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これも設定だけしか残っていないとは…

作者:カイさん
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戦国モノ設定1

主人公    大塔護通
官位・位階  従二位 左近衛権大将 正一位丞相(新令外官)・従一位大将軍(新令外官)
領地     阿波國那東郡・那西郡・海部郡
       伊勢國度会郡・飯南郡の一部
       摂津國河辺郡
       その他各地に荘園アリ
表高     六万七六〇〇貫(太閤検地換算で大凡二六万石)
       阿波・讃岐・淡路制圧後十万六六〇〇貫(四一万石)と設定。
生年月日   享禄三年(一五三〇)三月八日
没年月日   寛永八年(一六三一)正月  享年一〇一歳
氏族     後醍醐天皇第三皇子大塔宮法親王護良親王の末裔
居城     阿波日和佐城
正室     関白一条房通の女(仮称 通子)
側室     北畠左近衛中将晴具の女(仮称 顕子)
子女     嫡男大塔護綱 次男為真護房 三男松島護親 四男和田護規 五男山科護輝 六男鈴木護祥
       長女輝子(三好存保室) 次女通子(安芸国虎室) 三女夏子(一条内基室) 四女仁子(大内義尊室)

略歴 

 天文十四年(一五四五)元服 将兵六〇〇〇余を率いて平島公方足利義維を擁する三好実休之虎・安宅摂津守冬康・十河左衛門督一存ら一万三〇〇〇を相手に奮戦奮闘してこれを撃砕して細川・三好・平島公方家を阿波から追い、阿波を統一。翌年には淡路・讃岐を制圧し、細川氏の本拠地四国を奪取する。

 天文十六年(一五四七)、阿波・讃岐・淡路の三ヶ国に楽市・楽座を施行。新田開発や主要拠点(海部城・白地城・川島城・阿波一宮城・渭山城・寺島城・勝瑞城・阿波岡崎城)・(引田城・十河城・古高松(讃岐吉岡城)・讃岐亀山城・由佐城・天霧城・高丸城・仁尾城)・(郡家城・柳澤城・白巣城・炬口城・洲本城・由良成山城・志知城・養宜館・叶堂城)の増改築に邁進する。このうち、阿波渭山城・寺島城を合体させて新たに縄張りして築城されたのが阿波府中城。後の徳島城であり、古高松を大増改築したのが讃岐高松城。讃岐亀山を大増改築したのが丸亀城となる。
 天文十八年(一五四九)阿波府中が完成。以後居城は阿波府中に移動し、三角州の島であった事から島、そこに縁起を担いで徳の字を足して『徳島』と名付けられた(蜂須賀小六が名付けた徳島由来説を先に実践した)とも云う。

 天文十九年(一五五〇)河野左京大夫通宣を下して伊予を制圧。先年の淡路水軍に続いて塩飽水軍・村上水軍を支配下に置く。同年、湯築城を大改築し、近場の勝山にも城を築き始めた。これが伊予松山城である。それ以外にも(今治城・仏殿城・伊予甘崎城・伊予亀山城・伊予木ノ浦城・伊予伯方城・伊予金ヶ崎砦・伊予能島城・遠見山砦・来島城・伊予糸山城・伊予松前城・伊予大洲城・伊予松葉城・伊予黒瀬城・板屋城(大改築後宇和島城)・法華津城・河後森城)大改築又は築城している。

 天文二十年(一五五一)従二位兵部卿・大宰大弐・侍従大内義隆が重臣陶隆房に裏切られて攻められた(大寧寺の変)のを事前に察知し台風の中兵六〇〇〇で援軍に向かうが、陶隆房の軍勢に遮られた。その間に陶隆弘・冷泉隆豊・小幡義実らが一命を懸けて大内義尊・前関白二条尹房・良豊父子・前左大臣三条公頼らを守って護通の軍勢に逃げ込んできたためこれを保護。大内義隆・陶右馬允隆康・大宮左大史伊治・持明院中納言基規らは義尊らを逃がす為に囮となって大寧寺にて奮戦し自害して果てていた。護通は保護した者を塩飽水軍衆宮本伝太夫通利に託して阿波に落とした後、全軍を以て陶軍と激突。杉重矩・陶隆満らを討取ったものの、謀反人陶隆房は兵力を残したまま逃亡。それでも大戦果を挙げて勝利とし、四国へ撤兵した。

