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大淀パソコンスクール

作者:おかぴ1129
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責任とります
  深夜1

 川内の家は、新築のワンルームアパートの二階だった。階段はガラス張りで明るく、玄関のドアも綺麗だ。

「せんだーい」
「ん……」
「カギ」
「……んー」

 意識が朦朧としてるのか、川内は俺が持ってる自分のバッグにゆっくりと手を突っ込み、中からカードキー取り出して、それをドアのカード挿入口に力なく突っ込んだ。途端にピピッと電子音が鳴り、ガチャリと音が鳴り響く。そのまま川内はドアノブを回し、そのままドアを開けてくれた。

「失礼しまーす……」
「いらっ……しゃ……」

 部屋に入ると、すぐに台所がある。それを素通りし、八畳ほどのフローリングの居間に入った俺は、川内をベッドにおろして、部屋を見回した。

「……案外質素だ」

 思った以上に素っ気ない室内だ。小さいテレビが壁際に一つ。その反対側の壁際にベッドが置いてあって、小さなテーブルが部屋の中央にポツンと置いてあった。

 ベッドの上に降ろされた川内は、そのままぐったりとベッドに倒れこむ。よほど辛かったようで、横になった川内はうつろな眼差しのまま、ピクリとも動かなくなった。やはりおんぶじゃなくて、タクシー呼べばよかったのかもしれない。俺が付いてれば別にいいかと思って結局呼ばなかったのだが、今更になって少し後悔した。

 俺は気を取り直して台所に入り、冷蔵庫を開けた。中には……食材が色々と入ってる。この前の鍋焼きうどんの時に気付いていたが、やはりこいつは、常日頃から料理をやっている。この、充実した冷蔵庫の中身が、それを物語っていた。

 ……とはいえ、やはり一度買い出しに出たいところだ。ポカリとか色々あれば便利なものもあるし。それに、俺も一度自分の家に戻っておきたい。学習用のパソコンを持ち込んでおきたいし。

「なぁ川内」
「……ハァ……ハァ……」

 俺は一度川内の元に戻る。辛そうに浅い呼吸を繰り返す川内の身体に、俺の声に対する反応はなかった。

「俺、ちょっと色々買い物してくるから」
「ハァ……ハァ……やだっ」
「やだじゃない。お前、腹は?」
「何も……食べたくない……」
「……わかった。俺が買い出しに出てる内に、お前は寝巻きに着替えてベッドに入ってろ」
「着替えさせてよ……」
「アホ」

 川内の頭をペシンとひっぱたき、俺は川内を残して部屋を出る。

「あ、カギ……げんか……」
「はいよ」
「早く……かえ……」
「了解だ」

 玄関のカードキーを手に取り、靴を履いて外に出た。ドアが閉じ、ガチャリとカギが閉まる。オートロックなことに驚きつつ、俺は念の為ドアノブを回してみた。カギはしっかりかかった。よし大丈夫。

――う……

 不意に、自分が風邪にかかった時のことを思い出した。あの時、買い出しに出る川内の手を掴んで、制止しちゃったんだっけ。そのあと、一人になった部屋の中って、妙に静かで寂しくて……

―― ハァ……ハァ……やだっ

 ……出かけ間際の川内のあのワガママは、あの時の俺みたいな、一緒にいる奴がいなくなることへの不安に対する、川内なりの抵抗だったのかもしれない。もし、今のあいつの精神状態が、あの時の俺と同じなのだとしたら、あいつは意味不明な寂しさに打ちひしがれてるはずだ。

「……さっさと戻るか」

 できるだけ早く戻ることを心に違い、俺は足早にその場を離れた。コートを川内に貸したまま忘れていたことに気付いたのは、一度家に戻った後、コンビニでポカリを物色していた時の事だった。

……

…………

………………

「ただいまー」

 自分の家ではないのに『ただいま』と挨拶することに違和感を覚えながら、俺はドアを閉じ、カードキーを玄関の下駄箱の上に置いた。肩からかけたバッグには教室から借り受けた学習用のパソコンが入っていて、その重みが俺の身体をふらつかせる。右手には、今しがたコンビニで買ったポカリが入っていた。

