| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

Element Magic Trinity

作者:緋色の空
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
次ページ > 目次
 

その感情に、名前を。


ああ、神様。
滅神魔導士(ゴッドスレイヤー)に縋られたって助ける気にはならないと思いますけど、ああ神様。
これまで完全な無神論者で、何年も前から神なんていないんだとずっと思い続けている奴なんて救う気すら起きないとは思いますが、それでも神様!

(……どうして、僕は)

ちらり、目線だけを小さく上げる。これが夢であればいいとは思うけれど、何度見ても向かいにいる人の姿は消えもしないし変わりもしない。
緩やかな流れをそのままにした青い髪に、退屈そうに窓の外を眺める青い瞳。他の青とは違った色合いのそれは、間違いなく彼女のそれで。

(ティアさんと二人っきりで仕事に行く事になんてなったんでしょうか……!)

今のアランに縋れるのは、もう神様くらいなのだった。









事の発端は、一時間ほど前に遡る。

「アラン、仕事か?」
「はい。そんなに難しい内容でもなさそうだし、一人で行ってきます」

依頼版(リクエストボード)から依頼書を一枚取って、受注してもらうべくバーカウンターの方へと足を進めていたアランは、カウンターに腰かけるマカロフに声をかけられていた。
普段はウェンディやココロ、時々ライアーと仕事に行くアランだが、今日はそうもいかない理由がある。女子二人はエルザに連れられてケーキバイキングに出かけているし、ライアーはチームでの仕事で朝から出ているのだ。もちろんそれ以外のメンバーと仕事に行くという選択肢がない訳ではないのだが、じゃあ誰を誘うのかと言われると返答に困ってしまう。ギルドには馴染んだつもりなのだけれど、それでもやっぱりついつい一線を引いてしまうのはもう癖だ。
それに、丁度いい機会だとも思う。そろそろ妖精の尻尾(フェアリーテイル)での仕事にも慣れておきたいし、そこまでの難易度でもなさそうなこの依頼でなら、滅神魔法の勘を取り戻す事に少しでも意識を回せるかもしれない。

「ふむぅ…」

そう思って選んだ依頼だったのだが、マカロフは困ったように眉を寄せている。

「マスター?…もしかしてこれ、誰か予約でもしてました?」
「いや、そういう訳ではないが……むむ…」

何だか歯切れの悪い受け答え。少し嫌な予感がする。
依頼内容自体は、別にこれといって特別なものではない。村の近くの森で魔獣が暴れているから討伐してほしい、という、このギルドじゃ珍しくもない討伐依頼だ。依頼先は列車で十分もかからない位置にあり、その魔獣とやらもアラン一人で十分太刀打ち出来るであろう相手である。
ならば何故。首を傾げると、一つ息を吐いたマカロフが口を開く。

「先日の定例会で聞いた話なんじゃが…最近この辺りで、本来別の地域に生息するはずの魔物が目撃されたらしくてのう」
「?…単純に、生息地域が変わったとかじゃないんですか?気候とか気温とかの影響で、元の地域では暮らしにくくなったとか」
「うむ、最初はその説が有力だった。が、その中に本来なら寒冷地にいるはずのアバランチが見つかり……流石に高山や寒冷地で目撃される魔物が森にいるのはおかしい、と」
「ああ…それは確かに」

アバランチ。その姿を見た事はないけれど、名前だけなら聞いた事がある。
二足歩行の、翼を持たない竜族。マカロフの言った通り、高山や寒冷地が主な生息域のはずだ。体から常に冷気を放っており、一部では「彼等が寒い地域に住んでいる訳ではなく、彼等が住んでいるからその地域の気候が寒冷化するのではないか」との見解もあるようだが、その辺りは未だはっきりとはしていないらしい。更に付け加えれば、仕事先である森は特に寒い地域でもない。どちらかといえば温暖な地域だ。
そこに、本来ならいるはずのない寒冷地の魔物。どうやら厄介な仕事を選んでしまったらしい。

「お前はまだギルドに来て日が浅い。実力は十分じゃが、流石にこの依頼を一人でというのは、ワシとしてもあまり推奨はしたくないんじゃ。お前からすれば腹立たしい事ではあろうが…」
「いえ、マスターの気持ちは解ります。無謀に挑んで死んでしまっては意味がないんですから。僕じゃまだ経験も実力も不足していますし、今回は別の仕事を……」

探しますね、と。
申し訳なさそうな顔をするマカロフに微笑んで言いかけた、そのアランの背後から声がした。

「マスター?何変な顔してるのよ、何かあった訳?」

ぴくり、と肩が震える。気付かれない程度の小さなそれを、それでも必死に押し殺して、そっと後ろを振り返る。青い瞳と視線がかち合い、顔が強張りそうになった。
長い青い髪、青い瞳。あの一件があってから帽子を被らなくなって、はっきりと見えるようになった可愛らしくも凛とした顔。出会った当初より柔らかな雰囲気を纏うようになった、けれどやっぱり棘のあるその人。

「……おはようございます、ティアさん」

絞り出したような声での挨拶に、彼女はちらりと目だけをやった。








(ああもうどうして…!)

依頼先まで行く為に乗り込んだ列車の中。向かい合う形で窓際に座ったアランは、もう何度目になるか解らない溜め息を必死に堪えていた。沈黙は苦にならず、苦どころか心地よいとさえ思えるのが常のはずなのに、今のこの沈黙が刺さるように痛い。というか重い。

(いや、解るけど。僕一人じゃ荷が重いのは解ってるし、そこにS級のティアさんが来たら「じゃあ一緒に行って来い」になるのは解るけど!内容的に早期解決が望ましいし、マスターの判断は当然のものだとは解ってますけど……けどさあ…)

攻撃特化の魔導士、ギルド最強の女問題児。漁ればあちこちで付いた二つ名がいくつも見つかるであろう、ギルドを代表する強者。
その彼女がいれば、この依頼を片付ける事は難しくないのだろう。アラン一人でやるよりも成功率は格段に上がるし、早々に片付いた方が依頼者達も安心する。だから困る事なんて何一つないはずなのに、アランの気分は絶賛低飛行中だった。いつ墜落してもおかしくないくらいにはどんよりしていた。

