横になって休ませてもらうように頼もうか?」
「あ。あぁー。ありがとう。一瞬、めまいに襲われただけだよ。今は何ともないよ。心配かけて悪かったなぁー」
「でもまだ、顔色がよくないぜ。……本当に大丈夫か? 無理するな!」
皆が、親身になって心配していた。「遠くの親戚より近くの他人」とは言いえて妙だ。
彼等は、木田に最後のお別れをしょうと、棺桶の子窓を開けた。死に化粧を施され、仰向けに寝かされた木田は、まるで、生きているような気がしたのは、一人だけではなかっただろう。
残念なことに、仲間の内、祐樹と木田にだけ霊感が備わっていた。祐樹だけが、木田の死後数分後の姿を見てしまったのだ。
 葬儀社の人達が、組み立て季節の花を飾った祭壇は、かなりの価格だろう。彼の父親は若くして起業し、今ではCEOになっていた。従業員三百人以上が、勤務する将来有望視されているIT産業だ。すでに、ITバブルが崩壊していたのに……。可愛い一人息子の葬儀だから、たいした金額とは思っていないだろう。お通夜で、あまりにも両親が悲嘆していたので、全員がもらい泣きしたほどだ。それほど、両親には辛いできごとだったのだろう。初七日、四十九日には、彼等全員参拝した。しかし、「去る者は、日々に疎し」の諺通り、木田は彼等の記憶から薄れていった。「去る者は、日々に疎し」とは、死んだ者は日が経つにつれ世間から忘れられる、という意味だ。親しかった者も、遠ざかれば日に日に交情が薄れてしまう。 
死に化粧を施され、棺桶に安置されている木田。だが、祐樹は見てしまったのだ。まるで、突き刺さるような粘っこい視線を背に感じ、上を見上げると、生前と変わらない木田が漂っている。天井近くで、フラフラと揺れながら、祐樹の顔を見てにっこり笑っているのだ。
幽体離脱は、生きている人間の肉体から霊魂が浮遊する現象だ。祐樹が読んだ超心理学の書が
正しいとすればだが。なのに、木田は【正真正銘の死者】である。木田は、祐樹の脳に直接語りかけてきた。
「佐藤、君は僕が見えるんだろう? しかも、僕以外の霊も見えるんだろう? 前も言ったよう
に、ぜひとも協力して欲しい思考実験がある。頼む! 僕の願いを叶えてくれ。君しかいないんだ!」 
というなり、木田を囲むようにぼんやり霞≪かすみ≫がかった。木田の霊が次第に消えていく。もう、輪郭さえ消えている。本人はまだ話の続きをしたそうだったのに……。
(彼は、具体的に何の思考実験を望んでいたのだろう? 今さら、そんな事をそんたくしても、どうにも、仕方ない。木田の冥福を祈るのみだ。どうしても俺に頼みたいのなら、夢にでも出現するだろう?) 
彼等は、両親に告別式にお邪魔する旨を伝えると、大変喜んでくださった。以前、何度も泊に行き歓待を受けた。再度ご挨拶をし、祐樹は途中友達と別れ、寄り道をしないで、明石の家に帰った。母に頼んで大量の塩で清めてもらった。その夜は、二階のベッドに潜り込むと、朝まで夢すら見ずにぐっすりと眠れた。翌日は、母の朝食作りの物音で目が覚めた。だが、不快な音では、なかった。素早く着替えを済ませと、一階の居間に降りて行き、難しい顔で新聞を読んでいる父の横に静かに座った。今は、大証に株を公開している商社の社長の職を、精いっぱい努めている。
が、その経歴は変わっていた。父は、子供の時から神童と呼ばれていた。皆の期待に応じるように、日本の最高学府で博士課程を終了後に、アメリカのハーバード大学、マサチューセッツ工科大学、プリンストン研究所で研究に励んでいた。博士号はもちろん持っているが、その研究対象は、物理学の一分野だ。物質の最も基本的な構成要素(素粒子)と、その運動法則を研究対象とする素粒子物理学を学んでいた。およそ、会社の経営とは、全く関係がないように誰でも思う。浅田はそんな父を心から尊敬している。多くの事柄を学んだし、良き相談相手でもある。浅田は、せっかく大学に入ったのだから、出来るだけ、教養を積もうと努力した。多くの友人にもめぐりあった彼等から様々な種類の情報を、得る事ができた。企業の、業績、将来性……など。
【その事は、就職後の俺の仕事にも非常に役立った】と、浅田はいつも感謝している。

 経済学部の本館地下一階には、喫茶店がある。
四十名が座れるだけの小さなスペースしかなかった。そこでは学生達がコーヒー等を飲みなが
ら議論等をしていた。当然、黙々と書物に目をやっている学生も一緒だった。古びたドアーを引
くと、カラン、カラン、と頭上で鐘が鳴る。一歩中に入ると、喧騒≪けんそう≫とタバコの紫煙
に包まれる。換気扇は、一カ所しかないのがその原因だろう。そこで、その日の講義を終了した
学生。講義をサボっている学生。次の講義を待っている学生達が、たむろしていた。浅田は友達
を探した。何人かを見つけ、席が空いている横に座った。四人掛けにイス。すでに、三人がいた。
一人は無精ひげの山下。二浪して入った学生だ。国立K大を受験したが、失敗した。止む無く、
ここに入学した態度がデカイ奴。もう一人は、見るからに気の弱そうな吉田。現役で、当校に入った学生だ。もう一人は、哲学者のようにいつも難しい顔をしている大野だ。
 祐樹も、そんな彼等の仲間だった。
祐樹は、大学の四年間、真面目に講義を受けていた。前期、後期のテスト前に、よく友人達に、
自分のノートを貸していた。彼は、『優』を多く取得した。だからこそ、上記の企業にトップに
近い成績で入社出来たのだ。今は、すでに営業課長として同期のトップとして活躍している。知り合いに会うたびに、目に入れても痛くない四歳の一人娘を自慢していた。
(親馬鹿とはこのことを指す言葉だろう!)
