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SNOW ROSE

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間章Ⅳ
  月影にそよぐ風


 北皇暦前、未だ星暦が大陸の主要な暦とされていた時代、一人の若者の上に神託が下った。
 その若者の名はコロニアス。彼に下された神託とは、ケルタスという土地へ赴いて神の天幕を張り、そこで神の言葉を伝えてることであった。一人身のコロニアスは直ちにその神託を実行に移し、家も家財も土地までも売り払って旅に出たのであった。
 数年の旅の末に、彼は神託通りに神の天幕をケルタスの荒れた平野に張り、来るべき未来のために神の言葉を紡ぎ、迷える多くの民に光を与え続けた。それが現在に伝わるコロニアス大聖堂の基盤となった伝説である。
 伝説とは言えど、大聖堂の地下墓所には聖コロニアスの墓も存在し、一般市民でも墓所へ入ることは許されていたのであった。

 さて、ここでは聖コロニアスの伝承ではなく、この大聖堂に関わる一つの物語を語ることになる。
 それは王暦五六十年前後の話であると伝えられているが定かではない。
 物語はカスタスという街の一角、どこにでもある家族の暮らす家から始まる。
 その家族にはレイチェルと言う名の娘がいるが体が弱く、一日の殆んどを家の中で過さねばならなかった。体調の良い時は散歩程度は出来るのだが、病が悪化するにつれ、日の光すらレイチェルの体力を奪うようになっていたためである。
 レイチェルのことは周囲の人々も気に掛けており、毎日のように誰かしらこの家を訪れてはレイチェルに色々な話を聞かせたり、時には菓子や果物などを持って来たりもしていたのであった。
 レイチェルの家族は、父のアンソニーに母のモニカ、そして六歳違いの兄ペーターの四人であるが、親戚もこの街に多く暮らしていた。
 ある日、その親戚の一人で画家あるディビットが、彼の友人を連れてレイチェルのところを訪れた。連れてきた友人とは、久しぶりにこの街を訪れた吟遊詩人の男で、彼は自らが作った小型のリュートを携えてきた。背は高く、美しい金色の髪は長く後ろで束ねられ、端整な顔立ちは優男と言った風情であった。
「君がレイチェルかい?」
 ディビットに促され、その男はレイチェルへと声を掛けた。レイチェルはそんな彼に多少困惑し、躊躇いがちに答えた。
「そうですけど…あなたは誰…?」
「これは失礼しました。私は旅の吟遊詩人で、ティモシー・ランペと申します。」
 男はそう名乗るや、レイチェルへと優雅に頭を下げたのであった。そのティモシーの言葉を聞くや、レイチェルは目を丸くして興奮気味に口を開いた。
「あ…あの、吟遊詩人って音楽家ですよね?私、貴方を呼べる程のお金はありませんわ!」
 なんとも真っ正直な言葉に、ティモシーだけでなく周囲にいた家族やディビット、そして偶然訪れていた近所の人達が皆大いに笑ったのであった。
「いやぁ…ディビットの姪から代価を頂こうとは思ってないよ。それとも、君は音楽が嫌いなのかい?」
 ティモシーは苦笑いしながらレイチェルに問うと、彼女は首を横に振ってそれを否定しながら答えた。
「音楽は大好き!でも…だからと言って無償で聴かせてもらうなんて、ちゃんとお金を払って聴いてる方に失礼でしょ?私は特別なんかじゃないし、お金を支払うのは道理と言うものじゃないかしら?」
 このレイチェルの答えに、さすがのティモシーも面食らってしまった。
 見た目はひ弱な少女そのものであったが、その心は病むどころか快晴の蒼空のようであったからだ。彼はそれに大層驚き、それ以上に喜ばされたのであった。
 長く旅をしていると、人は多くの悪しきものを目の当たりにしてしまうものである。それこそ体は健康だというのに心が蝕まれている者など、この世には掃いて棄てる程いる。
