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東京レイヴンズ 異符録 俺の京子がメインヒロイン!

作者:織部
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残照 2

 純の診断はすぐに終わった。
 不自然な憑依状態というわけではないので改めて治療を施す必要などなかったからだ。
 生成りではなく先祖返りということで、身に宿る獣の魂を強引に抑えつけたり、祓うのではなく、制御する方法をいくつか伝授されたのみ。
 身に異形の力を宿し、行使する。
 これは呪術師にとって大きな強みになると同時に一種の箔がつく。
 現役の十二神将の中にも、降した鬼の持つ力を自身のものとして使役・利用することで強大な戦闘力を得ている者がいるが、畏怖の対象になっている。

「わざわざこんな遠くまで来たのに、たったこれだけで帰らせたら悪い。せめて治療の真似事をさせてくれ」

 そう言って陰陽医が用意してくれたのは桃の実入りの風呂だった。
 桃は昔から邪気を祓う神聖な植物とされていて、軽度の霊障ならばこれだけで治せると言われている。

 沐浴した後、縁側で身を涼めている純。そして隣にはつき添いの秋芳。

(しかし木ノ下先輩。こうして見るとずいぶんと色っぽいな。春虎が惑わされたのもうなづける)

 風呂上りの火照った身体を薄手の湯帷子で包み、風にあたる純の姿は女にしか見えない。
 始めて見た時は化粧のせいもあり『美人』よりは『かわいい』タイプに思えたが、こうしてすっぴんだと、その印象は逆転する。

(こっちのほうがいいな)

 失恋や霊災が重なったせいで、明るい仕草や表情も鳴りを潜めているが、その伏し目がちな所作が逆に艶っぽく、色気がある。

 正直、そそられる。

(身にまとう気はたしかに男のものだが、なんとも艶めかしい。まるで歌舞伎の女形のようだ)

 たとえ呪術師でなくても、なんらかの分野で『一流』の域に達した者は非凡な気をまとう。
 身も心も異性になりきっている役者のまとう気など、プロの陰陽師でも男女の見分けをまちがえるかもしれない。

「よかった」
「うん?」
「京子ちゃんたちがいてくれて、秋芳君がここまで一緒に来てくれて。ここまで来て、また春虎君の名前が出てくるんだもん。一人だったら耐えられなかったかも」

 倉橋塾長の紹介してくれた名うての陰陽医の名は土御門鷹寛(つちみかどたかひろ)
 春虎の父親だったのだ。

「ああ、同じ土御門の一族でも、まさか父親だとは思わなかったな」
「縁があるのか、ないのか、わからないものね」

 力のない苦笑を浮かべる純。
 春虎にはつい先日フラれたばかりなのだ。

「他にいい人を見つけるといい。…ああいうのがタイプなのか?」
「うん。楽しそうに笑える人が好き。陰陽塾(うち)って、そういうタイプの人あんまりいないから」
「まぁ、基本的にみんな奥ゆかしいからな。大口開けて笑うようなタイプはたしかに少ないかもしれん。つーかルックス的にもあいつはうちの異端児だな。最初見た時は茨城のヤンキーかと思ったよ」
「あっははは! なにそれ。でもそれってば春虎君にぴったりのキャッチコピーかも」

 純の顔に笑顔がもどる。

「春虎がどうかしたのかい?」

 声の主は噂の主の父親。土御門鷹寛だ。
 がっしりとした体格で身長も高く、レスラーと言っても通用する大男だが、そのわりには威圧感を感じさせない。

「彼が陰陽塾の個性派だって話してたところです」
「ほう、だがおれから見たら君らふたりもじゅうぶん個性的だよ。最初はどこのAKBだかKGBだかのアイドルかと思ったほどのべっぴんさんに、賀茂氏の御曹司だからな」
「アイドルってそんな…、それほどでも、ありますか?」
「御曹司といっても俺はただの養子ですから。それに賀茂といっても今は没落した旧家の一つにすぎませんよ」
「それなら土御門も同じようなものさ。……秋芳君は春虎のクラスメイトなんだろ? 今、茶を淹れるから、塾での春虎のこと、聞かせてくれないか?」

