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SNOW ROSE

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花園の章
  Ⅴ


 レクツィの町より発ってから二日の後、レヴィン夫妻はアケシュの街へと入った。
 二人は先ず親友であるジーグの宿を探して街の中を歩いたが、そこは以前訪れたことのある街とは到底思えなかった。以前は活気に溢れた人の多い街であったが、今は大半の店が扉を閉ざし、数人の兵士が歩いている他は疎らに住人が通る程である。
「こりゃ…一体どうしたと言うんじゃ…。」
 ヨゼフはその光景を目の当たりにし、そう言って顔を顰めた。
「そうですわねぇ…。以前は活気に満ちた良い街でしたのに…。」
 エディアもこの有り様を見詰め、溜め息混じりにヨゼフへと言ったのであった。
 このアケシュの街は夫妻が到着する前に、シュテルツ大公が送り込んだ軍によって領地化されていたのである。
 元々この街はバッサナーレ伯が治めている土地の一つである。しかし、そのバッサナーレ伯がシュテルツ大公によって城へ無理やり更迭され、その自治権を剥奪されてしまったのである。
 無論、国法を無視した行いであるが、今のヘルベルトとシュテルツ大公にはその様なものは通用しない。故に、このアケシュの街はシュテルツ大公の手の内にあると言えるのである。
 そうなると…レヴィン夫妻は敵の真っ只中に飛び込んでしまったことになるのだが、夫妻が第三王子と面識があることを知る者は、この街にはいなかった。唯一、親友のジーグは知っているが、彼が話すことはまず有り得ないことなのである。
 さて、夫妻は暫く街を歩いて行くと、中心部付近に宿の看板を見付けることが出来た。夫妻は直ぐにそこへと入り、宿の者と思われる男へと声を掛けた。
「すみません。ここのお方ですかな?」
「いらっしゃいませ。私はこの宿の従業員ですが、生憎お泊まりは満室で全てお断り致しておりまして…。」
「満室…?」
 この男の話に、夫妻は首を傾げた。外に人影は疎らであるにも関わらず、宿の部屋は満室だと言うのだ。訝しく思ったヨゼフは、済まなさそうにしている男に向かって尋ねてみた。
「この宿は、かなり大きなものと思いますが…。街中の店も大半が閉まっておりますし、何故満室に?」
 そう尋ねられた男は辺りを見回し、夫妻へと顔を近付けて囁くように答えた。
「実はですね、大公殿下直属の兵士達が貸し切りにしてしまったんですよ…。」
「大公殿下の…!?」
「しっ!声が大きいですよ!それで旅のお方には申し訳ないのですが、他の宿をあたって下さい。まぁ、他も同じだと思いますがね…。」
 この話を聞き、夫妻は顔を見合せて後、仕方無いと言った風にその男へと言ったのであった。
「それでは他へ参ることに致します。しかし、もう一つお聞きしたい。この街にジーグ・フラーツという者が来ているはずなんですが、お聞き覚えはありませんかねぇ?」
「オーナーとお知り合いなんですか!?」
 男の反応を見て、夫妻は少し胸を撫で下ろした。どうやら、この宿はジーグの店の一つらしいということが分かったからである。そうなれば、ジーグが今どこへ居るか分かると言うものである。
「はい。私はヨゼフ・レヴィンと申しまして、ジーグとは旧くからの友人です。このアケシュの街にて落ち合う約束をしていたのですが、宿の名を聞くのを忘れておりまして…。」
「そうでしたか。しかし、誠に申し訳ないのですが、オーナーは今、先に話しましたシュテルツ大公殿下のご子息様にお会いになっておいでです。いつ戻るかは全く分からぬもので…。」
「大公殿下のご子息が参られておるのですか!?」
「ええ…。この先にある街長の館にお泊まりになっております。今はそのご子息様が、この街の一切を取り仕切っているのです。」
 この話を聞き、夫妻はどうしたものかと困り果ててしまった。まさかシュテルツ大公が子息を任に着かせているとは、全く想像だにしていなかったのである。
 ここで下手に動けば、自分達が怪しまれることは考えるまでもないが、親友ジーグは敵の手の中。その上、この街には体を休める宿すらない有り様では、引き返して街の外で野宿した方が賢明とも言えよう。
 暫く夫妻はどうしようかと考え込んでいたが、そこへ新たにもう一人の人物が姿を現し、夫妻の所へと歩み寄って来たのであった。
「そこのお二方。もしや…楽士のレヴィン夫妻ではございませんか?」
 いきなり声を掛けられ、ヨゼフとエディアは目を丸くしてしまった。そこへ立つ人物に、二人は全く面識が無かったからである。
「これは失礼致しました。私はこの宿の管理を任されておりますネヴィル・リチャードと申します。」
「これはご丁寧に…。私共は貴方様の申されました通り、楽士のレヴィンに御座います。しかし、何故私共のことを?」
 この尤もな質問に、ネヴィルは直ぐ様答えてくれたのであった。
「オーナーより、お二方がお越しになることを伺っておりましたので。私はそれ以前に、このアケシュでのお二方の演奏会を拝聴させて頂いたことも御座いましたので、直ぐに分かったのです。」
「そうでしたか。」
 ネヴィルの言葉に、ヨゼフは昔のことを思い出した。
 アケシュの街は、王都に近い準都市としての役割も担っている。ラタンも同様であるが、本道から離れた脇街道線上、当時はカルツィネ街道と呼ばれた四番目に広い街道の上にある街のため、馬車の通行量の多い本道より、旅人や行商人はこちらの道を好んで使っていたのであった。
 それ故、レヴィン夫妻も大半はこちらの道を通り、アケシュへも何度か立ち寄って演奏会を開いたことがあったのだが、聴き手の顔を全て覚えておくことなど不可能と言うものであろう。ヨゼフは思いだそうと試みたが、結局は失敗に終わってしまったのである。
「昔の話ですよ。私はその時、未だ学生だったので、さして収入があったわけでもなく、末席でやっと演奏を聴けたのですから。」
 ネヴィルはそう話すと、夫妻へと自嘲気味に微笑んだのであった。
 その後、ネヴィルは思い付いたように夫妻へとこう提案したのである。
「そうだ。もし宜しければ、私の家へお越し下さい。オーナーよりご夫妻を丁重にお迎えするように申し使っておりますので、手狭だとは思いますが、是非とも私の家へお泊まりになって頂きたい。」
「いやぁ…。ご厚意には感謝しますが、そうご迷惑になるようなことは…。」
 ネヴィルの提案に、夫妻は少々戸惑ってしまった。いかな親友の部下とは言え、全く面識を持たない彼の家へずかずかと上がり込むなど、ヨゼフもエディアも気が引けて出来ることではなかった。
 しかし、ネヴィルは夫妻へととある案を付け足し、夫妻を気兼ねなく招くことが出来たのであった。
「それでは、我が家の庭にて小さな演奏会を催して頂けますか?そこへは街の人達も自由に出入り出来るようにし、ご夫妻の演奏を多くの人達に知って頂けたら、こんなに幸せなことはありませんので。」
 夫妻はこの提案を聞き、心が温かくなるのを感じた。自分達の奏でてきた音楽は、決して金品のためだけにあったのではないと思えたからである。それは楽士として大変名誉なことであり、どんな高価な物や金銀にも代えることの出来ぬ心の宝石であった。
「では、お言葉に甘えさせて頂きましょうか。貴方の家へ招かれている間、私共はいつでも演奏をさせて頂きます。それが人々の心を潤すのであれば、これ以上の幸は無いのですから。」
「喜んでお迎え致します!」
 ヨゼフの返答を聞き、ネヴィルは花の咲うような笑みを溢し、歓迎の言葉を述べたのであった。
 こうして後、夫妻はネヴィルの用意した馬車に乗り、直ぐ様彼の家へと向かったのであった。

