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トシサダ戦国浪漫奇譚

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第一章 天下統一編
  第十六話 決裂

「使者殿、着きました」

 清水吉久の声が聞こえると俺の視覚を奪っていた目隠しの布が外された。俺の視覚に入ったのは具足を身を包む、十三人の侍、北条家臣達がいた。俺の左右に六人。そして、俺の視線の先、一段高い場所、上座に一人が座っていた。上座に座る侍の歳は四十代に見えた。彼は俺を黙って凝視していた。この場所に居る北条家臣達の中で彼が一番身分が高いに違いない。
 韮山城主、北条氏規か?

「お座りください」

 立ち尽くす俺に清水吉久が声をかけ座るように促してきた。俺は彼に勧められるまま、その場に腰をかけつつ周囲を見回した。俺の視界に入った光景は殺風景な板敷の広間だった。小さい格子窓から外界の光が入ってきていたが外の景色ははっきり見えない。
 俺が座ると北条家臣達の視線を感じた。彼らは殺気だった視線を俺に送ってくる。二日間、互いに殺し合いをした間柄だ。敵の使者である俺に憎しみを抱くことは当然だ。
 孤立無援の状態とは今の俺の状態だな。
 俺が秀吉と命の駆け引きをする前だったなら、殺伐とした重々しい場の空気に飲まれ心を動揺させまともな精神状態ではいられなかっただろう。
 今回の交渉次第では俺は死ぬかもしれない。だが、今の俺は不思議と落ち着いていた。
 俺だって死にことは恐ろしい。だが、前線で戦う俺の家臣達はもっと恐ろしいはずだ。家臣達が俺についてきてくれる。その想いに報いようと思うと勇気が湧いてくる。
 俺は上座に座る男に向き直ると佇まいを正し床を手に置き頭を下げた。

「私は、豊臣家家臣、小出従五位下相模守俊定、と申します。城主、北条美濃守、殿にお会いしたくまかり越しました。あなたが美濃守殿にございますか?」

 俺は敢えて自らの位と官職を名乗った。俺が「相模守」を正式に受領していることを相手に伝えるためだ。秀吉から与えられた「相模守」は北条家臣達にすれば徴発にしか思えないだろう。だから、俺は「相模守」は自称で名乗っている訳でないことを伝えたかった。冷静な人間なら俺の言葉で察することができるだろう。
 俺の気持ちとは裏腹に広間にいる北条家臣達の表情が変わった。彼らは一斉に表情を真っ赤にし血走った眼で俺を睨んでいた。

「控えよ!」

 上座の男は凜とした物言いで北条家臣達を手で制止した。男の顔は他の北条家臣達と違い冷静だった。涼しい表情で俺のことを見ていた。
 俺は上座にする男が北条氏規と直観した。

「相模守殿、お初にお目にかかります。いかにも、私が北条美濃守氏規です」

 北条家臣達を制止した上座に座る男は落ち着いた様子で俺に名乗った。

「美濃守殿、お会いできてうれしく思います」
「こちらこそ。相模守殿、貴殿は私に会い話がしたいと聞きました。それに相違はありませんな」

 北条氏規は俺に確認するように訊いた。彼は俺を子供と侮っている様子は微塵も感じられなかった。相手を見た目で判断しない性分なのだろう。俺を露骨に侮る人物なら織田信雄も韮山城攻めで手をこまねくことはなかっただろう。
 秀吉が北条氏規を高く評価した理由がなんとなく理解できる。同時に俺は北条氏規が豊臣軍に対して徹底抗戦を行い玉砕する覚悟はないように感じた。血の気が多い感じがしない。彼は冷静に損得を考え行動ができると思う。だが、北条一門として誇りはあるはずだ。北条征伐後に北条氏直に付き従い高野山で共に謹慎していた行動から見ても、節操なく降伏はしないだろう。

「その通りです」

 俺が答えると、北条氏規はしばし間を置き口を開いた。

「敵同士の間柄である私に話とは何でしょうか?」

 俺のことを値踏みするような視線を送ってきた。

「美濃守殿、城を明け渡してくださいませんか? 降伏してくだされば御身と城兵、その家族の身の安全は保障させていただきます」

 俺は婉曲な物言いはせずに単刀直入に自分の気持ちを伝えた。当然のことながら、この場所に居る北条家臣達は烈火の如く怒り俺を罵倒してきた。俺を罵倒する大声のせいで耳が痛い。