 冷たい緑茶。それと焼き菓子が用意される。
 小麦粉を卵と砂糖で練って焼き上げた生地でホワイトチョコを包んだ焼き菓子は香ばしく甘かった。

「――で、春虎はどうだ? クラスにはちゃんと馴染めてる? 勉強はできてるかい?」
「ツッチーなんて呼ばれて馴染んでますよ。なんでも入塾早々みんなのハートをガッツリつかむような行動したそうで。…勉強は、正直できません。そのせいで、いつも主の夏目君からお小言を喰らってます」
「はははっ、優秀な夏目君から見たら、うちのバカ息子のバカっぷりには腹が立つんだろうな」
「優秀…、たしかに夏目君は優秀ですね。ですが――」
「うん?」
「夏目君と春虎君。上司にするなら春虎君ですね」
「ほほう、そりゃまたどうしてだい?」
「夏目君は優秀な人間にありがちな『自分ができるから他人もできて当然』な考えが強いように思えます。こういう人はたいてい教え下手で、下につくと苦労します。対して春虎君は『自分もできないから一緒にがんばろう』『自分にはできないからお前を頼りにしている』と、こちらのやる気をうながしてくれそうです」
「ふむ…」
「それと人を惹きつける徳のようなものが備わっているような気がしますね。人々の輪に自然と入れる。気づけば場の中心にいる。たとえるなら『三国志演義』の劉備や『水滸伝』の宋江みたいな人でしょうか」
「そいつは褒めすぎだろ! 親の前だからって持ち上げなくてもいいだぜ」
「いやいや、正直な感想ですよ。土御門の次期当主は夏目君だそうですが、トップに立つなら春虎君のほうがお似合いじゃないですかね」

 そのひと言に鷹寛の目に鋭い光が走る。

(おっと、さすがに人の家のことについては言いすぎたか)

 だがそれも一瞬。すぐにもとの穏やかな目つきにもどった。

「たとえお世辞でもそこまで言ってもらうと嬉しいね。どうだい、今日はゆっくりしていって、うちで夕飯でも食べていったら」
「いや、麓の街に連れがいるので、もう帰ります」
「あ、それに夕方からのお祭りも見たいですし」
「麓? 祭り?」
 鷹寛は秋芳と純の言葉に怪訝そうな表情を浮かべる。
「麓というのは、どっち方面だい?」
「〇〇側ですが…。なんでも金矢祭りがあるという街で名は――」
「そんなバカな! ありえない! あの街はもう……」
秋芳の応えに鷹寛は思わず驚きの声を上げた。
「なにが、ありえないんです?」
「む、それは……」

 言いよどむ鷹寛。

「教えてください。街には大事な連れがいるんです。あの街がどうかしたんですか?」

 大事な連れ。
 その一言に純の心がかすかに震える。

(あ、やっぱり京子ちゃんのこと好きなんだ。ちょっと残念、かな…)
「わかった。他ならぬ倉橋塾長の紹介で来た、同じ陰陽の道を歩む君たちだ。口止めされているのだが――」

 今から一か月ほど前に生じた霊災により、街は壊滅し、住人は全滅。
 フェーズ4にまで達した霊災は無数のタイプ・ワーム。ムカデ型の動的霊災を生み出し、祓魔官たちが到着した時には、すでに生存者はいなかったという。
 霊災の進行速度があまりにも早かったこと。
 東京から離れていたため、発見や修祓が遅れたこと。
 それらの不幸な要因が重なり、街一つが霊災により地図から消えるなどという、あってはならない規模の被害を生んだ。
 そう、あってはならないほどの。

「そんな大規模の霊災が起こったなんて話、聞いたことないわ!」
「……隠したんですね、陰陽庁が」
「ああ、ことはあまりにも大きすぎる。公にすべきではないと箝口令が敷かれた。このことを知っているのは陰陽庁のお偉方と、当時現場にいた祓魔官。それに近場に住んでた陰陽師。つまりおれたちの家族くらいだろう」
「ニュースにもならず新聞にも載らない。都会から離れた田舎町で、住んでた人たちも『全滅』したからこそできた隠蔽ですね」
「組織的な隠蔽だなんて、そんな……。そんなことが許されるんですか!?」
「隠蔽云々なら俺たちも人のことは言えないけどな」

 これは呪捜部に連絡せずに自分たちだけで解決しようとした、先日の犬神騒動のことを言っている。
 自分らが禁忌を破るのは良くて、他人がそれをしたら糾弾するというのは、いささか手前勝手。虫のいい話だ。

