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蒼き夢の果てに

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第7章 聖戦
  第167話 ヴァレンタインの夜

 
前書き
 第167話を更新します。

 次回更新は、
 5月17日。『蒼き夢の果てに』第168話。
 タイトルは、『蒼穹が落ちる』です。
 

 
 淡い闇に満たされた部屋。
 大きく取られた窓から差し込む蒼白き月の光輝。ありとあらゆる物を白く凍えさせるかのような、一切の熱を感じさせる事のない寒々とした明かり。
 すべてを染め上げる……毛足が深い絨毯は僅かに濃淡のみで。本来、白で統一されているはずの寝具も、細かな彫刻の施された天蓋を支える四方の柱もすべて蒼く染め上げられるこの時間。
 夜通し繰り広げられる夜会の喧騒も、ここ小トリアノ宮殿の王太子の間にまでは聞こえて来る事はない。
 そう、周囲では月と冷気の精霊たちが音もなく可憐な輪舞を繰り広げていた。

 そして……。
 そして全身で強く感じて居る彼女の鼓動、温もり。幼い頃の思い出を喚起させる彼女の香り。
 しかし、その中に隠せない鉄に良く似た臭いが――

 刹那、小さく吐息を漏らして仕舞う俺。
 それは本当に微かな吐息。しかし、柔らかく俺を包み込んでいた少女の細い腕から力が失われるには十分すぎるほどの大きさを持っていた。
 やれやれ。……矢張り、完全に吹っ切れている訳ではないか。

「もう終わったのか?」

 完全に密着した状態から少し身体を離したタバサに対して話し掛ける俺。
 蒼に染め上げられた広い室内()に、浮かぶ寝台()。器具を使い測った訳ではないので実寸に付いては定かではないが、少なくとも幅が二メートル以下と言う事はない豪奢な天蓋付きの寝台。
 個人の部屋としては異常な広さ。しかし、その部屋は窓から差し込んで来る夜の蒼に沈み、豪奢な寝台の上……真ん中と言うよりは、かなり端の方に身を寄せ合う華奢な少年少女の二人。
 その姿……微妙な配置は何も知らない他人から見ると、まるで身を寄せ合う事により不安や孤独などから逃れようとしているかのように見えるかも知れない。
 それぐらい、今の俺たち二人はかなり頼りなく見えているはず。

 主語の伴わない曖昧な問い掛けに対して、小さく首肯くだけで答えと為す彼女。
 この世界的には最新のファッションとなるアール・デコ調、袖のない黒のイブニングドレスは首まできっちりと覆い隠す形。所謂ホルターネック型。胸元は当然のようにきっちり覆い隠しながらも、背中は大胆に――腰の辺りにあしらわれた、コチラも黒のリボンの部分まで開かれ居り――
 同じガリアの人々の中でも格別白く、なめらかな肌を持つ彼女。ドレスの黒が彼女の肌の白さをより引き立てるようで、蒼き闇のなかで何故か彼女だけが輝いているように感じられる。更に言うと、かなり華奢で儚げな肢体しか持ち得ない今の彼女に取っては、大きく胸元の開いた形のドレスよりも背中を開けた形のドレスの方がマ……より似合っていると思う。

「そうか」

 少しの笑みを浮かべながら、彼女の瞳を隠そうとして居た柔らかな蒼い髪の毛そっと撫でた。
 そう、今の彼女がウソを吐いた事は間違いない。何故ならば、今、彼女が行ったのは単なる食事と言うか、失った霊気の補充の意味だけの行為ではない()()だから。
 この血の抱擁は、彼女と……俺の血の交換。本来ならば彼女が俺の血液を得、そして俺が彼女の血を得る事によって初めて完結する契約の儀式。当然、契約の儀式である以上、双方の合意を必要とされるがその辺りは俺と彼女の間ではあまり問題はない。

 おそらく、俺が夜の貴族に転化する事に対する危惧。その辺りが、彼女の血液を俺に与えない理由なのでしょう。
 但し、それで何時までも誤魔化し切れるような物ではないはずなのだが。
 ……吸血姫が感じる血の乾きと言うモノは。

 今彼女が感じて居る乾きは、単純に餓えや霊力不足から来る物ではない。彼女の中に存在している俺の血が更なる俺の血を呼んでいるから。……だと思うのだか。
 そして、俺の中に居る。あの地球世界に追放される直前に、彼女から与えられた血が新たな血を。より多くの彼女自身の血を呼び続けているはずなのだが。

