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魔弾の王と戦姫~獅子と黒竜の輪廻曲~

作者:gomachan
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第6話『想いを勇気に~ティグルの選んだ道』

「どうした?殺したきゃ殺せよ!」

縄で自由を奪われているザイアンは、轟いた。
自虐気味な視線のザイアンと、哀れみな視線のティッタがぶつかり合う。
出てきた言葉に込められた感情は、互いに真逆のもの。モルザイム平原の戦い直後とは思えない静かさだ。
心が沈み、淀み、訴えている。ザイアン=テナルディエは父の懐という無菌室で育った、いわば愚の成長の形。
もはや、自分を罵る言葉を止めることを、テナルディエ軍の敗残将にはできなかった。
そのザイアンの処遇を、一介の侍女が決めなければならない。
アルサス侵攻軍の総大将ザイアン。その総大将の卑劣な悪行に最も巻き込まれたティッタ。人の生死を、処断を、そして答えを出さなければならない。
そんな意味を込めて、ティッタはくすんだ赤い若者の顔を見上げた。
静寂な時間。そして、セレスタの住民達がティッタに視線を集めている。見渡す限り、誰もが――

「……ティッタ」

心配そうな声で、凱がつぶやく。この長髪の青年にもわかっていた。何故、彼女に全てを委ねたのかを。
ティッタの加害者がザイアンで――
その加害者が侍女の居場所を壊したから――
ティグルヴルムドは国土を売り渡した反逆者になったから――
故に、ティッタがアルサス領主不在の代理だから――

「ティグル様の大切な居場所があんな風になっちまって!オレ様を恨んでんだろ!?」

最初の冒頭部分だけ、ティッタの声色を真似て言うあたり、ザイアンの人間性が理解できる。
せめて出来る精一杯の抵抗に、ザイアンは微量の満足感を覚えていた。

「……下衆だな」

そう侮蔑を降すエレン。最も、そう思ったのは彼女だけではない。
だが、自暴になっているザイアンには、エレンの侮蔑さえも耳に届いていない。

「それが!張本人がこんな惨めな姿になって!気分がいいだろうな!ええ!?ヴォルン家の侍女サン!」

ティッタにとって、ザイアンの言葉は許容できるはずがない。むしろ、それは間違いだったとザイアンは気付く。

――次の瞬間、ティッタはザイアンに接近して、渾身の平手打ちで彼の頬を叩いていた!――







パン!!!















乾いた鞭にも似たような音が、セレスタの町に反響する。
そもそもティッタの細腕ではたかが知れている。だが、侍女に叩かれたという事実は、確実にザイアンの心を叩きのめした。
完全にザイアンは呆けている。

「……で……か?」

嗚咽交じりのティッタの声は、悲痛、懇願、儚くも強い想いに満たされていた。
涙腺で潤んだ視界が、彼女の感情を刺激する。

「どうして……どうして……あたしたちは、ただ平和に暮らしていたいだけなのに……」

ティッタの口から吐き出される言葉は、少なくとも罰ではない。
声量の小さいティッタの声は、呆けているザイアンにとって聞き逃せないものとなり、少しずつ、彼の心へ染み込んでいく。
言霊のように確かな力となって、ザイアンのみならず、ティグルもエレンも……凱の耳にも届いていく。

「あたしたちが……一体何をしたって……いうんですか?」

これが……アルサスを苦しめたのが、嵐なら、洪水なら、干ばつなら、天災なら、天を恨めばいい。でも、天は何も答えない。天に向かって叫んだところで、虚空となって人間を嘲笑うだけ。
ならば、神々を恨めばいい。でも、神々もまた何も答えない。所詮、人間の祈りなど届きはしない。
しかし、アルサスを苦しめたのは、自分と同じ人間だ。だから聞きたい。答えが聞けるから。何故、どうして、あたしたちが一体何をしたのかを――
自分の気持ちを分かってほしい。願いを聞き入れてほしい。だから彼女は話し続ける。今にも引き裂かれそうな心のままで。
高ぶる感情が、ティッタの口調を強めて、ザイアンの心に畳みかける