「おか……え……」

 ベッドの上の、ちょっと盛り上がった布団が、もこもこと動いているのが俺からもよく見えた。俺は返事をすることなく、台所に行ってポカリを冷蔵庫の中に入れた。

 その後居間に入り、肩にかけたバッグを置いて、ベッドに歩みよる。布団の中の川内は、辛そうに顔をしかめていた。

「ハッ……ハッ……」
「寒いか?」
「んー……ちょっと……でもだいじょぶ」

 辛そうな川内だが、顔色そのものはさっきよりもよくなってきている。多少寒さが改善されたか……? ベッドの上を見ると、川内の足元の布団に、俺のコートがかけてあった。

「布団が汚れるぞ」
「だって寒いし……」
「ちょっと熱計るか。体温計どこだ?」
「えっと……クローゼットの中の救急箱……」
「クローゼット……」

 居間の中をぐるりと見渡し、クローゼットの扉を開けた。救急箱は……あった。開くと、片隅に綿棒やピンセットに混じって、この前俺が使った体温計がある。それを手に取り、救急箱を戻して川内の元に戻った。

「ほら。自分の脇にはさめ」
「せんせ……ハッ……ハッ……」
「ん?」
「……入れて」
「バカタレ」

 アホなことを……俺は川内の胸元に体温計を置いた。川内はもそもそと動き始め、布団から右手を出して体温計を取り、そのまままた右手をひっこめる。布団の中でもぞもぞ動いているから、今まさに自分の服の中に手を入れて、脇に体温計を挟んでいるようだ。

「ちょっとごめんな」
「ん……」

 一生懸命に体温計を脇に挟む川内の、額に手を置いてみた。熱い……まだ上がりきってないのか。教室にいたときよりも熱くなってる気がする。

「やっぱまだ上がりきってないな……」
「ハッ……ハッ……せんせ」
「ん?」
「ちょっと……こうしてて」

 そういや俺が倒れた時も、こいつが顔に触れてくれてる間は妙に安心したっけなぁ……。

「ちょっとだけだぞー」
「はーい……」

 川内の表情が、少し和らいだ気がした。

「……すごくホッする」
「そか」
「だからせんせ」
「ん?」
「両手でほっぺた挟んで」

 ……コノヤロウ。ワガママになってきやがった。おだやかな顔して、年頃の女の子にあるまじきことを口走り始めてやがる。

「何ワガママ言ってるんだっ」
「やってよー」
「断るっ」
「私はやってあげたのにー……」

 そう言って口を尖らせ、ちゅーちゅー言い出した川内は、布団の中からもそもそと両手をだし、自分の額に触れている俺の右手を捕まえて、手のひらを自分のほっぺたに合わせた。

「んー……」

 その途端、少しだけ微笑む川内。

「アホ……」
「せんせ。そっちも」
「ん?」
「左手。そっちも」

 今度は俺の左手を右手で捕まえて、力なく引っ張ってくる。病人相手に抵抗出来ない俺は、そのまま川内の為すがままにされてしまい、両手で川内のほっぺたを挟んでしまった。

「んー……」
「なんつーワガママを……」
「いいじゃん……んー……ホッとする」

 ……まぁなぁ。俺も実際、川内にほっぺた触られて、妙に安心したしなぁ。

 そのまま少しずつ、川内の手から力が更に抜けてきた。両目がかろうじて開いているが、その目はもう、眠気を我慢している赤ちゃんのようにしか見えなかった。

「せんせ……」
「んー?」
「あり……が……」

 やがて室内に聞こえ始めたのは、スースーという、気持ちよさそうな川内の寝息だけ。どうやらワガママな夜戦バカは、夢の世界に入ってしまったようだ。川内のほっぺたから、そっと手を離す。文句が何もないところを見ると、完全に落ちてしまったらしい。

 いまのうちに晩飯を食べておくかと思い、コンビニで自分の飯を買ってくるのを忘れたことに気付いた。川内にはおかゆか何かでも作ろうかと思っていたが、自分の分を忘れてしまっていた……