 ネヴィルの家は、子爵でも住めるような立派なものであった。ネヴィルは先に「手狭」と言っていたのであるが、とても狭いと思えるような家ではない。家どころか、むしろ<館>と表現した方が良いだろう。
 だが、これだけ大きいのには理由があり、それは直ぐに夫妻も知ることが出来たのであった。それは、ここへは何人もの下宿人を住まわせるための部屋があると言うもので、今で言うところのアパートである。
 尤もネヴィル場合、貧しくて家を追い立てられた人々に部屋を貸し与えていたため、大した金額を貰っているわけではなく、ほぼ家族同然に住まわせているに過ぎなかったのであった。
 道より見える庭は広く、そこには種々の花々が咲き乱れていた。その中でも薔薇は種類が多く、その芳しい香りが辺りを満たし、ヨゼフもエディアもその美しい光景に暫し目を奪われていた。
 その中に一人、手入れをしている女性に気が付くや、ネヴィルが直ぐ様声を掛けたのであった。
「アリス。今日はこちらのご夫妻が見えられて、我が家へとお招きしたんだ。」
「まぁ、先日お話していたオーナー様の親友でらっしゃる?」
 アリスと呼ばれた女性はそう言うと立ち上がり、レヴィン夫妻へと顔を向けた。
「この様な格好で申し訳ありません。私はネヴィルの妻のアリスと申します。どうぞ気兼ねなさらずに、ゆっくりしていって下さい。」
 そう言うと軽く夫妻へと会釈をし、直ぐ様ネヴィルへと向き直ると、彼にこう言ったのであった。
「私は夕食の買い物に出てきますわ。お部屋は南の客間が今日風通しをしたばかりですから、そちらをお使い頂いて下さいね。」
「ああ、分かった。買い物は一人で大丈夫かい?」
「大丈夫ですわ。それでは、直ぐに行って参りますわね。」
 そう言うとアリスは、そのまま庭の外へと出ていってしまったのであった。アリスのあまりに早い行動に何の返答も出来なかった夫妻は、ただ苦笑いをする他なかった。
「あまりお気遣いなく。私共が急に押し掛けてきたのですから…」
「いえいえ。この街で旅人を持て成すことは、幸を呼ぶとされてるんですよ。遠慮は要りませんから。しかし、我が家には今八人の方が共に暮らしています。少々煩いかも知れませんが、そこは御容赦頂きたい。」
 それを聞き、ヨゼフとエディアは些か驚いた。最初は二~三人程かと思っていたからである。
 しかし、長い旅の最中、煩いことなど大して気にもせずに過ごしてきた夫妻にとって、八人などさして気になる人数ではなかった。
「煩いのには慣れとりますし、野宿に比ぶればどうと言うこともありません。むしろ、少々煩い方が楽しくて良いではありませんか。」
 ヨゼフがそう答えると、エディアも「そうですわ。」と笑いながら相槌を打ったのであった。
 三人は暫く庭で花を眺めながら談笑していると、その庭先に人影を見付けた。夫妻はその人影を見るや、驚いて直ぐ様声を掛けたのであった。
「ワッツ!」
 その人影は、ジーグの馭者をしていた馬車屋のワッツであった。急に声を掛けられたワッツは目を丸くし、レヴィン夫妻を見るや直ぐに駆け寄ってきたのであった。
「レヴィン夫妻ではありませんか!まさかこの様な所でお会いするなんて…!」
「ワッツ君。君は御夫妻と面識があるのかい?」
「はい。オーナー様の馬車へ同乗されておりましたから。」
「そうだったのか。南の部屋は君の部屋の隣だから、紹介する必要は無いようだね。」
 そうネヴィルは言うと、今度はレヴィン夫妻へと振り向いて「ご案内がまだでしたね。」と、ばつが悪そうに言って荷物に手を掛けた。横にいたワッツも一緒に運ぼうと荷物を持ったので、夫妻は慌てて二人へ言ったのであった。
「荷物にまで気を遣って頂かなくとも…。」
「そうですわ。ワッツ君も今はお仕事ではないのですし…。」
 そう夫妻へ言われたネヴィルとワッツは、互いに顔を見合せ微笑し、こう言葉を返したのであった。
「お二方はお客様ですので。」
 二人にこう言われて断るのも些か気が引け、夫妻は苦笑しつつ「では、お願い致します。」と言って、軽快に歩く二人の後ろへと着いていったのであった。

