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豹頭王異伝

作者:fw187
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曙光
  治癒の感触

 魔王子アモンの術に陥り、心を閉ざした騎士達の前で。
 アルド・ナリス最愛の弟、吟遊詩人の若者が歌い始める。

 君は、1人じゃない。
 僕が、傍に居る。
 決して、君を見捨てはしない。

 現世への関心を喪い、凍り付いた心の内部に。
 マリウスの優しい歌声、キタラの旋律が浸透する。
 アモンの施した黒魔道の術を透過して、温もりが伝わる。

 氷が、少し、溶ける。
 永久凍土の様に、総てを拒絶する鎧。
 凍り付いていた感情が、融ける。


 暖かい歌声が響き、また少し、氷が溶ける。
 感情が甦り、癒され、昇華する。
 氷の熔けた分だけ、重量が減る。

 バランスが変わり、心が微かに揺れる。
 僅かに動いた心の隙間から、歌が浸透する。
 温もりが伝わり、凍り付いていた感情が融ける。

 様々な感情の解凍、溶融、昇華。
 サイクルが繰り返され、少しずつ、闇が薄れる。
 感情が昇華し、心の重量が変化する。


 眼が見えず、耳も聴こえず、泣く事しか出来ぬ赤子。
 無限の闇に包まれた孤独な魂を温め、慰藉を与える《もの》。
 不安と恐怖の底無し沼から、赤子を救い出す唯一の手段。

 抱き締める事で《心》を癒し、護ってくれる暖かい感触の様に。
 マリウスの歌が響き、沁み込んでゆく。
 アモンの植え付けた残留思念、罠を匿す(カーテン)が揺れる。

 透明な実体を持たぬ歌の響き、マリウスの声が《心》を癒す。
 赤子を抱擁する暖かい感触の様に、凍り付いた感情を融かす優しい歌声。
 音の精霊が《心》を蝕み、縛り、凍らせる頑強な《くびき》を(ほど)き始める。


 ヤンダル・ゾックの操る黒魔道の術、異次元の微生物。
 本人も気付かぬうちに脳細胞を喰い荒し、廃人と化す《胞子》の様に。
 心を蝕み、活力を奪い、生命力を萎えさせる魔物の様に。
 心の養分を吸い取り、無限に増殖する悪性の癌。

 心の闇に潜み、他の部分にも密やかに忍び込み、浸蝕して領域を拡げる《悪の種子》。
 無限に繰り返される連鎖を創り、活力(エナジー)を奪う(マイナス)の思考回路。
 人の心を闇に導き、実体を持たず、眼に見えない精神生命体。

 誰にも気付かれず、夢の回廊を通じて植え付けられた魔術(マジック)の種。
 アモンの分身が増殖、拡散、浸蝕を繰り返した《心》の裡に。
 マリウスの歌が響き、光の波動と化し、呪縛を熔かす。


 凍り付いていた感情が蠢き、闇が薄れる。
 光の波動が増幅され、拡散して、心を隅々まで照らし出す。
 心が温かい感触、太陽の波動で満たされる。

 グラチウスが迂闊に暁の魔女、アウラの名を口にした時の様に。
 グインの裡から爆発的な《パワー》が溢れ、《生涯の檻》を吹き飛ばした時の様に。
 闇にしか棲み得ぬ無数の影、亡霊、怨霊達が消え失せた様に。
 マリウスの歌、光の波動が溢れ闇の領域を満たしていった。

 解き放たれた感情達が集い、渦巻き、心を蘇らせる。
 己の裡に引き篭もり、項を垂れていた勇者達が顔を上げる。
 この世の果て、カリンクトゥムの扉を開く鍵の様に。
 マリウスの歌が、心の扉を開く。


 深々と静まり返る深い森林を思わせる静寂の中、マリウスは一曲を歌い了えた。
 アル・ディーンの名を捨てた吟遊詩人は己の分身、キタラを抱き直す。
 豊かな音色の和音に続いて、澄んだ歌声が流れ出す。

 サリアの娘。
 誰もが知る古い民謡、中原に普遍の子守唄。
 憧れと希望、優しさと温もり。

 枯れ果てたかと思えていた豊かな感情が蘇る。
 何処までも何時までも尽きる事の無い、人を恋ゆる想い。
 明るく暖かな感情が己の裡に湧き出で、マリウスの歌と共鳴する。


 サリアの娘を歌い終わり、カルラアの化身は唇を閉ざした。
 誰もが息を殺し、声一つ立てる事の無い夜の荒野。
 喰い入る様に見詰める数万の人々の視線を物ともせず、キタラが再び掻き鳴らされる。

 ふるさとの緑の丘。
 キタイから帰国の途中、セムの村に逗留した際に披露した謡。
 中原の真珠パロよりも北の大地、ケイロニアに相応しい唄。
 生命力に溢れる豊かな森を髣髴とさせる詠唱が、心に沁みる。

