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ありがとう!(Ⅱ建一の半生)

作者:近藤 宏樹
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ありがとう!(Ⅱ建一の半生)

 
前書き
一台の赤色のスポーツカーが、夕暮れの直線道路を、猛スピードで走っていた。 

 
ありがとう!(建一の半生)
Ⅱ{フィクションに付き、内容は架空で、
  事実とは、異なる処があります}
音一台の赤色のスポーツカーが、夕暮れの直線道路を、猛スピードで走っていた。「信ちゃん、駄目」運転している女に、助手席の男が、ふざけながら抱き付いてきた。前方の対向車線に、白色の軽トラックが見えた。スポーツカーはハンドル操作を誤り、センターラインを、大きくオーバーした。驚いた軽トラックは、ハンドルを左に切った。音軽トラックは、左側の倉庫のブロック塀に激突した。音荷台から、大工道具が道路に散乱した。30メートル程、走り越した処でスポーツカーは停止した。音車から若い男女が降りてきた。「信ちゃん、如何しよう」と、女が言った。軽トラックの運転席に、人の動いているのが見えた。中肉中背の職人風の男が、必死で助けを求め、運転席のドアを開き、道路に転げ落ちた。職人風の男の耳に、男女の話し声が聞こえた。職人風の男の目に、赤いスポーツカーと、ナンバーが見えた。ナンバーは11-29だった。運転席には、真新しい黒色のバットとキャッチャーミットが、床に転げ落ちていた。職人風の男は、暫くして気を失った。「ひー子は無免許だから、運転が未熟だな。俺が運転変わるよ。対向車の軽トラックとは、接触していない。軽トラックの一人相撲だ。ひー子の、無免許運転がバレたら大変だ。早くしないと、クリスマスパーティーに遅れるぞ」と、男は言った。辺りには、人影は全く無かった。男は、面倒臭くなる事を嫌った。二人は、その場を放置した侭、被害者の顔も見ないで、スポーツカーに乗り走り去った。スポーツカーに乗っていた若い男女は、男が久保葡萄園の御曹司・久保信雄で、女は塚本工務店の一人娘・塚本久子だった。信雄は、東京の国立大学一期校の経済学部の学生で、久子は、地元の国立大学二期校の工学部の学生であった。二人は高校時代の同級生だった。信雄は冬休みで帰省し、今日は二人で、仲間と一緒に催す、クリスマスパーティーに行く途中だった。スポーツカーは、無免許の久子が親に強請り(ねだり)、買って貰った車だった。久子は、現在、自動車教習所に通っている最中であった。
中学生の建一は、一人自宅で、父親・総一郎の帰りを待ち望んでいた。今日はクリスマスイブだった。建一の家庭は父親の総一郎との二人暮しの父子家庭で「母親は建一を生むと、即、亡くなった」と、総一郎は、云っていた。建一には、母親の面影は全く無く、総一郎が男手一人で建一を育て上げた。家が貧しく、中学校も碌に行って無い総一郎は、子供の頃から修行をして、大工になった。自宅は、総一郎が廃材を集め、自分で建てた堅固な住宅であった。日当暮らしの総一郎は、雨の日は仕事が無く、収入は不安定だった。現在は、塚本工務店に、日雇大工として勤めていた。今夜は、総一郎の帰りが、何時もより相当遅かった。音早川家の前に、一台のパトカーが停まった。パトカーから警察官が降りて来て、建一に「お父さんの総一郎さんが、事故に会い、病院に運び込まれた」と、告げた。建一は言葉を失った。パトカーに乗せられ、建一は病院に向かった。病室に入ると「父ちゃん」と、建一は叫んだ。総一郎は昏睡状態だった。枕元に、クリスマプレゼントの真新しい黒色のバットと、キャッチャーミットが、置かれていた。それは、野球少年の建一が、以前から欲しがっていた物だった。傍にいた医師が「大丈夫、命には別状ない。しかし右足は、脛骨を複雑骨折しているので、駄目です」と、言った。「先生、駄目って、如何いう事ですか?」と、建一は問い質した。「膝から下を、切り落とします」と、医師は答えた。建一は唖然とした。「切り落としたら、如何なるのですか?」と、聞いた。「義足に、なります」と、医師は答えた。建一は「父ちゃん、大工です」と、言った。「義足では、高い所に登るは無理です」と、医師は答えた。総一郎は、大工の仕事が出来なくなった。建一は、自分を病院まで、パトカーで連れ来た警察官に聞いた。「事故の相手は、何処に居るのですか?」警察官は「道路には、対向車の急ブレーキの跡は有るが、接触していないので、交通事故には成らない。お父さんの自爆事故だ」と、答えた。建一は「如何して?」と、聞くと「法律で決まっている。自爆では交通事故の扱いには、出来ない。では、我々はこれで帰ります。お大事に」と、言い、警察官は病室を出て行った。総一郎が目を開いた。「父ちゃん」建一が泣きながら、総一郎に抱き付いた。総一郎は、事故の内容を全て、建一に話した。「対向車は、赤いスポーツカーで、男女二人が乗っていた。ナンバーは11-29」と、言った。対向車が、センターラインをオーバーしなかったら、父ちゃんはブロッ塀に激突しなかった。建一は法律の矛盾を感じた。建一は医師から「義足になる事を告げられた」と、総一郎に言った。