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国木田花丸と幼馴染

作者:ゆいろう
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プールサイドにて

 

 水泳というスポーツがある。一般的には水の中を泳ぐことを文字通り「水泳」と言うらしく、老若男女問わず幅広い層に愛されている。

 娯楽としてはもちろんのこと、水泳は健康においても良いというのはよく聞く話だ。なんでも全身の筋肉を有効に使えるようで、泳ぐことは健康な身体を維持することに繋がるらしい。

 もちろん水泳は娯楽や健康維持のためだけのスポーツではない。競技としても水泳は盛んであり、泳ぐ速さを競う水泳競技のことを「競泳」と言う。四年に一度開催される世界的大会においても競泳は注目され、メダルを獲得するようなトップアスリートも日本には数多く存在する。

 俺も小学生だった頃は、幼馴染のマルと二人でテレビの前に張り付いて見ていたものだ。

 競泳の他にも水泳競技はあり、シンクロナイズドスイミング、水球、高飛び込みなど様々な競技が一括りに水泳競技として扱われている。

 そのほとんどが屋内で行われており、大型の水泳施設は多様な競技が行われることを想定し、それぞれ用途に合わせた大型プールを持ち合わせていることが多い。


 バスに揺られること45分、俺の住んでいる内浦から少し離れたところに沼津という街がある。内浦の近くにある街のなかでは最も大きな街であり、街というより都市と言った方がこの場合は正しいのかもしれない。

 その沼津には大規模な水泳施設がある。名を『沼津グリーンプール』と言うその施設は大会なども開催される立派なもので、主に競泳に使われる10レーンが設けられた50メートルプール、シンクロや高飛び込みに使われるのダイビングプールが、大きなドーム型の屋根の下、隣り合わせに設置されている。

 日本でも有数の屋内水泳場であるそこは、一年を通して利用することができる。大会やイベントが開催される時はまた別だが、それ以外の日は一般開放されていて、僅かな出費はあるものの誰でも利用することができる施設だ。

 また大会などが開かれたときには、プールの周り360度を取り囲むように設けられた客席が満員の観客で埋め尽くされる。

 そんな沼津グリーンプールに俺は毎週土曜日、内浦からバスに乗って通っている。中学生になったのを期に何かスポーツを始めようと思った俺は、テレビで夢中になって見ていた水泳に興味を持ち、始めようと思った。

 スポーツ選手のように本格的に取り組んでいるというわけではなく、あくまで楽しむことを目的として週に一回、毎週土曜日に水泳場を訪れては身体を動かしている。


 中学二年生もあとひと月ほどで終わりとなる二月中旬の土曜日。ダウンジャケットを羽織ってもなお肌を突き刺すような寒さに身を震わせながら、俺は内浦からバスに乗って沼津の水泳場にやって来ていた。

 ちなみに今日のように俺がプールに行くときはいつも一人である。通い始めた当初は幼馴染のマルも一緒にどうだなんて言って誘っていたけど、体力がなく運動が苦手であるマルはやんわりと俺の誘いを断った。

 とんだ箱入り娘だなと思いながらも、マルがいなくて困るような俺ではない。この沼津グリーンプールに通う人の年齢層は多様であり、俺と歳が近い人も何人かいる。泳ぐときは真面目に泳いでいるが、休憩をとったときにはその人達と他愛のない会話をすることが多い。

 沼津グリーンプールへと入り、持参した競泳水着に着替えてプールサイドに出ると寒さがよりいっそう肌を突き刺してきた。屋内プールで暖房が効いているとはいえ、この時期に水着一枚で外気に触れるのはさすがに失敗だったか。どうせこのあとすぐ適温に調節されたプールで泳ぐのだとしても、上着のひとつでも羽織って出てくるべきだったと後悔する。

 だが後悔しても寒さが和らぐということは一切なく、ガクガクと膝から上半身まで寒さで身体を震わせるだけだった。まるで産まれたての子鹿のようだな、なんて月並みな形容を自分自身にしながらも、早くプールに入りたいので俺はその場で準備体操を始めた。