子供のいない智也は、内心軽い嫉妬を覚えていたのだった。
智也は、妻、母親、愛犬を、マンション二階の駐車場でベンツに乗せた。智也が丁寧に乗っている愛車だ。愛犬は、生後四カ月の真っ白の縫いぐるみのようなグレイトピレネーズ。伊丹≪いたみ≫の犬専門店での話だ。最初はスヌーピーのモデルとなった、ビーグル犬を買う予定だった。だが、彼は真っ白で可愛い犬に、一目惚れしてしまった。父がアメリカでチャンピオン犬、母は、イギリスでチャンピオン犬だ。
だが、値札を見て腰を抜かしそうになった。POPには、五十万円の値が堂々と記してあったからだ。店員さんの勧めと、彼を見つめるつぶらな瞳のグレイトピレネーズに負けた。
「明日必ず買いに来ますから、誰にも売らないでください! お願いします!」
店員さんにそうお願いし、母に借金を頼むため、慌てて西明石まで車をとばした。翌日、開店
前からそわそわし、自動扉の開くのを待っていた。グレイトピレネーズを手に入れ、女性店員の細々した説明を上の空で聞いていた。

吉崎智也の愛車は、五年落ちのベンツだ。全体はベージュだが、ドアーから下が濃いベージュのツートンカラーである。彼の駐車場は二階にある。白いロールスロイス、ベントレイ、赤のフェラーリ、キャデラック……などの外車が大半を占めている。だから、彼は大きな顔はできないらしいが……。
彼は、毎晩濡れたタオルで汚れを取り、乾いたタオルで乾拭きしていた。休みの日は必ず洗車場で丹念に愛車のベンツを洗っている。所有する物は、例えケシゴム一個でも大事にするのが智也の性格だ。
実際にベンツの代金を現金で支払ったのは、彼の母だ。
その経緯≪いきさつ≫はこうだ。
阪急電車の宝塚線で、宝塚から梅田に向かう途中に「中山寺」という駅がある。聖徳太子が建立した日本最初の観音霊場だ。「極楽中心仲山寺」と称されている。安産祈願の霊場として、皇室、庶民より深く信仰を集めている。豊臣秀吉が、祈願して豊臣秀頼を授かったとされる寺だ。中山一位局が、明治天皇を出産する時に安産祈願し、無事出産した。このことから、日本唯一の明治天皇勅願所となり、安産の寺として知られている。
智也、妻の真理子、母の小夜≪さよ≫三名が、参拝しょうと意見がまとまった。家で読みかけ
の書物を読みたいからと辞退した父以外、愛犬も含め全員だ。自宅マンションから、例の喫茶店へ車で向かった。七年前、四度目の挑戦でやっと手に入れた、免許証を交付された一カ月後に、念願の車を手に入れた。マツダの最上級セダンとして長年生産されていた中古のルーチェだ。その車で、第二神明~阪神高速~名神を乗り継いで、尼宝線を北に進み国道百七十六号線を走っていた時だった。ショールームに展示してあった中古のベンツを、ショールームでじっくり見せてもらった。その結果、母が運命的な出会いをしたかのように、大変気に入って買った。財務省は、もちろん、彼の母だった。

祐樹は、その日は営業車でお得意先を回っていた。約束した午後二時きっかりに、現地の喫茶店で智也に会った。智也は、複雑な表情をして言った。
「よう、元気か祐樹? 何年ぶりかなぁ? 随分会っていないなぁ。聞くところでは、お前は出
世しているらしいなぁー。羨ましいよ! 子供の頃から、もっと真面目に勉強しとけば良かった、
と今になって思うよ!」
 祐樹は、そんな彼に向って努めて明るく言った。
「もう、四年位会ってないぜ! お前は、相変わらず日に焼けた健康そうな顔だよ。羨ましいよ! 