 しかし、この目の前にいる少女はそれをものともせず、自然の理を通そうとしているのであるのだから、ティモシーはその姿に心が洗われたように感じたのであった。
 暫くティモシーは考えていたが、そんな少女に対し一つの提案をしたのであった。
「それでは…貴女は何か歌を知ってますか?」
 彼にそう問われ、レイチェルは少し考えた後に返答した。
「“枯れることを知らぬ花”や“星よ、行くべき路を”なんかは知ってますけど…。」
 レイチェルが答えた題名は、M.レヴィン作のオラトリオ“時の王とエフィーリア”のソプラノのアリアであった。それを聞くと、ティモシーは微笑んでこう言ったのであった。
「では、一曲だけアリアを聴かせて下さい。それが私への報酬ということで。」
 このティモシーの提案に、レイチェルは呆気にとられてしまったのであった。歌は確かに歌えはするが、伴奏するのがティモシーでは意味がないと思ったからである。
 飽くまで聴き手であるならば代価ともなろうが、それでも少量の代価にしかなり得ない。そうレイチェルが言おうと口を開きかけると、ティモシーは人差し指を口にあててそれを制した。そして直ぐ様小型リュートに手を滑らせ、演奏を開始したのであった。
 雑音しかなかった部屋の中に、突如美しい響きが舞った。それはとても澄んだ音色で、通常のリュート独特の低音は無いにせよ、ティモシーの卓越した技巧に皆は感嘆の表情を浮かべた。
 最初に演奏されたのは、M.レヴィンのソナタ第十五番イ長調であった。二楽章しかない小品ではあるものの、第二楽章のアラ・ブレーヴェはかなりの技巧を要求される難曲で知られているが、ティモシーはそれを難なく弾き切ったのであった。
 演奏が終わるや、部屋の中は拍手の嵐となった。無論、レイチェルも弱いながらも精一杯の拍手を彼に贈ったのであった。
「ありがとうございます。それでは、私目が演奏を続けられますよう、レイチェル嬢にアリアを一曲お願い致しましょう。」
 演奏を終えてから直ぐ様、ティモシーはニッコリと微笑みながら言った。そう言われてしまうと、さすがに「嫌です」と断れる雰囲気ではなかった。
 それ以上にレイチェルは、この吟遊詩人の演奏をもっと聴きたくなっていたため、覚悟を決めて返事をしたのであった。
「私の拙い歌で宜しければ。」
 皆がその返答を聞くや、再び拍手が巻き起こった。だが、ティモシーが緩やかに伴奏を奏で始めると、それはすっと止み、部屋は再度音楽で満た足たされた。その中に、小さいながらも力強い歌声が重なり合うように響き出したのであった。
 歌われたのは、先に話したアリア「枯れることを知らぬ花」である。しかし残念なことに、現在この曲が納められたオラトリオ“時の王とエフィーリア”の大半は音楽や歌詞が消失しており、このアリアも例外でなく歌詞が全て失われているのである。よって、ここで歌詞を紹介出来ぬことは実に遺憾である。
 さて、曲が終わりを迎えるや、皆が呆気に取られていたのであった。余りの美しさに、まさかという顔付きで皆がレイチェルに視線を向けていたのである。
 これがレイチェルと吟遊詩人ティモシーが会った時の話であるが、レイチェルはもう一度彼に会うことになる。


 さて、叔父とティモシーの来訪より二週余りの過ぎた。レイチェルはその日、コロニアス大聖堂へと赴いていた。
 無論ながら、大聖堂へはかなりの距離があるため、そこへ行くためには父と兄とに交互におぶってもらわねばならなかったが、そこまでして大聖堂へと赴いたのには理由があった。
 当時、大聖堂では無償で薬を配布したり、また御抱えの医者に診療させたりしていたのである。
 当時も町医者が居るには居たが、まだまだ料金が高く、とても一般市民には受けることが出来なかったのである。それ故、大聖堂には多くの患者が訪れていたのであった。
 レイチェルが赴いたその日は、大司教から直接来るようにとの書簡が届けられていたのである。
