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SNOW ROSE

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花園の章
  Ⅵ


 ここはラタンにある子爵の館の一室である。
 そこには今、ミヒャエルとラタン子爵がいたが、このラタン子爵位には現在、弱冠十九歳のエッケハルトという若者が就いていた。
 それと言うのも、前子爵である父のエーベルトがヘルベルトの命によって殺されたため、息子である彼が急遽子爵位を継いだのである。
 エッケハルトが爵位を継いだ時、この街は子爵殺害のために暴動で荒れ果てており、当初エッケハルトはその若さ故に家臣達との軋轢にも悩まされていた。
 しかし、その中で民衆の先頭に立って纏め上げて暴動を沈静化し、その手腕を家臣達に見せ付けることにより、自ら爵位を継いだことを正当化することに成功したのであった。
 さて、ここへミヒャエルがいるのには訳がある。それは、この子爵邸に十二貴族次期当主達が集まっていたためである。エッケハルトは次期当主達のために館を明け渡しおり、自らは家臣達と共に別邸へと引き下がっていたが、この日エッケハルトは会議に出席せねばならなかったため、たまたま居合わせたのであった。
「ミヒャエル王子。お客人が要らしておりますが、如何致しますか?」
「…俺にか?」
「いえ、そうではないのですが…。ただ、王子と面識があると聞きましたので。確か名は…レヴィンと申しましたか…」
「旅楽士のレヴィン夫妻か!?」
「はい。お待ち頂いておりますが、次期当主方より先にお話になりたいのではと思い、お伺いに上がりました次第で。」
「では、直ぐに行こう。」
 そこまでで会話を区切り、ミヒャエルは机の書類の片付けをしようとしたが、エッケハルトはその間に一通の書簡をミヒャエルへと差し出して言った。
「その前に、ご夫妻がアンドレアス・シュルツ・フォン・プレトリウス様より書簡を託されており、これを王子へとお渡ししてほしいとのことお預り致しております。」
「アディからだって?」
 久しく聞かぬ友の名に、ミヒャエルは多少訝しく思いながらも書簡を受け取った。ミヒャエルはアンドレアスとレヴィン夫妻が知り合っていることを知らないのである。ミヒャエルは書簡の封を破り、その内容を確認するや目を見開いた。
「まさか…こんなことが…!?」
 そこにはアンドレアスの直筆で、実父のシュテルツ大公がどのように行動を起こし、そしてどのような結末を迎えたかが克明に書かれていた。
 また、それと同時に起きたことも書かれ、その後にアンドレアス自身が今後どのように行動したいかも書かれていたのであった。
 それを読み終えると、ミヒャエルはエッケハルトに言った。
「直ぐにレヴィン夫妻と話したいから、東の客室へと通してほしい。俺はフローリアンに飲み物を運ぶよう頼んでから行くから。」
「王子、どちらも私だけで事足ります。王子が子爵の執事へ用を言い付けるなど、有り得てはなりませんので。」
「エッケハルト…君は少し頑固だな。父君のエーベルト殿もそうだったが…。まぁ、それだから信頼出来るんだが…。」
「お褒めの言葉と受け取っておきましょう。では、フローリアンには私から言っておきます故、王子は客室へお向かい下さい。では、失礼致します。」
 エッケハルトはそう言うや礼を取り、そのまま部屋を出ていった。
 ミヒャエルはそれを見届けると、直ぐに机上の書類を全て片付け、鍵つきの引き出しへと丁寧にしまい込んで鍵を掛けた。
 それらの書類は十二貴族当主達や、その他の貴族からの嘆願書や調査書などが含まれており、外部に漏れては国を揺るがしかねない代物であったからである。
 ミヒャエルは鍵を掛けたことを確認して後、その部屋を後にしたのであった。

 場は移って東の客室であるが、そこにはレヴィン夫妻とミヒャエルの姿があった。レヴィン夫妻はこれまでの事柄を詳細に語り、その後に奇跡の証である白薔薇をミヒャエルへと差し出した。
 ミヒャエルはそれを見るや、今まで奇跡を信じようとしなかった己を叱咤し、原初の神へ畏敬の念を持って祈りを捧げた。ミヒャエルは聖騎士の称号を得てはいたが、奇跡そのものには不信を抱いていた。故に、そのような自分を恥じたのであった。
 祈り終えて後、ミヒャエルはヨゼフから白き薔薇をそっと受け取ったが、それからは未だ豊かな香りが漂っていることに気付いた。手折って幾日も経ていたはずであるが、ミヒャエルはそれが奇跡であるかの如く自然に感じ、その香りに心が癒されたという。
「ミヒャエル王子、貴方様は如何でしたか?」
 暫くの沈黙の後、エディアがミヒャエルへと問い掛けた。それはミヒャエルにどの様な事が起こったのかを問うものであり、ミヒャエルはそれを察して簡潔に答えた。
「いろいろとあったが、今こうして生きている。そして、こうして先へと歩き続けているさ。」
 その答えに、ヨゼフもエディアも言葉を返すことは無かった。ミヒャエルは王子として、この国の先を見据えているのである。レヴィン夫妻はただ、このミヒャエルであれば安堵して過ごせる国を築けるであろうと確信していた。