実際……」
挨拶も簡潔にして、早速、店の中を見ることにして、家族を車から降ろした。
智也が、その建物を一瞥≪いちべつ≫した瞬間、妙な違和感と背筋がゾクゾクとする得体の知れぬ恐怖を感じた。剃刀の刃のうえを歩いているような、危うい恐怖に全身満たされたのだ。暑い季節なのに、歯の根も合わぬほど、全身震えた。
愛犬のスイス山岳救助犬グレイトピレネーズは、まだ毛が生え揃っていない細長い尻尾を、後ろ脚に入れていた。迫力のない乾いた吠え声で、喫茶店に向かって、うなり続けている。
智也達は、四段のステップをのぼり、喫茶店へと入った。すると、益々オゾマシさが、彼の周囲に立ち込めてきた。店の中は、奇妙な暖簾≪のれん≫があちこちにぶら下げてある。下手な字で書いた藍色のPOPが、そこかしこにぶら下がっている。照明も薄暗い。店の中にいると、お化け屋敷の中にいるようだ。智也は、無理に平然として祐樹に言った。
「前のオーナーはどんな人だったんだい? ……悪趣味も度が過ぎている! 祐樹、そう思わないか?」
 祐樹は、ただ黙ってうなずいた。だが、智也の妻と母は違った反応を示した。
 智也の妻と母は、この喫茶店をとても気に入ったようだ。
「そんなに、けなすものじゃないわよ! 素敵な店だわ。お母さんだってそう思うでしょ?」
母も妻と同意見だ。
「大きさもあるし、綺麗にすればいい店になると思うわ。智也、ここに決めなさいよ!」
やはり、彼にだけ霊感があるのか? 祐樹にこの店の前オーナーについて尋ねた。すると、彼
は、スラスラと語り出した。 
「四十歳位の陰気な女性で、社交的ではなかったよ。お客が来ると顔を隠したらしい。根暗なタ
イプだったらしい。と言うより、変人だったようだ。俺も面識がないんで、詳しくは知らないが……」
「へーえ。そんな人が、よくもまあ客商売の喫茶店を経営出来たなぁー。呆れて物も言えん。多分、経営不振に陥って店を閉めたのだろー?」 
陰鬱≪いんうつ≫な顔をした智也が、祐樹に、なぜか、小声で問いただした。すると、祐樹は前オーナーについて語り出した。
(やはり、祐樹は細かな情報を収集していたのだ)
智也は、祐樹に裏切られた気分になったので、それが顔に出たのだろう。
祐樹は、慌てて少し詳しく語った。
「そうじゃないんだ。崖から落ちて、夫婦ともども亡くなったらしい。幸い子供はいなかったようだが」
「……」
智也は、一瞬言葉を失った。
喫茶店は、築約二十年の古臭い外観と内装だった。とは言え、九九席もある大きな平屋建ての
喫茶店である。敷金七百五十万、家賃四十万はリーゾナブルな値だ。しかも、都会では、滅多にない四十四台駐車出来るアスファルト敷き駐車場を有する。それらが、最初に感じた違和感と背筋の寒さを智也に忘れさせた。
即座に、皆は、OKした。智也だけは【何者】かに操られるような気がしてならなかった。だが、しぶしぶ家族の意見に従わざるを得なかった。八月末には、店から数十メートルしか離れていない近さにある、管理会社の山下ハウジングと諸契約を済ませた。
オープンは、九月九日にすることに決定した。山下ハウジングの社長は、色黒で馬のような長い顔をしていて、智也にとって最も嫌いなタイプだった。偉そうに、古い四灯丸目のBMWを乗っているのも、気に喰わなかった。しかし、ビジネスはビジネスだ。でも、少し心理的抵抗をぬぐえなかった。
が、喫茶店は掘り出し物だ。全て気にいる物件は存在しないことも、智也は良く承知していた。
オープンまでの期間、智也を含む家族三人で店舗の清掃に汗を流した。必死で、色んな所に付着した油汚れ、煤汚れと格闘した。特に厨房の油汚れは、とても酷かった。三人で挑戦したが、とても歯がたたなかったので、清掃専門業者に委託した。三十万円の出費は、当初の計画には入っていなかったが。それも、いたしかたない、とあきらめることにした。