「貴族の方々から見れば、あたしたちは弱い。弱い存在かもしれません。でも……」

それでも――それでも――これだけはどうしても言いたい。いや、言わなければならない。

「弱いことって、そんなに悪いことなんですか!?いけないことなんですか!?」

「オ……レ……は……」

――俺は、ジスタートの介入を防ぐ大義名分の為にやった事!現にそこには売国奴がいるではないか!?――そう正当性を訴えることもできたはずなのだが、ザイアンには出来なかった。
存在しなかった罪悪感が、顕著な形となって、ザイアンの心をかき乱す。ゆえに、反論も申し出も出来なかった。
ティッタとて感情に身を任せれば、ザイアンの首を胴と分かつ願いも出来たはずなのに、心優しいティッタにはできなかった。
憎むべき相手と、倒すべき敵は決して同意味(イコール)ではない。
今更ながら、ザイアンの唇に赤い血が垂れていることに気付く。下衆のカタマリといえど、ティッタと、そして弱者と侮っている同じ色の血が流れていることにも気づく。
自分と同じ、赤い色をした血が――
二つの意味に気付いたティッタの言葉は、明らかにセレスタの雰囲気を支配していた。
そして最後に一言だけ、別れの挨拶を投げかける。

「……帰って……下さい……」

皮肉というべきか、つい先ほど前に、ヴォルンの屋敷でやり取りしていた台詞が飛んできた。
今のザイアンに、あの時のようにわざとらしく聞き返すこともできず、ただ茫然とするばかりであった。
小さな侍女の気持ちを代弁して、凱はザイアンの開放を宣言するのだった。





◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇






「ザイアン=テナルディエを解放する。もう、みんなも分かっているはずだ。ティッタの答えを……」

そう代弁した凱もまた、ザイアンを放す気持ちを宣言した。
もっとも、凱とて理の側面で利益につながらないのか、情の面でティッタの気持ちを汲んだのかは分からない。
どのみち、任務に失敗したザイアンを待ち受けているのは、苛烈な処罰だ。
肉親ではない。もっと、自分を取り巻く環境からくる侮蔑の笑い――

テナルディエ閣下の息子のくせに――

……バカ息子が――

誰もザイアンをザイアンと見ない、理不尽な環境――

精神の休まる場所のない、あの環境は今回の失敗が後押しして、さらに悪くなる。

ティッタは、ザイアンを許した。だが、アルサスの民全てが許したわけではない。領主だったティグルにとって、そのティグルの義に応じたエレンにとっては「倒すべき敵」であり、「憎むべき相手」なのだ。
最も恨んでもいい人間が、恨まれるべき人間の生を望んでいる。だから、これ以上ザイアンを束縛することはない。
凱の言葉に込められたティッタの心を知るように、ティグルとエレンは不満であったがしぶしぶ頷いて肯定を示す。
ネメタクムへ向かう街道まで案内し、ザイアンの姿が見えなくなっていく。
力のない足取りは、ザイアンの心に重い枷があるように思わせる。凱とティッタのやり取りの一部始終を見ていたティグルは、後ろから近づく三つの気配を感知した。
覚えのある銀閃(かぜ)。そして感触。長く付き合いのある朗らかな雰囲気。そして、自身を心から慕う弓使いだ。

「ティグル……本当にこれでよかったのか?」

「若……」

「あの人はティッタ殿を……」

「俺がティッタに委ね、そのティッタが出した答えだ。これ以上俺が言うことではない」

黒き弓は今だティグルにある。もう矢筒はカラなのに。なぜか、この時だけ、ティグルは愛おしげに弓を見つめていた。
エレンもそうだ。腰に帯びているアリファールを、何度か愛おしげに柄をなでていた。
くすんだ赤い若者は、見える形でザイアンに報いを与えたかった。
銀の髪の少女は、斬れることなら、斬り捨てたかった。
禿頭の若者は、そのどちらかは分からない。

