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東京レイヴンズ 異符録 俺の京子がメインヒロイン!

作者:織部
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邯鄲之夢 8

 見わたすかぎり石と砂だけで水も緑もない荒野のただ中を年端もいかない少年少女たちが進む。
 みな一様に疲れ果てた表情をしており、歩を進めるのもつらそうだ。
 そのうちのひとりがくずれ落ちた。

「ハンス!」
「ヨセフ、ぼくはもうだめだ。ここへおいていってくれ……」
「なにを言っている! ジェノヴァはもうすぐだ。がんばれ! ハンス、しっかりするんだ!」

 ヨセフが必死に声をかけるもハンスの意識はもどらない。

「ヨセフ、無理だよ。ろくに食料も薬もないのに、ここまで来れたことがおかしいんだ。もうこれ以上は……」
「そうだよ、もう無理だ」
「ううっ」

 嗚咽まじりの泣き声が周囲から漏れ聞こえる。

「神よ……。あなたはわれわれを見捨てるおつもりなのですか!? あなたのためにこんなにも苦労してきたのに……!」

 この年若き者たちは少年十字軍と呼ばれる集団のひとつだ。
 一三世紀初頭。聖地エルサレムを取り返すためにフランスやドイツといった西ヨーロッパ各地から一万人とも三万人とも伝わる人数の少年少女がジェノヴァやマルセイユの港を目指して旅だったのだが、疲労や病気のために無事ジェノヴァへたどりつけたのは数千人にすぎず、しかも生き延びた数千人も奴隷商人にだまされてアフリカに売られてしまったという。 

「神よ、なぜです……。なぜわれわれにこんな試練をお与えになるのですか。神よ! 答えてください! 神よ、神よ、神よ! おお、神よ! 神よ、神よ、神よっ!」
「やかましいわ!」
 
 どげしっ。
 
「あ痛っ!?」
「カミカミ、カミカミうるさいわっ、おまえはトイレのあとに深刻な現実を突きつけられた人かっ。それとも『ノラガミ ARAGOTO』の放送が待ち遠しいのか! というかもう放送はじまっているな。いそがしくてアリアも牙狼もチェックできん!」※執筆当時の話です。

「な、なななっ、なんだ君は? なにをわけのわからないことをッ!?」

 おのれの頭をどついて意味不明なことをわめく見知らぬ青年。頭髪を剃りあげている。一瞬トンスラ
(鉢巻をしたような形に頭髪を残してそれ以外の毛を剃るカトリックの剃髪)かと思ったが、そうではない。古代エジプトの神官のように頭全体をつるつるに剃りあげているのだ。
 それに見たことのない格好もしている。異教の徒であろうか。

「神仏にすがる前に自分でどうにかしようとは思わんのかっ、嘆いてばかりいないで傷病者や疲労困憊している者たちを中央に集めて休ませろ。野盗や獣におそわれるぞ」
「……いま進むのを止めたらもう立ち上がれない。こんな荒野で歩みを止めたら野垂れ死にするだけだ」
「歩けるような状態じゃないだろ、そのハンスという少年はどうするんだ、見捨てるのか」
「それでも先に進むしかないんだ……。水も食料もないこんな状況で休息すれば、眠るように死にいざなわれることだろう」
「水も食料も、それから薬も。ほんとうに、これっぽっちもないのか? ひとつまみ、ひとしずく程度もか?」

 指先で小さなものをつかむ仕草をする。

「そのくらいなら……」
「ならここにもってきてくれ」

 突然現われて貴重な食料を持ってこいとは、なにを考えているのか――。
 見ず知らずの者からの、そのような無茶な要求に応じる義務などヨセフにはない。
 しかしこの求めを拒否してはいけない。そんな予感におそわれたヨセフは仲間たちに頼んで残り少ない水と食料をかき集めてさし出した。
 カラス麦やライ麦、(あわ)(ひえ)、蕎麦といった雑穀まじりの石のように硬い黒パンに、これまた石のように硬いチーズと干し肉。革袋の中には水で薄められたワインやエールが入っている。

「さぁ、これですべてだ」
「保存食とはいえ貧しいものだなぁ、そういえばこの時代のヨーロッパにはまだジャガイモもトウモロコシもなかったんだよな」

 トマトやジャガイモ、トウモロコシといった南米原産の野菜がヨーロッパに持ち込まれるのは一五世紀の終わりあたりからだ。
 ジャガイモもトモトは当初は有毒とされ、ヨーロッパの人々には嫌悪されて、悪魔の食べ物とまで呼ばれていた。ジャガイモなど「植物は種子から成長するが、ジャガイモは根から成長する。これは神が定めた雌雄による生殖ではないので性的に不純で卑猥である」という理由で宗教裁判にかけられて火あぶりにされた例がある。
 だがプロイセン王フリードリヒ二世は寒冷で荒れた土地でも育つジャガイモに目をつけ、栽培を奨励し、みずから率先して口にした。さらにジャガイモ畑をわざわざ兵士に警備させることで民衆に〝貴重な食べ物〟という認識をあたえ、それまでの下賤な物というイメージの払拭にも努めた。
 雑多な食料品のなかから小さな袋を取り上げて中身を見る。

「麦種子か」
「そうだ、貴重な小麦の種もみだ」

 ヨーロッパ大陸は土地がやせているので小麦を増産したくとも栽培が可能な地域は限られており、この時代の小麦は貴重だ。小麦だけで作られた白いパンは王侯貴族や豪商などの限られた人の食べ物で、庶民はカラス麦などの雑穀をミルクで煮込んだオートミールなどを口にするのがやっとだった。
 日本も近代に入るまで白米は貴重な食べ物で、一般庶民の間では純粋にお米だけを食べられる人は少なく、麦や粟、稗などの雑穀類を米に混ぜて食べていたが、感覚としてはそれに近い。
 余談だが日本にむかしからある芋は里芋と山芋で、薩摩芋とジャガイモは江戸時代のはじめ頃に伝わったとされる。ジャガイモは江戸時代の初期では薩摩芋ほど食用にはされず、洋食の普及にともない明治時代から栽培が一般化する。当初はもっぱら観葉植物として少数が栽培されていたが宝永年間(一七〇四~一七一〇)から救荒作物として地方では食用として栽培されるようになり『お助け芋』『シロイモ』などと呼ばれた。

「たしか聖書にこんな言葉があったな『ひと粒の麦、地に落ちて死なずば、ただひとつにてあらん。もし死なば多くの実をむすぶべし』と」
「ああ……、それは『ヨハネによる福音書』の一二章にある言葉だ」