「でも、それとこれとじゃレベルがちがいすぎるわよ」
「たしかに。だが今はそんなことより京子たちの身が心配だ。木ノ下先輩はここにいてください。鷹寛さん、彼をお願いします」

 そう言うや返事も待たずに駆け出し、街へと急ぐ。
 疾走しつつ笑狸との『つながり』を強化し、呼びかけるも反応はなし。
 道を使わずに山林を突っ切り走りに走る。
 軽功を駆使して木々を飛び、林を駆けるのはお手のものだ。伊達に山籠もりの修行を積んだわけではない。





 街に、街だった場所に着いた。
まるで竜巻や津波に飲み込まれた後のように崩壊した街。瓦解した建物が広がり、人の気配もしない。

(どういうことだ? 昨夜はここで一晩明かしたんだぞ。旅館の風呂に入って飯も食ったし酒も飲んだ)

 まずはその旅館があるであろう場所に行ってみた。たしかに見覚えのある建物がそこにはあったが、破損がひどい。雨露をしのぐことはできても、これではとても旅館としては使えないだろう。

(狐や狸に化かされて、泥水を酒と思いこまされ、畑や林の中で一人で宴会していた。なんて話を聞くが、これは幻覚や幻術の類ではない)

(まずこの俺がまったく気づかずに術にかかるわけがない。次に見鬼持ちが四人もいるんだぞ。そのうち一人は幻術を得意とする化け狸だ。それを完全にだますなんて不可能だ)

(もしや霊災。フェーズ5による、完全なる異界に迷い込んだのか!?)

 霊災。
 自然レベルでの回復を見込めない霊気の偏向。災害へと発展する直前の段階をフェーズ1。
 これがさらに進行することでフェーズ2へと移行し、強まった瘴気が周囲へ物理的な被害を与えるほどになる。この段階を超えると大量の瘴気は実体化し、鬼や天狗。鵺といった異形の存在。移動型・動的霊災と呼ばれるようになり、これがフェーズ3。
 フェーズ4へと進行すると一つの巨大な霊災を中心として無数の霊災が連鎖的に発生し、無数の霊的存在が実体化して暴れ回る百鬼夜行となる。
 そしてさらに、進行した霊災が世界に受け入れられ遍在化する状態をフェーズ5。ファイナルフェーズが存在すると、一部の研究者たちの間で時々口にのぼる。
 偏向ではなく偏在。
 世界に受け入れられ遍在化した霊災とはなにか?
 一説では『神』になるとされる。
 神話や伝説などに登場する神や悪魔と呼ばれる霊的存在は霊災の一種。という考えだが、同様の考えで天国や地獄。魔界や黄泉といった想像上の異界もまた、霊災が極まったさいの形の一つではないかという説だ。
 世界各地に伝わる隠れ里や桃源郷伝説などはこれで説明がつく。
 神隠しなどは『異界』という名の霊災に巻き込まれたくちだ。
 呪術によって世界の一部を一時的に異界化することは可能だ。結界に閉ざされた状態の空間も一種の異界といえる。
 だが永続的に存在する『世界』を人の身で創れたという話はいまだ聞かない。
それはまさに自然現象を、地震や台風を人工的に起こせるかというレベルの話になる。

(む?)

 かすかな霊気の乱れを感じ、その方向にむかう。

(これは、社の跡か?)

 鳥居の残骸だろうか、朱色の木片が散らばっている。
 そしてその向こうには――。
 瘴気。
 地面から瘴気が間欠泉のように湧き出し、竜巻のように回転しながら空へと舞いあがっていた。

(なんなんだこれは? フェーズ3にいつ移行してもおかしくない規模の霊相だが……、このあるかなしかのわずかな瘴気はなんだ?)

 ガラス越しに人と会話している時のような『聞き取りにくい』感じ。
 目の前にあるにもかかわらず、どこかぼんやりとしている。
 慎重に瘴気へと近づき、様子をうかがう。
 すると――。
 竜巻状の瘴気は一瞬にして巨大なムカデへと姿を変え、襲いかかってきた。

「斬妖除魔、降魔霊剣。急急如律令!」

 ふところから素早く霊符を抜き、即座に口決を唱えると、符から光り輝く刃が伸びる。
 牙による攻撃を避けると同時に腕を振るい、ムカデの胴を斬り裂いた。

 シャァァァッッッ!

