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蒼き夢の果てに

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第6章 流されて異界
  第154話 唯ひとりの人

 
前書き
 第154話を更新します。

 次回更新は、
 11月16日。『蒼き夢の果てに』第155話。
 章タイトルは 『聖戦』。
 タイトルは、 『再召喚』です。 

 
 ふり仰げば、其処には蒼き偽りの女神。
 雲ひとつ存在しない今宵、彼女は地上に向けてその冷たき美貌に、何時もより相応しい蒼銀(ぎん)の微笑みを放ち続け――
 視界の端では、今を盛りとばかりに咲いては散って行く冬の華が、藍に染まった氷空に思い思いの色を着けて行く。
 そう、それは正に幻想世界の出来事。音のない世界に繰り広げられる……まるで水族館の水槽の中を外から覗き込んでいるような。現実に同じ世界に存在しているはずなのに、何故か世界の外側から別の世界を覗き込んでいるかのような孤独を感じさせられる蒼の世界の映像。

 俺がすべての言葉を口にする直前、彼女は俺の右手に自らの左手を重ねて来た。視線は正面、今まさに小さな緑が消えて終った空間を映しながら。
 現実に其処に存在していながら存在感が希薄で、妙に作り物めいた彼女に相応しい小さな手。普段はひと肌の温もりを伝えて来る事さえ稀な彼女の柔らかな手が、今は少し――

「あなたには感謝をしている」

 そっと重ねられた彼女の手。普段通りの小さな……俺に聞こえたら十分だと言わんばかりの聞き取り難い、非常に小さな声で話し始めた彼女が何故かそうする事を望んでいるかのように感じられ、俺は重ねられた自らの手をひっくり返し――

「最初からあなたはわたしの事を人間として扱ってくれた」

 その事がわたしに取ってはとても新鮮だった。
 手の平を合わせた形で繋がれる彼女の左手と俺の右手。指と指を絡ませ合い――

 でも……と、短く、まるでため息を吐くかのように小さく続ける有希。
 ただ、でも?

「でも、あの頃のわたしは矢張り、人間ではない、単なる創造物に過ぎなかったと思う」

 言葉の意味に大きな陰の気配を感じ、彼女の顔を改めて強く見つめる俺。その一瞬の隙間に発せられる彼女の言葉。
 その端整な横顔に浮かぶのは普段通りの無。但し、見様によってそれは喜怒哀楽。そのすべての感情を浮かべる事にさえ()んだ、そう言う、疲れ切った、何もかもを諦めて仕舞った者が浮かべる表情のようにも感じられた。

 これはマズイ……のか?
 そう考えを回らせる俺。確かに今、彼女の状態は微妙な感覚だと思う。言葉の意味はどう聞いても陰の気配……ややドコロか、かなり大きな負の感情から発せられた台詞としか思えない内容。しかし、今現在の有希が発している気配はむしろ陽の気。前向きで、未来を見つめている人間が発している気配に近い。

「そんな哀しい事は言うなよ」

 矢張り、自然の気配などではない、人の感情を完全に把握するのは難しいか。そう考えながらも、先ほどの彼女の台詞を打ち消す俺。確かに、今現在の彼女が発している雰囲気が悪い物ではない。悪い物ではないのだが、それでもそのまま聞き流すにしては矢張り重すぎる意味の言葉だと思うから。

「もし、有希が人間ではないと言うのなら、その有希よりも更に人間離れした能力を行使する俺は、人から離れた化け物以外の何者でもなくなって仕舞うでしょうが」

 本来ならかなり深刻な内容を薄める意味での少し茶化した口調で。

 先ほどまでとは逆の形。彼女が冬の花火をその瞳に映し続け、俺が彼女の瞳に映るそれらを見つめる。
 もっとも、俺の瞳に映ったそれらはより喜劇の方向へ。彼女の瞳に映ったそれは悲劇の方向へとシナリオを進めて行く可能性も高いのだが……。

