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岩清水健一郎という存在

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6部分:第六章


第六章

 山内静香を見てもわかるようにいじめられていた側は何時までも覚えています。相手が立場を変えて何かをしてこないとも限りません。例えば暴力教師が相手でしたら教育委員会やマスコミに言うなりネットで公にすればいいです。暴力教師はこの世のダニですから次々と抹殺することこそが社会的正義です。僕は『人間・失格』の宮崎よりも遥かに酷い暴力教師を知っています。その教師もそうなったそうです。いじめていた相手がそうしたことをしないという保障は全くありません。人の世には復讐というものがあるのですから。
 まずは復讐を置いて美樹達のお話の続きをさせてもらいます。美樹達、歩もそうですがその無限の優しさで佐野チーフや倫子を救っています。セーラにしても確かにミンチン先生に刻み込んでいますがそれでも救ったことは事実です。無限の優しさ、そして人として清らかなものを持っているからこそ彼女達を救えました。美樹達がいたからこそ万里香も佐野チーフも倫子もです。ミンチン先生も最悪の形での破滅から救われたのです。弱い、醜い人間が強く、美しい人間に救われたのです。それは心という意味においてです。ここで復讐にお話を戻します。
 この復讐ですがその人が何らかの事情でしなかったりできなかった場合です。
『天にかわりて不義を討つ』
 この言葉があります。悪をこの手で滅ぼすということですがこれを具現化した存在こそが岩清水健一郎です。
 彼はまずいじめが絶対の悪だと認識しています。最低の行動でありそれは何としても糾弾しなくてはならないものだとわかっています。そうした意味において彼は善です。
 しかし僕は彼を僕自身がそれこそ二次作品に至るまでこれまで書いたキャラクターの中で最も邪悪と言いました。その認識は今も変わっていません。それは何故かというとです。
 彼はその糾弾の為に何の容赦もしません。手段も選びません。相手を周りや家族まで巻き込んで徹底的にかつ執拗に糾弾します。
 同志達を集め数で責めます。そして過去を根掘り葉掘り暴きそれを周りに喧伝します。謀略を駆使してそのうえで孤立させていきます。
 普通は家族なぞ狙わないでしょう。家族には何の罪もないのですから。そして岩清水はそのことも承知しています。しかし何故家族まで攻撃、しかもその学校や職場に行ってそのいじめている人間のことを喧伝するかというとです。
 例えばです。誰かのお兄さんやお姉さんが学校でいじめをしているとします。岩清水はその人間に兄弟姉妹がいればそのうえでその兄弟姉妹の学校や職場まで言ってその相手が学校で何をしているのかその学校や職場の門で喧伝するのです。そうなればその兄弟姉妹はその学校や職場で完全に孤立し自分が責められるでしょう。
 そうなれば本人に家で御前のせいでそうなった、と言うのは確実です。家族にも悪事を知られさらに辛いことになります。しかもそれで失業したり退学すれば本人をさらに責めるでしょう。家族の中でも孤立させるのです。
 それと共に坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの論理です。岩清水にはこの感情も非常に強くあります。
 責める時に家族も平気で巻き込むのはこの感情とそしてそれが非常に効果的だからです。相手を追い詰めるには相手一人だけではなく周りも巻き込む、そうした非道な戦略を笑いながら執ることができます。
 その時に自宅前でも学校や職場の前でも抗議活動を行いますがそれもまた周囲を巻き込むことを意図しています。近所の人や友人やそうした人達からも責められる、それまで笑顔を向けてくれた人にまで糾弾されます。岩清水一人に悪事を糾弾されるだけでは済まずにです。そのうえで攻撃するのです。
 この際に警察は何をしているのだと思われる方がいるでしょう。実際に自宅や学校前まで来るというのは間違いなくアンフェアです。それどころか犯罪であります。ですが岩清水は邪悪な人間なのです。そして非常に奸智に長けています。その抗議の際に同志達に連絡をして所轄の警察に抗議活動を行います。とあるテロ支援国家の出先機関の抗議で警察署や官公庁に集中豪雨的な抗議をして通常業務すらできないまでにして黙らせるというやり方があります。岩清水はそれを行っているのです。同志達はいじめに対して怒る人間達です。悪を糾弾するとアジテートしそのうえで同志達を作りそのうえで活動を行っています。これはネット等で人を呼び掛けています。
 そうして責めていきます。人は悪を糾弾することもまた好みます。人には良心があるからです。
 岩清水は人に良心があることを熟知しています。そのうえで相手を攻撃していきますが同志を作ることもしています。一人では何をするにも限度がありますがそれでも同志達を手に入れそのうえで集中攻撃を浴びせるのです。どんな屈強な男でも取り囲んで集中的な抗議を浴びせればそれで折れます。折れたら後は徹底的に叩き潰すだけです。そこには微塵の情も容赦もありません。
 責めて責めて責め抜いていきます。ネットでの実況放送や個人情報を公にしたりもしていきます。そうして次から次に責めていきます。相手を破滅どころか生命的に死ぬまで行います。
 岩清水はここからが恐ろしいまでに残忍なのですが彼は相手が死んでも攻撃を止めはしません。死体に鞭打つという言葉通り相手の葬式の場に出て祝賀会を開いたりもします。相手が死んだことにその遺族の前で万歳三唱するのです。自分が殺したも同じその相手の前で、です。そのうえで悪がまた一つ滅んだのだと言うのです。
 死んでも許しはしません。そしてネットで悪は滅んだ、と喧伝します。過去の悪事も一緒に載せたうえで、です。これが岩清水の行動です。ネットや現実、そしてありとあらゆる謀略を駆使して相手を完全に破滅させ死んでも攻撃します。人はこれを邪悪と言うのではないのでしょうか。
