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SNOW ROSE

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花園の章
  Ⅱ


 ミヒャエル達が襲撃される少し前、旅の音楽家であるレヴィン夫妻はカルツィネ地方から出て、王都のある中央領へと入っていた。とは言え、そこは未だ端にある小さなツェステと言う町であり、二人はそこへ入ったばかりであった。
「やれやれ…。こう暑いと敵わんなぁ。」
「そうですわねぇ…。楽器もこの暑さで歪んでしまって、補修しないとなりませんわねぇ。」
「それじゃそれも兼ねて、今日はこの町で一泊させてもらうか。」
 二人は布で吹き出る汗を拭いながら話したものの、この小さな町に宿屋があるとは考えられなかった。
 そこで二人は、どこか軒先でも借りられないかと思い、手始めに一軒の居酒屋に入って尋ねることにしたのであった。
「申し訳ないのですが、ここの主人は居られますかな?」
 照り付ける陽射しを避けるようにして店内へと入ると、そこへ店員らしき青年が店を掃除していたので、ヨゼフはその青年へと主人の取り次ぎを頼んだのであった。
「旅の方ですね?直ぐに呼んできますので、少しお待ち下さい。」
 よくあることなのか、青年は愛想良く答えるや奥へと入って行った。
 暫くすると、ヨゼフ位の年齢であろう初老の男が青年と共に姿を現したのであった。
 最初、その男は気難しげな顔をしていたのだが、レヴィン夫妻を見るや叫んだのであった。
「ヨゼフ!ヨゼフ・レヴィンじゃないか!」
 その男に言われ、ヨゼフもエディアは目を丸くした。
 名を呼ばれたヨゼフは、暫くは男の顔を見ていた。どこかで会ったことがあるのであるが、それが中々思い出せないのである。
 それを目の前の男が気付いたらしく、苦笑混じりに口を開いたのであった。
「何だ何だ、覚えとらんのか?学生時代、よくユリア教授に叱られとったと言うに。」
「…ジーグか!?ジーグ・フラーツ!」
「今頃思い出したか!旧友の顔を忘れるとは、全くなんて薄情な奴だ!」
 名前を聞いたエディアは、少しして彼のことを思い出した。
 夫ヨゼフの学生時代の思い出話に、よくこの人物の名が出てきていたのである。会うのは初めてであるが、話をよく聞かされていたせいか、不思議と初対面とは感じられなかった。
 このジーグなる人物であるが、ヨゼフとは幼い時分からの仲であり、ヨゼフは音楽を、ジーグは経営学を同じ学校で学んでいたのであった。二人はいつも揃って馬鹿をやっては教授のユリア・ガブリエルに呼び出され、何時間も説教されることがあったのであった。言わば悪友というやつである。
 だが、そのユリア教授も数年前に他界し、ヨゼフは旅先でそれを教授が亡くなってから数ヵ月も後に聞いていたのであった。
 学業を終えてのち、ヨゼフとジーグは半年ほど連れ立って旅をした。互いの両親は未だ健在であったため、最後の自由と言った風にフラリと旅に出たのである。
 この時、国内だけでなく大陸全体を旅したことは、二人にとって大いに役立つことになるのであった。
 旅をして後は仕事が忙しくなり、特にジーグは数件の宿屋の経営を任されたため、とても会うことなど出来る状態ではなく、互いに疎遠となって今に至ってしまったのであった。
「今日はこっちに用があってな。いやぁ、良かった。明日にゃ王都へ帰らなきゃならなかったからな。それにしても、夫婦揃って旅とは…。お前は変わらんなぁ。」
「まぁな。そう言うお前は、大いに成功したと聞いてる。残念だが、宿や店の名を聞いてなかったからなぁ…寄ることもなかったがねぇ。」
「わざわざ訪ねんでも、ほれ、こうやって再会出来たじゃないか。そうだった…宿を探してんだろ?ここへ泊まれや。気兼ねは要らねぇしなぁ。」
「済まんなぁ。」
「何言ってる。奥さんもゆっくりしてって下さいよ?」
「ご親切、ありがとうございます。」
 ヨゼフとエディアは互いにジーグと握手を交わすと、ジーグは夫妻を店の奥へと案内したのであった。
 ジーグを呼んできてくれたあの青年それを見届けるや、再び店内の掃除へと戻っていった。
 ヨゼフはその青年が気にかかり、彼のことをジーグへと尋ねてみた。すると、その青年はジーグの息子だと言う。
「いやぁ、俺には勿体ねぇ出来の良い息子さね。」
「奥様はどちらへ?」
 ふと、エディアは奥方の姿が見えないことを問ってみた。恐らくは王都の本邸へ居るのだとは思ったのだが、その問いに対し、ジーグはその顔に小さな陰りを落として答えた。
「あぁ…妻のカトリーヌは八年前に病で亡くなっちまったんだ。父も従兄弟のハースもその時、同じ流行り病で一緒に逝っちまった。」
 王暦五七一年。その年、この国…いや、この大陸全土でゴドフ病という病が大流行した。
 この病はそれまでには無かったもので、リチェッリから爆発的に広がったとされる。その病を途中で食い止めたのがマーティアス・ゴドフ医師で、この医師が五七三年に治療法を発見したため、ゴドフ病と名付けられたのであった。現在では撲滅され、最早過去の病となっている。
「何も知らぬとは言え、こちらの失言だったな…。」
「そうですわね…。ジーグさん、不躾をお許し下さい。」