(……解ってるんですよ、ちゃんと)

そうだ。アランはちゃんと解っている。
あの時―――ニルヴァーナの一件が片付き、ジェラールが評議院に連行されていくあの時。あの場にいた面々は皆ジェラールを庇おうとして、それを他でもないエルザに止められて。あの中で唯一、ただそこにいて事を眺めていただけの彼女が、本当は正しかったのだという事くらい。
ジェラールは悪人だった。かつてアラン達を助けてくれた事に変わりはないけれど、それでも今の彼は悪だった。法によって裁かれるべき対象で、自由にしていい人ではなかった。死刑か無期懲役はほぼ確定、そう言われるほどの事をしたのだという。
これが、その対象が赤の他人であったなら、アランはそれを流したのだろう。だって他人だ。アランの世界の中にはいない、壁の向こうの名無しの一人だ。狭く狭く作られた自分の世界にいない人がどうなろうが、アランには関係ない。壁の外で呻こうが、向こう側で叫ぼうが、アランの心は揺れもしないのだ。
けれど、その対象はジェラールで。誰の事も信じられず、誰の言葉も嘘にしか聞こえなくなっていたアランに手を差し伸べてくれた最初の人が、そんな風に言われていて。自分一人だけだった世界に触れて、そっとその中に入り込んで、それでもアランの世界を壊さずに、ただ少しずつ広げる手伝いをしてくれたあの人が、死刑か無期懲役なんて、そんな事。
納得出来なかった。理解したくなかった。それが本当の事だとしても、それを認めたくなんてなかった。だから拳を振るって、それが間違っているとどこかで解っているのに諦められなくて、そして―――――。

「憎いかしら」

ぽつり、と。
唐突に、窓の外を見ていたはずのティアが言った。

「…え?」
「別にいいわよ、憎んでくれても」
「え、え……っと」
「ただし、仕事の時は私情を挟まないで。そのせいで仕事に支障が出たら、ギルドの看板に傷がつくから」

目線は未だ窓の外。頬杖を付いて、淡々とそれだけ告げたティアは口を閉じる。そんな彼女に何か言おうと口を開きかけて、結局何も言えずに目線を落とす。もう言う事はない、とでも言うように目を閉じたティアにちらりと目をやって、小さく溜め息。きっと耳のいい彼女には拾われてしまっているだろうが、こちらとて今の溜め息を隠すつもりはなかったのだから構わないだろう。
上手く隠しているつもりだった。けれど、それはつもりに過ぎなかったらしい。

(……憎む、か)

懐かしいな、と思った。
昔は、視界に映る全てを憎んでいた。欲を隠そうともせず近づいてくる大人達が憎くて、それを助けてくれない世界が憎くて、あんなにもあっさりと神殺しを得てしまった自分自身を何より憎悪した。憎くて憎くてたまらなくて、いっそ全て壊してしまおうかと何度思った事だろう。結局はあと一歩のところで立ち止まってしまって、全てどころか部屋の扉すら壊せやしなかったのだけれど。
―――腹の底から、黒い何かがじわじわと侵食してくるような感覚。じりじりと炎が燃えて、全身をゆっくりと巡っていくようなそれ。暗い暗い感情を、アランはずっと前から知っている。ここ最近は忘れ切っていた、幼い頃の記憶を彩る黒を。

(そうじゃ、ないんだよな。……僕は、ティアさんを憎んではいない)

憎いとは思わない。かつてアランを利用しようとしていた人達に対して向けていたそれと、今ティアに対して抱くこれは別物だ。そう断言出来る。断言は、出来る。
けれど、これが何なのかは解らない。恩人を牢送りにされた事への怒り?いいや違う、そんな八つ当たりをしようなんて思わない。なら哀しみ?それも違う。喜でも楽でもないのは考えるまでもない。そして憎しみでもなくて、それなら、これは?

「……足、引っ張らないように頑張りますね」

目線を落としたまま呟く。
返事はなかった。









仕事に私情を持ち込むな、とティアは言った。聞いた時は、さてどうなる事やらと思った。
だが、実際仕事中となると余計な事を考えている暇などない。抱えていたもやもやとしたものも、今だけは消えている。今考えるべきは目の前の敵の対処法。どこを殴るか、どこを貫くか、打つべき手は何なのか。それだけを考えて、それ以外を全て切り捨てる。

「―――魔神の、」

駆けて、跳ぶ。右手を後ろに引いて、魔力を集中させる。目を見開き、ターゲットをしっかり捕捉する。
狙うのは一番の大物、アバランチ。腹目がけて放たれた大海怒号(アクエリアスレイヴ)の勢いで体勢を崩した、その瞬間を狙って魔力を開放する。

西風(ゼフュロス)!」

突き出した右手、展開した魔法陣から黒い光の旋風が吹き荒れる。頭部から尻尾の先までを、余すところなく傷つけていく。低く響く呻き声に少し眉を顰めて、着地すると同時に地を蹴った。
まだ向こうは動けそうだ、決定的な一撃とはならなかったらしい。ゆっくりと体勢を整えようとしている姿を見据えて、距離を詰める。右腕を指先まで真っ直ぐにぴんと伸ばして、魔力を纏う。

「すいません、ティアさん!」
「いいわ、動けなくすればいいんでしょ?―――もう一発喰らいなさいな、大海大砲(アクエリアスキャノン)!」

声を張り上げると、上から返答があった。飛んだティアが、華奢な体躯に似合わない巨大な大砲を担ぐように構え、その砲口から水の砲弾を勢いよくぶっ放す。ズドン、と重い音を響かせて、鱗のない腹に叩き込む。
仰向けに倒れ、ばたばたと足を動かすアバランチに薄く笑みを零す。もがいているだけなら、そんなのはアランの脅威ではない。立ち上がろうと大きく動く足を避けて、その最中に右腕を振るう。切り払うように振るった腕の軌道から放たれた魔力の刃が、アバランチの右足を傷つける。
少し、浅かっただろうか。まあ構わない。宙でくるりと一回転しつつ地に降り立ち、ぱちんと指を鳴らす。