「戻ろう。みんな。俺達にはまだやることがいっぱいある!」

心の内を隠し、ティグルは戦友と共にセレスタの町へ踵を返した。
この後、宴が待っている。





『夕夜・セレスタの町・勝宴場』





テナルディエ軍が撃退された。
セレスタの人間は真っ先に知らせを受ける事が出来たが、ユナヴィールの村や他の村が聞けば、「嘘じゃないのか?」と疑うのが普通である。
流石は領主様!ティグル様のおかげ!そんな称賛が宴会場の中心で響き渡る。
先ほどのザイアンの件で沈んだ空気が吹っ飛んだような雰囲気だ。
ティグルとしても、協力してくれたジスタート軍に労いたかったし、町の人々にも明日から復興業務がある。何としても英気を養ってほしかった。
酒を飲みかわし、賑わうセレスタの一角にて、今を生きているジスタートとセレスタの両者が占領している。戦後間もないので、壊された家屋等は散乱したままだ。
それでも、勝利という歓喜が大きな原動力となり、臨時で応援に来てくれた女給さんが、忙しく酒や料理を運んでいる。
その中に元気を取り戻し、エプロン姿のティッタの姿もあった。





――宴会場はやがて一人の黄金の騎士についての話題で持ちきりになった――





たった一人でセレスタの住民を守り抜いた。
そんな話を耳にはさんだとき、エレンは我が耳を疑った。

――神話に出てくる伝説の勇者でもなかろうに、たった一人で何が出来る?腕前に自身があろうがなかろうが、三千もの敵に立ち向かうなんて、愚者の所業だぞ――

あの日のライトメリッツでの夜。ティグルが兵の賃貸を申し出た時のやり取り。エレンは不思議な気分で思い返していた。
テナルディエ軍が三千の兵を率いて、アルサスを焼き払おうとしている。
理屈でわかっていても、感情が納得しないティグルを押し止める為に、彼に叱責した言葉が彼女の心を膨らませる。
単騎掛けで、大軍に突貫する英雄が登場するのは、ヤーファ国に伝わる戦国伝。3つの国に分かつ群雄たちが、支配と絆と仁義を駆けて戦う物語だとか。
その登場人物は、赤子を脇に抱え、兵の海を掻き分けて、これ一心胆の将と言わしめたそうだ。

「エレオノーラ様はどう思われます?尾ひれがついた噂話を」

「そうだな。リム。皆が口を揃えて言うのだから、信じるしかないだろう」

「口裏を合わせているとは考え難いですし、私も信じていいような気になってきます」

「珍しいな。お前がすんなり噂を信じてしまうとは」

「それは……エレオノーラ様もでしょう」

からかうエレンの口調に、リムは口を尖らせた。

シシオウ……ガイか。

濁音の強い、姓と名が入れ替わっている、独特な名前。
あまりに固舌な名前の為、彼の名をつぶやいたとき、うまく発音できなかった。無表情なリムに珍しく笑いをもら層になったが、何とか耐えた。
まったく、何て名前だ。いっその事ガイで通せばいいのに。