 何故レイチェルに書簡が届けられたのか?大司教が一個人を優遇するなど許されぬことであるが、書簡が届けられた理由は二つあった。
 一つに、レイチェルの父であるアンソニーの兄が、この大聖堂で司教として働いていることが挙げられる。レイチェルにとっては伯父にあたる人物であり、以前は子爵の位に就いていたことがあった。
 子爵とは、当時国に貢献した人物に与えられた爵位で、一代のみで終る継承されぬものである。
 彼は医療と食物開発での多大な功績を認められ、国王から直々に土地と金貨五百枚を褒美として受けていた。彼はこれを最大限に利用し、三年で資産を三倍に増やして後、総てを大聖堂へと寄進して司教の路に進んだのである。そのため、彼の願いを大司教が無下に断ることが出来なかったと言われている。
 二つ目は、これは後世で発見された“アーベル書簡”によるものだが、そこへこの物語に触れている文章が見つかっているのである。

- 我は夢で御使いより御告げを聞いた。御使いはとある少女を我に見せ、彼の者は十一の歳を過ぎたれば天へ還る定めなりと言った。我は少女を憐れに思い、どうしても天へ還らねばならぬのかと問うた。世には多くの善き事柄もあり、沢山の喜びもあるゆえ、それらを学んでからでも良いではないのかと。すると御使いは我に、ならば汝の手で助くるべし。しかし時は長く保つことを許すことなからんと言った。 -

 大司教の想いがどこにあったのかは知られていないが、当時若くして亡くなる者なぞ珍しくはなかった。そのため、時の終わりを知れる者に、多くを学ばせたいと大聖堂に医師や薬師を拡充し、民の治療に専念させていたのであった。
 ある日、いつものように大聖堂の見回りに訪れた大司教は、夢で見せられた少女に出会った。聞くと、その伯父がここで司教として働いていると言うではないか。神の命と思った大司教は、直ぐ様その人物を呼び寄せ話したと言われている。
「クラレス伯父様!」
 大聖堂に入るや、レイチェルは目敏く伯父のクラレスを見つけ、彼に声を掛けたのであった。
 レイチェルの声を聞き付けたクラレスは、仕事の手を休めてレイチェルの元へと歩み寄って来たのであった。
「よく来た。体は大丈夫かな?」
「はい。父様と兄様に背負ってもらってきたから、私は平気よ…。」
 レイチェルの背後には、父のアンソニーと兄のペーターの姿があったが、その表情は疲れと言うより寧ろ、レイチェルの体調を心配している風であった。
 そんな二人にクラレスは、近くあった椅子を勧め、その言葉に二人は素直に甘えることにした。
「レイチェルのことは心配ない。暫くここで休むといい。」
「兄さん、レイチェルを頼みます。」
 そう短く話すと、クラレスは直ぐにレイチェルへと視線を変えた。
 クラレスは医学も若い時分より学んでおり、アンソニーはそんな兄を信頼していたのである。まさか司教になるとは思っていなかったようであるが。
「伯父様、今日はどれくらい掛かりますか?」
 レイチェルは、振り返ったクラレスに向かって問い掛けた。来る度に質問攻めに身体検査で、一時間も掛かるのはザラであったのだ。そのため、レイチェルは予め聞いておきたかったのであった。
「診察にはそう時間は掛からないが、薬を作るのに少々手間が掛かるやも知れない。」
 この当時、医学は未だ未発達と言えた。故に、大半の薬は薬草の細やか調合によって分けられ、内容はさして変わるものではなかった。
 だが、レイチェルの薬だけは違っていたのである。彼女の病は今まで見たことの無いもので、クラレスは「雪薔薇病」ではないかと診断していた。そのため、大聖堂の地下にある聖コロニアスの墓所の一角に咲く雪薔薇を薬に調合していたのであった。
 無論、雪薔薇があることは、クラレスとアーベル大司教しか知らない。それを教えたのは他ならぬ大司教だったのである。
「レイチェルの具合はどうかね?」
 レイチェルの診察の後、クラレスが一人で薬の調合をしている時であった。そこへ見回りに来た大司教が入って来たのである。
