| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

世界最年少のプロゲーマーが女性の世界に

作者:友人K
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

12話 日常回

 
前書き
日常回です。ぶっ飛ばしても影響はない、とはいえないです。30000文字オーバーなのでお時間あるときにでもどうぞ。ハーメルン時代では3話で分割していましたが、こちらでは全てまとめて投稿致します。 

 
 月夜 鬼一の朝は普通の学生から見れば極めて早い時間に始まる。特に日曜日という学生にとっての天国と言える1日であってもだ。

 ベッドの脇に置いていたデジタル時計から電子音が鳴り響く。が、僅かワンコールでその音は停止した。一瞬で目を覚ました鬼一がその手で止めたからだ。

 鬼一の眠りは常人よりも遥かに浅い。両親を亡くし、プロゲーマーとして戦うことを決めたその時から満足に眠れた日などほとんどない。どれだけ疲れていても、どれだけ眠くても1時間に1、2回は目を覚ます。

 もぞもぞと身じろぎし、枕の下から頭を取り出す。毛布の下から右手を出して近くに置いた眼鏡をつまみ、普段の位置にかける。現在の時刻を確認した。時刻は朝の5時30分と表示されている。

「……っん」

 ベッドの上で両手足を伸ばして固まっている身体をほぐす。ゆっくりとした動作で上半身を起こし、起こしたら何度か身体を曲げたり揉んでみたりする。疲れが残っていないか、痛みが残っていないか確認した。

 セシリア戦と一夏戦による疲労もほとんど感じない。そのことに安堵する。

 ベッドの上から降り、乱れたシーツと毛布の位置を整える。寝る前の状態に戻したことを確認したら、机の上に置いてあるミネラルウォーターを手に取り一気に飲み干す。

「ふぅ……」

 緩慢な動作で仕切りになってるカーテンを開ける。その際、小さく声をかけることも忘れない。

「……たっちゃん先輩、入りますよ」

 ここからの鬼一の行動は早かった。

 鬼一のベッドの隣で眠っている楯無の姿を極力見ないように素早く通り過ぎる。鬼一にとって年の近い異性の眠っている姿は刺激が強すぎる。1度目を入れてしまって意識を失いかけるくらいには魅惑的だった。それからは鬼一自身は興味はあれども見ようとしない。鬼一から見たら楯無は美少女としか言い様がない。しかも自分に対して好意的に接してくれているのだから。鬼一は正直なところ自身の内の感情を持て余していた。胸の内に沸く感情がなんなのかが分からない。

 そして鬼一は他人の寝顔を見るような無作法はしたくない。自分だって見られたくないものだからだ。

 通り過ぎる際に冷蔵庫から冷えたスポーツドリンクを取り出すことを忘れない。

 肩にかけたバッグの中から着替えを取り出しバスルームに入り、迅速に黒で統一されたジャージ姿に着替え終える。

 そのまま部屋を出て行こうとするが、出入りする際は楯無の睡眠を阻害しないように慎重にドアを開けて閉めるときも慎重に閉める。

 自室から出た鬼一は誰も居ない寮の廊下を歩いて外を目指す。

 寮の外に出るとひんやりとした空気が肺に入り込み、その冷たさが全身に広がっていく。その冷たさが心地よい。何度か深呼吸を繰り返した鬼一はそのままグラウンドに向かう。

 グラウンドにたどり着いた鬼一。誰もいないグラウンド隅で、怪我しないように身体をほぐす。いわゆる準備運動だ。

 セシリア戦と一夏戦で自身の体力不足を痛感したことや、周りの人間に比べて身体能力が低いため動き出しの遅さなどがIS戦に大きく響いていることを身を持って実感した。その後は教師2人に協力してもらって、専用の体力トレーニングを作ってもらった。千冬は鬼一に一夏絡みの借りがあること、真耶は教師として生徒の望みを叶えるために協力した。特に真耶は初めて生徒から頼られたことが嬉しかったのか、その喜びぶりを見て鬼一は軽く引いたことは余談だろう。

 鬼一にとって身体能力を求められる環境にいなかったため、年相応の運動能力しかない。セシリアを始めとした代表候補生などはISを高いレベルで使いこなすために身体能力もそれに見合った高さを誇っており、IS操縦において身体能力というのは大きな武器と言ってもいいだろう。

 海外遠征が多かった鬼一は体調を崩さないように体力トレーニングを行っていたが、それでもIS乗りに比べれば児戯に等しいレベルだ。

 クラス代表決定戦の映像を見直して、鬼一は自身の身体を1から作り直すことに決めた。今のままだと身体能力の差だけで潰されかねないことを知ったからだ。

 勝利を得るための大前提の1つとして、その分野で相手を超えている必要はないが駆け引きに持ち込むための最低限の力は必要。と、考えている鬼一にとっては体力強化や身体能力の向上というのは急務であった。

「……運動は得意じゃないんだけどな」

 前屈しながら鬼一はぼやく。

 準備運動が終わった鬼一はそのままグラウンドをゆっくりと走り始める。

 体力トレーニングを行う、という話を受けて千冬と真耶は鬼一の身体能力を確かめるテストを行った。その際、2人が漏らした言葉。

「判断を下す速度や精度はズバ抜けて高いくせにそれを元に行動を実行する体力が、IS操縦者の最低ラインにも達していないとは……宝の持ち腐れもいいところだ」

「……月夜くんは他の生徒のようにISの知識や戦略の組み立て方を学ぶより、ISを問題なく動かすための体力と身体能力をキチンとつけないとダメですね」

 鬼一の身体スペックを表す用紙を見ながら2人の感想は割と容赦なく、真耶は苦笑混じりではあったが千冬に至ってはため息までこぼしていた。

 そんな2人ではあったが鬼一の相談にはしっかり考えて応えてくれた。主な内容としては、

 1.心肺持久力を鍛える。

 2.筋持久力を鍛える。

 3.必要な持久力を身につける。

 の3点を考えてくれた。

 心配持久力、例えばジョギングやランニングなどで身体全体を使って、呼吸循環能力を高める有酸素運動で身につけることが出来る。これを効率的に鍛えていくには大きな負荷と小さな負荷を交互に繰り返す、インターバルトレーニングがベストだと言われている。1例としては全力で100m走を行ったあとに300mのランニングなどを複数回繰り返すことで、効果を得やすくなる。

 筋持久力、これはその体のパーツ毎の持久力を指す。具体的には腕立て伏せなどを連続で何回できるか? などのことだ。これは心肺持久力とは関係がないので別のトレーニングが必要になる。ISに必要な筋力はその部分に対して、反復可能な程度の負担をかけて繰り返し行う。また筋持久力、つまり筋肉のことなのだが筋肉をつけるためには脂肪も必要になるので食生活の改善も必要になる。この食生活の改善で鬼一は食事が憂鬱になるのであった。

 必要な持久力、この場合はISの操縦による持久力。しかしISを用いた模擬戦や試合などでは時間が無制限に設定されており、シールドエネルギーが無くなったら試合終了という形を取られているため、ISに必要な持久力というのがどれだけのものなのか正直不明瞭なのだ。なので教師2人も難しい部分ではあったが、経験上1時間を超える試合は存在しなかったため、様々なシチュエーションで1時間は身体を動かせるようにすることがベストだと伝えた。だがこれはISを使わないと効果の得難いものなので、鬼一は週3回アリーナを使う手配をしているがその内の1日を使って行うことにした。

 なのでグラウンドのトレーニングは上記2点に終始する。

 鬼一が3本目の400mダッシュを終えたところで、1人の教師が姿を表す。

「月夜くん、おはようございます」

 鬼一と同じようにジャージ姿の真耶がグラウンドに姿を見せた。

 息を乱し全身から汗を吹き出した鬼一は、呼吸を整えながら朝の挨拶を返す。

「おはようございます、山田先生。わざわざ足を運んでもらって申し訳ありません」

 鬼一の謝罪に真耶は首を横に振り、笑顔でそれを否定する。

「いえいえ。生徒が先生に相談し、自主的にトレーニングを行うということであれば先生が監督するのは当然です」

 えっへん、と言わんばかりに両手を腰に当てて胸を張る。その小柄な体格と童顔に反して豊かな胸が上下に揺れるが、鬼一は真耶の方を見ていない。眼の向きは真耶の方角だが実際に見ているのはまったく違うものだった。顔も僅かに赤い。

「一応、教えていただいた通りのトレーニングをやってます」

 1度咳払いして気を持ち直した鬼一は話を逸らす。

 真面目な顔つきになった真耶は鬼一に近づき状態を確認する。顔色や発汗量から具合を崩していないか心配だったからだ。マジマジと見てくる真耶に鬼一は気恥かしさを覚える。

「うん、大丈夫そうですね。月夜くん、身体のどこかが張っているような違和感や吐き気などはありませんか?」
 「大丈夫です」

 その言葉に笑みを浮かべた真耶は、鬼一との距離の近さに気づいて赤面して慌て始めて、鬼一から距離を離す。

「つ、月夜くん、近いです! 朝からそんな……。それに私たちは教師と生徒の関係ですし……」 

 ―――これと細かいミスがなければ良い教師だと思うんだけどなぁ。

 ろくに学校に通っていなかった少年はそんなことを考えて、再び400走に戻った。

――――――――――――

 トレーニングを終えた鬼一は真耶と別れて寮に戻ってきていた。現在の時刻は6時50分。部屋に戻ってきた鬼一は先ほどと同じように、慎重な手つきで自室の扉を開ける。

「鬼一くん、おかえりなさーい」

 開けた扉の向こう側から間延びした楯無の声が聞こえる。どうやら起きていたみたいだ。起きていることに安堵した鬼一はそのまま自室に入る。以前、何も確認せずに入り、眠っている楯無の姿を見てしまいそれからはかなり慎重になった。ただ眠っているだけなら良かったが楯無の上の毛布がベッドの下に落ち、下着とワイシャツだけの姿を見てしまったのは今でも忘れられない。その後、鬼一は素早く落ちていた毛布を楯無にかけ直してあげた。