 ひと粒の麦とは、人間ひとりひとりの意思や努力、生命や行動を指し。おのれの精神力や生命力を惜しまず出し切って、悔いのない、やり遂げた最期を迎えたそのとき。そこには多くの人たちの心に感動や教訓、英知が引き継がれていく――。
 だいたいそのように解釈されることの多い言葉なのだが、この剃髪の青年――言うまでもなく賀茂秋芳だ――はおよそ神聖な宗教の精神性とはかけ離れた、散文的かつ即物的なおこないをはじめた。

「ちょっとまってろ、俺がこの麦をみんなの腹におさまるくらい増やしてやる。しかしここいらの土は質が悪いなぁ、土壌を改善する必要がある――」

 呪を口にしつつ手にした穀物を地に蒔いてゆく秋芳。
 デイドリーム枕くんで最初におもむいた仮想現実世界。モンゴルの侵略に苦しむ南宋の民人を飢えから救ったときに使用したのと同様の穀物生産系の呪術。
 草ひとつ生えていなかった荒野から次々と稲穂が芽吹いてゆく。金色に輝く麦は荒野を飲み込み、不毛の大地は黄金の大海と化した。

「これは、ぼくたちは夢でも見ているのか……」
「奇跡だ!」
「……おお、神よ!」

「ああ……、『神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それはひと粒のからし種に似ている。ある人がそれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る』……」
驚愕の光景を前にして口々に驚きの声をあげ、十字を切る少年少女たち。
「どうだ、まさにひと粒の麦が多くの実をむすんだだろ。これでたらふくパンが焼けるぞ。……だが人はパンだけで生きるものではない――」

 このあとさらに「神の口から出るひとつひとつの言葉で生きる」と続く。のだが、秋芳の口から出た言葉はちがった――。

「ビールだ! 神は人にビールをあたえたまわった。さぁ、おまえたち収穫だ!」





 北イタリア、ジェノヴァ共和国。
 地中海、リグリア海域に面した港湾都市。海洋国家として富み栄え、金融業や商業の中心地であり、ジェノヴァの港はイタリア最大の貿易港として世界に開かれていた。
 東西南北の人と物、富と欲望のつどう地。奴隷貿易で巨万の利を得た豪商ロッティの前に予期せぬ訪問者がおとずれた。

「少年たちを自由にせよ、ですと」
「ええ、そうよ。あなたたちがだまして売りとばした子たちを解放なさい」
「だましたとは人聞きの悪い! 連中は自分の意志で契約書にサインしたのです」
「読み書きも満足にできない子たちを言葉巧みにだまして、乗船名簿だとか言って名前だけ書かせたんでしょ」

 事実、そのとおりだった。
 万を超す少年少女が聖地へと目指し、神の奇跡の前に海は裂け、道が開けるだろう。そう信じて最寄りの港まで行進を続けたものの当然奇跡など起こらず海は割れたりしなかった。この段階で多くの少年少女たちは失望し、故郷に帰っていく者も大勢いたのだが、それでも数百人の子らはあきらめきれずに奇跡が起こるのをその場で待っていた。
 そこに数人の船乗りが現れて彼らにこう言った。

「君たちを聖地まで送ってあげよう。なぁに、心配はいらないよ。船賃はいらないさ。ただこの名簿にサインだけはしてこくれ。規則なんでね、船に乗る者はみんな自分の名前を記帳しなくちゃならんのさ。字が書けないって? なら代筆してあげよう」

 願ってもないこのもうし出を子どもたちはよろこんで受け入れた。しかし船が着いたのは聖地エルサレムではなく、ジェノヴァ。この地でより大きな奴隷船に乗せられて、北アフリカで異教徒の奴隷として働かされそうになったのだ。
 後世の黒人奴隷船――男女別に分けられてふたりずつに手枷と足枷をかけられ、船倉に詰め込まれ、奴隷ひとりに許された空間は寝返りすら打てないほどひどいものであり、衰弱した者は容赦なく海に棄てられ、サメの餌となる。棺桶の中のほうがまだ快適な空間であった――にくらべれば多少はマシだが、それに近いような奴隷船に移されて売り飛ばされる寸前で少年たちは異常に気づいて異を唱えたのだが、時すでに遅し。
 明日にも異境の地にむけて奴隷船が出港するタイミングで、その女が現れた。
 ロッティが今まで目にしたことのない、奇妙ないでたちをした女だ。女といってもまだ若く、少女と呼んでよい年齢に見えた。
 亜麻色の髪に紫水晶のような瞳。奇妙ではあるが清潔感のある服装。片刃のグレートソードとグレイブを手にしたふたりの護衛をつき従えているところを見ると卑賎の身とは思えない。どこか外国からの貴顕の類ではとロッティは考えた。
 ジェノヴァは貿易都市だ。遠く海外からの異邦人もよく訪れる。
 世間知らずのお嬢様が奴隷にされた者たちの存在をいずこかで耳にして、哀れに思い、お慈悲をかけようなどと思いついたにちがいない。
 そのお嬢様、こともあろうにせっかく手に入れた若い奴隷たちを解放せよなどと言ってくる。冗談ではない。見映えの良い者は娼婦として富裕層に高く売れるし、そうでない者も労働力として価値がある。たとえひとりでも無料で解放するつもりなぞない。

「このロッティ、そのような詐欺などしません。それに万が一そのようなことをしていたとしても、契約は契約。奴隷たちを解放する義理も義務もありませんな」
「もしもあなたが彼らみたいなあつかいを受けたらどう思うの? 人としての権利も自由も奪われて、他人に服従して労働を強制されたり、家畜や物みたく売買の対象にされるなんていやでしょ。アガペーでしたっけ。『汝自身を愛するように、汝の隣人を愛せよ』てイエス様もおっしゃっているじゃない。キリスト教徒なのに博愛の精神や慈悲の心はないの?」
「ふんっ、あのような連中と私をいっしょにしないでもらいたい。奴隷や貧農、家畜に生まれたのは神の思し召し。すなわちやつらはその程度の存在として神が定めたもうたのだ。おのれの生まれを呪い、神の与えし運命を受け入れるべきですな」

 これが当時の支配階級の人間の一般的な考えだった。
 聖書のどこにも『他者を奴隷としてあつかってはいけない』とは書かれていない。それどころか奴隷制を肯定する記述がある。たとえば『エフェソ人への手紙』第六章や『テモテへの第一の手紙』の第六章では奴隷は主人を尊敬して喜んで仕えなくてはならないと説かれている。
ちなみにあの『アメイジング・グレイス』という世界的に有名な讃美歌を作詞したジョン・ニュートンという〝牧師〟もまた奴隷船の船長であった。