 だが、一つだけ気掛かりなことがあった。それは亡きマーガレットのことである。ブルーメの時もそうであったが、彼がマーガレットのことを避けているように思えたのである。それどころかフォルスタのことさえ出てこないため、夫妻はミヒャエルが未だ彼女のことを思っているのだと思い、それは胸の奥へと仕舞うことにしたのであった。
 もし、ミヒャエルがマーガレットのことでヘルベルトに追い詰められたとしたら、夫妻はミヒャエルを傍らから確りと支える覚悟が出来ていたからである。この旅楽士は、既にミヒャエルを主と定めており、今後その心は堅く揺らぐことはなかった。
 さて、ミヒャエルはレヴィン夫妻と話し終えると、会議のために集まっている十二貴族次期当主達の元へと向かった。レヴィン夫妻と二人から聞いた話、そしてアンドレアスが夫妻に託した書簡について彼等に話すためである。
 ミヒャエルが扉を開くと、皆は直ぐにミヒャエルへと視線を向け、直ぐに立ち上がって礼を取った。ミヒャエルは皆を座らせると、自らは皆の前に赴いて静かに話始めた。
 先ずはアケシュで起きたシュテルツ大公の死と奇跡のことから始め、聖ジョージと聖ケインが齎した白薔薇を皆の前に翳した。皆はそれを見て驚き惑い、そしてミヒャエル同様、皆は原初の神へと祈りを捧げたのであった。
「この時に、聖なる奇跡は齎された。我らは神より離れていたにも関わらず、原初の神は我等を許し、愛してくれるというのか…。」
 沈黙を破って言葉を紡いだのは、ウィンネ公子クレメンス・フォン・ケーネスであった。ウィンネ地方には聖ヴァール大聖堂があるが、ケーネス家はあまり関わりを持ってはいなかった。現当主ヘルムートは宗教を嫌う傾向があり、神や奇跡を全く信じてはいなかったのである。故に、「神より離れている」と言ったのであった。しかし、それを聞いた皆はその言葉に思いを置き、暫しこの神より離れし世代を振り返ったのであった。
 皆、多かれ少なかれ、神の言葉を受け入れなかったり聖人を謗ったりする者もいた。それ故、彼等はミヒャエルの翳した白き薔薇に畏れを抱き、また逆に神よりの深い愛を感じることも出来たのであった。
 だが、それは高名なレヴィン夫妻が語ったという話だからに他ならない。夫妻は直接的ではないにしろ、聖人の家系から出ている者らである。それはここに集いし十二貴族次期当主達も同じであり、特に音楽に関わっていたリューヴェン家のハンス・ルートヴィヒは、自らの家系が音楽を絶やしてしまったことを悔やんでいた。それは神への捧げ物を止めてしまったからに他ならず、神より遠く離れていたことの証と思えていたのであった。
 暫し祈りを捧げて後、ミヒャエルは皆が落ち着いたところを見計らって続きを語りだし、シュテルツ大公がどの様な振る舞いをし…どの様に死に至ったかを告げた。
 事実を言えば、ここに集まりし次期当主達の真なる敵はシュテルツ大公と言え、皆はそれを聞いて目を丸くしていた。この会議で話し合われていたのは、このシュテルツ大公のことだったのである。
 彼がヘルベルト王子の権力を利用して税を多く徴収し、それにより軍備を強化していたことは分かっていたことである。だが彼の亡き今、ヘルベルトだけでは手兵たる碧桜騎士団しか動かせぬ状態になっていると考えられ、十二貴族次期当主達はそれを踏まえて意見を出しあい始めた。
「しかし、あの碧桜騎士団をどう潰すと言うのだ?大公の軍隊も未だ三分の一が王都にある。迂濶には手を出せんだろう。」
「ジェレミー殿。そうは申されるが、このまま静観を続ける訳にも行きますまい。大公亡き今、早々に手を打つべきかと…。」
「だが…こちらの兵力はざっと見積って二百五十が限度。各地の兵力をこちらに回せば均衡を揺るがしかねぬし、これで如何になさるおつもりか?」
「リカルド殿は少々考え過ぎだ。要は王をお救い出来れば収まることだ。戦を仕掛ける必要は無いでしょう。」
「いや、それは相手に気取られたら終わりだ。それこそ碧桜騎士団暗殺部隊を未然に防ぐことなど、今の我々にどれ程の手立てがあると?ヘルベルト王子を討つ覚悟で挑まねば、この状況を打破出来るとは考えられないが…。」
「そう言われるがティード殿、王都には約二千の兵が居るのだ。それをヘルベルト王子が動かせたとなれば、王都は間違いなく火の海になるだろう。そうなる前に、こちらから手を打っておかねば、王の救出どころの話ではなくなる。」
 次期当主達は口々に意見を出しあってはいるものの、一向に具体案が出る気配はなかった。
 その様な最中、急に扉が開かれて、そこから一人の男が入って来たのであった。あまりに急だったため、皆は話すことを止めて男に視線を向けた。
 そこに立っていたのは、途中レヴィン夫妻と別れて知人の元へ赴いていたアンドレアスであった。
「ご無礼を承知で参らせて頂きました。皆様、早々に王都へ出発する手配をなさって頂きたい。」
 そこにあった者達はあまりのことに、アンドレアスの言ったことの意味を理解出来ないでいた。それを解ってか、アンドレアスは直ぐに言葉を足したのであった。
「我が師にしてヴェヒマル大聖堂前法王カール・フリードリヒ・ファッツェ殿にお力添えを頂けることとなり、現法王リチャード・ファイソン殿も異論は無いそうです。故に、王国全ての大聖堂と教会は、全て我々に力を貸してくれることになりました。我々はその意思を表すため、直ちに行動をせねばなりません。」