 痛みと怒りに震える大ムカデの口から黒い噴煙が吐き出される。

「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ」

 両掌で孔雀明王印を結び、真言を唱えると、まばゆい光が後光のように射す。
 害虫や毒蛇を駆逐する孔雀明王の力が噴煙を退ける。
 さらにその聖なる光気は大ムカデの体にもダメージを与え、全身を覆う硬質の殻に無数の裂け目が生じ、そこから毒々しい色をした体液が漏れる。

 ピギャァァァッ!?

 たまらず退散する大ムカデ。

「禁足則不能歩、疾く!」
 
 足を禁ずれば、すなわち歩くことあたわず。
 どどうっ。
 無数の脚をせわしなく動かして逃げようとした大ムカデだが、その足の動きすべてを禁じられて地に転がる。

「ノウモタヤ・ノウモタラマヤ・ノウモソラキャ・タニヤタ・ゴゴゴゴゴゴ・ノウガレイレイ・ダバレイレイ・ゴヤゴヤ・ビジヤヤビジヤヤ・トソトソ・ローロ・ヒイラメヤ・チリメラ・イリミタリ・チリミタリ・イズチリミタリ・ダメ・ソダメ・トソテイ・クラベイヤ・サバラ・ビバラ・イチリ・ビチリリチリ・ビチリ・ノウモソトハボタナン・ソクリキシ・クドキヤウカ・ノウモタラカタン・ゴラダラ・バラシヤトニバ・サンマテイノウ・ナシヤソニシヤソ・ノウマクハタナン・ソワカ」

 孔雀明王の陀羅尼。
 破邪の光が雨のように降りそそぎ、ムカデの形をした動的霊災はたちまち修祓された。
 だが、瘴気は依然として地面から湧き出している。

(これはまさか、門か?)

 異界へのゲート。
 そのようなものが本当に存在するのだろうか?
 ふところから一枚の式符を取り出す。
 霊力を練り、呪力に変えて式符に注ぎ込みながら放つ。秋芳の呪力を受けた式符は折り鶴の形になり瘴気の中へと入る。
 視覚を共有してある偵察用の簡易式だ。
 秋芳が意識を集中するに従って〝目〟は奥へと進んでいくのだが――。

(ダメだ。たしかにどこかにつながっている感じはするが、気の流れに乗ることができない。俺自身が帝式の兎歩を使えばあるいは……)

 道教に伝わる兎歩は魔除けの歩法だが、帝国式陰陽術における兎歩とは仙術とされる縮地の術と組み合わせ、霊脈に入り移動する呪術のことをを指す。
 禁呪にふくまれない帝式の中では屈指の難易度を誇る超高等呪術であり、夜光以降に作られた新しい呪術だ。
 賀茂にも連にもこの呪術は伝わっていない。
 秋芳もつい最近にこの呪術の存在を知り、陰陽塾の図書室で専門書をあさり、独学で身につけたところだ。
 と、その時。

「そこの怪しいやつ、ここでなにをしているの!」

 突然の誰何。
 声の主はと見れば、小柄な中年女性が肩を怒らせて立っている。
 たしかに中年のようだが溌剌として若々しい。おばさんではなくお姉さんでも通用するルックスだ。額にしてあるヘアバンドといい、元気のいいスポーツ少女がそのまま年齢を重ねたかのような印象がある。

「家のほうから天狗かマシラみたいな勢いで駆けてく影が見えたから来てみれば、瘴気の渦なんてこしらえて、あんたなにしでかそうっての? 返答次第じゃ痛い目見るからね」

 誤解だ。

「待て、俺は怪しい者じゃない」
「怪しいやつはたいていそう言うのよ!」
「待て、俺は怪しい者だ」
「怪しいやつめ、おとなしくお縄につきなさい!」

 女性はそう言うや、なにかを放った。
 蒼いツバメ『モデルWAI・スワローウィップ』だ。
 スワロー・ウィップは人造式の中でも捕縛式と呼ばれる特殊な式神で、その主な用途は呪術犯罪者の捕縛。呪捜官のために作られたような人造式である。
 とっさに折り鶴の式を呼び戻し、飛来してくるスワローウィップに割り込ませて動きを止める。