 数時間後のことである。レヴィン夫妻はネヴィルの客人として、晩餐の席へと着いていた。
 テーブルにはこの家の住人が顔を揃えており、恰も小さな宴の様な雰囲気があった。
 だがその様な時、不意に玄関の呼び鈴を鳴らす音が響き、主であるネヴィルが「この様な時刻に誰かな?」と言い、直ぐ様玄関へと行ってその扉を開いたのであった。
 するとそこには、兵士らしき青年が立っており、ネヴィルを大いに驚かせたのであった。
「ネヴィル・リチャード氏の御自宅に間違いありませんか?」
「そうですが…。しかし、この様な時刻に、一体どんなご用件で…?」
 訝しく思ったネヴィルが兵士らしき青年へと尋ねると、その青年は直ぐ様返答を返してきたのであった。
「ここへヨゼフ・レヴィン氏と、その奥方のエディア・レヴィン氏が居られると聞きましたが、間違いありませんか?」
「ええ、確かに我が家へお越しですが…。」
「では、御夫妻にはご同行願いたい。アンドレアス・シュルツ・フォン=プレトリウス様のご命令にて、御夫妻を街長の館へお連れするよう命じられております故。」
 この言葉を聞き、ネヴィルは目を丸くして言った。
「今からですか!?明朝でも宜しいのでは?」
「いえ。直ぐにお連れするようにとの命ですので。」
「そうですか…。では、これから御夫妻へ伝えてきますので、暫しお待ち願いたい。お二方とも食事の最中でして、支度に時間を頂かなくてならぬと思いますので。」
「結構です。では、私は馬車で待っておりますので、出来るだけ早く願います。」
 そう言い終えると、その青年はネヴィルに背を向け馬車へと戻った。ネヴィルは玄関の扉を閉めるや、直ぐ様レヴィン夫妻へとこの事を告げたのであった。
「大公様のご子息が私共を…?」
「ええ。直ぐにとの命で、外へ馬車が待たせてあります…。」
 夫妻はそれを聞くや、早々に席を立って出掛ける支度を始めた。夫妻は支度が済むと、ネヴィルやアリス、そしてワッツやそこへ住まう人々へ挨拶をし、直ぐに馬車へと乗り込んだのであった。
 その時レヴィン夫妻は楽器を持たず、礼装しただけで大公子息の元へと向かった。再びネヴィルの家へ戻ってくると考えたからである。もし大公子息が音楽を所望したとしても、これから行く街長の館に楽器があることは分かっており、故にレヴィン夫妻は礼装したのみで荷物を一切持って行かなかったのであった。

