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藤崎京之介怪異譚

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外伝「鈍色のキャンパス」
  Ⅲ.Sarabande

 
前書き


 暗く重々しい主題が頭をもたげ、鈍い足取りで進んで行く。

 よく聴けば、その主題は序曲半ばのフーガ主題の変型だと分かる。


 

 


 演奏会当日がやってきた。
 俺はこの日のため一週間で練習を行うことになり、サークルにすら顔を出す余裕もなかった。
 そんな俺のハードな練習に付き合いがてら、河内は毎日大ホールに来て俺の演奏をずっと聴いていたが、この日は彼もとある楽団の助っ人に駆り出され、どうしても来ることが出来なかった。
 まぁ…あれだけ聴いてたんじゃ、わざわざ来る必要もないと思うけどな…。
「京、頑張ってこいよ!そこはかとなく応援してっからよ!」
「そうだぞ?全くお前ってやつは…ホント予想外だよな。」
 …そこはかとなく応援って…なんだかなぁ…。
 今、目の前でそう覇気のない応援をくれたのは、言わずと知れた鈴木と小林だ。
 河内は既に大学から出ていて、ここに姿はない。
「はいはい…。それじゃ、俺は行ってくるよ。」
 俺はそう苦笑混じりに言って大ホールへと向かった。
 今日は吉田望という女流オルガニストが招かれている。彼女は世界的に活躍していて、今日は宮下教授の招きに応じて来てくれたのだ。
「相変わらず強引ですね。先生?」
「わしは何もしとらん。ただ、手紙を書いただけじゃ。」
「ホント、今も昔も変わらないんですから。あんな手紙寄越されたら、断るに断れないじゃないですか。」
「なにを言う。単に君を招待すると書いただけじゃぞ?」
「そう言って誤魔化してもダメですよ?学生時代のことをツラツラ書いて…。」
 楽屋に入ると、そこには宮下教授とドレスで着飾った女性がいた。女性はオルガニストの吉田望氏だ。どうやら二人は知り合いらしいな…。
 二人の会話を邪魔しないように、俺は静かにそこへ入った。すると吉田氏が俺に気付き、ニッコリ微笑みながら言ったのだった。
「初めまして。貴方が藤崎君?」
「はい。藤崎京之介と言います。」
「え?京之介って…それ、フルネーム?」
 この外見と不釣り合い…と言いたいようだな…。まぁ、フルネームではないが、日本にいる時は使いたくないからなぁ…。
「一応はフルネームです。」
「一応って?ミドルネームは何処かへ行っちゃったの?」
 真顔でそう言ってきた…。この人…何だか変…。本当にオルガニストか?
「吉田君、あまり揶揄わんでやってくれ。君は少しでも可愛い子を見ると揶揄うのは…昔からの癖だな。わしはそれを治せと言っとるに…。」
「良いじゃないですか!私は女ですもの!」
 今度は俺に助け船を出してくれた宮下教授に…。やっぱり変だな。もういい…それで良いさ。何でもいいから先に進めよう…。