「魔神の十戒(デカログ)

囁くように呟いたそれが、仕込んだ魔法を発動させた。与えた傷を起点に確実に十の痛みを与えるそれが、アバランチの全身に十の傷をつけていく。
響く咆哮。最後の抵抗とばかりに吹き出す冷気。けれど、何をしようともアランの魔法からは逃れられない。どんな状態であれ状況であれ、必ず十回の攻撃に相当する傷を生む。今使ったのは、そういう魔法なのだから。
抵抗が、徐々に弱くなっていく。声が枯れ、冷気が薄れ、だらりと力なく倒れ伏す。完全に伸びきった姿を確認して、ほっと息を吐いた。他の魔物は到着早々にティアがまとめて倒していたし、これで今回の依頼は達成だろう。これがトドメとならなかった時の為に握っていた拳を解く。

「ねえ」

呼びかけられ、思わず肩が跳ねる。私情を挟まず仕事に取り組んだつもりだったが、知らないうちに何かやらかしてしまっていたのだろうか。
なるべく自然な様子を心がけながら振り返る。翼を畳んだティアが、眉を顰めてアバランチを指していた。

「マスターから聞いた時も思ったけど、おかしくないかしら。比較的温暖な地域に、どうしてこんなのが平然といる訳?」

よかった。やらかしてしまった訳ではないらしい。肩の力がふっと抜ける。

「さあ…実は亜種だったりするんでしょうか」
「コイツの亜種が確認されたなんて話は今のところないはずよ。既にコイツが目撃されて、アバランチだとはっきり言われている以上、その線は薄いわね」
「そうですか。…けどこの辺り、別に気象の異常とかも特にないですよね?最近急に寒くなったとか」
「ええ、むしろ快晴続きよ」
「だとしたら…」

気を失ったアバランチを見つめる。亜種ではなく、この辺りの気象がおかしくなった訳でもなく、それ以外の理由でこの地域にやって来たとして、その理由は何なのだろう。
ここは高山ではない。寒冷地でもない。アバランチが住み着く事でこの辺りが寒冷地になっていくのかもしれないが、どうしてわざわざ生息地ではない場所にまで降りて来たのかが解らない。住む場所に追われているのだろうか。けれど、それならなぜわざわざ温暖なこの辺りを次の住処に決めたのだろう。この近くに高山はなく、周囲の気温は温暖で、彼等の住処になりそうな地域とは程遠いというのに。
考えるのは苦手だ。あれこれ頭を悩ませるより、殴って解決する方が得意分野である。何せ深く深く、ああでもないこうでもないと考えるのは、どうにも、眠くなってきて、しまって……。

「……あ、れ?」

……頭が揺れる。瞼が重い。ふらりと、体が制御出来ずに倒れそうになる。
おかしい。確かに考え事は苦手で、頭を使っていると眠くなってきてしまうけれど、それはせいぜい眠気を感じる程度であった、はずで、こんな風に、強制されるように、眠ってしまう、訳、で、は。

「っ、何よこれ…!」

徐々に狭くなる視界。遠くなる音。途切れる意識。
最後に見えたのは、苦々しく顔を歪めたティアで。聞こえたのは、倒したはずのアバランチの咆哮と、それに紛れかけた舌打ちで。
―――吸い込まれるように、アランは眠りに落ちていく。支えがなく落ちていく体に、誰かの手が回る。




「……みーつけたぁ…」

耳元で、やけに愛おしげな声がした。









「…そういう事。してやられたって訳ね」

地面から伸びた手に引きずり込まれるようにして消えたアラン。その彼が立っていた場所から視線を外したティアは、先程まで気絶していたとは思えないほどに調子を取り戻したアバランチを睨みつける。

(コイツがこんなところにいるのは、亜種だからでも気象の問題でもない。ただ単に、コイツを操ってここまで連れてきた奴がいるってだけの事だった)

ぐるりと三百六十度、あちこちから気配を感じる。
どうやらあの手の主は、倒し切ったはずの全てを本調子にまで回復させたらしい。

(…いや、回復じゃない。“戦え”と命じただけ。命じられた以上、操られている側はどんな状態であれ従う他ない。そういう魔法だか道具だかがあるとは聞いていたけれど……)

向こうはざっと数えて五十以上。対してこちらはティア一人。
数だけみればこちらが不利。だが、力で見れば話は変わってくる。

(何でアランを攫ったのか、思いつく可能性はいくつかあるけど……要は派手に事を起こして目を引くのが目的、ってところかしら。そうなればギルドにも話がいく。向こうの狙いがアランだった場合、アランが来れば願ったり叶ったり。それ以外が来たとしても人質に取るなり何なりして誘い込めば目的は達成される)

詠唱を紡ぐ。魔力を練り上げ、形作る。

(問題は、何故アランだったのか。……少年愛好家の暴走か、恋心でも爆発したか。アラン個人に恨みでもあるのか、私より攫いやすそうだったからなのか。アイツを人質にして、私に何かさせようっていう可能性もあるけど。…まあ、深い事考えずに、単純に戦力をバラバラにしたかっただけかもしれない、か)

まあいいわ、と。
内心で、投げ出すように呟いて。

「企んだ本人に問い詰めればいいものね、そんな事は」

―――瞬間。
前方からアバランチが。左からゴブリンが。右からスカベンジウルフが。後方からグリードウィングが。
ありとあらゆる魔物の群れが、佇むティアに飛びかかった。









「……ん…」

ぴちゃん、ぴちゃん、と水が滴る音で目が覚めた。ぼんやりとした意識をはっきりさせるように瞬きを繰り返す。何気なく目を擦ろうと手を動かそうとして、アランはようやく現状に気が付いた。

「は…?何だ、これっ…!?」

アランは椅子に座っていた。そこまではいい。座った覚えなんてないが、それはまだいい。
問題は両手足だ。両手は椅子の背凭れの後ろに回され、手首を何かで拘束されている。動いた際に金属がぶつかるような音がしたから、手錠だろうか。椅子に縛り付け固定するかのように、胸の辺りには細いが頑丈そうな縄が二重三重に巻き付いている。足は足で、足枷を付けた上から縄で椅子の脚に括りつけるという、何とも厳重な対策が取られていた。
体を派手に揺らしてみるが、どれもこれもびくともしない。手錠は外れず縄も解けず、ただ体力だけを消耗した。

