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東京レイヴンズ 異符録 俺の京子がメインヒロイン!

作者:織部
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邯鄲之夢 6

 方臘(ほうろう)が呼んだ助っ人、包道乙(ほうどういつ)智羅永寿(ちらようじゅ)。元側に実力のある呪術者が加勢したことで戦況に変化が生じた。
 それまでは一方的に秋芳らの放った使役式に翻弄され、武器を壊されたり兵糧を奪われたりいやがらせで士気をくじかれていたのだが、彼らが守りにつくことでそれらが阻止され、敵陣に近づくのも困難になり、そればかりか逆に元軍側から呪術や使役式による攻撃を受けるようになった。
 双方の陣地に式神が飛び交い、呪が交わされる、甲種呪術による攻防戦が展開された。

「玉帝有勅、風伯雨師雷公霊々、雲雨湧須、雷風雷電神勅、軽磨霹靂電光転、急ぎ急ぎて、律令の如くせよ!」
「玉帝有勅、炎帝火徳妭姑霊々、形状精光、上列九星、軽磨火電灼熱光華、急ぎ急ぎて、律令の如くせよ!」

 方臘が風を呼び、包道乙が火を起こして木生火。相生効果で威力を高めた炎で火計をくわだてるも。

「不変にして不動なる大地よ、絶対不破の楯となれ、急々如律令(オーダー)!」
「金光五兵、太白銀陣、剣槍刀矢斧は万物必壊なり、疾く!」

 仰々しくも力強く、だがそれゆえにムラも多い方臘と包道乙の呪術にくらべて無駄のない〝現代〟の汎式呪術が応じる。

「「一白辰星、玄き魂にて我らを護り我が敵を滅せよ。凍土よ氷河よ荒れ狂い咲き誇り、氷塵と化せ。急々如律令(オーダー)!」」

 土生金からの金生水、そして水剋火。秋芳らもまた五行相生・相剋の理をもって勢いを増した水の呪で阻止した。

 熊のような体躯に驢馬のような頭部をのせたヤクシャ、赤髪黒肌の食人鬼ラクシャーサ、目が横ではなく縦についている三面六臂のダーサ、疫病をまき散らす病魔ヤカー、半人半蛇のナーガ、血肉を喰らう食屍鬼ピシャーチャ、鋼の鉤爪をもった魔鳥ジャターユ、象頭の悪鬼ギリメカラ、漆黒の獣人キャク――。
 智羅永寿が召喚した天竺生まれの動的霊災が崖山に害をもたらそうとするも。

「東海の神、名は阿明。西海の神、名は祝良。南海の神、名は巨乗。北海の神、名は禺強。四海の大神、百鬼を避け、凶災を蕩う――」
「東に少陽青龍、南に老陽朱雀、西に少陰白虎、北に老陰玄武、中央に太極黄龍。陰陽五行の印もって相応の地の理を示さん――」

 百鬼夜行、数多の霊災を退ける呪術が効果を存分に発揮し、人々の住む居住区には一歩もよせつけない。たとえ退魔の霊陣をくぐり抜けてきた者がいても、たちどころに修祓してみせた。
 もともと崖山は背山臨水。山を背後にして前方に水を臨む吉相の地であり、たんに縁起が良いだけでなく呪術に対する防衛能力が高い。
 物理的にも霊的にも、こと守りという点においては大都市と化した崖山に篭もる宋の側が圧倒的に有利であった。

「しかしこれじゃあ埒があかないな」

 玉製の杯にそそがれた葡萄酒を美味そうに飲み干した秋芳が酒精混じりのため息を吐く。

「いまの崖山はほぼ一〇〇パーセント自給自足できるから飢えや渇きに苦しむ心配はないが、こうもひっきりなしに攻撃されてちゃ辛抱たまらん。『信長の野望』や『三国志』で内政がしたいのに隔月で攻め込まれて合戦ゲーになってる状態だ」
「いっそこっちから攻めていきましょうよ、守ってばかりで飽きちゃった。儀式呪術でドカーン! て一発大きいのをぶち込みたいわ」

 紅い雫に濡れた京子の唇から過激な言葉が出た。京子もまた秋芳とおなじ葡萄酒を飲んでいるが、こちらは果汁入りで中には茘枝(ライチ)の実が沈められていた。後世でいうところのサングリアだ。

 葡萄酒。ワインが一般に飲まれることになったのは日本では明治以降だが、中国はワインの歴史も古く、司馬遷の『史記』には中国の北西部で葡萄が栽培されて果実酒が醸造されているという記述がある。
 中国ではじめて葡萄が植えられたのは前漢(紀元前二〇六~紀元後八年)のころで、後漢に入ると葡萄酒まで醸されるようになった。三国時代の魏の文帝曹丕は『詔群臣』のなかで、葡萄について「残暑の厳しいころの二日酔いの朝に露のしたたるような葡萄を食べると、渇きを癒してくれる。醸せば美酒となる葡萄は最高だ」というようなことを述べ、高く評価している。曹丕は葡萄酒をこよなく愛し、よだれを流し唾をのみこむほど美味だとも書き残しているほどであるから、この時代の葡萄酒はかなり良質だったと思える。
 ワインの保存と運搬を容易にしたガラス瓶とコルク栓が普及したのは一八世紀からで、織田信長の時代にポルトガルから船に積み込まれて来たワインは、その多くが木樽に入れられていただろう。するとワインはかなり酸化していたにちがいない。信長の口にしたワインはそうとう不味かったのではないか。
 しかし曹丕の時代の葡萄酒は醸造量が少なく、宮廷でも珍品とされていて、醸造が最盛期を迎えたのは、唐代に入ってからで詩聖、酒仙といわれる李白も「遥かに見る漢水の鴨頭緑、恰も葡萄のはじめて醗醅するに似る」などと歌っている。

 閑話休題――。

「そうだな……、世界で一番平和を愛する日本人として専守防衛を努めてきたが、いくさが長引けばかえって双方の被害ばかりが大きくなるだけだ。ここはひとつ敵陣に大穴を開けて壊滅まで追い込んでやるか」
「いままでが地味すぎたのよ。とびっきり派手な術を使っておどろかせてやりましょう」
「それこそ天地が引っくり返るような術を用意しよう。もっともかなり時間と手間がかかるが」
「そうしましょ、そうしましょ!」