 さて、この演奏会でのプログラムは、吉田氏がパッヘルベルとブクステフーデの前奏曲とフーガで三十分、宮下教授が前半スヴェーリンクの変奏曲、後半がヘンデルのチェンバロ組曲をオルガン演奏でやって四十分、そして俺がバッハのフーガとコラール編曲で三十分だ。
 本当は宮下教授がバッハを演奏する予定だったが、出演が俺に変更になったために変えたのだ。世間では無名の俺に、バッハの有名曲を譲ってくれたと言っていいか…。
「藤崎君。君、樋口教授に笹岡君のことで何か言われたじゃろ?」
「…はい。ご存知だったんですか…。」
 暫くして、宮下教授がいきなり聞いてきたため、俺は思わず本当のことを答えてしまった。まぁ…黙っててもいずれ分かるだろうしな…。
「まぁの。樋口教授の心配も理解できるし、君に頼んだのも頷ける。じゃが…笹岡君のあれは、彼自身で解決せねばならん問題なんじゃ。」
「それは…解っています。ですが何であれ、僕が彼に憎まれているとすれば、自然に解決するのは困難だと思ったんです。僕はただ、彼が自身の力を純粋に伸ばしてほしいと思ってますし、彼には彼の才能があるのだから…。」
 俺がそう答えると、宮下教授は溜め息を洩らして椅子へ腰掛けた。
 その時、横で話を聞いていた吉田氏が宮下教授へと問い掛けた。
「先生…笹岡って、まさかあの笹岡源二の?」
「そうじゃ。やつの息子じゃよ。」
 二人の言葉に、俺は些か驚いた。そのため、俺は宮下教授へ確認のために問った。
「笹岡源二って…ベートーヴェンで定評のあったピアニストですよね?」
「…そうじゃ。八年前に自ら命を絶ってしまったがの…。」
 やはりか…。彼の名前には記憶があったのだが、まさか…笹岡博の父親だったなんて…。
 笹岡源二。弱冠十歳でベートーヴェンのピアノ・ソナタで様々なコンクールに優勝し、一躍有名になった。十二歳でベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲演奏で世間を圧倒し、特に"テンペスト"と"ワルトシュタイン"の各ソナタは絶賛されていた。二十歳でフルーティストの下村愛花と結婚して幸福な家庭を築いたが、二十八歳の時に事故に遭って右手を傷めてピアニストを引退したのだ。
 彼には子供が一人いたが、彼は子供のことを話すことはなく、息子か娘かも分からなかった。それは自分の子供が自分自身と比べられたり、または七光りで音楽家になったりすることを嫌ったためだと言われている。
 笹岡源二は引退後、長らく世間に姿を見せなかったが、一説には海外で子供の教育をしていると言われ、母親である愛花氏も同時期に演奏活動を停止している。尤も、これは飽くまで推論であり、事実がどうであったかは分からない。
 だが、まさか笹岡源二の子があの笹岡博だったとは考えもしなかった。俺が知っている笹岡は、少なくとも五人はいるからだ。それに、ピアニストの父を持ったのであれば、当然ピアノを学んでいた筈だ。だが、彼はオルガン以外に触れていないのだから、ピアニストの源二氏には結び付けられなかった。
「宮下教授…なぜ笹岡はピアノではなくオルガンを?父と同じピアノだったら直ぐに分かりそうなものだと思うんですが…。」
「それでは駄目だったんじゃ。父が源二であることを知られてはな。だから、息子には最初からオルガンを教えたんじゃ。源二はオルガンも演奏しとったからな。あまり知られとらんがの。」
「それは初耳ですね…。源二氏はピアノの録音しか残してませんから。」
 俺が驚いたのを見てか、俺のその言葉には吉田氏が答えた。
「笹岡源二はね、最初はオルガニストになるつもりだったのよ。だけど…ペダル鍵盤のあるオルガンはね、彼には使えなかったの。」
「なぜです?」
「彼…生まれつき左足が不自由だったの。単に歩くだけならまだしも、走ったり重いものを持ち上げたりは出来なかったそうよ。だから…ピアノに変えたと聞いたことがあるわ。」
「でも…オルガンから変更するのであれば、むしろチェンバロの方が…。」
 俺は自分の考えをそのまま口にした。
 オルガンの鍵盤はピアノより軽い。それはチェンバロも同じで、鍵盤自体の幅もピアノより狭い。だから俺はそう考えたのだ。
 俺の言葉を聞くや、吉田氏は苦笑混じりにそれに答えた。
「居なかったのよ。彼の周囲に教えられる人物がね。尤も、その村にはチェンバロもなかったし、彼がオルガンを触らせてもらっていた教会にピアノがあったからそうなったようね。」
 そんなことが…。これは世間の知らない事実だ。
 しかし…それが笹岡が俺を憎む理由とは考えられない。俺は彼の父に会ったことはないのだ。そうすると、彼は俺の何に対して憎悪しているのか…?
 笹岡は…いつから俺を敵視していたんだ…?
 同じ大学の同じ学科にあるとはいえ、彼とまともに話したことは一度もない。彼だって俺と同じく推薦で入ったのだし、彼自身は最初から樋口教授に師事していたと聞いている。
 だから…俺には彼の憎悪が理解出来ないでいるのだ…。
「藤崎君。私、出るからね。」
 吉田氏の声にハッとして顔を上げると、吉田氏は既に楽屋を出るところだった。
「頑張って下さい。」
「勿論よ。」
 俺の言葉に振り返ってそう答えると、彼女は微笑みながらコンソールへと向かった。
 彼女が出て行った後、今度は宮下教授が口を開いた。
「藤崎君、彼のことを考えるのはよそう。今は演奏のことに集中するんじゃ。」
「そう…ですね。僕が一番の有名曲を演奏させてもらえるんですから、より良い演奏が出来るようにしなくてはなりませんね。」
「そうじゃよ。彼のことはわしもおるし、少しずつ解決すれば良い。じゃが、この演奏はここで終わる。だからこそ大切にせねばの。」
「仰る通りです。今は…音楽だけを考えます。」
 その後に言葉は続かず、俺と宮下教授はホールから響くオルガンの音だけを聴いていた。用意された客席はいつも通り満員だ。その人達も、今はオルガンの音色に耳を傾けている。
 俺はそこに響く吉田氏の見事な演奏に、自分もあのような演奏がしたい…そう思った。その思いを知ってか、宮下教授は「大丈夫じゃよ。」と、一言だけ口にしたのだった。
 この日の演奏会は大成功だった。だが、それは彼と俺の溝をより一層深め、決定的な亀裂を生じさせることになった。

 それが…まさかあんなことになるとは、その時の俺達には予想することも出来なかった…。



 
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