「何で、こんな……」

呟いた声が、暗い部屋に反響する。
目の前には鉄格子のような扉。見回す限り窓は(どうやっても見えない真後ろ以外には)見当たらない。部屋の隅の小さなテーブルに置かれた蝋燭二本が、部屋の中をうっすらと照らしている。家具らしい家具はなく、蝋燭を置くテーブルとアランが座る椅子だけのようだった。
体に不調はない。寝ている間に何かをされたという可能性は低そうだ。ただ少し、寝起きだからかぼんやりとしてしまうだけで。

(…そうだ、ティアさんは)

咄嗟に周囲を見回すが、姿はない。当たり前だ。いるならとっくに気づいている。
―――最後に聞こえたアバランチの声。きっちり倒したはずなのに、復活するにしたって早すぎやしないだろうか。あのティアの事だからきっと大丈夫だとは思うけれど、何かあってしまったら、どうすればいいのだろう。
とにかく、まずはここから脱出しなければ。せめてこの拘束さえ解ければ、あとはどうとでも―――




「あっ…目、覚めたんだ」





声が、した。はっとして身を強張らせる。
鉄格子のような扉の向こう側、知らない男が立っていた。柔らかな色合いの金髪に、透き通るような碧眼。質の良さそうな服を纏い、何が嬉しいのか喜色を滲ませふわりと笑うその男。見た目だけみれば金持ちの息子のような、アランとは縁もゆかりもなさそうな青年が、扉の鍵を開けて部屋の中に入ってくる。

「大丈夫?体、どこかおかしかったりしない?…ああ、その拘束はちょっと外せないかな。ごめんね?」
「……」
「ふふ、大丈夫だよ。あなたが俺の話を聞いて、頷いてさえくれれば、俺はあなたに何だってするから。あなたがこの手さえ取ってくれれば、この身の余すところなく全ても、この命の始まりから終わりまでも、全て全て全て、髪の毛一本まであなたに捧げるよ」
「……いらないんですけど、そんなの」

思わず、口に出していた。にこやかだった顔が不思議そうな表情を作るのを見て、アランは眉を寄せる。
何だこの男は。突然やってきて妙な事を言い出して、気味が悪い事この上ない。その身も、命も、何もアランは求めてなんかいない。

「あなたは誰ですか。何の目的があって僕をこんな目に?」
「……ああ、そうか。そうだったね。まだ俺は何も話していないんだ。それじゃああなたも拒むだろう、それじゃああなたも頷かないだろう!ああごめんね、気が回らなくて。やっと、やっとあなたが俺の下に降りて来てくれたのが嬉しくて」
「…何の、話を」

降りて来た?何の事だ。アランはただ攫われただけだ。そんな言い方をされる筋合いはない。
――――そう、ないのだ。ないはずなのに、嫌な予感がする。この感覚を、この雰囲気を、こうやって接してくる誰かの姿を、アランは知っている。この言い方を、この扱われ方を、かつてアランは受けていた。
いや、けれど、まさか。だってあれはもう何年も前の話で、アランの話はもう、すっかり忘れ去られているはずで。
けれど―――記憶の奥の奥から引っ張り出すように、覚えのあるそれが、目の前で起きた。

「ねえ、神殺しのあなた。……どうか、その力で以て、神を殺してくれ」





それ、は。
その、言葉は。
男が跪く。アランの顔を下から見つめ上げて、真剣な眼差しでそんな事を言う。かつて何度も何度も言われ、その度に何度も何度も拒否してきた、その一言を。
どうして。何故今更。故郷が唐突に消えて以降、その言葉を向けられる事はなくなったというのに。ジェラールに連れられて旅を続け、化猫の宿(ケット・シェルター)に所属し、妖精の尻尾(フェアリーテイル)に加入してからも、今日の今日、今の今まで、一度だって言われていなかったのに。

「ずっと探していたんだよ、あなたを」
「……」
「突然行方が解らなくなって、探しても探しても見つからなかった。もう死んでしまったのかとはらはらしたよ」
「……」
「…けど、やっと見つけたんだ。妖精の尻尾(フェアリーテイル)は有名だからね、あなたの噂も聞いた。一度は手放しかけた力を取り戻して、また神殺しとなって戻って来たんだって」

うっとりと、恍惚とした目が見上げてくる。ぞわりと背筋が震えて、アランは唇を噛んだ。

「どうすればあなたに会えるのか、ずっと考えてた。その為に魔法を勉強して、魔導士ギルドに依頼として入るであろう規模の事態を引き起こして…それでも、あなたが来てくれるかは確実じゃなかったんだ。絶対じゃ、なかったのに……」
「……」
「嬉しかった。運命だと思ったよ。もう出会えないと思っていたあなたが―――あの日、圧倒的な力で父を願いを折ったあなたが!またあの力を手に、今度は俺の前に現れるなんて……!」

異常だ。頬に両手を添えられ、強制的に視線を固定させられながら思う。
真っ直ぐに、いっそ恐怖さえ感じるくらい真っ直ぐに向けられた目には、妙な熱がある。狂おしいほどの、少し触れれば途端に破裂して暴走してしまいそうな熱だ。神をも殺す、その力が彼をここまで狂わせている。どこかで見たらしい滅神魔法の記憶が、更に彼を昂らせている。

「復讐の、つもりですか。…あなたのお父さんの望みを折った僕への、憎しみの結果がこれだと?」
「いいや?俺はあなたを憎んでなんかいないさ。憎むなんてとんでもない、どうしてあなたを憎む必要がある?」

不思議そうに、心底不思議そうに問いかけられる。その表情にぞっとした。
彼の父親の願いを切り捨てた、その覚えはない。だって何人もの人間を拒絶してきたのだ。そのうちの一人だったのかもしれないが、いちいち顔なんて覚えていない。覚えておくつもりだって、あの頃のアランにはなかった。我ながら酷い奴だと、内心自嘲する。
けれど、この男は憎んでなどいないと言った。自分の父親を拒絶し、近づくなと力まで振るったアランを、何故憎まなければいけないのかと、首を傾げた。どう繕ったって憎まれるのが当然の事をしたアランに、そんな風に。