「た、ただいまです。たっちゃん先輩、起きていましたか」

 顔が熱くなりそうになるが、言葉には出さないように応える。出始めがどもってしまったが気づかれていないことを鬼一は祈るばかりだ。

「うーん、せっかくのお休みだしのんびり寝てようかなー、って思ったんだけど目が覚めちゃってね」

 気づかれていないことを安堵した鬼一はそのまま歩いて楯無の前に姿を見せる。そして、鬼一は心底自分の行動を恨んだ。

 なぜなら楯無の姿は以前と同じような、下着にワイシャツだけの出で立ちだったのだから。その姿を見て今度こそ鬼一は顔が熱くなる。

 白いワイシャツから見え隠れしている上下共に青色の下着。色付きのブラであるからか陶磁器のような白い肌が映える。思春期の男子には目に毒としか言えない。

「せ、先輩っ! なんでそんな格好なんですか!? な、なにか着てください!」

 鬼一は焦った声を楯無に投げかけながら身体ごとその場で反転させ、楯無とは逆方向を見る。思わず背筋が伸びてしまう。

 そんな鬼一の焦った声に対して楯無は別段焦ったわけでもなく、間延びした声で応える。

「えー、だって鬼一くん、以前私のこの姿見たとき凝視していたじゃなーい? こういうのが好きなのかなぁ、って思ったのにー」

「好きでもないですし凝視もしていませんっ! っていうかあの時起きていたんですか!?」

 あまりの衝撃的な事実に驚愕する鬼一。同時に、なんて意地の悪い人なのだ、とも思う。こっそり起きていて人の反応を楽しんでいるなんて、よほど人が悪いとしか言えない。楯無の中身は悪魔だと言われても不思議ではないと鬼一は心の中で呟く。実際に言ったら報復が怖いので絶対に口にしないが。

「んー、寝ていたんだけど、情熱的な視線を感じたからそりゃ起きるわよー。」

「あの時僕ほぼ一瞬しか見ていませんよ!? そして情熱的な視線なんかで見ていませんっ!」

 せっかく心拍数が平常に戻ったというのに心臓が高鳴っているのを自覚する。頭がドクドクと脈打っているような錯覚を鬼一は覚える。錯覚でもなんでもなく事実なのだが。全力で突っ込んで疲れた鬼一は肩で息をする。

「鬼一くんって紳士なんだ。私が落とした毛布をかけ直してくれたしねー」

 一瞬ではあるが間延びした声ではなく、あまり聞かない真面目な楯無のそれに戻った。最後はまた間延びした気の抜けた声だったが。目が覚めたというより鬼一は楯無の貴重な本音のような気がした。

「……っ」

 鬼一は楯無との付き合いは短いものだが、楯無の人となりはなんとなく分かっているつもりだ。

 楯無は声、具体的には口調や声色でなんとなくその意図が読める。表情で理解しようとすると表面的なことも理解できない。

 基本的には面白ければそれでいい、というスタンスなのはすぐに理解できた。だが、更識 楯無という人間は本音や本心を伝えるときには、それまでの会話や状況などお構いなしに真面目になる傾向がある。それを理解した後の鬼一は、こういう楯無に何も言い返すことが出来なくなった。毒が抜ける、とでも言えばいいか。

 ―――……普段あれだけふざけてたりおちゃらけている癖に、この人の、こういうところは苦手だ……。   
 
 苦手だと思いながらも鬼一は楯無のことは嫌いになれない。不快な感情ではなく、どうしていいか分からなくなるから苦手なのだった。

 突然黙ってしまった鬼一のことを不安に思ったのか楯無は恐る恐る鬼一に声をかける。

「……あれ? もしかして鬼一くん怒っちゃった?」

 間延びしたものではなく、普通の楯無のトーンに切り替わる。楯無には鬼一に対して前科があるのだ。

 1度だけため息をついた鬼一は先ほどよりも、ややトーンの落とした声で応える。

「怒っていませんよ。とりあえずたっちゃん先輩、早く着替えて下さい」

「はーい」

 鬼一の言葉に今度こそ楯無は素直に応じた。

 ガチャン、と音を立ててバスルームの扉が閉まる音がしたのを確認した鬼一はゆっくりと後ろに振り返る。そこには楯無の姿はなく、大人しく着替えに行ってくれたことにホッとする。

 汗をかいてしまった鬼一も、新しいタオルを1枚取り出し身体を拭く。拭いたあとは制汗スプレーで全身に吹き付け、そしてすぐにIS学園の制服に着替える。普段と違うのは制服のジャケットではなくシャツの上にパーカーだけ羽織ることだ。いくらなんでも汗をかいた後でそのままいるというのは、女性の園では無謀すぎる挑戦だ。

 楯無が出てくるまで、自分の机についてのんびりとISのことを考えながら待つのだった。

 「お待たせ」

 「先輩、今日は食堂で食べるんですか?」

 ややラフな鬼一に対して楯無は私服。髪の色に合わせたのか水色がメインの色調のワンピース姿だった。

 「たまには食堂がいいわね。普段は生徒会室だし自分で作るのも面倒。というか鬼一くん、私服とか持ってきていないの?」

 IS学園では消灯までの時間、もしくは休日なら学園内での私服着用は問題ないのだが、鬼一は一部といえIS学園の制服を着ていることが楯無は気になったらしい。

「はい? 別に持っていないわけでもないんですけど、単純にIS学園の制服が楽というのが一番の理由ですね。それよりさっさと行きましょう。休日くらいは席探しに困りたくないですし」

―――――――――――――――

 食堂にやってきた鬼一と楯無は向き合って座っている。休日だからか食堂にはほとんど人がいなかった。談笑しながら食事している生徒がちらほらといるだけである。

 鬼一と楯無の間には自分たちがそれぞれ頼んだメニュー。

 楯無は量を少なめにしてもらった焼き魚定食。ご飯、味噌汁、焼き魚、漬物といったスタンダートなメニュー。

「……相変わらずすごい食べるのね」

「……好きでこんな食べてるわけではないんですけどね」

 鬼一の目の前に『積まれた』料理を見て楯無は小さく呟き、鬼一はやつれた声をだす。

 テーブルから鬼一の首くらいまでの高さにまで積まれた多数のサンドイッチ、優に5人前はありそうなスパゲッティ、ボウルに山盛りに重ねられた温野菜の山、厚さ3センチはある大きいステーキ、大ジョッキにギリギリまで注がれた飲むヨーグルト。

 鬼一は頂点に置かれているサンドイッチをつまみ、口に放り込む。

 鬼一にとって食事とは何か? 答えとしてはトレーニング、の一言だった。

 元々鬼一は大食いの部類ではあったが、ここまでとんでもない量を食べるようになったのはISに乗り始めてからだ。e-Sports時代の頃もそれなりに食べていた。が、糖分などを一番消費する頭を常に使っている環境だったのでそこまで気にする必要はなかった。体重なども特に変動することはなく、鬼一の身長160cm前後に対して平均体重の52キロ前後をキープしていた。

 今までは身体を使うことはなかったのだが、ISで頭だけではなく身体を大きく酷使することになってしまった。結果、鬼一は研究所に保護されている時もトレーニングをしていたが、それだけで4キロも落としたのだ。それに気づいて少しずつ食事の量を増やすことになったのだが、今の量でなんとか少しずつ体重が増える、以前の体重に戻せるようになったのだった。 

 そしてトレーニングで筋肉や持久力をつけることを考えると最低でもこの食事量を維持する必要があった。そしてそれは鬼一にとってただただ辛い作業のようなものだ。満腹になっても食べなくてはいけないのだから当然だ。

 目の死んだ鬼一が機械のように食べ物を口に運ぶ。楯無はそれを見て「……こんな美味しくなさそうに、楽しくなさそうに食べる人って他にいないわ」と感想を漏らす。

 少ない生徒の一部がその食事の量に一瞬視線を奪われるが、すぐに自分たちの食事に戻る。この光景は今となっては見慣れたものであった。

「……あれ? 本音ちゃん?」

 ふらふらと食堂に入ってきたのは、狐のような着ぐるみパジャマを着込んだ1年1組の女生徒、布仏 本音だった。すごく眠いのか瞼が閉じかけているし足元がおぼついていない。

「……あー、たっちゃん会長とつっきーだぁ」

 楯無から声をかけられて一瞬だが目を見開いた本音。足元がフラフラのまま2人の元へ歩き出す。

 鬼一は食事の手を止めてその様子を見る。心配なのか席から立ち上がり本音の元へ歩く。

「布仏さん、大丈夫ですか。体調悪いんですか?」

 あまりに様子がおかしいことに鬼一は体調を崩しているのではないか? という不安に駆られ、手を貸そうとする。

「鬼一くん、体調が悪いんじゃなくて純粋に本音ちゃんは眠いだけだから心配しなくてもいいわよ」

 鬼一の背中に楯無の声が投げられる。どうやら楯無は何度かこの光景を見ているようだった。

 そこで鬼一はふと疑問に思う。そういえば先ほどの発言、お互いのことを知っているようだった。

「? あれ、お二人はお知り合いでしたか」

「つっきー、私も生徒会に入ってるんだよ~」

「本音ちゃんは生徒会書記を務めているのよ」

「あぁ、それで」

 鬼一はその言葉に納得する。当たり前であるが生徒会は楯無1人で運営しているわけないのだから、誰かしらいても不思議ではない。仕事時に楯無のテンションについていけるのなら、目の前の着ぐるみ女子も大概凄いのではないか? と鬼一は考える。自分なら3日で根を上げる自信がある。今でも結構精神的に来ることが多いというのに。
 