総一郎は、暫し目を閉じた。寡黙な総一郎が建一に「馬鹿、男はメソメソするじゃない」と、言った。その夜、建一は、総一郎のベッドの脇のソファーで寝た。翌日、塚本工務店の社長の塚本一郎が、花束と見舞金を持って訪れた。社長は「仕事外の事故なので、労災保険の対象にならない。相手の車と接触してないので、自動車保険も一切下りない。使えるのは、社会保険だけだ」と、言った。総一郎は「社長、色々調べて貰って、有難う御座います」と、礼を言った。総一郎は、無事故・無違反のゴールド免許だった。事故で、総一郎の軽トラックは大破した。任意保険も車両保険も、以前は加入していた。総一郎は大工の仕事上、自らの軽トラックに、材木などをブチ当てる回数が多く、その都度、車両保険を請求していた。今は、保険会社から保険の加入を断られ、任意保険も車両保険も無かった。貰い事故で、弱り目に祟り目だった。障害者手帳は、市役所から交付されたが、自宅から外出しない総一郎は、公共交通機関などの割引制度を使う機会は無かった。人情家の塚本工務店の社長は「総さんは腕が良い大工だ。自宅でも出来る、木工の仕事を世話する」と、言ってくれた。総一郎は建一に「ごめんな、弁当を作れなくて」と、言って、弁当を買う金を渡した。中学生の建一は毎日、病院に行き、ベッドの上で総一郎の体をタオルで拭き、朝晩の食事は病院で摂った。「有難う」と、総一郎が言うと、「親子だろう、当たり前だ!俺、父ちゃん、大好きだ」と、建一が答えた。[優しい子供に、育ったよ]と、総一郎は目頭を押さえて、脳裏に妹を想い浮かべ、妹に報告した。病院には連日、同僚や、建築現場で知り合った仕事仲間が、見舞いに来ていたが、社長の娘の塚本久子の見舞いは無かった。総一郎は、塚本久子とは全く面識が無く、塚本久子が、スポーツカーを運転していた人間だとは、知る由も無かった。6
三か月以上、総一郎の、リハビリと義足の歩行訓練が続いた。自宅に戻っても、総一郎は、松葉杖なしでは、歩行は困難だった。もちろん、車の運転は出来なかった。でも、家事は極力、自らで熟した(こなした)。総一郎は自宅で、木工製品作りに励んだ。作った木工製品は、運送屋の車で地元の家具店に納品した。総一郎は必ず、運送屋の「有難う御座います」と、言うのが習慣だった。[有難うを、言われて、嫌な人間は、いない]それは、総一郎の信念に基づく考えだった。手作りの木工製品は、特徴が有り、家具店でも好評だった。
建一の高校入試の時期になった。建一は、地元の工業高校の建築科を、目指していた。建一は父親を尊敬していた。「家は、人の一生の買い物だ。丈夫で長持ちする家を造るのが、大工の使命だ」と、総一郎は常日頃、口癖の様に言っていた。建一は、早く自分も一人前になって、男一人で自分を育てた父親を、楽にさせたかった。見事、建一は工業高校の建築科に、合格した。建築科に入学し、設計を学ぶ様になった。同時に、野球部にも入部した。中学時代の経験も豊富で、ガタイ大きくて、ホームベースの守りが固く、肩の良い、一年生の建一を、監督は正キャッチャーに抜擢した。だが、走るのだけは、遅くて苦手だった。建一は毎日、クリスマプレゼントのバットとキャッチャーミットを持ち登校した。
学問を受ける機会に恵まれなかった総一郎は、活字を読むのが苦手だった。自宅で四・六時中、テレビを見ながら木工製品を作る様になり、テレビから知識や情報を、豊富に習得する事が出来た。次第に、寡黙な総一郎からの、テレビからの受け売り話が、増えていった。歩くのは、義足でのリハビリで回復したが、外出時には松葉杖が必要だった。二人での男所帯だったが、総一郎は綺麗好きで、家の中は常時、整理整頓されていた。食材は生協の宅配を利用し、家事は大部分、総一郎が担当したが、食事だけは二人で作った。
在る日、二人で夕食を食べている時、総一郎が話し出した。「千秋楽の大相撲をテレビで見たが、モンゴル出身の優勝力士は偉いな。[今、一番感謝しているのは、自分を此処まで育ててくれた両親です]と、言っていた。日本人の力士の大半が、インタビューで言うのは[皆さんの、応援の御かげ・親方の御かげ]が、関の山だ。気持ちが違うな。これでは、日本人の力士は、何時まで経っても、モンゴル出身の力士に勝てないな。インドの、児童労働の実態を見た。僅かな給料から、子供は親に仕送りをしている。でも、両親が大好きと、云っている。都会で働いている若者も、親に仕送りをしている。発展途上国は、皆、同じだ。子供に将来、何に成りたいかと聞くと、医者とか学校の先生とか看護師などの、社会に貢献できる仕事をしたいと、云う言葉が返ってくる。田舎に行けば、祖父母・両親・兄妹・両親の兄妹などの、大家族が大半だ。家族の絆が有る。日本の様に、老人ホームや保育園などは、殆ど無い。白川郷などの、大家族の世界遺産が、日本にも在るが、これは化石か?中国では、家族の絆を求めて、春節に民族の大移動が起きる。日本で働いている外国人も、家族に仕送りをしている。日本で、親に仕送りをしている若者が、いるのか?逆に親から、家の建築資金などで、金を貰っているケースが、多いのでは?昔は違っていた。東北などの貧しい村から、集団就職で都会に働きに来て、親に仕送りをしていた。ヒマラヤのブータンと云う国は、国民の殆どが、幸せだと思っている。