「人が人である証は、心の在り様だと俺は思う」

 ただ、何時までもオチャラケた雰囲気では俺の言葉に説得力が産まれない。メリハリを付ける意味でも少し真剣な表情で、言葉を紡ぐ。
 そう。他者を害して平気でいられるような人間。他者を陥れて平気でいられるような人間は例え生物学的にホモサピエンスであったとしても、ソイツは既に人間ではない。
 翻って有希を考えてみると、

「あの時、有希は俺と契約を交わす事が出来た」

 俺は中庸よりは少し……いや、今はかなり光寄りだと思う。少し闇に染まった……と言う程度でも、もしかすると新たな契約を交わす事が出来ない可能性もある式神使い。その俺が契約を交わせた以上、更に、有希と契約を交わして以後に俺の方に何等かの不都合。例えば、陰気が溜まる事により病を得る、などと言う事がない以上――

「有希は人間。それも、ちゃんと光の方向を見ている人間だと証明出来ると俺は思うぞ」

 何故、彼女が今、こんな事を言い出したのか不明。今までの彼女の言動などから、彼女に何らかの思惑があっての発言だとは思うのだが、そう言う負の思考にもし、現在の彼女が囚われているのなら、其処から立ち上がる手助けは必要だと思う。少なくとも、ひとつの場所で堂々巡りと成りかねない思考など百害あって一利なし、だ。
 他人が聞くと……例えば、アラハバキ召喚事件を起こしたあの犬神使いの青年が聞けば間違いなく違う答えが返って来るであろうと言う俺の答え。オマエも、その女も人間などではなくバケモノそのモノだよ、……と言われる可能性の方が高い内容。もしかするとこの言葉は有希に聞かせる為と言うよりも、俺自身にそう思い込ませる為に発した言葉なのかも知れない。

 しかし――

「あなたがわたしを助けてくれたのは何故?」

 相変わらず、陽の気……おそらく、喜に分類される雰囲気を発しながら問い掛けて来る彼女。但し、その口調や表情から、今の彼女の心情を理解する事は俺以外には出来ないでしょう。
 う~む、どうも彼女の思惑通りに会話が進んでいる事が彼女の機嫌が良くなっている理由なのでしょうが、この会話の行きつく先が分からないので……。

「俺が学んで来た退魔師の基本から、あの時の有希を見捨てる事は出来ない」

 その夜の事を思い出しながら。……今の俺の経験ではない、おそらく前世の記憶だと思われる、インストールされた記憶を思い出しながら答える俺。
 そう、季節は冷たい冬の夜。玄関から一歩踏み出した瞬間、次元孔へと落ち込み、放り出されたフローリングの床。その時に出会った人工生命体の少女は、どう考えても、何処から見つめたとしても闇に染まった存在ではなかった。更に、自らの死が近付いていると言うのに、その死を淡々と受け入れようとする姿にも俺の心に訴え掛ける何かがあったのも事実。

「例え、何度同じ人生を歩んだとしても。例え、他の誰かにあの時の行いはウカツだった。もっと慎重に考えてから行動した方が良かったのでは、と言われたとしても、俺は同じ判断を下すと思う」

 良く分からないが、彼女と契約を交わした理由はこんな感じだと思う。確かに俺の式神契約には強い拘束力はないので、目の前に現われた相手が俺に隙を作らせる為に本性を偽る可能性もゼロではないが……。
 ただ、そもそも、俺の見鬼の才は表面上を取り繕った程度で本性を見抜けないような物ではない。基本的に悪意に染まった相手からはどす黒いオーラのような物が発散されているので、そう言う相手からは俺の方から少し距離を取るので……。

 俺の答えを聞いて小さく首肯く有希。ただ、これは当たり前。俺は同じような言葉をこれまでも何度か口にして来た以上、今までの言葉にウソがなければ、今宵も同じ答えが返されて当然。
 ならば、何故、同じ答えが返されると分かった上で、彼女は……。