「そんなに連中を解放したいというのなら、お嬢さん。貴女がやつらを買い取って、そのあと自由にしてやればいい」
「人身売買なんて気が引けるけど、それが一番平和な解決手段みたいね」
「ひとり頭ジェノヴァ銀貨で一〇〇枚といったところですが、見映えの良い者や健康で力強い者はそれ以上、最高で銀貨五〇〇枚ほどいただきます。奴隷の数は六七七人ほどいますが、何人買い取りますか?」

 この頃のヨーロッパでは金貨は一般には流通していない。これよりもう少し先、国際貿易がさらに発展して貿易量が多くなると銀貨だけでは不便ということになり、一二五二年にフィレンツェでフロリン金貨、ジェノヴァでジェノヴァ金貨、一二八四年にヴェネツィアがゼッキーノ金貨を――。
 というように各国で通貨としての金貨を鋳造するようになる。金は銀の一〇倍の価値があり、金貨はおもに国際貿易の場で使用されたため、重さや品位は以後数百年間ほとんど変化はしなかったが、一方の銀貨は発行者の意のままに重さや品位がたえず変化した。
 ものすごく大ざっぱに現在の価値にすると、この頃の労賃などから考えて、3・5グラムの金貨一枚が一二万円、一グラムの銀貨が三〇〇〇円くらいになる。

「……わかったわ、それじゃあきちんとお代を払って彼ら全員を自由にしましょう」
「全員ですと!?」
「ええ、六七七人全員よ。でも、あいにくとここで使えるおカネの持ち合わせがないの。金でもいいかしら、インゴット……、ううん、ナゲットで」
「金塊ですか? それでしたらおよそ○○リブラほどいただきます」

 リブラというのはのちのイタリアリラの語源であり、ラテン語のlibra(天秤)からきていて、ここでは重さの単位を意味している。

「少し待っていてちょうだい、用意してくるから」

 少女はそう言うと、ろくに返事も聞かずにロッティの部屋から退出した。

「……大ぼら吹きの小娘め、いくらなんでもそんな大金を用意できるわけがないだろう」

 たしかに高貴な身分のようだが、ロッティの提示した金額は莫大な額になる。ジェノヴァでも五本の指に入るような豪商でもおいそれと用意できる額ではない。
 どのような国のどのような身分か知らないが、無理に決まっている。
 素直に払えませんと認めるのも癪なのであのようなことを言い、帰って行ったのだろう。

「本気で哀れに思うなら、せめて一〇人か二〇人ばかり買って自由にしてやればいいものを」
従者を呼びつけ葡萄酒を注がせる。銀のゴブレットに注がれたそれはブルゴーニュ産の上等な銘柄だ。
「あの娘はなに者だったのでしょう。見たところ良家の子女のようでしたが、ジプシーかなにかの強請り騙りの類だったのでは?」
「さてどうだろうな。しかしあの護衛ふたり、そうとうな手練れであったぞ」

 片刃のグレートソードとグレイブを手にした護衛ふたり。妙に没個性でまるで仮面でもつけているかのようにずっと無表情だったが、その挙動にはいっさいの無駄も隙も感じさせなかった。そこいらの破落戸や傭兵などよりもずっと腕が立つ。商人として物だけでなく人を見る目も合わせ持つロッティはそう直感した。

「娘のほうも薄汚い漂泊民とは思えぬ本物の気品がただよっていた」

 従者の言うようにジプシーの訪問詐欺であったなら拘束して奴隷を三人増やしていたところだが、とてもそのようには見えなかったし、腕の立つ護衛に暴れられては身が危ない。
だから穏便にことを進めたつもりだ。
 さきほど退出した少女が代金を手にして来訪したとの報告を受けたのは、ゴブレットの葡萄酒が三回ほど満ち引きをくり返した、ちょうどそのときだった。
 山ほどの黄金を運んできたて庭先に積み上げているという。

「なんだと!?」

 半信半疑で庭に出てみれば、そこにはたしかに燦然と輝く黄金の山があった。

「どう、これだけあればたりるでしょ」
「も、もちろんだとも」
「ならさっさとあの子たちの身柄を譲渡なさい」
「ああ、ああ、そうしよう!」

 手に取って見ても偽金の類ではない。ずしりと重い重量と質感。商人としての目利きがこれは正真正銘の黄金。それも純金だと判断した。
 これだけの黄金はジェノヴァどころかヴェネツィアやピサ。いや、ヨーロッパ中からかき集めてもないだろう。それがいま目の前にあるのだ。
 黄金の輝きにのぼせ上ったロッティは金塊を運んできている少女の人足が全員おなじ顔におなじ身長体格をした、まるで精巧な自動人形のようであることに気づかない。

「しかしこれだけの黄金をいったいどうやって手に入れたのですか、お嬢さん。いやお嬢様!」
「あたしの国じゃ金なんて珍しくないの。あちこちからたくさん金が出て、家の柱も屋根もみんな黄金でできているわ」
「そ、それはどこにあるなんという国です!?」
「東の果てにある黄金の国、ジパングよ。――あ、ねぇその葡萄酒もいっしょに買うわ。あたしは飲まないけど、あたしのつれが飲み助なのよね」





 ロッティのもとから奴隷にされた六七七人の少年少女を買い取り、解放した京子は――そう、いうまでもなくこの少女の正体は倉橋京子で、護衛のふたりは白桜と黒楓だ――それから港の一画にあるロッティの所持していた館を丸ごと買収し、仮宿とした。
 そこで元奴隷の少年少女らを国元へと送還する手続きに奔走し、三日目が経った。
その日の午後。

「アイン・プロージット、アイン・プロージット、デア、ゲミュートリッヒカイっ♪」

 樽を抱えた影法師のような式をともない、秋芳が現れた。
樽の中からは馥郁たる香が立ち込めている。中に入っているのはビール。冬児が言うところの麦系の炭酸飲料というやつだ。

「おそかったわね、でもちょうど良いタイミングかも。こっちもいましがた仕事が終わったところだったから」
「ああ、全員を説得するのに時間がかかってな。特にヨセフって子が頑固で頑固で……、で、そっちは平和的に解決できたのか? 相手は人身売買をしているような手合いだろ」
「ええ、きわめて穏便に解決できたわ」

 京子は秋芳に奴隷にされた少年少女たちを救い出した顛末を聞かせた。

「ちょっとまて、その金塊てのはどうやって手に入れたんだ。まさか他所から盗ってきたとか。それとも鉱石変化の術でも使ったとか――」
「鉱石変化よりももっとお手軽な術よ。愚者の黄金てやつ」

 言うなり京子は部屋にあった植木鉢の中から小石を取り出して卓の上に置くと、呪を唱えだす。
 詩でも吟じているかのような響きが桜色の唇からもれ、それが終えたとき卓上に置かれた小石は黄金色の輝きを放ちはじめていた。