「ええい、どう答えろと言うのだ! だいたいそっちこそ何者だ。堅気の人間は捕縛式なんて持ち歩かないぞ」
「あんたも呪術になじみのある人間なら『アキバのラムちゃん』て言えば、聞いたことぐらいあるでしょ?」
「はぁ? なんだそりゃ。知らん」
「むむ、じゃあ『祓魔局の天神小町』か『閃光のレディ・サンダー』は?」
「一度も聞いたことがない」
「そう…。なら、これから忘れないように胸に刻み込ませてあげるわ。 急急如律令(オーダー)!」

 女性の手にした木行符がひらめくや、閃光が奔り、轟音とともに雷がほとばしる。

「くわばら!」
しかし秋芳が一喝すると、彼にむかって放たれた霊撃は軌道がずれ、あらぬ方向に飛んでいった。
「……ずいぶん器用な言霊の使い方するじゃない」

 雷除けのまじないに「くわばら」と唱える乙種呪術がる。
 秋芳はそれに呪力をくわえることで『本物』の呪に仕立て上げたのだ。
 たんなる力づくの甲種言霊ではなく、細密に練られた呪力が乗せられた、人間相手のみならず、呪術にも効果がある、きわめて玄妙な言霊術といえる。

「どうやらただの左道使いってわけじゃなさそうね。本気でいかせてもらうわ!」
 女性が印を切り、真言を唱える。
「ノウマク・サンマンダ・ボダナン・インドラヤ・ソワカ!」
 激しい雷鳴が轟き、瀑布のような勢いで雷流があふれ、押しよせる。
 自然には決して起こらない規模の雷の嵐が場を駆ける。
 女性が切った印は帝釈天印。
 帝釈天とはインドの神話に登場する軍神インドラのことで、天空の支配者。雷鳴や稲妻を自在にあやつる存在だ。
 彼の武器であるヴァジュラは密教法具である金剛杵のもとになったといわれる。

「雷鳴に祝福されし羅刹の王子。百の剣を振るい、千の矢を降らす魔術の長。我が敵は汝が敵なり。偉大なるइन्द्रजितよ、その力をここに!」

 それに対して秋芳はインドラを倒したという羅刹メーガナーダの尊称『インドラジット』を梵字で唱えることで、その力を源とする呪術を行使し、対抗。
 五行の術に相生や相剋があるように、呪術には相性というものがある。
 たとえば火界咒と不動金縛りはともに不動明王系統の呪術で、ぶつけても相殺せず片方に吸収されることが多い。
 この場合、インドラとインドラジットでは勝利した後者の力が大きく、帝釈天の力を源とする雷の嵐はたちまち沈静化してしまった。

「ぐぬぬ、またしても器用な真似を!」
「ケンカっ早いわ、電気ビリビリだわ。ラムちゃんどころか御坂美琴さんか、あんたは」
「え? あらあら美琴ちゃんだなんて、私ってばそんなに若く見えるのかしら。うふふ、ああでも私の電撃じゃコインは飛ばせないから」
「そりゃまぁ、レールもないのにレールガンは撃てないだろうしな」
「黒こげになっただけよ」
「試したのかよ!」
「さぁ、次は本気も本気。一〇〇パーセント中の一〇〇パーセントでいくわよ!」
「まだ続ける気か…」

 さすがにうんざりする秋芳。
 いささか強引だが、気を禁じて眠ってもらうか……。
 そんなことを考えていると――。

「そこまでだ、かあさん」
「あら、あなた? と、そっちの綺麗な子は?」

 いつの間に来たのか、鷹寛と純の姿があった。

「うちのお客さんだよ。今おまえが相手してる人もな」
「え? ええっ!? どういうことよ」

 鷹寛がことの次第を説明する。

「あらまぁ、そういうこと…。おほほ、ごめんなさいねぇ。場所が場所だけにてっきりよからぬ輩がよからぬことをしてるんじゃないかと、かん違いしちゃったわ」
 
 かん違いで黒こげにされてはたまらない。
 まぁ、むこうもこちらの実力を読んだ上で相応の呪術をもちいてきたのだろうが……。

(秋芳君!)

 !?

(秋芳君、聞こえる? 秋芳君!)