 このアンドレアスの言葉に、この場に集いし者達は皆、呆気に取られてしまったのであった。
 二大宗教の総本山が国のために動くのは、歴史上稀と言わざるを得ない。元来、大聖堂や教会は国政に左右されず、逆に国政を左右することもない。互い干渉しないことは、過去二つの大戦の後に暗黙の決め事となっていた。宗教と国政が争ったり力を結んだりすれば、それこそ国を潰し兼ねないからである。
 だが、それを解って尚力添えをすると言うことは、宗教そのものが国の行く先を憂いていると言うことなのである。
「神は道を直くするよう命ぜられたのだ。我々はそれに従わねばなるまい。」
 皆が互いに話し合っている中で、ミヒャエルは凛として言い切った。その手には一輪の白き薔薇が今も、未だ美しく咲き誇っていたのであった。

 その日の夕刻より、十二貴族次期当主達とアンドレアスは兵を集め、翌日の昼前までには出発出来るよう準備を始めていた。
 兵士達にも奇跡の白き薔薇の話は広まっており、彼等は皆原初の神を讃えつつ仕事に従事していた。その光景は、戦いに赴くと言うより寧ろ、まるで巡礼へと旅立つ支度をしているようであったと伝えられている。
 だが、その様な中に一つの訃報がミヒャエルへと届けられたのであった。それは偵察に出ていたベルディナータより報告された。
「父上が…崩御されただと…。」
 それはミヒャエルだけでなく、そこに集められていた十二貴族次期当主達にも動揺を広げた。
 しかし、その様なミヒャエルへベルディナータは叱咤を投げ掛けた。
「心を揺らしている時ではありません。我々は正しき路を歩んで行かねばなりません。ここで立ち止まって嘆いている余裕は無いのです。」
「そうだな…。で、ベルディナータ。父上は苦しまれたのか?」
「いいえ。聞くところによれば、王は妃様や家臣に見守られての安らいだ死だったそうです。ただ…」
「何だ?」
 ベルディナータが怪訝な顔をして話を中断したのでミヒャエルは不審に思って問うと、ベルディナータは話を先へと進めた。
「ただ、王が亡くなられたのが王城の私室だったそうで…。」
「何だと?幽閉されていたのではなかったのか?」
「その筈ですが、いつ幽閉が解かれたのかは分かっておりません。私が話を出来たのは、塔の別室へ幽閉されていたベッツェン公でしたので。彼の話に依れば、数日前より見張りが薄くなり、その頃には私室へ戻っていたのではないかと。王が崩御なされる時には、ベッツェン公も傍に着くことを許されたそうですが、今は王城の別室に軟禁状態となっておりますが、実状では完全に幽閉は解かれているようです。」
「どういうことだ…?」
 それは大いに謎であった。
 ミヒャエルは当初、兄であるヘルベルトは王位を狙っているのだと考えていた。しかし、それとは少しばかり違うのではと思えてきたのであった。
 未だ分かっていないヘルベルトの統括している村や街に至っても、民が苦しめられている様子はないという。
「だったら…何故にあの様なことを…。」
 ミヒャエルは今までのことを思い返して問ってみたが、それは本人に直接聞くしかあるまいと考え、その場では考えることをやめたのであった。それ以上考えても仕方無いと分かっていたからである。故に、ミヒャエルは皆に真実を語り、不安に陥らぬように鼓舞し続けたのであった。
 その夜、ここへ集いし全ての者達に晩餐が振る舞われた。皆はそれで英気を養い、翌日には王都へ向けて出発するのである。その数、三百五十と言われ、予定通り翌日の昼前にはミヒャエルを先頭に出発した。
 ミヒャエルの後にはアンドレアスと十二貴族次期当主達が続き、その後には白銀の鎧を身に纏った二十三人の騎士達が続いていた。この騎士達がミヒャエルの手兵「白薔薇騎士団」である。
 本来ならば二十四人なのであるが、シオン・バイシャルの死により、一人団員が欠落しているのである。シオンが歩むべき場所は空けられ、団員達はその死を悼んでいたと伝えられている。
 さて、白薔薇騎士団の団長たるクラウディオ・ローレンツは、前日までヘルベルトの領地周辺を偵察してミヒャエルへと収集した情報を渡していた。ミヒャエルはそれに全て目を通したが、それはあまりにも噂とはかけ離れたものであった。
 第一に、そこでは穀物や果実の品種改良をやっており、この国の気候に適して量が多く収穫出来るようにしているのだという。第二に、それに伴って区画整理をし、水路が公平に行き渡るようにしてあったと…。
 さすがにミヒャエルはクラウディオを疑ったが、彼がそこまでしてヘルベルトを擁護する理由はない。寧ろ侯爵であった伯父を殺害されたため、ヘルベルトを討つことならあり得るのである。故に、ミヒャエルはクラウディオのこの調査書を公開しなかったのであった。混乱を避けるためである。
 ミヒャエルは口を閉ざしたまま先頭を行き、一行はラタンを出て丸二日大した休みも取らずにルツェンと言う中程の街へと入った。
 ルツェンは逸早くシュテルツ大公によって占領されていたが、数日前にそれは解かれていた。大公の死をベルディナータが知らせていたのである。