 無論、レヴィン夫妻もゴドフ病の大流行は経験しており、その恐ろしさを知っていた。各地では日々人命が失われ、その度に葬送の音楽を奏で続けていたのである。忘れようにも忘れられぬ記憶であった。
「なに、もう昔の話だ。こんな湿っぽい話なんぞしてりゃ、カトリーヌにどやされちまう。さ、先ずは中へ入ってくれや。」
 そう笑顔で言うや、ジーグは夫妻を伴って中へと入って行ったのであった。三人の会話を聞いていたジーグの息子コンラートが、どこか淋しげな笑みを見せていたことには誰も気付かなかった。

「いやはや、こうして再会出来る日が来ようとは!ヨゼフ、一体どれ程旅を続けとるんだ?」
「かれこれ…二十年近くになるな。エディアと一緒になって一年程はキシュの町に住んでいたのだが、そこでは商売にならんかったからなぁ。それで旅楽士になったと言うわけだ。」
「奥方も大変ですなぁ。」
「いいえ。私も元来旅好きな性分ですし、それに音楽を生業と出来るのはとても幸福ですわよ?」
「いや全く、良くできた奥方だ!」
 ここは店の二階にあるジーグの来客専用の部屋だ。急な来客があっても、そこには寝具も常に揃えてあり、宿屋と全く変わらないようになっていた。
 一階の居酒屋からは、多くの客たちが賑やかに騒ぐ音が響いている。
 その上で、三人は酒と食事を囲みながら談笑していたが、ふとエディアがヨゼフへと言った。
「ねぇ、あなた。こんなに親切にして頂いたのだから、お店で音楽でも奏して差し上げましょうよ。」
「それは名案だ!ジーグ、どうだね?」
「そう言うことは大歓迎だ!たまにゃ俺も音楽が聞きてぇからなぁ。よし、早速店へ降りるか。」
 話は直ぐに纏まり、三人は一階の店へと向かった。ヨゼフは手製の小型リュートを、エディアはトラヴェルソをそれぞれ手にして店へと入るや、客たちは直ぐ様二人を拍手で迎え入れたのであった。音楽が始まることを知ったからである。
「皆様、盛り上がっておりますかな?今日は我が旧友と久方ぶりに再会し、その旧友が皆様へと音楽を贈ってくれるそうです!」
 ジーグがそう言うと、客からは盛大な拍手が沸き起こった。
 このツェステも多分に漏れず、あまり娯楽の多い町ではない。そこへ旅楽士が来ているとなれば、誰であっても喜んで音楽を聴きたがるものであった。
 さて、少しの間ヨゼフはリュートの調弦をしたいたのであるが、その間、店内は静かであった。皆は煩くして機嫌を損ねてはならぬと、黙して待っていたのである。それだけ音楽に飢えていたとも言えよう。
 暫くして調弦が済むと、ヨゼフはエディアに合図を送って演奏を始めた。
 ジーグは壁際にあった椅子に腰掛け、その音色に耳を澄ませた。息子のコンラートも同様、彼はカウンター越しにそれを聴いていた。
 夫妻が初めに演奏したのは、この場に相応しい舞曲による組曲であった。アルマンド-クラント-サラバンド-ガヴォット-メヌエット-ブーレから構成されており、作曲者はアレッサンドロ・スカッリと言うリチェッリ出身の作曲家である。この作曲家は他に、十六声のモテットやオラトリオ「白薔薇の乙女」などの宗教音楽知られ、ここプレトリスでも有名であった。
 だが、次に演奏された曲の方が、ここに集まった人々には歓迎されたようであった。レヴィン兄弟の作品である。演奏されたのは二長調の幻想曲と幾つかの小品であったが、そのどれもに人々は惜しみ無い拍手を贈ったのであった。
「いやぁ…これは金に価する名演だ。」
 そう呟いたのは、客として訪れていた王国警備兵の一人ヅィートレイ・キナンであった。
 この人物は三国大戦中、諜報部で活躍した人物であり、無類の音楽好きとしても知られている。だが、彼は楽器を奏することはなく、大戦後に評論家として数冊の書物にその名を残している。
 その中の一冊「古今演奏名鑑」にレヴィン夫妻の記述があり、彼はここで夫妻の演奏をこう讃えている。

- 私はその時、音の中に神の姿を垣間見た。音楽がこれ程までに豊かに広がることは、そう滅多にあるものではなかろう。神が選びし作曲家の作を、神に選ばれし演奏家の手に寄って聴けるのは、人生を通しても一度あればましである。悲しきかな、これ以降、私はレヴィン夫妻のような奏者には出会えなかった。 -

 この日レヴィン夫妻は、結局アンコールを含め計十八曲も演奏し、人々の心を潤わせたのであった。先に語ったヅィートレイの他、大半の客は音楽にも代価を支払ったことは言うまでもなかろう。無論、それはレヴィン夫妻へ支払われるべきであるが、夫妻は受け取ることを断った。
「有難いが、私は商売をしに来たわけじゃないのだ。」
「そうは言うが…これはお前達の演奏にと支払われたもんだ。受け取って貰えねぇと、客に顔向け出来ねぇってもんだろ?」
「だがなぁ…。」
 翌朝、レヴィン夫妻とジーグの間で押し問答が繰り返されていた。
 レヴィン夫妻はただ客に楽しんでもらうために演奏しただけであり、まさか代価が支払われているなど予想していなかったのである。それも、通常よりも多い金額が集まっており、夫妻は困り果ててしまっていた。返そうにも無礼であり、受け取るには気が引けると言う有り様である。
 そこで、この問答を聞いていたコンラートが父へと一つの提案をした。
「なぁ親父。この方達が王都へ向かってたんだったら、親父と一緒の馬車で連れて行けば良いじゃないか。演奏の代価は、その旅費にすることにすれば収まるだろ?親父だったら、早く安く済む道を知ってるから、一石二鳥だと思うけど?」