「わたしは強い疑問を感じながらも、朝倉涼子が暴走すると言う欺瞞を何度も何度も見続けて来た」

 普通に考えるのなら彼が過去に溯り、呼び出されてから間がないわたしに対して未来の情報を渡した瞬間に、それまで得て居た信頼を一瞬の内に失って仕舞う可能性がある事に気付きながらも……。
 淡々と自らの過去に関する事柄を話し始める有希。

「永遠にループし続ける夏休みに関しても同じ」

 わたしには時間がループしている原因と、その解決方法を知っていながら、思念体の命令に従い、ただひたすら観察と外界からの干渉の排除にのみ自らの能力を使用する事しか行わなかった。出来なかった。

「でも、今になって分かった事がある」

 あの時、わたしは不満を感じていた。ループする時間に対して何も対処する事の出来ない自分に対して。対処する事を命じない情報統合思念体に対しても。
 そして、そのループを発生させている元凶に対しても。

「その事が後の十二月に起こす事件の遠因となったのは間違いない」

 確かに彼女が語る内容は彼女自身の過去に関係する内容……だと思う。それに何となくだが、彼女が言いたい事が理解出来た……様な気もする。
 それは――

「人間とは自分で考えて行動をする存在。元々、監視と観察を行う為に作り出されたわたしは人間とは似て非なる存在でしかなかったと思う」

 もし、朝倉涼子暴走事件を事件が起きる前にわたしの手で阻止していたとしたら。もし、終わらない夏休みを、ループが始まる前の段階でわたしの手で阻止していたとしたのなら、果たして思念体がどう言う対処をしたのかと考えると――

 そこまで口にしてから、氷空に打ち上げられる色彩に向けて居た視線を俺へと移す彼女。
 確かに、俺は彼女が自ら判断して行動する事を推奨して来た。更に、彼女の判断に異議を唱えるにしても、その理由を明確に言葉にして伝えて居たと思う。
 少なくとも理由もなく、ただ命令する……などと言う事はなかったはず。もし、自分の上司がそう言うタイプの人間だったらどう感じるか。どう考えるか、と考えると、俺自身が間違いなく反発して言う事を聞かなくなる可能性が高いから。
 強い不満を感じて、俺自身が陰気に染まった存在へと変わる可能性が高くなるから。

 ただ、もし、彼女が思念体の命に従わず、数々の事件自体が起きる前に対処をして終った場合は……。
 少し思考を回らせる俺。
 彼女、長門有希の能力から考えるのなら、事件が発生する前。もしくは小さな芽の内に摘み取って仕舞う事は容易い事だったでしょう。少なくとも彼女が挙げた事件は、今俺や彼女が関わらされている事件と比べると神や悪魔などの神霊が関わっている……表向きに関わっている事件ではないので。
 そして、その場合の思念体の対処も、普通に考えるのなら何の御咎めもなかった可能性の方が高いと思う。

 何故ならば、思念体の目的が進化の可能性の模索であったはずだから。
 自らが創り出した人工生命体が、自分たちの命令に従わず、独自の判断で事件に対処する。その方が正しいと考えて。
 これは、彼女に初めからそう言うプログラムを施していないのなら、新たな可能性を示す物だと思われる。プログラムにない行動を開始する人工知能。これを異常行動と取るか、それとも新たな可能性と取るかは微妙な処だけど、それでも、本当に新たな可能性を模索しているのなら、これは簡単に見過ごす事が出来ないはず。
 但し、これはハルヒを観察する理由に欺瞞がない場合に限られるとは思うのだが。
 もし、それ以外の理由があるのなら、おそらく、そう言う思念体の意志に背くような行動を彼女が行おうとした瞬間、彼女の情報連結の凍結作業が為されて終わったでしょう。
 そして、おそらく思念体の目的は進化の閉塞状態の打破ではない。