「……しゃーない。冷蔵庫のものを適当に……」

 台所に向かい、改めて冷蔵庫の中を覗く。中には……色々と食材がある。卵に梅干し……お粥の付け合せに出来そうなものも常備されてるな。

 続いて冷凍庫を開ける。中には手のひら大の大きさの、おにぎりにした冷凍ご飯が二つある。一つはおかゆにして、もうひとつは俺がいただこうか。すまんな川内。でも俺も、腹が減ったんだ。……ちょっと待て。

「冷凍うどんがあるな……」

 台所を見回す。土鍋は……ない。鍋焼きうどんでも作ろうかと思ったけれど……その前に、あの鍋焼きうどんは、おれには再現出来ないか……。

――♪〜……♪〜……

 それに、あの鍋焼きうどんは、なんとなくだが、俺が作ってはいけないような……なんだろうな。あの、とても楽しそうにキッチンに立つ川内の姿を見てから、『鍋焼きうどんといえば川内』という感じの妙な方程式が、俺の中で組み立てられつつあるようだ。

 とりあえず川内はお粥でいいだろう。台所の戸棚を開き、よく手入れされた雪平鍋に水を注いだ。それを火にかけ、沸騰するまで待つ。その間に玉子焼きでも作っとくかね。

「川内すまん。俺の分も一緒に焼いちゃうぞ」

 卵二つを溶いて、目に付いた顆粒だしをちょいと入れておく。川内の好みは甘いのとしょっぱいの、どっちだ……という疑問が一瞬浮かんだが、約二秒後に『どっちでもええわ』という投げやりな回答で上書きされた。甘いのが好きだろうがしょっぱいのが好きだろうが、俺に看病を任せたアイツが悪いってもんだ。

 玉子を溶き終わった頃合いで、鍋の湯が沸騰した。おかゆなんて、とりあえず沸騰した湯にご飯ぶちこんどけばいいだろうと思い、冷凍ご飯をそのままぶち込む。

「♪〜……♪〜……」

 あの日、あいつが歌っていた鼻歌が、口をついて出た。こうやって鼻歌を口ずさんでいると、なぜかあいつの姿を思い出す。上機嫌な夜戦バカの姿が、俺にはかなり印象に残ったようだ。

「♪〜……♪〜……卵焼き機は……」

 再び台所の戸棚を開く。卵焼き機は……あった。それをコンロの上に乗せ、火にかけ、油をひいた。余計な油はキッチンペーパーで拭き取り、だし巻き卵を焼いていく。

「♪〜……♪〜……あ」

 少しぐちゃった……まぁいいか。出来上がった少々不格好なだし巻き卵をまな板の上に乗せ、包丁で6切れに切る。あとはこのまま冷めるまでおいておこう。

 鍋を見る。鍋の中はグツグツと煮立っていて、すでにおかゆが出来上がりつつあった。とりあえず火を止め、味を見てみる。

「……ん。問題はなさそうだ」

 うん。まぁ、お湯にご飯突っ込んだだけだからな。失敗しようがないし。とりあえず、作れるものはこれで全部だ。あのアホなら、この冷蔵庫の中のものを使って色々なものを作れるのだろうが……俺もきちんと自炊して、常日頃クッキングに慣れ親しんでおけばよかったなぁ、と軽い後悔の念を抱いた。2秒後に消えたけど。

「……ハラ減ったな」

 あとは自分のご飯の準備だ。

「せんだい。ご飯もらうぞ」

 改めて川内に許しを請うてみるが、奴は今、深い深い夢の中。返事が帰ってくるはずもない。とりあえずもうひとつの冷凍ご飯を、ラップにくるまれたままお茶碗に乗せ、電子レンジの中に置いて、レンジを作動させた。途端にレンジが『ぶおーん』と気合を入れ始め、中のご飯がフィギュアスケートよろしく回転しはじめる。

「んー……」

 順調に電子レンジで温められているご飯を確認したところで、改めて冷蔵庫の中を見る。梅干しを取りつつ、他に何かおかずになりそうなものがないか探すのだが……やはり中にあるのは食材ばかりで、一手間かけないとおかずにならないものばかりだ。