智也は、全体のレイアウトも金銭的に可能な限り変更した。テーブルとイスは、すでにあるものを使うことにした。が、座布団は、別注で紺色の本物のかすりに替えた。高さ一・八メートル,横幅十メートルの特注木製本棚が備え付けられていた。本棚には、漫画がギッシリと並んでいた。智也は、大工さんに頼んで、同サイズの本棚を三つ作らせた。古本、新刊漫画シリーズも奮発して買い揃えた。かなりの金額だったが【漫画喫茶】を【売り】にするためには、必要な経費であった。店名は【マンガ喫茶かど】をそのまま使った。高さ約十五メートルの電飾看板が聳≪そび≫えていたからだ。交通量が多い東西と南北の生活道路に、店が挟まれていたからでもあった。京都伏見稲荷神社近くに京都事務所を、構えている有名な四柱推命の先生が、その事務所にいる日、母はアポを取った。三十分の鑑定で三.五万円も出して、オープン日、店名……などを占ってもらった。夫婦は、その日、どうしても外せない業者との打ち合わせがあったから、母と一緒に行けなかった。
四柱推命の先生の言う通り、なにもかも実行した。家族皆が、【風水】を信じていたからとも言える。西に黄色のシンボルを置くのが、良いと前々から知っていた。皆で、あれこれと知恵を絞った。その結果、黄色の花を植えることでまとまった。四季咲きで常に咲くバラ等も検討した。最終的には、妻の提案していたエンゼルトランペットに決定したのだ。
西の敷地にその苗を植えた。黄色からだいだい色,赤へと色が変わり,シチヘンゲ(七変化),紅黄花≪こうおうか≫とも呼ばれる。十四株のエンゼルトランペットを地面に植えた。この花は、
春~秋、丈が二メートルを超えるほど成長速度が早いから、一日に二回以上肥料を施した。
同時に、モーニング等で出す遅咲きのミニトマトの苗木を植えた。そのために五キログラム入りの花の土を四十袋買った。智也は、一人でせっせと西の敷地にミニ菜園を作った。
タブロイド判求人誌を新聞に折り込んでいる求人誌の担当者に店で会い、名刺大の募集を主要四紙十四万部に掲載した。その甲斐あって、履歴書を持ち面接にきた約八十~百名の応募者と、面接をした。智也には、応募で来た人数をカウントする暇もなかったのだ。最終選考で、二十名に絞った。その中から、厨房に六人、ホールに十人採用した。フリーター、短大生、四年生の大学生、専門学生、の順に多く採用した。彼女達の年齢は十八~二十二歳で、智也夫婦よりも若いから、使い易いだろうと踏んだからである。学生は、講義があるので、毎日入ることはできない。主として、フリーターの小野さん、小西さんがほぼ毎日勤務した。小野さんと大西さんは、ともに十九歳である。小野さんは、さぞ宝塚音楽学校の男役に似合いそうな、スタイルグンバツ容の姿であり、しかも、ハキハキとした女性だ。方や、ほんわかと人を包み込むような雰囲気を持つ小西さんは、ポッチャリ型である。が、どちらの従業員も愛想が良く、お客様には好評であった。智也は、店を年中無休にし、朝七時~夜七時まで営業した。毎日、彼等はマンションを朝五時半に出て、店の開店準備に忙殺された。智也は二十八歳、妻の真理は二十五歳である。二人は、中規模の居酒屋チエーン店で知り合った。紆余曲折≪うよきょくせつ≫を乗り越え、一年の交際を経てやっと結婚にこぎつけた。
真理も高校卒業以来、サービス業で働いていたので、厨房での経験が豊富であった。
智也は、ネットでいろいろと検索し知識は仕入れてはいた。が、コーヒー店の実際の経営に関しては、ズブの素人である。そのため、オープン一週間前から、祐樹に様々な喫茶店のノウハウを教えてもらった。祐樹は、サイフォンコーヒーの立て方から、平均的な喫茶店で出すメニューを、一から智也に教授したのだ。
智也達には、コウノトリが赤ちゃんを未だに運んでこない。二人は、チヨッピリ贅沢な生活を送っていたので、貯金を一切していなかった。【宵越しの金は持たない】江戸っ子と同じだった。一言で言うと、浪費家だった。全額を納めたのは、小夜≪さよ≫だった。一人っ子の智也を溺愛する五十四歳の母親だ。
「生前の美空ひばりさんに、凄く似ているわぇー!」
と皆から言われるのが、自慢である。
彼の父も母と同じ年令だ。父は、関西の有名国立大学を出て、大手メーカーで総務部の部長職
にある。社長の信頼も厚く、役員の候補に挙がっているほどに優秀である。その父に比べて、母