「折角だから。皆が噂する「勇者様」の顔を拝みに行くとするか♪」

好奇心溢れる主をもって、リムは重い溜息をついた。そんな主の後ろを、リムは黙ってついて言った。





◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇





「それで領主様!黄金の騎士様は、雨あられと降り注ぐ矢を、こうババババババと捌いちまったんですわ!」

初老の男性が、大げさに語り掛け――

「目にも止まらぬ速さで、兵士たちの間をくぐって、これくらいのナイフで殺さずに倒しちまったんです!」

恰幅(かっぷく)のいい女性が、興奮気味で仕草を付けて――

「巨大な黄金の角に、黄金の鎧……まさに戦神ワルフラーンのようじゃ」

知識の深い老婆が、青年の容姿をそう例えた。

その青年、獅子王凱はたくさんの子供と遊んでいた。それはさながら「○○○○で、僕と握手」の光景だった。
子供達にとって、勇戦した凱の存在は、まさに絵本から飛び出てきた英雄や勇者(ヒーロー)のような存在だ。
空想の中で膨らませて、いないはずの存在に憧れるより、実在する人間の方がはるかに嬉しいし、なにより喜べる。
一騎当千、そのような武勇で片付けられるほど、凱の戦いは語れるものではない。
文字通り、本当に一人で戦い抜き、折れそうになった住民の心を鼓舞し、諦めない事への大切さを教えてくれたのだ。
言葉では、いつしか心の枝は折れてしまう。
行動なら、いつか必ず心の枝を伸ばしてくれる。

「その話を、もう少し詳しく聞かせてくれないか?」

適当な座りものに腰かけたティグルは、領民にそう頼んだ。
本当なら、本人の所へ今すぐにでも行きたいのだが、領民の子供達が凱を完全包囲している。
ティグルとしても、子供達の楽しい時を邪魔したくはない。しばらくすれば、言葉を交わす機会も出てくるだろう。
彼自身も興味がある。自領の民が、部外の人間をこうも称えるなど。
ティグルの問いに、女性が答える。

「ほら、あそこに背の高くて、髪の長い男がいるだろう?間近で見た時、あたいはちょっぴり見惚れたよ。黄金砂のように零れる髪がとっても綺麗でさ。女ながらに嫉妬さえしたもんだ」

女性の表現に、ティグルの瞳はさらなる興味で輝いた。

「ティグル様がいない間、ここもいろいろあってね。盗賊団に襲われたり、ティッタちゃんが何者かに誘拐されたり、何かと災難続きが絶えなくてさ。本当に感謝してもしきれないよ」

盗賊団に襲われた。
ティッタが何者かに誘拐された。

――俺がライトメリッツにいる間、本当にそんなことがあったのか――

おおよそは、アルサスへ戻る途中、バートランから聞いていた。ただ、異国で聞くのと、住民の生の声を聞くのとでは、認識の度合いが違う。
現実味が、徐々に増していく。

「その連中はドナルベインと名乗ってて、ちょうどティッタちゃんがティグル様の身代金を何とか集めていたよ。ところが、奴らは寄ってたかってティッタちゃんからお金を巻きあげたんだ」

思わず、ティグルは手に力を込める。ティッタに乱暴を働いた連中に対する怒りの感情と、自分の為に身代金を集めまわっていたティッタの健気さに対して――
芝居がかったような口調で、女性は物語を再開する。

「ところが、襲われているティッタちゃんの元へ、あの噂の兄さんがやってきた!「待て!これ以上、その少女に切っ先一寸たりとも触れるな!相手なら、俺がするぜ!」って」

ティグルの魂は熱く震えた。あまりの嬉しさに、目尻が緩みそうになる。
いつしか、話を聞きに来た領民が増えていた。

「盗賊の連中はひいふうみぃ……10人くらいかな?獣のように襲い掛かる連中を、兄さんはこんぐらいのナイフでババババババって倒しちまったんだ!」

「そいつはすごいな!……そうだ、ティッタが誘拐されたって……」

「あ~それについてはあたしにも詳しいことは分からないんだよ。マスハス様やバートラン様がティッタちゃんと一緒にいてくれたから、あまり追及はしなかったよ」

「マスハス卿が……」

その時、ティグルは思い出した。
マスハス卿は、ガヌロンの動きを抑える為に尽力してくれたと、手紙に書いてあったことを思い出す。

(……俺ってなんだか助けられてばっかりだな)