「そりゃ友人として出来ねぇ相談だ。金なんぞ貰わんでも、俺は連れてくつもりだったからな。」
「親父?それじゃ、この方達が気構えちまうだろ?商売ってのは人の心を構えさせちゃならねぇって、親父の口癖じゃないか。支払っておいた方が、幾分旅を楽しめるってもんだろ?」
 このコンラートの提案を、レヴィン夫妻は大いに歓迎した。
「ジーグ、お前の息子の言う通りだ。この先の旅路を、その金で世話してほしい。なぁ、エディア。」
「ええ。それが一番良いと思いますわね。」
 それを聞いたジーグはやれやれと言った風に苦笑し、「分かった。任されたよ。」と溜め息混じりに言い、レヴィン夫妻はそれをみて笑ったのであった。コンラートは問答の解決を見るや、そそくさと店の掃除に行ったが、どことなく楽しげな風に店を磨いていたのであった。

 その日の午後、この街を出発すべく、ジーグは馬車に荷物を積み込んでいた。無論、レヴィン夫妻の荷物も一緒に積み込んでいたのだが、その中に一つ奇妙なものが混じっていた。昨日再会した時にも気になっていたのであるが、懐かしさが先に立ってしまい聞きそびれたのである。
「ヨゼフ…。そりゃ、剣じゃねぇのか?」
「そうだ。フォルスタの宿の主人からの預かりものでな。とある人に渡してくれと頼まれたんだ。」
「旅楽士にかぁ…?」
 不思議に思うのも無理はあるまい。
 確かに、旅楽士も護身用の武器は携帯しているが、それでもせいぜい短剣くらいで、ここにある目立つような大剣を持つことはない。それ以上に、この様な大型武器は重量があり、旅の荷物にしたくないのが本音と言えよう。
「ジーグ、あまり気にするな。俺もこれについては詳しく知らされておらんから、聞かれても答えようもないのだ。」
「まぁいい。旅の道すがら、その経緯でも聞かせてもらうさ。」
 困った様子のヨゼフにジーグは笑って言うと、その大剣を他の荷物と共に崩れぬよう固定したのであった。
「さて、出発だ。コンラート、店を頼んだぞ?」
「任せとけよ。父さん、そしてレヴィンさん達も、道中お気を付けて。」
 コンラートがそう言って馬車から離れると、馭者のワッツが馬へと合図した。馬車はゆっくりと動き出し、後ろで手を振るコンラートの姿を少しずつ小さくしていったのであった。

 さて、目指す王都へは、馬車でも四日程かかる。道にもよるが、大抵は本道を通らなくては馬車は進めず、彼らもその本道を進むことになっていた。
 現在とは違い、馬車と言えど容易く旅を出来るわけではなく、大半は舗装されていない自然道が普通であり、かなり馬車が揺れるのである。
 勿論、旅なれた彼らが乗り物酔いすることはないのだが、かなり腰へと負担が掛かることは否めなかった。
「いや…参った。ここら辺で休もうや。」
 ツェステを後にして二日程経過しており、彼らは今、休憩がてら小さな村へと立ち寄ったのであった。
 その村はカザと呼ばれ、主要通路上にあるためそこそこの賑わいを見せていた。
 宿泊は中程の町に立ち寄ってはいたものの、休憩で村や町へ立ち寄ることは無かった。先を急いでいたためである。
 しかし、さすがにジーグも馬車で腰が痛くなり、座って食事の摂れる村へと入るようにワッツに言ったのであった。
「四人分頼む。」
 ジーグは早速近くにあった店へと入り、直ぐ様店員へと注文した。そこにはレヴィン夫妻の他に、雇われ馭者のワッツも同行していた。
 普通、馭者は主人と共に食卓を囲むことはない。ワッツにしてもそれは当たり前だったのであるが、ジーグはそれを由とはしなかったのであった。
 このワッツであるが、実はコンラートと親友であり、家が代々馬車屋を営んでいた。ジーグもワッツの両親とは幼馴染みと言うこともあって、ワッツの生まれた時より息子同然に可愛がっていたのである。
 それ故に、ジーグは馬車をいつも馭者をワッツに頼んでいたのであった。一人前になった息子同様、ワッツが一人立ちしたことが嬉しくて仕方ないと言った風であったのである。
 しかし、公私混同を由とはしないワッツは、食事は主人と共にしないのが当たり前であったが、この時はレヴィン夫妻にも誘われたため、無下に断ることも気が引けたために同行したのである。
「その歳で一人前の馭者として働いてるとは、全く大したものですなぁ。」
 運ばれてきた食事を口にしながら、ヨゼフはワッツに話し掛けた。先にも語ったが、ワッツは公私混同をしないため、食事中あまり口を開こうてはしなかった。しかし、このヨゼフの話し掛けに、ワッツは恐縮しながらも静かに口を開いたのであった。
「私の家は代々馭者を生業としております。私も幼い時分より馬に慣れ親しんでおりましたので、馭者となることが自然だったのです。父は厳しかったですが、それは乗って下さる方々の命を預かるが故の、至極当然の厳しさだったと思います。私はそんな父を誇りに思い、私をここまで育ててくれたことに感謝しております。」
 ワッツのこの言葉に、レヴィン夫妻は深い感銘を受けた。そして、ある過ぎ去りし日を思い出していたのであった。それは自分達の子供のことである。
 レヴィン夫妻が旅を始める前、一年程キシュに住んでいたことは語ったが、そこでエディアは身籠ったことがあった。だが不幸にも、その年キシュは大洪水に見舞われ、レヴィン夫妻もその被害にあったのである。