 グーっと身体を伸ばす屈伸運動をしながらプールの様子を見渡す。本当に子供からお年寄りまでがプールを利用し、和気あいあいとした雰囲気がそこにはあった。

 そんな風に周囲の様子を眺めていたからだろうか、俺は背後から近づいてくる人の気配に気がつかなかった。


 ――パシーン! と気持ちの良い音がドーム屋根に覆われたプールに反響するのと、俺の背中に猛烈な痛みがやって来たのは、全く同時だった。


「いっ……てぇーー!!」


 俺はその場で膝から崩れ落ち、しばらく動くことができなかった。そんな俺をからかうかのような溌剌とした声が、頭上から降り注がれる。


「おっはヨーソロー! 久しぶりだね陽輝(はるき)! 半年ぶりぐらいかな?」


 鼓膜にその声が届いたのは、確かにおよそ半年ぶりのことであった。本当なら顔を見て半年ぶりの再会に浸りたいところではあるのだが、背中の痛みがそうさせてくれない。


「お、おはヨーソローっす曜さん、お久しぶりです……。あの、いきなり背中を思い切り叩くのは、できれば今後しないでください……」


 かろうじて首を回して後ろを見ると、そこには競泳水着に身を包んだ少女が、ペロッと舌を出して悪戯な笑みを浮かべていた。


「いやーごめんごめん! 久しぶりに来たら見覚えある背中があったから、思わず舞い上がっちゃって! 痛かった?」

「めちゃくちゃ痛いっすよ! 思わずで不意打ちするのは勘弁してください!」

「……不意打ちじゃなかったらいいの?」

「曜さん鬼っすか……」


 俺が顔を引きつらせながら言うと、それが面白かったのか曜さんは盛大に笑い飛ばした。いやマジで笑いごとじゃないって。こっちはめちゃくちゃ背中が痛い。その痛みをなんとか堪えて俺は立ち上がり曜さんと向かい合った。

 曜さん――渡辺曜さん。俺がここ『沼津グリーンプール』に初めて訪れた中学一年生の春過ぎに出会った人だ。曜さんは俺のひとつ年上、つまり今は中学三年生である。通っている中学は違うけれど、俺のなかで曜さんは頼れる先輩のような存在である。


「あれ? 陽輝、しばらく見ない間に背伸びた?」

「そりゃあ育ち盛りですから、背ぐらい伸びますよ」


 曜さんは俺を少し見上げるように見つめてそう言った。曜さんがプールに来なかった半年の間で、俺の身長もそこそこ伸びたのだ。


「陽輝、ちょっと後ろ向いて」

「こうっすか?」


 曜さんの指示通りに後ろを向く。一体なにが起きるのやら、俺には皆目見当もつかない。まさか、また背中に強烈な平手を喰らうんじゃないだろうか。今になって曜さんの言う通りに後ろを向いたのを後悔した。


「あの曜さん、そっち向いていいですか?」

「だめ」


 わずかな希望を抱いて曜さんに尋ねてみたけど、たった二文字で断られる。

 また背中にあの激痛がやって来るのだと恐怖を抱く。しかしこうなったら甘んじて受け入れるしかない。俺はいつ背中に激痛が走ってもいいよう覚悟を決めた。

 しかし、俺の背中に訪れたのは、痛みとはほど遠い感触だった。


「あの、曜さん……?」


 ピタリと、背中に何かが張り付く感触。温かさを伴ったそれが曜さんの背中だと理解するのに、さほど時間はかからなかった。


「陽輝、やっぱり私より背高くなってる」


 背中越しに曜さんの声だけが聞こえ、ドキドキと鼓動が高鳴っているのが自分でも分かる。俺の背中にピッタリとくっつけられた曜さんの背中は身長を比べるためなのに、競泳水着ひとつ隔てて伝わる感触が気になって仕方がない。


「半年前は私より小さかったのに……」

「伸びたものは仕方ないじゃないっすか」

「むー……まぁいっか! この調子でどんどん大きくなれよ少年!」


 そう言って曜さんはバシバシと俺の背中を叩いた。きっと応援や激励の意味が込められていたのだろうけど、俺はそれどころではなかった。

 曜さんが叩いたのは背中。そう、出会い頭に思いっきり叩かれて未だ痛みが残っている、あの背中である。


「ってぇ……!」


 少しは引いてきていた痛みが再来する。その痛みに耐えきれず、俺は再びその場に崩れ落ちるのであった。


「あっ……ごめん陽輝! 大丈夫!?」


 あまりの痛みに俺は声を発することすらできず、今度は本気で心配する曜さんの顔を、間近で眺めることだけしかできなかった。






 それから喋ることができるまで曜さんに付き合ってもらった。俺と曜さんはプールサイドの端っこの場所に座っているのだが、俺達の間にはなんとも気まずい空気が漂っていた。


「陽輝、本当にごめんね……」

「あの、さっきから何度も謝られると困るんですけど」


 先ほどから曜さんは何度も俺に謝ってくる。それに対して俺は何度も大丈夫だと伝えているのだが、どうにも収拾がつかないでいる。


「だって、私のせいだし……」


 体育座りの曜さんは、膝を抱えていた両手のなかにその顔をうずめてしまった。これほど落ち込んでいる曜さんを見るのは初めてだけど、曜さんには似合わないと思った。


「もう気にしてませんから。むしろ曜さんがいつまでも気にしている方が、逆に気にしてしまいそうなんで」

「……うん、わかった。ありがとう」


 曜さんはまだ完全復活とはいかないものの、先ほどまでのやり取りになんとか収拾をつけることには成功した。

 あまり暗い雰囲気は好きじゃないので、俺はそれを打破しようと話題を変えることにした。


「そういえば曜さん、プールに来たってことは高校受験は終わったんですか?」

「うん。結果はまだ出てないけど、試験は先週に終わったんだ!」


 曜さんも俺の意図を汲んでくれたのか、徐々にいつもの元気を取り戻してきた。


「お疲れ様っす。たしか『浦の星女学院』でしたっけ? 試験はできました?」

「バッチリだよ! ヨーソロー!」


 曜さんは手でピースサインを作って、満面の笑顔と一緒に俺に見せつけてくる。もうすっかり元気を取り戻した様子で、俺はホッとひと安心する。


「それよりも、今日は久々に飛び込みたくて!」

「あ、俺も曜さんの飛び込み見たいっす」


 うずうずして言う曜さん。彼女は俺が水泳を始めるよりもずっと前、曜さんが小学生の頃から沼津グリーンプールに通っていて、主に高飛び込みを行っていたらしい。その実力は今では相当なもので、夏に行われた大会でも全国の表彰台に上がったほどだ。