 さして時も掛からず、大公子息が待つ街長の館へと着いた。。
 案内の兵士について広間へ行くと、そこには大公子息と友人のジーグ、そしてもう一人の人物が夫妻を迎えてくれたのであった。
「この様な時刻に呼び出して済まなかった。私がアンドレアス・シュルツ・フォン・プレトリウスだ。ジーグより夫妻は旧知の仲と聞いている。そしてそこへ居る者は、私の従弟にあたるトビー・アーテアス・フォン・プレトリウスだ。」
 アンドレアスがそう言うと、まずトビーがレヴィン夫妻へと口を開いた。
「再びお会い出来て光栄です。」
 夫妻は何と言って良いやら言葉に詰まった。この様な場でルーン公の子息に再開するとは、一体誰に予測出来ようものであろうか。
 しかし、そのトビーの言葉を聞いてアンドレアスは「何だ、面識があったのか。」と、少々がっかりした風に言ったので、トビーは苦笑混じりにアンドレアスへと答えたのであった。
「申し訳ありません。お話している間がありませんでしたので。」
「まぁいい。でだ、夫妻に来て頂いた理由は他でもない。ミヒャエル王子は今、何処へ居るんだ?」
 このアンドレアスの問い掛けに、夫妻は顔を強張らせた。ミヒャエルについて質問されるであろうことは気付いていたが、こうも単刀直入に切り出されては、レヴィン夫妻はどう返したものかと気が気ではなかった。
 今二人の目の前に座すアンドレアスは、いわばミヒャエルにとっては敵なのである。それを察してか、今まで黙していたジーグが夫妻へと話し掛けたのであった。
「ヨゼフ、そう警戒せんでも良い。アンドレアス様は我等の味方だ。今は表立って動くわけには行かないが、決して悪いようにはせんから。」
 ジーグの言葉を聞いて後、レヴィン夫妻は再びアンドレアスへと視線を戻した。アンドレアスは微笑したまま何も語らないが、どうやら真実のようだと二人は感じた。
 尤も、最初から敵対するつもりが無い証として、ルーン公の子息を同席させていたのであろうことは予測していたのであるが。
「アンドレアス様、私共は…」
「アディと呼んでくれ。私はあまり堅苦しいのは苦手でね。実を言えば、もっと早い時期に会いたかったんだが、私がここを動くわけには行かなかったからなぁ。それで、ミヒャエル王子は今何処へ?」
「大変申し上げにくいのですが、私共はツェステにてミヒャエル王子とは別れて行動しておりまして…。王子がどう行動し、現在何処へ居られるかは私共にも分からぬのです。一つだけ分かっていることは、王子はラタンへ向かわれると言ったことのみで…。」
「やはりラタンか…。よし、私は動くことは出来ないが、書簡を用意する。レヴィン夫妻には申し訳ないが、その書簡を十二貴族次期当主達へ届けてほしい。無論、ジーグとトビーも共に向かってもらうがな。」
 そう言われたレヴィン夫妻は首を捻った。何故ならば、わざわざ夫妻を呼び出して言い付けるようなことではなかったからである。目の前に居るジーグとトビーの二人であれば、それは確実に成し遂げられる任務である。夫妻はただの旅楽士であり、何の力も持ち合わせてはいないのであるから。
 アンドレアスは夫妻が訝しがっていることに気付き、再び口を開いた。
「どうも理解しかねるといったようだな。なに、簡単なことだ。この二人では地位が高過ぎて、次期当主達を不審させかねない。そこでミヒャエル王子と面識を持つお二方に書簡を託し、その上でこの二人を同行させたとなれば、さすがに追い立てることもないだろう。それも高名な旅楽士ともなれば、地位や名誉より信用してくれると言うものだ。」
「そういうものでしょうか?」
 アンドレアスの考えに呆れ顔でエディアが言うと、彼は笑いながらエディアへと返した。
「ま、貴族なんてのはそう言うもんだよ。」
 そうして後、アンドレアスはレヴィン夫妻へと音楽を頼んだ。夫妻は喜んでそれに答え、大公子息の前で演奏したと伝えられている。