 京子の声が瘴気の中から響いた。
 




 街の離れにある製粉工場。
 大ムカデたちに追われ、着の身着のままで逃げだした人々が集まっている。
 いったい何回同じ日をくり返したのだろう?
 京子は数えてなどいない。
 京子の頭にあるのは、人々を救い、霊災を祓い、また秋芳に逢う。
 そのことだけだ。
 最初からただの夢だとは思わなかった。なんらかの啓示だと判断し、人々に避難を呼びかけた。霊災が、ムカデが現れてからでは遅い。
 だが、どうやって?
 本職の祓魔官でも呪捜官でもない、未成年の少女の言葉で簡単に人々は動かなかった。
 そうこうしているうちに大ムカデたちが現れ、街は惨状にまみれた。
 白桜と黒楓を暴れさせ、強引に避難させようとしたが、それも失敗に終わった。
 大ムカデが人々を襲う前に先んじて祓う方法も試みた。
 出現場所自体はすぐに判明した。連中は常に街中に忽然と現れる。
 つまり『外』から来たのではない。『内』から現れるのだ。
 街の中央付近にある金矢神社。そここそが霊災の発生場所であり、京子がどんなにいそいで駆けつけても、発見時はすでにフェーズ3寸前。まともに修祓するいとまもなく実体化した大ムカデになんども敗れた。
 仮にもっと時間に余裕があったとしても、持てる霊災修祓用の呪術に限りがある京子に祓えた可能性は低い。
 霊災修祓の手順は時と場合にもよるが、基本的な流れが変わらない。
 まず霊災を結界で隔離して周囲への被害を抑制する。その上で霊気の偏向を分析して是正をうながすか、より強力な呪力をぶつけて、偏った瘴気を強引に散らすかだ。
 フェーズ1でさえ本職の祓魔官がバックアップ込みで二、三人で行うのが普通。それを非凡な霊力を持つとはいえ、まだ見習いの京子が一人でおこなっても無理というものだ。

「なんでよ、なんであたしは強くないのよ――」
「秋芳君みたく、どんなやつだって一発で倒せる強い力が欲しい」
「なんであたしは強くないの!?」

 それでも、京子はあらがった。
 なんども、なんども、なんどもあらがった。
 白桜と黒楓では見た目のインパクトが弱い。そこで半信半疑どころか一信九疑の笑狸をなんとか説得し、本物の大ムカデが現れる前に醜悪な大ムカデの幻を街中に作り、動かして人々を驚かせ、避難させる方法を試みた。
 もし笑狸が生来の悪戯好きな化け狸ではない真面目な性格だったら、首を縦に振ることはなかっただろう。
 そしてこの方法はなんとか成功し、今にいたる。
 
「どういうことだ!?」
「知るかよ、おれだってわからねぇよ!」
「もうダメだ!」
「こんなとこにいられるか!」
「ちくしょう! ちくしょう!」
「みんなあのバケモノに殺されちまうよ…」
「こんな小さな街、そっくりなくなっちまうんだ」

 工場の中は怒号で満ちていた。

「みなさん、落ち着いてください! あたしは陰陽塾の生徒です。あたしがなんとかします!」
「どうやって? あんな怪物の群れをどうやって倒すんだい?」
「それは……」
 最低限の被害で人々を逃し、街で一番頑丈な建物である工場に籠城することはできた。
 次はどうするか。
 一応、笑狸には本物の大ムカデが出現した時は、秋芳に助けを求めるよう言ってある。
 だが秋芳はいつ助けに来るのか?

(ダメ。秋芳君を頼りにしてはいけない。あたしの、あたしの力でなんとかしなくちゃ。けどあたしの霊力や持てる術じゃあいつらを倒せない。他の方法を、なにか他の方法は……)