「……幻術か」
「そう。卑金属を貴金属に変えるよりもずっと簡単でしょ。もっとも重度や密度までは変化しないけど」

 物体に対して幻術を使用し、見た目はまったく別の物体に見せかける幻覚かぶせ。見鬼の才を持たないただの人間には見破られることはない。勘の良い、あるいは疑り深い呪術師が手に取って調べでもしないかぎり、京子の創りだした幻覚の黄金はこの世界で永遠に流通し続けるはずだ。見破られぬかぎり、偽物と本物とのちがいはなにひとつないのだから。

「さて、少年十字軍のほうはかたづいた。残るほうをやっつけよう」
「悪魔を崇拝する邪教徒たちを殲滅せよ、ね」
 
『ジェノヴァを目指し悲劇に見舞われた少年十字軍を救出し、さらにジェノヴァの平和をおびやかす悪魔崇拝の邪教徒らを殲滅せよ』
 
 それが今回あたえられた課題だ。

「こっちはついさっき天使にいちゃもんつけられたばかりだってのに、こんどは悪魔かぁ」
「天使ですって!? タイプ・エンジェルだなんて超レアな霊災じゃない、どうしたの」
「どうもこうも聖地奪還に固執する少年らに遠征なんてしんどいからやめとけ。戦争は腹が減るだけだからと説いていたら突然現れて『神の与えた試練を邪魔するな』だの『人を誘惑し堕落させるサタンの使い』だのと難癖をつけてきたあげくに攻撃してきたから祓ってやった」
「天使なんてよく修祓できたわね~」
「タイプ・エンジェルの特性、伝え聞くとおり破邪退魔の術には耐性があったが呪詛系の術には弱かったな。まぁ、今回はたまたま弱い個体が出現しただけで、良かったよ。呪術が通用しないような大天使とか出てきたらさすがに逃げるわ」
「でも天使様を修祓なんかして、十字軍の子たちに反目されなかった?」
「そこはそれ、大人たちがおこなった十字軍の蛮行を教えて『いくら神を信じていようとも、寺院を壊したり街を焼いたりして大勢の人の命を奪うことは本当の信仰ではない。相手が異教徒だからとそのようなことをする人たちは本当の神を見失っているんだ。お偉い司祭様や領主様の命令や聖書の言葉に従うのではなく、自分自身の魂に訊いてみろ。財産を奪い、犯し、殺し、死体を食べるような行為が誤っているとわかるはずだ。聖職者の言葉は疑ってかかれ。指輪をつけた司祭の言葉よりもおのれの良心を信じろ』。とかなんとか、どっかのラノベの主人公みたいに説教して諭してやった」

 若者のモラルの荒廃を憂い、『いまこそ学校で宗教教育を』などという声があるが、一部の宗教の中には突き詰めてゆくと人間の自由意志の否定にたどりつくものがある。幼児を誘拐して虐殺したりするおぞましい犯罪や、地震や洪水といった災害でさえ、神の定めた運命。つまりは神の意思ということになる。
 とんでもない話である。
 犯罪や災害の被害者に神の意志だの試練だのとでも言うつもりか、そもそもそれは思考を放棄して神に責任を押しつけているだけだ。

「なら良かったわね。これからどうしましょうか、今夜はここで休んで邪教徒探しは明日からにする?」
「そうだなぁ、ここ数日はビールとパンばかりだったから、ちがうものを食べたい。港町だし魚介類がいいな」
「じゃあさっそく食べに行きましょう」
「よし、行こう」





 インターネットで世界の裏側の情報もすぐにわかるようになった現代。だがネットや書物だけでは絶対にわからないものがある、それは匂いだ。
 作家の椎名誠は「インドに行くとカレーの香りがするかと思ったら、そうじゃなくてね、濃厚な甘い花の匂いがするんです。モンゴルは乳とチーズ。アフリカなら動物のフンや枯れ葉。韓国はニンニクですね。そこで自分の五感というものの価値を知る。体の感覚が研ぎ澄まされる。行かなければ鈍磨していく」
 と述べている。
 デイドリーム枕くんの再現力は匂いも緻密に表現し、港町ジェノヴァは海からの潮風の匂いのほかにも、異国からもたらされた様々な香辛料の匂いが充満していた。
 ニンニク、胡椒、生姜、ナツメグ、サフラン、シナモン――。これらの香辛料は経済力や身分のある者しかじゅうぶんに使用できず。「胡椒ひと粒は黄金ひと粒」という言葉はあまりにも有名だ。
 また当時の甘味料としては蜂蜜と砂糖があったが、森に囲まれたヨーロッパでは蜂蜜のほうがはるかに一般的だった。砂糖はキプロスやシチリアなどの温暖な地中海地域で栽培される高級品で、砂糖が大衆化されるのはヨーロッパがカリブ海に進出するのを待たなければならなかった。
 パンとワインのローマ人に対し、ゲルマン人は肉とビールの民といってもいいかもしれない。
 現代の感覚だと肉は穀物より高級で、パンにも困るような貧しい人々が肉を食べていたというのはしっくりこないかもしれないが、これは中世では豚が森に放牧されていたからだ。
 現代の家畜は栽培された穀物を飼料としているのでコストが高くつく。しかし中世の豚は自然の森林が提供してくれるドングリなどを食べて勝手に肥えていったので、越冬でもしない限りコストはほとんどかからなかった。
 鶏は卵のため、羊は羊毛のため、山羊や牛馬は乳や労働力のためにも必要とされましたが、豚は純粋に食肉用に利用され、穀物栽培は豚の畜産とは競合しなかったのだ。

「上条さんとイッセーと松岡とお兄様が一堂に会して悪いやつと戦う、ラノベ版『アベンジャーズ』とかどうだろう」
「お兄様ってだれよ。いや、わかるけど。あとなんで松岡は松岡なのよ」

 眼下に港を見下ろせる絶好の席。酒場(バール)の二階を貸し切り、おしゃべりと料理に舌鼓を打つ。
 バジルとオリーブをベースに多くのハーブと香辛料をふんだんにもちいて味つけしたアンコウ鍋、身のたっぷりつまったカニやエビ、取れたての生ガキやムール貝、真鯛のグリル、温野菜のチーズかけ、仔牛肉や羊肉の煮込み――。
 ローマ人好みのパンもワインも、ゲルマン人の好きな肉もビールも、それ以外の食べ物も、一万人以上の人口を擁する貿易大都市ジェノヴァにはたくさんある。ふたりだけで食べ切れる量ではない。酒も料理も店にいた全員に振る舞った。
 店への支払いは幻術の偽金ではなく本物のジェノヴァ銀貨で勘定した。人非人の奴隷商人ではない一般の商売人相手に偽金をわたすのは気が引けたからだ。「あたし金塊ならいっぱい持ってきたけどここの通貨の持ち合わせはないの。少し交換してくれないかしら」などと言ってロッティから大量の銀貨をちょうだいしたのだ。
 大盤振る舞いするのには理由がある。
 人の集まるところは情報が集まる。都市において一番大きい人の流れを持つのが酒場や市場だ。近場の席の人々の会話を聞くとも無しに聞いていても、それがなにかしらの情報になる。振る舞い酒で口がすべりやすくなればなおさらだ。
 