「これは大司教様。この様な場所へお越しにならずとも、後程お伺い致しますが…。」
 入って来た大司教へ向かい、クラレスは手を休めて礼をとったが、大司教は手でそれを制してクラレスに言った。
「畏まらんでもよい。ここには我等しかおらんでな。して、容体はどうなのじゃ?」
 大司教から問われたクラレスは、その顔に陰りを見せて答えた。
「率直に申し上げ、これ以上体に負担を掛けることは出来ません。レイチェル自身、まだそれと気付いてはおりませんが、暫くすればこの薬とて効果がなくなるでしょう…。」
「では…悪化しておるのじゃな…?」
「…はい…。」
 暫くの間、二人は沈黙していた。レイチェルは未だ十一の子供である。それにも関わらず体は軽く、同世代の子供と比べても頭一つ背も小さかった。
 大司教もクラレスも、そんなレイチェルのことが心配で堪らず、どうにか病を癒す方法を探していた。古文書を紐解いてみたり、他国の医師を招いて尋ねてみたりと四苦八苦していたが、一向に答えを見い出すことは出来なかったのであった。
 クラレスの薬さえやっとのことで作り上げたものであったが、それさえ効果がなくなると言うことは、レイチェルにとっては“死”を意味しているに等しい状況なのである。
「クラレス司教よ…。我等は信仰心が弱いのであろうか…?幼き少女一人助くことさえ出来ぬとは…。」
 弱々しく呟いた大司教の言葉に、クラレスは返す言葉もなかった。自らも同じように感じていたためである。これで希望を持てと言われても、とても持てるものではなかった。
 確かに、雪薔薇はある種の病に効果があることは知られていた。一般に言う「雪薔薇病」がそれである。
 伝承によれば、この病は雪薔薇を煎じて飲むと良いとされていたが、レイチェルには全くその効果がなかったのであった。

- 如何にすべきか…。原初の神はレイチェルに、一体何を求めておられるだ…。 -

 まるで迷路を辿るような精神の問い掛けに、クラレスは深い溜め息を洩らした。
「大司教様。今、我々に出来ることを致しましょう。祈りはもとより、レイチェルに行ってきたことは彼女だけでなく、多くの人々にも役立つものと考えております。ここで諦めるわけには行きませんので…。」
「そうだな…。わしも他教会の古文書を閲覧出来るよう、早々に手配を進めよう。ともすれば、それらに答えがあるやも知れんからの。」
 大司教はそこで話を切り上げ、クラレスに調薬に戻るよう言ってその場を去ったのであった。
 クラレスはそのまま調薬へと戻り、待っているであろうレイチェルを思い、一つ一つ薬を合わせていったのであった。
 しかし、彼らの想いは天へ届くことはなかった。この日より七日後、レイチェルの容体は急変したのである。

 その日、朝からレイチェルの体調は悪かった。目はぼんやりと霞み、体は何かを負っているように重く感じていたのである。
「レイチェル。今日はお薬を飲んだら何もせず、直ぐにお休みなさい。」
 居間の安楽椅子に座っていたレイチェルに、モニカが言った。
「分かった…わ…。」
 レイチェルはそう答えた。だがその時、彼女はこの母の声さえ不快に響いた。それは酷い頭痛のせいであり、あらゆる音がそれをより酷くしていたのである。
 レイチェルはこれはいけないと、直ぐに部屋へと戻るべく椅子を立とうとした刹那、堪えきれずにそのまま床へと倒れ込んでしまったのであった。
「レイチェル!」
 様子を見ながら食事の支度をしていたモニカが叫んで駆け寄り、倒れたレイチェルを抱え起こした。レイチェルの体は驚く程熱く、そのせいで服は汗でべっとりと湿っていたのであった。
 モニカの叫び声に、外で仕事をしていたアンソニーとペーターが直ぐ様駆け付けてきた。
 駆け付けた二人の前には倒れたレイチェルを抱くモニカが見てとれ、ことは急を要することが理解できた。
「ペーター、直ぐに医者を連れてくるんだ!」