日本政府は、保育園や老人ホームなどの姨捨山(おばすてやま)を一生懸造り、家族の絆を崩壊へと導いている。根本的に間違っている。大家族主義に政策を転換して、家族の絆を作るべきだ。昔は、年寄りは孫の面倒をみて、若い者は働くと、云う役割分担が有った。孫が、可愛く無い年寄りは、いない。年寄りの知恵は、匠の知恵だ。年寄りに、孫の面倒をみて貰えば、年寄りのボケ解消にも繋がる。日本は精神面では、最貧国に向かっている。若者が、年寄りの金を宛にする日本の風潮(構造)が、オレオレ詐欺の生れる要因だ」と、力説した。建一は、総一郎の主張を、的を射ていると感じたが、現代の日本人の概念を修復するのは、容易では無いと思った。総一郎は話を続けた。「東南アジアやアフリカでは、日本人で井戸掘りを、ボランティアでやっている人がいる。偉いな。尊敬するよ。俺も社会貢献をしたいが、身体障害者の今となっては何も出来ない」と、言った。建一が「出来るよ、父ちゃん。俺の野球部の監督は、英語の先生で、監督兼部長だ。♪監督が、大リーガーのピート・グレイとジム・アボットの話を、してくれた。「二人とも片腕の大リーガーだ。ピート・グレイは六歳の時に列車から転落して、右腕を亡くした。彼を元気付ける為に、父親は、ピートをヤンキースタジアムに、連れて行った。ヤンキースの試合を観戦したピートは、自分も大リーガーになりたく頑張った。始めは、少年野球のチームからも、片腕だから断られた。彼は諦めなかった。彼は諦めずに頑張り、見事、大リーガーの外野手として、憧れのンキースタジアムのグランドに立った。彼の名言は[勝利者は、常に諦めない]https://www.youtube.com/watch?v=5jRmi61DfC4 https://www.youtube.com/watch?v=VIlH06R81i4  ジム・アボットは、生まれつき、右手の手首より先が無い、大リーガーの投手だ。ソウルオリンピックの決勝では日本と対戦し好投、アメリカ代表は金メダルを獲得、最も優れたアマチュアスポーツ選手に贈られる、ジェシー・オーウェンス賞を受賞した。ヤンキース時代にはノーヒット・ノーランも達成した。彼の名言は[不可能というのは、確かに神が決めるものなのかもしれない。しかし、人間は不可能を可能にする力を持っている]http://matome.naver.jp/odai/2138012187710842101」と、言っていた。







      大リーガー
【片腕の野手】   【片腕の野手】
ピート・グレイ   ジム・アボット
「父ちゃんも毎日、木工製品を作り続けて、体が不自由でも頑張っているよ。人に喜んで貰えるから、社会貢献だよ」と、建一は言った。建一は続けた「[監督が、勉強も頑張り、部活も頑張る、けじめが必要だ]とも、言っていた」総一郎は嬉しそうに「建一も、随分成長したな」と、言った。「俺が、世話になっている家具店に行って、俺の作った木工製品の陳列を見たいな」と、総一郎が言うと、建一が「日曜日は部活が休みだから、父ちゃんの木工製品が陳列して或る、家具店に行こうよ。日曜日は家具店も、御客さんが一杯だよ」と、言った。総一郎は「そうだな」と、頷いた。
次の日曜日、二人は家具店に向かった。総一郎が障害者手帳を使うのは、今回が初めてだった。二人はバスに乗った。総一は障害者手帳を運転手に見せた。総一郎のバス代は無料だった。バスは少し混んでいて、空席は無かったが、三人掛けのシルバーシートだけは、空いていた。建一は総一郎をシルバーシートに座らせ、自分は吊革に摑まって、立っていた。次のバス停で、パンチパーマのフテ腐った、大柄な二人の不良風な若者が乗ってきた。二人は、シルバーシートの二人分の空席を見付け、座った。二人は、大声で自慢話を始めた。若者は、横に座っていた総一郎を、肩で押した。明らかに、邪魔だと云う素振だった。総一郎は、業を煮やして、松葉杖で立ち上がり、吊革に摑まった。建一は、ガタイ大きいが気が弱い性格で、若者に、何も言う事が出来なかった。車内の前部に乗っていた、中肉中背の学生服の青年が、若者の前に立ちはだかった。彼は、建一と同じ高校の、三年生の空手部のキャプテンだった。車内の騒ぎを感じた運転手は、バスを道路際に停め、携帯電話で警察に通報した。キャプテンは「ここは、老人や身障者の優先席です。立って下さい」と、若者に言った。パンチパーマの二人の若者は「何だ、このクソ餓鬼は」と、叫び立ち上がり、キャプテンの胸元を掴み、殴り掛かった。瞬間、キャプテンの突きの一撃が、二人の顔面に、蹴りが腹に入った。二人の若者は、床に仰け反って倒れ、顔は腫れあがり、血を流していた。間を置いて、バス乗客の拍手が起きた。音二台のパトカーが、赤色灯を付け、バスの前後に停車した。警察官が車内に入り、救急車を手配した。音間も無く救急車が来て、二人の若者を乗せ走り去った。相手が殴り掛かったのに対しての、キャプテンの完全なる正当防衛だった。警察官が、キャプテンを連行しようとした。建一と総一郎は事情を説明し、警察官に連行しない様に説得した。乗客もバスの運転手も、懇願した。バスの運行時間の遅れに、異議を唱える乗客は、一人も居なかった。警察官は「傷害事件の現行犯なので、そう云う訳にはいかない」と、言って、キャプテンをパトカーに乗せ、連行した。音[正義を遂行した者が捕まる]建一は矛盾を感じた。建一と総一郎は急遽、バスを降りタクシーを停めた。二人は、タクシーに乗り換え、パトカーの後を追った。警察署に着いて、キャプテンの面会を要求したが、取り調べ中と言われ、拒否された。7