 陰陽塾に通う学生の身では使用するどころか学ぶことすら禁忌にあたいする攻性儀式呪術を実践できるとあって京子の瞳が期待に輝く。
 それを愛おしいと思うと同時に妙な不安が秋芳の心中に生じた。

(ここは夢の中、仮想世界であって現実じゃない。破壊の術をいくら行使したところで実際に命を落とす人は皆無だ。だが……、ここでの体験はすなわち経験。いまさらだが、まだ若い京子にあまり刺激的なことはさせないほうがいいかもしれない。いっそ俺が単身出むいて張弘範(ちょうこうはん)李恒(りこう)を討ち取って元軍を敗走させてやるか。だが包道乙たちが邪魔だなぁ)

 これまでの呪術戦で元軍側についた呪術者の実力はだいたいわかった。注意すべきは包道乙とその弟子鄭彪、京子の式神を破った治羅永寿、最初に大雨を降らした方臘。これら四人だ。さすがに十二神将級とは言えないが、いずれも現役の祓魔官や呪捜官と同等以上の実力をそなえている。

(京子といっしょならどうにかなるが、式ならともかく生身の京子を戦陣に連れていくのはさすがにまずい)

 夢の中、仮想現実の世界だとはいえ、ここでの死は現実の死につながる。京子に危険な行為はさせられない。

(骨が折れるがやはり俺がまずこいつらをかたづけて……、張弘範を討つか)

 昏い興奮が背筋を駆け抜けてくる。身体の芯を熱く、それでいて冷たく火照らせる。剣呑な感情がこみ上がってくるのを自覚した。
 山を下りた直後の、まだ駆け出しの頃。陰陽庁に属さないもぐりの呪術者として行動していた時。他者を呪殺するさいの昂ぶり。

(……ここは現実じゃあない。『グランド・セフト・オート』や『スカイリム』でちょいとおいたをするのといっしょだ。ひさしぶりに、暴れてやるか……)

 (ビン)の焼ける良い匂いが、つづいて肉を焼いたり野菜を炒めたりする匂いも流れてきて思考を中断させた。
 餅とは小麦の粉を練って焼いたもので、パンの一種だ。葡萄酒によく合うことだろう。

「このひらべったいのはなに?」

 手にした箸で前菜に出てきた薄いせんべいのようなものをつまむ。

炸駝峰(ジャトウフォン)といって、ラクダのこぶを薄く切って油で揚げたものだよ」
「へぇ! はじめて食べるわ」

 ラクダのこぶは栄養価が高く保存も効く。
 京子がひとくちかじってみると、豚肉のから揚げによく似た。それでいてさっぱりとした肉の旨味がひろがった。
 秋芳と京子が食事をしている場所は北方や西域の料理が楽しめる菜館(レストラン)だ。
 ここの酒飯博士(シェフ)は長いあいだ元軍の虜囚になっていたという料理人で、その間に北方や西域の料理を学んだという。
 北方料理の中にはとうぜん敵であるモンゴル人たちの料理もふくまれるが、だからといって「敵国の料理が食えるか!」「せめて名称を変えろ!」などという卑小な考えの者は宋の国にはいない。
 この時代の中国にはおだやかで智勇仁義にあふれた士大夫たちがまだ多くいたのだ。
 二〇〇三年。フランスがイラク戦争への加担を拒否したことに腹を立てた一部のアメリカ人はフランス製品の不買運動などの反仏活動をおこない、その一環としてフレンチフライドポテトやフレンチトーストをフリーダムポテト。自由のフライや自由のトーストと言い換えたことがあった。
 第一次世界大戦の時にも反ドイツ運動として言い換えが行われ、ザワークラウトが自由を意味するリバティを用いて「liberty cabbage」、ダックスフントが「liberty pups」、ハンバーガーが「liberty steaks」などと呼称された。
 実に愚かしい行為だが、他所の国を笑うことはできない。日本も戦時中は敵性語禁止などとしてコントラバスを「妖怪的四弦」、〒ポストを「上方差し込み下方取り出し郵便箱」、カレーライスを「辛味入り汁かけ飯」などと、噴飯ものの言い換えをおこなっている。
 こんな精神的に余裕のない国は戦争に負けてとうぜんだろう。
 ほかにも雪山駝掌(ラクダの足肉の卵白かけ)や炸鹿蹄筋(シカのアキレス腱)、胡芦鶏(鶏の丸ごと蒸し揚げ)、手扒肉(羊肉の塩茹で)、奶酪意粉(チーズパスタ)といった料理の数々を賞味する。食べ物の好ききらいのない京子も、さすがに蛇は抵抗があるのか一龍蛇珠(蛇とホタテの蒸し物)だけは秋芳の胃袋におさまった。

「まさに龍肝豹胎。珍味とはこのことだな」
「中国料理って芸術品よねぇ。こんな美味しい物が食べられるんだったら、あと三年くらい目が覚めなくてもいいかも」

 食後のデザートに氷糖胡芦(ビンタンフール)、サンザシやイチゴなどの果物を砂糖で包んだお菓子を口にふくんだ京子が相好をくずす。

「そうか? 俺はそろそろ日本食が恋しくなったぞ。鰹だしの効いたそばつゆにたっぷりの海苔を入れた花巻そばや、油揚げと大根の味噌汁に壬生菜や柴漬けで白米が食べたいな。あと日本の家屋や庭園もな」
「枯山水の砂庭に池泉回遊式庭園。秋芳君てほんとああいうの好きよねぇ、まぁ、あたしも日本人だし、きらいじゃないけど」
「日本庭園の様式は中国に源流があるが、朱金で塗りたくった中華式の装飾は派手派手しくてどうもおちつかないからな。……日本は資源がないなんて言われるが、ダイヤモンドだの金だの石油なんかより山紫水明のほうが遥かにありがたいよ。金も石油もなければ他所から買ってくることができるが、山河や水源はそうはいかない。豊富で清潔な水流と自然を必要以上に破壊しない伝統的な林業があったからこそ、いまの日本の文化がある」
「畳の匂いも気持ち良いものね」
「そこで思ったんだが、京都に研修旅行に行けないか塾長に提案しようかと考えているんだよ」
「あら、良いわね。京都だなんてまるで普通の修学旅行みたい」
「だろ? 一応陰陽塾にも合宿があるみたいだが、二年からだし。一年にもそういうのがあってもいいと思うんだ」