 僕は邪悪だと考えます。それで岩清水は僕がこれまで書いたどんなキャラクターよりも邪悪だと断言したのです。それが彼なのです。
 彼を書くにあたって複数の考えを含ませています。
『いじめは糾弾されるべきものである』
『いじめは糾弾されるべきだがそこには節度や倫理があるのではないのか』
『いじめをしている人間は目の前にこうした人間が出たらどうするつもりか』
『絶対の正義はあるのか』
『悪を糾弾するこの人物は邪悪ではないのか』
 こうした複数の考えが僕の中にありそれを常に含ませて書いているキャラクターです。キャラクターとしてのモデルは鳥人戦隊ジェットマンの次元伯爵ラディゲ、仮面ライダー龍騎の北岡秀一、仮面ライダーファイズの草加雅人、仮面ライダーキバの初期の名護啓介といった面々です。彼等をミックスさせてキャラクターを考えていきましたがそこにそうした複数の考えを常に念頭に置いて書いています。
 彼は究極にまで卑劣で残忍で陰湿で執念深い人間です。そうした人間でも正義の側に立つことがあります。正義を行う立場にいることもあります。
 邪悪な人間であっても正義の側にいることがあるということも岩清水を書くにおいて頭の中に入れていることであります。前述の一連のいじめドラマでのいじめる側でのキャラクターは誰もが非常に弱い存在です。しかしそうした人達が岩清水が前に出て来たらどうなるのか。恐ろしいことになるでしょう。岩清水は相手が誰であっても、それこそ女性だろうがもう反省していようがです。全く容赦しません。何があろうとも責め続けます。相手が最も嫌がることを進んで攻撃し過去をほじくりだしてそのうえで糾弾し続けます。相手が反省しているなら余計にです。余計に攻撃していきます。彼は相手が反省しているかどうかは全く意に介しません。そんなことは全く見ません。過去を糾弾するだけです。反省や謝罪はかえって攻撃の題材になります。それだけです。人の罪は未来永劫消えることはないというのが彼の考えです。だからこそ責めていきます。弱い人間なら彼に標的とされたらどうしようもありません。
 再度申し上げますが彼のやり方はその相手の過去を徹底的に暴きそのうえで何処までも、周囲も家族も世間も何もかもを巻き込んで総動員して責めていきます。何の容赦も慈悲もなくです。相手が泣いても泣いて赦される罪か、で終わりです。謝罪しても謝罪で許されない罪がある、です。賠償しようが同じです。相手が何をしようと徹底的に責め抜きます。さながら異端審問の拷問吏や地獄の獄卒の様にです。相手がどうなろうが全く構いません。そして相手を絶対悪に置き自分を絶対善とします。絶対悪には何をしてもいい、この認識の塊です。そのうえで周囲にもそう思わせます。彼は周りをアジテートしそれで糾弾する戦術にも熟知しています。この部分はナチスやソ連のアジテーションを参考にして書きました。
 そして感情も入れています。いじめドラマでの付き物の感情ですがいじめをしているキャラクターに激しい憎しみを感じるものです。その憎しみは凄まじいもので前述の様に役者さん達への尋常ではないバッシングに向かいます。ネットでもいじめ役への書き込みは非常に攻撃的なものになっていきます。いじめよりもその役を憎んでしまいます。罪を憎んで人を憎まずというのは理想論なのでしょう。現実には坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、となるものでしょう。
 岩清水は前述の通りに坊主憎けりゃの人間です。ここでの描写はそのいじめ役への感情を書いています。
 いじめ役へのそうした嫌悪や憎悪をそのまま向ければどういったものになるのか。岩清水はそうしたことも考えて書きました。彼は人間が持っている憎悪や嫌悪といった感情もそのまま書いているキャラクターなのです。
 彼は確かにいじめを糾弾している立場として見れば正義になります。しかし絶対の正義はこの世にはないものでしょう。一部のマスコミは自分達を絶対の正義に置いているようですがそうしたマスコミこそが今ネットにおいて最も糾弾の対象になっています。検証してみればそうしたマスコミこそが卑劣な工作報道を行っていた、行っていることがわかってきました。今ではそうしたマスコミは謀略結社扱いになっています。今でも全く反省せずに同じことを繰り返しているということが恐ろしいのですが。
 読者の方の感想で岩清水の糾弾はマスコミのそれにも通じるというものがありましたがやはりこれもマスコミのそうした一面も参考にしています。またデモでの抗議活動もその糾弾のやり方のモデルにしています。
 絶対の正義はない、そして絶対の正義を振りかざす岩清水はやっていることは邪悪です。人を許さずどんな手段を使っても墓場まで破壊しかねません。全てを巻き込みます。これを邪悪と言わずして何というかです。
 岩清水というキャラクターは正義を振りかざす邪悪です。その行動だけでなくそうした意味においても極めて邪悪なキャラクターです。悪を糾弾する側にいる人間が必ずしも正義とは限りません。邪悪であることも充分過ぎる程考えられます。岩清水はそうした人間です。俗に正義の側に立っている人間が常に正義とは限らないですし邪悪とされる側にいる人間が常に邪悪とは限らないのです。結局のところ正義も悪も相対的なものでしかありません。しかし岩清水のやっていることは間違いなく邪悪です。このキャラクターについて僕は本当に様々なものを頭の中で考えて書いているつもりです。そこに込められているものも多いつもりです。読んでいて嫌悪感を抱かずにはいられないキャラクターですがこうした一連のことを考慮して頂ければ何よりです。


岩清水健一郎という存在   完


                2010・5・13
 
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