翌日の月曜日、建一と総一郎は高校に行き、校長と教頭に、昨日の事を説明し、キャプテンの解放要求を求めた。校長は「彼は優等生で、文武に冴えていて正義感の強い学生だ。学校としても全力を注ぐ」と、約束してくれた。キャプテンは、空手の有段者で或る為、彼の手足は凶器と扱われた。学校側からの嘆願も実り、未成年の初犯なので、彼は48時間の身柄拘束と保護観察の処分に終わった。警察署から戻り、高校の玄関にキャプテンが現れた時、集まっていた当時のバスの乗客や、同校の生徒から、万歳の三唱が響いた。玄関前で校長が、キャプテンの片手を高く上げ、キャプテンの両親が、皆に深々と頭を下げていた。建一は、矛盾と絆を同時に感じていた。横にいる総一郎の目に、涙が浮かんでいた。総一郎は「有難う御座います。有難う御座います」と、何度もキャプテンに礼を言った。キャプテンは、一躍、学校のヒーローになった。三日後、建一と総一郎は、バスで遭遇した件で、空手部の練習場を訪れた。有段者のキャプテンは、下級生に空手の指導をしていた。建一と総一郎は、キャプテンに改めて礼を言った。総一郎の手には、空手をモチーフに作った、木工製品が有った。総一郎がキャプテンに、木工製品を渡した。キャプテンは木工製品を手にし「有難う御座います。自分は当たり前の事を、しただけです」と、言った。総一郎が、キャプテンに言った。「お願いが有ります」キャプテンは「何ですか?」と、聞いた。「息子の建一はガタイ大きいが、優しいだけで度胸に無い性質です。建一の気の弱さを、克服したいと思います。建一に、空手を教えてくれませんか?」と、総一郎が言った。キャプテンは暫く考えて「分かりました。私は高校生活も残り半年です。早川さんとは何かの縁です。出来る限り、やってみます。日曜日は、学校の方針で部活は休みです。日曜日の度に、早川さんの家に行きます」と、了承してくれた。建一は「宜しくお願いします」と、言った。キャプテンは「以前から、自分は高校を卒業したら、警察学校に入学して、警察官に成ろうと思います。自分は、正義感の強い人間ですから。今回、知らされました。警察官なら公務で空手を使えます」と、笑いながら、自分の進路を話してくれた。建一は、総一郎の交通事故の件や、今回のキャプテンの障害事件の件で、若干、警察に不信感を持っていたが、キャプテンの様な警察官なら、警察が刷新出来ると思った。かくして早川家では、日曜日、キャプテンの指導で、建一の空手の特訓が始まった。建一は、キャプテンに憬れを抱く様になり、毎日深夜まで、自らでも、自宅で猛練習した。練習に、総一郎の木工製品の切れ端は、大いに役立った。建一の空手の上達は目覚ましく、半年後には段を取るレベルまで達した。建一は、バスでの件から、有段の空手は、凶器として認識される事を知った。建一は、敢えて有段試験に臨まなかった。野球部監督の[勉強も頑張り、部活も頑張る、けじめが必要だ]の、考えは校長も同様で、学業に支障の出る部活は、好まなかった。部活は、学業が終わった放課後のみで、夜間や日曜日の部活は、禁止された。それでも野球部は、県大会で準々決勝まで勝ち上がった。建一は打撃が良く、四番でキャッチャーだった。クリスマプレゼントの黒色のバットは、建一の打撃に貢献した。
建一は高校を卒業して、塚本工務店㈱に就職した。それは「総さんには色々、世話になった。息子さんには、是非、当社に勤めて欲しい」と云う、人情家社長・塚本一郎の総一郎に対する温情だった。総一郎にも、赤子の建一に、名前を付けた時[将来、建一が建築関係に従事して、信頼出来る一番の建物を造って欲しい]と云う、願いが有った。建一が、塚本工務店に勤め始めてから数年後、社長の一人娘・塚本久子が専務に就任した。久子は大学を卒業して、一端、市内の建築設計事務所に勤めた後、父親の塚本工務店㈱に入社した。久子は入社後、塚本工務店の社員の中に、総一郎の息子・建一が居る事が分かった。久子は、総一郎の事故の原因が、自分で或る事を認識していたが、自分の車とナンバーまでは、総一郎は知っていないと思っていた。久子の愛車は、今も、事故当時の赤いスポーツカーだった。しかし久子は、万が一、原因が発覚する事を恐れ、建一を自分より遠ざけたかった。建一は[家は、人の一生の財産だ。丈夫で長持ちする家を造るのが、大工の使命だ]と、云う総一郎の考えに、賛同していた。久子は、コストダウンによる利益最優先主義だった。二人の考えは、水と油だった。在る日、建一は会社のガレージに居た。何時も通り、久子の赤いスポーツカーが、止まっていた。建一は、何気なく車のナンバーを見た。建一は、目を疑った。ナンバーは11-29、唖然とした。[父ちゃんの事故の対向車は、塚本久子だ]建一は確信した。設計室に戻った建一は、怒りを隠せなかったが、自らの動揺を静まらせる為に、深呼吸をして、図面に向かった。建一の背後に、久子が現れた。