 陰陽塾では一年の間は座学が中心となり、甲種呪術などの実技の広義ではごく基本的なことしかおこなわれない。しかし二年からは逆に甲種呪術の習得が重点的におこなわれるようになり、なかには二年と三年の共同講義もある。実技合宿というのがそれにあたり、通常の講義のない週末にクラスごとにおこなわれ、合宿先はたいてい関東近郊のパワースポット。霊山などになっている。

「京都といえば神社仏閣が立ち並び、江戸東京と同様に幾重にも結界の張り巡らされた日本屈指のパワースポット。かつては陰陽師の活躍の表舞台だったんだ。俺たちが学びに行くにふさわしい場所だろ」
「たんに自分が観光を楽しみたいだけなんでしょう。あ、でもあなたにとって観光旅行って言うよりかは里帰りに近いのかしら」
「まあ、そうなるのかな。……本音を言えば国宝級の寺院で京子とまったりと逢瀬を楽しみたいんだ」

 秋芳は一般の見物が禁じられている寺社仏閣に穏形して忍び込み、自由に観覧するのに凝った時期がある。まだ京都にいた時、夜の東山慈照寺。俗にいう銀閣寺で笑狸と邂逅し、たびたび会うようになっていたのがきっかけだ。
 人けのない夜の寺社のもつ、なんともいえない美しさに心惹かれた。
 星々に照らされた玉砂利のきらめき、障子ごしに光さすほのかな月明かり、苔むした緑色の池からただよってくる冷たい風、幽玄な趣の能舞台――。
 長い年月を経た文化財、歴史ある建造物というものは妖艶な美女のように人を惹きつけ、豊潤な美酒のごとく人を酔わせるものだ。

「西本願寺に飛雲閣という建物があってな、一説によると秀吉が建てた聚楽第の一部を移設したのではないかといわれている」
「それ、聞いたことがあるわ。金閣銀閣とならぶ京の三名閣のひとつよね」
「そう、それだ。池に面した造りで、橋がかけられる前は舟で出入りしていたそうだ。なんとも情緒があるだろう」
「敷地内に舟で出入りできる別邸を建てるだなんて、贅沢ねぇ」

 そう言う京子の倉橋家とて目白に別邸として洋館を持っている。贅沢ぶりでは負けてはいないのだが、それとこれでは話が別のようだ。

「そういう場所でひとり思い澄ましていると寂しさもわいて出てきてな、いつか気立てが良くて愛らしい少女と出逢い、恋心を育みたいとずっと夢想していた。そしていま、まさにそんな少女と出逢った。そういうところでひと晩いっしょに語り合わないか?」
「いいわよ。……ふふっ、あなたに会ってから不法侵入ばっかりね」

 旧陰陽塾の塾舎やら政治家の私邸やら、なにかとお邪魔しているふたりである。

「江山風月、本無常主、閑者便是主人。良い場所は良い人に愛でられるために在る。えんりょすることなんてないさ」
「じゃあはりきって元軍をやっつけて、もとの世界にもどらないとね」
「だな」
「特大級の儀式呪術、ぶっ放しちゃいましょ!」
「ああ」

 紅葉映える錦秋の京都への研修旅行。
 その旅路の途中で秋芳は自身の出生について、京子は想い人が人ならざる存在だと知ることとなるのだが、それについて語るのはもう少しあとのお話――。





 秋芳たちの準備がととのえるよりも前にそれは起きた。
 最初にそれに気付いたのは海中から辺りを探る秋芳の使役するタイプ・ギルマン、続いて哨戒用の走舸(そうか)に乗った宋軍の斥候兵たちだった。
 水平線を埋め尽くす船、船、船――。
 船上に井楼(せいろう)と呼ばれる櫓の造られた楼船(ろうせん)が海上を埋め尽くす様はあたかも海上に山々が隆起して出現したかのようだ。
 楼船。
 船の縁に板を立て並べて矢や投石を防ぐように作られた大型の軍船で、多層の船体で構成された、まさに水上の楼閣だ。
 長さは二〇メートル前後で艪の数は左右の舷を合わせて四〇。その起源は周の後代、戦国時代にまでさかのぼり、秦や漢の時代になると次第に大型化し、三国時代には外洋へ出るための大型海洋船にまでなった。呉の孫権が東南アジアに使者を使わせたときの楼船は大きな七枚の帆を張り、五〇〇人以上の人を乗せていたという。
 元軍の圧倒的な物量をあらためて実感した人々は戦慄を禁じえなかった。
 元軍の一斉攻撃がはじまる。楼船に積まれた横流砲と呼ばれる投石器から大小無数の石礫が投射された。大は牛ほどの、小はこぶし大の石が雨あられと降りそそぐ。一〇〇束の雷が同時に落ちたかのような轟音が響き、空をおおう石の群れに太陽は陰り、夕闇のような暗さが広がる。
 しかし――。

「韃靼人のやつら、距離も読めないのか。ちっともとどかないぞ!」

 目測を見誤ったのか、元軍の投石は崖山の港のはるか前方に落ちるばかりで、高い位置にある居住区にとどくどころか港に泊めてある船にすらかすりもしない。
 物見に立つ宋の兵士たちは嘲笑したが、それが一刻、二刻、三刻……。日が落ちたあとにも変わらず降りそそぐ岩の暴風雨を前にしてさすがに困惑してきた。