 その時、エディアは暴れる水の流れに飲み込まれてしまい、危うく命を落としかけたのであった。幸いにして命は助かったものの、お腹の子は流産してしまい、それ以降子供の産めぬ体となってしまったのである。
 エディアはその哀しみを癒すべく、夫ヨゼフと共に楽士として旅に出たのであった。名目は先祖の足取りを辿ると言うものになっていたが、エディアの中では、この世に生まれることの叶わなかった我が子への追悼の旅路でもあったのであった。
 旅をする夫婦の大半はそういった経緯のもの多く、ジーグもそれとなくは気付いており、二人に子供のことを聞くことはしなかったのである。
 一行はその後、他愛もない話をしながら食事を終えると、再び馬車へと乗り込んだ。ワッツは馭者のラッパを鳴らし周囲に出発することを知らせ、緩やかに馬車を出したのであった。
 外は陽射しが降り注ぎ、気温はピークに達していた。馭者台にも屋根は付いてはいるが、中よりも陽射しを受けやすいことは否めない。それにも係わらず、ワッツは平然と馭者を勤めあげていた。
「彼は大したものだよ。この暑さで弱音一つ溢さんとは。全く確りしていて、この先の成長が楽しみだ。」
「そうですわねぇ。今度馬車を使う時は、私達も彼を指名したいですわね。」
 暑い馬車の中、レヴィン夫妻はワッツを誉めそやした。すると、前座席に座っていたジーグはにこにこと微笑みながら、夫妻へと言ったのであった。
「そうなのだ。彼はそりゃ働き者で、本当に確りした子だ。それに勤勉でなぁ。両親も昔から知っとるが、とても堅実なやつらだ。故に、俺はこの馬車しか使わんのだよ。」
 まるで自分の身内でも自慢するかの様な口振りに、夫妻は可笑しくなって笑ってしまったのであった。その笑いに、始めは渋い顔をしていたジーグであったが、直ぐに顔を崩し頭を掻きながら一緒になって笑ったのであった。
 暫くは暑さに口を開くことも無くなっていたが、ふとジーグが思い出したかのようにヨゼフに問い掛けた。
「なぁ、ヨゼフ。あの大剣なんだが、一体どんな経緯で預かったんだ?」
 ジーグの問い掛けに、夫妻は少々顔を曇らせた。これを語るには一人の女性の死と、国に関わる事件とを語らねばならない。ジーグが口の堅い人物であることを分かってはいたヨゼフは、最初にジーグへこう言ったのであった。
「これはあまりにも大きな話だ。原初の神に誓って他言無用に願いたい。」
「そんなに大それた話しなのか…?それなら、原初の神と全ての聖人にかけて他言はしない。俺も理由を知れば、お前たちの力になれるやも知れんからな。話してくれるか?」
 揺れる馬車の中、ヨゼフは腕組みをして黙していた。果たして、この事実を語って本当に良いものであろうかと、自問自答を繰り返していたのである。
 仮に、これを知って動いたジーグ等を、ヘルベルトが見逃すだろうか?そう考えると、迂闊に伝えぬ方が良いと言うものであろう。ジーグの身に危険が及べば、息子のコンラートとて危うくなるのは明らかであり、これ以上親しき者を巻き込んではならないと、ヨゼフは悩んでいたのである。
 それを見ていたジーグは、彼の考えを見透かしたように口を開いた。
「ヨゼフ。たとえどんな大事でも、俺はどうとでもしてみせる。それだけの資産もコネもある。仮に、この大陸全ての貴族が相手でも、俺はお前たちを見棄てるつもりはね無ぇよ。言ってくれ。」
 ジーグは真っ直ぐにヨゼフを見据えて言った。それに付け足すかのように、隣に座っていたエディアが口を開いた。
「あなた…。大切な人を守りたいのは、誰でも同じもの。これはもう、私達の手には負えないもの。国の未来のため、一人でも多くの有力者に味方になって頂けるのなら、それに越したことはないでしょう?」
 エディアの言うことは尤もなことである。もし、この大剣が奪われようものなら、この二人では見つけ出すことさえ不可能に近い。それを考えれば、より多くの保険をかけておくに越したことはないのである。
 このプレトリウス王国のみならず、大陸全土に情報網のあるジーグを味方に付けられれば、それこそ百人力と言うものである。
 それから暫くの後、ヨゼフは意を決したように、その重くなっていた口を開いたのであった。
「それでは語るとしよう。ことの始めは、北にあるフォルスタの街に行き着いたところからでだ…。俺達はそこで、偶然にも若い二人連れの旅人と出会った。歴史調査をしているということで、偶然同じ宿に居合わせ俺達を案内してくれた歴史学者のお陰で、若い二人連れとは直ぐに打ち解けることが出来た。話している内に、俺達が有名な廃墟に赴くことを若い二人が知るや、同行を願い出てくれたのだ…。」
 ヨゼフの話に、エディアもジーグも耳を澄ました。まるで出来上がった小説でも読んでいるかのようで、ジーグは半信半疑と言った風であった。
 だが、廃墟に赴く迄の路で出会った神父の名を聞くや、ジーグはその表情を変えたのであった。
「ロレンツォ…だと…?」
 そのジーグの声に、ヨゼフは語りを中断させた。
 神父の名にロレンツォと言うのはあまりいない。それと言うのも、この名前は古宗教の聖人からのものだからである。
「知っているのか?」
 ヨゼフが不思議そうにジーグへと問うと、彼はとある男の話をしたのであった。