 俺が水泳を始めた頃から、曜さんは同世代の人の間では雲の上の存在だったらしく、話し相手が年配の方ぐらいしかいなかったらしい。

 当時新参者の俺はそのようなこと知るよしもなく、同い年の凄い女の子だった曜さんに話しかけてみた。すると思いのほか会話が弾んで、俺と曜さんはその日のうちに意気投合して仲良くなった。曜さんとは似たような性格をしていると感じることが多く、おそらくそれが仲良くなれた要因だったのだと思う。

 話は戻るが、この夏に曜さんは高飛び込みよ大会に出た。全国の表彰台までたどり着いたその大会が終わると、曜さんは受験勉強に専念すると言ってプールには顔を出さなくなった。

 曜さんほどの実力があれば特待生の話もいくつかあったらしい。しかし曜さんはそれらの話を全て断り『浦の星女学院』を受験することを選んだ。

 その選択に疑問を持った俺は、曜さんに直接その理由を聞いた。そのときに聞かされた曜さんの答えが意外だったことをよく覚えている。


『友達……幼馴染と同じ高校に行きたいから』


 少し顔を赤くして恥ずかしがりながらそう言った曜さん。俺とマルみたいな関係の友人が曜さんにもいるのだと、その時初めて知った。俺はそれ以上のことは詮索せず、曜さんの選択を尊重して応援することにしたのだ。


「よっし準備体操終わり! 今から飛び込んでくるから、しっかり見ててよ!」

「了解っす!」


 あっという間に準備体操を終わらせ、飛び込みプールの方へと向かう曜さん。飛び込み台へと上る階段を進んでいくと、曜さんは最も高い飛び込み台の先端に立った。その高さは10メートルもある。


「陽輝ー! ちゃんと見ててよー!」

「バッチリ見てますー!」


 気がつけば背中の痛みも消えてなくなっており、俺は立ち上がるとブンブンと手を振って曜さんに合図を送った。すると曜さんは膝を曲げて体勢を整えると――。


「ヨーソロー!」


 前逆宙返り三回半抱え型。曜さんの最も得意とする技を落下していくなか成功させる。水に向かって落ちていきながら技を完璧に成功させるその姿は、まるで妖精のように可憐であった。

 技が終わると曜さんは流れるように入水体勢へと移る。そして次の瞬間には、ほんの僅かに水しぶきを上げた。飛び込みにおいて、入水時の水しぶきは小さい方が良いとされているのだ。

 飛び込んだプールの水面から曜さんは顔を出し、ゴーグルを外して俺の方を見てきた。


「どうだったー!?」

「完璧でしたよ! さすが曜さんっす!」


 曜さんに聞こえるように大きく声を出して言う。プールサイドへと泳いで向かう曜さんのもとへ歩み寄っていくと、曜さんは満足そうな笑顔を見せていた。


「ありがと。私はしばらく飛び込みしていたいから、陽輝も自分の練習頑張ってね!」

「うっす、頑張ります!」


 そう言うと曜さんは再び飛び込み台の方へと歩き出していった。その背中を見送ると、俺も自分の練習へと移ることにした。曜さんと違って俺は競泳、今取り組んでいるのは背泳ぎの100メートルである。

 俺は今日ここに来てようやく、飛び込みプールの横に設けてある競泳プールに入ることができた。背泳ぎの練習をしていると、目に映るのは大きなドーム屋根。変わりばえのしない景色を眺めながら泳いでいると、必然的に考え事が多くなってくるものだ。

 今ここで思い出すのは、先ほど見た曜さんの飛び込み。受験で離れていた曜さんと半年ぶりに会って、会話をして、飛び込む姿を見た。

 飛び込み台から落下しながら技をこなし、最後には綺麗に入水する曜さん。その姿が俺の脳裏には鮮明に焼き付いていた。

 その光景を思い出していると、ふと疑問に思ったことがある。それは、高飛び込みという競技において飛び込み台から落下するという行為は欠かせないという、ごく単純なことだった。


 そう、落下。

 つまり「落ちる」ということ。


 曜さんは受験勉強に専念するために高飛び込みから一旦離れていたけれど、本当はこの落ちるという言葉を嫌って離れていたのではないだろうか。もちろんこれは俺の推測なので、実際そうとは限らない。

 まだ試験の結果が出ていないというのに、飛び込んでしまって曜さんは大丈夫なのだろうか。落ちるという言葉が受験生には禁句なのだと、漫画で読んだことがあるから心配だ。


 そんな俺の心配は杞憂だったようで、後日曜さんから浦の星女学院に合格したという話を、俺がプールを訪れる土曜日、その練習の合間に曜さんから直接聞くことになるのであった。 
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