「韃靼どもめ、いったいなにを考えているんだ……」
「海を埋め尽くすつもりか」
「まさか……」

 そのまさかであった。
 やがて数多の岩々が大海原を埋め尽くし、人工の岩礁地帯ができあがる。
 さらに――。

「「「――以土行克水行――以土行克水行――以土行克水行――」」」

 道士、僧侶、行者、巫覡、その他多くの異教の司祭たち――。
 元軍の陣営奥深くから呪術者たちの詠唱がとどろきわたり、呪力の波が押しよせてくると、海面にせり出した岩が泡立つようにうごめき、変容する。
 岩のひとつひとつが接着し、融け合い、隆起し、広大な大地と化した。
 土が水を濁す、水を吸ったり堰き止めたりするはたらきや状態を土剋水。
 水がさらに弱められ、土剋水の状態が極まれば水虚土乗と化す。
 呪術の力で海を大地に変えてしまったのだ。
 三方を海にかこまれた天然の要害である崖山であったが、周辺部にわずかな水場が川のように広がり、残るのみ。
 さえぎる物がほとんどない低平な土地に無防備に晒された状態になってしまった。

「……儀式呪術による地形変化! そんなものが存在したのか……」

 天地自然を自在に操るいにしえの呪術の絶技に秋芳も驚嘆をかくせない。
 ここに元軍一八万による総攻撃がはじまろうとしていた。





 朝日が昇るにつれ呪術によって隆起した大地は燦然たる輝きに満ちていった。
 一〇余万の元軍兵士たちの身につけた鎧や槍の穂先に陽光が反射しているのだ。
 大軍である。
 地上の半分を埋めるかと思われるほどだ。軍旗を風になびかせて歩兵がゆく、鉄騎兵が進む。虎や豹や獅子、人のようで人ではない異形の兵らが列をつくる。鐘を鳴らしてそれらを先導しているのは元軍側の呪術者たちだ。

「もはや小手先の兵法も呪術も不要、正面から力で押し潰すのみ!」

 猛る李恒を張弘範が抑える。

「いま、やつらは太陽を背にしている。午後になり日が傾いてから全面攻撃するのが良かろう」
「たしかに」

 元軍側が悠々と軍備をととのえ布陣するいっぽう、宋の側は混乱の極みにあった。
 滅亡の淵より逃れ、往時を思わせる繁栄を楽しんでいたのもつかの間、ふたたび戦火にさらされようとしているのだ。
 いっときの安堵があったぶん、より恐慌の度合いが増している。
 評定の間。
 さすがに朝廷に仕える文武百官たちは恐怖と混乱に駆られる民衆たちとはちがい泰然としているように見えた。
 彼らはすでに徹底抗戦の、城を枕に討ち死にする覚悟を決めていたのだ。
 問題はどう戦うか。それについての話し合いをしている。
 自分たちが剣の下に死ぬのはいい。だが、祥興帝(しょうこうてい)趙昺(ちょうへい)。皇帝陛下の玉体だけは護らねばならぬ――。

「おお、慈雨花冠さまに妖怪道士さま」
「短い間でしたが良き夢を観させていただきました」

 評定の間に姿を見せた秋芳らに諸将が声をかけてくる。


「元軍側に呪術者が加勢したという話は聞いていましたが、まさか海を陸にしてしまうほどとは……」
「雨を降らし山を削るおふたりの神通力にもおどろかされましたが、まさか敵にもかような術者が存在しているとは思いもよりませんでした」
「あの大軍勢が相手では、もはや呪術でどうにかできる水准(レベル)ではないでしょう」
「大宋が誇る海軍力を封じられ、地の利も失った。もはやこうなってはいかなる小細工も通用せぬ。あとは戦って戦って戦って散るのみ。大丈夫たる者、瓦のように全うするのではなく、玉と砕け散ろう!」
「しかしおふたりは宋の民ではございません、われらと運命を共にすることなどない。そこで皇帝陛下を安南(ベトナム)へおつれするさいの護衛になってもらいたいのだが……」

 驚天動地の天変地異と、それに続く大軍勢を目の当りにした諸将らは、あきらめから自暴自棄になっているようだ。

「……水臭いことを、ここまで来たからには最後までお供させてもらいますよ。それに呪術で開いた穴は呪術で埋め合わせればよいのです」
「なんと、ではあの大地と化した海をもとにもどせるので?」
「もどせます」

 おお、と歓声があがる。

「……だがそれよりももっとすごい、未曾有の大呪術を披露して見せましょう。元軍が海に大地に変えたというのなら、私たちは空を落としてみせます。さらに宋の軍兵に天将の加護をさずけましょう」

 おおう、とふたたび歓声が評定の間をつつむ。

「しかしそれには準備がかかりますので、儀式が完遂する前に元軍が攻めてくるでしょう。この賀茂秋芳(ファマオ・チュウファン)が前線に立ち、微力ながら宋のみなさんのお力添えをします」

 おおおう、評定の間は大歓声につつまれた。





 崖山の頂上付近、行宮にほど近い阳台(バルコニー)
 そこは儀式呪術のための天壇へと変わろうとしていた。
 呪詛のための護摩壇、五鈷鈴、三鈷などの法具をならべたり磨いたり供物をそろえたりとしたこまごまとした作業をしている秋芳と京子の姿があった。

「いやぁ、良かったよ」
「なにが?」
「宋の人たちが俺たちを頼りきって泣きついてきたらどうしたものかと思ったが杞憂だったみたいだ。俺はああいうのが苦手なんだよな~。ほら、ファンタジーだのによくある勇者の伝説ってやつ。――国王の悪政や盗賊に苦しむ国や村があって、人々は古くからの予言や伝説に希望を託している、いつか旅の勇者が矢ってきて悪王や盗賊をやっつけてくれるとか、なにも知らない旅人がやってくると人々は勝手に彼を勇者と決めつけ、おだてあげ、泣きつき、悪者と戦わす。てパターンがあるけど、つまり自分たちは悪政を打倒するためにはなにもしない。どこからかつごうよく正義の勇者があらわれて悪をやっつけて、またつごうよく去っていく。最初から最後まで他人に責任を押しつけて自分たちはなにもしない。そういう連中のためにひと肌脱ごうって気になれないんだよな」
「もしそうだったら、見捨ててたの?」
「いや……、見捨てはしないが、やれやれ系主人公みたく愚痴ったりなんかして、ぐだぐだ、うだうだとのたまって行動に移ったんたんだろうなぁ」
「あら、良いじゃない! やれやれ系主人公。正義や愛を口に唱えながら人を殺すより、屁理屈言ったり退屈しのぎといいながら人助けをするほうがはるかにましでしょ。あたし好きよ」
「なるほど、そういう見方もあるのか」