「数年前の話だ。俺がカトリーヌの墓所へ出向いていた時、一人の神父が馬車に乗せてほしいと頼みに来たことがあった。行く先が王都だってんで、俺はそこまで乗せてくつもりで了承した。まぁ、途中のシュアの村に知人が居るとかで降りちまったが、その神父の名が確かロレンツォと言っていた。」
「奥方の墓所は、聖コロニアス大聖堂にあるのか?」
「そうだ。カトリーヌの出身がカスタスだからな。やはり故郷で眠らせてやりたかったもんで、大聖堂へ許可を願い出たんだ。すんなり許可は下りたがな。まぁ、その話はいいとして、その神父はな、神託でとある土地へ赴くとも言っていた。」
 ジーグの言葉に、ヨゼフは悲しげな表情を見せて言葉を返した。
「ジーグ…。そのロレンツォ神父は、廃墟で亡くなったのだ。最後の神託を告げると同時に、まるで神の御手に抱かれるようにして…。」
「そうか…亡くなったのか…。」
 その会話の後、ヨゼフはロレンツォの語った神託から入り、廃墟の教会の墓所へ彼を葬ったことを続けて語った。
 その後も続けて話していたが、その最中、ヨゼフは何か不思議な縁というものを感じていた。
 ヨゼフはジーグと、かなり長い間会ってはいなかったが、この二人が同じ人物に出会い、そして短い旅路ではあったが言葉を交わし行動を共にしていたのである。そして、こうやって二人の旧友は再会し、馬車の中でその人物のことを話すなど…偶然と言うよりは、むしろ必然なのかも知れぬとヨゼフは感じていたのであった。これこそ神の御業ではなかろうかと、ヨゼフは心の中で呟いていた。
 そろそろ夕も迫り来る頃、ヨゼフは全ての経緯を語り終えた。外は日も陰りかけ、心地好い涼風が吹き始めていた。
 馬車は相変わらずの早さで走り続けていたが、中では暫く誰も口を開かなかった。そうして後、最初に口を開いたのはジーグであった。
「世には多くの謎があるもんだ。だが…俺はこれ程不思議な話を聞いたこたぁ無ぇ。まるで…雪薔薇の伝承みてぇな話だ。」
「雪薔薇…か。確かに、聖エフィーリアの神託といい、それらが国に深く関係しているといい…まるで伝説が生まれようとしているようだな。だが、世は伝説ではない。神は世を人間に委ねられたのだ。そう容易く奇跡を齎してはくれなかろう。奇跡とは、かくもそういうもの…。」
 ジーグの言葉に、ヨゼフはそう返した。
 だが、ヨゼフが伝説や奇跡を信じていない訳ではない。ただ、簡単に起こり得るものではないと考えているのである。
 人一倍信仰心の厚いヨゼフであっても、世はそれだけで生き抜けるほど容易なものではないことを知っているのである。
 それ故、ヨゼフは敢えて奇跡の到来を否定的に言ったのであった。
「あなた。奇跡とは、願った人々に齎らされる希望でしょ?こちらが願い祈らなくては、神様だってお手上げではなくて?」
 ヨゼフの言葉に、黙していたエディアが口を開いた。そのエディアの考えに、ジーグも笑って賛同した。
「奥方の仰る通りだ。要は、諦めねぇってのが肝心と言うことだな。ヨゼフ、お前が語ったことは誰にも口外なんぞしねぇが、やはりお前達だけじゃ心配だ。王都に着きしだい、専用の馬車を手配してやる。ミヒャエル王子が見つかるまで、存分に俺に頼ってくれよ。」
「だが…。」
 ジーグの言葉に、ヨゼフは少し躊躇った。未だ、この気さくな旧友を巻き込んで良かったのかと、今更ながらに考えていたのである。
「ここまで来て遠慮する方が失礼ってもんだぞ?こりゃ俺達だけじゃねぇ…国に関わることだ。そんなことに寄与出来るのなら、これくらいは安いもんさ。俺はこの国が好きだ。この世界が好きだ。だから守りてぇんだよ。妻も愛した国だかんなぁ。」
 ジーグはそう言って、夕日に染まった空を見ながら笑った。その笑みには、今は亡き妻と懸命に働く息子への深い愛と、そして強い絆とが感じられた。
 ヨゼフはそんなジーグの言葉を受け、彼から力を借りようと決心したのであった。これから先、一体どのようなことが起きるか分からず、誰にも責任など取りようもない状況ではあったが、心なしか三人は、どのような困難でも乗り越えられるように感じていたのであった。

 彼らはこの日トリスの街まで入り、そこで宿泊することになった。
 街へと辿り着いた時は夕も遅く、空には満天の星々が夜空を飾っていた。
 このトリスにもジーグの店があり、ジーグはいつものようにそこへ行くようワッツには話してあった。そのため、わざわざ宿探しをすることもなく、一行は直ぐ様宿へと入ることが出来たのである。
「さすがにトリスには人が多いな。以前は静かな農業地帯だったのだがねぇ…。」
 宿に入ると、ヨゼフがぼそりと呟いた。
 レヴィン夫妻は以前より何度もこの街を訪れていたが、その都度トリスは大きな産業都市へと変貌していったのであった。
 その理由として、トリスが綿を中心とした産業に転換していった成果であったが、それ故に人が仕事を求めてこの地に集まり、麦を中心にしていた時代の静かで閑な風景は喪われていったのであった。
「ヨゼフ…。お前はいつの時代の話をしとるんだ?まぁ、お前の気持ちも解らんではないが、今は貧しさに苦しまずに暮らせとる。それで良いとしようじゃないか。」
「そうだな。以前は喰うに困る者も多かったが、ここ数年はそんな者は居らんようになった。幸せなことだ。」