「こんな採算性の悪い建物の図面を書いて、何を考えているの?図面は破棄しなさい」と、久子が図面を破り言った。建一の怒りが頂点に達した。「うるさい!」と、怒鳴り、建一は椅子に座った侭で、背後の久子を、片手で振り払った。手は久子の胸に当り、仰け反って床に倒れた。立ち上った久子は「上司に向かって、セクハラ・暴言暴行です。警察に訴えます」と、言った。「お前が、親父を事故に陥れた、調本人だ」と、建一は叫んだ。久子は[自分が、事故の当事者で有る事]を既に、建一は知っていると、始めて認識した。「あれは、貴方の父親の自爆事故です。私には無関係です。濡れ衣を着せられ、迷惑だわ」と、久子は言い返した。周りの社員が、狼狽えていた。騒ぎを聞いた社長の塚本一郎が、設計室に入って来て、久子を宥めたが、久子は興奮して、一向に聴き入れなかった。久子は警察に通報した。間も無く警察官が現れ、社員に一部始終を聞き、建一は連行された。音久子は建一を解雇し、有能な弁護士を通じ、暴行罪と名誉毀損罪で、多額の損害賠償を要求した。人情家の社長・塚本一郎は、娘の久子を説得したが、久子は一歩も引かなかった。社長は総一郎の自宅を訪れ、土下座して謝り「総さん、申し訳ない。協力出来る事は、何でも言ってくれ」と、言った。建一は、又しても社会の矛盾を感じた。総一郎は、損害賠償を支払う為に、自宅を手放す決断をした。自宅は借地で、建物は廃材で造ったので、住宅の資産価値が薄れ、久子に損害賠償を支払うのが、目一杯だった。それでも、節約家である総一郎と建一には、未だ、或る程度の備蓄は、残っていた。建一は仕事を失い、二人は住む場所も失った。
建一は以前、テレビで見た、空き家で古民家の番組を思い出した。この町の周辺の山村でも、高齢化と過疎化が進み、限界集落が点在して居る事を知っていた。建一は、限界集落に移住する事を、総一郎に提案した。総一郎は「俺は、元来、町場より田舎の方が好きだ」と、言って快く承諾した。
建一と総一郎は、山村の古民家に移り住んだ。引越しには、塚本工務店が全面協力した。中に入って二人は言葉を失った。古民家は長年、空き家として放置されていたので、人が住める状態では無かった。建一は、塚本工務店の元同僚に、修繕に必要な建築資材の調達を依頼した。その日は取敢えず、集落の老人達の家を一軒ずつ回り、引越しの挨拶をした。義足の総一郎は、山道を松葉杖で歩くのはきつかったが、建一が背中に負ぶったりして、サポートした。翌朝、同僚が建築資材をトラックで運んできた。二人は同僚に「有難う」と、礼を言った。建築関係に従事していた総一郎と建一は、家の修繕など御手の門で、一日二日で瞬く(まばたく)間に完了した。翌日、集落の老人達が、野菜を持って、二人の古民家を訪れた。老人達は、修繕の出来映えの良さに驚いた。ある老人は「まるで、御殿の様だ」と、言って居た。老人達から、自分達の家の修理の依頼が、殺到する様になった。建一と総一郎は、急に忙しくなった。建築資材の調達は、塚本工務店から譲り受けた使い古した軽トラックに乗り、市内のホームセンターで購入した。限界集落で戸数も少なかったので、家屋の修理は半年も掛からなかった。修理も一段落して建一は、老人達から、野菜の作り方と、山菜の採取の方法を教わった。二人の収入源は、総一郎の木工製品の売上と、建一の野菜作りと山菜取り・キノコ取りになった。この村には、20以上の限界集落が存在した。二人が移住してから半年後、三つの町と村が統廃合して、新しい町が誕生した。この山村の村長は退職し、三つの内の一番人口が多い町長が、新しい町の町長に就任した。新町長は、40代後半の年齢で、名前を荒井と云った。就任した荒井町長は、やる気満々だった。まず、山村の高齢化・過疎化の問題に着手した。山村には富士山が一望出来る景色があり、町長は、これを生かすべきだと考えていた。彼は{富士山が一望出来る}を売りにして、ゴルフ場と高級法人ホームを誘致した。ゴルフ場は、東京の大手不動産会社が、高級法人ホームは、関西の高級法人ホームを手掛けている会社が、手を上げた。工事は始まった。ゴルフ場の大規模な造成工事により、餌場を失った野生動物が、里に出没する様になった。雨が降ると、山村の谷川は、森林の伐採による鉄砲水が生じ、環境破壊が起きた。生態系の破壊だった。荒井町長は、地元の猟友会に依頼して、野生動物の駆除を始めた。ゴルフ場と高級法人ホームに繋がる道は、従来の曲がりくねった山道のカーブは直さず、拡幅工事だけで、二車線にした。曲がりくねった山道は、拡幅工事の結果、通過する車はスピードを出し過ぎ、相当危険な道になった。8
或る日、建一が、山道脇の山林で、キノコと山菜を取っていると、二台の乗用車が、ゴルフ場から可なりのスピードで、下って来た。音前方の車から食べ物らしき物が、山林の反対側の川に投げ込まれた。子猿が、投げ込まれた物を追って、山林から走って行った。母猿が、子猿の後を追って走った。後方から来た二台目の車が母猿を撥ねた。「キャアン!」母猿の叫び声がした。後方の車から、四人の初老の男が降りてきた。音異変に気付いた前方の車からも、四人の若者と中年の男が降りてきた。初老の男の一人が「何だ、猿か、ビックリしたよ」と、言った。前方の車の中年の男が「最近、野生動物の出没が多くて、迷惑しています。町長に、駆除を徹底する様に、言っておきます。すいません」と、言って、初老の男達に謝っていた。別の初老の男が「俺の古いゴルフクラブが、トランクに有る。それを使って、猿を川に捨てるよ。猿を、道路上には、放置出来ないだろう」と、言って、トランクから古いゴルフクラブを取り出し、母猿を川原に押し捨てた。そして二台の車は、その場を走り去った。一部始終を目撃した建一は、川原に下りた。