親の小夜が甘やかして育てたせいだろうか? 智也は、小学校の頃より成績は下で、商業高校を何とか卒業するのが精一杯だった。父親は仕事一筋であった。悪い意味での放任主義であったのも、大いに責任がある。残念ながら、大学に進学出来る偏差値では到底なかった。
無情にも、父の優秀な遺伝子は、一人っ子の彼に、受け継がれなかったのだろう。頭脳の方は明晰≪めいせき≫ではなかったが、人並み以上の努力家である。
高校卒業以来、居酒屋チエーンで働いていた。全国で六十九店舗の居酒屋を経営する大規模企業である。途中で、見聞を広げる目的で他の居酒屋チエーンに変わった。もちろんだが、未だ店舗で店長として働く社員だった。智也は、幹部を目指して彼なりに努力していた。夜遅く帰宅しても勉強は欠かさなかった。飲食業の基本から、経済学、経営学等だ。初めは理解を超えていたので、苦戦を強いられたが、何度も何度も繰り返し勉強に励んで少しずつだが、理解できるようになってきた。多分、大学で学ぶだろう書籍の数々を読破し、身に付けてきたつもりだった。勉強が好きなのは――成績とは、悲しいかな比例しない、それが世の常――父親の影響に違いないだろう。父は、仕事から帰ると直ぐに、書斎にこもる。
本棚には、多くの書物が整然と並べてある。父は、片時も惜しんで、熱心に勉学に励んでいる。酒、たばこ等は一切嗜≪たしなま≫ない。食事の時ですら、外国語の分厚い本を片時も離さず、熱心に読んでいる。
その父の姿を、彼は子供の頃から観察していたからだろう。

中古のベンツの代金も含め、喫茶店の諸費用を母から、全て借金した。店が超繁盛しているおかげで、たった二年半で借金を返済できた。上手く経営すれば、たかが喫茶店一店でも、毎月百万円以上の純利益をもたらす。智也は、今、ジャガーの新車に乗っている。明石大橋の本州側の起点である、神戸市舞子近くにある五LDKマンションを、朝五時半に出発する。妻、母、TVCFで良く登場する純白の大型犬を乗せて……。賃貸だが、彼等は、九階の東向きの角にある豪華な住むマンションに住んでいる。しかも、四十坪のサンガーデンがある。
五十分ほど山越えをしながらドライブして、やっと店に着く。金物で有名な兵庫県M市にある神戸電鉄S駅近くにある店だ。
購入した時には、産まれて六十日だった、スイス山岳救助犬グレートピレニーズである愛犬セシルsesiru)も、今では体重五十キログラムをゆうに超える成犬になっていた。なぜ、セシルという名にしたのか? 智也が尊敬しているフランスの監督の名が、【セシル ビ デミル】だからだ。日本でも有名な監督である。セシル・B・デミルは、チャールトン・へストン、ユル・ブリンナー主演「十戒」を指揮した名監督だ。彼の映画は、どのシーンもまるで絵のように綺麗だ。四時間というかなり長い映画だ。が、チャールトン・へストン演じるモーゼが、【出エジプト】から有名な、海を二つに割るシーン。シナイ山で神から十戒が書かれた石盤を受けとるシーン。彼は、ビデオ店で借りて、何度も観て強烈な感動を受けた。だから、最初に買う犬はセシル、次はビー、最後にデミルという名にした。ビーは、がさつだがスヌーピーのモデルのビーグル犬だ。デミルは、ラブラドール犬である。もちろん、三匹とも店に連れて行きたかったが、セシルだけにした。後の二匹は家に置いてこざるを得なかった。車で同時に三匹も連れて行けなかったからだ。二匹は、サンガーデンで自由に走り回っている。
智也夫婦は、年中無休で働いている。【欲と二人ずれ】で働いているのも、事実だ。金儲けをするためは、当然だと二人とも考えていた。自分が経営者だからこそできるが、雇われの身であるなら、休みが無いのはきっと苦痛に違いない。

喫茶店を始めて後に、お客さんや近所に住む人から聞いた話では、今まで経営者は長くて一年だけしか営業できないほどの不振店だった。さらに恐ろしいことに、必ず、今までの経営者、あるいはその奥さんが、自殺、交通事故……など、災難に遭って命を落としたようだ。その原因は不明らしい。つまり、不審な死を遂げていたのだ。
俗に言う【呪われた店】らしい。
(そのせいで、格安物件であったのだろうか? そのような店で、何故、成功したのだろうか?)