 何故ならば、もし、それが本当の目的ならば、彼女が十二月に起こす事件と言うのは正にその目的に合致する事件。本来、自らたちが使う為に作り出したはずの道具が意志を持ち、自らたち(思念体)の意志とは違った行動を始めた。
 これはおそらく思念体が望んだ状況が起きつつある状態。ここから先はハルヒ以外に、長門有希も監視の対象となる可能性が高いはず。
 然るに、何故か今現在の有希の記憶の中に事件が起きる前の情報はあるが、事件が終わった後の記憶は存在していない……と言う。
 これは事件の後に今現在の彼女の意識が復活する事がなかったと言う証拠。

 つまり、彼らが言う進化の可能性を彼ら自身に因って摘み取ったと言う事。自己矛盾も甚だしい。

「確かに俺が有希の判断で行動する事を推奨したのは事実。せやけど、それは別に有希の為だけを考えてそうした訳やない」

 俺の判断力は俺自身の能力を超える事は出来ない。
 俺は全知全能の神でもなければ、不敗の英雄でもない。当然、常に自信満々で行動している訳でもない。俺にあるのは他者よりは少々良いと言える程度の記憶力と、何度になるのか分からない前世での経験だけ。
 矢張り、一人よりは二人。二人で考えれば、一人で考えるよりも良い知恵が浮かぶ可能性は高い。そう考えて、俺の式神たちに対しては、常に自らの意志で行動する事を推奨している。
 その事を有希に対しても行っただけ。別に改まって感謝されるほどの事でもない。

 もっとも、そう考えるのなら情報統合思念体は進化の極みに達した高度情報生命体であったらしいので、個人が考え得る思考など初めからすべて想定済み。故に、有希個人が考え出した内容など初めから見当する価値すらなかった可能性もあるとは思いますが。

 俺の答えを聞いた有希から少しの負の感情が発せられる。そう感じると、普段通りの無に彩られた表情が、何故か妙に不満げに見えるから不思議なのだが……。
 ただ……。
 う~む。この負の感情に付いては意味が分からない。

「あなたはもう少し自分に自信を持っても良い」

 意味不明の負の感情に対して、少し訝しげに彼女を見つめ返す俺。そんな俺に対して告げられる彼女の言葉。
 但し、

「いや、それは――」

 今宵は何故か、彼女との間に意見の一致する点が少ないな。そう考えながらも、多少の誤解があるようなので、訂正を行おうとする俺。
 しかし、その言葉を発しようとした瞬間、俺の言葉を制するかのように彼女の指が俺の頬に触れた。柔らかく、そして普段とは少し違う温かなその指先。
 一瞬、発しようとした言葉よりも、その指先の方に意識を奪われて仕舞う。その隙に、

「大丈夫。あなたが自分を戒める為に、敢えて自らを卑小な存在だと言い聞かせている事は理解している」

 あなたの感情はわたしにも強く伝わって来ている。
 そして、負の感情を発した割には優しげな気配を放ちながら、言葉を紡ぐ彼女。

 分かっているのなら何故、そう反射的に考えて仕舞い、心の中でのみ軽く舌打ち。多分、今の俺は少しの負の感情を発して仕舞っているとは思うのだが……。
 但し、だからと言って、有希の言葉を簡単に受け入れる訳にも行かない。
 何故ならば、それは非常に危険な事態を招き寄せる可能性があるから。正直、調子に乗り過ぎれば、本来なら見えなければならない物が見えなくなる危険性が高くなる。確かにあまりにも自分を卑下し続ける事により発生する弊害はあると思う。例えば決断すべき時に、自らに自信がないばかりに決断する事が出来ず、結果、不幸な結末が訪れる事となる、など。古来、こう言う理由でチャンスをつかみ損ねた優秀な人間の例は枚挙にいとまがないほどだと記憶しているから。……が、しかし、それよりも浮かれすぎて落ち込む穴の深さ……最悪の場合、誰かの死に直結するぐらいの深い穴に陥る危険性と比べると、少々、自分の事を卑小な存在だと思い込む方が俺は安全だと思うのだが……。