「鬼一くん、なんか失礼なことを考えていない?」

「なんも考えてませんよ先輩」

 楯無からのジト目と質問に最速で受け流す。迂闊な反応をすると当分いじられることは明白だ。素知らぬ顔で鬼一は自分の席に戻り、本音は楯無の隣に座った。

――――――――――――

「あらら、休日で纏めて掃除したいからルームメイトに追い出されちゃったのね」

 やや寝ぼけたままの本音の話を聞いて楯無は最後に、残念、と締める。まだ生活に慣れていない状態だと平日に掃除や雑務を行う余裕もないだろう。それで爆睡している本音は追い出されてしまったのだ。

 鬼一はその話を聞きながらステーキを食べ始める。山のようにあったサンドイッチは姿を消し、スパゲッティや温野菜も残り半分になった。お腹はそろそろ満腹の状態。

 ステーキを口に入れようとした鬼一だが、その手を止めて本音に質問する。

「布仏さん、そういえばさっきのってもしかして、僕のことですか?」

 眠気覚ましのお茶を飲んで先ほどより意識がはっきりしてきた本音は応えた。

「うん、つきよだからつっきーだよ~」

 その言葉に鬼一は形容し難い微妙な表情になる。その表情を見て楯無は笑いそうになった。

「あら鬼一くん、その呼び方はお気に召さない感じかな?」
 
 楯無の言葉に本音は悲しそうな表情になる。その表情をみた鬼一は慌てて否定する。

「いえいえ、そういうわけじゃないです。あんまり同年代、というか、あだ名を付けられて呼ばれたことがないのでどう返していいか分からなかっただけですよ」

 鬼一は冷静に過去を振り返る。

 小学校時代は女尊男卑が原因で途中から不登校になったし、友人と言える人間もいなかった。中学校時代に至って既にプロゲーマーで各地に趣いていたから、1度も行っていない。勉強などは亡くなるまでは両親が、その後は全部腕のいい家庭教師や周りの大人たちに教えてもらっていた。

 名字で呼ばれることや名前で呼ばれること、もしくは称号で呼ばれることが日常だったそんな鬼一にとっては新鮮さや戸惑いなどが混じった複雑な心境であった。

「あら、学校でそういったことはなかったの? 友達とかにあだ名つけられるとか」

「うーん、小学校の時は女の子に虐められて学校に行かなくなりましたし、中学校の時はe-Sportsであっちこっち行っていたので学校に友人はいませんでしたね」

 鬼一は軽い調子で言うが女子の2人は驚く。

「ちょ、そんな感じに軽く言われても結構ヘヴィな話なんだけど」

「別に今の世界では珍しくもないでしょう。それに、昔は昔のことですし」

 そういって鬼一はカットしたステーキをひと切れを口に放り込む。本当に気にしていないみたいだ。

 女尊男卑、女性が優遇され男性が下に見られる世界は教育の場にも浸透している。幼い子供達は本来それとは無縁のはずなのだが、女性教師がそれを持ち込み子供達に教えるのだ。

『女の方が優れている。男は女よりも下の存在』と。

 無論、それが全ての女性教師を教えているわけではないのだが、現実として無垢な子供達を歪ませている大人は存在する。鬼一はある意味、その犠牲者だった。

「つっきーは同年代の女の子が怖くないの~?」

 そう言った本音の表情は優れない。自分の行動で相手を不快にさせてしまったのか、という不安からだ。

「昔は何よりも嫌いでしたけど今は特別気にすることはないですね。4年という時間と沢山の人と関わりを持てば嫌でも変われます」

 同年代の女子が苦手な鬼一ではあったが、沢山の大人たちや鬼一のファンの中には同年代の女の子だっていたのだ。その人たちと交流を持つことで鬼一の意識は少なからず変化した。

「少なくとも言えることはその虐めてくるようなロクでもない人と、そうでない人を一緒くたにするのは可笑しいですしもったいないです」

「もったいない?」

「人との関わりってとても大切なことなのに、自分の好き嫌いだけで判別すると視野が狭まるってことですよ」

 そう話しながら鬼一はステーキを食べ終える。

「それに、子供のイジメなんてよりもえげつない真似されたことのある身としてはそんなもん優しいものです」

 苦笑しながら自分の左手を見る。手袋に包まれたそれ。

「それからは自分に対して悪意を持っていない人間に対しては誰であろうとも邪険に扱うつもりはないです。同年代の女子であってもね」

 残ったスパゲッティと温野菜の処理に取り掛かる。満腹寸前ではあるが、気合を入れて胃に詰め込み始める。

「じゃあ、IS学園の女の子たちも?」

「こうやって布仏さんや先輩と食事していることがその答えになりませんか?」

 鬼一はそう言って締める。楯無はその答えに満足したのか、笑いながら椅子に深く背中を預ける。

「ま、というわけで布仏さん。あだ名に関してはつけられて呼ばれたことがないだけですので、特に気にする必要はないですよ。戸惑っただけですのでそう呼んでいただけると嬉しいです」

 そういう鬼一の口調は普段よりも少し明るい。表情も穏やかだ。なぜなら、目の前にいる女の子はそういった酷いことをする子には見えないからだ。先ほどの本音の表情からそれは読み取れた。多分、穏やかで優しい人なんだろう、と。

「う、うん! 私のことも名前、本音でいいよ!」

 花が咲いたような明るい笑顔をこぼす本音に、鬼一は食事の手を止める。

「あれ~? 鬼一くん、どうしたのかなー? 顔が赤いわよ?」

 獲物を見つけたと言わんばかりに目を輝かせた楯無は鬼一に突っかかった。

 苦い顔になる鬼一。

「別になんでもないですよ。それより、さっさと食事を済ませたいので話しかけないでください」

 冷たく対応して楯無の追求を避けようとする。が、目の前の悪魔はそれを見逃すほどお人好しではなかった。

「本音ちゃんの笑顔は可愛いからね~? それに見蕩れちゃったのかな~?」

 ニヤニヤと笑いながらテーブルの上で肘を立てて指を組む。その上に顎を乗せた楯無の表情はイタズラっ子のそれだ。

 それには言い返さず鬼一は手早くスパゲッティを食す。この状態になったらどうあがいても勝てないことは過去の経験から理解している。

 そして楯無の言葉は鬼一の本心を当てていた。鬼一が否定しようとしないことがその証明と言ってもいいだろう。

 このまま適当にいなしていればどうにでもなるだろう、と鬼一は楽観していた。そしてそれは当たっていただろう。

 もう1人の存在を忘れていなければの話だが。

「つっきー……私の笑顔、可愛かったー?」

 僅かに頬を染めながら本音が困ったような笑みを浮かべながら楯無に乗っかってきたのだ。

 大ジョッキの飲むヨーグルトに口をつけていた鬼一だったが、思わぬ伏兵に吹き出した。

 それからの時間は特に語ることはないだろう。

 その後鬼が1人、小悪魔2人に弄り倒されただけのことだ。

 こうして鬼一の休日は続いていく。

――――――――――――

「……エライ目にあった……」

 疲労が顔に浮かんでいる鬼一は本音と共に1年生の共用休憩スペースで休んでいた。休日でなおかつまだ9時前であるからか他の生徒の姿はほとんどない。

 楯無の姿はない。用事を思い出した、と一言を残して食事の終わった鬼一たちと別れて姿を消したのだった。後ほどアリーナで再開だけ取り付けた。今日は楯無と模擬戦の約束をしていたからだ。

「つっきー、ごめんね~」

 口元を長い袖で隠しながら謝罪する本音。謝ってはいるが隠れている口元は笑っている。鬼一に申し訳ないと思っているがそれでも、先ほどのやり取りは余程面白かったようだ。
 
 謝られた鬼一だったが、本音がなんとなく笑っているのは理解できていた。しかしそれを怒るような真似はしない。悪意はなく、冗談の範囲内だとも分かっていたからだ。

「全然いいですよ。たっちゃん先輩が全部悪いんで」  

 本人がいないことをいい理由に罪を全部楯無に被せる鬼一。

「つっきーってもっと取っ付きにくい人かなぁ、って思ったけどそんなことないんだねー」

 鬼一はその言葉に意外そうな反応を示す。どうやら自分にそんな印象を持たれていることを知らなかったようだ。

「……僕ってそんな絡みにくい人に見えますか?」

 自分に対する反応を知る機会がなかった鬼一にとって、本音の言葉は興味を惹かれるものだった。それを気にする余裕がなかったのもそうだが、周りから言ってくれる人がいなかったのも原因か。

「セッシーとぶつかった時から、ずーっとピリピリしてたよ。こう、邪魔するな! 俺に関わるな! みたいな。それにおりむーが代表に決まった時も怒っていたみたいだし」

 その言葉を聞いて鬼一は過去の自分を思い出す。IS学園にやってきた時の事やセシリアに暴言を吐かれた時のこと、そしてその後のことを。

 そこで鬼一は、確かに気を張っていたな、と思い出す。あの時は一杯味あわせてやることしか考えていなかったし、環境が変わったせいで余裕がなかったのも確かなことだ。この前のクラス代表で一夏に決まった際、箒に対しての反応も他のクラスメイトから見たらそう受け取られてもしょうがない。

 今は一夏や楯無、特にセシリアのおかげで以前よりも余裕がある。余裕がある、と言っても周りから見たらあまり変化がないように見えるみたいだが。そのことに鬼一は反省する。周りに申し訳ないことをしたな、と。

「セッシーとおりむーはセシリアさんと一夏さんのことですよね? セシリアさんの時やあの時の篠ノ之さんに対する僕の反応は、本音さんや他の人に気を使わせて申し訳ないことをしましたね」
 