 智也は、少しだけ気にはなった。でも、漆黒に色付けされた考えを【忘却の彼方】に追い払おうとした。
 話をガラリと変えて、智也が経営する喫茶店が、超繁盛した秘策をここで記そう。
まず、モーニングだ。ほとんど全ての店は、焼いた薄いトーストに冷たい卵を提供してあげていると勘違いしているのだ。
智也は、モーニングを十四種類に増やした。サラダ、ミニトマトと常に【温かい卵】をベースとした。例えば、Aモーニングは、柔らかい極上のトースト付きで五十円増しにした。Bモーニングは、シャウエッセンにカレー、胡椒の効いた炒めたキャベツを、絡めたホットドッグ付で百円増しにした。その他、様々なモーニングを、夫婦で考案し提供したのだ。つまり、お客様の選択肢を増やすと同時に、客単価を上げることにより、利益を増加させたのだ。
モーニングの時間帯は、朝の七時から十一時までにし、それ以降、三時までをランチタイムとした。四十種類ものランチメニューを、妻とともに頭をひねって考えだし、毎日異なったS,A,B,Cの四種類のボリュームに富む昼食に、ホットコーヒー又はアイスコーヒーを付けた。価格は、千円以内押さえてお客様に提供している。平日であっても、モーニング時、ランチ時には、毎日満席状態だ。ウエイティングのため、車で待って頂くほどである。
何通りのランチを日替わりで提供出来るのか? 数学1で勉強した組み合わせの式にあてはめれば、簡単に計算できる。
でも、店を始めた頃は、四万枚の二色刷りのチラシを、主要四大新聞に折り込んだ。さらにブログでも告知した。にもかかわらず、一日の売り上げは一万円程度の日が約一カ月続いた。
だが、口コミの影響には、目を見張るものがあった。一日に四万、五万と順調に売り上げを伸ばし、今では三十万を下らぬ日はない。当然、損益分岐点を軽く超えた。一年を平均すると、店の純益は、月間約二百万円である。
恐らく、喫茶店としては、超成功店の部類に入るであろう。従業員も美系で,愛想のいい若い娘を確保するため、募集、募集、を繰り返した。毎日勤務しない人も含めると、主婦、大学生、専門学校生、フリーターが四十名近くいる。

しかし、この智也が経営する店で、奇妙なことが数多く起きるようになった。
トイレは広々とした女子用と男子用の二か所ある。一人客の若い女性がトイレ入ったのを、何気なく見ていたお客さんが、女性従業員に知らせた。いつまでも出てこないのを不審に、思ったからだ。隈なく探したが、該当の女性は忽然≪こつぜん≫と消滅していた。飲みかけのコーヒー、紅茶、ジュース……などを置いたままだ。読みかけの女性週刊誌、レシートがテーブルに残っていた。閉店の夜七時になっても姿を見せない。閉店作業を従業員四名と妻、母に任せ智也は、慌てて近くのポリボックスの警官に知らせた。だが、何の手掛かりも見つけられなかった。
一体、彼女達は,どこに消えたのだろうか? 開店してから、もう九十名程の女性達が、トイレで姿を消している。
兵庫県警に【喫茶かど女性消失事件】という名の捜査本部が立上げられた。智也達は、県警の鑑識活動に協力せざるを得なかった。二日間、店を休業にして隈なく鑑識が行われた。しかし、何の手掛かりも得られなかったようだ。智也を含め全ての従業員が事情聴取を受けた。が、同じ事柄を何度も繰り返し訊かれ、誰もがうんざりした。
マスコミもこぞって大きく取り上げた。新聞の一面にでかでかと、掲載された。そればかりか、TVのニュース、ワイドショウにも連日とりあげられた。それが、かえって宣伝となり、さらに客数が増加し出した。人間のDNAにある【怖いもの見たさ】が、そうさせたのだろう。

さらに奇妙なできごともある。
滅多にないことだが、週一度、客が誰もいない毎週金曜の四時きっかりに、四十歳ぐらいで小太りの男性が必ず来店する。カラン、カラン、カラン、カラン……と入口の扉を開ける。そして、いつも同じテーブルに座る。男性は、季節に関係なく、夏用の花柄ワンピースを着ている。流行遅れと言おうか、昭和四十年代らしき格好をしている。智也は、毎週金曜の四時近くになると、気味の悪さで嘔吐しそうになるが、従業員の手前じっと我慢する。
男は、生足でスリッパを履いていて、延ばしに延ばした髪を後ろで束ねている。さらに、死臭に似た吐き気を催させそうな悪臭を、辺りに振り撒くのだ。
ミックジュース、キリマンジャロコーヒー、かつ丼、神戸牛ステーキセット、特大ハンバーグセット、カツカレー、冷麺、ジャムトースト。それらをいつも、四人前注文する。よほどの健啖家≪けんたんか≫なのだろう。それらを残らずペロリと平らげるのだ。いつも新品の一万円札を数枚レジで支払ってくれる。
店にとっては有り難い客だが、奇妙なお客でもある。彼がいる間の約一時間は、誰もお客は入らず貸し切り状態であった。