 西洋風に表現するのなら天使が通り過ぎた瞬間。俺の方は、吸血姫と言う、人間とは少し違う特殊な存在たちに付いての知識の再確認の時間。
 対して、タバサの方はと言うと……。

 普段通り、少し上目使いでただ一途に俺を見つめ続けるタバサ。その瞳に浮かぶのは……。
 視線が交わった瞬間、彼女の発して居る気配を細かく掴もうとする俺。
 これは――
 これはおそらく少しの疑問。そして同時に、何故か淡い期待のような物も感じさせている。

「何や?」

 何か聞きたい事でもあるのか?
 成るほど来る物が来たか。それまで自らの中でシミュレートして来た内容を頭の中に思い浮かべ、しかし、至極自然な雰囲気で。敢えて身構えないように心掛けながら問い掛ける俺。そもそも再召喚されてからここまで、二人きりになる時間などなかったのだから、二人きりになれば彼女から某かの問い掛けがあって当然だと思う。

 それは――

 少し逡巡するかのような気配。しかし、まるで意を決するかのような気を発し、小さく首肯くタバサ。
 そして、

「何故、あなたは彼女を抱かなかったの?」

 ……と問い掛けて来た。その内容にしては、見事なまでに自らの感情を制御した冷静沈着な声で。
 ……と言うか、そっちですか?

「おいおい、そんな簡単な事も分からへんのか?」

 てっきり、何故、帰って来て仕舞ったのか。そう、陰陽様々な感情の籠った問い掛けがなされる、と思いこんで居た為に少し肩すかしを喰らわされたような気分。
 但し、それも一瞬。そもそも、この質問も当然想定していた。

「流石に他の女性を抱いた腕でタバサを抱き寄せる事は出来ない」

 俺はそれほど豪胆でもなければ、多情でもない。メンタル的に言えば極々一般的なメンタルしか持ち合わせていない小市民やから。
 内容が内容だけに少し軽い雰囲気で言葉を結ぶ俺。但し、当然のようにソレだけが理由ではない。
 彼女たち……夜の貴族たちは契約を交わした相手の状態を、相手の血を口にする事でかなり精確に知る事が出来る。
 特にそちら方面に関しては詳しく。
 流石に、そう成る事が……知られる事が分かって居て、それでも尚、旅の恥はかき捨て。据え膳喰わぬは何とやら、とばかりに有希を抱ける訳はない。

 二十一世紀の日本人からするとそれほど間違った認識とは言えないが、中世ヨーロッパの貴族からすると、かなり失格に近い答えを返す俺。
 当然……。

「私の事なら気にする必要はない」

 今のあなたは次代のガリア王。王や貴族の重要な役割は次代に自らの血を繋ぐ事。
 予想通りの答えを返して来るタバサ。
 確かにタバサの言う事には一理も二理もある。ジョゼフと交わした約束が果たされるまで。少なくともこの聖戦が終わるまで俺がガリアの王太子である事は間違いない。
 ……と言うか、今のジョゼフが前世の彼と同じ存在ならば、俺が望むのなら、そのままガリアの王にでっち上げられて仕舞うのでしょうが。

 そう、今回の人生でタバサがどう言う教育を受けて来たのか分からない。しかし、前世の彼女に対する教育の基本は、ガリアの王妃となる女性に対する教育が為されていたのは間違いない。
 前世の俺の母親の出自と、両親の結婚の経緯。更に、当時のガリアの国内事情から推測すると、その辺りは間違いないでしょう。
 その場合、おそらく寵姫や公妾……後宮が置かれる可能性を考慮して、無暗矢鱈と嫉妬深い女性となるような教育は為されていないはず。
 そもそも前世の俺はガリア王家との密約により、蒼髪の男の子が産まれた場合はジョゼフ王の息子として差し出される事に成っていたのだが、何故、そのような密約がロレーヌ家とガリアの王家の間で交わされて居たのかと言うと、それはガリアの王家に何故か子供が産まれ難くなっていたから。
 その状況で後宮が置かれない事の方が考え難い。少なくともガリア王家や前世の俺の両親たちが、子供が産まれ難く成っている理由が、世界を混乱させようとしている邪神の悪意に因って因果律を歪められた結果だ、などと言う事が分からない以上、古より続く血筋を絶やさない方法を選ぼうとするのは当たり前。
 その時、もし王妃と第二夫人が色々な理由から争うような状態となれば、最悪、国が傾く可能性さえ存在するから。歴史上、そう言う争いの果てに国力を弱め、滅んで行った国も多く存在するのだから。
 流石にそうさせないように、前世のタバサに対して王妃となる教育を施していたはず。