 鬼一はそう言って苦笑し、椅子の背もたれに体重をかける。

「セシリアさんも篠ノ之さんには、そうですね。確かに怒ってました」
 
 セシリアの時は自分が生きてきた世界を馬鹿にされ勝負を軽くされ、箒の時は身勝手であまりにも人のことを考えていない様子に怒りを覚えた。突っ張るのは勝手だが人を巻き込むなと言いたい。

 同時に自分を今一度戒めるように言い聞かせた。

「だからと言って関係ない人たちを巻き込んでしまったのは悪かったです。気分を悪くしてしまったでしょう」

 鬼一は背もたれから背中を離し、本音に頭を下げる。

「う、うんうん! 別に私は大丈夫だよ」

 余った長い袖を横に振りながら鬼一の言葉を否定する。その言葉に鬼一は安堵したように頭を上げる。

「セシリアさんに関しては仲直りしました。彼女とは仲良くさせてもらっています。篠ノ之さんに関しては別に嫌っているわけではないですが、あの1件でどうやら敵意を持たれてしまったみたいですね」

 そのことは本音も知っている。クラス内で鬼一とセシリアがよく談笑しているのは見かけるし、鬼一がセシリアに対してISに関する質問する姿も今となっては珍しくもなんともない。

 だが箒は違う。彼女は鬼一とのやり取りで明確な敵意を鬼一に放つようになった。一夏と鬼一が話しているときには鋭い目つきで鬼一を睨むようになり、会話に割り込んでくることも多い。訓練時にも口を挟むことが多く、しばしば脱線することも珍しくない。

 普段は鬼一自身嫌われていることも理解しているため関わらないように下がるが、一夏の訓練の時は引き下がるわけには行かなかった。その時の鬼一は怒りを隠そうともしない。徹底抗戦の構えで箒を退けている。今は口論でどうにかしているが、いずれ武力行使で来られたらどうしようか? というのが鬼一の最近の悩みである。

「せっかくのお休みですし、もう少し明るいお話をしましょうか本音さん」

 そう言って鬼一は話題を変える。

 とはいえ、鬼一は普通とは言い難い生活で生きてきた人間なのだ。同年代の女の子と何を話していいかイマイチ分からなかった。

 楯無は放っておいても鬼一に構ってくるし、鬼一は自覚していないがセシリアは特別だと言ってもいい人間だ。自然と自分のことを話したり、相手のことを聞いていた。

 本音は食堂での会話を思い出した。目の前にいる男の子は到底普通とは言えないことを。本音は無意識であったが鬼一のことを考えて自然と自分から話しかけていた。

「ねぇ、つっきーはそういえば何処の所属になってるの? 専用機持ちって何処かに所属しないとダメなんだよね?」

「はい? あぁ、僕はIS学園にいる間は無所属の状態ですね。卒業後はどういう立場かは分かりませんが日本政府の所属になると思います」

 鬼一は専用機を日本政府、鬼神の製作元から与えられているがそれはあくまでもデータ収集の一面が強い。

「2人目の男性操縦者ですからね。そのデータは貴重ですから専用機を与えて、日本政府は次の男性操縦者を見つけるための材料にでもする気なんでしょう」

 鬼一の仕事の1つにISの稼働データや実戦データの整理や、鬼神の新武装の提案やISの修正案の提出などがある。そのデータを定期的に提出することで鬼一は政府や研究所から給料をもらう形態を取っている。先日教室で書類と睨めっこしていたのはその一環だ。重要機密に当たるものもある以上人の目に触れさせることが出来ないので、人前で行う仕事は精々自分の考えをレポートにするくらいだが。

 鬼一は専用機持ち、ということで金銭面での支援を受けれるのだが鬼一はそれを断った。「自分より努力して成果を出している人間が支援を受けれていないのに、何も成し遂げていない自分だけがそれを甘受することはできない」、と。だから鬼一は一定の成果を上げるまでは1円も懐に入ってこない。流石にISの補給や修理に関しては個人でどうこう出来る問題ではないので、そちらの支援は受けているが。

 今の鬼一は学費も生活費も自分で負担している。幸いなことにe-Sportsで稼いだ賞金や給料はほぼ手付かずで残っているので、それを切り崩してどうにかしているのだ。

「鬼神の製作元、月乃宮研究所は純粋に、より優れたIS作りのためにそのデータを欲しているみたいですが」
 
 そう言って鬼一は両親の顔を思い出す。月乃宮研究所は両親が所属していた職場だったのだ。そして祖父と言ってもいいような人間もいる。IS学園に来てから連絡もしていないが、その内連絡しようと考えた。最後に会った時は「長期出張に行ってくる」と言っていたが、今何をしているのだろうか?

「まぁ個人的には専用機なんてピーキーな代物よりも、汎用性の高い訓練機を与えたほうがいいデータを取れると思いますがね」

 訓練機で得られた汎用性の高いデータの方が他の男性にも活かせるのではないかと鬼一は考えるが、政府が何を考えているのかは流石に知りえない。

「IS学園での実績や成績で僕の今後が決まると思います。操縦者として優れた成績を出せば代表候補生になるでしょうし、そうでなければテストパイロットがいいところでしょうね」

 そこで鬼一は言葉を切る。テーブルの上に置いてある缶ジュースに口をつける。

 出来ることならISから降ろさせて欲しい、と鬼一は思うが現実はそうもいかない。だけど自分の頑張りで他に男性操縦者が見つかるなら、とも考える。自分や一夏以外に男性操縦者がどんどん見つかれば自分もお役目御免になるだろう。楯無にはああ言ったが、もし、もう一度全力であの世界に挑む好機があるならそれを掴みたいとも思う。

「まぁ、それよりも本音さんのことも聞かせて欲しいです。今までどんな風に生活していたんですか?」

――――――――――――

 それから2人は、互いの今までの生活などを話していた。鬼一にとってはやや特殊な話を。本音にとっては鬼一の語るe-Sportsの世界は夢のようなお話だった。

「というか本音さん、たっちゃん先輩の家に仕えているんですね」

「そうだよー、お姉ちゃんと一緒に仕えているんだよねー」

 更識家に仕える身として、また、幼馴染として姉妹揃って生徒会に所属しているという話は鬼一は初耳だった。楯無からそう言った話を聞いたことがなかったからだ。

 正直ちょっと羨ましいとも思う。鬼一には兄弟はいないし幼馴染と言えるような人間もいない。そういったちょっとだけ特別な関係を羨んだ。

「あれ? 本音さん、生徒会に所属しているならそのお手伝いとかはどうしているんですか?」

「う~ん? 私がいると仕事が増えるからいないほうがいいんだよー」

 お姉ちゃんにも怒られるし。そう言って本音は笑ってペットボトルのお茶に口をつける。

 凄いことを言うな、そう思った鬼一は笑う。

「今はお二人共、姉妹揃ってたっちゃん先輩に仕えている、って感じなんですか?」

 そこで鬼一は自分が何かを忘れていることに気づく。それがなんなのかは分からない。

 首を横に振って鬼一の言葉を否定する本音。その表情は先ほどよりも暗く沈んだものだ。

「うんうん、私はたっちゃん会長の付き人じゃなくてかんちゃんの付き人だよ……」

 話す言葉に力がない。鬼一は『かんちゃん』という単語と本音は更識家の付き人で思い出した。

 日本代表候補生 更識 簪。更識 楯無の妹の存在を。

 そして本音の声のトーンで自分が失敗したことを理解した。具体的な事情に関しては全く分からないが、だけど、本音の表情が優れないことから触れてはいけない内容だったかもしれない、鬼一はそう感じた。

 本音の悲しげな、でも確かな親しさを感じる。つまり本音自体は簪と仲良くなりたい、もしくは仲が良かった、という予想がついた。でも、自分はこれ以上軽々しく踏み込むのはいけないことだけは分かった。

「……本音さん、すいません。僕が触れていい内容ではなかったみたいですね」

 申し訳なさそうに鬼一は謝罪する。 

「つっきーのせいじゃないよ。私こそごめんなさい」

 そこで話を区切った本音は明るい表情を取り戻して、話題を変える。

「ところでつっきー、中学からあっちこっち世界中に行っていたんだよね?」

 鬼一は本音の強引な話題変えに乗っかる。自分もこんな雰囲気を望んでいないからだ。本音から話そうとしないなら自分が目の前にいる人を追い込んでまで聞き出そうとは思わない。

「そうですね。年間で20近い大会に出場していたので先進国は一通り回ったと思います」

 右手を顎に当てて回った国々を思い出す。

「へー、観光とかもしてたのー?」

「いや、そんな暇はなかったですね。大会やイベントが終わったら即帰国です。でも大会やイベントは凄い楽しかったかもしれませんね。今振り返ると」

 当時は大会で結果を出すことに必死だったし、プロとして地位向上や人口を増やすためにイベントにも多く出演していた。今なら余裕が少なからずあるから楽しめるかもしれないと思った。参加することはもうないだろうが。

「e-Sportsのトッププレイヤーって異性にもモテる、ってこの前ネットに書いてあったけどそれってホントー?」

 いつの時代でも異性事情、恋愛事情を人は好きなのだ。女尊男卑という世界であってもだ。いや、むしろ女尊男卑だからこそか。

「……否定はできないですね。海外のトッププレイヤーとかだと、美しい女性を数人連れている人もいらっしゃいました。女性のトッププレイヤーも数は少ないですけど恋人はいる方は多いですね」

 国別対抗戦の予選であの女性も夫も子供もいたし、女遊びが激しいプレイヤーもいたが、トッププレイヤーなだけあってとんでもない強さだった。向こうからすれば鬼一もとんでもない強さの持ち主ではあるが。