 父の言うが早いか、ペーターは直ぐに家を飛び出したのであった。
 その後、アンソニーはレイチェルを寝室へ運び、モニカは湿った服を脱がせて布でレイチェルの体を拭くと、乾いたばかりの服を着せて寝かせた。
 しかし、その間もレイチェルは目を開くことはなく、苦し気な息づかいをしているだけであり、二人はどうしてよいのか途方にくれていたのである。
 暫くすると、ペーターが町医者のミューテルを連れて戻ってきた。一般に未だ町医者の少なかった時代、不本意とは言え、診察を受けて薬を処方してもらうまでにかなりの金額が掛かった。そのため大半の人々は、無償で診察を受けられて薬を貰える大聖堂まで行っていたのである。
 だが、レイチェルの体調が悪化したことにより、そうも言ってられなくなったのであった。
「これは…!」
 レイチェルの寝室に入るなり、ミューテルは直ぐ様換気をして湯を沸かすことを命じた。そこは病人を寝かすには、あまりにも条件が悪かったからである。
 このミューテルという町医者であるが、彼は王都にある私塾を経済基盤とし、医療をほぼ無償で行っていた。このミューテルが来てくれたことは、レイチェルにとっても幸運と言えたであろう。
「先生…レイチェルは…?」
 診察を終えたミューテルに、皆は直ちに問い掛けた。問われたミューテルは眉間に皺を寄せ、暫し考えてから皆に言ったのであった。
「大聖堂のクラレス司教をお呼びしましょう…。私では大した役には立ちません。今の彼女を運ぶのは危険ですので、こちらに赴いて頂くしかありますまい…。」
 皆はミューテルの発言に困惑せざるを得なかった。ミューテルの名声は聞いているが、その彼が自分達の身内であるクラレスを指名するなど、元来有り得ないことだと感じたのであった。それ故、このミューテルの発言に戸惑ったのである。
「クラレスは…私の兄です。ですが、それほどとは…。」
 アンソニーは直接ミューテルへと不安を告げた。ミューテルは直ぐに言葉の意味を察し、アンソニーへ言ったのであった。
「クラレス司教は天才です。私は以前、彼から教えを受けたことがありますが、彼ほどの才ある人を私は出会ったことがありません。」
 ミューテルにそこまで言われた三人は、やっとクラレスの実力を信じたのであった。
 しかし、クラレスは来ることが出来なかった。運悪く、彼は隣のナウムブルク地方にあるヴェヒマル大聖堂へ緊急の呼び出しを受け、二日前よりコロニアス大聖堂を空けていたのであった。
 翌日、その報告を受けたアンソニー等は、目の前が真っ暗になってしまった。これで打つ手なしとなってしまったからである。
「もはやこれまでか…。」
 レイチェルは熱にうなされ、食事すら摂れない状態になっていた。皆は看病のため大して眠っておらず、その顔には疲労が窺えた。
 そのような部屋の中、一人の人物が現れた。それは吟遊詩人のティモシーであった。
「具合は…?」
「ティモシーさん…。来てくれて感謝します。しかし、見ての通り…。もう我々に出来ることはない…。」
 弱々しい声でアンソニーは言った。そんなアンソニーに、ティモシーは静かに告げたのである。
「そんなこともあろうかと、助けを呼んで来たんです。どうぞ、こちらへお越しください。」
 ティモシーがそう言うと、アンソニーだけでなく、皆は不思議に思い入口へと視線を向けた。
 すると、そこからコロニアス大聖堂の大司教アーベルが入ってきたのである。皆は驚いて席を立ち、直ぐ様礼を取ったのであった。
「礼を取る必要はない。そこに居るはミューテルじゃな?レイチェルの具合はどうなっておるのじゃ。」
「はい。彼女は今、大変危険な状態にあります。高熱が続き、そのため食も摂ることが出来ぬ有り様です。このままでは…」
 ミューテルはそこで口ごもってしまった。この先に話すことは、家族にすら話してはいなかったからである。