「まず邪教集団というのがどういう集団なのかわからん。キリスト教的にはヤハウェ以外の神を信仰する集団は仏教だろうが神道だろうが道教だろうがすべて邪教ってことになる。だが『ジェノヴァの平和をおびやかす悪魔崇拝の邪教徒ら』と明言しているからには実際にたちの悪い悪魔を崇める、ろくでもないやつらなんだろうな」
「悪魔崇拝ねぇ……、KKKみたいな連中が夜の墓場でサバトや黒ミサでもしているのかしら」
「日本人としては淫祠邪教といえば真言立川流が思い浮かぶな」

 よく混同されがちだがサバトと黒ミサは異なる行事だ。サバトは魔女と呼ばれる人たちがいにしえの神を崇める夜宴で、黒ミサはキリストや神を冒涜することを目的とした儀式である。
 立川流とはインドのタントラという経典を元にした密教の一派だ。仏教は禁欲の宗教といわれているが、平安時代にインドから伝わったタントラでは男女の性行が悟りに至る最高の修行とされる特異な宗派で、仁寛という僧侶が一般に広げた。彼は政争に巻き込まれて関東の地に流刑されてしまうが、そこでタントラの教えを説いていたところ武蔵国立川の陰陽師、見蓮と出会い、彼にタントラの奥義を伝授した。
 仁寛の死後、見蓮は陰陽道と真言密教の教義を混合して立川流を確立したという。
立川流はその後、文寛という僧侶を輩出し、ときの天皇まで魅了し朝廷を動かすほど発展するのだが、結局は弾圧を受け滅んでしまう。

「邪教……、カルトといえば暗殺教団。なんてのもあったわよね、アサシン」
「ああ、十字軍の要人を狙って暗殺していったイスラムの暗殺教団か。時代的に合うな」
「それと、なんだったかしら。インドの……」
「タギーだな」

 タギー。あるいはサギー、サッグとも。
 破壊と殺戮を好むヒンドゥー教の女神カーリーを信仰し、人を殺すことを教義としていた暗殺教団。血はカーリーへの貴重な供物という考えから流血はタブーとし、もっぱら黄色いスカーフでの絞殺を旨としたという。この暗殺教団の教団員はひとりあたり平均三二〇人もの人を殺してカーリーに捧げていた。なかには五〇年の間に九三一人も殺害したという猛者もいたという。

「むちゃくちゃよね、インドはお釈迦様の国なのに」
「そういう血生臭い国だからこそ平和主義者の釈迦牟尼尊者が輝いたんだろうな。だが結局仏教はインドには定着せず衰退した。あの国はある意味で中国よりも生命が軽いからなぁ」
「慈愛と非戦の精神に満ちた宗教が生まれる必要があったにもかかわらず、いざ生まれてもそれが定着することはかった。いかに荒れていたかがわかるわね」

 アサシン、タギー、宋代の殺人祭鬼、ユダヤの短剣党(シカリオイ)――。
 剣呑で血生臭い話題をしつつも酒食は進む。そのあいだにも階下から何人かの客がお礼に酒を注ぎに来たので最近なにかおかしなことでも起きてないかを訊いてみると、酒の勢いもありよくしゃべることしゃべること。さまざまなことが聞けたが、特に気になったのが押し込み強盗と幼子のかどわかしが頻繁に起きていることだ。
 事件はいずれも深夜に起きているというそうで、押し込み強盗はおもに商家が狙われ、家族も奉公人も皆殺しの畜生働きという残忍な手口。さすがに最近では門戸を固くしたり護衛をつけたりと警戒されているせいか事件は減少。幼子の誘拐のほうは貧民層を中心に被害が出ているが、強盗におそわれた家からも年端もいかない子どもが遺体も見つからず行方不明になることがあいつぎ、同一犯のしわざではと噂されている。

「――ところでジェノヴァで一番の金持ちで、なおかつ一番の悪党はだれですかね」
「これは妙なことをお聞きになる。……そうさなぁ、一番かどうかはさておき、財務府の××や△△、海軍局の○○、それと●●伯や■■侯――。この人たちは斯々然々ホニャララ ホニャララという具合でして――。おっと、このことはここだけの話にしてくださいよ」
「はい、もちろんですとも」
「……ちょっとちょっと秋芳君、なに不穏なこと訊いてるのよ」
「なぁに、ここでの遊ぶ金がなくなったらどこから調達しようかと思ったんだ。毎回偽金を売るのも芸がないだろ。しかしあれだな、やっぱり政府高官てやつには悪党が多いみたいだな。……ディーン・レイ・クーンツという作家を知ってるか?」
「知ってる。アメリカの国民的作家でしょ。『ウィスパーズ』や『ウォッチャーズ』とか有名よね、原作は読んだことないけど映画化された作品なら何作か観たことあるわ」
「その人が作品のなかで、こんなことを述べている。『政治家とは、他人を支配する権力を求めて悪党がよく選ぶ職業だ』とね」
「日本もアメリカも似たようなものね」
「金持ちや権力者に悪党が多いのは場所も時代も変われど一緒だな。俺に言わせれば年収五〇〇万以上のやつはブルジョアだ、ブルジョアは財産を没収してコルホーズ送りにしちまえばいい」
「……犯罪の多くがお金目当てだって聞くわ、貧困が原因てわけよね。そりゃあお金持ちのなかにも脱税とか贈収賄とか悪いことする人はいるでしょうけど、統計的には低いほうでしょ。貧困層の金銭目的の犯罪のほうがだんぜん多いわよ。……年収五〇〇万以上だとか、それだとあたしのお父様もあてはまるじゃない。あなた、陰陽庁長官を集団農場で土仕事させるつもり? それにあなた自身も〝アルバイト〟の収入を入れればそのくらい稼いでるじゃない。自分も農場送りになるわよ」