「こ、こんな所にいられるか!」

 興奮状態の男が一人、外へ出ようとした。

「お、おいっ、今外へ出るんじゃない! ゲートを開けるなっ」
「うるさい! 死ぬ時は家の畳の上で死ぬ!」
「おい、ケンカしてる場合じゃないだろ!」

 今にも殴り合いが始まりそうだ。
 人々を避難させることはできたが、このままでは――。

「やめて!」

 かなえだ。
「みんな、くやしくないの!? 年に一度のお祭りを台無しにされて、街を好き勝手されて、くやしくないの?」
「そ、そりゃ、くやしいさ! でもよ…」
「京子ちゃん、みんなために戦ってくれた。あたし見たよ。ここに来る前、あんたがムカデに追いつかれそうになった時に凄い量の水をブシャーって出して、追っ払ってくれたでしょ?」
「あ、ああ…」
「ここに入る時に時間稼ぎしてくれたのは誰? 京子ちゃんだよ。自分だってボロボロなのに、式神使って食い止めてくれた。他所から来た人が一生懸命戦ってくれてるのに、みんなはただ騒ぐだけなの? あたしたちが戦わないでどうするの? ここ、あたしたちの街だよ。好きなんでしょ。この前の寄合でみんな言ってたでしょ。みんながどんどん出て行っても、残って立派な街にしようって。あたし好きだよ。川が好き、空が好き、山が好き。金矢祭りも大好き。なにもない所だけど、あたしはこの街が好きなのっ! だから……」

 シンと静まりかえる。
 そして――。

「……女や子ども。年寄りを奥へ移せ」
「おうっ、男はみんな武器を取れ」
「なにか武器になりそうな物は…」
「やってやる!」
「おれらがやんねぇでどうするっ!」

 場の空気が変わった。 

「みんな……」
「かなえちゃん、ありがとう」
「ううん、お礼を言うのはこっち」
「あー、こっちは、京子ちゃんたちは無事みたいだね」

 全身を真っ白な粉につつまれた笑狸が、一人の男に肩を貸して歩いて来た

「笑狸ちゃん!? どこから入って来たの? 秋芳君は? その人は? なんなの、その格好?」

 矢継ぎ早の質問。

「ええと、ボクが入って来たのは廃棄物を排出するダクトから。秋芳にはなぜかつながらないし、街の外にも出られない。結界かな? この人はここに来る時にムカデに襲われてたから助けてあげたの。この格好はここに来るのに工場内のシャッターとか扉とか開ける時にまちがえて変なスイッチ押しちゃったみたいで、小麦粉を浴びちゃったわけ」

 街から出られない。
 やはり自分たちでなんとかしなくてはならないのだ。

「あれ? 今朝のお客様、ですよね。よかった。無事だったんですね。おケガはしていませんか?」
かなえが男に声をかける。
「バケモノが……、バケモノがいっぱい……」

 男の顔は血の気が失せ、すっかり蒼白になっていた。目を見開き、紫色に変色した唇からはうわ言が漏れるのみ。
 無理もない。一般人が霊災に直面したのだから、この反応は普通だ。意識があるだけまだましなほうだろう。瘴気にあたり、意識を失ったり命を落とす人だっているのだ。

「お客様、もうだいじょうぶですよ。この人たちは東京の陰陽師さんなんです。あんなのすぐ祓ってくれます」
「お、陰陽師!?」

 男がつかみかからんばかりの勢いで京子にうったえる。

「矢を返しに行ってくれ! あいつらが湧いて出たのは矢がなくなったから、きっとあれで封印を解いちまったからだ! あんたらならそういうのできるだろ!?」
「……なんのことか、くわしく説明してください」
 
 男の名は山中といった。
 陰陽庁によって確かな効果があると認められた呪術は甲種呪術と呼ばれ、原則として国家資格である陰陽2種、陰陽1種の取得者のみに行使が許されている。
 そしてそれ以外の雑多な呪術全般を称して乙種呪術と呼ぶ。
 このような分類は呪術のみならず呪具にも適用される。
 甲種呪具などは厳しく管理され、所持するにも陰陽庁の許可が必要なのだが、乙種呪具となるとそうではない。
 各地の寺社仏閣に納められている御神体や神器の中にも甲種呪具はある。その場合は陰陽庁の監視の下、厳重に保護されているのが普通だ。
 場合によっては回収し、陰陽庁庁舎などに保管されることになる。
 だが乙種呪具となると話は別だ。
 たんなるお守りや市販されている破魔矢なども広義では乙種呪具に認定されるのだが、それらをいちいち管理などできようはずがない。
 また古くから伝わってはいるものの、特に呪術的な力のない御神体や神器という物も数多く存在する。
 山中はそのような呪具を集めるコレクターだという。
 日頃は施錠された蔵の奥にしまわれている金矢だが、祭りの時は表に出される。周りに人がいなくなった一瞬の隙をついて、盗んだと言うのだ。