 この時、兄ペーターはクラレスを呼び戻すべく、馬でナウムブルク地方へと赴いており、この場には居なかった。それが間に合うかは分からないが、ミューテルの診察が正しかった場合、呼び戻すことに最早意味は無いと分かっていた。それ故、ミューテルは口ごもってしまったのである。
「ミューテル、正直に申せ。誰もそなたを咎めはせん。もとより、人の命は原初の神が定めしもの故に、誰がそなたを責められようぞ。」
 大司教のその言葉に、ミューテルは意を決して重い口を開いたのであった。
「もって三日と言えましょう。悪くすれば二日はもちません…。」
「なぜ…?どうしてレイチェルが!?なんであの子が死ななければならないの!?」
ミューテルの言葉に、モニカが半狂乱になって叫んだ。その横で、アンソニーは泣き崩れた妻の肩を抱き、涙を落とす彼女を静かに宥めたのであった。
 アンソニーは、薄々は気付いていたのである。この病は治らぬと…。
 暫くしてモニカの心が落ち着くと、それを見届けたように大司教は言ったのであった。
「そうか…。ではミューテル、これを試してはくれぬか?」
 そう言うと、大司教は懐よりあるものを取り出した。それを見て、ミューテルは驚いてしまったのであった。
「そ…それは…!」
 大司教が手にしたものは、一般には伝説とされていた“雪薔薇”であった。それは摘み取ってからかなりの時を経ている筈であったが、全く枯れる様子はなかった。むしろ、みずみずしさはその場で摘み取ったかのようであり、仄かな香りさえ漂っていたのである。
「これは王都の聖グロリア教会が保管していたものじゃ。」
 そう、これは千年以上前に、聖グロリアの奇跡によって齎された雪薔薇の一輪であった。現在では残ってはいないが、この時代には六輪が存在しており、その一輪を大司教自らが出向いて譲り受けてきたのであった。
 コロニアス大聖堂にも存在していた雪薔薇を、何故に譲り受けねばならなかったのか?それは、雪薔薇がそれぞれに、その性質が異なっていると考えられていたためである。
「ミューテル、これをそなたに渡す。直ぐに薬を調合し、レイチェルへ与えるのじゃ。」
「畏まりました。」
 後方で、このやり取りをティモシーはずっと見守っていた。
 彼はレイチェルの具合が芳しくないと聞いており、自らも何か出来ないかと考え、直接大聖堂へと大司教に会いに行ったのである。
 普通であれば、とても吟遊詩人などに会う筈はないのだが、ティモシーはそれを知りつつ大聖堂へ赴いた。そして、大聖堂へ来る病を患った人々のために音楽を奏で続けたのである。
 それを知った大司教は、音楽を奏していたティモシーに会うことにしたのであった。
 皆、レイチェルのことが気掛かりなのである。家族は元より、周囲に住む人々もまたレイチェルを心配していた。いつしか、レイチェルが元気に外を走る姿を思い描いていたのである。
 さて、ミューテルは渡された白薔薇で、早々に薬を作り始めた。何も食べることが出来ないレイチェルのために、飲みやすい煎じ薬として他の薬草と調合し、それをレイチェルへと与えたのであった。
 意識が朦朧としていたレイチェルは、母モニカの手を借りてそれを飲み干すと、再び深い眠りへと誘われた。だが、先程までとは違い少しずつではあるが、レイチェルの息遣いは落ち着きを見せてきたのである。
「これで一先ずは安心か…。」
 レイチェルの寝顔を見詰め、傍らにいた大司教は呟いた。
 しかし、これは一時的なものでしかなく、再び同じ薬を与えても効かぬことは分かっていた。
 暫くして、大司教はアンソニーとモニカへと歩み寄り、済まなさそうに言ったのであった。
「そなたらには済まぬと思うが、レイチェルをこのまま大聖堂へと移したい。ここでは満足に治療も出来ぬでな。万が一のことでもあれば、わしはクラレスに顔向け出来んしのぅ。」
 大司教の声は静かであった。それはまるで孫を案ずる老人のようであり、また人々を守る御使いのようでもあった。アンソニーもモニカも大司教へと頭を下げ、「お願いします。」とだけ囁くように返答するのが精一杯であった。
