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SNOW ROSE

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廃墟の章
  Ⅲ


 その夜のことである。いつになくハインツの店“ブルーメンシュトラオス”亭は、多くの客でごった返していた。マーガレットとミヒャエルの二人が客として来たこともあるが、どういうわけか街の住人たちも夕食に多数来店していたのである。
「ハインツさん?もしや私共のことを…。」
 あまりの客入りにエディアが宿の主に問うと、ハインツは申し訳無さそうに顔を掻きながら答えた。
「すいません…。いつも食事に来てくれるお客さんについ…。」
 ハインツの気持ちも分からなくはないエディアは、ヨゼフへと苦笑混じりに提案した。
「ねぇ、あなた。マーガレットさんもミックさんも、折角のご縁で来て下さったんですもの。皆様にお聞かせしましょうよ。」
 そう言われたヨゼフは髭を指で撫でながら、少しの間考えた。そして何か思い付いたように微笑むと、エディアとハインツを見て答えた。
「そうしよう。だが折角のことでもあるし、主のハインツさんにも加わって頂くのはどうだね?」
 いきなり自分の名が出たハインツは、目をぱちくりさせていた。まさか自分を指名されるとは考えていなかったのである。そこてハインツは断りの言葉を告げようと口を開きかけたとき、なぜか料理人のベルディナータに遮られたのであった。
「ハインツさん。いつも練習してるんだろ?折角のお誘いだし、やってみたらどうだい?」
 何ともざっくばらんな言い方だが、いつも遠くから練習している音が漏れ聞こえていたベルディナータは、ハインツがどれだけ熱心だったのかを知っていたのである。そのベルディナータの声をホールの客が聞きつけ、「是非とも聴きたい!」との声が上がったため、ハインツは引くに引けない状態になってしまった。
「では…数曲でしたら…。」
 ハインツは深いため息を吐きながら言った。もう諦め半分と言った具合であった。
 丁度その時、裏口の扉が開かれ、そこからマーガレットとミヒャエルが入って来たのであった。見ると、ミヒャエルは手に何か大きな物を抱えており、それはハインツがよく見知ったものであったのである。
「持ってきて頂いたんですか!?」
 それは小型のクラヴィコードであった。当初はチェンバロを運び込むつもりだったのであるが、店内への入り口が狭いため、このクラヴィコードにしたのである。
「狭い場所だし、このクラヴィコードでも音量は充分じゃないかしら?あなたが音楽をやってるってベルディナータさんから聞いたから、折角レヴィン夫妻がいらしてるんだもの…是非とも聴いてみたくて勝手に持ってきちゃったわ。」
 さすがは侯爵の娘と言わざるを得ないであろう。言われて楽器を運んできたミヒャエルは勿論のこと、その場にいた者は皆、諦めたように苦笑いするしかなかったのであった。
 いつの時代もそうであるが、楽器の値は高い。それ故、庶民が音楽を聴けるのは教会か劇場、またはレヴィン夫妻のように旅をしながら音楽を生業にするものが訪れない限り、そうそう耳にすることはなかったのである。ハインツの場合は例外と言えるが、そうであってもこうして数人で演奏をするのを聴けるというのは、滅多にない贅沢だと言えるのである。
 さて、マーガレットは例のごとくミヒャエルを扱き使い、彼に運ばせたクラヴィコードをホールの開けておいた席へと置かせ、レヴィン夫妻が演奏出来るだけのスペースを確保させたのであった。周囲の客席が多少狭くなるも、それに苦を洩らす者など一人もいなかった。皆、これから始まる音楽を心待ちにしていたのである。
 しかし、厨房の方ではベルディナータがその腕をフル稼働させ、汗まみれになっていたのであった。
「っとにもう!マリア、注文は取り終わったの?」
「終わってるわ!でも、こんなにお客が入ったら人手が足りないわ!飲み物すら運び終わってないのよ!」
 マリアはホール内を縦横無尽に走り回っているが、注文は受けれど運ぶだけの余裕はなかったのである。そこで、徐にディエゴがエプロンを着けて厨房へと入り、ベルディナータへと声を掛けた。
「ベルディナータさん。僕は多少なりともレストランに勤めたことがありますから、厨房を手伝いますよ。ホールは、どうやらミヒャエル氏が手伝ってくれるようなのでね。」
「うそ!?それなら早く言ってよ!もう手が攣りそうなんだから!」
 ベルディナータはそう言うと、ディエゴにあれこれと指示を出した。こうなってしまうと、もう客だ店員だなどとは言っていられなかったのである。それはマリアとて同じことで、ホールを見るや、ミヒャエルが固い笑みで飲み物を客席へと運んでいたのであった。
 暫くすると、ホールからざわめきが消えた。待ちに待った演奏の始まりである。どうやら最初は、この店の主ハインツが独奏をするようである。