「つっきーもe-Sportsのトップだったんだよね~? 随分とおモテだったんじゃー?」
 
 本音はニヤニヤと楽しそうな表情を浮かべる。本音のその言葉に鬼一は両手を上げて苦笑した。

「いやいや、僕は未成年ですからね。僕に絡もうとした方もいらっしゃいましたが、周りの大人たちに助けられましたね」

 どれだけ鬼一が強くても、それはあくまでもe-Sportsの範囲だけなのだ。女性関係に関しては同年代の子供に比べて遅れていると言ってもいい。鬼一のことを可愛い、と言って抱きしめる女性などがいたが、その都度周りの大人たちがフォローしていた。

「んー? じゃあ好きな女の子、好きな人とかもいないんだー?」

 その言葉を肯定しようとした鬼一だったが、開いた口がそこで止まってしまう。思い出してしまった。楯無やセシリアとのやりとりを。

「……っ」

 鬼一は口元を両手で隠す。顔面に血液が登ってくるのを自覚する。自身の身体が奥底から熱くなるのを感じた。異性として好き、という感情を鬼一は分からないが、それでも異性だと意識してしまった。今までは恥ずかしさが先行して気づかなかったが、本音の言葉であの2人を異性だと明確に意識してしまった。漠然とではあるが、好意を抱いているという気持ちを初めて実感してしまった。

 鬼一の予想外の反応に本音もからかうような笑みが固まってしまう。

「……えっと、つっきー? 好きな人、いるんだ?」

 鬼一の話を聞いて、鬼一は恋愛をしている場合じゃなかったのを理解している本音もこの予想外の反応に、笑顔ではあったがその中に気まずさが浮かんでいた。楽しさも浮かんでいたが。

「い、いや、違います! 僕にはそういった人はいません!」

 思わず声が裏返ってしまったが、本音からすれば疑問を確信に抱かせるものでしかない。

 鬼一の声に休憩スペースにいる少ない生徒たちの好奇の視線が集まる。何事か、と。

 その視線に気づいた鬼一は落ち着くように咳払いを一つこぼす。

 視線を向けていた他の生徒たちも興味を無くしたのか、それぞれの談笑に戻る。

「……ち、違うんですよ本音さん。あ、あの、あのですね」

 動揺がありありと浮かんでいる鬼一を見て本音は小さく笑い声をこぼす。今まで見ていた鬼一はあくまでも一つの側面でしかないことに深く気づいたからだ。教室で見せる顔も、クラス代表決定戦で見せた顔を見たときは怖い人だと感じた。だけど楯無とのやりとりを見て、そして今、必死になって否定しようとするこの姿を見たら、そんな印象など吹き飛ぶだろう。いや、感情を出している分こっちが本来の顔なんだろうと本音は感じた。

 漠然と信用できる人なんだと、そう思った。同時に小さな違和感を覚える。その違和感がなんなのかは今の本音には分からなかったが。

「えーっと、その、そのですね。たっちゃん先輩もセシリアさんも確かに凄い可愛いと思います。でも、そ、それは『好き』などとあの2人に対して、僕なんかが持っていい感情では……っ!」

「つっきーつっきー、誰もたっちゃん会長やセッシーのことを言っていないよ?」

 途中で聞いていられなくなったのか、それとも暴走し始めた鬼一を不憫に思ったのか、本音は鬼一の言葉を遮って止める。これ以上言わせたら何が出てくるか分からないのもあった。

 本音は背中が痒くなるのを自覚する。人の恋愛事情とは聞いててここまで恥ずかしいものだったか。

「……っえ? ……―――っ!?」

 自分が盛大な自爆を決めたことを自覚した鬼一は湯気が出そうなほど、更に顔を赤らめ両手で顔を覆う。表情は見えなかったが、鬼一は既に泣きそうな状態だった。

 ―――教室や試合だとあんなに怖い顔を見せるのに、こんなに可愛らしい一面もあるんだー。

 その言葉は口にせず心の中で呟く。これを言ってしまったら目の前の年下の少年に止めを刺すことになるからだ。流石にそれは本音は控えた。

「まぁまぁ、つっきー、このことは誰にも言わないから安心してよー。私の胸の中に留めておくからさ」

 本音からすれば別に恥ずかしがる感情でもないと思う。2人とも美しいのもそうだが、人として立派な部分が多いのだから。好きになっても不思議ではないと考えた。

「それとつっきー、好きって感情は別に持っちゃいけないものでもないんだからさー。そうやって自分の感情を否定するのも違うと思うよ」

 そもそも鬼一はその感情を持て余していることを本音はなんとなく理解した。その『好き』という感情は自分にとって不要なものだと感じているようにも思えた。その原因がなんなのかまでは本音は分からなかったが。

――――――――――――

「落ち着いたつっきー?」

 時間にしたらそこまで長い時間ではなく、10分も経っていないだろう。

 落ち着いた鬼一は静かに深呼吸をする。

「本音さん、取り乱してすいませんでした」

 眼鏡を外し目元をハンカチで拭いながら鬼一は本音に謝る。真っ赤だった顔も今は普通に戻っていた。

「本音さん、え、と、その、なんて言えばいいか……」

 鬼一に言いたい言葉をなんとなく理解した本音は優しく語りかける。
 
「うん、誰にも言わないから」

 鬼一はその言葉に安堵したように肩から力を抜く。ギシ、と音を立てて椅子に背中を深く預けた。

 せっかくの休日なのに散々な1日のような気がするな。鬼一はそんなことを考える。しかもまだ1日の半分も終えていない。そしてこれからの問題に鬼一は頭を抱える。

「……これからたっちゃん先輩と模擬戦じゃん、僕……」

 耳を澄まさないと聞こえないような小さな声で呟く。これからどんな顔で会えばいいか、どうすればいいか分からない。

「ありゃりゃ、たっちゃん会長とISで戦うんだー。延期とかはダメ?」

「先輩にも予定がありますし、これは自分から頼んだことですので……」

 その心配は結局のところ徒労に終えるのだが、今の鬼一にとっては気分が沈むくらいには大きな問題であった。

 ―――うーん、つっきーなら試合が始まってしまえば大丈夫のような気がするけど。問題は顔を合わせた時かなー。

 本音の考えは正解だった。鬼一の性質上、試合が始まってしまえばそんなことは意識外に追い出される。目の前の戦いに集中することになるが、そこに至るまでが問題である。

 そして鬼一と楯無が同室だということを本音は知らない。

 ひとまず本音は鬼一にアドバイスを送る。

「別に今までは普通に出来てたんだから~、それと同じようにすればいいと思うよー」

「……そういうものですかね?」

 鬼一は真剣な面持ちで首をひねる。

「むしろそうしないと2人に変な疑惑を持たれちゃうよ~」

 本音のその言葉にもっともだ、と鬼一は頷く。

 今まで散々色んな人にポーカーフェイスを貫いてきたんだ。それくらいは出来るだろう月夜 鬼一? そう鼓舞する。そして一瞬で崩壊するのだが。

「珍しい組み合わせですわね。おはようございます、鬼一さん、布仏さん」

 白く長いワンピースの上に青色のカーディガンを羽織ったセシリアが穏やかに2人に声をかける。鬼一の背後からだ。

 ビクゥっ、と全身を震わせる鬼一。その時の表情を見ていた本音は思わず吹き出しそうになってしまった。

「セッシー、おはよー」

 のんびりと返事する本音。

 それに対し鬼一はぎこちない様子で声を出す。後ろに振り向こうともしない。

「お、ぉ、おはようございます、セシリアさん」

 動揺のあまり言葉が震えていることに本音は内心慌てるが、それを口にすることはない。今それを口にしたら色々とマズイ事になるのが予想できたからだ。

 だが幸いなことにセシリアは鬼一と本音の様子がおかしいことに気づかなかった。

「お二人の仲がよかったなんて知りませんでしたわ。よろしければわたくしもご歓談に入れていただけないでしょうか?」

 セシリアは柔らかな笑みを浮かべ胸に手を当てる。その美しく上品な仕草を鬼一が見えなかったのは喜ぶべきなのか悲しむべきなのかは分からない。

 本音は鬼一のことを考えるなら断るべきなのだが、ただ断る理由がなかった。それに断ってセシリアを悲しませるのも頂けない。

「うん、いいよ~」

「それでは失礼しますわ」

 真ん中に円形状のテーブルがあるのだが鬼一の正面にテーブルを挟んで本音がおり、セシリアは鬼一から見て左手側、本音から見て右手側の席に腰をかける。

「ところでお二人は何を話していらっしゃったのですか?」

 穏やかな笑みを浮かべたままセシリアは2人に問いかける。鬼一は一瞬固まり、本音はその笑みが凍りついた。

 ―――セッシー、それをこのタイミングで言わないで~!

 口が裂けても今まで喋っていた内容は言えない。その瞬間に鬼一は色々な意味で終了を迎えるだろう。そして本音はなんとかこの状況を打開するために頭を回転させる。

「ん~とね~。私、初めてつっきーが食事しているところ見たんだけどー、凄い食べるね~って話をしていたんだよね~」

 なんとか言い訳を思いついた本音は滑らかに喋る。考えながら喋っていたが特に穴がないことに安心した。

「わたくしも以前見かけましたが、鬼一さんがあんなに食べることに驚きましたわ」

 セシリアの脳内に鬼一が食堂で延々と山盛りの食べ物を口に運んでいる姿が浮かんでくる。

「そうですわ鬼一さん。今度わたくしとお食事をご一緒になさいませんか? これでもわたくし料理には自信がございますので、鬼一さんに喜んでもらえると思いますわ」

 男としては好意を抱いている女性から食事の誘いは至福の喜びなのだが、そんなことは今の鬼一には判断できない。ただ首を縦に振るだけだ。

 本音から見るとこのやりとりはただハラハラとするものにしか見えない。セシリアが来た途端に鬼一が無言になったのがそれに拍車をかけていた。

「鬼一さんはちなみにどのような料理がお好みなのですか?」

 嫌な汗が流れ始めた鬼一は震え声でそれに答える。正直、好きな食べ物なんてものはないのだが、ここでないと答えるのはありえないと鬼一は感じた。鬼一にしては珍しく理性ではなく、感覚でそれを理解した。

「……え、えっとですね、サ、サンドイッチとかが好きですね」

 単純に朝食べていたものを答えとして話す鬼一はいっぱいいっぱいだった。

「まあ、わたくしの得意料理もサンドイッチですのよ。次回のお昼を楽しみにしていてください」

 うふふ、と微笑むセシリア。その魅力的な笑みに鬼一は身体の奥底が熱くなる。でも視線を切ることはできない。

 ―――つっきーっ、顔が赤くなってきてるよぉ~!