 ただ……。
 何と言うか、少し困ったような笑みを魅せながら、再び彼女の少し伸びて来た前髪をそっと掻き上げてやる俺。
 ほんの少し温かな彼女の肌。其処には確かに生きている彼女が存在している。

「まぁ、そう言うなって」

 まだ色々と決めなければならない事。やらなければならない事があって、気分的にはいっぱいいっぱいなんやから。
 それにそもそも……。

「……俺はこれから先に何処の世界で暮らすのか。それさえも未だ決めていないのだから」

 素直な彼女の髪の毛に触れたまま、そう言葉を締め括る俺。
 もっとも、これではイザベラに言われた優柔不断そのものの状態だと思う。そんなクダラナイ事をイチイチ気にする必要などないし、色々と自由に生きた方が良い……とも思うのだが。
 少なくとも彼女たち二人が俺を拒む事は考えられない。

 ただ……。

 ただ、俺が不器用な生き方しか出来ないのは別に今回の人生に限った事ではないし、その事についてならタバサも良く知っているはず。
 少しの甘えに近い思考。言葉にせずともこのぐらいの事ならば理解してくれているだろう、と言うかなり曖昧な思考で考えを纏めながら、自らや有希とは違う、少し柔らかな手触りの髪の毛を感じ続ける俺。
 そう言えば、前世ではある程度の年齢に成ってから以降は、彼女の髪に触れる事などなかったか……などと言う、少しどうでも良い事を思い出しながら……。
 そう、湖の乙女(有希)が居て、シャルロット(神代万結)が居た以上、地球世界の神々や仙人の思惑。俺の方の事情に彼女まで巻き込む必要はない。そう考えて、前世では意識的に彼女は遠ざけて居たのだが、それでもこうやって次の人生でも強く関わって来た。それもおそらく彼女自身の意志によって関わって来た以上、それが要らぬお節介だった事が今では分かる。
 ……いや、彼女に関しても間違いなくこのクトゥルフ神と地球世界の神々との争いに巻き込まれている。そうでなければ地球世界の魔女の守護者ヘカテーの加護など受けられるはずはない。

「何にしても、貴方は未だ誰も選んでなどいない。その事は理解出来た」

 ならば、未だ私にも可能性は残されている。
 そう意味不明の言葉を口にした後に小さく、ほぼ視線でのみ首肯く彼女。そしてベッドの脇にあるサイドボードの……俺から見るとアンティークのかなり豪華な家具。しかし、このヴェルサルティル宮殿内で使用されている家具と考えるのなら、良く言えば実用的な質実剛健。悪く言うと地味目の家具の引き出しから何かを取り出した。
 それは――
 それは明らかに何らかのプレゼントと思しき、綺麗な紙とリボンに包まれた長方形の箱。地球世界ならば別に珍しくもなんともない代物なのだが、ここは中世ヨーロッパレベルのハルケギニア世界。ましてここは俺の部屋。本来タバサの部屋は隣に用意されていたはずなのだが……。

 つまりこれは、俺を再召喚した今宵、彼女は自らの部屋に帰る心算が最初からなかった事になる……と思うのだが。
 やれやれ。少なくとも有希と彼女の間には何らかの取り決めがある。そう感じていたけど、今夜は彼女の番だった。そう言う事なのでしょう。
 故に、先ほどの質問「何故、彼女を……」と言う問いに繋がった。
 目の前でリボンを解き、包んで居る紙――地球世界なら包装紙と言うべき代物を外すタバサを見つめる俺。そう言えば今日。もしかするともう既に昨日に成っている可能性もあるのだが、ハルケギニアの暦で今日はハガルの月、ヘイムダルの週、オセルの曜日。
 地球世界風に表現すると二月十四日。
 つまり――

「聖ヴァレンタインデーと言う事か」

 目の前に差し出されたチョコ入りの小箱を見つめながらそう言う俺。まぁ、流石にオツムの出来が非常に残念な御方がやる、自分にリボンを付けて出て来る、などと言う状況にならなかっただけでもマシか。
 流石にソレを現実にされると、百年の恋も吹っ飛ぶ――少なくとも俺はそう感じると思うから。
 もっとも……。
 そもそもそのヴァレンタインデーと言うのはキリスト教から見ると邪神ユノの祭り、ルペルカリア祭を潰すためにでっち上げられた非常に胡散臭い祭り。むしろ奴ら(牛種)に相応しい、邪悪な意図に因り創り出された奇習と言うべき代物だと思う。当然、その物語の中心に存在している、生け贄にされた司祭さまが現実に居たのかと言うと……この部分に関してもかなり疑問が残る。

