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あえて身を引き

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第四章

「随分と気風がいいが」
「はい、気概を見たので」
「おみやさんのか」
「はい」
 彼女のというのだ。
「全て素直に話しましたが相手の名は一切出さず」
「想い人を庇ってか」
「そうでした」
 山県の白い口髭の顔を見て答えた。
「そして自身だけを罰する様にいい臆することもなく目も曇ってはいませんでした」
「疚しいことはなかったか」
「それがわかりましたので」
「だからか」
「身を引きました」
「そういうことか」
「わしは歳です」
 自分のこともだ、森谷は言った。
「維新から駆け回って気付けばもう明治も終わりました」
「確かにわし等は歳を取った」
「この年寄りよりもです」
「若い男とか」
「寄り添う方がいいでしょう」
「そう言うか、しかし」
 山県は盃を手にしつつ己に語った森谷に問うた。
「辛いであろう」
「みよを手放し」
「あのおなごが好きだったな」
 森谷の目を見つつだ、山県は彼に問うたのだった。
「愛しておったな」
「そう言うと若い男女の様ですな」
「源氏物語を見よ、人は幾つになっても恋をするわ」
 源氏の君がそうであった様にというのだ。
「そういうものじゃ」
「だからわしもですか」
「あのおなごを愛しておったな」
「おわかりとは」
「そうしたことはよくわかる」 
 山県も伊達に元老であり陸軍と内務省、そして官僚達を握っている訳ではない。人を見抜く目には定評がある。
「その心もな」
「だからこそですか」
「御主の考えもわかったがどうだ」
「嘘は言いませぬ」
 またこう答えた森谷だった。
「愛しておりました」
「それでもあえてか」
「はい、もうわしは年寄りです」
 そうなってしまったというのだ。
「みよは若い、若い者同士で歩いていけばいいのです」
「御主自身は身を引いてか」
「もう老い先短いので」
 だからこそ、というのだ。
「ここはそうします」
「笑ってか」
「ははは、そうします」
 森谷は杯を手に口を大きく開いて言った。
「そして二人の幸を願いましょう」
「言ったな、では今日はもう政治の話はせずにじゃ」
「そのうえで」
「飲むぞ、二人で久し振りにな」
「そうしてくれますか」
「好きなだけ飲め、そして忘れよ」
 この度のことをというのだ。
「よいな」
「それでは」
 森谷は山県に応えてだ、そしてだった。
 彼が勧めた酒を飲んだ、飲みつつ目に一粒の涙を出して山県もそれを見たがこのことはあえて言わなかった、そのうえで森谷に酒を勧めたのだった。


あえて身を引き   完


                     2016・10・24 
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