 ジワジワと顔面が赤くなる鬼一に本音は悲鳴を上げそうになった。

 顔が赤くなった鬼一を疑問に思ったのかセシリアが顔を近づける。体調が悪いのではないかと考えたからだ。その様子を見ていた本音は慌て、余った袖を横に振る。

 ―――セッシー! 今それをやったらつっきーがマズイんだって~!

 鬼一にとっても極めて危険な状態だった。好意を抱いている女性が顔を近づけてきているのだから、動揺もする。肘掛に置いている両手が小刻みに震え始める。

「鬼一さん? お顔が赤いのですが、もしかして体調が優れないのでは?」

 ―――違う、違うよー! セッシー! セッシーが原因なんだよ~!

「失礼しますわ鬼一さん」

 小さい右手が鬼一の額に当てられる。その冷たい手の平の感触に鬼一は保健室での出来事が脳内を駆け巡った。

 セシリアの手の平には鬼一の熱が伝わる。その熱が平熱とは言えない熱さにセシリアは声を上げる。

「まぁ! やはりお熱があるみたいですわね。鬼一さん、お薬をもらってきますのでお部屋に戻って休みましょう?」

 ―――その熱の原因はセッシーだってばぁ!

 内心で本音は悲鳴を上げるがそれを口にはできない。

 立ち上がったセシリアは鬼一の左手を右手で引き、鬼一をゆっくりと立ち上がらせた。見様によっては恋人同士が手を繋いでいるように見えるその光景に本音も顔が熱くなった。

 セシリアに為されるがままに立ち上がった鬼一だったが、熱を持って満足に思考できない頭でも1個だけ理解できたことがある。それは、

 ―――好意を持っている女性と手を繋いでいるということ。

 そこで鬼一の意識は途切れた。   

――――――――――――


 穏やかな柔らかい風が癒すようにその場を優しく撫でる。

 その風によって月光に照らされた花が左右に揺れる。花は一つだけではない。何千、何万という白い花がその場で咲き乱れていた。僅かな月光の中で咲き誇っているこの花はある意味異常と言ってもよかった。

 暗闇、だがその暗闇はこの世界の外側だけを覆っていた。その境界線はユラユラと蜃気楼のように揺らめいている。花畑があるその世界は侵すことが出来ないのかそれ以上侵食出来ないようにも見えた。

 花畑の上にはこの世界を守護するように、人を惹きつける光を放つ満月が固定されている。満月の光が花に浴び、その光が反射し花自体が光っているように見えた。満月の周り、それもかなり広範囲に大小様々な大きさの、それぞれの色を持つ星々が広がっていた。

 その世界の真ん中で腰を下ろし右膝を立てたまま、顔を俯かせている少年が1人。疲れているのかその場から少しも動こうともしない。いや、動けなかった。

 もう、何もしたくなかった。―――自分のしていることに意味はなかった。

 もう、動きたくなかった。―――結局、救いはなかった。

 もう、戦いたくなかった。―――終わりの見えない戦いに疲れ果てた。

 もう、誰かを傷つけたくなかった。―――誰かを傷つけて何かを得ても、それは自分にとって無用なものであった。

 もう、前を向いて歩きたくなかった。―――その先に、自分が本当に望んだものは何もなかった。

 もう、希望を抱けなかった。―――そんなものはもう、いらないから、ただ、このまま休ませてくれ。

 少年の胸の中に宿る炎はもう消失しかかっていた。

 ―――ボクはそんなものが、欲しかったわけじゃないのに……。

 呪うように。

 後悔するように。

 懺悔するように。

 少年は消え入るような声で呟く。

 世界で1人しか立つことの出来ない場所や名誉も。 

 人々からの憧れや応援も。

 支えてくれた仲間たちも。

 渇望したこともあった。だけどそれは不要なものであった。

 ―――……こんなもの、欲しければ、好きにくれてやる。

 自分の中にある『才能』と『本能』。

 少年のとってそんなものは必要ではなかった。

 ただ一つ、必要なのは―――

 ―――『幸せ』だけであった。

 小さな、小さな人並みの幸せだけが欲しかった。

 それを失った時、彼はもしかしたら壊れてしまったのかもしれない。

 壊れてしまった時、愚直に進まなければ戦うことが出来なかったかもしれない。

 戦ってしまった時、自分以外の誰かにも何かを失わせてしまったことに気づいてしまった。

 耐えられなかった。  

 ただその世界だけが少年を慰めるように、静かに存在した。

――――――――― 

「……戦いながら考えるって、どうしてもできないんだよなぁ」

 そうボヤいて一夏さんは頭の後ろで両腕を組んで椅子に体重を預ける。どこか疲れているような表情だ。今まで考えていなかったことを考え、しかもISの戦闘も同時進行も行わなければならないというのは難しいと思う。
 
 一夏さんの目の前にはノートパソコンが置いてあり、画面にはセシリアさんと一夏さんの模擬戦の映像が流れている。

「それが出来ないと試合中に修正出来ないんで、徹底的に自分の弱点を突かれることになりますよ」

 そう言って僕はベッドに座り、緑茶が入った茶碗に口をつける。緑茶ってほとんど飲んだことないけど、この苦味は嫌いじゃない。

 突然変異じみた一握りの天才は考えなくても無意識の内に修正し、即座に反映させるけど一夏さんはそういう意味での天才ではないと思う。別の意味での天才だとは思うけど。

 情けないことに気を失ってしまった僕は、あの後すぐに目を覚まして、面倒をかけさせてしまったことをセシリアさんと本音さんに謝罪をした。気を失ってリセットしたからか気分は静まっている。複雑ではあるがそのおかげで僕は何時ものように振舞うことが出来た。セシリアさんはまだ心配そうだったけど、本音さんが上手く連れ出しくれた。セシリアさんにも本音さんにも近いうちにお礼を言わないといけないな。

 その後、整備室で鬼神の調整を行おうと思った僕は道中で一夏さんと出会った。どうやら食堂から戻る途中だったのか一夏さんは白ジャージの出で立ちで片、手で抱えた紙袋にはおにぎりなどが入っていた。朝食と昼食兼用なのかもしれない。

 一夏さんからISに関して質問がある、ということで一夏さんの自室にお邪魔していた。一夏さんの部屋にはルームメイトの篠ノ之さんの姿はなく、一夏さんの話だと部活で剣道部に出ているとのことだった。篠ノ之さんもいないならちょうどいい、と考えた僕はそのまま一夏さんについていった。

 そして今、先日の一夏さん、僕、セシリアさん、篠ノ之さんの4人で行われた模擬戦の反省会が開かれていた。

「セシリアさんとの試合に関しては白式のスペックを活かし、弾幕を踏み越え、どうやって近づくかですね。セシリアさんも徹底的に踏み込ませないようにしていましたし」

 僕の言葉に一夏さんはため息を零す。前の模擬戦では一夏さんはセシリアさんに完封されていた。一方的に狙撃され、近距離どころか中距離にも満足に持ち込めずに敗北を喫した。

「ですが、収穫のある試合だったのは間違いないので落ち込む必要ないでしょう。それに、負けた試合の方が強くなるためのヒントが山ほどあるので、むしろ喜ぶべきです、負けたのに喜ぶのは変な話ではありますが」

 そう言って僕はベッドから立ち上がり一夏さんの隣に立つ。その映像を見ながら鬼一は考える。

「これから一夏さんはこれ以上の立ち回りを受けることになりますよ。セシリアさんもまだまだ未完成な立ち回りをしているんですから」

 その言葉に一夏は心底嫌そうに、げっ、と言いたげな表情に変わる。

「当然でしょう? というか一夏さんもクラス代表決定戦の時に1度その弱点を突いているじゃないですか。セシリアさんの大きな弱点、ビットを展開している間はライフルを用いた狙撃ができないことを」

 だけど、今回のセシリアさんは状況に応じて細かく切り替えていた。ビットを展開するときは弾幕形成や一夏さんの正面に展開させて、迂回させたり牽制をしていた。ライフルを使う時は自分の有利を確定させ、一夏さんに絶対防御を発動させることが出来るのみだ。

「すぐには改善できない弱点ですからセシリアさんもこの模擬戦で色々試していたみたいですね。ビットの使い方やライフルの使い方を。そしてここで学んだことは、弱点を解消したときに大きな力に繋がります」

 そう言って僕は考える。それぞれ単体で見ても優れた武装ではあるがこれがもし、両立したときの優位性を。少なくとも僕は有効手段をすぐに思いつくことは出来ない。

「まぁ、それはともかくとして、これで一夏さんは機動の大切さを身を持って知れたわけなんですから上々ですよ。以前言った『相手の攻撃を避けながら距離を少しずつ埋める』。これを実践するためのヒントはこの中に眠っていますから、よく見て考えてください」