「ミューテル、そなたはわしと共に参れ。こちらの診療所は、そなたの弟子達でもどうにかなろう。そなたがクラレスの戻るまで、レイチェルの診療にあたるのじゃ。」
「はい。仰せの通りに…。」
 ミューテルは大司教の命を直ぐ様受領した。そしてレイチェルは、そのまま馬車へと静かに運ばれ、大聖堂へと連れて行かれたのであった。
 同じ頃、ペーターはヴェヒマル大聖堂へと赴いていたクラレスの元に辿り着き、レイチェルの容体を説明していた。それを聞くや、クラレスは直ちにコロニアス大聖堂へと向かったのであった。
 だが、時は容赦なく流れ去り、彼がペーターと共にレイチェルの元へと帰り着いた時には、彼女は既に危篤状態となっていたのである。
「レイチェル…!」
 ここは大聖堂の一室。そこへクラレスは駆け込んで来たが、レイチェルはもはや虫の息で喋れる状態ではかなった。
「大司教様…。」
 レイチェルの傍らには大司教、医師ミューテル、両親のアンソニーとモニカの姿があった。それだけではなく、レイチェルと親しかった周囲の人々も詰め掛け、それと気付いたクラレスは驚いた。
 クラレスは駆け付けたとき気が動転して気付いてはいなかったのだが、多くの人々が集まりレイチェルのために祈っていたのである。
「皆、このレイチェルのことを案じ、大聖堂までやってきたのじゃ。」
 外は星々の瞬く藍の空が広がり、街並みを優しき月明かりが覆っていた。それにも関わらず、誰一人としてその場を動こうとしないのは、一体どのような想いがあるのか…。クラレスには理解し難かった。
 クラレス自身、レイチェルは身内であり愛すべき姪である。しかし、ここに集う大半の人々は、ただレイチェルと親しい、または知っていると言うだけの人々なのである。
 風が静かにそよぎ、窓に掛かるカーテンをゆらゆらと揺らした。その隙間より一つ、月明かりがレイチェルの上へと零れた。
 その刹那…レイチェルの体より淡い輝きが湧き出してきたのであった。
「これは…!」
 皆その様子を見て目を見開いた。それだけでさえ奇跡と言えようが、そこへ新たな輝きと共に人影が現れたのであった。それは美しい女性であり、誰しもがその姿に見覚えがあった。
「聖エフィーリア…!」
 最初にその名を口にしたのは大司教であった。その名を聞くや、唖然としていた人々は皆、エフィーリアへと平伏そうとしたが、エフィーリアはそれを一喝したのであった。
「私に平伏すなかれ!原初の神に平伏しなさい!」
 そう一喝された人々は、直ぐ様エフィーリアを遣わした原初の神へと祈りを捧げたのであった。
 そうして後、エフィーリアは静かにレイチェルの前に立ち、その場に居た全ての者に対して言葉を紡いだのである。
「人よ、聞きなさい。汝等は何故に絵や彫刻を拝むのだ。その愚かな行為を神は怒り、故に神は選びし一人を乙女として御元に召されることとした。その者の純粋さを汝等のための贄とされた。
 人よ、聞きなさい。汝等は原初の神を敬っているのではなく、自らの手で生み出せし物を敬っている。そのようなものに何の価値があるのか。神は汝等に芸術の業を与えられた。しかし、それは祈る対象を造らせるためでなく、汝等の精神・心を育むため、癒すため、喜ばせるために与え給うたものである。
 人よ、聞きなさい。この先、最期の預言者現れん。その者、唯一なる言葉を告げん。その言葉を切に守りなさい。それは汝等に神が与えし最期の言葉なり。
 心せよ!目覚めて祈れ!汝等の浅はかな考えなど、原初の神に遠く及ばぬことを知れ!この嘆きを刻み込め!それ創られし者等全ての代償なり!」
 それは雷のような声であった。
 その後、エフィーリアの背後には様々な聖人達の姿が見えたと言われる。その中には音楽と親愛を守護するレヴィン兄弟や聖なる乙女として伝えられるシュカ、国や民を知識と力で守護するとされるマルスや癒しと献身を司るグロリアなどの姿があったと伝えられている。