 俺としては珍しい、有希の言葉を全否定するかのような思考。確かに戦いの場に身を置く事のない人間ならば、有希の言うように自分に自信を持つ事も重要だと思う。その方が、状況が良い方向に転がる可能性もあるとは思うから。
 果敢に攻めて行く方が、守りに徹するよりも光明が見える場合が多いと思うから。
 ただ、根拠の薄い自信から思考停止に陥り、結果、無理な戦いに身を投じた挙句に玉砕……などと言う、笑うに笑えない結果となる可能性も高くなると思うのだが。

 俺の場合、勝敗は兵家の常。……などと(うそぶ)く事は出来ない。俺の後ろにもう一人俺がいるのなら、そう言って一度や二度敗れたとしても問題はない、とは思う。誰かが異界からの侵略者を留めてくれるから。
 しかし、現実に俺の後ろに俺はいない。俺は一度の敗戦で俺の後ろにいる大切な人すべてを失う危険性のある戦いに身を置いているのだから。

 かなり否定的な感情に支配された俺。その俺を見つめ返す有希。その視線は強く、そして、普段の彼女からは考えられない事なのだが、少し優しく感じる事が出来た。
 そして、小さく首肯く。

「あなたに取ってわたしは一番かも知れない」

 おそらく、俺が相変わらず否定的な感情を抱いている事を理解したのでしょう。少し意味不明ながらも何か話し始める彼女。
 もっとも、普通の……俺の感情を読む事の出来ない相手。例えば、朝倉さんなどが茶化して自分の事を俺が一番だ、などと考えて居るとボケたのなら、盛大なツッコミを入れる処なのでしょうが……。
 ただ、有希の場合は間違いなく俺の感情を読んでいるので……。

 俺本人よりも――。妙な処に拘りがあり、様々な事象に囚われ過ぎて素直になれない俺自身よりも俺の感情に敏感な彼女の言葉はおそらく真実。

「でも、わたしに取ってあなたはただ一人。唯一の存在」

 何処にも代わりになる人間などいない、唯ひとりの人。

「誰からも顧みられることもなく、誰からも愛されることもなく、ただ其処にあるだけの日々」

 そうある事が当然だと考えていたあの頃。
 その永遠に続くかと思われた孤独な日々から救い出してくれたのはあなた。
 女性にしては少し低い、しかし、透明な声。この瞬間、彼女がそっと触れた頬を。言葉を紡ぐ薄いくちびるを。そして、何かを望むかのように僅かに潤んだ瞳を何時も以上に自らが意識している事を感じた。

「あなたはその事に対して。わたしに対しては誇っても良い」

 しかし――
 一番と唯一か。似ているが微妙に違う表現にやや自嘲に近い笑みを口元にのみ浮かべる俺。大丈夫、未だ心に余裕はある。色々な意味で未だ俺は完全に追い詰められている訳ではない。

「あなたにはわたしがいる」

 彼女はそう言ってから、俺の手を自らの手で優しく包み込む。
 そして、

「ふたりなら大丈夫」

 一歩……いや、半歩俺に近付きながら、普段、俺が良く口にする言葉で閉める有希。何故だろうか。口調も表情も普段通りの無に等しいソレなのだが、何故かこの時の彼女の言葉は、表情は酷く優しげに感じる。
 おそらく、普段はあまり感じる事のない包み込まれた手の温かさ。彼女の生命の証と、今宵。十二月二十四日と言う夜が持つ魔力の所為だったのかも知れない。