 ……と言うか、

「カカオはハルファスに調達して貰ったのか」

 大航海時代が訪れていないハルケギニア世界に南米産の作物はまだない。この辺りもアルビオンが浮遊島になったのが、俺が召喚される五分前の出来事ではなかったのか、と言う推測の根拠となっているのだが――
 蒼穹を飛ぶ魔法や飛竜、より高々度を飛行可能な飛空船が存在しているのに何故か海の向こうに渡ろうとは考えない中世ヨーロッパの人間。これはかなり異常だと言わざるを得ない状況だと思うのだが。
 中世ヨーロッパの生産力や閉塞感を知っているのなら。
 地球世界の中世ヨーロッパなら、イスラム圏に対する輸出品の中に奴隷が存在していた。それも去勢された白人男性の奴隷が。それぐらい、何も輸出する物のなかった貧しい地方だったのだ、地球世界の中世ヨーロッパと言う地方は。時代的に言って其処と対応する地方として考えるのなら、このハルケギニア世界に暮らす人々の外へ向かおうとする覇気の無さは異常。
 もしかすると、そんな覇気。現状を変えようとする強い気持ちすらも奪われるほど、これまでのブリミル教の支配や系統魔法の抑圧は強かったのかも知れないのだが……。

 明らかに彼女の手製。それもカカオ(イチ)から作り出したと思われるチョコレートを見つめながらそう聞く俺。もっとも流石にコレでは色気も何もない、妙に事務的な対応だと思うのだが……。
 ただ、何にしてもこれで、このハルケギニア世界で最初にチョコレートと言う食べ物を作り出したのが彼女と言う事に成るのだと思う。

 悪い魔法使いにより異世界に流された恋人を自らの手で救い出す少女の伝説か。胡散臭い撲殺された司教さまの伝説よりもよほど恋人たちの記念日に相応しい物語に成りそうだな。
 別にヴァレンタインデーに対して含むトコロもないのだが、相も変わらず皮肉に染まった思考でそう考え続ける俺。まぁ、ブリミル教にはそのような浪漫に溢れた伝承もなければ、ハルケギニア世界にはルペルカリア祭に相当する祭りも無さそうなので……。何せ、二月を表現するハガルはおそらく(ひょう)を意味するドイツ語か、もしくはルーン文字から出来た言葉だと思う。但し、地球世界のルーン文字に関して言うと本当にハガルと発音していたのかどうかは、実は定かではない。
 ……と言うか、ハルケギニアの言葉の基本はフランス語。但し、魔法に関しては英語が基本だし、月に至ってはドイツ語が混じるって……。
 トライアングルは英語。フランス語ならトリアングル。ラインも同じ。フランス語ならばリーニュと発音する……はず。ドットに至ってはポワン。英語でこれに対応する言葉はポイントだったと思う。

 このような部分にも何モノかの介入の跡が窺えるな。大航海時代が訪れていない……新天地を探そうともしない中世末から近世初頭のヨーロッパ。しかし、何故か統一言語が存在する世界。
 何処から何処までがこの世界のオリジナルで、何処からが改竄された部分なのか。この辺りを完全に解き明かす事が出来たのなら、この世界……仮にハルケギニア世界と俺が呼んでいる世界の未来を覆う暗雲を振り払う事が出来るのかも知れない。
 何度も何度も同じような時間や世界に転生している理由。この辺りも関係しているのかも知れないな。

 何か重要な部分を掴み掛けたその時、タバサが小さく首肯き現実世界に呼び戻される俺。
 そしてその後、俺の瞳を覗き込んで来る彼女。
 この感覚はもしかすると……そう考え掛け、直ぐにその考えを心の中で否定する俺。もしかしなくてもコレは間違いなく俺の思考が彼女に向かっていなかった事に気付いた、と言う事だと思う。
 二人の間に流れる一瞬の空白。その空白は彼女と、そして俺の逡巡を意味する時間。

 そして――

「一緒に食べましょう」

 普段通りの淡々とした。何の感情も込められていないかのような、妙に無機質な口調でそう告げて来るタバサ。
 彼女の指先には一欠けらのチョコレートが――

 但し――
 その内容にかなりの違和感を覚え、視線は何時も通りの無と言う表情を貼りつかせている彼女を見つめ続ける俺。
 そう、普段の彼女が自分から何かをしようと言い出す事は少ない。大抵の場合、言葉を発する前に行動で示すか、それとも俺が気付くまでそのまま待ち続けるか、のどちらか。