 初めに奏されたのは、ケイン・レヴィン作の序曲(組曲)であった。この曲は、終曲にファンタジアを用いた特異なものとして有名であり、元来はリュート用の曲である。ハインツはここから数曲抜き出して演奏し、その実力は観客のみならず、レヴィン夫妻をも驚嘆させた。無論、間近で聴いたことのなかったベルディナータは唖然とし、もう少しで料理を焦げ付かせるところであった。
 ハインツの妻マリアは、夫の音楽の才をよく知っていた。ハインツはこの宿屋を継ぐ以前、隣のリッツェス地方のメッテスという街にある教会で、短期間だがオルガニストとして働いていたことがあった。ハインツとマリアは、その教会で出会ったのである。だが、宿屋の収入よりも高い賃金を貰っていたにもかかわらず、ハインツは両親の事故死を知るやオルガニストの職をきっぱりと辞し、このブルーメンシュトラオス亭を継いだのであった。その時、マリアもハインツの後を追って故郷を離れ、このフォルスタへと移り住んだのである。この話はさておき、ハインツの演奏が終わると、ホール内は拍手喝采の嵐となった。
「ハインツさん!貴方、何故ここで演奏なさらないんですか?これだけの腕がありながら演奏されないなんて…音楽への冒涜ですらありますぞ!」
 驚きのあまり、ヨゼフはハインツへと歩み寄って言った。自身が音楽家ゆえに、彼がどれほど優れた演奏をしたかなぞ一目瞭然だったのである。そんなヨゼフに、ハインツは苦笑いしながら答えたのであった。
「いや、そんなこと言われましてもねぇ…。僕は宿の経営だけで手一杯で、それどころではありませんでしたから。それよりも、次の演奏に移りましょう。」
 この話はこれで終いとばかりに、ハインツは新たな譜面を開いたのであった。ヨゼフも、それ以上語ることはせず、エディタへと合図を送ると演奏体勢を整えたのである。
 次に演奏されるのは、誰しにもトリオであることは分かっていた。ヨゼフがヴァイオリン、エディタがトラヴェルソを構えており、そしてハインツが続けてクラヴィコードを演奏するのは見ての通りだったからである。しかし、演奏曲目は知らされていないため、皆食事する手を休めて三人を見ていたのであった。
「それでは…。」
 ヨゼフがそう言って二人へと合図を出すと、美しい音が店内に響きだした。
 続いて演奏された曲は、作曲者不詳の室内ソナタ集からであった。このソナタ集は、通称“グロリア・ソナタ”と言われているもので、ここで演奏されたのは第一番であった。
 本来、この第一番は六人で演奏されるよう作曲されているのだが、それを名フルーティストとしてその名を残したハンス・クラウド=ケルナーが、ヴァイオリン、トラヴェルソ、そしてチェンバロの三重奏用に編曲したものを用いての演奏であった。故に、各楽器の難易度は増し、とても素人の手では奏することは出来ないものであった。
 この選曲をしたのはヨゼフであった。普段であれば第五番の比較的易しいものを選ぶのであるが、ハインツの力量がどこまでか試してみたくなったのである。そこでこれを選曲してみたのだが、ハインツはそれを難なく弾きこなし、その腕が確かなことを知らしめたのであった。
 レヴィン夫妻は演奏を続けながらも、このハインツの才をどうにか生かす術はないかと模索していたが、それをベルディナータに簡潔に述べられてしまったのであった。
 演奏が終わる頃、ベルディナータは厨房から出て来て音楽を楽しんでいたのだが、演奏が終わった直後、ハインツにこう提案したのである。
「ハインツさん。一週間に一回でいいから、この店で演奏を聞かせるってのはどうだろうねぇ?そうすりゃ客も喜ぶし、売上だって上がるってもんだろ?」
 なんとも彼女らしい意見であった。それを聞いた周囲の客達は、どっと声を挙げてベルディナータの意見に同意したのであった。しかし、ハインツは苦笑いしているだけで、どうしたものかと思案している風であったため、ヨゼフはここぞとばかりにハインツへと意見したのであった。
「どうですかな?あなたの腕前は金に値するものです。それを使わないままというのは、教えて下さったご両親にも申し訳が立ちますまい。」
「ヨゼフさん。そうは言われますが…」
 さすがのハインツも、そう言われ困り果ててしまった。それに間をおかずして、マーガレットが言葉を繋いだのであった。
「ハインツさん。あなた、そんなに音楽が嫌いなんですの?そうではないとお見受けしますが?人生なんて一度きりなんですし、好きなことを我慢して何をするのでしょう。私が申すのも甚だしいですが、これだけ大勢の喜ぶ方が居りますのよ?何を躊躇っているのです?」
 この宿“ブルーメンシュトラオス”亭を守ることが、これまでのハインツの生き甲斐であった。たとえ音楽が断たれたとしても、両親の遺してくれたこの宿を守ることが…。しかし反面、小屋に楽器を置き、諦め切れない想いで音楽を奏していたことも、事実として否めなかったのであった。
「あなた…。宿の方は私とベルディナータさんとで何とか回せますわ。あなたはあなたの好きなことをしても、決して罰はあたりませんよ。神様だって、ちゃんと見て下さっていますもの…。」