最初は、後で三名の客が来るのかな、と誰もが思っていた。
彼は、四本のオシボリを交互に使った。大粒の汗を拭くためだ。顔中汗を吹き出しながら、黙々と料理を口に運んでいる。奇妙な服装をした男性だけであることを知ると、皆、変に納得した。
「有難うございます!」
皆が見送ると、彼は、必ず、振り返り、隙間だらけの黄色い歯と赤黒い歯茎を見せて、奇怪な唸り声を出す。その顔は、悪魔じみていた。いや、【悪魔そのもの】かも知れない。
「イッヒ、ヒッヒ、ケケケケ、イッヒ、ヒッヒ、ケケケケケ、イッヒ、ヒッヒ、ケケケケ……」 
彼が、去るといつも従業員達は、争ってトイレに急いだ。
「ゲー、ゲー、ゲー、ゲー、ゲー、ゲー、ゲー、ゲー、ゲロ、ゲロゲロ、ゲロ、ゲー、ゲー…」 
従業員用と、客用トイレに全員なだれ込んだ。

普段、サイフォンコーヒーは担当の四名の従業員に任せている。
偶々≪たまたま≫智也が、自分で飲むブルーマウンテンをたてている時だ。
確か、四名の客が入店されたので、従業員が注文を聞きに、お冷を四つ用意して行く。と、なぜか三人しか席にいず、困った顔をして、三名分の伝票を見せ、
「マスターも、確かに四名様が入ってこられたのを、ご覧になったでしょう?」
彼女が何を言わんとしているのか? それを思うと、智也の身内より悪寒がし、吐き気を催す。
彼女に軽く頷くのが、智也ができる全てであった。そんな夜は、必ずと言っていいほど、悪夢にうなされるのだ。ゾンビのような魔物に追いかけられ、必死で逃れようとしても、スロ-モーションのような動きしかできない。とうとう、魔物に追いつかれ、
「お前の美味しそうな脳味噌を、この俺にくれ!」
叫ぶのと、頭を齧≪かじり≫つかれる恐怖とで、目を覚ます。ギヤーと喚く自分の絶叫に、夜
中に飛び起きてしまうのだった。少しの間、脳がボンヤリとして、本来の働きをなくしているが、少しずつだが正常になってくる。
ねっとりした油汗とも、冷や汗とも区別がつかない汗が、全身から吹き出しているのだった。

佐々木 卓也≪ささき たくや≫は、二十八歳、独身である。
JR西明石駅から南下すると林崎漁港があり、そこに近い、築二十年ほどのオンボロアパートに、母と二人で住んでいる。中学をやっと出られるくらい、お頭≪つむ≫の程度も寂しく、さらに悪い事に、世間が要求する協調性と積極性にも乏しい。だから、担任の先生の尽力にも関わらず、一社とて受け入れてくれる会社は、なかった。だが、「捨てる神あれば拾う神あり」は、卓也には真実だった。五十歳代のスキンヘッドの社長に拾ってもらったのだ。見るからにあちら系の、厳しく恐ろしい社長だ。彼が四店舗経営する居酒屋で職を得たのだ。ただし、アルバイトの身分で……。夕方の四時から夜中の二時まで、卓也は、安い時給で働いていた。子供の頃から、落ちこぼれの人生に甘んじてきたのだ。うだつの上がらないサラリーマンの父。ところが、卓也に優しかった父は、四十四歳の若さなのに、二十一年前に脳幹梗塞に罹患し、集中治療室で治療を受けていたが、4日後、医者の努力にもかかわらず、あの世に旅立った。
生命保険の死亡保険金三千万円は、母が銀行に全て預金していた。何かの時に、下ろすと彼にいつも言っていた。母は、正社員として四店舗しかない、小規模スーパーの鮮魚売り場で、白い厚手のビニール製前かけをし、汗水たらして働いていて彼を育ててきた。
風呂に入りしっかり体を洗っても、魚臭さが消えないと、母は、常々、こぼしていた。
母は、時代に翻弄され、多種多様の仕事に従事してきた。卓也は、卒業以来、まじめに今の居酒屋で働き続けている。が、何年経っても時給の上がることはなかった。アルバイトとして勤めている高校生や大学生の時給よりも安かったのだ。転職するにも勇気がなく、まして時給交渉のできる度胸もない卓也だった。お客様のオーダー通り、漫然≪まんぜん≫と天ぷらと様々な中華フライを揚げ、各種グラタンをレンジで温めている。夏には、自分が刻んだ葱≪ねぎ≫と、削りカツオを載せた冷や奴を、ガラスの皿に盛って出している。開ければ、湯気で火傷しそうな洗浄機の係りでもある。閉店すれば、ゴミを集めて所定の位置に出す。猫に荒らされないよう、ポリバケツにきっちり入れる。最後に、ホースで水を撒きながら、力を入れて床を毎日ボウズリで磨き上げるのだ。腰に下げている薄汚れたタオルで、何度も汗を拭いながら……。何しろ重労働は、彼に与えられた仕事であった。
人並み以下の容貌と変人のためか、合コン、コンパ、とは無縁だった。今でも彼女はいなくて、SF、推理小説が、彼の恋人だ。