 おしゃべりしつつ、作業を進めている。小さな厨子の中から一体一体仏像を取り出して祭壇に置く。
 水牛に乗った六面六臂六足の大威徳明王。
 足もとに大自在天を踏みつけた降三世明王。
 手首足首に蛇を巻きつけた軍荼利明王。
 三面の中央の顔に五つの目がついた金剛夜叉明王。
 右手に倶利伽羅の宝剣、左手に羂索を持った不動明王。
 中央に不動明王を配し、東方に降三世明王。南方に軍荼利明王。西方に大威徳明王。北方に金剛夜叉明王――。
 それらはまた木火土金水の五行にあてはまる。
 ここに森羅万象をあらわす小宇宙が完成しつつあった。

「さがせばあるものだな、愛染明王の仏像もあったぞ」

 赤く染められた身に六本の腕をそなえた坐像。それぞれの手には弓と矢、蓮華や法具がにぎられ、獅子の顔をかたどった冠を逆立つ怒髪の上に乗せ、見るもおそろしい憤怒の形相を見せている。
 愛欲を司る明王、愛染明王の木像。身を彩る真紅は煩悩の激しさを象徴しているかのようだった。

「……使わせてもらうか」

 なにかをふと思いつきた秋芳は愛染明王の仏像をそっとふところにしのばせた。

「あ、今なにをしたの、秋芳君」
「なぁに、ちょいと小田切寧々的な力を行使してみようかとね」
「はぁ? ……よくわからないけど、変な悪戯しちゃダメよ」
「わかってるって」

 残りの作業を京子にまかせ、秋芳はその場を離れた。彼にもやるべきことがあるからだ。





 軍装した兵士たちが集まる広間で出陣の儀式が執り行われた。

「兵を発起す!」

 祭壇の前で長剣を抜き放った秋芳が声高に叫ぶ。

「兵を発起す! 天兵および地兵を発起す。陰兵および陽兵を発起す。木兵および火兵を発起す。土兵および金兵を発起す。水兵を発起す。陸海空の諸兵を発起す。四方四営の兵を発起す。中岳嵩山大帝これを命ず。火急に王命の如くせよ!」

 長剣を頭上にかざし、朗々と宣告するとそれをするどく振り下ろすと黄色い閃光が奔る。

「千々の将兵、師に随いて行け! 万々の将兵、師に随いて起れ! 千将万兵、来たりて列陣せよ。火急に律令の如くせよ!」

 南に向きを変えてふたたび宣告する。

「兵を発起す、兵を発起す! 南方百蛮の兵を発起す! 紅旗紅車、師に随いて来たれ。紅馬紅兵、師に随いて起れ。南岳衡山大帝これを命ず。火急に王命の如くせよ!」

 振り下ろされた長剣が赤い閃光を奔らせる。

「兵を発起す、兵を発起す! 西方百戎の兵を発起す! 白旗白車、師に随いて来たれ。白馬白兵、師に随いて来たれ。西方崋山大帝これを命ず。火急に王命の如くせよ!」

 西を向いて振り下ろされた長剣が白い閃光を奔らせる。

「兵を発起す、兵を発起す! 北方百狄の兵を発起す! 黒旗黒車、師に随いて来たれ。黒馬黒兵、師に随いて起れ。北岳恒山大帝これを命ず。火急に王命の如くせよ!」

 北を向いて振り下ろされた長剣が黒い閃光を奔らせる。

「兵を発起す、兵を発起す! 東方百夷の兵を発起す! 青旗青車、師に随いて来たれ。青馬青兵、師に随いて起れ。東岳泰山大帝これを命ず。火急に王命の如くせよ!」

 青い閃光が奔る。
 居並ぶ兵士たちの身に変化が起きた。
 心の奥底から闘志が、熱い闘志が込み上げてくる。もとより戦意の高い宋兵たちだったが、さらに士気が高まり恐怖心が完全に消滅した。
 全身に力がみなぎり身体が軽く感じられる。
 いかなる敵にも負ける気がしない。それがたとえ自軍の数千数万倍の軍勢が相手でも、悪鬼羅刹のたぐいだとしても――。
 熱く静かな高揚感が場を支配した。
 四方を司る神々に必勝を祈願し、戦意高揚を目的とした儀式呪術。
 この呪術の影響下にある者は身体能力が向上し、恐怖心をなくす。
 さらに精神にはたらきかける呪術の影響を受けにくくなり、痛みへの耐性が増す。
 霊災修祓を主とした現代の呪術界ではほとんど使用されることのない、帝国式陰陽術だ。

「身体が燃えるようだ!」

 あまり感情をあらわすことのない張世傑だったが、この時ばかりは興奮した面持ちで秋芳に話しかけてきた。

「これほどまでにみなの士気が高まればこたびの作戦、成功まちがいない」
「張将軍の考えた作戦、かならずや実行させてみせます」

 起死回生の大呪術の発動まで時間がかかる。それまで元軍を食い止め、崖山に一歩も入らせてはいけない。そのための作戦をこれから開始するのだ。





全軍前進(チュアンジュンチャンジン)!」

 日が傾くと同時に元軍が動いた、崖山に迫る。

「なんだ、あやつらの布陣は?」

 周囲をかこんでいた海が大地と化した崖山は手足をもがれたカニにひとしい。崖山の奥深くに立てこもって籠城すると踏んでいた元軍の将兵たちだったが、なんと宋軍は崖山の外に出て陣を組んでいた。
 それもわずかに残った川のように広がる水場の外側に。
 全体から見ればわずかな水場だが、それでもそれなりの深さと広さがある。城を守る堀に見えないこともない。最後の最後に残った唯一の地の利だ。それなのにせっかくの天然の堀を背にして布陣しているのだ。

「あやつら、まだ崖山の中におれば高処の地の利を得られようものを、あのような低地に群れてなんとする。高処にいるわれらが騎兵で突撃すれば踏みつぶされるだけだぞ」
「しかも水を背にして布陣するとは、韓信を気どるつもりか」