「勝っているのは我らだ! 何故、お前達に降らなければならない!」

 若い血気盛んそうな侍が俺に喧嘩腰に叫んできた。若いと言っても俺より八つ位は年上、二十歳位だろう。

「静かにしろ」

 北条氏規が俺に息巻く若い侍を低い声で注意し黙らせた。彼に注意され侍は渋々黙ったが俺を睨みつけていた。この遣り取りで他の北条家臣達も俺を罵倒するのは止めた。先程の喧騒が嘘のように部屋が静まりかえった。この部屋の周囲に人がいないように感じた。俺を何時でも始末できるようにに足軽達を部屋の外に配置している可能性はあり得る。

「山中城は一昨日落ちました」

 俺の突きつけた事実に北条家臣達は俺を嘘つき呼ばわりして罵りだした。山中城が一日で落城したことが余程信じられない様子だった。だが、これは事実だ。

「私が嘘をつく理由がございません」
「信じることはできませんな」

 北条氏規は俺に冷静に答えた。

「山中城は防備を強化する準備が整っていませんでした。だが、それでも山中城の防備ならば豊臣本隊七万の軍勢にも耐えることができたでしょう。籠城する兵が十分な数であったならばですが」

 俺は余裕に満ちた表情で北条氏規を見据えた。彼の表情が厳しい顔に変わった。彼は俺が何を言わんしているか直感しているようだ。

「山中城は北条家本拠地、相模国、から大軍の侵入を阻むために作られた堅城。その目的のために城につめる城兵の数は一万以上を想定しています。その城を四千足らずの兵で守れば、いかに堅城とはいえ城の周りを取り囲む七万の軍を阻めるわけがありません。勝負ははじまる前から決まっていました」

 俺の話に北条氏規の頬を冷や汗が一滴したたり落ちる。北条家臣達も俺の的確な指摘に言葉を詰まらせ沈黙していた。

「城主、松田康長は死亡。北条左衛門大夫殿は玉縄城に逃亡いたしました。美濃守殿、お心を決められるならば早い方がよろしいと思います」

 俺はそこで言葉を切り手で相づちを打った。

「そうそう。山中城攻めに加わられた徳川様は足柄城を落とすために進軍している頃でしょう。徳川様のご活躍を関白殿下もお喜びのことと思います」

 場の空気が静まり返っていた。俺は知っている史実を元に話し出した。この情報は未だ織田信雄の元まで来ていない。韮山城攻めに参加している武将達で知っているのは俺くらいだろう。
 俺は落ち着いた態度で北条氏規を見据えた。北条家臣達の表情は優れない。
 北条家と同盟を結んでいた徳川家康が豊臣家のために率先して北条の城を落とすことに協力している。心を乱さずには入られないだろう。徳川家康が北条家の味方でないことは北条家臣達は理解しているはずだ。だが、それを現実として突きつけられることは心を乱さずには入られないはずだ。なぜなら、現在の北条家当主、北条氏直、の正室は徳川家康の娘、督姫、だからだ。心の隅では淡い期待を徳川家康に抱いていたかもしれない。その期待を俺を打ち砕く情報を突きつける。
 さりげなく毒を蒔くことが重要なことだ。相手の心を揺さぶることで徳川家康への信頼を少しずつ突き崩していく。そして、北条氏規が徳川家康を信じれなくなった時、頼ることができる相手は俺だけだと印象づける必要がある。

「貴殿に約束ができるのですか?」

 北条氏規は徐に口を開いた。彼の表情は山中城が落ちたことを告げた時の動揺は消え落ち着いていた。
 立ち直りが早い。思った以上に精神力が強いな。

「私は関白殿下より韮山城攻めにおける城将との交渉一切の権限を与えられています。私の判断は関白殿下の判断と思ってくださって問題ありません」

 俺は落ち着いた物腰で北条氏規に返事した。彼は沈黙した。その目は俺を信じていない様子だった。
 それが普通の反応だろうな。幾ら弁舌が上手くても十二歳の子供の発言を疑いもせず信用することは難しいだろう。それでも北条氏規が俺の話に食いついてきたあたり、彼は条件が整えば降伏する意思があると感じた。