 そうは言ったものの、ヨゼフはどこか淋しげであり、そんなヨゼフをエディアとジーグは苦笑しながら見たのであった。

 さて、馭者のワッツであるが、彼は馭者専用の部屋へと入っていた。いつでも出発準備が出来るようにと、馭者には馬小屋の隣に専用の部屋が用意されているのである。
 とは言うものの、他の正規の部屋と変わることはなく、食事も風呂も待遇は同じであり、下級の職種にあたる馭者には勿体無いほどであったと言われている。
 今では歴とした職に数えられる馭者であるが、当時の身分は貴族の召し使いよりも低かったのである。
「あ、ワッツじゃないか!また社長の足でこっちに来たのか?」
 ワッツが用意された部屋へと向かっている最中、前から一人の青年が彼へと声を掛けてきた。
 深い金色の髪にコバルトブルーの瞳で、どうみても馭者ではない。その彼を見てワッツが言った。
「トビーじゃないか!こんなところで何やってるんだよ!」
「いやぁ、父上の言い付けで、ここへ届けものをね。本館に行くと、支配人のシュルツさんに接待されそうでねぇ。」
「ま、貴族の子息じゃ仕方無いけどな…。しかし、こんなとこから入らなくとも良いじゃないか。今日はフラーツさんも来ているし、本館へ行けば良いだろ?」
「いや、もう用は済んだんだ。それで帰ろうと思っていた時に、偶然君に会ったってわけだよ。」
 トビーと言われた青年は、そうワッツに言って笑ったのであった。
 このトビーであるが、ルーン公の末子にあたり、正式にはトビー・アーテアス・フォン=プレトリウスと言い、この時は父ルーン公の元で政治や経済、金融などの勉学に励んでいた。
「そうだ、トビー。君は音楽が好きだったよな?」
「ああ、そうだけど。」
「今、フラーツさんと一緒に、フラーツさんの旧友のレヴィン夫妻がいらっしゃってるよ。僕は未だ夫妻の演奏を聴いてはないけど、フラーツさんはとても誉めてらしたよ?」
「それは本当か!?あのレヴィン家の末裔であるヨゼフ氏がいらしてるのか?奥方のエディア氏も、かなりの腕と聞いている…。よし、ワッツ。フラーツ氏のところへ行くぞ!」
「ええ!?僕も行くのか?」
 トビーはワッツの叫びも聞くかず、彼を引きずるように本館へと向かったのであった。
 先にも語ったが、ワッツは公私混同を嫌い、それはトビーとてよく知っていた。だが、そんなワッツを揶揄うのが好きなのもトビーであり、何かに巻き込むことも度々あった。それはいわば悪友であり、在りし日のヨゼフとジーグの姿と重なっていた。

 さて、ヨゼフ達三人は、今は部屋でのんびりと食事をしていた。
 ジーグはこの宿屋だけでなく、各国に店を出している。宿屋と酒屋が中心であり、その全ての店を統括していたのがジーグなのである。そんなジーグがフラリと訪れたものだから、この日宿で働く者達は気が気ではなかったのであった。
「全く、俺が来た位で、そう固くならんでも良かろうに。」
 従業員の働きぶりを観察していたようで、ジーグがそうぼやいた。
「ジーグ、それは些か無理な相談と言うものだ。上司どころか、お前は会社の創設者のようなものだ。お前の目が気にならん者など、ここには居なかろうよ。」
「そうねぇ。ジーグさんに何にか言われようものなら、きっと飛び上がってしまいますわねぇ。」
 ジーグのぼやきに、夫妻はさも他人事みたいに答えた。
「二人とも…揶揄かってるだろ?」
 二人の言葉を聞き、ジーグは半眼になって言った。それを見た夫妻は、さも可笑しそうに笑ったのであった。それにつられ、ジーグも一緒になって笑った。
 その時、扉をノックする音が聞こえたため、ジーグは扉へ向かって「入れ。」と一言だけ言った。用のある従業員だと思ったからである。
 しかし、そこから現れたのは従業員ではなく、代わりに二人の青年が顔を出したのであった。
「ワッツに…トビー君じゃないか!これは珍しいお客人だな。さぁ二人とも、中へ入った入った!」
 ジーグは二人に椅子へ座るように言うと、自身は廊下へと出て従業員を呼んだ。どうやら食事の追加を頼んでいたようである。それが済むと、ジーグは自分の席へと戻たのであった。
「君達、久方ぶりに会って話もあるだろうに、どうしてここへなんぞ来たんだ?」
 ジーグは席へ着くと、若き来客二人へと問ってみたのであった。ジーグはこの二人が親友であることを知っており、その上、滅多に本館へ顔を見せないトビーが自ら出向いて来たことに少々驚いていた。トビーはそれに気付き、ジーグにこう言ったのであった。
「実は、先程ワッツに楽士のレヴィン夫妻が訪れていると聞き、是非お会いしたいと押し掛けました。」
「ま、そんなとこだとは思った。それでは紹介させて頂こうか。こっちが我が旧友のヨゼフであり、そちらが奥方のエディア氏だ。」
 ジーグはそう言って夫妻を紹介すると、トビーは静かに立ち上がって自ら名を名乗ったのであった。
「お初にお目に掛かります。私はルーン公アンドレアスが四男、トビー・アーテアス・フォン=プレトリウスと申します。夫妻の高き名声を聞き及び、常々お会いしたいと思っておりました。」
 トビーのあまりにも紳士的な態度に、夫妻は目を丸くして慌てて言ったのであった。
「そう畏まらないで頂きたい。ルーン公のご子息であれば、我等は下位にあたります。無礼を承知で申し上げるが、下位の者に、そう容易く頭を垂れてはなりません。」
