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藤崎京之介怪異譚

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外伝「鈍色のキャンパス」
  V.Bourree

 
前書き


 足早に駆けるように交わされる二つの主題が、元の主題を浮き出させる。

 ただ…それは耳障りな不協和音だ…。


 

 

「それで、こっちが大ホール。ここは知ってるよね。この大ホールに建造されたオルガンは、日本でも大きなものの一つに数えられてる。シュニットガーの作品に基づいて製作された楽器なんだ。それじゃ、コンソールへ案内するよ。」
 今、あの手紙をくれた少年に大学内を案内している。あんな事件があったため止めようと思ったが、宮下教授と椎名教授が案内すべきだと助言してくれたのだ。
 事件が事件だけに大学内は暗い雰囲気に陥っていたため、ここで見学者を案内することで刺激を与えようと考えたのだろう。
 手紙の少年…田邊君は俺と十歳違いだった。話を聞くと、彼は某有名小学校に通っていて、それを聞いただけで資産家か何かの息子だと分かった。尤も、オルガン演奏を聴きにくる小学生なんてそんなものだろう。
「宜しいんですか?僕なんかが演奏席へ上がっても…。」
「勿論さ。教授の了承も得てるし、君の見たい場所は全て案内出来るよ。」
 俺はそう言って田邊君をコンソールへと連れて行った。田邊君は緊張と興味とで多少固くなってはいたが、オルガン機能の説明をしているうちに緩和されたようだった。
「それじゃ、今度は音を出してみようか。」
「良いんですか?」
「教授に許可は貰ってありから心配ないよ。」
 俺はそう言って準備したが、それこそバッハの時代とは違い送風は電気仕掛けだからな。昔は送風するふいごは人力だった訳だし、音は電気でなくとも電子楽器…と言えるかも…。ま、送風だけだが。
 俺はストップを最初は全開にし、田邊君に鍵盤を触れさせた。それからストップを少しずつ調整し、その都度彼に鍵盤を触れさせたのだった。
「凄いです!こんなに音が変化するなんて!」
 彼はオルガンを気に入ったようで、途中からストップ操作を自分で行ってあれこれ試していた。凄い飲み込みの早さで、操作ミスでヴォルフ(音割れ)が出ても直ぐに修正出来た。こいつ…天才かも知れない…。
 驚いているこちらを余所に、田邊君は楽しそうにオルガンで音を試している。そんな彼を見て、俺は幼き日の自分を思い出していた。
 俺は日本とドイツを往き来していた。母の郷里がドイツだったからだ。尤も、母は父と駆け落ち同然で結婚したため、俺は母の家族には殆んど会ったことはなかった。
 そんな幼かった自分に、ある日一人の男性が教会で声を掛けてきた。その教会には母の友人と行ってたのだが、その母の友人とその男性は親しそうにしていた。だが、何故か双方とも哀しそうな表情をすることがあり、幼かった自分はその意味を理解出来なかった。
 後になって分かったのだが、その男性が宣仁・ヤーコブ・ヴァイス…俺の叔父だったのだ。
 最初は何も知らずにオルガンを教えてもらっていたが、母が俺を迎えにきた時に偶然出くわしてしまって分かったのだ。その時の母の狼狽えてぶりは記憶に残っている。叔父の方は…淋しげに微笑んでいるだけだった…。
「藤崎さん、お願いしても良いですか?」
「…ん?何を?」
 俺が過ぎ去りし記憶に思いを巡らせていた時、不意に田邊君がそう言ってきた。直ぐに返事がくると思ったが、彼は言いづらそうにもじもじしていたため、俺は「何でも言って良いからね。」と言った。こうしてみると、やっぱり普通の小学生に見えるんだけどな。
「それじゃ…演奏して頂けますか?」
 何だ…そんなことか。
「良いよ。何を演奏してほしいんだい?」
 俺がそう言うと、彼はパッと笑顔になって言った。
「それじゃ、バッハのハ短調のフーガを。」
「作品番号は?ハ短調のオルガン用のフーガは六曲あるんだよ。」
「え?幻想曲とフーガだけじゃないんですか?」
 うん…やっぱりこういうとこは小学生か。
「バッハは幻想曲とフーガでも、ハ短調は二曲残してる。尤も、作品番号562のフーガは未完なんだけどね。」
「それじゃ、未完成のものを聴かせてほしいです!」
「分かった。でも折角だから、作品番号537も演奏するよ。」
 俺はそう言うと、田邊君を近くにある椅子へ座らせてからオルガンの席へと着いた。
 バッハのハ短調のフーガは、その調性のためでもあるが、どれも哀愁を帯びた作品だ。特に作品番号537の幻想曲とフーガは、その主題に溜め息を模した音型を使っているため、より一層哀愁を漂わせている。劇的な部分もあるが、どことなく懐かしささえ覚える作品だ。一方の562の未完のフーガは劇性が強く、迫り来る圧迫感がある。一説には、前半の幻想曲に不釣り合いだと考えてバッハ自身が作曲を止めたというが、その真意は不明のままだ。ただ言えることは、30小節にも満たないこのフーガも非常に優れた作品だと言え、未完に終わっていることが嘆かれると言うことだ。