 さて、夫妻は翌日の昼頃にはネヴィルの家へと戻っていた。アンドレアスからの書簡は暫く届きそうもなかったため、それまでは気楽に待つことにしたのであった。
 故に夫妻はネヴィルとの約束通り、広い家の庭にて小さな演奏会を開こうと、昼休みに帰っていたネヴィルに提案していた。
「夕方までには整えられます。では、仕事先の方々も招いて良いですか?折角の機会ですから。」
「勿論です。この庭であれば、軍隊でなければ大丈夫だと思いますから。まぁ、花が傷まぬ程度にしてください。この美しさを損うのは気が引けますからな。」
「分かってます。そんなことをしてしまうと、アリスに何を言われるやら…。」
 そう言って苦笑いすると、ネヴィルは「私は未だ仕事がありますので。」と言って挨拶すると、宿へと出掛けて行ったのであった。
 夫妻はその後、演奏する楽器の手入れを始めた。最初に手作りの小型リュートの弦の張り替えから入ったが、大半が傷んでいたために全て外してしまったのであった。
「やれやれ…。アンドレアス様から弦を頂けて良かったわい。」
「そうですわね。ヴァイオリンも全て傷んでましたし、そしてヴィオラも。トラヴェルソとブロックフレーテはコルクを換えないと限界みたいですし、これは職人さんへ頼まないと…。」
「そうだなぁ…。この一件が収まったら、一度ナンブルクへ行くか。あそこであればマイスターが居る。」
「以前にオーボエを貸して頂いた方ですわね。」
「そうだ。今あるヴィオラとトラヴェルソは、そのマイスターの工房で作られたものだからな。」
 そう会話をしながら手入れをしていると、ワッツが客人を連れて夫妻のところへとやって来た。手を休めて客人を見た夫妻は、驚いて声を上げそうになった。
「アンドレ…」
「しっ!大声を出すな!」
 夫妻の前に現れたのは、こともあろうにアンドレアスその人であり、その後にはジーグとトビーの姿もあった。三人はいずれも庶民の服装をしており、誰も気付いていない様子であったが、ワッツだけは分かっていた様で苦笑いしていたのであった。
「ですがアンドレアス様…」
「アディで良い。どうせミヒャエルのことはミックと呼んでいたんだろ?」
「はい。しかし何故それを…?」
「ミックともよく城を抜け出して、こうして街へ出ていたからな。今日は少し見てみるつもりが、夫妻が夕べの音楽をすると聞き付けてきてみたのだ。悪かったか?」
「とんでも御座いません。お越し下さり、大変嬉しく思います。ですが…未だ昼を過ぎたばかり。少々早いようですが…。」
「それには理由があってな。お二方、少々手を休めて私についてきてほしい。」
 夫妻はそうアンドレアスに言われ、彼の後についていった。一緒に居るジーグとトビーは微笑んでいるだけであったが、どうやら理由を知っている様であった。
 暫くして広間へと入ると、夫妻はそこへ置かれていた楽器を見て驚かされたのであった。
「チェンバロではないですか!この街にはクラヴィコードしか鍵盤は無かったはず…。」
 夫妻の目の前にあったものは、二段の鍵盤を有する立派なチェンバロであった。
 以前にも語ったが、チェンバロは大変高価な楽器であり、主に貴族か資産家が所有していることが普通である。稀に教会や大きな街の劇場などに置かれていることもあるが、それすらも数える程度しかない。
 無論、ヨゼフもエディアも鍵盤楽は演奏出来るが、大半は教会でオルガンを演奏することであり、こうした二段式鍵盤を有するチェンバロを演奏する機会は滅多に無かったのであった。
「以前はリーテ侯家の宝物庫へ保管されていたのだが、今のリーテ侯家には音楽をする者が絶えてしまったため、先代侯爵が国王へと献上したんだ。それを国王が私に下賜して下さり、現在に至っている。かなり修復され、一部の木材は取り替えられてしまっているが、反響板と周りの絵は製作当時のままだとか。」
「すると…これは旧リューヴェン王家より伝わる…。」
 アンドレアスの話に、ヨゼフもエディアも驚嘆したのであった。
 現在のリーテ地方は以前、小さな王国であった。その小国もラッカがプレトリス王国になった際、その戦の中へと埋没してしまい、現リーテ地方としてプレトリス王国の一部となっている。
 しかし、この地方を治めるリーテ公ハンス・ベネディクト・フォン=リューヴェンは、その小国を治めていた王家の末裔であり、戦当時のプレトリウス王がどのような戦いをし、どのようにして土地を平定したかを偲ばせる。
 現在ある十二貴族の中の五つの家系は、実はプレトリス王国誕生以前から続く家系であり、他は王国誕生後にその五つの家系から分岐したり現王家から分岐したものである。
 しかし、プレトリウス王は何故他の国の王家の血脈を残したのか?それには理由がある。国を大きくしたならば、一人の王が全ての実権を握るのは些か不都合と言える。そのため、プレトリウス王は敗北したその国の王家に家臣として忠誠を誓わせ、出来うる限り代々までの守ってきた土地を統治するようにしたのであった。
 だが、無理をしてまでこの様なことをした真の目的は、自らを監視させるためであったとも言われている。自分が誤った道に踏み込んではいないか、民は安寧に暮らせるよう取り計らっているだろうかと、外側から監視させていたというのである。
 現に、十二貴族の役目はそれとほぼ同じであり、プレトリウス王がどれ程自らの潔白を貫こうとしたかが窺えよう。
 さて、話が逸れてしまったが、ヨゼフもエディアもその美しい楽器を存分に愛でていた。そこへアンドレアスはレヴィン夫妻へと言った。
「夫妻の様な楽士に相応しい楽器だと思い、ここへと運ばせたんだ。今日は是非、これを響かせてほしい。弦も傷んでいたものは全て張り直してある。」
 夫妻はその言葉を聞き、頭を垂れてアンドレアスに言葉返した。
「はい。心を込めて奏させて頂きます。」