子猿が、身動きしない母猿の傍に、寄り添っていた。四人の初老の男は、ゴルフ場の造成に関係する、独立行政法人の天下り役員で、前方の車の四人の若者と中年の男は、このゴルフ場を造成した、東京の大手不動産会社の社員だった。今日は、大手不動産会社の社員による、接待ゴルフの帰りだった。母猿を撥ねた後方の車の中には、クラブハウスで買ったビールの空き缶が、散らばっていた。警察の取り締まりが少ない、昼間の飲酒運転だった。少し、猿の親子を見ていた建一は、背中から籠を降ろし、母猿を籠に入れ、子猿を抱き家路に付いた。家に着いた建一は、総一郎に経緯を話し、子猿に果物を与えた。♪建一は庭に穴を掘り、母猿を埋葬し、二人は合掌した。子猿は、母猿を埋葬された箇所を、両手で躍起(やっき)に成って、掘り起こそうとしたが、建一は宥める様に、子猿を家に連れ帰った。建一は総一郎に「子猿の名前は、何にする?」と、聞いたら、「丁度、今、流れている番組の司会者の名前が良い。モンタだ」と、総一郎は言った。子猿の名前はモンタに決まった。翌朝、モンタの姿が無かった。建一は庭を見た。モンタは、母猿を掘り起こそうとして居た。母猿を慕う、モンタの仕草が、哀れだった。建一は、モンタを家に戻し、繋いだ。一週間もしないで、モンタは完全に二人に懐き、夜は交互に、二人の布団に潜り込み眠った。建一は、母猿を埋葬した場所に小さな墓石を立て、総一郎と二人で、毎日、花と果物をお供えして、母猿を弔った。二人の合掌している姿を真似て、モンタも合掌する様になった。それは、二人とモンタの日課になった。手だけ合掌しても、顔はキョロキョロ余所見しているモンタは、いじらしかった。総一郎の仕事場では、モンタの悪戯(いたずら)が絶えず、総一郎を手子摺らした。子猿が集落の話題と成り、二人の自宅には、集落の老人達が集まる様になった。次第に、総一郎の木工製品作りに、興味を持つ老人も現れた。村人の中には、木工製品の材料として、山林の間伐材を持ち込む者も居た。次第に二人の自宅は、老人達の溜まり場となり、家は手狭になった。二人は、家を増改築した。増改築の際、木登りが達者なモンタは、下で総一郎の渡した物を、梁の上の建一に、届ける手伝いをした。在る日、建一が、総一郎にノートパソコンと携帯電話を、買ってきた。そして、ノートパソコンに、自宅のインターネットのワイファイのパスワードを入力した。総一郎は戸惑ったが、建一が「俺が、父ちゃんに教えるから大丈夫」と、言って、パソコンとプリンターをケーブルで繋いでいた。二人の家には既に、建一用のノートパソコンとプリンターが有り、それは以前、塚本工務店で建築設計に使っていた物だった。しかも、ノートパソコンはワイファイで、ネットにも繋がっていた。二・三週間での総一郎の、携帯電話とパソコンの上達ぶりは、凄かった。テレビだけが総一郎の知識と情報の吸収源だったが、インターネットにより、吸収源が大幅に拡大した。総一郎はインターネッに、夢中になった。徐々に総一郎は、集落の老人達の知恵袋・生き辞引きに成っていった。夕食時の総一郎の話しは、ネットで仕入れた多岐に渡る話しに、変貌していった。在る日、総一郎が建一を呼んだ。総一郎はパソコンでビデオ電話を始めていた。建一は[興味を持つと、凄いな]と、思い、総一郎の上達ぶりに、舌を巻いた。
或る日、村人が総一郎の自宅に集まっていた。その中には、別の集落の人間も、数多く居た。一人の村人が「ゴルフ場が出来てから野生動物が頻繁に現れ、畑が甚大な被害を被っている。俺の果樹園も全滅だ」と、言った。別の村人が「町役場に言って、最、駆除を強化して貰う必要が有る」と、言った。複数の村人から「そうだ!そうだ!」と言う、賛同の声が上がった。室内が騒然となった。総一郎が村人達の前に立った。「あんた方の家に、無断で他人が入って来て[此処は俺達が住むから、あんた方は邪魔になる。あんた方は出て行け。出て行かないと、銃で殺す]と、言われ、土地も食い物も奪われたら、あんた方は如何する?」皆が、一瞬静まった。「ゴルフ場は、地主も家主も、野生動物だ!」と、大声で言った。室内は静まり、暫くの間、俯いた村人達の沈黙が続いた。総一郎は庭を指差した。墓石の前でモンタが、キョロキョロと余所見をしながら合掌していた。最近、モンタは庭に出る度に、墓石に合掌するのが、癖になっていた。「墓に眠っている母猿はゴルフ場の犠牲者だ!」と、言った。モンタが痛ましく感じた。村人達の目に、熱い物が光った。村人達が皆、脳裏に、ただならぬ矛盾を感じていた。村人達は墓石に合掌して家路についた。