「私は関白殿下の甥にございます」

 俺を見る北条氏規の目の色が変わるのが分かった。俺は彼の気持ちを押すべく、自らが身に纏う朱地の陣羽織を示した。これには御門より秀吉に下賜された五七の桐紋が白糸で刺繍されている。

「この陣羽織は関白殿下から直々に下賜された物です」

 北条氏規は陣羽織の袴の部分に刺繍された五七の桐紋を凝視していた。彼は食いいるように俺の五七の桐紋を観察していたが俺の顔に視線を戻した。北条家臣達も俺の陣羽織を凝視していた。

「相模守殿は関白殿下からご信頼を得ていらっしゃるようだ」

 北条氏規は俺に感心している様子だったが、直ぐに「失礼した」と謝罪してきた。彼の先程の言葉の最初には「そのお歳で」が省略されていたのだろう。そう思うのが当然だ。自分達を馬鹿にしていると感じない北条氏規の器量に驚く。そんな者なら韮山城を任せないだろうな。感情に任せて動くようじゃ韮山城を守りきれない。韮山城が落ちれば北条方の心を砕くのに十分な効果がある。韮山城は北条家勃興の象徴といえる城なのだからな。

「気にしておりません」

 俺は笑顔で返す。

「相模守殿、一つお願いしてもよろしいでしょうか?」

 北条氏規は俺に頼み事をしたいと言ってきた。俺は予想外のことに頼み事があると言って来た。俺は驚くも彼の話を聞くことにした。

「私も豊臣家の家臣。豊臣家に迷惑をかけること無く、私の一存で決めることができることであれば承りましょう」

 俺の言葉に北条氏規は口元を引き締めるが口を開いた。彼は俺に面倒なことを頼むつもりだったのだろう。予防線をしいておいて正解だった。

「北条家は関白殿下へ叛意はございません。私は今でも互いの考えによる行き違いでこのような不幸な結果になったと考えています。戦端を交え互いに引けぬ立場であること重々承知しております。その上でお頼みしたい」

 北条氏規は言葉を切り、上座から俺に頭を下げた。北条家臣達は驚くが全員黙ったまま様子を窺った。

「相模守殿、関白殿下にお取次ぎを願えませんでしょうか?」

 北条氏規は俺の顔を真摯な目で見ていた。
 俺の答えは決まっている。この頼みに応えることはできない。既に北条家を滅ぼすことは規定路線となっている。今更、俺の一存で状況が変わることはない。北条氏規もそのことは理解しているはずだ。それでも俺に頼む理由は戦を長引かせる時間稼ぎだろう。俺が秀吉に連絡を取れば少なくとも数日は休戦状態になる。

「美濃守殿、私は貴方が豊臣家と北条家の融和のため並々ならない尽力されたことを関白殿下より伝え聞いています。できることなら力をお貸ししたい。ですが互いに干戈を交えた以上、当家と北条家は戦にて答えを出す以外にありません。美濃守殿が降伏されるならば、関白殿下は美濃守殿を特別に一諸侯として待遇してくださることでしょう」

 俺は北条氏規に秀吉が彼を気に入っていることをそれとなく伝えた。そして、彼を北条家臣としてでは無く、一大名として遇する用意があることも伝えた。
 俺の物言いが気に入らなかったのか北条家臣達が俺を言葉でなじりだした。だが、俺は彼らに抗弁すること無く、ただ黙って北条氏規のことを見ていた。俺の掲示したことは秀吉なら叶えてくれると思う。史実では北条氏規が激しく抵抗したにも関わらず結局潰すことは無く、万石級の知行でないが畿内に知行を与えた。この秀吉の処置は北条氏規を厚く遇した方だと思う。北条氏照の居城である八王子城攻めとは雲泥の差だ。八王子城に籠もる者は女子供関係なしに根絶やしにされた。北条氏規を降伏させた徳川家康が北条氏規を擁護したことも大きいのかもしれないが、秀吉自身も北条氏規のことを嫌っていなかっただろうと思う。