「ていうか鬼一?」

「はい、なんでしょう?」

「お前、俺との模擬戦の時のアレはいくらなんでもないだろう!?」

 一夏さんの困惑した表情と声に苦笑する。いや、正直、あそこまで機能してくれるとは予想もしなかった。

「なんでミサイルを近距離迎撃に使うんだよ!?」

 先日の模擬戦の際僕はレール砲と夜叉という2つの武装ではなく、夜叉の代わりに羅刹を、そしてミサイルポッドを使用して臨んだ。

「いえいえ、僕もまさかあんな結果になるとは思いませんでしたよ」 

 鬼火のリミッター解除も出来ないし(織斑先生やたっちゃん会長にしこたま説教された挙句、解除の権限の優先順位は2人の方が僕より上に新しく設定された。つまり僕が解除するためには2人の内、最低でも片方から許可を得ないといけない。保健室ではセシリアさんに泣かせてしまったこともあり、僕としてもリミッター解除は進んでしたくなかった)ミサイルポッドという重量武装を積んでいる以上、白式の速度には及ばないし振り切ることも困難だ。

 だから僕は発想を変えざるを得なかった。

 試合当初は踏み込ませないように徹底的に弾幕を張るようにして戦っていたのだが、僕の腕前だとシールドエネルギーを削ることは出来てもどこかで踏み込まれてしまう。

 そこで閃いた。

 ミサイルを発射して相手に直撃させることが出来ないなら、爆風が当たる位置でミサイルを『撃ち落としてしまえばいい』のだと。

 あの時、中距離と近距離の間でミサイルの全弾掃射を行った。その時一夏さんは回避が困難だと思ったのか意表をついて全速力で更に踏み込んできたのだ。

 そして僕もそれを見てミサイルの直撃は望めないと判断。だからレール砲を手当たり次第に撃ちまくって自分で発射したミサイルを撃ち落とした。

 結果、1発のミサイルが爆発した瞬間に連鎖的に他のミサイルを巻き込み、最終的には白式を包み込みそうになるほどの爆炎になったのだ。そのあまりの爆風、破壊力にはもちろん絶対防御が起動した。ただ、フルスピードで前進していたおかげで全てのシールドエネルギーを削り切ることは出来なかった。

 だが、突然の爆発に混乱の極みにあった一夏さんは次の動作に移ることが出来ず、最後はレール砲と羅刹の照射で決着がついた。

「……普通ミサイルって、中距離遠距離で使うもんじゃないのかよ……」

「まぁ、ISのミサイルのほとんどはそうなんですけど。でもそれを言うならセシリアさんの弾道型ブルーティアーズだって近距離用じゃないですか」

 もしセシリアさんの弾道型ブルーティアーズのようなミサイルが僕にも使えるのであれば、あんな使い方を思いつかなかったと思う。

 弾速も誘導も威力も、全てにおいてセシリアさんのアレと比べれば見劣りする。優れているのはその数だけだ。そして僕はその数を利用しただけのこと。ただ、予想を超える結果になったのが嬉しい誤算だった。

「そもそも、あれだって何度も出来る手段じゃないんですからね? ミサイルを吐ききってしまうのでリロードしなければなりませんし、その間は鬼神の弾幕形成能力も大きく低下します。読まれて対応されたら鬼神の貴重な選択肢が1個なくなってしまうんですから、一概に僕だけが有利なわけではないですよ」

 そう話して緑茶に口をつける。

「ていうか一夏さん? 僕の試合は半分事故ですし、セシリアさんに負けるのもしょうがないと思いますが篠ノ之さんにまで負けるというのはどうなんですか?」

「うっ……」

 1回目の模擬戦の結果はこうだ。

 全勝のセシリアさん。

 セシリアさんだけに敗北した僕。

 一夏さんだけに勝った篠ノ之さん。

 そして全敗の一夏さん。

 本気になったセシリアさんなら全勝くらいは充分現実的な話だ。しかし専用機持ちが大した鍛錬も積んでいない操縦者、しかも訓練機に敗北するのはいくらなんでも擁護できない。

 相手の弱点を突くことを考えない。よく言えば彼女の言う真っ向勝負、悪く言えば猪である篠ノ之さんにまで割と一方的に負けるのは流石に見過ごせない。

「スペック差は大きく開いてますし、剣の腕に関して言えば向こうが上だと分かっているのになーんで打ち合いになるんですかねぇ?」

「い、いや、鬼一、その、だな」

 僕の顔を見て青ざめる一夏さん。何をそんなに顔色悪いのか? 別に怒っているわけでもないのだが。

「ともかく、今は負け続けても構いません。ですが思考は止めないようにしていきましょう。そうでないとただ戦ってるだけで得られるものはほとんどありません」

 そう言って僕は話を終わらせ緑茶を飲みきる。うん、緑茶、気に入った。

 一夏さんから離れて再度ベッドに座り込む。

「……なぁ、鬼一?」

「はい?」
 
 小さい声で一夏さんは僕の名前を呼んだ。

「その、なんだ、鬼一ってISのことをどう思う?」

 その質問に心臓が大きく跳ねたような気がした。

「……また唐突な質問ですね。どうしたんです突然?」

 質問を質問で返すのはどうかと思ったが、一夏さんの質問はそれだけ僕にとっては衝撃のあるものだった。一夏さんはあまり人のことを知ろうとしない。そんな印象があったからだ。篠ノ之さんの怒りなどにも宥めはするがその根源を知ろうとしない。彼女は一夏さんが絡むと感情を大きく動かすが、一夏さんはそれを知ろうとしない。  

「いや、その、なんて言えばいいんだろうな。千冬姉にも言われたんだけどさ、お前はもっと他人のことを理解する努力をしろ、って」

 ……織斑先生、そんなことを一夏さんに話していたのか。

「更衣室の一件、俺は鬼一の言葉や考えを受け入れられなかった。正直、今でも間違っていると思う。だけど鬼一は、俺には分からないたくさんの出来事を超えてあの結論に至ったんだって考えたら、鬼一のことを知りたくなった。ISについての考えを聞きたいのは2人しかいない操縦者というのと、鬼一は俺より色んなものを抱えていたのに、それを、なんだ、置いていくことになったと思う。その時、何を感じたのか知りたい」

 一体、過去の僕が何を言ったのかは正直、よくわからない。それに一夏さん自身、考えながら喋っているせいか自分でも上手く言葉に出来ないと思ってるんだろう。だけど一夏さんは織斑先生に言われて自分の何かを変えようとしているのか、それとも変わろうとしているのか。どちらにしても他人に興味を持つのは悪いことだとは思えない。

 しかし、ISのことをどう思うか、か。

「……分かりました。別段隠すことでもないのでお話ししますが、ただちょっと待ってください。自分でもうまく纏めれていないので。すいません、一夏さん。お茶をもう一杯頂いてもよろしいですか? その間に考えたいので」

 一瞬、出入り口のドアから何かの音が聞こえたが僕は無視した。

「お茶、ありがとうございます」

 一夏さんが新しく入れた熱いお茶に口をつける。僕にお茶を渡した一夏さんは自分用のお茶を持ったまま椅子に腰掛けた。

「……色々と思うことはありますが結論から入りましょうか。僕にとってISは『この世でなによりも嫌いなもの、だけど失ってはいけないもので否定してはいけないもの』と考えています」 

 その言葉に一夏さんは驚いた表情に染まる。あまりに予想外の答えだったようだ。声を上げそうになる一夏さんだったが、僕はそれを苦笑しながら手で制する。

「まぁ、落ち着いてください。さて、どこから話したものでしょうか」

 嫌いだけど、失ってはいけない、否定してはいけない、一見矛盾しているように見える僕の答え。

「ところで一夏さん? 僕の両親がISの研究者だったって話どこかでしましたっけ?」

「……いや、初耳だな。その話」

 顎に手を当てて考え始めた一夏さんはそう答えた。だけど難しい表情をしている。僕の言葉が過去形だったからだろう。

「あぁ、じゃあここから話しましょうか。僕の両親はIS研究者でしたが、2人ともIS絡みの事故で他界してます。僕がプロゲーマーになった直後なんで12歳の頃ですね」

 その言葉に一夏さんは目を見開く。そしてすぐに気まずい表情になる。一夏さんはその気まずそうな表情のまま、僕に謝ってきた。

「鬼一、ごめん……無神経だった」

「別に構いませんよ。僕から話していることですし」

 熱い緑茶に口をつける。胸が痛みを訴えているが、昔はこんなの比ではない痛みだった。

「ホントにあの頃はISのことばっかり憎んでいましたね。いえ、今もか。あんなものがなければ父さんも母さんも失わずに済んだのに、って」

「じゃあなんで、そんな風にいられるんだ……? ISを憎んでいるなら……」

 ―――復讐、を、考えなかったのか? 一夏さんは言葉にしなかったがそう言いたそうな表情だった。

 一夏さんの疑問の声は多分、僕の普段からの姿ではそれが表面に出ていないからだろう。

「それからすぐにe-Sportsに没頭した、というのもありますが一番の理由としては多分、これが僕の本音ですね。『僕のようにe-Sportsに救われた人間もいればISによって救われた人もいる』」

 その言葉に一夏さんは身体に力が入ったように見えた。

 そう考えたのは、そう思えたのは一体何時だったかは僕は思い出せない。そして、その考えが確信になり、間違えではなかったと感じたのはセシリアさんのおかげだ。

 セシリアさんにISがあったからこそ、彼女は母親が遺したものを守れたんだ。前に休憩スペースで初めてお互いを理解したとき、彼女は言った。

 ―――ISがなければどうなっていたか、守れていたかは分からない。と。

 彼女もISというものがあったからこそ、救われたのだと。

「僕も救われた身です。そんな僕が、単純な好き嫌いは別にしても他の誰かにとっての救いを一方的に否定できるわけもないでしょう。僕だってe-Sportsを否定されたら嫌ですし、だからセシリアさんに対してあれだけ怒っていたわけです」