一週間程して、村人達が再び、総一郎の家に集まった。村人の一人が「先日の総一郎さんの話を聞いて、感動した。自分の考えが、恥ずかしかった。総一郎さんが仏様に見えた」と、言った。総一郎は「有難う」と、笑みを交え返した。別の村人が「ゴルフ場は、荒井町長が過疎化・高齢化を防ぎ、地域活性化の為に掲げた、起爆剤だ。如何しよう?」と、言った。「それを、如何するかを話し合うのが、重要だ。野生動物との共存を、皆で考えよう」と、建一が言った。色々な意見が出た。長老が発言した。「人間も動物も、食い物は死活問題だ」村人達が「そうだ、そうだ、動物に食い物が有れば良いのだ」と、言った。「集落には、休耕している畑が沢山ある。その畑に、動物達の食い物を作れば良い。人間の畑は動物達に荒らされない様に、強固な囲いを造る。動物達の畑には、作付けだけで、手入れや収穫の手間は無い、今まで捨てていた、規格外の作物を、野生動物の餌場に運べば良い」と、村人達が口々に言った。建一が、以前から考えていた対策と、全く同じだった。山村全体には、傾斜地が多いので、水田は殆ど無く、代りに、各々の集落には果樹園や畑は多かった。しかし、人手不足の為、大半が放置されていた。「でも、農作業中に動物に襲われるかも?」と、村人が言った。総一郎が「本来、動物は人間が怖いのだ。動物の習性を皆が解っていれば大丈夫だ」と、言って、パソコンで、野生動物の習性を調べ始めた。村人の一人が、心配そうに発言した。「強固な囲いを造るのは、多額の費用が掛かるのでは?」別の村人が「町役場に行って費用を出して貰おう。ゴルフ場の建設には、町にも責任が有るから」と、言った。建一と総一郎は、村人達の絆を感じた。翌日、建一は村人達数人と、町役場へ陳情に行った。町民相談室や財政課などを、たらい回しされ、ようやく担当部署に辿り着いた。担当課長に事情を話し嘆願した。「ゴルフ場は、町長の肝いりの施策であり、町に取っても貴重な収入源です。囲いを造る費用は、町では出せません。野生動物を駆除した方が、安上がりです。猟友会に頼んで、駆除を強化します。駆除すれば、毛皮は、町の収入の足しに成ります」と、言う、残酷で非情な回答だった。建一も村人達も、町の行政に、矛盾と憤り(いきどおり)を感じた。総一郎の家に戻った建一と村人達は「こう成ったら、実力行使しかない」と、次々に叫んだ。数日後、村人達はゴルフ場に繋がる道を封鎖した。村人達の手には[ゴルフ場は要らない][生態系の崩壊だ][野生動物との共存][自然破壊だ]などの,色々なプラカードが有った。町は警察に通報した。村人達と警察官との間に、睨みあいが続いた。村人達の顔には[野生動物の為に、頑張ろう]と、云う,生き生きとした表情が漲っていた。且つ、目的を持った老人達は、以前より、数段若く、見えた。三・四日して、警察は封鎖を撤去し、村人達を強制排除した。村人達は抵抗し、警察官と揉み合いになった。騒ぎは、テレビやネットを通じ、全国に知れ渡った。建一達の元に、自然保護団体や動物保護団体から、義援金が集まる様になり、中には海外からの送金も有った。村人達は、お礼の手紙を書くのに追われ、総一郎のパソコンとプリンターが、威力を示しめした。それどころか[囲い造りや、動物達の餌畑の作付けや、果実の植樹に協力したい]と、云う、ボランティア達が集まりだした。町は全国で有名になり、荒井町長の人気は、衰退していった。ボランティア達は、村人達の家に寝泊まりして、作業に従事した。モンタは、マスメディアによって知れ渡り、ボランティアの人達にも大人気だった。野生動物の餌場は、彼等の支援も有って、見事に完成した。建一も総一郎も村人達も[世の中には、慈悲深く親切な人も、沢山いるな]と実感し、絆を感じていた。ボランティア達が帰り、暫くして問題が起きた。折角、野生動物の為に作付けした種芋や、果実の苗木が、成長しない内に、野生動物に食い荒らされた。建一達は苦慮した。作付けも植樹も、再度、やり直しになった。建一達は作物が成長しない迄、餌場に仮設の囲いを設けた。苦難の連続だったが、誰も文句を言う村人は、居なかった。9
その頃、以前、総一郎と建一が住んで居た隣の市から、[新規に道の駅を造ったので出店して欲しい]との、依頼が舞い込んだ。隣の市でも、建一達の事は、話題になっていた。建一は村人達と話し合い、出店要請を受ける事にした。数日後、建一は集落の老人と一緒に、二台の軽トラックに分乗して道の駅に向かった。以後、建一は道の駅に週二回程、出店する様になった。山菜とキノコの販売は、道の駅では対抗馬が無く好評だった。初日の販売を終え、建一は、場所代を差引いた売上金を預ける、新規の通帳が欲しかった。帰り道、地元の地方銀行の支店の看板が目に入った。建一は、支店の駐車場に白い軽トラックを止め、支店の入り口にモンタをロープで繋ぎ、店内に入った。♪三番窓口に、感じの良い女子行員が居た。建一は「新しく通帳を作りたい」と、言った。女子行員は「新規の通帳ですね。あちらのテーブルに用紙が有りますので、記入して、こちらの窓口に提出して下さい」と、優しい笑顔で答えた。胸の名札に、高木幸世と記してあり、彼女の写真も載っていた。建一は、幸世の指示通り、印鑑と運転免許書と現金五万円を差し出した。建一は入金伝票に日付・名前・五万円を書き幸世に渡した。指示に従い建一はソファーに掛けて、手続きを待った。建一は優しい笑顔の幸世に見とれていた。建一は呼ばれ、窓口に行った。「新しく通帳が出来ましたので、お渡しします。