「なんて罰当たりな……」

 絶句するかなえ。

「山中さん。その金矢は今どこにあるんです?」

 糾弾しているヒマはない。京子は金矢のありかを問いただすが、旅館の部屋に置いてあるとのこと。

「どうする京子ちゃん? 外から見た感じ、ムカデたちはこの工場に集まってるみたいだから、ボク一人なら抜け出して取ってこられるかもしれないけど、元の場所に戻すだけでいいのかなぁ…」
「そうね……」

 考えを巡らす京子。

「笑狸ちゃんは笑狸ちゃんで矢を返しに行って。あたしはここで試したいことがあるの」



 正面口シャッターが上がると同時に工場内に大ムカデが大挙して押し寄せた。
 暗い。
 照明が切れているのではない。明かりをさえぎるほどの大量の粉が飛び散っているからだ。
 その様相にムカデたちは一瞬、とまどうように動きを止める。

「悪いわね。慣れない機械をいじったせいで小麦粉が飛び散っちゃったのよ」
 
 シャアァァァッ!

 声のした方へと殺到する。
 一人の少女が立っていた。
 京子だ。

(動的霊災の中には殴ったり切ったりといった通常の手段でもキズを負わせることができる個体もいる。そういうタイプが相手なら、最初から呪術一辺倒で修祓するんじゃなくて、ある程度ダメージを与えてから呪術で祓ったほうが少ない消耗ですむこともある)

(場合によっちゃあ物理攻撃だけでやっつけることも可能だ。ほら、昔の武士が刀一本で鬼とか大蛇とかを退治したって話があるだろ。あれとかそうだよな)

(呪術にこだわる必要はない。対人だろうが対霊災だろうが、周りにあるすべてのものが武器になる)

 秋芳の言葉が脳裏に浮かぶ。

「俵藤太の時代にはなかった現代の常識、知識ってのを教えてあげる。可燃性を持つ粉塵が大量に飛散して、酸素との接触面積がいちじるしく増大している時は、わずかな火種をもとに連鎖的な燃焼が発生して爆発を起こすの。粉塵爆発て言ってね、石炭の発掘現場でよく起こったそうよ。小麦粉は炭素、水素でできてて、ここには酸素がある。つまり――」

 ムカデたちの包囲が狭まる。
 京子が火行符を取り出す。

「――つまり、燃えるのよ。急急如律令(オーダー)!」

 呪符が燃え上がり、炎が渦を巻いたかと思った瞬間、轟音と衝撃が工場内を支配した。
 大爆発。
 それに巻き込まれ、ムカデたちと京子は――京子の姿をした簡易式は――跡形もなく吹き飛んだ。





 大音響が工場の地下に潜んだ京子たちの耳をつんざく。

(成功した……)

 簡易式との感覚の共有を切るタイミングが少しでも遅かったら、爆発の衝撃や熱の『痛み』が伝わり、ショック死していただろう。
 簡易式。
 正確には人造簡易式という。汎式における式神使役術の基本で、特徴としては必要な機能を満たす式神を迅速に作成できるという点があげられる。
 また一般の人造式よりも安易に作成・改良もしやすいという自由度の高さも利点で、術者の呪力のみで動くため、長時間の活動にはむかないが、それでも事前の準備次第で対応可能だ。
 術者の発想や力量次第で多様な用途にもちいることのできる式神なのだ。

(後は笑狸ちゃんのほうだけど――っ!?)

 不意に意識が遠くなる。

(そんな、倒したのに?)

 ふたたび秋芳が大ムカデと戦う『夢』を観る。今までなんども観た夢。
 今までのループのパターンでは京子自身が倒れるか、時間が経過すると意識を失い、同じ日を繰り返すのだが、ムカデを倒してもこの呪縛を抜けられないらしい。
 一瞬。
 ほんの一瞬だけ京子の心に絶望が広がった。
 だがすぐにそれを払拭する。
 自分は負けない。
 自分は必ずここの人たちを救い。また彼に、賀茂秋芳に逢うのだ。
 絶望なんかに打ちひしがれてるヒマなんてない。
 それに一筋の光明を見出したではないか。
 あの金矢。
 あの金矢を元の場所に戻すのだ。
 そうすれば新たな道が開ける。確信めいたものが京子の頭に浮かんだ。
 
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