(この人は……ああ、)

崇拝、だ。男の目の奥に潜んだそれを、アランはそう判断した。
かつて見た事のある目。近づいて来た人間の種類を大まかに二つに分けたうちの一つ。暴力でこちらを従わせようとした者とは真逆のもう一つ、こちらをまるで神を崇めるが如く祭り上げようとする者だ。
失われた魔法(ロスト・マジック)の一つ、習得は容易ではない神殺しの魔法。それを指先一つで引き起こすアランを、彼等は崇め敬おうとした。もちろんそんなのはアランの知った事ではないし、どれだけ傅かれようとも拒絶するだけだったのだが――――。

(…そういえば、いたかもしれない。僕を崇拝した奴等の中に、子供を連れていたのが。……親子とはいえ、こういうところで似なくてもいいんじゃないかなあ……)

昔の癖で頬杖を付きかけて、今は出来ない事を思い出す。けれどきっと今、自分は眉を寄せているのだろう。あの頃からこういうタイプの人間を前にするとそうなるのが染みついていた。
彼等の共通点は、賛美だ。崇める少年が間違っているとは微塵も疑わず、その彼に負の感情を抱く方こそが間違いであると言い切る。彼が絶対、かの神殺しこそが正義。その為ならば何だって投げ出す、圧倒的な力に呑まれ酔った者達。大きすぎる力は人を捻じ曲げる、それを思い知らされた例だった。

「……だとしたら解っているでしょう、前に告げたのだから。僕は神を殺しません、僕には神を殺せません。あなたの手を取る気なんて、微塵もない」

狂う瞳を真っ直ぐに見返して、一言一言を噛みしめるように告げる。これが自分の意思なのだと、冷ややかに突きつける。
外れる事のない視線、その目からふっと熱が抜けるように消えた。両頬から手が離れ、ふらふらと数歩後ずさる。がくりと俯いているせいで表情は窺えない。一変した様子に薄気味悪さを感じて、アランは小さく唾を呑み込んだ。

「…どうしても、かい?」

ぽつりと、男が呟く。

「ええ、協力なんてしませんよ」

もう一度はっきりと、アランは突きつける。

「どうして…?だって、あなたは」
「理由がありませんから。僕にはあなたに手を貸す理由も、神を殺す理由もない。意味のない事をして何になりますか?」
「けど…それでもっ、あなたは神殺しだろう!?」
「別に欲しくて得た訳じゃありませんよ。ただ手が届いたから掴んだ、それがこれだった。それだけの事です」
「……」
「……僕がこの力を神相手に振るう事があるとすれば、それはギルドの敵が神だった場合だけでしょうね。決して、あなたの為ではなく」

静かに、諭すように言って、口を閉じる。伏せていた目を上げると、碧眼が大きく見開かれこちらを見つめていた。譫言のように何かを呟いている。

「解ったでしょう。僕を攫ったところで無意味ですよ。…拘束を解いてください、今ならなかった事にしますから」

じゃらり、手錠を鳴らす。
……けれど、反応がない。解りやすく音を立ててみたはずなのだが、まるで聞こえていないかのようだ。

「……聞こえていますか?早く僕を開放してください。あなただって、もう僕に用は」
「…嘘だ」
「は?」

はっきりと聞こえたのは、そんな一言。何を言っているのか、何が言いたいのかが全く解らない。やや苛立ちを滲ませた声色で聞き返すと、男は身を小さく震わせて、アランの横を早足で歩いていく。
部屋の奥、だろうか。体勢上アランには見えないその場所から、がちゃがちゃと何かがぶつかり合う音がした。鍵の音、にしてはやけに低い。

「…仕方ないね、だって頷いてくれないんだから。痛い思いは、させたくなかったんだけど」
「っ、何を…」

聞こえた声に反射的に振り返って、アランは目を見開いた。振り返るとはいってもせいぜい横を見るのが限度だったのだが、そんな事はいい。
男はキャスター付きの長机を押して、アランの左側に付けていた。そしてその長机の上には、鈍い光を帯びた刃物が乱雑に置かれている。鋸に包丁、カッターと、種類は様々だ。それだけじゃない。丸めて置いてあるのは鞭で、円柱型の缶に立てて置かれているのはアイスピックだろうか。それ以外にも凶器が―――中には口に出すのも憚れるようなものまで、所狭しと並べられている。
大して暑くもないのに、汗が頬を伝う。その中の一つ、鞭を手に取った男の目が冷たく光る。

「暴力ですか。そんなもの振るって、僕が頷くとでも?」
「どうだろうね。けど、可能性があるならやるべきでしょう?」

ぱん、と鞭が床を打つ。

「俺だって本意じゃないんだ。…それでも、あなたが手を取ってくれないのなら、手を取らせるしかないんだよ。どんな手を使ってでも」

……ああ、面倒だ。吐き掛けた溜め息を留め、鳴らしかけた舌打ちを堪える。
この流れには慣れている。どいつもこいつも、誰も彼も、アランが拒否するとこうして力で従えようとするのだ。そうでない人もいたにはいたが、その場合はみっともなく縋りついて来るか「断るなら目の前で死んでやる」などと脅してくるか、大体がそのどちらかだった。彼の父親はどれだっただろうと少し考えて、今考えても意味はないと思考を投げる。

「ねえ、どうする?俺の手を取る?……否というなら、頷くまで痛い思いをしてもらうけど」

折るように首を傾げる、目の前の男。その顔を見据えて、アランは考える。
こういうタイプは珍しくない。先ほどまでの崇拝はどこにいったのだと問いかけたくなるような事なんて、これまで何度経験した事か。だから、対処法もいくつかある。

(……あまり、褒められた手ではないんだけど)

汚い手段だと自覚はある。正直、この手段を取っている時の自分を誰かに見られたくはない。特に、ウェンディとココロには。
…けれど、今ここにいるのは二人。アランと、名前も知らない男だけ。ギルドの誰かに知られてしまう心配は薄い。