 フーガ…日本語では遁走曲と書く。バッハは対位法の大家で、宗教作品や協奏曲にも対位法を使用した高度な作品を書いている。
 対位法とは、複数の声部に同じ、又は違う主題を小節をずらして歌わせる技法。カノンなどは基本的に同じ旋律だが、フーガに至っては違う主題を使用することもよくある。しかしこれは作曲も演奏も難易度は上がるため、容易く創れるものじゃない。そしてフーガはカノンの様にただ追い掛けるだけでなく、転調や間奏などを挟まなくてはならないため、対位法の極致と言える技法なのだ。
 バッハはそれを自由に扱えた。ドイツだけでなく、イタリアやフランスの音楽さえ取り入れ、多種多様なフーガを紡ぎだしたのだ。無伴奏ヴァイオリン作品にさえフーガを書き、晩年には楽器指定のない曲集"フーガの技法"を作曲し、後世に彼の会得した知識を余すことなく伝えている。
 バッハが後世のモーツァルトやベートーヴェンに多大な影響を与えたのは有名だが、特にフーガは、バッハが遺さなかったら完全に廃れてしまっていたかも知れない。バッハの生きた時代でさえ、もうフーガは時代遅れの音楽だったのだ。それが現代では多くの演奏家によって演奏され、それがCDにまでなっているなんてな…。全く奇妙な話だ…。
 俺はそんな演奏家の一人になりたくてここにいる。ポップスやジャズも聴かなくはないが、やはり古いルネッサンスやバロックの音楽が性に合うのだ。
 演奏を終えて振り向くと、田邊君は立ち上がって拍手をしていた。コンソールで拍手をもらうなんて、何だか照れ臭い気がするが、そう思っていたら下からも拍手が聞こえ、俺はギョッとして下を覗いた。
「藤崎君、何かもう一曲出来るかね?」
 そこには宮下教授や古楽専攻の学生、何故か理事長までも来ていた…。
 俺は苦笑いしながら頭を下げて田邊君を見ると、田邊君もアンコールとばかりに未だ拍手している…。
「もう一曲だけだよ…。」
 そう言うと、田邊君は嬉しそうに「お願いします!」と返答した。オルガン演奏って、結構疲れるんだけどなぁ…。
 そうして俺が演奏したのは、ヴィットと言う作曲家のパッサカリア ニ短調だ。この曲はバッハの偽作に分類されていて、BWV.Anh.182の番号が付いている。偽作を調べていた時に偶然見つけ、以来気に入って演奏しているのだ。哀愁を帯びた美しい曲で、確かにバッハには及ばないにせよ、演奏されないのは勿体無い作品だ。
 演奏が終わると、暫くは静かだった。そして、一斉に拍手が起こったのだった。演奏会じゃあるまいに…。
 俺はこれで終わりとばかりに下の観客に頭を下げ、直ぐに顔を引っ込めた。宮下教授にまた言われるのは正直嫌だからな…。
「藤崎さんて、音楽を心に直接伝えることが出来るんですね。」
 椅子に座っていた田邊君がそう言った。あまりに沁々と言ったため、俺は彼が本当に小学生なのか疑ってしまった…。まぁ、見た目はまんまなんだが。
「ありがとう。でもね、音楽ってやつは、人の心に届かないと意味がないんだ。だから、僕はいつも聴く相手に届くよう祈りながら演奏するんだよ。」
 田邊君の言葉に、俺は苦笑しつつそう返した。そして思った。この目の前の少年は…一体どんな人生を送ってきたんだろうと。歳こそ大したことはないが、その言葉の端々に感じる重みは何なんだ?いや…今は知る必要はない。きっと彼は、俺と同じ道に来る…そう感じた。
「それじゃ、次に…」
 俺がそう言いかけた時、突然メキメキという異様な音が響いてきた。俺は驚いて音がした方を見ると、なんと…オルガンの金属製パイプに亀裂が走っていた。
「な…なんだよ…あれ…。」
 隣に立つ田邊君も、驚きのあまり硬直している。
 俺は田邊君をその場に残し、直ぐ様オルガンの裏へと回った。オルガンの内部も見学させて良いと鍵を預かっていたのだ。
 鍵を開けて中へ入って見ると、俺はその光景に我が目を疑った。
「どうなってんだよ…。」
 つい最近、俺は検査を見学させてもらった。俺が見ても正常だった筈だが…目の前の光景は違ったのだ。まるで何十年も放置したかのように…風化していたのだ。
 俺はそこを見て回ったが、木製パイプは崩れかけており、金属製パイプも腐食されている有り様だ。この状態をどうしたら引き起こせるのか…正直、俺には分からない。
「つい…さっきまで演奏してたんだぞ?この状態で…音なんて出せる筈がないのに…。」
 俺がそう呟いた時、後から宮下教授と大西教授が姿を見せた。
「藤崎君…これは一体どうなっとるんじゃ…。」
 宮下教授はそう俺に問った。大西教授も信じられないといった風な表情をして辺りを見ている。
「僕にも何が何やら…。突然パイプに亀裂が入ったので慌ててここへ来たんですが、僕が入った時には既にこの状態で…。」
 こうしか言えなかった。他に言葉も見付からず、こうなった理由も検討がつかないのだから…。
 こんなことが現実なんて考えられないことなんだ。だが、目の前にある光景は、それが確かな現実であることを物語っている。
 しかし、これは始まりに過ぎなかった。この後、大学には立て続けに禍が降りかかることになるのだから…。



 
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