 天文二一年(一五五二)完成したばかりの今治城から兵九〇〇〇を海上輸送で送り込んだのが安芸鞆の浦である。鞆の浦を制圧した大塔勢は毛利忍軍に調略を仕掛け、世鬼政親を二〇八〇貫(八〇〇〇石相当)で、佐田彦四郎時貞を一八二〇貫(七〇〇〇石相当)で召し抱える旨を告げると世鬼政親は世鬼衆を佐田時貞は佐田衆を引き連れて毛利から寝返ってきた。大塔家では世鬼に関姓を、佐田はそのまま佐多姓を下賜し、関政親を従五位下検非違使大尉を、佐多時貞に正六位上検非違使少尉をそれぞれ任官させた。佐多忍軍は阿波徳島に、関忍軍は鞆の浦の支配を任せる事とし、鞆に築城を開始。これが鞆城である。忍でも城主になれる。この噂は全国の忍達に波及。伊賀・甲賀はもとより雑賀・山中・出羽・透破・蜂屋・風魔・軒猿・黒脛巾・根来・戸隠等から続々と忍者たちが仕官に訪れ、加藤段蔵隆顕・百地三太夫泰光・津田照算ら著名な人物も数多くいた。彼らも多い者で一六九〇貫(六五〇〇石相当)、少ない者で一三〇貫(五〇〇石相当)が与えられ、武士階級となった。

 天文二二年(一五五三)、大塔護通は四国を追い出した三好家と対立していたが、ここで電撃和解。兵一万を連れて上洛を果たす。皇室に三万貫を納め、二万貫で皇居の修繕・修理を行った。この功績に朝廷では大塔護通に従二位左近衛大将に任ずる。左近衛大将に任ぜられると五摂家を中心とした公卿にそれぞれ二六貫(一〇〇石相当)の米・銭を寄進しその名声を大いに高めた。

 天文二三年(一五五四)、大塔家は最後に残った土佐を妻の親族である土佐一条家の領地を除いて完全制圧。土佐一条家も官職・親族関係から大塔家に膝を屈し、ここに四国は統一された。四国統一後、長宗我部氏に親族を嫁に出したり養子入りさせたりして完全に取り込む。

天文二四(一五五五)、四国経済・農業発展等の内政を行いつつ、大塔勢は阿波・讃岐・伊予の四ヶ国総動員で中国地方の制圧戦を開始。瞬く間に備後国を制圧。とはいえ、数年前から国人領主たちに謀略・調略を仕掛けていた結果だが。神辺城を備後の拠点とし、重臣で猛将として知られる七条左衛門佐兼仲を置いた。七条兼仲は正史では三好家に属する阿波国人領主だが、この物語では国人領主ではなく、大塔家臣である。ほかにも飯尾主殿助利隆・大西掃部助頼武・麻植因幡守持光(忌部神社大宮司)・小笠原長門守成助・岡本牧西清宗・海部主膳助之親・篠原右京進長房・十河右衛門尉景滋・十河讃岐守存保(後に)らがいる。 備後を制圧した大塔家はその勢いのまま備中・美作の制圧戦を開始。大塔家の脅威。この恩恵なのか大内家(大内義長を傀儡とした陶晴賢の勢力)と毛利家が同盟を結ぶ。 同年、大塔家は改元費用を朝廷に献上。弘治となる。

 弘治二年(一五五六)、大塔家は美作・備中を完全制圧。中国地方に覇を唱える。同年、沼田川を挟んで大内・毛利連合軍一万八〇〇〇と大塔護通勢二万四〇〇〇が激突する。これを第一次沼田川合戦という。
        
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