 日は山蔭に落ち、周囲に涼風が吹き始めた。
 庭には夫妻の演奏を聞きに来た者達で賑わい、ネヴィルと妻のアリスは持て成しで手一杯の状態であったが、その中で夫妻の演奏は始められた。
 夫妻は開け放たれた広間にて演奏をするようにし、広間には多くの蝋燭が灯されていた。庭へも蝋燭が何本も灯されていて、それは咲き誇る花々や人々らを照らている。
 それは幻想的ともいえ、レヴィン夫妻の奏でる音に調和していた。皆は持て成しを受けることすら忘れ、夫妻の紡ぎ出す響きに酔いしれていたのであった。
「さて、今宵最後は、この美しいチェンバロによるレヴィン家の音楽をお楽しみ頂きたく思います。」
 ヨゼフがそう言うや、人々から大きな拍手が湧き起こった。エディアは後方に下がって椅子へ腰掛け、夫の音へと耳を澄ませたのであった。
 ヨゼフが鍵盤へと指を滑らせると、その音は鮮やかに宙を舞った。それまではヴァイオリンやリュート、トラヴェルソや用意されていたガンバなどによっていたが、そのどれとも違う音色は、一瞬にしてこの場を別世界へと誘ったのであった。
 聴衆はその澄んだ美しい響きに魅せられ、誰の声も聞こえなかった。
 しかしそれを破るかの様に、突然それは中断させられてしまったのであった。
「音楽を止めよ!大公殿下のお越しである!」
 その無粋な声により、ヨゼフは演奏を止めてそちらを見た。すると、そこへは十数名の兵士を伴って、一人の恰幅のよい男が立っていたのであった。そしてずかずかと庭へ踏み入れると、アンドレアスの前に行きその頬を思い切り平手で打ったのであった。
「アンドレアス!貴様ここで何をしておるのだ!この様な下賤の巣窟で、下らん遊びをしている時ではないであろうが!全く嘆かわしい…。さぁ、早々に帰るのだ。男一人の居場所すら突き止められんとは、なんとも呆れた男だ。」
 あまりのことに人々は呆気に取られてしまい、どうしてよいものかと黙ったまま動かなかった。
「父上様、ここは民の憩いの場です。いかな大公である父上様でも、その様な暴言は許されようはずは御座いません。」
「何を生意気な!おい、そこの兵士。この恩知らず捕らえて牢に放り込め!あの楽士共も息子を唆した罪で捕らえ、牢に入れてしまえ!直ぐにだ!」
 人々はこの言葉に恐れおののいてしまったのであった。まさか王都へいるはずのシュテルツ大公が、この様なところへ来るとは誰しも思いもつかぬことであった。
 だが、そのふてぶてしい態度は、そこへ集まった人々を不快にさせるには充分であり、貴族にあるまじき下劣な行為であったとも言えた。故に、反抗した息子と、ただ演奏していただけのレヴィン夫妻とを牢へ入れよとの命令は民衆の心へ強烈な憤りを起こさせ、そして大公へとその怒りをぶつけようと立ち上がらせるに至ったのであった。兵が大公の命令を忠実に遂行しようとしていたからである。
 このままではレヴィン夫妻すら罪人として牢に入れられてしまうかと思うと、ネヴィルだけでなく、集まった全ての者達はその憤りを隠すことなど出来ようはずもなかった。だがそれを止めるかのごとく、レヴィン夫妻はある曲を奏で始めたのであった。
「この曲は…。」
 それはジョージ・レヴィンが弟ケインの死を悼んで書いたモテットからの編曲であり、現在でも葬送の音楽として奏され続けているものであった。その響きに人々の心は落ち着きを取り戻したが、大公だけは逆に、その怒りを最大限にまで上らせていた。シュテルツ大公は、要は音楽嫌いなのである。
「止めぬか!この愚か者共っ!」
 そう怒鳴るや、大公は近くに控えていた兵士の剣を抜き取り、チェンバロを奏するヨゼフへと投げ付けたのであった。
「父上っ!」
 アンドレアスは父を止めようとしたが、両脇から兵士に捕まれていたため、それを見ている他無かった。
 しかし、その剣はヨゼフへは届くことはなく、彼の手前で真っ二つに折れてしまったのであった。
「な…!?」
 その光景を目の当たりにした大公は、一体何が起きたのか理解に苦しんだ。いや、それは大公だけではなく、アンドレアスも、そこへ集まった全ての人々にも理解は出来なかったのである。
 ヨゼフとエディアは演奏に集中しており、周囲のことは気付いていなかった。二人は何事も無かった様に演奏をし続け、それが終わると静かに周囲を見回した。
 すると夫妻の目の前に、不意に二人の青年が姿を現したのであった。その時になって漸く、夫妻は不可思議なことが起こっているということを理解したのであった。
「これは一体…。」
 ヨゼフとエディアは畏れと共に、目の前の青年へと視線を向けた。
 その青年等の顔を見た瞬間、ヨゼフとエディアは椅子から立ち上がり、青年の二人へと平伏そうとしたのであった。
「私達に伏してはいけません!原初の神へと平伏しなさい。」
 その青年の言葉を聞き、ヨゼフは確信を持って彼らの名を呼んだ。
「聖ジョージ、聖ケイン。我が家系の上にあり、音と親愛を守護する者らよ!」
 ヨゼフとエディアには直ぐに分かった。何故ならば、廃墟に描かれていた聖画の二人そのままであったからである。
 人々はヨゼフの言葉を聞き、慌ててその場に膝をついてこの大いなる奇跡を神に感謝し頭を垂れた。だが、一人だけ神に祈ることを拒否した者がいたのである。それはシュテルツ大公であり、彼は二人の聖人を見てこう言ったのであった。
「紛い物のペテン師よ!何が神に平伏せだ。この世に神など居らぬは!一体何奴に雇われてこの様な茶番劇を演じておるのだ?お前達は王国に刃向かいし大罪人だ!逃げられると思うな!」
 ふてぶてしく言い切った大公に、二人の聖人は憐れむような眼差しを送って言った。
「神を信じぬ者、愛無き者、世の禍を招く者よ。逃れられぬは汝の方だ。我ら聖エフィーリアの名にて遣わされた。それは我らが家系の者を祝福し、新たなる言葉を与えよとの命である。それを汚すなど、何人たりとも許されぬ。」
 しかし、その言葉を聞いてもなお、シュテルツ大公は目の前の聖人を罵り、原初の神を冒涜し続けたのであった。
 だが次の瞬間、大公は目を見開いて絶句し、何が自らに起こったさえも分からずに地へと倒れて絶命したのであった。
「父とは言え、原初の神と聖人達を冒涜するなど許されることではありません。父の罪、この私が全て負いましょう。故に、父にはどうか寛大な心持て安らかな眠りを与えて下さい。」
 そう言ったのは、剣を持ったアンドレアスであった。彼はその剣で、延々と神と聖人達を罵り続けていた父を貫いたのである。
 大聖典では、神を冒涜することは永久の命を剥奪されることとして戒められており、聖人達を罵る行為は死後の安らぎを剥奪されるものとして戒められているのである。無論、親殺しは大罪であり、永久の滅びが待っているとされているが、アンドレアスはそれよりも父の安らぎを願ったのであった。
 その彼の言葉を受け、聖ジョージと聖ケインはアンドレアスへと言葉を返した。
「それは原初の神の御決めになること。」
「我らは執り成しの言葉しか与えられない。」
「故に、汝のこれからの行いにて、全ては決められる。」
「故に、汝は善き業持て父と自らの罪を洗い浄めよ。」
 アンドレアスは二人の聖人の言葉に、天に向かって深々と頭を垂れたのであった。