 尽きる事の無い豊かな歌声が、夜の闇に響き渡る。
 魔道師達の暗示作用が齎す音響効果、共鳴と反響が波動を増幅。
 心に直接、光が注ぎ込まれる感覚。
 感情の大波が時の封土を打ち壊し、生命力に溢れる海の潮が満ちる。


 君は、1人じゃない。
 僕が、傍に居る。
 僕は決して、君を見捨てはしない。

 力強い歌声が、心の奥底に響き渡る。
 自己否定の陥穽、滅びの風へ誘う狡猾な罠。
 精神寄生体の陥穽を打破り、生命力を甦らせる希望の光が射す。

 心を震わせる歌の力、感動を呼ぶ波動の相乗作用。
 生命力と活力を齎す、光の協奏曲。
 激しく燃え盛る感情の交響曲が響き、心の琴線に触れる。


 人は皆、1人では何も出来ぬ。
 各々が足りぬ力を補い合って、初めて何事かを成し得る。
 誰しも、全くの無力ではない。
 各人は其々、何等かの力を持っている。

 或る者は、希望を持ち続ける勇気を。
 或る者は、人の幸福を祈る真心を。
 或る者は、真理を解明する知性を。
 或る者は、戦う為の実力を。
 或る者は、全体を調整する平衡感覚を。
 或る者は、冷徹な判断力を。

 或る者は、理想を追求する強い意志を。
 或る者は、人を信じる心を。
 或る者は、夢を実現する行動力を。
 或る者は、人を許す毅さを。
 或る者は、論理的思考を形造る理性を。
 或る者は、人を労る優しさを。


(我々も王と共に、キタイへ戦いに参ります!)
 戦う意志を持てぬ程、心を折られた戦士達は数万に及ぶが。
 エルファの宣誓と共に、記憶が甦る。
 心の底から溢れ出した真摯な想い、感情は偽りに非ず。
 衝動は無気力と絶望の檻、奸計と陥穽の罠を克服する原動力となった。

 豹頭王と共に黒魔道から、中原を護る事を誓った勇者達。
 ケイロニアの騎士達は再び、剣を掲げた。
 パロ聖騎士団、カラヴィア軍、ゴーラ軍。
 マリウスの歌を聴いた人々の瞳に、涙が溢れる。

 アモンが操る夢の回廊、心を腐蝕し生きる気力を打ち砕く魔術。
 深刻な打撃を被り傷付いた心を癒し、生きる希望を回復させる歌声。
 悪夢を統べる女神ヒプノス、魔王子アモンの対極に位置する存在。
 心に無限の光を注ぎ込む運命の王子、カルラアの戦士が歌の力を実証した。


 アルド・ナリスも流れる涙を拭う事を忘れ、マリウスの歌に聞き入っていた。
 異母弟の奏でる豊穣な協奏曲が記憶の扉を開き、封印していた悔恨の感情を甦らせる。
 アル・ディーンの真心を射止めた相手、ミアイル公子に対する強烈な嫉妬。
 自分を捨て、薄幸な公子と共に生きる事を選択した弟への恨み。

 唯一人の弟の帰還を渇望するも、再会の勇気を持てぬ真の理由。
 ミアイル公子の暗殺を命じ、アル・ディーンを犯人に仕立て上げた悔恨。
 憎まれて当然の命令を下したが故の、消える事の無い罪悪感。
 兄弟再会を妨げる元凶、再び捨てられる恐怖に怯える自己防衛本能。

 歌声が、優しく語りかける。
 君は1人じゃない、僕が傍に居る。
 僕は決して、君を見捨てはしない。
 力強い歌声が、心の奥底に響き渡る。


 歌を聴いていたのは、兵士達だけではなかった。
 グインの要請を受けた魔道師達は再び、思念波を同調。
 声の届く範囲の外でも、人々の心に歌を響かせていた。

 パロ、ゴーラ、ケイロニア、沿海州、草原地方、自由国境地帯。
 心話を受け取った各地の魔道師達もまた、マリウスの声を増幅して送り出す。
 己の能力に応じ、力の届く限り数多の人々に歌を贈る。

 エルファ、サラミス、マルガ、ダーナム、カレニア、マリア。
 マリウスの歌が夜の闇を貫き、数多の心に響く。
 カラヴィア、サラエム、シュク、アルム、ジェニュア。
 クリスタルの一部にまでも、歌は届いた。

 心話の連絡網(ネットワーク)に乗り、様々な場所に暮らす人々の心に、マリウスの歌が響き渡る。
 それは中原を黒魔道の闇から解き放つ暁の光、カルラアの翼かもしれなかった。 
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