「……?」

 フと、理科の授業で使ったビーカーみたいな容器が目に付いた。密閉できる蓋がついていて、洋画とかで、田舎のおばあちゃんがジャム作るときに使うようなガラス瓶だ。

「んー?」

 妙な好奇心にかられ、そのガラス瓶を引っ張りだした。中に入ってるのはあずきと、一本の鷹の爪。

「なんだこいつ。あずきなんか料理に使うのか」

 やっぱこいつ、料理をよくやるやつだ。あずきなんて、『趣味は料理です!!』て宣言するやつぐらいしか使わないイメージがある。大抵の人は出来合いのあんこ買ってくるだろうし。

 『チーン!』という小気味良いレンジの音が鳴った。俺はあずきを冷蔵庫の中に戻し、レンジの蓋を開けて、あつあつのお茶碗を手に取った。予想以上にお茶碗は熱く、思わず手を離しそうになる。

「♪〜……♪〜……」

 妙な鼻歌が止まらない。なんでだ。

 おかゆの火を止め、俺はとりあえず、ご飯と玉子焼きを食べた。うん。我ながら上出来。自分で作ったからか?

「せん……せ……」

 居間で眠っていたはずの、川内の声が聞こえた。レンジの音で起こしてしまったか……。口の中で咀嚼していたご飯を慌てて飲み込み、川内の元に向かう。少し眠ったせいか、帰宅したときと比べて、けっこう血色が良くなってきた。

「すまん。起こしちゃったか?」
「んーん……いい。冷凍庫のご飯、食べた?」
「すまん。断りなく、もらった」
「いい」
「あと、腹はどうだ? お粥作ったけど」
「作ってくれたの?」
「期待はするな。おかゆと玉子焼きだけだ」
「……食べるっ!」
「そ、そうか……」

 『食べる』の言葉に、妙に気合が入っていたような……まいっか。一度台所に戻り、目に付いたお盆にお茶碗と、玉子焼きが乗ったさらとスプーンと箸、そして鍋敷きを乗せる。

「♪〜……♪〜……」

 くっそ……台所で立ってると、あの妙ちくりんな鼻歌をついつい口ずさんでしまう……あのアホの鼻歌を聞いたせいだ……。

「……」
「♪〜……♪〜……!?」
「……」

 上半身を起こした川内と目が合った……見られた……聞かれた……俺の鼻歌、聞かれた……

「……」
「……」
「……ぷっ」
「笑うなァァアアアア!!」

 川内のお粥を乗せたお盆の隙間に、俺の分のご飯と玉子焼き、そして梅干しが入ったタッパーを乗せる。そのまま居間に持って行き、俺の分はテーブルに置いて、おかゆが乗ったお盆はそのまま、川内に渡した。

「ありがと」
「どういたしまして」
「もっと色々使ってよかったのに」
「だから、俺の料理スキルに期待するなっ」
「あれ……お玉は?」
「……あ」

 そういえば、お粥をすくうお玉を持ってこなかった……一言川内に断りを入れて、俺は一度台所に戻り、そしてお玉を川内に献上した。

「……あ、そうだ」
「ん?」

 俺が取ってきたおたまを川内のお盆に載せたのと同時に、何かを思い出したらしく、川内がハッとしてつぶやいた。

「えっとさ。体温計、せんせーが台所で鼻歌歌ってる時に鳴ったんだ」
「報告はうれしいけど鼻歌は忘れろ。……んで? 何度だった?」
「まだ見てない」
「見ろよ」
「とって」
「とれよ」
「私だってせんせーの体温計取ったんだから、せんせーも私の取ってよ」

 ……いいよ? わがまま言ってくるのは慣れたよ? でもさ。さすがにそりゃあきませんぜ川内さん? 女の子が男の服の中に手を突っ込むってのも中々だが、女の子の服の中に男が手を突っ込むってのは、ある意味では事案発生ですぜ?