 その時、このルツェンの街を管理していたのは、フォルスタで顔見知りとなっていた警備兵のヅィートレイ・キナンであったため、話は直ぐに纏まり、ヅィートレイは配備されていた全ての兵を引き連れ、十二貴族次期当主達が集まっているラタンへと移動したのであった。
 無論、彼はシュテルツ大公の仇を取ろうなどとは考えてなく、逆に戦力に加えて欲しいと懇願するために動いたのであった。フォルスタでの出来事を見ていたからである。
 ミヒャエルも彼のことは覚えており、今は列の中程を共に歩んで来ていた。彼らはミヒャエルに謁見した際、皆剣を立てて君主へ捧げる礼を取ったと伝えられている。
 ルツェンに入った一行は、暫くこの街にて休むことにした。王都はあと一日足らずで行ける距離であり、ミヒャエル、アンドレアス、そして十二貴族次期当主達は話し合って決めたのであった。これ以上兵達の体力を消耗させては、それこそ本末転倒と言うものだからである。
 この軍行には、実は最後尾に一般の民も交ざっていた。
 彼らは物資を運ぶ者として志願し、その大半は自ら馬や驢馬を用意して駆け付けきてくれたのである。そこには女性も多く、四百人近い旅路に不自由なく進めたのは、この女性陣のお陰と言えた。大鍋や薪、食料など、全ての手配を彼女らは滞りなく行っていた。裏を返せば、行く先々で誰かしら親戚がいたため、少なくなったものを中心に集めてくれたのである。
 しかし、ミヒャエルはその中に見知った顔があったことに未だ気付いてはいなかった。
「アンドレアス、俺は見回りに行ってくる。そっちで食事を摂るから、次期当主方にはそう伝えてくれ。」
「分かったが、あまり遅くなるなよ?取り敢えず王子なんだからな。」
「取り敢えずとは耳が痛いな。分かってるよ。」
 ミヒャエルはアンドレアスにそう言うと、一人で見回りに出た。
 これだけの人数ともなれば、何の争いもなく進める訳ではない。故に、ミヒャエル、アンドレアス、そして白薔薇騎士団達は順に、休憩の度に見回りをしていたのであった。
 ミヒャエルはこの時二度目であったが、ここへきてやっと物資を運んでいた一般の民の元へへと足を運べたのであった。
 だが、運が良いのか悪いのか、ミヒャエルはその一人を多くの人々の中より見い出してしまったのである。
「アリシア…アリシアじゃないか!?」
 ミヒャエルが見い出したのは間違いなく、ブルーメで彼を懸命に看病していたアリシア・ウォーレンであった。
 アリシアは最初驚いた表情を見せたが、直ぐに礼を取って挨拶した。
「ミヒャエル王子、お久しゅう御座います。」
 アリシアは以前よりも幾分細くなっていたが、その瞳の輝きは失われることなく健在であり、ミヒャエルはそんなアリシアを見て胸が傷んだ。
「アリシア、君は俺の命の恩人だ。畏まる必要はない。」
「王子、貴方様は君主になられるべきお方。礼を欠くことなど出来ません。」
 アリシアはそこまで言って顔を上げると、直ぐに微笑んで言葉を付け足した。
「でも、元気そうで良かったですわ。ミックさん。」
 最初の言葉に少し淋しさを感じたミヒャエルであったが、この言葉にミヒャエルは笑みを浮かべたのであった。
「しかし、君が何故この様な場所へ居るんだ?」
「ブルーメがヘルベルト王子の命で制圧された時、一部の人々が兵に逆らって暴動を起こしたんです。その時、兵は街に火を放ったため、大半の家が焼け落ちてしまったんです私の家は助かりましたけど、今は焼け落ちた家の人々に部屋を貸してますので、私は街を出てミューアに住まう叔母の家を訪ねようと思っていたんです。けど…途中でこの軍行の話を聞き付けて、ならばこちらへと思って参ったのです。」
「両親は健在か?」
「はい。もうピンピンしてますわ。母は畑で父は漁をしてますので、毎日人々のために尽くしてます。私が一人のんびりしている訳には行きませんでしょ?」
 アリシアはそう言って笑っていたが、彼女は負担にならぬよう家を出たことは、ミヒャエルには直ぐに分かった。
 少なくとも、ここでは食料に困ることはなく、いざとなれば兵も居るので安心と言える。その点でミヒャエルは安堵していたのであった。
「そうか。では、君が作ってくれた昼食を頂くとしよう。」
「今日、私が担当したのはスープですわ。」
「あの時作ってくれたものかい?」
「はい、薬草入りです。家から沢山持ってきてましたから。」
 そう言いながら、アリシアはミヒャエルへとスープを差し出した。それはあの時…ミヒャエルが昏睡状態から覚めた時に作ってくれたスープと同じ香りがした。
「やはり旨い。アリシア、君は良い奥方になれそうだ。」
「お世辞を言っても、何にも出ませんわよ?」
 二人は笑った。ささやかな至福ではあったが、二人の会話は周囲に集まる人々の心をも温かくさせたと言う。
 国は一人の男のために乱れ、それを皆が諫めに行こうと言う時、誰しも心には一抹の不安があったであろう。しかし、こういった一時の至福は、その刺々しく渇いた心に潤いを与えたのである。故に、人々はこの様な他愛ない会話に、未来への希望を見い出していたのであった。
 それは偶然の産物であったのか、はたまた必然だったのかは分からない。だが、これが人々に光を与えたことは確かである。ここでは身分など、大して意味を持ち合わせてはいなかったのであった。

