| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

SNOW ROSE

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

乙女の章
  Ⅳ.Sarabande


「シュカ、そうではない。左手はもう少し優しく、そして静かに…。」
 クラヴィコードの淡い音色が礼拝堂にこだまする。
「こう…でしょうか?」
 シュカは左手のみで鍵盤を奏した。
「ああ、随分良くなった。だが、短期間でよく覚えたもんじゃ。」
 シュカの前に座るゲオルク神父が、演奏を続けるシュカを見ながら言った。
 ゲオルク神父の言葉を受け、シュカは一旦手を休めてゲオルク神父に答えた。
「三歳の時より、両親に教えてもらっていました。両親は共に、音楽を学んでおりましたので。」
 何かを思い出したのか、シュカは陰りのある顔で微笑み、再び鍵盤を奏で始めた。
 そんなシュカの隣にはシスター・ミュライが座っていたが、同じように表情を曇らせていたのであった。
 本来ならば、この地に入った者は世俗のことを語ってはならない。だがゲオルク神父は、その教義的な観念を払拭しようと試みていた。
 もう二度と、同じ過ちを繰り返さぬように…。
「そうであったか。それでは、ご両親に感謝せねばなるまいのぅ。この様に、音楽の楽しみを与えてくれたのじゃから。」
 ゲオルク神父はそう言って、ニッコリと笑みを見せたのであった。
「そうじゃ…。シュカは楽譜が読めるのじゃから、そろそろ室内楽でもやろうかのぅ。マッテゾン神父、ヴェルナー神父、それにシスター・ミュライも。皆、楽器を持ってきてくれるかの。」
「神父様、私には未だ早いと思うのですが…?」
 ゲオルク神父が急に言い出すもので、シュカは大いに慌てたのであった。
 しかし、そんなシュカの言葉を聞く間も無く、皆が楽器を持参し集まったのであった。
「シュカよ。誰も一流の音を望んでいるわけではない。楽しければ良いのじゃ。」
 ゲオルク神父の言葉は尤もであるが、やはりシュカは不安であった。
 確かに、音楽は楽しいし心が豊かになる。だが反面、大変困難でもあるのである。
 そんなシュカに、いつも顰めっ面なヴェルナー神父が言った。
「何をそんなに不安がるのだ。間違いなぞ、ここにいる皆がするに決まっておろうが。」
 ヴェルナー神父の発言に、シュカのみならず、周囲の者は皆一斉に笑ったのであった。
 彼は彼で、二人の乙女のことを気にかけているのである。
「さて、何を演奏しますか?」
 マッテゾン神父がそう問い掛けると、シスター・ミュライが意見を述べた。
「でしたら“グロリア・ソナタ”はいかがでしょうか?」
 このシスター・ミュライが提案した“グロリア・ソナタ”とは、作者不詳の六曲で纏められた室内楽用ソナタ集のことである。
 その第三番が、オーボエ・ダ・モーレ、トラヴェルソ、ヴァイオリンと通奏低音のために書かれており、外の教会ではよく演奏されているものであった。
「そうなると、わしゃリュートじゃな。どれ…」
 ゲオルク神父はそう言うと椅子から立ち上がり、リュートを抱えて戻ってきた。
 ヴェルナー神父はオーボエ・ダ・モーレでマッテゾン神父はトラヴェルソ、シスター・ミュライがヴァイオリンを持ってきていた。
 何とも不思議な組み合わせであろう。
 オーボエ・ダ・モーレは“愛のオーボエ”と言う意味の木管楽器である。甘い音色のオーボエ属の楽器なのだが…それをヴェルナー神父が奏するとは、何とも以外と言えた。
「皆、宜しいかな?それでは始めるかのぅ。」
 ゲオルク神父がそう言って合図を出すと、礼拝堂内に音が響き始めた。
 第一楽章アンダンテ。ゆったりとした響きが心地好く、春の昼下がりを連想させる。
- 聖グロリアは陽射しの中に神の慈しみを感じ、その中へ神の御心を見た。 -
 楽譜の片隅にそう書かれており、この楽章の意味を表しているようであった。続く楽章いずれにも、こうした書き込みがある。
 第二楽章アレグロ。ここではトラヴェルソとヴァイオリンがほぼ休止し、オーボエ・ダ・モーレと通奏低音に比重がかかる。
 曲調は短調へと移行し、不安感をつのらせる曲となるのである。
- 民よ、何故に裏切るや?神はすぐ傍におわすと言うのに。あぁ、人よ、憤ることなかれ。 -
 第三楽章アダージォ。再び明るい調性が戻り、その主題はまるで水面の波紋のごとく、幾重にも広がってゆく。
 この主題は、古き讃美歌に由来するもので、まるで神からの愛が心に染み込むようであった。
- すべての人々よ、原初の神を讃えよ。我らを愛する神を讃え奉れ! -
 終楽章フーガ・ヴィヴァーチェ。調性はそのままに、快活に走り回る主題はまるで、愉しく遊び回る無垢な子供たちを思い立たせる。
- いつの日か、我ら汝の子として傍らにあらん。我ら喜びて舞い上がれり。 -
 この様に、各楽章に記載された言葉から“グロリア・ソナタ”の別名で知られているのであった。
 さて、この五人の演奏は…ひどいものであった。
「これでは…神に捧げることも儘なりませんな。我らも練習をせねば…。」
 苦笑いをしながら、ヴェルナー神父が言った。
「そうですね。ここまで腕が鈍っていようとは…正直思いませんでした。」
 方を落として、隣に立っていたマッテゾン神父もため息混じりに言ったのであった。
 因みに、一つも間違えることなく奏したのは、シュカただ一人であったのである。
 ゲオルク神父もシスター・ミュライも、互いに苦笑いしている有り様であった。
「あらあら、今度はシュカに教えを乞わないとならないわねぇ。」
 さも可笑しげにシスター・ミュライが言うと、神父三人は一斉に笑いあったのであった。
「確かにのぅ。それでは月に一度、神に音楽の捧げ物をしようではないか。この教会の者全てでのぅ。」
 このゲオルク神父の発案に、二人の神父は目を瞬かせた。だが少しすると、「良い考えです。」と言い、二人共に賛同したのであった。
 もう教義だけに縛り付けることは無いのだ。この二人の神父も、ゲオルク神父の新しい考え方に従うことに決めたのである。
 その中でシュカは、シスター・ミュライに小声で囁いた。
「ねぇ、シスター・ミュライ。それでは月に一度のその時に、木苺や山葡萄でお菓子を焼いて食べましょう。神から最高のものを、最高の祈りを捧げた後で…。」
 いかにもシュカらしい発想である。
 これが現在にも伝わる“レヴィン音楽祭”に多大な影響を与えるとは、この時誰一人として思いもしなかったであろう。
 初期は“聖響祭”として小さな村々の集まりで行われていたものが、メルテの村から出た兄弟の話しといつしか結び付くのである。
 シュカもまさか、自分達が行った神への賛美が、祭りにまでなろうとは思うまい。
 しかしながら、その祭りにこの教会のみならず、聖グロリアの名前さえ出てこない。それは歴史の改竄があったからであるが、それもまた、未だ遠き未来の話しである。



 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

感想を書く

この話の感想を書きましょう!




 
 
全て感想を見る:感想一覧