 台所でお玉を見つけた俺は、無表情のまま、目がトロンとしてる川内のそばまで戻った。そして……

「バカタレ」
「ひやっ」

 とりあえず川内の頭をはたく。

「自分でとれ」
「ひどっ……」

 俺に頭を横殴りにはたかれた川内は、口をとんがらせて自分の服の中に手を入れ、もそもそと動かしたあと、体温計を取り出して俺に渡した。40度……これはなかなかにハードな体温だな……。その体温計を川内に見せたが、反応は薄い。少し元気が戻っているが、やはりまだ意識が朦朧としているのだろうか。目がトロンってしてるし。

「やっぱ高いな。それ食ったらまた眠れ」
「うん。そうする」

 意外と素直に俺の言うことを聞いた川内。俺はお玉を使って川内のお茶碗にお粥をついでやる。おかゆはまだまだアツアツで、途端に川内の周囲が湯気で包まれた。

「……熱そうだー」
「だなぁ。舌を火傷するなよ」
「ふーふーして」
「アホ」

 川内のワガママジャブをうまく交わし、俺はテーブルの前に腰掛け、自分の晩飯を食べる。テーブルとベッドの間に腰掛けてるから、ちょうど川内に背中を向けてる感じだ。

「いただきます……」

 静かな川内のいただきますが、俺の背後から聞こえた。ふーふーという静かな吐息と、かちゃかちゃというお皿の音が心地いい。

「……せんせー。美味しい」
「そっか」
「ありがと。玉子焼きも美味し」
「甘いのとしょっぱいのとどっちがいいか迷ったんだけどな。ええわい作っちゃえって思って」
「うん。だし巻きでいい」
「よかった」
「うん」

 二人で食べる、静かな夕食。もし今日、川内が体調を崩さなくて、二人でどこかに飯を食いに行っていたら……

『カシワギせんせー!! この後の夜戦で何使うの!?』
『だから夜戦はしないって言っただろッ!!』
『照明弾使われたらやっかいだなー……私、実力が出せなくなる……』
『離れろ! まず夜戦から離れろッ!!』
『あでも!! 先制爆雷おにぎりで照明弾使われる前に撃沈させれば……!!!』
『食べ物で人を攻撃するな爆殺するなミンチにするなッ!!!』
『いやー楽しみだね!!! せんせーとの夜戦!!!』

 とまぁ、こんな具合で賑やかに飯を食い、場合によっては酒を飲んで、大いに盛り上がったのかもしれん。なんだかんだで、こいつはにぎやかで楽しいから。

 でも、案外こんな時間もいいのかもしれない。

「ふー……ふー……はふっ。……あったかい」
「……」
「……せんせ、ありがと」
「んー」

 お粥を食べる音が、背後から聞こえてる。お粥をスプーンですくう時の音が……玉子焼きを箸で取るときに、箸と皿が当たる音が、こんなに心地よく聞こえるなんて、考えたこともなかった。川内と静かな時間を過ごすだなんて予想外だったが、案外、こんな時間も悪くないのかも知れない。この前の時はそれどころじゃなくて、そんなこと全然考えもしなかったけれど。

「ごちそうさま。美味しかったよせんせー」
「んー。お粗末さまでした」

 こうしてしばらく二人で静かにご飯を食べる。準備していたお粥をすべて平らげた川内は、俺がお盆をどかした後、再び横になって布団の中にこもっていった。

 俺は川内のお盆に自分の食器を乗せ、台所に持って行って後片付けをはじめる。空っぽになった雪平鍋を見て、なんだか清々しい気分になった。そういや母ちゃん、『作った料理が全部無くなったら、気持ちがいい』って言ってたっけ。