 彼女の視線に耐えられなかった……訳ではない。訳ではないのだが、しばし天上を仰ぎ見る俺。そこには何時も通りの、決まった時間に昇り、決して満ち欠けする事のない妖星……。様々な神話や伝承で世が乱れる際に現われると語られている二つ目の月と、古来より天后と称されて来た地球の本来の衛星、ふたりの女神の姿が存在していた。
 確かに特殊な能力がある人間にしか見えない月がある段階で異常な……と表現すべき状況なのかも知れないが、それでも今宵は何の危険も感じる事のない、産まれてからこれまで暮らして来た世界に訪れていた平和なクリスマス・イブと何ら変わりのない夜。

 ただ……。
 ただ、今宵、世界は美しい。少なくとも今まで俺が知っていた。考えていた以上には。

 それなら、……と、短く告げる俺。視線は再び彼女の元に。
 もっとも、今宵は俺自身も多少……ドコロではないぐらいの失調状態だったのかも知れない。すべての家族を失って以来、ずっと纏い続けて来た鎧を一瞬で剥がされ、普段ならば、例え有希であったとしても心のここまで深い部分にまでは踏み込ませる事はない……はずなのに、あっさりと自らのテリトリー内に侵入を許した挙句、その状態を維持されたとしても心が何の警告も発しようとしないのだから。
 ただ、何にしても……。
 何時もと同じように少し姿勢の悪い形で腰かけていた形から、目の前の彼女のようにちゃんと背筋を伸ばす俺。本当ならば、彼女に握りしめられた手を、こちらの方から握り返すべき状態なのだが……。

「これから先。かなり永い付き合いになるのは間違いないけど……」

 誰にも自らの感情を見せようとしない彼女が唯一、その心を見せる相手が俺。俺が彼女に抱いている感情。一番大切……と言う感情は重いと思う。しかし、唯一の存在だ、と言う言葉は更に重い。
 一番が居るのなら、もしかすると二番が居るのかも知れない。今は居ないにしても、将来に現われるのかも知れない。それを無意識の内に想定して、俺の心の深い部分で彼女の事を一番だと感じていたのかも知れない。
 しかし、唯一の存在に代わりなど存在しない。故に、唯一。

 彼女は何も言わない。ただ、ほんの少しの不満を発して居るだけ。そして、その不満は当然だとも思う。何故ならば、これから俺が口にするのは彼女に取っては当たり前。今の彼女にはそれ以外の目的など存在していないから。
 それまでの支配された生活から自由を得た瞬間に獲得した新しい目的。
 しかし、俺には本当の意味でその覚悟はなかった。いや、実を言うのなら、未だに迷いはある。俺の事情に彼女を巻き込んで良いのか、と言う迷いが。

 故事に曰く。輩鳥(ひちょう)尽きて良弓蔵せられ、狡兎(こうと)死して走狗(そうく)煮らる。……と言う状況となる確率がかなり高い俺の運命に。

 今、この瞬間、氷空を彩る大輪の花が無音のまま儚く散った。永遠と溢れ続ける湯が微かな流れを作り、それに相応しい心を落ち着かせる音色を奏でる。
 そう、今ここにあるのは運命の分岐が発生する直前の……静寂の時。

「共に歩んで行ってくれるか?」



 その夜遅く、俺は今度の人生で三度目の異世界の旅人となった。

 
 

 
後書き
 最後は……逃げたね。あまり突っ込んで描き過ぎると色々とマズイから。
 尚、逃げた後の出来事ついては何話か後に答えが示されます。

 それでは次章のタイトルは『聖戦』。
 次回のタイトルは『再召喚』です。

 追記。
 帰った時のハルケギニア側の日付は……。
 ハガルの月、ヘイムダルの週、イングの曜日です。
 地球の暦で言うと2月14日。

 ……クリスマスの次にヴァレンタインですか。
 お正月はどうなった?

 追記2。デカいネタバレをつぶやきに挙げます。
 本当は後書きに書く心算だったのだけど、文字数の都合で。 
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