入金金額を確かめて下さい。印鑑も御返しします。早川さんの子猿さんですか?」と、幸世が言った。建一が通帳と印鑑を、バックに入れながら「そうです」と、答えた。「触っても良いですか?」と、幸世が聞いたら「いいよ」と、建一が答えた。幸世が席を外し、支店の入り口に行った。他の女子行員も二人、支店の入り口に行った。建一が入り口に繋いであったロープを解いたら、子猿は建一の胸に抱き付いた。幸世と二人の女子行員が、子猿の名前を聞いた。「モンタ」と、建一は答えた。幸世と二人の女子行員は「モンタちゃん、可愛い」と言って、モンタの頭を撫でた。五分位して「また来るから」と、建一が言って、支店前の駐車場に止めた白色の軽トラックの助手席に、モンタを乗せて家路に向かった。手を振っている幸世と二人の女子行員の姿が、軽トラックのバックミラーから見えた。建一は帰路の運転中に、幸世を脳裏に浮かべていた。幸世の優しい笑顔・話し方、建一は幸世に一目ぼれだった。偶々、道の駅の帰り道に、幸世の勤める銀行の支店が在り、幸世との出会いは全く偶然だった。
建一は道の駅に週二回、幸世の勤める銀行の支店に立寄る様になった。モンタは幸世から、手作りの猿用服や帽子を貰った。建一は支店に立寄る度に、山菜やキノコを持って行ったが、途中から支店長・信雄の冷たい横槍が入り、幸世の軽乗用車のトランクに、入れる様になった。後日、幸世と弟の昌五が、道の駅に来てくれた事は、彼女が、自分の事を気に止めていた事だと思い、建一は嬉しかった。
いつもの様に、建一は道の駅の帰りに、支店を訪れた。窓口に、幸世の姿が無かった多分、席を外しているのだなと思い、ソファーの座り、幸世の戻って来るのを待った。30分経過した。幸世は戻って来ない。1時間経過した。幸世は戻って来ない。建一は窓口で、別の女子行員に聞いた。「高木さんは。お休みしています。噂によれば、長くなると思いますよ」と、彼女は言った。建一は売上金を入金してから、モンタを連れ、支店の第二駐車に行った。幸世の軽乗用車は無かった。仕方なく建一は、モンタを軽トラックの助手席に乗せ帰路についた。帰路の車の中で別の女子行員が言った「噂によれば」の言葉が、気に成った。建一は、幸世の住所も携帯電話の番号も、知らなかった。自宅に帰った建一は「モンタに、猿用服や帽子を呉れる女子行員が、休みを取っているが、少し気になる」と、総一郎に言った。総一郎が「名前は何と云う?」と、聞いた。建一が「高木幸世」と、答えた。「高木、高木・・・」と、総一郎は自問した。思い出した様に「家族に、高木昌五と云う人物はいないか?」と、建一に聞いた。「彼女の弟が、高木昌五だ」と、答えた。総一郎は、慌ててパソコンを開いた。パソコンには、高木家の殺人事件の一部始終が載っていた。建一は、パソコンを食入る様に見た。そこには、昌五の写真と殺された両親の写真が有り、住所も載っていて、昌五の自殺の記事も有った。驚き慌てた建一は、軽トラックに乗り、幸世の住所に急いだ。近頃の建一は、ゴルフ場の反対運動や、野生動物の餌場造りで忙しく、ニュースを見る暇が無かった。建一は幸世の自宅に着いた。呼び鈴を鳴らしても応答がなく、玄関ドアは鍵が掛かっていた・。物音に気付いた隣の住民が、出て来て「今は誰も、住んで居ませんよ。空き家です」と、無愛想に言った。「幸世さんは、何処に居るか、知っていますか?」と、建一は訊ねた。「知りません。この家は、空き家になり、不用心で、私達も迷惑です」と、住民は邪険に答えた。翌日、彼は支店に行ったが、幸世の姿は無かった。パソコンで見た、昌五のアルバイト先の、日本料理店にも行ったが、幸世の所在は分からなかった。最後の手段として、建一は警察に行ったが「幸世の自宅の住所は判るが、転移さきは判らない」と、言われた。警察に、捜索願いを出そうとしたら、他人で或る建一は、受理して貰えなかった。建一は毎日、支店に行ったが幸世の姿は、なかった。一週間程して、別の女子行員から声を掛けられ、幸世から辞表が送られて来て、銀行を退職した事を知った。建一は差出人の住所を聞いたが「書かれて無かった様です」と、別の女子行員は答えた。建一は、茫然とした。完全に、幸世の消息が途絶えた。建一は、悲嘆のどん底に居る幸世が、心配だったが、八方塞がりで、如何する事も出来なかった。
音或る日、建一とモンタは、谷川の川原に居た。♪モンタは町場に行く時以外は、常に放し飼いで有り、建一の背中に負ぶさるが癖だった。モンタは、建一の背中が、母猿の背中だと思っていた。モンタは、建一と総一郎の頭の毛繕いも、する様になった。今日は、幸世が居なくなった寂しさを癒そうと、沢蟹とタニシを獲りに来た。モンタが、沢蟹を見付け、飛び跳ねていた。丸で、猿蟹合戦だった。谷川は、紅葉の真っ盛りだった。近くで、鹿の親子が水を飲んでいた。村人達が餌場を造ってから、野生動物は、人の気配を感じても、警戒心が薄れていた。鮭の途上が、始まっていた。産卵の為、傷だらけで、必死で途上して来る鮭を見ると、建一は、自然界の摂理と、哀れさを感じていた。建一には、途上中の鮭の捕獲は、出来なかった。10 
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