 その夜、皆はルツェンにある大きな公園へテントを張り、各々そこへ入って休んでいた。街中でも見張りを絶やすことはなかったのであるが、真夜中に公園内ではなく、街中より悲鳴が上がったのであった。
「何事だっ!?」
 ミヒャエルとアンドレアスは飛び起きて、直ぐに剣を持って外へ出た。皆も同じように外へ出てみると、街の端にちらちらと炎が見てとれ、空を紅く染め上げていたのであった。
「ここへ来て襲撃だと!?」
 悲鳴はルツェンの民のものであった。
 周囲は徐々に混乱の兆候を見せ始めていたが、ミヒャエルはアンドレアスと十二貴族次期当主達に命令し、冷静な対処に努めた。彼らが慌てふためけば、混乱は酷くなり敵の思う壷と言うものである。
 しかし、ミヒャエルは内心気が気ではなかった。アリシアのことが心配だったのである。今の状況が頭の中でフォルスタと重なり、いつしかアリシアとマーガレットの姿が記憶の中で重なった。
「ミヒャエル王子!今は考え事をしている場合ではありません!」
 見ると、そこにはベルディナータがミヒャエルを叱咤していた。
 燃え盛る炎は見る間にルツェンの街を覆い始めており、その中で人々は右往左往していたのであった。ミヒャエルは我に返り、直ぐ様皆に指示を与えた。
 先ず白薔薇騎士団を三班に分割し、同じく兵士も三つに分けた。その一つには火を消し止めることを命じ、指揮官にアンドレアスを配した。また、二つ目の班には賊を見つけ出すことと、一般人を安全な場所へと誘導することを命じ、それには二人の次期当主を指揮官とした。残る者は逃げてきた民と、物資を運んできた者達を守るよう命じ、そこには残りの次期当主達に任せることとしたのであった。
 ミヒャエルは命じ終えると号令を掛けて向かわせ、自らは単独で敵の潜みそうな場所を巡ったのである。
 しかし、敵はさして時間の掛からぬうちに見付けることが出来た。いや、その男はミヒャエルの前へと不敵な笑をみせながら歩み寄ってきたのである。
「貴様が街へ火を放ったのか!」
 ミヒャエルはその男を睨み付けながら問った。そこに立っていたのは、ミヒャエルの見知った顔であった。
「お久しぶりです、ミヒャエル王子。死んだとばかり思っておりましたが、こうしてのうのうと生きて居られたとは。恐縮ですが、貴方様には死んで頂きたく存じます。故に、貴方様を炙り出すため、少しばかり明るくさせて頂きました。」
 飄々と語るこの男は、碧桜騎士団団長ルドルフ・シヒトである。
 この男、数年続いていたヨハネス公国とモルヴェリ帝国の<時の砂漠>を廻る戦の中で活躍し、それが収まった際にこの国へと流れて来たのであった。
 だが、この男の素性は不透明であり、名すら偽名だとの噂である。故に、ルドルフが碧桜騎士団の長に抜擢された時、ヘルベルトの家臣の一部が猛反対したのであるが、その者達が暗殺されて今の地位を得たと言われている。
「貴様が何故にここへ居るのだ?貴様はヘルベルト兄上直属の部下の一人。この様な場所で悠長に火遊びをしている暇はないはず。」
「ヘルベルト様…ねぇ…。確かに、今は部下ですよ。ま、貴方様に消えて頂きさえすれば、あの方も用済ですが。」
「どういう…意味だ…?」
 ミヒャエルはルドルフを鋭く睨み付けながら問うと、ルドルフはニタリと嫌な笑みを溢して返した。
「死に逝く者に語ることはない…と言いたいところですが、良いでしょう。実は、さる御方がこの国をご所望でね。私はその御方に雇われてこの国へと入ったんですよ。最初は厄介なものでした。王は賢明な方で、第一王子もとても優秀で聡明な方だ。その上ミヒャエル王子、貴方は民に愛されている上に聖騎士の称号まである始末。使えるのは第二王子位なもので、ここまで来るのにえらく苦労致しました。」
 ルドルフの、まるで喜劇の台本でも読むような語り口は、前にいるミヒャエルを不快にさせるには充分であった。
「貴様…民の命を何だと思っている…!」
「民…ですか?あれは勝手に増えてゆくではありませんか。たかが百や二百死んだとて、直ぐに元に戻ります。何をお怒りですか?ミヒャエル殿下。」
 本当に分からぬと言った風な態度に、ミヒャエルの怒りは頂点に達した。ミヒャエルは剣を抜き払い、その切っ先をルドルフへ怒りと共に向けたのであった。
「貴様を生かしておけば、この国に憂いが残る。」
「貴方様に私を倒せるとは思えませんが?まぁ…遅かれ早かれ貴方様には消えて頂くのですから、ここで死んで頂ければ好都合と言うものでしょう。尤も、そのつもりで来たんですがね。」
 ルドルフはそう言いながら自らの剣を抜いた。彼の顔には相変わらず嫌な笑みが浮かんでおり、微塵の殺気も感じさせなかった。街の炎でぼんやりと照されたその顔を見て、ミヒャエルは今更ながらに暗殺者の真の恐ろしさを実感させられたのであった。
 遠くからは未だ、炎の燃え上がる音と人々の逃げ惑う声が響き渡っていた。その中で、二人は互いに牽制しあったまま微動だにしなかった。だが、一迅の風が吹き抜けた殺那、ミヒャエルはルドルフへと踏み込んだ。ミヒャエルの剣はルドルフにはかするともなく空を舞い、それはミヒャエルを動転させた。音もなく躱されたのである。
「本物の戦いを知らないようですね。」
 ルドルフは体勢を立て直したミヒャエルに冷やかな目線を送り、今度はルドルフから踏み込んできたのであった。幾度も剣が交差する中、ルドルフが如何に強いかをミヒャエルは思い知らされ、防ぐことしか出来ぬ自分の未熟さに憤りを覚えた。