(それなら……仕方ない、か)

小さく俯いて、ふぅ、と息を吐く。
目に怯えと諦め、少しの尊厳を浮かべて、顔を上げた。



「……解りました」




「え?」

ぽかん、と男が戸惑ったような顔をした。

「解った、と言ったんです。僕だって痛い目には遭いたくないですから」
「え…あ……」
「さ、拘束を解いてください。これでは何も出来ませんから、ね。ほら早く」
「あ……ああっ!今すぐ解くよ、少し待ってね!」

ぱっと顔が輝く。鞭を手放して、服のポケットに手を突っ込みながら即座にアランの後ろに回る。そこから鍵を取り出して、まずは手錠を外した。続けて上半身を椅子に縛り付けていた縄を解かれ、ようやく両手が自由になった。前に回し、ぐっと伸びをする。

「ごめんね。腕、痛かったでしょう?」
「いいえ、大丈夫です。じゃあ次は足をお願いします、これだと歩けないので」

頷いた男が、まずは縄を解く。それから足枷を外して、それらをまとめて長机に置いた。
これで拘束は全て解けた。立ち上がってぐっと伸びをして、凝り固まっていた体を軽くほぐす。

「…よし、それじゃあ行きましょうか」
「そうだね。…ああ、夢みたいだよ。やっと俺の望みが叶うんだ…あなたが、叶えてくれるんだ……!じゃあまずは部屋に案内するよ。それから、ああ、それから……っ!」

にこりと微笑んで見せれば、歓喜に震える声。扉を開けようと背を向けた男の後ろ姿を、笑みを消してすっと見据える。ぱち、と瞬きを一つすれば、少女二人には見せられない、温度のない瞳に切り替わった。
一瞬だけ冷えた体に、足の爪先からじりじりと熱が広がっていく。腹の底から黒い何かがじわじわと侵食してくるそれは、遠い昔に抱いて、今はもう捨て去ったはずのもので。



「これ以上ティアさんを待たせるのも悪いですから」



――――ああ、懐かしいな、と。アランは、冷めた思考の片隅で思った。

「え、」

戸惑ったような声。鍵を開け終えた男が振り返りかける。中途半端にこちらを向いた顔に薄く笑みを零して、アランは引いた右腕を静かに突き出した。瞬間、魔法陣が展開する。さっと男の顔色が変わるが、もう遅い。
吹き荒れた旋風が、男の体を容赦なく叩く。そのまま閉じた扉ごと吹き飛ばし、向かいの壁に叩き付ける。どん、とぶつかる衝撃音。長机の上の凶器達が、衝撃を感じたのか小さく揺れてぶつかり合った。かたかたと、微かな音が静寂に紛れ込む。

「がっ……!?」

俯せに倒れる男が呻く。その上に外れた扉が倒れ、顔を顰めている。

「…な…んで……」
「あれ、意識あるんですか?無駄に頑丈ですね、あなた。今の、あれでも神殺しですよ?」

くすり、と笑う。冷え切った目のまま、唇だけで弧を描く。
神殺し、の一言に男の肩が跳ねた。解りやすい反応に少し目を細めて、アランは部屋を出る。倒れる男の視線の先にしゃがみ込んで、ことりと首を傾げてみせる。

「すいませんね、お兄さん」
「…は……」
「僕、人を騙す事にあんまり抵抗がないんです。自分が助かる為ならいくらだって嘘を吐きましょう、自分が辛く苦しい目に遭わない為なら相手が誰であれ本性を隠しましょう、自分を救う為ならどこまでだって欺き続けましょう。……僕っていうのはそういう奴なんですよ。幻滅しました?―――ああ、はいともいいえとも言わなくていいですよ。答えなんて求めていませんから」

きっと否と言おうとしたのだろう。何かを言いかけた男の口が声を発する前に答えを蹴って、笑みを深める。男の目に浮かんでいるのは、畏怖、だろうか。その色にも、覚えがある。

「ええ、ですから今だって。このままじゃ暴力を振るわれそうだったので、騙す事にさせてもらいました。まあ正直、あの程度の嘘が通じるとは思ってなかったんですけどね。予想外に騙されやすい人で助かりましたよ」
「え…」
「というか、人の話はきちんと聞かなきゃ駄目でしょう?僕は一言も、一度だって、あなたに協力するなんて言ってないんですから」

にこりと笑う。男は信じられないとでも言いたげな顔でこちらを凝視していて、その顔にかつて見た何人もの顔が一瞬重なった気がした。胸の奥からじわりと湧いた感情のままに笑みを消して見下ろせば、途端に表情が強張る。
恐ろしいほど解りやすい。要はアランに見放されたくないのだ。彼に、神殺しに見放されたら、自分の望みは叶わないから。そうなればどんな手を使ったとしても、二度と頷いてはくれないから。頷くどころか、目すら向けてくれなくなってしまうから。

「…おっと」

のろのろと伸ばされた手から逃れるように身を逸らす。そのまま立ち上がり、薄く笑った。

「僕、誰かに触れられるのって嫌いなんですよね」
「…あ……」

穏やかに、緩やかに告げた拒絶に、目が見開かれた。
ぱたり、手が落ちる。







ぴくりとも動かなくなった姿を数秒見つめて、ふーっと息を吐く。
あれが意識を保つ限界だったのだろう。いいやまだ、もしかしたら、可能性はゼロじゃないから。そう自分を奮い立たせて、どうにか気を失わないよう堪えていたのだろう。滅神魔法を受けてなお意識を保たせていたその執念には脱帽する。
だが、どんな執念であろうと、どんな願いを抱えていようと、知った事ではない。

(……だって、そうでしょう?)