 その後、二人の聖人はヨゼフとエディアに祝福を与え、周囲に集まりし人々に新たなる言葉を紡ぎ始めたのであった。

「人よ、聞きなさい。第一の禍が訪れ、それは速やかに立ち去ります。しかし、その後ろには大きなもう一つの禍が控えているのです。故に、あなた方はその第二の禍のために備えをし、長い月日に耐えうるよう用心しなさい。それは十六月と二十日を数え、この大地と人々とを疲弊させるでしょう。」
「人よ、聞きなさい。この禍の中で新たなる国が興され、その国は大いに栄えるでしょう。その国は神の愛を讃え、再び大地に神の恵みを齎します。しかし、原初の神を畏れぬ者は災いです!その者らは必ず討ち滅ぼされるからです!」

「人よ、聞きなさい。最後まで堪え忍んだ者には、必ず幸福が与えられます。信じて待ち続ける者は神にとって永久の家族であり、聖人の友となるのです。」
「人よ、聞きなさい。それ故に、皆は与えられし律法を守り、新たなる主人に忠誠を誓いなさい。その者は神に選ばれし者故に。」

「その者、新たなる国の上に新しき律法を創らん。」
「先の預言者の言葉の如く、それは成就されん。」
「我らは我が言葉の証とし、聖エフィーリア様より賜りし白薔薇を汝らへ贈ろう。」
「それは新たなる時の証であり、汝らへの愛の証でもある。」