「そろそろこの様な茶番劇に幕を降ろしましょう。」
 そう言ってルドルフは、今までにない鋭い表情を見せた。ミヒャエルはその顔を見て、それまでにない悪寒を感じたのであった。ルドルフのそれは本気を出すと言うことであり、それまでは大した力を出していなかったと言うことなのである。故に、ミヒャエルは自らの命の危うさを、真に実感したのであった。
「死んで頂きます…。」
 そう呟く様に言うや、ルドルフは動いた。ミヒャエルは何とか応戦しようと剣を構えたが、その刹那、ミヒャエルは腹部に激烈な痛みを覚えたのであった。
「…!」
 あまりの痛みに、ミヒャエルはその場へ倒れ込んだ。
「言ったではありませんか…。私を倒せるとは思えませんとね。では、これにてお別れです。」
 ルドルフはそう言って、倒れ込んだミヒャエルへと止めを刺そうと剣を降り下ろした。だが、それは叶うことはなかったのであった。ルドルフの剣を、何者かが防いだのである。
「誰だ!」
 ルドルフは驚きのあまり目を見開いて防いだ者を見た。それはとある騎士であった。その者は長い黒髪と袖の無い外套を靡かせて、悠然と立っていたのであった。
 その者は白銀の鎧を身に付けていたが、この国でそれを身に付けられるのはミヒャエルだけのはずであった。何故ならば、それは聖騎士の鎧であったからである。しかし、今のルドルフに、それを見極める余裕など無かった。
「名乗る必要もあるまい。今度は私が相手になろう。」
「面白い…。」
 そう言うや、ルドルフは瞬時に間合いを取った。ここで放っておいたとしても、ミヒャエルの死は確実だと思ったからである。そしてルドルフはその目に狂気を宿し、相手の男を見据えて剣を構え直しながら言った。
「お前は貴族か?」
「いや、私は貴族ではない。原初の神に仕える者だ。」
「何が神だ…。神などこの世に存在せず、貴族は自らの懐を肥やすことしか頭に無い。無責任に民へと負担を押し付け、自らはそれが権利だと言わんばかりに横柄に振舞う姿は、まるで妖魔だ。」
 そう言うルドルフの顔には、また新たな表情が浮かび上がっていた。それは憎悪であった。
 しかし、それだけではなかった。意識の薄れ逝く中、ミヒャエルはルドルフの顔を見て感じたことは、その中に悲痛な叫びがあったと言うことである。だがそのミヒャエルは、その後直ぐ、深き闇の中へとその意識を沈めて逝ってしまったのであった。
「やっと死んだか。」
 不敵な笑みを見せてルドルフは言った。だが、目の前の男はそれに動じることなく、ただルドルフを見据えているだけであり、それを見たルドルフは苛立ちをつのらせた。
「なぜ何も言わない。お前は王子を救いに来たのではないのか!?」
「ミヒャエルは既に救われている。彼の者は神に選ばれし王故に。時が満つるまで死することはない。」
 この男の言葉にルドルフは笑い出し、そして言ったのであった。
「神に選ばれただと?なんと馬鹿なことを!神は私の妻を見殺しにしておいて、この様な青二才を選んだと言うのか?そうであれば、人の魂に上下を付けているのは神ではないか!何が神だ!信仰など何の価値もないがらくただ!神が居ると言うなら我が妻を返せ!役立たずな神の信奉者よ!」
 途中より怒りを露にしたルドルフの言葉に、男は冷静な表情のまま淡々と答えた。
「神の御決めになったことは揺らぐことなし。だが、汝の妻は今、神の御下にある。これ以上何を望むと言うのか。それ故に、我は汝を汝の妻の元へ送ろう。そして、世に生まれ出ることの無かった娘の元へ…。」
「娘…だと…?妻は…身籠っていたのか…?」
 男の言葉に、ルドルフは唖然とした。彼の妻は、彼が戦に出て直ぐ、その戦に巻き込まれて死んだのだ。無論、ルドルフは妻が身籠っていたことなど知らなかった。故に、この男の言葉が真実なのかそうでないのかさえ、最早知る由も無かった。
「お前は一体…何者なんだ…?」
「我が名はリグレット。時を司る者、生と死を見守る者、神を讃えし者である。」
「時の王…!」
 如何なルドルフとて、その名に驚かない筈は無かった。リーテ教最高の聖人であり、ヴァイス教聖人エフィーリアの夫。
「馬鹿な!この様な所へ時の王が現れる筈が無い!」
「汝は神を測るのか?何かを見なくては信じられぬとはな。愚かな者だ…。」
「何を小賢しいことを!お前の仮面を剥ぎ取り、その本性を暴いてくれる!」
 ルドルフはそう言うや、男に向かって間合いを詰めた。それはほんの一瞬であり、暗殺者である彼の速さに常人では避け切れる筈は無かった。
 だが、ルドルフが間合いを詰めた刹那、男は目の前から消え失せていたのであった。
「何処へ消えた…!」
 そう呟いた時、ルドルフは自らの胸に深々と刺し込まれた剣先が目に入った。それを知るや、ルドルフは自らが刺し貫かれたことに驚愕したのであった。まさか自分の背後を取る者が居るなど、ルドルフは考えもしなかったのである。それも背後から瞬時に貫くなど、ルドルフにすら出来ないことであった。
「汝の罪は、自らの死をもって贖われる。神の下にて家族が待っている。もう苦しまずとも良いのだ…。リチェッリ公子レチェッロ・バラッキよ。」
「我が…真の名を…知っていよう…とは…。そうか…家族……が………。」