「頼みをお聞き届けいただけず残念です。相模守殿、私は降伏する意思はない」

 北条氏規は俺にきっぱり降伏しないと宣言した。
 想定通りの返答だな。
 気が引けるが織田信雄からの言葉を伝える必要がある。

「韮山城攻めの総大将、織田内大臣、からの伝言がございます。その伝言を聞かれた上で今一度よく考えた上で返答いただけますか?」

 俺は真剣な表情で北条氏規に言った。北条氏規が降伏を拒否した後に総大将からの伝言を伝える。聞かずとも良くない内容であることは誰にでも分かる。

「どのような内容でしょうか?」
「『降伏を拒否すれば城を総攻めにして城に籠もる奴らを血祭りにしてやる。女子供だろうと容赦せん』と総大将は申しております」

 北条氏規は恫喝と取れる降伏勧告を聞き終わると眉間に皺を寄せていた。北条家臣達にいたっては憤怒の形相で身体を小刻みに震わせていた。
 俺は生きて帰ることができないかもしれない。織田信雄は馬鹿だ。こんなことを伝えれば相手の気持ちを硬化させるに決まっている。

「相模守殿、何故そのことを今話されたのですか?」

 これを最初に言えば俺は間違いなく血祭りにされ大手門に打ち捨てられていたかもしれない。それほど刺激的な内容だ。だが、こんな下品極まりない降伏勧告を敵とはいえ伝える気分になれなかった。
 俺は素直に自分の気持ちを北条氏規に伝えることにした。

「戦で勝敗を決するならいざしらず。敵とはいえ恫喝し、相手の矜持を踏みにじるような品性下劣な言葉を伝えることはできませんでした。ですが、美濃守殿が降伏を拒否されたのなら、総大将の言葉をお伝えする他ございません」

 俺は人の悪意の籠もった視線を一身に集める中で動じることなく北条氏規に自分の気持ちを伝えた。北条氏規は俺の話す姿を黙って見ていた。

「青いですな」

 北条氏規は穏やかな目で俺を見ていた。

「青かろうと、これは私の矜持です。矜持を曲げては私ではありません」
「武家に生まれた以上、時に自分の矜持を曲げねばならない時がきっとくるでしょう。ですが、その矜持を忘れず大切になされよ」

 北条氏規は俺を諭すように言った。北条家臣達は北条氏規が話を終えると、俺に「さっさと帰ろ!」と怒鳴りだした。それを北条氏規は制止することはなかった。
 俺は北条家臣達に怒鳴られようと表情を変えず落ち着いた様子で北条氏規を見た。

「お言葉心に留め置きます」

 俺は素直に北条氏規の言葉を受け入れた。北条氏規は俺に対して頷き返事した。

「使者殿がお帰りだ。大手門まで丁重にご案内しろ。必ず丁重にご案内するのだぞ」

 北条氏規は俺をこの部屋まで案内した清水吉久に念押しして命令した。彼は殺気立つ北条家臣達のことを懸念しているのだろう。彼らの一人が暴走して俺を殺せば降伏の選択肢は無くなり徹底抗戦による玉砕しか道が無くなる。それは北条氏規の望むところではないのだろう。北条氏規は降伏の選択肢を残しておきたいと考えていることは確かなようだ。
 清水吉久は北条氏規の命令を受け俺に目隠しをしようとする。それを俺は制止し北条氏規を見た。

「相模守殿、まだ何かあるのですか?」
「美濃守殿、大した話ではありません。美濃守殿とお会いできる機会はそう多くはないでしょう。いくつか世間話させていただけないでしょうか? お時間は取らせません」
「世間話?」

 北条氏規は俺の突然の話に怪訝な表情を浮かべた。敵地で敵将と世間話をしようと言う俺が奇妙に映っているに違いない。北条家臣達も俺をそんな目で見ている。

「美濃守殿は徳川様とお知り合いとお聞きしました」
「幼少の頃、徳川様にお世話になりました。その後も徳川様には機会あるごとに縁を持たせていただいております」

 北条氏規は警戒しながらも俺が振った話題に嫌な顔をせず答えた。

「私も徳川様とはじっこんにさせていただいています。先月、徳川様が夕餉(ゆうげ)にお誘いいただきました。私が鷹狩りの経験がないと言うと機会があれば鷹狩りに誘おうとも言ってくださいました。徳川様は私のような若輩者にも目をかけてくださりありがたいです」