 もしかすると今この瞬間、俺の目の前に居たのは、今回の人生で常に俺の右側に在り続けたタバサと言う偽名を名乗る少女などではなく、前世で俺と共に育った――

「ジョ――」

 前世での彼女の名前を口にしようとした俺。しかし、皆まで口にする事が出来ず、代わりに口の中から鼻に広がるカカオの芳醇な……と表現される香り。
 反射的に閉じて仕舞った俺のくちびるを指で押さえ、小さく首を横に振るタバサ。その時、普段通りの彼女の表情が何故だかヤケに優しげに見えたのは果たして月明かりの所為だけなのだろうか。

 口の中に想像よりもほろ苦い感覚が広がる。そう言えば彼女は、甘い物よりも少しビターテイストな味付けの方が好みだったか。
 前世、そして今回の人生でもその部分に関してはあまり変わりがないのか。見た目や性格。それに表情が別人の如く変わって仕舞った今の彼女を見つめながら、その向こう側に見える以前の彼女の仕草や表情を思い出す俺。
 そう、あの頃の彼女ならこう言う、少し悪戯に近いような事を……。俺に喋らせない為に、口の中に何か甘いお菓子を放り込むような真似は為したと思う。
 そして、今と同じように俺のくちびるを指で押さえ――
 今の彼女が絶対に浮かべない類の表情を浮かべて――

 名前を呼ぶな、そう言う事なのか。確かに真名の関係があるので、彼女の前世の名前を呼ぶのはウカツ過ぎる行為となる。
 ゆっくりと過ぎて行く時間。有希の元から旅立ってから何時間たったのか良く分からないが、それでも慌ただしかった一日の最後の部分を閉めるのに相応しい、落ち着いた静かな時間。

 彼女手製のチョコレートをじっくり味わうように……。味覚的に言えば、未だお子様な俺には少し背伸びをしたかのような仄かな苦味が、口腔内でゆっくりと消費されて行く。

 俺の瞳を覗き込むタバサ。瞳、髪の色は前世と同じ。しかし、前世の彼女と比べると明らかに幼い雰囲気。
 そして――

「もし、わたしが国を亡びに導いた事がある。そう言ったら、貴方は信じてくれる?」

 他国の軍隊を王都にまで招き入れ、それまで行っていなかった枢機卿を首相に登用。内戦により荒れた都の復興、運河の整備、豪華な宮殿の建設。
 そして無謀な戦争の継続。
 結果、放漫な財政によりわたしの治める国の民は重い税に苦しみ――

 国を滅ぼした……タバサが?

 俄かには信じられない話。しかし、その言葉の中には嘘を吐く人間が発する独特の陰の気と言うモノが感じられない以上、彼女の言葉は真実。
 いや、現実に滅亡させたかどうかは定かではないが、それでも自分の行いが原因で国を滅ぼしたと感じている事だけは間違いない。……そう言う事だと思う。

 それに、先ほどのタバサの言葉には地球の歴史に重なる部分もある。運河の整備は国として行って当然の公共事業だし、望まない戦争に巻き込まれる可能性だってある。
 確かに隋の京杭大運河の建設のように、国を傾けた運河の建設と言う例もあるにはあるのだが。
 で、次。豪華な宮殿の建設は……俺の考えだと、大国としての権威付け以外に意味が見いだせないとも思うのだが、それでも彼女が治めた国の規模によってはある程度のハッタリと言うモノも必要だと思うので――
 当然、枢機卿を受け入れるのも悪過ぎる選択肢と言う訳ではない。タバサの滅ぼしたと思い込んでいる国が存在していた世界の枢機卿がどう言う地位にあるのか分からないが、俺の知っている地球世界の枢機卿と言うシステムなら、受け入れるメリットはある。
 枢機卿の俸給は基本的に国庫から支出される物ではなく、教会から支給される物。つまり、優秀な人材をロハでこき使う事が出来る可能性もある、そう言う事。まして、彼らは司教。これによって、教皇庁との太いパイプを作り上げる事も可能となる。

 それぞれ単独で見ると、別段、国を傾けるほどの悪政を敷いたと言う訳ではない。
 ただ、それがすべて同時に訪れたとなると……。
 フロンドの乱やユグノー戦争の後始末。ミディ運河を整備。ベルサイユ宮殿の建設。ジュール・マザランの登用。しかし、その治世の後半ではアウクスブルグ同盟戦争、スペイン継承戦争の莫大な戦費調達と放漫財政の破たんにより深刻な財政難にフランスを陥らせ、結果、フランス革命が起きる道筋を作り上げたルイ十四世と重なる部分がある。
 そう、フランス革命は別にマリー・アントワネットが引き起こした訳ではない。その芽を作り育てたのは太陽王ルイ十四世。少なくとも、この中の戦争に関する部分がなければ、あそこまで苛烈な革命が起きる事もなかったと思うのだが……。