 皆はあまりのことに恐れおののき、それを直視出来た者は居なかった。しかし、ただ一人それを見据えていた者がいた。
 それはクラレスである。彼は聖人達と聖エフィーリアを恐怖に打ち勝って見据え、レイチェルがその中へと歩み行く様を見届けていたのであった。
「逝くのか…レイチェル…。」
 それは、もはや恐怖とは違っていた。聖人達は皆レイチェルを労るような目をしており、ある聖人はレイチェルに新しき衣さえ纏わせていたのである。
「クラレス伯父様。今までのこと感謝します。私は原初の神の御前に進み出で、総べての人々が平安に暮らせるよう祈ります。伯父様…父様や母様、兄様に伝えて下さい。ずっと愛しておりますと…。そして、ここに来てくれた沢山の方々に…ありがとうと…。」
 クラレスの心にレイチェルの声が響いた。それは刹那の幻だったのかも知れない。今、この場に聖エフィーリアが姿を顕し言葉を紡いだことさえ、人の身の現実よりあまりにも遠くかけ離れたこと。クラレスはそう心の中で思ったのであった。
 しかし、そう感ずるクラレスの心に、エフィーリアは直接語りかけた。

-クラレスよ、恐るるなかれ。原初の神は、如何なる時も汝と共にあり。さぁ、これより先の者等に伝えよ。自らに善き行いを他の者に施せと。与える者は幸いなり!そは原初の神に喜びを与えん者なれ!奪いし者は禍なれ!そは原初の神の怒りを受くる者なれ!-

 そう聞こえたかと思うや、エフィーリアも聖人達も、淡い霧の如く消え去ってしまったのであった。
 それは紛れもない現実であり、告げられた言葉は真実であった。故に、クラレスの心は喜びで満たされ、また、畏れを抱き祈るのであった。それはまた、周囲に集まりし人々も然りであり、皆一瞬の出来事に狼狽していたのであった。
 だがしかし、モニカは我が子レイチェルが既に冷たく横たわるを知り、骸と成り果てた我が子を抱き嗚咽を洩らしていた。
「あぁ!何故に私の娘を!何故にレイチェルなのでしょうか!」
 その答えは誰にも出せぬものであろう。エフィーリアはそれを答えていってはくれなかった。恰かも、それは人間が考えねばならぬことだと言っているようである。
 窓の外には人々の心など知らぬかの如く、夜空に浮かぶ大きな月が大地を照らし続けていた。
 それもまた、偉大なりし原初の神が創り給うたものであり、人々を愛して止まぬ神の御心の現れなのかも知れない。
 その月影にそよぐ風は、レイチェルへの名残を惜しむかのように、人知れず静かに吹き去っていったのであった。


 この物語は、ここまでで途切れている。
 一説によると、この物語はこの先で別の話へと移行すると考えられている。その理由として挙げられているのが<聖文書大典>の“リーテ伝”である。
“リーテ伝”は以前にも触れたが、時の王リグレットに関する記述が中心となっているものである。その中に同一の物語の記述があるのであるが、地名や人名など大半が違っており、偶然ではないかとの意見もある。しかし、果たしてそうであろうか?
 聖エフィーリアを中核とする“ヴァース伝”にこの話は入れられてはいない。かなりの部分に不明確さが認められ、特に、エフィーリアが偶像崇拝を窘める場面には違和感があるではと、現代の宗教学者達の間では論議され続けている。
 この物語には、一体どのような意味があるのであろうか?その答えは、未だ見い出されていないのが現状であるが、私にはこうも思えるのである。
 それは、人の傲慢さというものは、自らでは分からぬものだとの戒めなのかも知れぬと。
 いや、これもまた私見に過ぎず、何の価値も持たぬであろう。我等も所詮は月影にそよぎ逝く風であり、時の波間を漂う木の葉に過ぎぬのだから。



  「月影にそよぐ風」
         完



 
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