気を失った男の横を通り抜けて、見える階段を目指す。
感情の抜け落ちた顔のまま、誰に言う訳でもなくぽつりと呟く。

(誰も、誰も。……誰一人だって、僕の願いを聞いてすらくれないんだから)



「その僕が、どうして他の人の願いを聞いてあげなきゃいけないんです?」











「何だ、大丈夫そうね」

閉じ込められていた部屋を出て、どうやらあの部屋には地下にあったらしく階段を上がって、どうやら小屋らしい建物の中から出て、真っ先にアランの耳に飛び込んで来たのはそんな声だった。
目線を上げると、腰に手を当て首を傾げたティアが息一つ切らさずに立っている。見たところ怪我もなさそうだ。

「ええ、何とかなりました。逃げる為に多少殴っちゃいましたけど、正当防衛になりますかね?」
「さあ?私、そういうのよく知らないから。まあアンタが悪いって言われる事はないんじゃない?状況が状況だし」
「…ええと、因みにアバランチの方はどうなりました?聞くまでもない気がしますけど」
「言うまでもないと思うけど、全員まとめてぶっ飛ばしたわよ」
「ですよねえ」

全員って何ですか。アバランチだけじゃなかったんですか。
喉の奥まで出かかった疑問は飲み込む。もう終わった事なら聞く必要はない。

「そういえば、僕を攫った奴が言ってました。魔法で今回の事態を引き起こしたと。評議院に突き出しますか?一応、逃げないようにはしてきましたけど」
「そうね。あとで通信用の魔水晶(ラクリマ)を借りて、兄さんに連絡するわ」
「了解です。依頼人には僕から話しておきますね」
「ん、よろしく」

ひら、と手を振ったティアが背を向ける。その背中を小走りで追いかけて、その隣に並び立つ。自分より少し高い位置にある顔に少し目をやって、一度逸らしてから、今度はじっと見つめた。
―――何も、湧き上がって来ない。その横顔を見つめていても、何も。

「…何」

足を止めたティアが、目の動きだけでこちらを見る。

「……いや、やっぱり違うなって」
「は?何が」
「僕は別に、ティアさんを憎んでる訳じゃないなって、そう思って」

眉を顰めたその顔を見据えて、ああやっぱりと確信する。奥で燻る何かはそのままでも、侵食してくるような黒はない。爪先から燃やし上げていくような熱も、すっかり鳴りを潜めている。あの誘拐犯に向けた憎悪は、ティアと向き合うアランの中にはなかった。

「多分、納得出来てないだけなんです。ジェラールさんを助けてほしかったって、僕は未だに思ってる。あと一人、あの場で誰かが動いてくれていたらって……未練がましく、そう思ってるんです。それがあなただったなら、ギルド最強の女問題児と名高いティアさんだったなら、あの人を救えたんじゃないかって」
「……言っておくけど、私はあの時の選択を後悔なんてしてないわよ。罪を犯したならそれを償う、当然の事でしょう」
「ええ、解ってます。それでも……僕にとってのあの人は、恩人なんです。あなたにとってのあの人が罪人であるのと同じように、僕にとっては……それこそ、神様みたいな人だった」

誰もがアランの力を欲した。逆らえば暴力に出て、時に脅して、傅いて。
誰もがアランを憐れんだ。可哀想に、と口を揃えて、けれどそれ以外には何もしてくれなくて。
そんなもの望んじゃいなかった。崇拝なんていらない。同情だって求めていない。神殺しなんて、ほしいならくれてやる。こっちだって望んで得た訳じゃないのだ。そちらが神殺しを得る為の補助くらいはしてやるから、だから、お願いだから放っておいてほしい。そう何度も願って、無視されて、いつしか望む事さえ諦めて。ただただ、近づいてくる人間を追い払うだけの機械になりかけていた。
故郷が自分一人を残して消えた時もそうだった。どこまでも色のない更地、誰一人いない街だった場所。誰の声もしない空間で、着古した部屋着姿のアランは、ただその場に座っていて。





『――――それなら、オレと一緒に行こう』

そう言って、何でもない事のように手を伸ばしてくれた、その人は。
暴力を振るう訳でも、脅しにかかる訳でも、こちらに傅く訳でも、憐れんでくる訳でもなく。

ただ、そっと、傍に寄り添ってくれていて。






「解ってるんです。あの場でジェラールさんを逃がす事は、正しくなかった。僕等はそれがあの人の為だと思っていたけれど…きっと、本当にあの人を思うなら、静かに見送ってあげるべきだったんです」

こちらを向いて、穏やかに微笑んでいた顔を思い出す。
彼はきっと、牢に入れられる事を恐れてなどいなかった。拒んでもいなかった。推測の域を出ないけれど、あの人はきっと、幸せになる事を恐れていた。彼の為だと伸ばした手を、きっとあの人は拒んでいた。

「それでも僕は、彼を助けたかった。幸せであってほしかった。……未熟なんでしょうね、僕は。もう過ぎた事なのに、解っているつもりなのに…それでもあなたに未練がましく思ってる」

その目を見つめる。目線を合わせる事さえ避けていた、透き通る青を真っ直ぐに。

「だから、ごめんなさい。多分、まだ割り切れません。ウェンディやココロがあなたと接するようには、僕にはまだ出来ない。けど、ティアさんの事を憎いとは、思ってません」

今までも、これからも。
そう告げたアランに、ティアはすぐには答えなかった。数秒目を伏せて、小さく唇を噛んで、ほんの少し俯いて。向けられた言葉に対する返事を探すように沈黙して、少しして、そっと口を開く。

「…変な奴」

絞り出して吐き捨てるように言って背を向ける。少し早足で村へと戻って行く後ろ姿を数秒見送って、アランはふっと微笑んだ。少し駆けて、それからペースを落として、彼女に追いつかない程度のペースで背中を追いかける。
胸の奥で燻る“それ”が、ほんの少し軽くなった気がした。









「ただいま戻りました。……あ」
「ん?…ああ、おかえり。フィジックス」

行きより軽い心で列車に揺られ、何なら一言二言ではあるものの雑談までして。上向き気分でギルドに戻って来たアランの目に留まったのは、仕事から帰っていたライアーだった。こちらを向いた顔がアランの後ろ、駆け寄って来た弟にじゃれつかれている(とアランの目には見える)ティアを捉え、物珍しいとでも言いたげに目を丸くする。