 関係ない人たちの目の前で明確な怒りを見せたのは反省しなければならないが、あの時、僕はどれだけの怒りを持っていたのだろう。

「約3年という時間と僕の周りにいた人たちのおかげですね。そのおかげで冷静になれて沢山のことに気づけたし、受け入れられるようになりました。それがなかったらIS関係者を殺したかもしれませんね。それも無差別に」   

 姉と言えるような人がいた。師と言えるような人がいた。仲間と言えるような人たちがいた。自分に対して全力で戦ってくれる人たちがいた。そこで得られたものは少なくとも、今の僕にとってはそれが支えになっていることは疑いようもない。

「僕はISのことが嫌いですし適正があると分かった時、心底嫌になりましたね。乗らないという選択肢もなかったですし」

 ワールドリーグで優勝した直後に世界的に行われた男性操縦者の適正検査。帰国前に行われた検査で適正があると分かった時、僕は足元が崩れるような錯覚を覚えた。

「強制的に乗せられている身としては日本の上層部の連中に吐き気を覚えます。人を利用して益を得ようとする魂胆が丸見えだ」

 日本に戻ってきて自分を出迎えたのは脂ぎった中年男性とその秘書だった。あの時の下衆な笑みは当分忘れられそうにない。人から選択肢を奪っておいてよくあんな顔が出来るものだ。

「それでも僕がISに乗って戦い続けるのは、『ゲームはいつだって戦いであり自身にとって救い』だからです。その世界を汚されたくない、下に見られたくないからこそ全力で戦うことを決めました。そこだけは自分で選択しました」

 それが答えだ。

「と、長々と偉そうに喋りましたがこんなところでよろしいでしょうか?」

 そう苦笑して話を終える。

「あ、あぁ、鬼一ありがとう。俺に話してくれて」

 戸惑いを隠しきれていない一夏さんが感謝の言葉を言う。多分、予想を超えた話だったかもしれない。

 残っているお茶を勢いよく飲み干す。一息ついた僕は立ち上がる。時間を確認したらたっちゃん先輩と模擬戦の時刻が近づいていた。急ぐ必要はないが早めに行きたい。

「さて、僕はこれから用事があるのでこれで失礼しますね一夏さん。お茶美味しかったです」

 茶碗を一夏さんの近くの机に置く。茶碗を置いた僕はそのまま部屋から出ていこうとする。ドアノブに手をかけたところで背中に一夏さんの声が届いた。

「な、なぁ、鬼一!」

「どうしました?」

 首だけを回して横目で一夏さんの姿を捉える。

 椅子から立ち上がった一夏は上手く言葉に出来ないように見えた。

「……っ……いや、なんでも、ないっ」

 腹から絞り出すように一夏さんはそう言った。その時の一夏さんが何を言おうとしたのかは分からない。でも、僕にとっては受け入れがたい言葉だったかもしれない。

「そうですか。それではこれで失礼します」

 そう言って僕は部屋から出て行く。

「……?」
 
 一夏さんの部屋から出てドアを締めると、廊下の曲がり口に見たことのある後ろ姿が一瞬だけ見えた。確かあの後ろ姿は―――、

「……篠ノ之さん?」

 なぜ、彼女はあんな慌てていたのだろうか?

 ……僕の気にすることじゃないな。

 そうして僕はアリーナに向かって歩き始めた。

――――――――――――

 鬼一はアリーナへの通路を歩いていた。

「……にしても」

 セシリアと楯無の顔が思い浮かぶ。先ほどと違って思い出しても身体が熱くなることはない。自覚していない内に他者から指摘されてしまったからか取り乱してしまった。だが鬼一にとって本音の言葉はあまりにも衝撃的すぎたのだ。もし、これが少しでも的が外れているものであれば鬼一は鼻で笑い、一蹴しただろう。

 それが出来なかったのは少なからず事実であることを、鬼一はあの場で自覚した。そのことに鬼一は胸が痛くなる。

 その痛みがなんなのかは分からなかった。

 深く、深く、その痛みを消し去るように深呼吸を何度か繰り返す。あれだけ自分が取り乱したのは一体いつだったか? 確か、まだ両親がいた頃だ―――。

「……あっ、ぐぅ!?」

 瞬間、立っていられなくなるほどの激痛が鬼一の頭を襲った。膝が折れ、地面に左膝を打ち付けてしまう。倒れてしまいそうになるがその前に左手が壁につく。打ち付けた痛みが気にならないほどの頭痛である。

 まるでこの痛みは『思い出してならないもの』、と本能が拒否しているようであった。様々な人格の思考が脳内を駆け巡り、一瞬で消失した。

 砂嵐のようなノイズが脳内を埋め尽くす。何も考えられなくなる。

 ノイズの間に見える何処かの景色。

 ―――大小様々な機材が置かれた場所。

 ―――その機材の真ん中に置かれているパワードスーツ。

 ―――パワードスーツに接続されていたケーブルや機材は全て引きちぎられ、壊されていた。

 ―――パワードスーツの搭乗者の身体からは煙が立ち上っている。

 ―――その近くに倒れている2人の人影。

 ―――2人を中心に広がっている赤い水溜り。

「……あああああぁあぁぁあっ」 

 ―――戦いをどこまでも重いものとして、尊いものとして扱う表の人格が。

 ―――勝利を得るために人を傷つけることに、壊すことに、何も感じない人格が。

 ―――自分を一つの歯車として、月夜 鬼一に勝利の2文字を与えることに特化された人格が。

 ぐちゃぐちゃになる。

 視界が歪み始める。

 平衡感覚が狂い始め上下左右が分からなくなる。

「……『ボク』は……」

 一体それは誰だったか。

 静かに開かれた目には何も映していなかった。何も、宿っていなかった。

「……鬼一くんっ!?」

 鬼一の背後から楯無の張り詰めた呼びかけが投げかけられる。楯無は通路の奥から駆け足で鬼一に駆け寄り、顔を覗き込んだ。そしてその表情を見て楯無は言葉を失う。鬼一の様々な顔を見てきたが、その表情は明らかに異質なものだった。

 空虚、というのはこういうことを言うんじゃないだろうか? 楯無はそう感じた。 

 虫か、なにか無機物なものでも見ているような表情。意志や理性といったものが抜け落ちている。本当に同じ人だとは思えなかった。

 楯無はロシア国家代表という表の顔を持っている。

 だがそれはあくまでも表の顔だ。彼女はロシア国家代表であると同時に表には決して出てこない、暗部に対する暗部組織『更識家』の現当主でもある。彼女の名前の『楯無』は更識家当主が代々襲名する名前だ。

 彼女は対暗部用組織の当主として、公にはできない様々な『闇』を見てきた。血が流れることなど珍しいことでもなかったし、その過程で様々な人間も見てきた。

 だが目の前にいる少年は、裏表を見てきた楯無にとっても理外の生き物だと感じた。どんな人間にも、是非はともかくとして必ず何らかの『信念』や『理念』を持ち合わせている。そしてその『信念』や『理念』、もしくは『矜持』に沿って理性が思考を生み出し、行動へと至らせるのだ。

 それを知っている楯無からすれば、今の鬼一はそんなものを持っていないように見える。

 楯無の手からは衣服を通して鬼一の体温が感じられるはずなのだが、今の鬼一には体温が感じられなかった。

「鬼一くん……?」

 不安そうな声色で楯無は鬼一に声をかけた。

 その声で初めて鬼一は楯無のことを気づいたのか、少しずつ瞳に光が戻ってくる。確かな力を秘めた光。

「……たっちゃん先輩?」

 楯無が聞きなれたその声に楯無は安堵した。いつもの鬼一だ。だが、明らかにおかしかった。

「……?」

 キョロキョロと周りに視線を彷徨わせる鬼一。どうして自分がここにいるか理解していないみたいだ。そして楯無と視線が合う。

 楯無が声をかける前に鬼一の顔が赤くなる。

「……たっちゃん先輩!?」

 ようやく状況を飲み込めた鬼一は勢いよく立ち上がり、壁に背中をぶつける。気がついたら突然楯無がいたのだ。心構えも何も出来ていなかったのにいつの間にか視界にいた楯無に対して、鬼一は本音の言葉が頭に駆け巡っていた。

 そんな鬼一に楯無は苦笑する。先ほどの鬼一と今の鬼一のあまりの違いに困惑してはいたが。しかし、一夏戦とその後の様子を知っている楯無からすればその驚きを顔に表すことはなかった。

「やあやあ、そのたっちゃん先輩ですよ~」

 ニヤニヤと底意地の悪い笑みを浮かべたままにじり寄る楯無。

 その行動に鬼一は冷や汗を流し、楯無を食い止める。

「そ、そうだたっちゃん先輩! もうすぐ模擬戦の時間、準備をするのでまた後でっ!」

 慌てふためいた鬼一は走り出して楯無の前から立ち去る。

 鬼一がいなくなり、一人になった楯無。

「……あれは……」

 異質な存在を目にし楯無は1人呟いた。

 その表情は疑念に染まっている。

 しばらく足を止めていた楯無だったが、鬼一との約束を果たすためにアリーナへ足を進めた。

 その足音は普段に比べて、僅かに重いものであったが。
 
 

 
後書き
評価と感想お待ちしております。お気に入り登録が増えているようですが、登録してくださった方々ホントにありがとうございます。
次の話はハーメルン時代では執筆、投稿していなかった楯無戦です。お楽しみにどうぞ。アップするのは明日の夜になりそうです。 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

感想を書く

この話の感想を書きましょう!




 
 
全て感想を見る:感想一覧