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もう一つ、運命があったなら。

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分岐点









 ◇


 とある日の夜ふけ。

 その日は、やけに外が騒がしかったのを覚えている。

 母親と一緒に寝室にいたのに、音がうるさくてなかなか寝つけなかった。

 聴こえたのは、ゴーッという滝のように高いところから水が落ちる音。

 空は曇っていたけれど、寝る前にお月様が浮かんでいたのを見たからそれが雨によるものではないのは分かっていた。

 得体の知れない音が怖くて、眠れなかった幼い俺は母親にそっと抱きしめてもらっていた。

 しばらくして、カーテン越しでも分かるほどの強い光が街に煌めいた。

 まるで、流れ星が落ちてきたのではないかと子供心に本気で思ったのは記憶に強く刻み込まれている。

 正体不明の光が消えた後、間もなく聴こえていたその音は人々の叫び声に変わった。

 抱きしめてくれていた母親はベッドから飛び降り、窓を開けてその光景を見て同じように高い声を上げた。

 穏やかな母が取り乱すのを、そこで生まれて初めて目にした。

 そして、外でただ事ではないことが起きているのが嫌でも分かった。

 別の部屋で寝ていた父親が荷物を持って部屋に入ってきて焦った声で『逃げるぞ』と言い、

 母は何も出来なかった幼い俺に震える声で『大丈夫』と言い聞かせながらコートを着せてくれた。

 何から逃げるのかも、何が大丈夫なのかも、何も知らないまま外に連れ出された。

 玄関を開けたその時、見えた世界は自分の知っている街ではなく、

 テレビでも見たことがない、赤に染まった文字通りの地獄だった。

 辺りが炎に包まれるなか、幸い俺が住んでいた家の周りにはまだ火が到達しておらず近所の人たちが集まって逃げる方法を探していた。

 父と母は、俺を近くのトタン造りの屋根のあるバス停の中で待っているように告げて『すぐ戻ってくるから』と引き攣った笑顔を浮かべてどこかへ向かった。

 怖かったけれど、それでも大丈夫といってくれた両親を信じてその場で帰りを待った。

 大人ならば、こんな危険な状況でもどうにか逃げる方法を知っているのだろうと思って恐怖を感じながらも大丈夫なのだ、と思っていた。

 空焼けが揺らめいているのを見つめ、数分が経ち、両親が遠くから歩いてくるのが見えた。

 その姿を見つけ安心した俺は二人に向かって、走りだす。

 そんなことをしなければ、なんて考えるだけ無駄かもしれないけれど後になって酷く後悔した。

 俺が走り出したのと同時に、両親も駆け出すのをこの目で見た。

 それが、俺が見た両親の最後の姿。

 俺に気を取られた二人は、横から倒れてきた二階建ての住宅に気づかなかったのだ。

 そして、その下敷きになった。

 燃え盛る炎の中、俺は何が起こったのかよく分からなかった。

 自分の目の前で、父親と母親が崩落した家に潰された。

 どう考えたって、助かるはずがないのは子供の頭でも理解できた。

 二人を確認しようにも、炎の壁が目の前に立ち塞がり向こう側へは行くことが出来なかった。

 呆然と立ち尽くし、辺りを見渡す。

 どこを見ても、火、火、火。

 360度、自分の背丈を優に超える炎に囲まれ、誰かに助けを求めようともどこにも人影は見当たらない。

 自分の家の隣にあった家の玄関に、数分前まではヒトだったものが転がっているのを見たくらいで、他には何も誰もいなかった。

 当てもなく、その足を動かして何も考えずにただ歩き出した。

 そうするのが、人間の本能だったのだ。

 生きるためには、ここにいてはいけないと本能で悟った。

 震える足で、息が出来なくて苦しいけれど生を求めてあるいた。

 自分の家があった住宅地を抜けた辺りで、急に人の気配がするようになった。

 崩れた家の中から叫ぶ人の声が聴こえるようになったのだ。

 『助けてくれ』、『誰かいるのなら出してくれ』、『子供だけでもお願いだ』、『熱い』、『苦しい』

 『シニタクナイ』

 耳を塞いで、その叫びを聴こえないようにして俺は歩いた。
 
 途中、顔の皮膚が爛れ、右腕が肘から千切れている男の人が無事な自分を見て助けを求めてきた。

 息が出来ないんだ、と潰れた苺みたいな鼻を見せられた。

 正直、それが本当に自分と同じ人間だと思うことが出来ず、怖くなってその場から去った。

 男の人は、追いかけてはこなかった。

 上半身だけが外に出て、足が挟まれている人も何人か見た。

 どうにかすれば外に出ることくらいは可能な人を。

 けれど、子供の俺に何ができる。

 重い建物をこの小さな手で動かすことなんて出来るはずがない。

 そう思って、何も見ていないフリをして出来るだけ火が少ない場所を選んで歩いた。

 必死に生きようとしている人たちを見て、その声も聴こえているのに。

 ただ、自分だけが助かるためにその全てを無かったことにした。

 そんなものは、幼い頃の自分には考えることは出来なかったけれど、間違いなくその選択を選んだのは俺だったんだ。

 逃げても、逃げても、死は追いかけてくる。

 お化けが怖くて母親に泣きついた記憶も、床に積もった埃と同じくらい薄く思えた。

 それでも歩いて自分の生を探し、生き延びようと息を吸った。

 熱い空気が喉に張り付き、身体の中に入って行かない。

 苦しい、熱い、怖い、痛い。

 時折、瓦礫に足を取られて転んだ。

 それでも、当てもなく歩き続けた。

 周囲では、たくさんの人が死んでいる。

 今にも自分もそうなると、無意識のうちに感じてしまった。

 いやだ。あんな風に死にたくない。

 思っても、現実は自分を殺そうと襲い掛かってくる。

 体力の限界がきて、意識が朦朧とし、道の真ん中に倒れた。
 
 熱されたアスファルトはホットプレートのようで、その上に乗る自分は食べ物か何かなのか。

 頭は考えることを止め、身体の筋肉は固まり、心は生きることを諦めた。

 こんな悪夢から、救ってくれる人なんてこの世界にはいない。

 憧れたテレビのヒーローも、あんなものは都合の良い作り話なんだ。

 黒い月を見上げながら、死を待つ。

 ――――そして、気づくと自分の前には知らない男がいた。

 その男が何をしていたのかは分からない。

 ただ、身体に新しい何かが入ってきたのだけは感覚で分かった。

 男は泣いていた。自分を見て、泣いていた。

 腕に抱かれ、ありがとう、と何度も何度も男は言った。

 雨が降り始め、ゆっくりとその地獄は終わりを迎える。

 辺りには何も残っておらず、空に浮かんだ黒い月はいつの間にか姿を消している。

 生きている。

 そう気がついたのは、ずっと後のことだった。











 
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