 まぁ、歴史に……たら、……れば、はない。起きて仕舞った事がすべて。更に、為政者に対する評価も結果がすべて。頑張ったから認めてくれ、を受け入れる訳にも行かない。
 ただ……。

「……なら聞くが、俺が異世界の邪神を呼び寄せて、危うく世界を滅ぼしかけた事がある。そう言ったなら、タバサは信用してくれるか?」

 問いに対する問い。まして、今の俺を知っている。それも、自らの片翼とまで考えているはずのタバサからすると、例えそれが真実であったとしても受け入れる事は難しいぶっちゃけ話。
 当然、かなり否定的な雰囲気を発するタバサ。おそらく、自分を慰める為に。誰にだって間違いはあるのだから気にするな。……と言う言葉の代わりとなる作り話をしている。そう取られたのでしょうが……。

「あの人生の俺は火眼金睛。普段はそれほど目立つ訳でもなかったんだが、霊気が高まるととてもではないが人間として見て貰えるような外見ではなかった」

 その心の隙間を魔に突かれて仕舞った。
 元々、俺の魂が持っている能力は重力を操る能力。その力を使って次元に穴を開け――

「結果、水の邪神を呼び寄せて仕舞った」

 元々、木行の強すぎる俺を糧にしようと……いや、彼奴に。あの水の邪神にそれほどの知能がある訳はないか。
 あの当時は分からなかった――事件を解決するだけに手一杯で、その事件が起きた理由やその他の事象について考える余裕など存在しなかった。
 しかし――
 しかし、今ならば分かる。あの事件の裏側にも、今、このハルケギニア世界を混乱させている元凶の嫌味な笑みが存在していた事が。

「世界が滅ばなかったのは、奴が顕われたのが夢の世界だったから。ただそれだけ」

 ある事件の捜査……と言えば聞こえは良いが、要は異世界からの侵略者。俗に言う、悪魔やソレに類する者たちを狩り、賞金を得て居た術者の集団をおびき寄せ、その地を特殊な結界で覆う事により、夢の世界と直結させる。
 大がかりだが、非常に単純な罠に落ちた俺たち。実際、街のすべてを覆い尽くす結界などあまり現実的ではないし、そもそも、現実世界と夢の世界の境界線を曖昧に出来る存在など余程の神話的な裏付けを持つ特殊な存在しか居ない。
 流石に単なる神隠しの調査。霊的な事件などではなく、一般人が引き起こした誘拐事件の可能性すら存在していた事件の調査として術者の協会に依頼があった事案で、最初からそのような特殊な事件を警戒する訳はない。
 その夢の世界こそ、海底に沈んだ石造都市ルルイエに眠る奴の夢の世界だった。

「その奴の見ている夢の世界と、其処におびき寄せられた術者たちの見る夢の世界の境界を俺の次元を切り裂く能力で開き、その夢の世界……人間それぞれが深い所で繋がっている意識と無意識の狭間の世界から、現実世界に至る道を創り出そうとして、その先兵として使われた」

 胸糞の悪くなる話。初めから俺一人をターゲットにした企みだったとは言えないが、結局、這い寄る混沌に踊らされるだけ踊らされて、挙句、一度は水の邪神に完全に取り込まれたのだから。
 ……まぁ、こんな前世があればハルヒの事をとやかく言えないのは確かだな。

「この人生の結果で良かった事と言えば、あの水の邪神がこのハルケギニア世界に絡んで来られなくなった事ぐらいか」

 流石に、あの場所に封じられると、そう簡単には出て来られないはず。
 我知らず浮かべている自嘲の笑み。

「こんな俺でも転生して、ここにこうやって生きていられる」

 英雄王だ、何だカンだと持ち上げられても、一皮むけば所詮そんな物。
 結局あの時も俺は一人ではなかった。いや、当時の俺自身は一人だけで生きている心算だったのだが、一人で出来たのは闇に堕ちる事だけ。助けてくれたのはかつての仲間たち。
 三娘と玄辰水星。
 結果、俺自身はあの事件で命を落としたのは間違いない。しかし、本当にギリギリのトコロで踏み止まれたが故に。……彼女らによって正気に戻されたが故に、現実世界に水の邪神が顕われる事もなく事件を終結させる事が出来た。