 ルドルフは掠れた声で呟く様に言うと、静かにその命の光を消した。その死に顔は、今までにあった憎しみや哀しみなどはなく、優しく柔和な表情を見せていたという。
「さて、ミヒャエルを民へと戻さねばな…。」
 リグレットはそう言うと、ミヒャエルの元へ歩み寄って彼の傷口に手を翳した。すると、ミヒャエルの傷は見る間に消え去り、虫の息だったミヒャエルは何事も無かった様に深く呼吸をし始めた。
 そうしている間に、リグレットの傍らには一人の女性が姿を現していた。それはベルディナータであった。
「後は頼んだぞ。」
「分かってますわ。地に関わることは、全て私の下にあるものですから。後は原初の神の御心のままに…。」
「それでは、また神の御下で会おう。」
 そう言うや、時の王リグレットはその場より姿を消し去ったのであった。それと同時に、遠くより駆けて来る者があったため、ベルディナータも直ぐ様その場より退いたのであった。
 駆け付けて来たのは、ミヒャエルの手兵たる白薔薇騎士団所属の四人であった。何時までも連絡のないミヒャエルを案じ、手分けして探していたのである。四人はベルディナータが立ち去った後暫くして、気を失って倒れているミヒャエルと、既に息絶えているルドルフを見付けて駆け寄った。
「王子、確りして下さい!」」 ミヒャエルを抱えお越したのは、団長のクラウディオであった。その声に反応し、ミヒャエルは意識を取り戻した。
 他の三人はルドルフの亡骸を調べていたが、その死に顔を見て驚いていた。
「しかし…何と安らかな死に顔だ…。」
 三人は共にルドルフのことは知っている。故に、なぜこの男がこうも安らかに逝けたのか、三人は不思議に感じていた。
 見れば背より剣で一突きであり、相当の痛みと苦しみがあった筈である。それにも関わらず、目の前の男の死に顔は、まるで幸福にでも包まれているかの様なのであるから、三人が首を捻るのは当たり前と言えよう。
 さて、意識を取り戻したミヒャエルは何とか起き上がり、今の状況を把握することに努めた。自らの記憶は、ルドルフに剣で貫かれてから後が急に薄らぎ、暫くして暗転してしまっていたからである。
 だが、そこで妙な違和感を感じ、ミヒャエルは自らの腹部に手を当てた。
「刺された傷が…無い…?」
 ミヒャエルの呟きは、クラウディオを困惑させた。ミヒャエルは刺されたと言うが、彼らが来た時、ミヒャエルからは一滴の血も流されていなかったのである。しかし、よく見れば着衣に裂け目があり、それは剣に貫かれた時に出来るものと似ていた。これをどう解釈すれば良いのか、クラウディオは思案に暮れたのであった。
 暫くするとミヒャエルは、何かを思い出したかのようにルドルフに会ったところからを順を追って語りだした。
「俺は…ルドルフと話をし、彼が国の元凶になると判断を下して剣を抜いた。ルドルフも剣を抜き、互いに剣を交えた。だが、俺はルドルフに腹部を刺されて倒れてしまった…。止めを刺そうとしたルドルフを、一人の騎士が現れて阻止してくれた…。ルドルフは確か…時の王と…。」
「時の王…リグレット…!」
 クラウディオはその名に衝撃を受けた。一般の聖人達とは違い、時の王は神より直接加護を受けた神の代理者である。故に、クラウディオはミヒャエルの語ったことや、死せしルドルフのことも理解出来たのであった。それは奇跡と言うしかなく、彼はそれを受け入れるだけの信仰心があった。
 暫くすると空は白み始め、その頃には街の火も大半は鎮火していた。ルドルフが死したことにより、碧桜騎士団はこの街から離れており、それ以上被害が大きくなることはなかった。
 とは申しても、全くの無傷と言うわけには行かず、この火災で兵士四十七名が崩れ落ちた建物の下敷きとなって亡くなった。皆、民を守ることに全力を尽くしたための結果である。だが、街の民も含めれば死者は百名を超え、そのことに皆は激しい怒りを覚えたのであった。
「民を犠牲にするとは…。」
 消火を指揮していたアンドレアスは、あまりのことに唇を噛み締めた。
 彼は、ヘルベルトが国の民に直接被害を及ぼしたことに強い憤りを感じていた。それは無論、ここに集いし皆が感じていることであり、十二貴族次期当主達もまた、この様な惨事が再び起こらぬよう早々に終止符を打たねばならぬと口々に言ったのであった。
 ミヒャエルは新しく張った天幕に入り、そこで兵士より被害状況の報告を聞いていた。そこにはアンドレアスと十二貴族次期当主達、そしてルツェンの街長クラウス・ヴィントールも訪れていた。
 だが、ミヒャエルはその報告の最後に出た名前に、表情を強張らせた。最後に伝えられたのは行方不明者であり、それは十一人居たが、その中にアリシアの名があったのである。
「身元不明の遺体は全て男性であります。女性の行方不明者は彼女一人で、只今捜索しております。」
 ミヒャエルは嫌な予感がした。アリシアの性格から言って、この様な時に逃げ隠れするとは考えられない。それに加え遺体が無いと言うことは、何者かに連れ去られた可能性が高いと考えたのである。
「民一人のために時を割いている余裕はない。このまま動ける者を集め、直ぐにでも出立すべきです。後のことは、ここへ居られるヴィントール氏が引き受けて下さるため、案ずるには及ばぬと思いますので。」