「心せよ!時は速やかに来たらん!」

 そう言い終えた二人の聖人は、眩き光の中へと消え去ってしまったのであった。人々はあまりの眩しさに目を閉じていたが、暫くして目を開くと、そこには見たこともない光景が広がっていたのであった。
「これが…スノー・ローズ…。」
 そこには真っ白な薔薇が一面に咲き誇り、豊かな薫りを発していた。
 アンドレアスはそれを見るや涙を浮かべ、その花弁へとそっと手を触れた。
 それは何処までも優しく、無垢であり、見ていたレヴィン夫妻も、無論周囲の人々や兵士達ですら、原初の神の大いなる御業の前に平伏したのであった。
 だがしかし、大半の者はその花弁にさえ触れることを躊躇った。その白薔薇は、邪な者を退け罰することでも知られており、多く人々は自分の魂に穢れがないと、とても言い切れなかったからであった。
 暫くの間、レヴィン夫妻は神へ感謝の捧げ物として音楽を奏していた。それはまた、聖人として現れた自らの家系に列なる聖ジョージと聖ケインへの想いでもあった。
 その響きの中にあって、兵士達は自らの長の骸を庭から運び出し、哀れと思いネヴィルが用意した麻布に包んで馬車へと乗せた。しかし、兵士達は誰一人捕えることはなく、レヴィン夫妻の奏でる響きに耳を傾け、それが終わるまで動こうとはしなかった。彼等もまた、大いなる奇跡の目撃者なのである。
 そして最後の一音が空へと融け切った時、人々は再び原初の神へ祈りを捧げ、静かに在るべき場所へと四散したのであった。人々も兵士も立ち去った後の庭には、レヴィン夫妻とアンドレアスが残っていた。
「御夫妻、この様なことになり、誠に申し訳無い。実の父とて…いや、実の父故に、権力を振りかざして傲慢溺れるとは…赦し難いことでした。私も同様、今まで傲慢に生きて来たのかも知れません。」
「何を仰りますか。貴方様は神により、これからの時を赦されたのです。この先で人々を艱難から救い、そして善い道へ導くことが貴方様の天命なのです。それは原初の神が御決めになったこと。故に、貴方様が我らに謝罪することなど御座いません。」
 アンドレアスの謝罪の言葉にヨゼフは答えると、手近に咲いていた白き薔薇を一輪手折り、それをアンドレアスへと差し出した。その白き薔薇からは甘く良い薫りが漂い、まるで皆の苦悩を包み消し去ってゆくようであった。
 アンドレアスが畏れと共にそれを受け取ると、傍にいたエディアが彼にこう言ったのであった。
「アディさん。貴方は無闇に苦悩へと縛られてはなりませんわ。この白き薔薇は、邪な心を宿す者を罰すると伝えられていますけど、今の貴方には何も起こりません。ですから、貴方はこれから先を歩んで行けば良いのだと、私はそう思うんですわ。」
 そう言うと、エディアは白薔薇を持ったアンドレアスの手を握って微笑んだのであった。
「御夫妻…。この様な私に、これからも力を貸して頂けますか…。」
「無論です。微力ではありますが、惜しむつもりは御座いません。そして、この白き薔薇は潔白の証であり、神からの賜り物。この一輪だけで、我々の見た奇跡を皆に伝えられましょう。」
 そうヨゼフが言うと、三人はその場にて再度神への深い感謝と祈りを捧げたのであった。

 彼等がアケシュの街を発ったのは、翌日の早朝のことであった。
 アンドレアスは急遽ジーグとトビーに統治代行の権限を与え、自らラタンへと赴くことにした。その道すがら、どうしても会わねばならぬ人物が居たからである。
 馭者は無論ワッツであるが、ジーグ、トビー、そしてワッツの三人はアンドレアスに言われ、先に出立の準備をしていたため、昨日の奇跡を目撃してはいなかった。故に、三人は馬車をネヴィルの家へ運んで来たとき、その目を疑ってしまったのであった。その庭先には、優雅に香る白き薔薇が咲き誇っていたからである。
 三人は直ぐ様アンドレアスに事の経緯を聞くや、その場で膝を折って天を仰ぎ原初の神を讃えたのであった。
 暫くの後、皆は支度を整えて馬車へと乗り込んだ。
「出発致します。」
 馬車の傍らにはジーグとトビー、そしてネヴィルと妻のアリスに、その他多くの人々が見送りに集まっていた。その誰もが、昨夜の奇跡の証言者であり、この国の行く末を憂う者達でもあった。
「アンドレアス様、どうか無事の御帰還を願っております。」
「ジーグ、後は頼んだ。トビー、お前にも重荷を負わせて済まないと思っている。」
 アンドレアスはジーグに言葉を返してのち、隣に立つトビーへと声を掛けた。トビーは少し淋しげな表情でそれに答えたのであった。
「いいえ。この国の大事に、僕だけ父の下で安穏としてるわけには行きませんから。アディ兄上、必ず戻ってきて下さい。」
「トビー…お前にそう呼ばれるのは何年振りか…。分かった。必ず戻ってくる。」
 アンドレアスがそう言い終えると、今度はヨゼフがジーグへと言った。
「ジーグ、お前も十分注意してくれよ。大公が亡くなったと知れれば、ヘルベルト王子は何を仕掛けてくるか分からんからな。」
「分かっとる。そう言うお前も、くれぐれも用心するんだぞ。幸いにも、今は碧桜騎士団の動きが弱っとるようだがな。」
 ジーグがそこまで言うと、エディアが不安げな顔をして言った。
「もし碧桜騎士団が動いたなら、この街の人々は大丈夫なのでしょうか?」
「奥方、心配には及びません。兵士も一隊分の人数は居りますし、いざとなれば神の加護が我らを助けてくれます。」
 心配そうなエディアに、ジーグは庭に咲く白き薔薇を指してそう答えたのであった。
 ワッツは粗方出発の挨拶が終えた頃を見計らい、静かに馬車を出した。
 この先、彼等はラタンにてミヒャエルと再会し、十二貴族次期当主達と共に王都へと向かうのである。
 果たして彼等の向かう先には、一体何が待ち構えているのであろうか?それは誰にも想像すら出来ぬことであった。
 それは数百年来、この国に一度も起こらなかった出来事だからである。故に四人は、押し潰されそうな不安と共にラタンを目指したのであった。

 空は秋の深まりつつあるを知らせるかのように高く、ただ人々の騒ぐ様を悠然と見下ろしているだけであった。



 
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