 秦末漢初、漢と趙との戦いで漢の軍は寄せ集めの兵ぞろいだった。そこで漢の将軍韓信はわざと川を背にして陣を敷き、兵士たちが逃げれば溺れ死ぬほかはない捨て身の態勢にした。兵学の常識を知らんやつと油断した趙の軍は決死の漢軍の猛攻の前に敗走し、漢は勝利をおさめた。
 この故事から失敗の許されない状況で全力をあげてことにあたることを背水の陣を敷く、背水の陣で臨む。というようになったのはあまりにも有名な話だ。

井陘(せいけい)の戦いとはまったく状況が異なる。川を背に高処の敵に対するなどと自殺行為だ。宋のやつら、よほど死にたいらしい。高処からいっせいに攻撃し、押し潰し、海に追い落としてやろう。やつらの死骸で海を埋め立てようぞ」
「大地を造ってしまいこのあたりの魚どもには悪いことをしたが、大量の餌ができて鮫どもはよろこぶだろう」

 元軍の先鋒を任された羅延将軍とその旗下の隊長たちが嘲笑した。
 高処といってもたいした高処ではないが、それでも低地に位置する宋軍の様子は丸見えだ。兵数は一万に満たず、どこかに伏兵がいる恐れもない。例の妖怪道士や魔女が妖しげな術や人妖を放ってくるかもしれないが、そのために方臘、包道乙、智羅永寿をはじめとした数多の呪術者を軍に編入してある。おいそれと遅れはとらない。
 大あわてで柵を作ったようだが完成しているのは中央と左翼だけで右翼の前面はがら空きのようだ。しかも中央と左翼は騎兵中心だが右翼はほとんど歩兵らしく思える。

「やつら、どこまで愚かなのだ。せっかく柵を作るなら歩兵の陣前だろう。騎兵の前に柵を作れば自分たちが突出できぬようになるだけだぞ」
「よし、まずは敵の右翼を叩き潰す。そののち右回りに敵の中央と左翼を突き崩す」
(シャア)!」

 元軍の喚声が天に響く。一六万対一万。互角の条件で戦ってもまず負けはしない。いわんや地の利はこちらにある。万が一の敗北もありえない条件に見えた。

「お待ちを、羅将軍」
「……なんですかな、太上準天美麗貴永楽聖公どの」

 返しの風による落雷に撃たれて黒焦げになった僧、方臘が突撃の号令を発しようとした羅将軍に声をかけた。

「拙僧の千里眼の術によりますと、わが軍左翼の前方に何十本か棒杭が立たれ、縄がはりめぐらされております。騎兵で突撃するのは不利なのでは?」

 物見の兵に確認させると、たしかに言ったとおりに棒杭が立ち並び、たがいの間に縄が張られている。思わず失笑してしまうような急ごしらえのお粗末な罠だが、むやみに馬を突進させれば足をからめてしまうだろう。
 元軍の左翼は宋軍の右翼と相対し、まず元軍左翼が突出して宋軍右翼を正面から叩き潰し、そこから右へと転じて中央部隊の右側面を突くつもりだったが、少し修正する必要が出た。

「ならば中央から堂々と押し出し、低地へ出てから左前方へ突進して敵の右翼を攻撃する。――見るがいい。敵の右翼には柵もなく、兵数も少なく、しかも半分ほどは座り込んでいる傷病兵ではないか!」

 たがいの軍の様子が視認できるほどの距離まで来たが、宋軍にはなんの動きもない。
 一万に満たない兵のうち中央に騎兵五千、左翼にはおなじく騎兵三千、右翼には歩兵が千人ばかり配置されている。
 全軍が川のように広がる海を背にして騎兵は全員下馬して柵の前にかたまっている。
 羅延が侮るのも無理はない、じつに歪な陣形だ。

「やつらは恐怖に震えながら、ただ殺されるのをまつだけだ。愚かにも大元国に逆らったおのれの愚かさを恨むがいい」

 羅延は戦う前から勝ったつもりでいた。
 銅鑼が鳴り響き、元軍の騎兵部隊が大きく横に広がりながら突出する。
 地を駆け、猛然と肉薄した元軍だが、直前になってはじめて正面の柵が二重になっていることに気づいた。
 二重の柵を突破するよりも緩斜面の下に無防備な姿をさらしている右翼の歩兵を蹴散らすのがたやすい。そう判断した先頭集団が馬首を左へそらすと後続の全体がそれにならう。
 柵にそって元軍は怒涛のいきおいで馬を走らせる。宋軍の眼前を左から右へ。
 つまり元軍は密集したまま右側面を敵軍にさらけ出しているのだ。
 馬上の兵は左手で手綱をとり、槍や刀剣を高々とかざす。右のわき腹ががら空きだ。
 張世傑の狙いはそこにあった。なぜ弱々しい歩兵だけの部隊を右翼に配したか。彼らはおとりだったのだ。
 元軍の動きを見た張世傑が号令を発すると下馬していた騎兵たちがいっせいに弓をかまえて柵の間から矢を放つ。
 数千の矢が真横にむかって一斉掃射されるさまは銀色の奔流のようで、その風切り音は猛禽が群がり飛び立ったかのようだ。
 至近距離であり、はずれようがない。
 悲鳴をあげて元軍の馬がたおされ、振り落とされた兵士の身体が宙を舞う。たおれた人馬につまずいて後続の馬も横転し、土煙をあげる。混乱のさなかにさらに矢が射られ人馬が殺傷されていく。