 大いに飲み、食べて、その日は帰路についた。
 翌日も、翌々日も、翌々々日も場所を変えては大盤振る舞いをくり返した。
 なにも目的を忘れて遊興に耽っているわけではない。昼は市場で聞き込みをし、夜は酒場で邪教集団に関する情報収集をしている。またわざわざ奢侈に振る舞うのは押し込み強盗をおびきよせるのが狙いだ。
 そんなある夜。
 丑三つ時、現実世界の日本なら霊災がもっとも多く発生する魔の時刻。午前二時ごろのこと。不夜城と呼ばれるようなジェノヴァの歓楽街もさすがに寝静まる。
 街灯はことごとく消え、夜回りする衛兵らが通り過ぎた後は墨を落としたような暗闇と深海のような静けさが広がる。
 漆黒の中を兇族の一団が駆ける。
 一〇人以上の集団が街路の中を走っている。
 着ている服も、顔を隠す覆面も濃い藍色や茶色だ。この色のほうが黒一色よりも夜闇に溶け込みやすいのである。
 兇族の一団が狙うのはひと組の男女。近ごろジェノヴァの街に現れた東方からの貴人、秋芳と京子だ。
 なんでも彼らの故郷では大量の黄金が産出するとかでえらく羽振りが良く、七〇〇人近い奴隷たちを買い取って無償で解放し、毎晩のように酒場をハシゴしては、そのたびに他の客らに奢りまくっているという。
 遥か東方からの旅行者は、わずか数日でジェノヴァの有名人となっていた。

「ふん、ちゃちな錠前だな」

 兇族たちはあざやかに館への侵入をはたした。
 狙いはもちろん金。そして男女の異邦人の命。
 そう、命だ。彼らの信奉する神は生贄を欲する。
 聖書の神もまた生贄を求める。旧約聖書の『創世記』第二二章には神がアブラハムに自分の子を生贄にささげよと命じるくだりがある。現在の聖書ではアブラハムが我が子イサクを殺そうとした瞬間に神がアブラハムを止め、アブラハムは近くにいた雄羊をイサクの代わりにささげた。ということになっている。
 しかし聖書学者の研究によると二二章の一一節から一六節はあきらかに後世の加筆であり、『創世記』の原型となった文章ではアブラハムは実際にイサクを殺してしまったらしい。その証拠にこの章のあとの部分ではイサクはまったく出てこなくなる。
 いずれにせよ神はアブラハムの行為を褒め称える。すなわち「神の命令があれば我が子でも殺すべし。神の命令は絶対であり人間の倫理や親子の情愛よりも優先する」というのだ。
 なんともおそろしい神ではあるが、この兇族たちの信奉する神はそれ以上に禍々しく邪悪な存在だった。
 遠方からの旅人はもってこいの獲物だ、スウィーニー・トッドやソニー・ビーンの例を持ち出すまでもなく、旅人殺しは足がつきにくい。
 まず使用人たちの眠っているであろう部屋をおそった。少し前まで館に勤めていたロッティの家人から館の見取り図を入手しており、迷いはしない。

「さわぐな、声を出せば殺すぞ!」

 ひとりひとり縛りあげたり殺害したりはしない。そのようなことに時間を割かず、足の腱を切り逃亡をふせぐという効果的で非情な手口。それがいつものやりかただった。

「……なんだ!?」

 恫喝の声と凶刃とを高々とあげた男は困惑した。人の気配がまったくしないのだ。

「逃げたか?」
「そんなバカな」
「おまえとおまえは入り口を見張れ」
「どこかに人が隠れていやがるぞ、探し出せ」
「それ以外の者は金目の物を探せ!」

 頭目と思われる男の指示に賊たちは左右に散った。寝台の下、引き出しの中、中庭、ベランダ……。
 兇族のひとりが裏庭にある離れ小屋から光が漏れているのを見つけ、頭目に報告する。

「よし、周りを囲め。中のやつをひとりも逃がすなよ」

 包囲をせばめ、中の様子をのぞき見た頭目が驚愕に目を見開く。
 床、壁、天井、すべてが黄金に輝いている。

「こ、これは……」

 黄金に魅入られ、中へと入る。
 室内には無数の燭台が照り輝き、真昼のように燦々としていた。そのうちのひとつを手に取って見ればダイヤモンドが装飾にほどこされていた。
 黄金製の燭台ひとつでもかなりの値打ちだが、さらにダイヤモンドまで装飾されているとなれば、その価値は莫大なものになる。
 テーブルの上に置かれた金の水差しや壺といった調度品にもルビー、サファイア、エメラルド、オパール、トパーズなどの宝石が惜しげもなく使われていた。
 ジェノヴァのいかなる王侯貴族や豪商司祭も、ここまでの富は持ち合わせていないだろう。

「Fantatico!」
「Viva!」

 兇族たちは狂喜の声をあげて手当たり次第に宝物をかき集める。それなりにとれていた統制など雲散霧消し、獲物に群がる盗賊そのものと化した。

「お気に召して? 好きな物を好きなだけ持って行ってもいいわよ」

 いつの間にか館の住人である京子と秋芳の姿がそこにあった。財宝に心をうばわれていた兇族たちはふた呼吸ほど反応が遅れてしまう。
 白刃を抜いて切り掛かろうとする気勢を制して声をかける。

「ここにあるのはあたしたちの持っている財産のほんの一部。ジェノヴァでの遊ぶお金にすぎないわ。ゴールドやジュエリー以外にもこういうのもあるわよ」

 京子が手にした銀製のグレイビーボートを卓上にある皿にかたむけると、そこから黒褐色の粒が流れ落ちた。
 胡椒だ。

「甘いのもあるぞ」

 秋芳も手にした袋を逆さにする。そこからは真っ白い砂のようなものがさらさらと流れ落ちる。

「砂糖だ。葡萄酒や茶にでも入れて飲んでみるか?」

 声にならないどよめきが兇族たちの間に漏れる。砂糖も胡椒とおなじくらい貴重な品で、薬としても珍重されていた時代だ。

「さぁ、剣呑な物はしまってくれ。……これだけあれば危険な盗人稼業なんかともおさらばできる、俺たちと仲良くして損はないと思うがな」
「う、うむ」

 頭目が剣を収めると、他の者たちもそれにならった。

「話のわかる人たちで良かったわ。さぁ、お近づきのしるしにお酒でもどうぞ」

 どこからともかく使用人たちがあらわれ、酒と料理を運んでくる。ついさきほど念入りに探したときには人っ子ひとりいなかったにもかかわらず、いったいこの者たちはどこからわいて出たのか。なぜ似たような顔をしているのか。
 だがそんな当然の疑問も男たちの頭には浮かばなかった。黄金の魔力に魅せられ、心が蕩けてしまい、正常な思考ができなくなっているのだ。