「お言葉を返すようですが、貴族と言えど才覚は別格と言うもの。私は音楽を愛しております故、貴方に頭を垂れるのは私にとっては自然の理なのです。」
 その言葉を聞いた面々は、あまりのことに苦笑せざるを得なかった。
 いかな子息とは言え、貴族は貴族である。それはこの国…いや、この世界が出来てから連綿と続く摂理であり、誰しもそれを違えることは出来ぬのである。それを知りながら、この若き貴族はレヴィン夫妻に頭を垂れることが自然の理と言い切ったのである。
「やれやれ…。私達の出会う貴族様は皆、謙虚なお方ばかりだな。」
「そうですわねぇ。尤も、普通はこの様な場所でお会いすることは無いのですけど…。」
 夫妻の言葉を聞き、トビーの隣に座っていたワッツが、申し訳なさそうに口を開いた。
「誠に申し訳御座いません。私がうっかり口を滑らせたばかりに…」
「ワッツ、君のせいではない。私が自分で来たいと言ったのだ。誰が君を責められようものか!」
 この様な会話が続く最中扉がノックされ、そこから料理が運ばれて来たのであった。
 それはトビーとワッツの前へと置かれたが、それを見るやワッツが言った。
「この様な高価なものは頂けません!」
 あまりの大きな声にジーグのみならず、レヴィン夫妻にトビー、それに料理を運んで来た従業員すら目を丸くし、そして笑ってしまったのであった。
「いやぁ、もう出来ちまってるんだから、食べてもらわにゃ作った料理人や、食材を作ったもんに申し訳ねぇだろう?遠慮なんてもんはいらねぇよ。」
 ジーグは苦笑しながらそうワッツに言った。それを聞くや、エディアもワッツへと言葉を付け足したのであった。
「そうだわ!あなた、折角ですから何か奏しましょうよ。私達は充分頂きましたし、私達がもてなすのは音楽が一番ですもの。」
 エディアのこの提案は、ワッツの口を開かせなかった。すぐにヨゼフがそれに賛同し、夫妻が共に席を立ってしまったからである。
 こうなってしまうと、もう食べない訳にはゆかなくなったワッツは、「それでは…今日だけお言葉に甘えさせて頂きます。」と言ったのであった。
 さて、レヴィン夫妻は互いに楽器を手にし、静かに音を奏で始めた。この時、珍しくエディアがリュートを担当し、ヨゼフはヴァイオリンを奏したのであった。その音色は夫妻ならではと言えるもので、楽器を持ちかえても、なんら遜色は無かった。
 二人の音楽を聴いたトビーは、あまりの美しさに食事を忘れてしまうほどであったという。
「これは…、聞き及んでいた以上だ…。」
 この呟きは誰に届くことも無かったが、皆その言葉に異存は無かったであろう。だが、それは途中で途切れてしまうのであった。ヴァイオリンとリュートの弦が、立て続けに切れてしまったのである。
「これは失礼致しました。連日の暑さに弦も歪んでしまっている故、これ以降は簡単なものでお許し下さい。」
 ヨゼフがそう言うや、今度はヨゼフがリュートを取り、エディアはトラヴェルソに持ちかえたのであった。リュートの弦は二本切れたとしても、演奏者の腕でどうにかなるが、ヴァイオリンは第一線が切れたため、高音域が不足してしまったのであった。そのため、トラヴェルソとリュートの組み合わせにかえたのである。
 この演奏もまた素晴らしいものではあったが、レヴィン夫妻は、何か嫌な感覚に捕われていた。いつもは調弦の際に気付き弦を張り直すか、または別の楽器を選択するのであるが、この時はなんら調子の悪いところは無かったのである。
「いや、お見事です!この様な名演を耳に出来るとは、何と幸福なことでしょうか!」
 夫妻の演奏が終わるや、トビーは立ち上がって拍手を贈りながら言った。ワッツもジーグも惜しみ無い拍手を贈っているが、その中で、ヨゼフは苦笑いしながら言ったのであった。
「楽器もそろそろ修復せねばなりません。お聴き苦しかったとは思いますが、機会があればいずれ再び演奏させて頂きたいと思います。」
 このヨゼフの言葉に、皆は驚かされてしまった。皆はこれでも充分な演奏であり、何が不足しているのか分からなかったのである。
 実は、後半の曲は全て三度下げて演奏されていた。そのため高音域の美しさを出し切ることが出来ず、ヨゼフには充分な演奏とは思えなかったのであった。その理由を聴いたトビーは、改めて夫妻の天賦の才に驚嘆したのであった。
 さて、時の経つのは楽しき時間ほど早いもので、既に時刻は深夜に差し掛かろうとしていた。
「これは長居をしてしまいました。私はこの辺で戻ることに致します。」
「そうだな、トビー君。お父上に宜しく伝えといてくれ。あと、これは品の代価だ。」
「確かに受け取りました。」
 トビーはジーグより代価を納めた袋を受け取ると、レヴィン夫妻へと向き直って言った。
「それではご夫妻。またいつの日にか、演奏を聴けることを楽しみにしております。この先の旅に、白薔薇の幸運がありますように。」
 トビーはそう言うと頭を下げ、ついでジーグへももてなしの礼を述べて部屋を出ていったのであった。ワッツも置いて行かれては大変とばかり、ジーグとレヴィン夫妻へ挨拶し、トビーの後を追ったのであった。
「さてと…俺達も休もうや。この歳になると、しっかり眠らんとやってゆけんからな。」
「あらあら…まだそんな歳じゃないでしょうに。」
 ジーグの言葉に、エディアは笑いながら言った。隣ではヨゼフも笑っていたが、ふとその顔から笑いが消えた。