「なにをしている、そのまま進め!」

 羅延が浮足立つ兵士たちを叱咤する。

「進んで歩兵を蹴散らせ! そうすれば敵軍はくずれるぞ。その場にいては的になるだけだ」

 直進して歩兵隊を破り、中央を突破したあとに右へと回り込んで中央の軍に突入すれば
自分たちが設けた柵にはばまれて行動できず元軍の騎兵に蹂躙されることだろう。
 猛射の前に甚大な犠牲を払いつつ、さらに前進を続け先頭集団がようやく歩兵隊の列に突入しようとした、その時。
 座り込んでいた兵たちがおどろくほどの俊敏さで左右へと走り出した。
 元軍の目の前は一瞬にして無人の野となり、兵たちは狼狽する。いきなり左右に散開されてはどちらへと馬首を向ければよいかわからない。先頭集団が速度を落としたため後続の兵は進めず、なかば停止してしまう。その後背はまったくの無防備状態だ。
 まさにその時、宋軍の前に設けられていた柵がほとんど一瞬で消え失せた。宋軍の兵士が刀をふるって柵をささえていた綱を切断すると、柵はたちまち倒れて宋軍の前はがら空きにある。堅牢な馬防柵と見せかけて、その実は縄一本でささえられた、ただの棒や板の集まりだったのだ。

乗馬(シォンマー)!」

 張世傑の命令一下、宋兵たちは喚声をあげて馬に乗り、敵勢に向かった。
 張世傑もまたみずからの愛馬に乗り先陣を切る。

「突撃! 皆殺しにしろ!」

 宋兵は一丸となって動きを封じられた元軍の背後から襲いかかる。
 密集していた元軍はひとたまりもない。投げ槍を背に受け、斬撃を首筋に受け、刺突をわき腹にくらい、おどろくほどのもろさでくずれ落ちる。

「なにをしている、走れ! 走れっ!」

 その惨状を見て羅延があわてて歩兵部隊を投入するも、かなりの距離を走破しなくてはならない。ごくゆるやかな緩急といえども甲冑を着たまま走るのだ。それも身を隠すこともできない傾斜面を。一歩ごとに矢をあびて、一呼吸に十人単位で地に倒れていく。
 息も絶え絶えに主戦場にたどりついた時には歩兵隊は千人以上の人員を失っていた。
 そこにまったく疲弊していない宋兵たちが待ち構えている。

「遅いぞ、鈍足の韃靼人め!」

 愛刀一閃。張世傑の長剣が一度に二人の元兵を斬り伏せる。
 張世傑以下、秋芳の儀式呪術によって士気高揚した宋兵たちが全身に返り血をあびながら突進し、殺戮の限りを尽くす。
 槍を敵の身体に深々と突き刺し、抜くのが困難と判断すると、その槍を捨て腰に帯びた刀剣を抜き放って切り込んでいく。
 白刃が激突して火花を飛散させ、血が沸騰し、甲冑は割れ、鮮血の砂塵の中に黒い人馬の影が乱舞する。
 元の兵士らは善戦したが、死傷者の数は増えるばかりだ。神がかったかのような宋兵の猛襲の前に一歩退き、十歩退き、ついにはくずれ落ち、潰走をはじめた。

「逃がすか!」

 張世傑をはじめ宋の兵たちは撃剣を振るい、血煙をあげ続ける。
 もう何人斬り伏せたことか、血糊と脂とで切れ味が鈍っていたところ、甲冑にまともにあたり刀身が折れ飛んだ。
 張世傑は舌打ちすると折れた剣を元の兵に投げつけ、落ちていた敵の剣を拾ってさらに突進を続ける。
 宋軍は鬼神の群れであった。
 戦場にあった元軍の過半は屍と化し、生き残った者たちも追いつめられていた。

「逃げろ、逃げろ!」
「退路があるぞ、こっちだ!」

 だれかが叫ぶ。
 追いつめられた元軍の兵たちの血走った目がひとつの方向を見る。
 宋兵たちの槍の列、人馬の群れが、そこだけは途切れているように見えたのだ。
 一万に満たない宋軍が先鋒隊だけで三万以上の元軍を完全包囲えきるわけはない。 
 包囲の輪にほころび、薄い箇所があるのは当然だ。元の兵たちが生き残るため、折れた槍や刃のこぼれた剣を振りまわし、死に物狂いで突進すると、宋兵たちは左右にわかれて道をあけた。
 元軍の兵らの死力に怯んだのか。
 歓喜の雄叫びをあげて包囲を突破した元の兵たちだったが、それこそ張世傑のしかけた無慈悲な罠だった。
 元兵たちは歩兵も騎兵も肩をぶつけあい、押し合いへし合い揉み合いながら敗走した。この戦いで元軍はつねに密集隊形で移動し、そのために甚大な被害をこうむったのだが、敗走する時でも密集していた。
 最大の悲劇が元兵らを襲った。
 彼らが包囲を突破したと信じて安堵した時。それは巨大な罠の口にみずから飛びこんでしまった時だった。

「なんだこれは!?」

 絶叫がわき起こる。

「止まれ、止まれ!」
「押すな、押すんじゃない!」

 数百の人馬がいっせいに宙に浮き、落下してゆく。
 そこには地面がない。崖山周辺の海。残った水場に飲み込まれていった。
 数百の飛沫が水面にはじけた時、すでにその上方には、さらに数百の人馬が手足をばたつかせて落下していく。泳ぎのできる者がようやく水面に顔を出した時には、ほぼ同じ数の人馬が落下してくるのだ。
 人と人、馬と馬との身体が激突し、水しぶきに赤い煙が混ざる。
 それが十回、二十回と繰り返され、崖山の天然堀は人馬の群れに埋め尽くされた。

「このあたりの鮫どもも、とうぶんは人の肉に飽きるだろうな」

 張世傑がつぶやいた時、初戦は完全に宋の勝利に終わった。
 彼の考えた背水の陣は先例のないもので、自分たちの背後の水場を自軍の退路を断つ障壁としてではなく、敵軍を飲み込む罠として使うという見事なものだった。





「ええい、ありったけの回回砲を撃ち込め! いまなら密集している。大打撃をあたえられよう!」

 敵のいいように包囲殲滅される自軍の様に憤激した羅延が投石器の使用を命じた。

「しかしそれでは取り残された味方にも被害が出ますぞ。そもそも野戦で投石器はあまり効果が――」
「かまわん! 撃て! ……そもそも千里眼と言いながらなぜやつらの罠が見抜けぬのだ、このインチキ売僧!」