 考え込んでいるハインツに、マリアはそっと囁いた。するとハインツは、傍らのマリアを見つめて言ったのであった。
「それでも良いと…?でも僕は、このままでも充分…」
「あなた。あなたの才能は、この私がよく知ってます。その才能を殺してはいけないと、私は常々思っていたんですよ?だから…これは良い機会だと考えたんです。ねぇ、私達のため、そして皆のために音楽を奏し続けて下さらないかしら…。」
 ハインツは迷った。今すぐ答えを出せるようなことではないにせよ、彼が音楽を生業としたかったことは、妻であるマリアには分かっていたことであろう。しかしながら、この宿を片手間にすることなど、ハインツにはどうしても出来ないことであった。だからと言って、音楽だけに集中することも、今のハインツには考えられないことと言えた。それ故、こうして趣味程度に演奏を楽しんでいたのである。両立出来るのであれば、とうにやっていることであり、やはりこれはやめた方が無難だとハインツは判断し、その考えを口にしようとした時であった。ベルディナータの手伝いをしていたディエゴが厨房から出てきて、ハインツに溜め息混じりに言ってきたのである。
「なぁ、ハインツ。どうしても無理と言うワケじゃないだろ?この店だってお前一人で切り盛りしてるわけじゃなし、回りをもう少し信用しても良いんじゃないのか?」
 ディエゴのこの言葉に、ハインツは目を見開いた。一人で出来ることなど、所詮は限られているものである。全てを一人で遣ろうとしても出来っこないのである。そう、マリアやベルディナータが居てくれたからこそ、ここまでやってこれたのである。
「そうだな…。忙しい時期には、一人雇い入れれば良いだけの話だ。よし、音楽をやろう。」
「そうこなくっちゃ!」
 吹っ切ったハインツを見て、ディエゴは笑みを溢した。
 周囲にいたマリアやベルディナータ、それにレヴィン夫妻やマーガレットにミヒャエル、そして集まっていた客達からも拍手が沸き起こったのであった。
 その中に、教会の守役であるコリン・マッカイと言う人物がおり、その時彼はハインツにこう提案を持ち掛けたのである。
「ハインツさん。是非、あの聖エフィーリア教会の大オルガンを演奏して下さい。もう何年も演奏されてはいませんが、常に整備はしておりました。月に一回程度でも宜しいので、あの大オルガンを響かせてやって頂きたい。」
 元々オルガニストであるハインツにとって、これは願ってもない話である。レヴィン夫妻やマリア等も「受けるべきだ。」とハインツに言ったが、それを言われなくとも彼の答えは既に出ていたのであった。
「私で良ければ、喜んで弾かせて頂きます。」
 ハインツの答えに、店内は再び拍手で溢れたのであった。
 このハインツ・ケリッヒは後に、名オルガニストの一人としてその名を大陸中に響かせることになる。残念ながら、ハインツは一曲も自作を残さなかったのであるが、守役であったコリンは作曲家でもあったため、ハインツに十二曲のファンタジアとフーガを書いている。他に、当時の最も名高い作曲家カール・フリードリヒ・ファッツェが、彼のために六つのトッカータと三つのパッサカリアを作曲し、ハインツが如何に優れたオルガニストであったかを今日に伝えている。
 ハインツが鍵盤奏者及び指揮者として活躍したのは、およそ三十年間であるが、その間に二度の戦を経験している。その際、彼は慈善演奏会を催し、多くの人々の心を癒したのである。それにより、晩年には王より異例とも言うべき勲章を授けられているが、その王とは、彼と面識のある人物であった。しかし、これらはまだ先の物語である。
 さて、演奏も終りを迎え、最後に誰もが耳にしたことのある曲を演奏することになった。その曲とは、レヴィン兄弟とも縁の深いリチャード・ライヒェ・フォン・フォールホルスト男爵が書いた詩集「敬虔で創造的な詩」第一巻からの一編に、友人であったサンドランドと言う人物が曲をつけた合唱曲であった。この曲も合唱なしの編曲で演奏されることも多い曲であるが、旋律にジョージ・レヴィン作のカンタータからの旋律が用いられていることでも知られていた。この旋律は国歌にも用いられており、国の人々がこの旋律を大変好んでいたことが窺えよう。
 そして演奏が静かに始まると、人々は皆席を立ち、音楽に合わせて口々に歌い始めたのであった。


神は我が憩い
神は我が望みなれ
汝無しに何を遂げられましょうや?

汝の愛は大地を照らし
汝の御手は優しく覆う
いずれ街は廃墟と成り果てようとも
汝の慈しみもて還らん

神は我が憩いであり
我は汝を永久に愛さん


 その日、ハインツの店からは、美しい音楽と笑い声が絶えなかったという。それは、これから起こる禍を憐れに思った神が、彼等へと与えたひとときの安らぎだったのかも知れない。
 この田舎町ですら巻き込んでしまう大きな禍は、もうすぐそこまで忍び寄っていたのであった。だが、まだ暫くは先の話である。その日まで、この街は平安なのである。



 
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