卓也には、一つだけ人に誇れる(?)能力があった。それは、実生活に何の恩恵ももたらしはしない【霊感】である。子供の頃から、普通の人には見えない霊を感知できた。人の背後霊や、怨霊、生霊さえ見えたのだ。他人の未来も、稀には見える。だが、自分自身や近しい人は、修行を積まないと見えないらしい。が、あえて、そんな面倒なことを実行できる、根性も積極性も持ち合わせてないのだ。
卓也、そんな中途半端な人生しか、今まで歩んでこなかったのだ。
ところが、良い話が母の知り合いより舞い込んだ。こんな自分が、果たして、喫茶店の経営者になれるか非常に心細かった。が、一か八か、挑戦してみようと決意を固めたのだ。今までの自分とは違う意欲に満ち溢れる自信が、沸々≪ふつふつ≫と湧き出てくるのだ。そう、肌でじかに確信を実感した。母の方が乗り気であった。費用は全て用意するからと、背中を押しされた格好だ。半分仕方なく、母を乗せ、ボロ車を転がしたのである。
目的の神戸電鉄S駅近くの喫茶店に着き、車を止めた。その時に、彼は嫌な臭いと、全身に何ともおぞましい【怖さ】を感じた。これは、正しい霊感なのだろうか、自問自答した。だが、どうも真実の霊感のようだ。取りあえず、管理会社の口が歪みノッペリと顔が異常に長い、社長に会う事にした。彼は、四十歳代だろう、がその割に精気がない。どこかに、魂を置き忘れてきた感じだ。佐々木 卓也が、さらに詳しく彼を観察すると、後ろに、心配そうな顔をしている両親が見える。しきりに、彼に向って応援しているのだ。彼がうまく契約できるか、どうかを、心配している顔だ。大都市で、彼の父は大規模な不動産屋を営んでいる。次期社長には、弟にする考えだ。それほど彼に期待していないようだ。だが、我が子を心配するのが親だろう。
そんな生き霊が、卓也の脳裏に浮かんだ。
敷金、家賃等の詳しい条件を聞くと、信じられないほど格安だった。卓也の母は乗り気になり、ぜひとも、中を見たいと言い出した。ところが、不動産屋の社長は仕事から逃げた。
「所用で今から、広島に出かけなければならないのです。すみませんが、留守番の妻に鍵を返し
て下さい」
そうダミ声で言った。彼は、慌てて型の古い四つ目のBMWに乗って出かけてしまった。
いずれにせよ、卓也は、件≪くだん≫の喫茶店へと向かった。ところが、駐車場のアスファルト所々めくれている。駐車場の奥には、ボロボロで錆びだらけの車が、放置してあった。ボンネットの先に、今にも外れそうな、ジャガーのマスコットが付いている。その車体からも、卓也は、強烈な怨念を感じる。その車には、半分枯れた蔦≪つた≫が、絡≪からん≫でいるのだった。
蛇が絡みつくようで、不気味だ。
卓也と真逆の性格で、霊感もなく底抜けに陽気な母が、卓也とともに地面より四段ある階段を上がる。ギギーと木製ドアーを開けた途端、生ごみの腐ったような臭いが、卓也の鼻をつく。ドアーの蝶番は、古びて錆ついていたのだ。卓也は、奇怪な冷気とカビ臭さで、階段で嘔吐してしまった。中に入った母は、卓也をせかした。
「素晴らしい内装だわ! あなたも来なさいよ。何をしているの。早く、早く」
母は、まるで子供のようにスキップし、あちこち探索している。渋々、後に入った卓也が見たものは……。
全ての席を埋め尽くしている、うな垂れた若い女性達。服も含め彼女達の全身は、薄黒い。椅
子、背もたれ、前にある埃が積もったテーブル、雑誌、飲み物、その他全てが、彼女達を透か
している。つまり、彼女達は霊になっているのだ。この世の人間ではない。
レジ台にいる従業員が、明るい声を出した。
「いらっしゃいませー」
声を揃えて、いらっしゃいませ、と言って、こちらを振り向く女性従業員達の顔は、ほとんど骸骨に近いほどに溶解している。
女性従業員達が着ている青い制服は、腐敗してボロボロになっていた。卓也と同じような年齢らしき男性が、一人だけいる。彼は、半袖の純白のカッターシャツに蝶ネクタイを締めている。マスターだろう。彼が、恨めしげな顔をして、カウンターでサイフォンコーヒーを立てている。
そのそばで、鴨居にロープをかけ、白い綿のような鼻水を、風になびかせている男女がいる。
充血した白眼を飛び出させ、口から泡を吐きながら足をバタつかせている、二十代と五十代の三人の自縛霊だ。おそらく、この店が経営不振に陥り、首つり自殺をしたのだろう。
母が、店内を探索している姿を、卓也は横目で見ていた。しかし、卓也は、真心を込めて両手を合わせ、微かに俯≪うつむ≫き、長い間、一心不乱心に祈っていた。
(自縛霊となったこの人々が、一日も早く成仏できますように!)
 
                               ――完――










 
 

 
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