 そう発言したのは、ベッツェン公家次期当主リカルドであった。
 前に触れたが、彼の父クリストフは現在、都にある王城へ幽閉されている。だが、リカルドはそれに触れることは決してなかった。案じていない筈はないが、彼はそれを容易く見せないだけの忍耐強さを持っていたのである。ミヒャエルやアンドレアスは彼の心中を察し、今は前に進むことだけを考えることに専念しようと彼の意見に賛同したのであった。
 そうして後、皆は素早く準備に取り掛かり、元凶たるヘルベルトの待つ王都へと、再び歩み始めようとしていたのであった。
 暫くの後、負傷者を除いた全ての者は列を作り、直ぐにでも出発出来るよう整えられていた。
 だがそこへ、遠くより歩み来る一団が彼らから見えた。その一団の全てが、まるで巡礼でもしているかの様な白い衣を纏い、馬に多くの荷を乗せていたのであった。
 その一団を見るや、アンドレアスは直ぐ様駆け出したのであった。
「ファッツェ殿!」
 アンドレアスはそう叫ぶや、先頭を歩く白髪の老人へと駆け寄っていた。
 この一団は、前法王カール・フリードリヒ・ファッツェが、自らの弟子と信仰者達より募って作ったものであり、彼らは人々に禍が降りかからぬ様、また禍に襲われた際に多くを救える様にと、多くの物資を積んでミヒャエルらを追い掛けて来ていたのである。
「アンドレアス殿。我等も何かの役に立たねばと、こうして集いて参りました。しかし、この惨状は一体…。」
 ファッツェはルツェンの街の惨状に困惑していた。
 そんなファッツェに、アンドレアスはこれまでの経緯を掻い摘んで話すと、ファッツェは一つ頷いてこう言ったのであった。
「分かりました。我等はこのルツェンに留まり、怪我人の手当てと街の立て直しとに尽力致しましょう。貴殿等は早々に王都へと向かって下され。」
 ファッツェはそう告げるや、連れ立って来た人々に怪我人と街の状況を見てくる様にと言った。
「ファッツェ殿、有り難う御座います。」
「未だ礼には早う御座います。アンドレアス殿、皆様の先に居られるお方はミヒャエル王子ではありますまいか?」
「如何にも、あのお方がミヒャエル王子です。」
 ファッツェの言葉にアンドレアスが答えると、ファッツェはミヒャエルの元に歩み寄り、その場へ跪いて言った。
「偉大なる原初の神に高められし御方。時を統べる者と地を守護する者に認められし御方よ。我等尊き御神の命により汝を祝福し、汝の盾とならん。」
 ファッツェがミヒャエルへと告げし言葉は、事実上、大聖堂がミヒャエルを王と認めた宣言であった。それにより今、ミヒャエルは第三王位継承者としてではなく、正式に国王として認められたのである。
 既にベッツェン公を抜かした十二貴族からは承認証書は届いており、ベッツェン公の息子リカルドは、幽閉中の父に代わって承認証書は発行済みであった。故に、今のミヒャエルは、国王としての権力を行使することを許されたのである。
「この俺が…国王に…。」
 ミヒャエルの心には、様々な想いが駆け抜けていった。何年も旅を続け、その間に多くの人々と接してきた。決して良いことばかりではないにしろ、彼はこの国が好きであった。
 それ故、ミヒャエルは集いし人々に振り返り、凛とした声で高らかに宣言したのであった。
「皆よ、聞いてほしい。今は苦難の時であり、この国は混迷している。しかし、我々は信仰、慈愛、正義を持ってこの場に集ったのだ。この先、決して楽な道を歩める訳ではない。だが、私は王として誓おう。この国を平安で満たし、愛を持って王権を行使することを。」
 ミヒャエルの言葉に、人々は暫くの後に歓声を上げて答えた。しかし、ミヒャエルはその歓声を手で制し、再び言葉を紡いだのであった。
「私は未だ未熟者だ。それ故に、私は多くの人々に助けを乞わねばならない。都へ向け歩み行くこの時さえ、私は友の力を借り、伯父の力を借り、民の力を借り、そして神の御力を借りてここに立っている。人々よ、この様な私にこの先も力を借してくれるか?」
 ミヒャエルがそこまで言い終えると、今まで以上の歓声にて人々は答えたのであった。それは新たな王への激励であり、それはまた希望でもあった。
 その歓声の中、十二貴族次期当主達はミヒャエルの周りに集い、新たなる王へと正式な礼を取って自分の主であることを承認したのであった。
「ファッツェ殿、ここは頼みました。我らは未来のため、王都へと急ぎます。」
「案ずる必要は御座いません。我等は成すべきことを成すだけ。我が持てる全ての行いを致しましょう。」
「感謝する。原初の神に栄光のあらんことを。」
 そうファッツェに言うと、ミヒャエルは再び人々へと振り返り、こう叫んだのであった。
「神は我らと共にあり!義を持って正すため、我らは歩み行こう!」
 人々はそれを聞き大歓声を上げ、そのまま王都へと歩み始めたのであった。

 時は王暦五七九年秋の終わり。告げられし第一の艱難が終ろうとしていた。
 空はどこまでも蒼く広がり、心地好い風が人々の心に清らかな力を与えていた。それは、まるで神からの祝福にも感じられ、新たなる王を頂いた人々の胸には、真新しい希望が芽生えていたのであった。



 
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