「Buono! これはなんという料理だ!?」
「それは豚肉と野菜を細切りにして炒めて卵焼きを帽子みたいにかぶせてあるの。こっちのパンにくるんで食べてみて」
「こっちのなんだかふわふわした泡みたいのはなんだ?」
富貴金絲盞(ふうききんしさん)。卵の白身にチョウザメと牛肉の細切りを入れて型に入れて蒸してある。新鮮な野菜と一緒に食べるんだ」
「Buono! Buono! この綺麗なやつはなんだ?」
「それは白身魚を丸揚げにして果物のソースをかけてあるのよ。果物は一〇種類ぐらいで、熱帯のものが中心ね」
「Meraviglioso……、Fantastico……!」

 見たこともない金銀財宝と香辛料をふんだんにもちいた美味菜肴の山。物欲と食欲を満たされすっかり籠絡されてしまった。

「……これらはちょっとしたみかじめ料だと思ってください。夜の街は治安が悪いですからあなたたちのような人と交際ができれば安心です」
「う、うむ」
「特別に便宜を図って欲しいのですが」
「それは我らの一存では、な……」

 兇族たちはおたがいの顔を見合って口ごもる。言うべきか言うまいか、この貴顕の男女の命を奪うかどうか、決めかねている。

「あなたたちに命を下している人がおいでですか? それはどのような方です」
「それは――」

 頭目がみなを代表して言いかけたとき、その表情が苦悶に歪み、吠えるような叫びをあげた。その開いた口からなにか赤黒いかたまりが飛び出して、宙に孤を描いて壁に叩きつけられる。黄金の壁を赤黒く染めたそれは頭目の心臓であった。いや、心臓だけではない。胃や肺といった臓腑が頭目の口から吐き出され、あたりはたちまち生臭い臭気に満ちた。
 満ちたのは血と内臓の臭いだけではない、瘴気もだ。
 霊災である。

「VURUGALALALALAッッッ!」

 臓物が宙に浮き、髑髏のような姿になり、けたたましい哭き声を発すると瘴気の風が巻き起こり、颶風が屋内を駆ける。秋芳と京子はとっさに結界を張って防いだが、兇族たちは無防備に巻き込まれた。呪力に対する備えのない哀れな兇族たちはみな頭目とおなじように口から内臓を吐き出し、ことごとく悶死した。

「भ्रूं(ボロン)!」

 大日如来の肉髻を神格化した熾盛光仏頂の種子真言が秋芳の口から放たれる。悪しき存在は瞬時に盲目と化すとされる仏の光明。
 悪鬼邪霊にすこぶる効果のある破魔の光がほとばしり、おぞましい霊災を瞬時に修祓した。

「いったいなんなの、これ……」

 京子はのどもとをおさえ、兇族たちの骸から目をそむける。いつの間にか部屋の中の様子も一変していた。黄金も金銀財宝の調度品も料理もない。ろくに家具も置いていない質素な部屋。
 ただ部屋のすみに置かれた香炉からただようかすかな匂いが、血臭をかすかにおさえていた。
 香を使う呪術がある。
 男たちの残暴兇猛な気は隠しようもない。ひとりだけならまだしも、一〇以上の兇族の集団がいれば悪い気が黒煙のように立ち上っているような様子が勘の良い見鬼ならばいやでも気づく。
 この兇族たちが邪教集団へつながる糸の一端になるかもと考えた秋芳は幻覚作用のある香を用意し、隠形して待ち構えていたのだ。
 思い通りに籠絡され、情報を聞きだそうとしたのだが、永遠に口を閉ざしてしまった。

「……こりゃあ呪詛式だ」
「呪詛?」
「ああ、無理やり動的霊災に分類するならタイプ・スペクター、ラルヴァといったところか」

 ラルヴァ。あるいはラルウァイ、ラルバー、ラールウァとも。
 古代ローマに伝わる亡霊の一種。生前のおこないや正しい葬儀ができなかったことにより冥界に行くことができず、地上をさまよっている悪しき霊。生者を呪い殺すという。
 一種の精霊としても見られていたが、キリスト教以降は悪魔の一種だとされるようになった。意志の弱い者や煩悩を抱く者に憑りつくとされる。その姿は人間の胎児や動物、死体や血液といったおぞましいもので、また一瞬たりとも同じ姿にとどまることもないとも。    
 また、処刑された罪人からただれ落ちた血液や精液、女性の経血、夢精によって放出された精液といったキリスト教的に汚らわしいものから発生するともいわれる。

「こいつら、呪にかけられていたな」

 呪術のなかには限られた条件が満たされた場合にしか発動しないものがある。相手に対してなにかを呼びかけ、相手がそれに返事をしたときにのみ発動する。といったもので、そうした条件のひとつが〝約束を破る〟だ。
 術者となんらかの約束。見たことをしゃべるな、などの約束を交わし、それが破られたとき術者はそれを感知でき、あらかじめかけていた呪が発動する。

「他人に自分のことを知られたくないから『私のことをしゃべるな』とかの呪をかけていたんだろう」
「うっかり口に出そうになったから呪が発動したってわけね」
「ああ、しかしわざわざ命まで奪うような強力な呪をかけるとは、えげつない。今回の敵は人の命をなんとも思っていないようだ」
「そのうえ実力のある呪術者みたいね。……これからどうするの? いまのであたしたちが普通の旅人じゃないってむこうにも知られたと思うけど、またなにかしかけてくるかしら」
「警戒して二度と手を出してこない可能性もある。やはりこいつらを手がかりにするしかないな」
「死体から情報を聞きだす呪術とか、あるわけ?」
「まぁ、そんなところだ。いささか邪法に近いがな」




 
 月明かりに照らされて、地に座した秋芳が呪を唱えている。
 館の中庭には祭壇が設けられ、その上にふたつに割れた石。双葉のように二枚に開いた貝。人という字が書かれたうえで二枚に切り離された紙。などなどが置かれていた。
 それらの乗った祭壇の向こう側に人の死体が横たわられている。
 臓腑をない、兇族の頭目の死体だ。
 その体にはおびただしい量の文字が書かれていた。
 漢字でも梵字でもない、奇妙な紋様のような字。
 秋芳の低い声が潮の匂いのまざった夜気に乗って風にはこばれていく。
 臓腑を失ったことによって腹部が異様にへこんだ全裸の体の表面にびっしりと奇怪な紋様が書かれているのは、ひどく禍々しい光景であった。

「祈願明鬼、祈願使鬼、祈願探心――」

 秋芳は呪を唱えながら舞うように腕を動かし、祭壇の上にある二枚の貝を合わせた。

「祈願至生至死、祈願返鬼、祈願常傍――」

 また、しばらく呪を唱えてから、こんどはふたつに割れた石の割れた部分を合わせ、ひとつの石にした。
 びくり、と兇族の死体が動いた。

「きゃ」

 離れた場所から秋芳のやっている奇怪な儀式をながめていた京子の口から思わず小さな悲鳴が漏れる。

「邪法に近いっていうか、邪法そのものじゃない……」

 びくり。
 びくり、びくり。
 びくり、びくり、びくり――。
 痙攣したかのように兇族の死体が動く。

「祈願鬼気招来、祈願使鬼創造――」

 さらに秋芳は二枚に切り分けられていた紙を合わせる。切り離されていた字がひとつになり、〝人〟という字がそこに形をなした。
 兇族の死体の動きが大きくなり、ついに上体を起こした。