嬉しいのか、それとも情けなく思ったのか、くすんだ赤い若者はそんな心情を見受けられる仕草を示した。

「……まぁ、ともかくティッタちゃんは無事に戻ってきたんだ」

次の言葉を聞いたとき、再び、ティグルの手に力がこもる。これは、完全な怒りからくるものだ。

「そして……とうとうテナルディエの奴らがやってきたのさ」

体力や女子供、老人達は神殿に避難していた。マスハス卿の指示によって。
だが、そう神殿という領域も、安全で居続けられる保証もない。
外からくる鬨の声は、心身共に疲労させる。恐怖という緊張感が、喉の渇きを、腹の虫をより加速させる。
神殿の中にも、一応備蓄の食料があるものの、いつかは不足する。そもそも、アルサスは今まで外界の危機に無関心であった為に、いざという時の備えは何一つしていなかったのだ。
誰もが、近いうちに訪れる己の死に、誰もが絶望した。いや、したに思われたのだ。

「もう駄目かも。せめて子供達だけは助けてほしいって、神殿の中でずっと祈ってたさ。でもダメだった。神官様や貴族様は神様はいるって……確かに、神様は見守ってくださるけど、少なくとも助けてはくれないね。だからもう目に見えない神様にはお願い事をしないと誓ったのさ」

ブリューヌとジスタートが信仰する十柱の神々がきいたら、怒りそうなセリフである。
だが、無理もないとティグルは思う。実際、人間は目に見えないものより、目に見えるものの方が信じるに値するからだ。

「本当に一瞬だったんだ。奴らが町の防壁を破って、蛮族みたいに財産をかっさらって……」

今度は、女性の方が悔しさのあまり涙を浮かばせる。

「そんな時、どこから持ってきたか知らないけど、黄金の鎧を着てきて、我が物顔で歩くテナルディエ兵を片っ端から薙ぎ払っていったんだ」

その時の光景は、彼女にとって鮮明に記憶として残っており、思い出すと、感情が高ぶっていく。

「なんだか、高揚したよ。兄さんが一人で、あのテナルディエ軍と戦っている光景を見ているとさ。あたしたちの怒りが体現されたかのようだったよ」

それから、戦いの様子を、女性は淡々と語った。
ものすごい速さで兄さんは敵に詰め寄り、馬が驚いてひっくり返って、後続の騎兵たちに追い打ちをかけたと――
獣のような速さで、セレスタの街中を駆け回った――
手に持ったナイフで、民を虐げる外道の輩を地に伏せたと――
襲われている人々を一人でも多く助けようと、兄さんは攻めを止めなかった――
そのおかげで、幸い死傷者は出ていないと――
お返しと言わんばかりに、テナルディエ兵は矢を放った。それも、火を乗せた矢で焼き払うつもりで――
あたしは、必死で応援したんだよ。「ガイさん!頑張っておくれ」って――
それこそ、無敵のテナルディエ軍が敗退する要素だった。
黄金の騎士はグラつきながらも、一気に息を吹き替えし、神殿の包囲網を打ち破る。
その直後だった。ティグルのアルサス帰還が、勝利をより確定づけたのだ。
自分が不在だったアルサスの状況を聞いたとき、ティグルの心根には、何かが芽生えようとしていた。

――ああ、そうか――ティグルは思った。

これからテナルディエ公爵と戦うことに、ティグルの心は不安と緊張で強張っていた。心のどこかで、自分で気付くことなく、不安を助長させ、緊張で心を固くして。

――テナルディエ家は古くからある名門貴族。その兵力は最低でも見積もって1万、最悪3万――

――対してアルサスは百人程度――

圧倒的に規模が違う。巨大な動物の足に蟻がつぶされるような心境だ。
ジスタート軍の兵を借りた時、テナルディエ軍と対峙した時、既に分かっていた事ではないか。
宴会の中でも、彼は表にこそ出さないものの、どこか億劫な気分であったのは、自覚せざるを得ない。
だが、今は何かが違う。
黄金の騎士の武勇伝を聞いたとき、戦意や闘志とは違う感情が、ティグルの中で芽生え始めていた。