 俺の話に意外そうな表情に変わる。先程までと違い表情に穏やかさが現れていた。

「徳川様はご健勝であられるか?」
「お元気でございます。韮山城攻めに向かう前もお会いしております。美濃守殿のことを心配しているご様子でした」

 俺の言葉に北条氏規の表情が曇る。俺は嘘は言っていない。軍議の時に顔を合わせている。結局、軍議の後に徳川家康は俺に接触してくることは無かった。立場上、秀吉の甥である俺に北条氏規のことを頼むとは言えないからだろう。

「めざしが美味かったです」

 俺は徳川家康が振る舞った夕食を食べた時の記憶を思い出しながら感想を言った。普段が貧相な食事だから「めざし」でも十分にご馳走に感じた。最近は食事の度にそれを痛感する。
 北条氏規は俺の突飛な発言に要領を得ない様子だった。

「徳川様に夕餉に誘ってくださった時にめざしをご馳走になりました。塩加減が程良く飯が進みました。聞けば三河産のめざしと聞きました」

 俺の話に北条氏規はくすりと笑った。北条家臣達は俺の呑気な世間話に呆気にとられている様子だった。先程までの殺伐した空気がいつの間にかかき消えていた。

「その上、徳川様は土産にめざしを包んでくださいました」

 俺が笑顔で話している様子を北条氏規は穏やかな様子で聞いていた。彼の北条家臣達も城主、北条氏規、の様子の変化を感じ取っている様子だった。

「相模守殿、いい話をお聞かせいただいた。もっと相模守殿と語らいたいところだが、これ以上の語らいは互いの心を鈍らせてしまう」

 北条氏規は穏やかな表情から真剣な表情に変わり俺のことを真っ直ぐ見据えた。彼は婉曲に俺に「帰ってくれ」と言っていた。これ以上世間話を続けても彼に利は無い。それに俺が徳川家康と縁があると打ち明けたことで、北条家臣達の気持ちに迷いが生まれる可能性もあり得る。

「ついつい話が弾んでしまい時間を忘れておりました。今日はこれくらいで失礼させていただきます」

 俺は丁寧に頭を下げた。だが、俺はこのまま素直に帰るつもりはない。

「忘れておりました。美濃守殿。この地に旧知のご友人が参られることは二度とないでしょう」

 俺は顔を上げると真剣な表情で北条氏規に伝えた。
 北条氏規に対して俺は毒を更に蒔く。毒は毒でも遅効性の毒だ。もし、北条氏規が徳川家康に通じているならば、この毒はこの後に北条氏規の心を蝕むことだろう。そのために北条氏規と徳川家康の連絡の術を完全に断つ。
 不安が疑心を招き疑心が更なる不安を招く。

「どなたのことを仰ているのですか?」

 北条氏規は俺の言葉の真意を読み取ろうとばし考える様子だったが、俺に言葉の意味を聞き返してきた。意味が分からなかったのか。それとも分からない素振りをしているのか。それは俺に分からない。
 俺は表情を緩め北条氏規を見た。

「私の勘違いだったようです。美濃守殿、先ほどの言葉はお忘れください」

 俺は笑顔で北条氏規に答えた。北条氏規は落ち着いた様子で「そうですか」と短く答え、それ以上俺の話に触れなかった。そして、彼は清水吉久に目配せした。

「失礼したします」

 清水吉久は俺に断りを入れ俺に目隠しをした。俺は来た時と同様に目隠しされた状態で彼の案内で大手門の外まで戻ることができた。既に日の光に橙に染まりかかっていた。俺が清水吉久に案内された頃が昼前だったから、思った以上に時間が経過している感じがした。
 北条氏規と会い俺は確信した。織田信雄が城攻めを指揮続ける限り韮山城は落ちない。
 俺は織田信雄に交渉の結果を報告するために本陣に向かった。 
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