「うぅぅ……ぁぁぁ……、ウアァァァ~」

 うめき声をあげて右手をつき、膝を立て、立ち上がろうともがく。

「……っ!」 

 京子はあまりのことに声もない。
 そして、ようやく兇族の死体は月光の中に立った。

「厭魅をもちいた死霊術の一種、泰山府君祭の下位版だ」
「それ、生き返ったわけじゃないのよね……」
「ああ、あくまで死にぞこない(アンデッド)だ。スカイリムでいうところの死の侍従的な存在だな」
「あたしスカイリム知らないし」
 ゆらり、ゆらりと身をゆすり、兇族が歩き出した。
「行くぞ、京子。こいつの体が邪教徒のもとへ案内してくれる」
「え、ええ。でもそのままじゃ目立つから、幻術でもかぶせたら」
「たしかに、歩く死体そのものだしな。幻術は苦手だから京子、たのむ」
 こうして秋芳と京子は兇族の死体に案内させ、彼らに命令を下した人物を突きとめようと行動をはじめた。
 つきつめた先で邪神バフォメットを崇拝するテンプル騎士団の闇司祭との戦いが待ち受けているのだが、それはまたべつのお話し――。





 秋芳と京子はいくつもの世界を舞台に様々なミッションをクリアしていった。
 リンカーン暗殺を阻止し、タイタニック号の航海を無事に終わらせ、飛行船ツェッペリン号を墜落から救った。スペインの魔手からインカ帝国を守り、サラディンを助けてリチャード一世率いる十字軍を追い払った。百年戦争の時代、サン・トゥーアン大修道院の地下牢から火刑に処される寸前のジャンヌ・ダルクを救出し、純潔の魔女を助け、人界に不要な干渉をしてくる天使の姿をした霊災を修祓した。
 記憶を失いかぐや姫になった京子の記憶を取り戻すために秋芳が大伴のみゆきや石上まろたりに続く六番目の貴公子としてはるばる天竺まで秘宝をもとめ、最終的には月にまでおもむいた。
 ときに難解な謎かけが、ときに強敵との戦いがあったが、ふたりで力を合わせて乗り越えてきた。
最終ステージまで、あともう少し――。





 ときおり鯉や亀が悠々と泳ぐ姿を見せて水面に波紋を生じさせる以外は玉盤に漿水を湛えたかのような静穏な湖面。
 湖のほとりには無数の柳が枝を垂らし、奇岩怪石、石仏や石塔、半円を描く太鼓橋が建ち並んでいる。
 まるで『金瓶梅』や『紅楼夢』かなにかの挿し絵に見える、中華情緒あふれる眺めだ。
 湖のほとりに唐風の屋根をした四阿(あずまや)があり、中にはふた組の男女が並んで寝そべっていた。
 秋芳と京子だ。
 横になったまま丸窓から外を眺めている秋芳のとなり、規則正しい寝息をたてていた京子が急に身じろぎし、強く抱きついてきた。

「どうした」
「ん……、変な夢を観ちゃって……」
「夢の中で夢を観るとは、なかなか乙な真似をする」

 ここはまだデイドリーム枕くんによる夢の中。数あるステージの中には休息のために設けられたかのような、とくにクリア条件がなく自分の意志ですぐに先へと進めるステージがあった。
 そのようなステージはたいてい美しい景色や美味い料理が楽しめる設定となっており、秋芳と京子はボーナスステージと呼んだ。
 いまいるこの場所もそれらのうちのひとつで、漢文化に傾倒した風流人の造ったような数寄を凝らした池泉庭園で、ぞんぶんに観賞してひと休みしていたところだ。

「こわい夢だったのか?」

 幼児のように抱きついてくる京子の身体をそっと抱き返して頭をなでる。ほんのりと甘さを感じさせる花のような香りが鼻腔をくすぐる。現実世界でも京子が身に焚き染めていたお香の匂いだ。
 このお香。秋芳がみずから調合したものである。
 良き香りは邪を祓い魔を退ける。
 そう主張して陰陽塾での授業に調香を取り入れ、塾生たちに香を作らせた。そして秋芳と京子はおたがいに作った香を相手にプレゼントしたのだ。

「夢そのものは全然こわくはなかったんだけど、変な夢。宇宙人とか出てきたし。それに、さびしかった」
「宇宙人が出てくるさびしい夢ってなんだよ」
「夏目君も天馬も春虎もいたのに、あなただけはいなかったの。それがさびしくて、こわかった」
「夢の途中からいなくなったんじゃなくて、最初からいなかったのか?」
「……うん」

 一緒にいた人がいなくなってしまい、探しても見つからずに戻ってもこない。
 これは、いなくなった人物との関係が切れてしまうことを示している。 特に道を進んでいたような状況は要注意だ。道は人生を表しているので、人生において、いなくなった人との関係が切れてしまうことの暗示だ。
 秋芳も京子も陰陽師として卜占の、夢占ないの知識がある。即座にそのような解釈をした。
 星読みとしての能力を持つ京子が観た夢なら、そうむげにはできない。

「くわしく思い出せるか」
「ええ、そうね……。あ、あのね、鈴鹿ちゃんがいた」
「すずか?」
「そう。十二神将の大連寺鈴鹿ちゃん」
「なんでまたそんな娘が夢に、大連寺鈴鹿とは知り合いなのか?」

 京子の父は陰陽庁長官にして祓魔局局長でもある十二神将の筆頭『天将』倉橋源司だ。その関係で面識があってもおかしくはない。

「残念ながらまだご縁がないのよね」

 史上最年少で陰陽Ⅰ種を取得して十二神将に名を連ねることとなった、『神童』の異名を持つ少女。 その経歴と魅力的な容姿から陰陽庁の広告塔としてアイドルのような活動もしている。陰陽師を目指す同年代の若者で彼女を知らない者などいないだろう。
 京子もまた彼女のファンであり、彼女が特集された月刊陰陽師は大事に保管してある。

「で、夢の中でその鈴鹿と宇宙人はどうからんでくるんだ」
「それは――」

 京子の観た夢とはどのような内容か、夢の中での夢語りがはじまった。
 
 

 
後書き
 京子の観た夢の詳細はこちら。
 https://www.akatsuki-novels.com/stories/view/200354/novel_id~20702 
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