――勇気。一欠けらの勇気――

大事なのは、現状を嘆くことではない。
自分がどのような顔で、どのような心で、自分に付いてくれる人に対するかだ。
現に、青年は領民の心を、勇気の火で灯らせてくれた。
どんなに小さな灯でも、それは決して消えてはいけない火。
ここにいるのは、一人一人独立しつつも、ティグルと共に同じ道を目指して進む盟友たちだ。
共に支えてくれる仲間たちがいる。
ティグルはしっかりと女性を見返し、答えた。

「聞かせてくれてありがとう。もう大丈夫だ」

お礼を言われた女性は、ティグルの隣をはずして、給仕作業に戻っていった。

あとは、俺の心と次第……か
ティグルヴルムド。彼は道を選ばなければならない。
選択肢は、もう出ているではないか。
時間を見据えて、決意を確固たるものにした時だった。

「ティグル♪」

そして不意に、後ろからエレンが顔を覗かせてきた。

「うわ!驚いたな。誰かと思えば君か。エレン」

嬉しそうに、にやっと笑顔を浮かべ、彼女は赤髪の若者の顔を抱え込んだ。女性特有の甘い息を感じられるほどに近い。

「俺の顔に何かついているのか?エレン」

「いや、逆だな」

「なんだか浮かない顔をしていたが、今は随分と落ち着いて見える。何があったかは知らないが、憑き物が落ちたようだな」

エレンには見抜かれていた。
確かに、これから本格的に訪れるテナルディエ公爵との戦いに、恐怖に憑かれていた。
対してティグルは、地から強い笑顔を浮かべて返した。

「ああ、俺ならもう大丈夫だ。それよりもエレン。どうしてこっちへ?」

遠くの光景に、エレンは指さした。紅い瞳の視界には、凱がいた。

「あの男……シシオウ=ガイといったかな?少しばかり手合わせしたかったが」「エレオノーラ様」

本気ともにつかない冗談に、注意が入る。いつしかリムも来ていた。以前「いっそアルサスを攻めとるか」とも言っていた事がある。
こういう好戦的な冗談で周囲を振り回す、我が主の苦労に絶えないリムであった。
ただ、手合わせしたいというのは、半分冗談で半分本気といったところだ。
ティグルは話があるならいけばいいじゃないか?と言おうとしたが、思い当たる節を見つけて口を止める。

「流石に私も子供の海を掻き分けて楽しい時を邪魔するほど野暮ではない。明日にでも聞くとしよう」

どうやって敵を倒していった?たった一人で大軍に飛び込んで?どのような戦術で?
傭兵あがりのエレンにとって、彼の勇戦振りは非常に興味がある。

――反面、警戒もしている――

彼は一体何者なのだ?

容姿、風貌、どれをとっても、どこの国にも当てはまらない。
ムオジネル?違う。ムオジネル人なら、褐色のいい肌をしているはずだ。
ブリューヌ?違う。セレスタの住民の話が本当なら、それほどの腕前を持つ傭兵なら、たとえ大金を払ってでも、召し抱えようとするだろう。我が国の王のように、戦姫を恐れるようなバカでなければ。
ジスタート?違う。英雄譚や神話から飛び出たような人物が、何故、今まで噂にすらならなかったのだ?
ザクスタンは?アスヴァールは?ヤーファは?
ふらっとやってきて、アルサスに近づく危険から民を守る。気前がいいという以前に、人が良すぎる。
一体……何を対価に動いている?
ふいに、エレンの凱に対する印象が、そうだった。
私は、アルサスを対価にティグルへ兵を貸し出した。だが、あのシシオウ=ガイは何を引き換えに力を貸した?
民は単純だ。国政を省みないだけ。目に見える己の利得に納得してしまう。

――興味は親交を温め――

――疑惑は警戒を生む――

そして明日、それぞれが選んだ道の一歩を踏み出す朝を迎える事となる。

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