「二人で仕事だったのか?珍しいな」
「ええ、まあ。ライアーさん達の方はどうでしたか?」
「無事完了だ。……本気を出したスバルというのは、あんなにも強いんだな……相手を一切近づけさせず全弾外さず、そのくせ普段の何倍も冷静だった…主すら絶句していた……」
「え、何があったんですか!?あのクロスさんが絶句って…相手をクロスさんが絶句させる、なら解りますけど」
「……とりあえずだ、フィジックス。お前がそんな事をするとは思っていないが、念の為だと思ってくれ」
「は、はい」
「アイツの前でヒルダを愚弄するな。ティアの事に関して怒った主と同等がそれ以上には怒るし、無表情で乱射してくるから主より怖い。主ほど面倒くさくはないが」
「うわあ……何というか…お疲れ様でした」
「ほぼスバルが片付けたから、俺達はほとんど何もしていないはずなんだがな……何だか、どっと疲れた…」

真剣に忠告してくるライアーの顔に、その時の事を思い出したのか恐れがじわじわと浮かんでくる。余程恐ろしかったのだろう。まあ確かに、あのスバルが無表情で乱射を(しかも外さずに)して来たら怖い。判断基準がシスコンを大爆発させたクロスであった上でのこの評価、見てみたいような遭遇しないまま一生を終えたいような、複雑な気分である。

「そっちはどうだった?怪我とかはないか?」
「大丈夫です。ティアさんに頼りきりになってしまいましたけど…」

誘拐されて傅かれたりもしましたけど。とは口に出さない。内心で留めて、いつも通りにこりと、それでいて少し申し訳なさそうに笑ってみせる。余計な事を言う必要はないのだ。そんな事を言ったら心配させてしまうし、話が大きくなってしまう。それはアランの望むところではなかった。
……のだが、ライアーはどこか心配そうな目でこちらを見ている。気遣うような視線に内心焦りながら、平静を装って問いかけた。

「どうかしました?」

すると、ライアーはそっと目を逸らす。少し言いにくそうにしながら、静かに首を傾げた。

「いや、勘違いかもしれないんだが……その、何かあったのか?」
「え?」
「上手く言えないんだが、何かが違うような……すまない、多分俺の気のせいだ」

何かが違う。ライアーの言葉を反芻する。
自分では置いてきたつもりだったが、引き摺って来ていたのだろうか。あの地下室の牢屋から。少し考えて、それはないなとすぐに否定した。ここまで持ってくるほど、あの男に抱いた憎悪は価値のあるものでもない。今のアランには必要ない、否と切り捨てたものだ。

「大丈夫ですよ、ライアーさん。僕はいつも通りですから」
「そうか…?……ならいいんだが、無理はするなよ?」

ぽん、と頭に手が乗せられる。数度滑るように撫でた手が離れて、思わずその手を目で追った。その視線に気づいたのか、ライアーが不思議そうにこちらを見る。

「どうした?」
「……いいえ、お腹空いたなって。軽く何か食べません?」
「お前の“軽く”はそこそこ重いんだが……まあ、今日は昼を食べ損ねてるし…いいか」 
 

 
後書き
半 年 ぶ り


……本当にすいませんでした!
もうどの方角に頭を下げればよいのか…!と、とりあえず北から始めようか…!?


という訳でこんにちは、緋色の空です。
いやあ半年ですよ半年。お前何やってんだと言われても仕方ない期間ですな。因みにこの半年はエターナルユース書いたりオリジナル作品について考えたり、FGОやったりグリムノーツやったりFHヒーローズやったりしてました。あと刀剣乱舞。基本ゲームしてます←

さて今回はアラン君メインな訳ですが。ええ、解る通り難産でした。しかも「誰かの誕生日」みたいな期限がないから先伸ばす先伸ばす。駄目だコイツ。
実はこの話、当初のアイデアは全く違ったんです。二人が仕事に行って、アラン君がピンチになって、ティアさんが助けに来る、みたいな、そんな話でした。EМTのお約束展開というか、結局最後はティアが持っていく話。
ただ、それがルーやアルカならまだしも、アランだぞ?と。ジェラールの一件でもやもやを抱えて、そもそも他人と接するのに線を引いていて、ティアと出会ってから日が浅くて。それなのにいつも通りで本当にいいのか?結局皆、誰も彼も彼女に救われて終わるのか?と思ったら、何か違うな、と。
正直に言うと、ティアがラストを持って行ってくれるのは、楽です。いつものあの子を書いて、いつも通り我が道を行ってもらって、いつも通りそれで誰かが救われたと思ってくれればいい。最も楽で、書きやすくて、即興で話を書いたら高確率で結末はこれでしょう。一番思いつくから。
なので、今回は敢えてそれを捨てました。……まあそんな挑戦したせいで全く書けず「ティアに頼り過ぎだわ、私…」と自己嫌悪したりもしたのですが、それはそれ。

というか今年もエドラス編に入れず、ついに原作は完結しましたが、来年も多分短編書いてます……いや、エドラス編は短編後回しにすれば書けなくはないんですよ?一応残ってる短編ネタは後回しに出来なくはないから、エドラス編を書く事も出来るんですけど……。
……因みに、なんですが。皆さん、短編とエドラス編だったらどっち読みたいですか…?

あ、それと。
今年はカトレーンツインズ誕生日おめでとう短編は厳しそうです…ごめんなさい。会話文だけでもよければ可能性はなくもないけども…うん。

ではでは。
感想、批評、お待ちしてます。



大分お待たせしてしまったのでおまけ。当初予定のオチ。

「あ、そうだ。ティアさん!」
「何よ」
「僕、ティアさんの事を憎いだなんて思ってません。むしろ好ましく思ってますよ」

(固まる空気)
(静まり返るギルド)
(思考停止する某黒髪槍使い)

「お、おいアラン…お前」
「え?」
「アラン君、それは酷だよ…」
「え、え?」

「いや、いいんだ。解るさフィジックス。そう思う事は何も悪くない。何も…何、も……(気絶)」
「あっ、いや、違うんです!そうじゃなくて、そういう意味じゃなくて!ライアーさああああん!」 
次ページ > 目次
ページ上へ戻る
ツイートする
 

感想を書く

この話の感想を書きましょう!




 
 
全て感想を見る:感想一覧