 とんだ言いがかりである。

「千里眼と言いましても拙僧のそれは遠くを見渡せるだけで相手のくわだてや罠の有無はわかりませぬ」
「ならば得意の法力だか呪術でこの流れを変えてみせろ!」
「いいでしょう。もとよりそのつもりで拙僧は戦場にいるのです」

 方臘と彼に味方する呪術者たちが動きだした。
 戦場に魔物を、動的霊災を放つ。





 怒声と悲鳴、土煙が野をおおい、血と鉄の臭いが充満する。

突撃(トゥジー)! 突撃(トゥジー)! 突―(トゥージー)!」

 馬蹄の轟きと絶叫に秋芳がふり返ると、馬に乗った元兵が刀を振りまわしながら突進してくる。

「禁足則不能歩、疾く!」

 足を禁ずれば、すなわち歩くことあたわず。
 疾駆する馬の四肢は金縛りにあったかのように動かなくなった。
 全力で駆けてきていきなり足の動きを封じられたのだ。人を乗せたまま馬がたおれ、地響きをあげた。
 転がり落ちた元兵の首はありえない方向にまがっている。
 元王朝。モンゴル帝国の強さは戦術面ではなく戦略面にある。チンギス・ハーンの時代から純モンゴル系の遊牧民はほとんど実戦に参加しなくなり、前線に駆り出されたのは征服された諸国の民族たちからだ。
 たったいま命を落としたこの兵士も、元軍に征服され無理矢理徴兵されてきた人なのかもしれない。
 そんなことをぼんやりと考えていたら濃い土煙に吹かれ、鼻を殴られたかのような、つんとした痛みを感じた。
 音もなく熱いなにかが体外へ流れ出した。鼻の下、口のまわりが血に染まっている。
 空気中にふくまれる粗い土砂に鼻の粘膜がやぶれ、鼻血が噴き出したのだ。

「ああ、これが、これが戦場なのか……」

 痛みと鼻血の金臭さのおかげでぼうっとしていた頭が冴えてきた。
 自分はいま無意識のうち呪を唱え、襲いかかってきた敵兵の命を奪ったのだ。
 これまでにもなんどか命のやり取りをしてきたことがある。霊災を相手にしたことのほうが多いが、それでも人間。生身の人間相手に呪術戦となり、相手を死に至らしめたこともあった。
 だがそれはあくまで個人的な戦い。戦闘であって戦争ではない。
 秋芳はいま、生まれてはじめて戦場に立ったという自覚を感じた。

「土御門夜光は、こんな場所に立っていたのか。俺は夜光が目にしたような光景を見ているのか……」

 怒号と絶叫、雄叫び、悲鳴。そして噴煙とおびただしい流血。それでいて妙に透き通って見える景色。残酷で醜く、それでいて澄んだような世界に。
 きーん、というような高い音がずっと聞こえ、その音が絶えた時に死ぬような気がした。
 夜光自身が戦地におもむいたという公式記録は存在しない。だが、彼が前線に立ち三発目の原子爆弾の投下を阻止したとか、占守島の戦いで侵略してきたソ連軍を撃退したという類の伝説は枚挙にいとまがない。
 閃光と轟音。
 爆風にあおられて転倒しそうになった秋芳の全身に鉄片と小石の雨が叩きこまれる。
 見れば前方に大穴が穿たれていた。

「いてて、ひょっとして今のが『てつはう』ってやつか? 今さらながらリアル元寇だな」

 この手の〝流れ弾〟に対するそなえはきちんとしてある。結界護身法による防御力の強化、禁矢刃の掌決、それ以外にも守りの呪は万全だ。命中しても一度や二度くらいなら耐えられる。そうでなくては甲冑も身につけない呪術者が戦場に立つことなどない。
 だが絶対に切れない命綱を巻いていたからといって高所に立つ恐怖がなくならないよう、守りを固めたからと戦場に立って平気でいられるわけではない。
 肩が重い。
 首をひねって見ると手が置かれていた。
 手だけだ。
 手首から下はなかった。
 砲弾で吹き飛ばされただれかの手が、宙を飛んで偶然にも秋芳の肩に乗ったのだ。

「……ッ!」

 気色の悪さにはらい落とそうとして思いとどまる。
 敵か味方か、だれの手かわからないが、そっと地面に置いてやった。

「南無阿弥陀仏……。俺はとうぶん人が死ぬような創作物は見ないし読まないぞ、こんなのはまっぴらだ」

 それがたとえフィクションであっても、その世界の登場人物にとってはそこが現実、そこでの死は死だ。そもそもフィクションと現実の境は曖昧であり、最初から創作とわかって映画を観たり小説を読んだりしても涙するのは、それがある種の現実だからだ。
 ゲームだから漫画だからと、人の死は笑っていいものではない。軽々しくあつかっていいものではない。

「秋芳先生、ご無事でしたか!」

 宋の伝令兵が駆けてきた。

「作戦は成功。元軍の先鋒を蹴散らしました! これも秋芳先生のおかげです!」

 宋軍の右翼に展開していたおとり役の歩兵のほとんどは秋芳が生み出した簡易式であった。
 幻術で弱々しい傷病兵を創り出せればよかったのだが、あいにくと秋芳は幻術が苦手である。
 ひとりやふたりの兵士ならともかく、大勢の兵士の幻を作っても粗が目立ち、呪術者どころか一般人からも見破られかねない。
 秋芳の使役式の笑狸でもいれば得意の幻術で化かしてもらったところだが、いないのであれば手持ちの札で勝負するよりほかはない。
 敵が来たら逃げる。という単純きわまりない命令だったが、さすがに千に近い簡易式を一度に放つのは消耗した。

「……よろこぶのはまだ早いようです」
「なんですと?」

 秋芳の見鬼が戦塵のむこうから近づきつつある霊的存在の気配を察知した。

「元軍は戦場に動的霊災、妖怪変化の類の投入してきたようです。そしてそれを使役する数多の呪術者を。生身の兵を相手にするのとは、いささか勝手がちがいますよ」

 京子の儀式呪術が発動するまで、あと少しのあいだ気張る必要がある。
 秋芳は全身に霊気をめぐらせ、迫りくる魔軍の群れに立ち向かった。
 この世界での死は現実世界での死。
 絶対に負けるわけにはいかない。 
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