 彼女と、その仲間たちの術者が創り出した奇門遁甲陣と、俺の次元を切り裂く能力を使い、半ば以上、現実界に実体化し掛けた水の邪神を、もう一度、奴が眠る神殿に送り返す事に成功した……と言う事。

 長い思い出話。信じる、信じないは彼女の自由。但し、この混乱したハルケギニア世界。クトゥグアやハスター、それに這い寄る混沌らしき存在が顕われているのに、何故か水の邪神クトゥルフが顕われていない理由の説明ぐらいには成る。
 何にしても――

「よほど誕生してから間がない新しい魂か、畜生道に堕ちた魂でもない限り、この程度の間違いや失敗は存在しているはず」

 タバサが経験した前世での失敗も、それほど珍しい物ではない、と思うぞ。
 世界は無数に存在している。仏教用語で言うのなら三千大千世界……と言うヤツ。千の世界が集まった世界の集合体が更に千集まり出来上がった大きな世界。その大きな世界が更に千集まって、すべての世界を構成している……と言う思想。誰かがこう言う平行世界もあるんじゃないか。そう考えただけで、新しい世界が誕生している可能性すら存在している。それぐらい、無数に存在しているのが、今、俺が暮らしている世界。
 その中のひとつの世界。更に無限に続くかと思われる転生の中で一度ぐらい、タバサのような失敗をしていたとしても何も不思議ではない。

 寝台の上に座る彼女。俺の言葉でも心は晴れないのか、未だ彼女の発して居る気配はどちらかと言うと陰の気配。
 う~む、矢張り彼女も少し生真面目すぎる。確かに俺も人の事は言えないが、もう少しいい加減でも良いとも思うのだが。

 ひどく分かり易い仕草で肩を竦めて見せる俺。先ほどの言葉で無理ならば――

「それで、ひとつ気になったのやけどな――」

 それまで置いていなかった枢機卿。そいつはタバサが選んで……。オマエさんの国を発展させる為に絶対に必要だと考えて、オマエさん自らが選んだ人間やったのか?
 別の切り口から問い掛ける俺。ただ、何となくなのだが、彼女がこの世界に転生して来た理由。更に言うと、彼女に加護……それもどう考えても破格の加護を魔女の守護者ヘカテーが与えている理由がようやく分かったような気がする。

 要は、彼女には無念に思った、感じた前世があり、その世界での失敗をやり直したかったのではないのか。そう言う事。そして、ヘカテーは完璧な人間に対して加護を与えるようなタイプの女神ではない。彼女が強い加護を与えた人間で有名なのはコルキスの王女メディア。彼女の生涯は……まぁ、色々な意味。主に男性関係で不幸な女性だったのは間違いない。
 もっとも、その結果、前世でタバサが抱えていた無念の思いや後悔の念よりももっと厄介な運命を持つ男……つまり俺の人生に巻き込まれ、その人生をやり直す為にまた別の世界へと転生して来たのではないのだろうか。

 但し最初の目的。その滅ぼして終った国に対する贖罪……と言う目的と、俺と言う厄介な星の元に産まれた男と関わる事にどう言う繋がりがあるのかに付いては、謎なのだが。
 魔女の守護者ヘカテーは冥府の女神であり、更に言うと浄めと贖罪の女神なのだから、彼女が贖罪の為に転生して来た、と言う推測の部分に関しては間違いではないとは思うのだが。

 俺の問いに、かなり大きな逡巡。それまで発して居た陰気の中でも取り分け大きな気配を発した後、小さく首を横に振るタバサ。
 そして、

「わたしは最初、王に成る心算などなかった。しかし、周りから国には王が必要だと説得され、代わりに王位に就く適当な人間も居なかった事から――」

 ……彼女の答え。
 王位に就く事に対する覚悟。確かに、ある程度の覚悟はあったと思う。少なくとも余程のマヌケでない限り、エラそうに出来そうだから、他人をアゴでこき使いたいからなどと言う理由で王に成る人間はいない。
 ただ……。
 ただ、国には王が必要? 他に王位に就く適当な人間がいなかった?
 もし、その場に俺が居たのならこう言ってやったと思う。その程度の理由なら王になどなるんじゃない。国と民がその結果、どれほどの迷惑を被る可能性があるのか、もう少しよく考えてみろ……と。