「本当に…このまま何も無ければ良いのだがなぁ…。ただ、旅をして音を奏で、そして生活しているだけで充分と言うものだがなぁ…。」
 そのヨゼフの言葉に、エディアもジーグも静かになった。
 どういう巡り合わせなのか、伝説の兄弟の名を継ぐ夫妻と国の王子が出会い、そして、その王子へと託された一本の大剣。
 ただ生活をしていた筈の夫妻へと降りかかった運命の悪戯は、一体何を求めているのか?考えても仕方無いこととは思っていたが、それがふとヨゼフの口から零れてしまったのであった。
「ヨゼフ…今日の煩いは今日のものだ。明日の煩いは明日に任せようではないか。今考えたとこで埒が明かんからな。さ、眠るとしよう。」
「そうだな…。それではエディア、我々も眠るとしようか。」
「そうですわね。それではお休みなさい…良い夢を。」
 そうして、三人は床に着いたのであった。外は満天の星空が覆い、中央には少し欠けた月が大地を見下ろしていた。

 翌朝、ワッツは夜明けと共に馬車を走らせた。中の三人は外の景色を眺めながら、先日と何の変わりもない旅を楽しんでいた。
「しかし、少し入っただけでこうも山道になってしまうとは…。」
「ほんとに…。随分と遠くへ見えていたと思いましたのに。早くてお昼近くになるのではと…。」
 彼らは日が昇る前に、あの宿を発っていた。今走っている路は、緑に囲まれた山道である。
「まぁ、ここは狭いからなぁ。ワッツとは何度も通ってっからこの路を行くが、他の馭者じゃ駄目だな。迂濶に来ちまうと、横の谷底へ落ちちまいそうでよ。」
 このジーグの話を聞き、夫妻は顔を蒼冷めさせた。深い木々に囲まれていたため、夫妻は横に谷があることに気付いてなかったのである。
「ジーグ…。向こうから馬車が来るなんてことはあるのか…?」
 蒼い顔をしながらヨゼフが問った。その路は、とても馬車が擦れ違うだけの幅は無いように思えたからである。
 しかし、ジーグは何ともないと言った風に答えたのであった。
「心配するな。幾つも山の脇を削り、擦れ違えるように広くしてある。尤も、街への本道が出来てからは、使うのは俺位になっちまったがな。先の出口は小さな村になっててよ。そっから入ろうなんざ…」
 と、そこでジーグは言葉を切らざるを得なかった。いきない馬車が停止してしまったからである。外からはワッツの叫び声が聞こえていた。
「ワッツ、どうしたんだ!何かあったのか!?」
「ジーグさん、大変です!人が血塗れで倒れています!」
「何だと!?」
 ワッツの言葉に、先に降りたジーグに続き、レヴィン夫妻も外へと飛び出した。
 すると、彼らの目の前には旅人らしき男が二人、血塗れで倒れていたのであった。
 エディアは直ぐ様駆け寄り、二人が生きているかを確認したのであった。
「こちらの方は息があります。あなた、止血剤と布を!」
「分かった!ワッツ君、直ぐにでも出発出来る様にしておいてくれ。ジーグ!出口の村に医師は居るか?」
「居る。腕は確かだ。エディアさん、もう一人の方は?」
 ジーグはヨゼフと会話した後に、振り返り様にエディアに問い掛けた。しかし、もう一人の男の横に座り確認していたエディアは、ジーグの問いに首を横に振ったのであった。
「この方は、もう息がありません…。残念ですが、そちらの方を優先致しましょう。」
「そうか…。では、彼を医師に診せた後、その方を葬る手配をしよう。心苦しいが、一先ずはその樫の下に横たえて、布を被せておくとしよう。」
「そうですわね…。この馬車では。一人運ぶのが精一杯ですもの…。」
 そう言っている間に、ヨゼフは息のある男を止血し、傷口に布をしっかりと巻き付け終わっていた。
 そうして後、四人は慌ただしく仕事を済ませると、亡くなった男を樫の木の下へと運び、上を布で覆った。回りには動物の嫌うハーブの粉を撒き、遺体が荒らされぬ様にすると、直ぐ様馬車に乗り込んで出発したのであった。
 無論、四人は彼らのことなぞ知らない。四人にとって、それは全く関係せぬことであり、助けられる命を助けると言うだけなのである。
 ただ、彼らの傷口は剣によるものであることは、エディアにすら一目で解っていた。そして、それは夫妻が託された剣にも、このプレトリウス王国にも関係があるということも…。
「あなた…助かりますわよね…?」
「エディア…。助けねばならんのだよ…。」
 目の前の男は、傷が熱をもっているためか酷く苦しそうにしている。エディアは彼の額から吹き出る汗を拭い、ヨゼフとジーグは、馬車の揺れから男を守ろうとしっかり押さえていた。
「しっかりしろ!お前は生きるんだ!死んではならんぞ!」
 ジーグの口から出た言葉は、まるで亡き妻への懺悔にも聞こえたと言う。
 五人を乗せた馬車は、ひたすらに山道を駆け抜ける。早く村の医師の元へ行くため、ワッツも出来る限りのことをしていた。揺らさぬ様に焦らず、かといって速度を弱めることなく…。四人は一人の男のために、それぞれの戦いをしているのであった。
 しかし、その馬車の走り去る時、四人の誰一人として気付く者はいなかった。
 樫の木の下へと横たえた男の亡骸の傍に、幼き二人の少年が姿を現したことに…。



 
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