「せんせー」
「んー?」
「お湯使って洗うんだよー?」
「あいよー」

 『お前は俺の母ちゃんかっ』といいそうになるが、そこはグッとこらえる。湯沸し器のスイッチを入れ、お湯が出るまで待った後、皿洗いを開始した。

「♪〜……♪〜……」

 あの、ケッタイな鼻歌を口ずさみながら。

「♪〜……♪〜……」
「♪〜……♪〜……」

 かすかに、居間からも鼻歌が聞こえる。あのアホも口ずさんでやがるのか。……でも悪くない。

 すべての皿洗いが終わり、蛇口を閉じた。戸棚にかけられたタオルで手を拭き、湯沸し器のスイッチを切って、居間に戻る。

「おかえりー」
「ただいま」

 川内の出迎えのセリフに気を良くしつつ、手のひらで川内の額に触れる。『ふぁ……』と川内が声をあげていたが気にしない。

「んー……少し上がったか?」
「わかんない……でもまだボーとする」
「そっか。んじゃまだ上がるかもな」

 少し機嫌が良くなってきてるから多少上向きになったかと思ったが……ヤマはまだ来てないってことか。

「せんせ」
「ん?」
「手」
「て?」
「うん。手」

 さっきと同じように、布団の中から自分の手を出して、俺の両手首を掴んだ川内。そのままさっきみたいに、俺の手で自分のほっぺたを挟んで、気持ちよさそうに一息ついていた。

「むふー……」
「またかい……」
「きもちい……この前せんせーが私に甘えてきた気持ちも分かるよ」
「アホ」

 こいつのほっぺたは相当熱い。だから川内からしてみれば、俺の両手は相当冷たいはずなんだが……まぁ、俺もあの時は感触よりも、川内に触れられて妙に安心したんだもんな。熱だしてたら、人は妙に不安になる。川内も不安なんだろうか。だからこんなふうに、俺にワガママ言ってきてるのだろうか。

「んー……せん……せ……」

 アホがうとうとし始めた。そろそろ限界が来たのか。川内の目がまたトロンとしてきた。眠気に抗いきれず、うとうとしだす子猫みたいな顔してる。

「やせ……せん……スー……」
「……おやすみ」

 静かな寝息が聞こえてきた。やっぱこれだけ落ちるのが早いってことは、それだけ体力を消耗してるってことだよな……多少元気は出てきたけれど、それはひょっとしたら痩せ我慢とか空元気の振り絞りとか、そういうのなのかもしれない。気を使わなくていいのにな。

 川内のほっぺたから手を離した。まったく反応がない。気持ちよさそうにスースー寝息を立てて寝ている。そのままこっそりと背中を向けて、自分のバッグを開けて学習用ノートパソコンを取り出した。今日はきっと川内の看病で徹夜仕事になる。その間、Accessの業務基幹ソフトの開発を進めるために、俺はこのノートパソコンを持ってきた。

 パソコンをテーブルの上で開き、電源コードをコンセントに挿して電源を入れる。

「えーと……ルーターどこだ……」

 持ってきたLanケーブルをノートパソコンに挿し、もう一方を差し込むルーターを探して居間の中を見回した。ルーターは……テレビの横にあった。

「おっ」

 立ち上がり、Lanケーブルを持ってルーターのそばまで来た。Lanケーブルをパチリと音が鳴るまで差し込んだ時、テレビのそばの引き出しの上が、目に付いた。

「あれ……テキストをここに置いてるのか」

 授業で使っているテキストが、丁寧に整頓されて置かれていた。テキストを一冊手にとって、中をペラペラとめくる。

「……俺より勉強してやがる」

 テキストは、びっしりと書き込まれた川内のメモ書きとマークとアンダーラインによって、そらぁもう大変なことになっていた。俺が『これは覚えたほうがいいぞ』と言った箇所には、丁寧に『これは覚えたほうがいいらしい』とか、細かい注釈もついている。かな打ちとローマ字打ちの切り替え方法のところなんか、『かな打ちストの必須技術』だなんて、一言一句俺が言った通りのことが書き込んであった。あれは俺の経験則から来ることだから、別にそこまでしっかりと覚えなくてもいいんだが……。

 川内の寝姿に目をやる。今、気持ちよさそうにスースー寝息を立てて眠りこけてるこのアホは、授業が終わる度に、こうやって家に帰って、一人で復習していたのか。俺の一言一言を思い出し、こうやってテキストにみっちり書き込んで、授業を振り返っていたのか。

「いつもおつかれ。川内」

 パソコンが立ち上がった音が聞こえ、俺はテーブルとベッドの隙間に戻った。川内の寝顔を覗く。安心しきった赤ちゃんみたいな顔で寝てやがる。手を伸ばし、川内の頭を撫でた。

「ん……」
「……」
「……むふー……はり……たお……」

 今日は静かな夜戦バカが、ほんの少しだけ、微笑んだ気がした。
 
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