「成るほど――」

 タバサの言葉から推測すると、その王位とやらは無理矢理に押し付けられた物の可能性の方が高い。そして、もしその推測が正しいとするのなら、政治の実権も彼女の手にはなかったと考える方が妥当か。
 それに、最初に彼女が言って居た言葉の中に、その辺りに対するヒントのような物も含まれていた。
 曰く、それまで置かれる事のなかった枢機卿……と言う部分。

 どう言うタイプの国だったのか。流石に彼女の言葉から其処までは分からないが、おそらく政治の実権は枢機卿や、その他の有力な政治家か貴族、軍閥などの彼女以外の何者かが握っていた。そう考える方が妥当でしょう。
 それで無ければ、それまで必要のなかった枢機卿……キリスト教的な宗教組織から送り込まれる御目付け役などを受け入れる意味はないから。
 更に、それ以外の部分に他国の軍隊を王都にまで招き入れる、内戦により荒れた都……と言う気になる言葉もあった。
 ……つまり、彼女の立場はそれまであった国が滅んだ直後に建てられた国の傀儡の王。
 その挙句に更なる戦争。実権はない王だから、嫌だろうと、何であろうとその戦争とやらに反対出来る立場にはなく、しかし、王であるが故に、その戦争の責任はすべてタバサに負わされた。
 そう言う事か。

 それに……。
 それに、先ほどの言葉の中で取り分け強い陰の気を発した部分。周りから国には王が必要だと言われた。そう彼女が口にした時に、心なしか……然して根拠がある訳ではないのだが、其れまでの部分よりも強い悔恨の情が発せられたように思う。
 これはつまり、自らの意志。自ら決意して王位に就いた訳ではなく、流された結果、王位に就いた事に対する悔い。更に言うと、彼女に対して強い加護を与えているのがヘカテーである以上、そうやって説得したのは男性……その当時の彼女の性別がはっきりしないので確実にそうだ、と言い切る事は出来ないが、それでも男性である可能性が高いと思う。

 こりゃ、考え得る限り、最悪の状況だな。

「過去を完全に消す事は出来ない」

 出来る事は覚えて置く事だけ。そして、その事が間違いだったと思うのなら、同じ間違いを繰り返さない事。
 タバサの語る状況では、今の俺に慰める言葉はない。それに、おそらくなのだが、この彼女が語る内容は、今の彼女の人格を作り上げる上で重要なファクターと成っている可能性も高い。
 高い能力を持つ者に対する義務。その事に対して彼女が強いこだわりを持つ理由は……。

 小さく、しかし、彼女にしては、はっきりと首肯いた事が分かる仕草で首を縦に振るタバサ。但し、この言葉は彼女に対して力を与える言葉であると同時に、俺自身を縛る言葉となる可能性の高い言葉でもある。
 聖戦後の自らの身の振り方に関して、力を持つ者に対する責任と義務と言う問題が大きく立ちはだかる事となる。更に言うと、改革の道半ば、と言う状況でガリアを放り出す事が出来るのか、と言う自身に対する疑問も強くなって行くから。

 ジョゼフとの約束は果たしたし、折角、拾った命。これから先は俺の自由に使わせてくれ、とばかりに尻に帆かけて逃げ出す訳にも行かなくなる……可能性が高くなるのだが。
 何故か外堀から徐々に埋められて行く様を大阪城の天守から見つめる秀頼の気分が、今ならば良く分かるような気もするのだが……。

 まさかこうなる事を予測してあの蒼髪の親父が俺を巻き込んだ、などと言う事はないと思うのだが。

 すべての会話が終わった。後に残るのは、俺と彼女。そして、二人が座っている豪華な寝台。
 手を伸ばせば簡単に触れられる距離にある彼女の……身体。
 元々、吸血姫と言う存在は、ある程度の淫靡な印象が付き纏うモノであり……。

 一瞬、何か言葉を紡がなければならない。そう強く感じた刹那、彼女の手が布団の上に置かれたままとなって居た俺の左手にそっと重ねられた。
 蒼い光。大きな窓から差し込んで来る月の光だけに照らし出された彼女は正に妖。何時もは幼い……と感じさせるその容貌も、何故か今この瞬間は妙に大人びて見える。

 そう、彼女は月光をしなやかに着こなす夜の貴族。

 しなやかな四足獣を思わせる形で再びの急接近。左手は彼女の右手に封じられ、彼女の左手は俺の頬に。
 真っ直ぐに覗き込む彼女の瞳は俺の瞳を捕らえたまま放す事もなく……。

 お互いの吐息を。そして、それぞれが発している温かささえ感じられる距離にまで――

 
 

 
後書き
 それでは次回タイトルは『蒼穹が落ちる』です。
 
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